祈り2
祈りの続編です。
私は看護師には向いてないと思う。
今だって手が震えている。
「静江さん、ごめんね」
私は静江さんの掛け布団を取る。
シーツが血で赤く染まっていた。
左下肢の皮膚が剥離していた。20センチ程度の裂傷。
カルテにはなんて書こう
私はピンセットで皮膚を中心に寄せて、テープで止める。
破れた紙をセロテープでつなぎ止めるみたい。
けれど、他に方法はない。
もう静江さんの皮膚は紙よりもボロボロだった。
「先生に報告するの」
「誰が見つけたの」
安部さんがケアワーカーを呼び出す。
「私が見た時はもうこういう状態でした。動かしていません」
事故の責任の擦り合いが始まる。
「誰かが動かさないと、こんな風にならないでしょう」
「リハビリは」
「今は行ってません」
「いつも静江さんがしているレッグウオ―マがない」
静江さんは剥離しないように下肢に包帯を巻いてレッグウオーマーをしている。
看護師が包帯を巻いた後、レッグウオ―マーを忘れている可能性が高い。
でも、私には発言権がない。
入職してまだ二年目だから。
「配薬の時間が、後、お願いしてもいいですか」
「行ってきて。それと、まだ先生には報告しないで」
私は先輩の指示にうなずいた。
私のささやかな趣味は日記を書くこと。
日記って趣味といえるのかしら。
今日は静江さんの剥離に動揺してしまって、その後の事はよく覚えてない。
結局、誰の責任か分からなくて、先生には報告していない。
事故報告書も書いていない。
仕方のないこと。
私は自分に言い聞かせた。
そして、日記の前のページを読み返す。
スッタフからゆきちゃんと呼ばれている患者さんが背部痛を訴えていたから、私は背中を何度もさすった。
「気持ちがいい。ありがとう」
それから
「あんた、かわいいね」
私はにんまりした。
ゆきちゃんは誰にでも言っているかもしれない。
それでも、私にはささやかな幸せだった。
だって、こんなに誰かに必要とされる仕事はないと思う。
今は就職活動が大変だっていうけれど、看護師は万年人手不足。
この職場の面接の時は面接中に採用の言葉を頂いた。
私は誰かに必要とされたかった。
なのに、その夢を叶えてくれた看護師という職業に違和感を感じている。
どうしてなの。
私は友達に相談してみた。
「佐和子は真面目過ぎるのよ」
「少しは手を抜いたらいいの」
私は真面目に考え過ぎてしまう癖が、確かにある。
そうかもしれない。
私にとって、かわいいは最強のほめ言葉だった。
気がついたのは、看護学校の実習中に受け持ち患者さんが言ってくれた時だった。
「かわいいね」
私はすごーくすごーく嬉しかった。
友達でも洋服が似合うことをかわいいと言ってくれることもある。
でも、受け持ち患者さんは私を見て、かわいいと言ってくれた。
何故だろう。
私の胸がチクンとした。
「あなたは、ちっともかわいくない」
祖母の怒鳴り声をふいに思い出した。
私の両親は共働きだったから、祖母が私と弟の世話をしてくれていた。
祖母は小さい頃にとても裕福な家庭で育った人だった。
男尊女卑が激しく、躾にも厳しかった。
昔の人だから長男に対して特別な想いがあり、弟とは差別されて育った。
やがて、私は弟を遠ざけるようになった。
「たった二人の兄弟なのに」
「血も涙もない娘ね」
祖母は私を叱りつけた。
そして、家事に嫌気がさすと私に向かって、こう叫ぶ。
「私は女中じゃない」
ジョチュウ―ってなんだろう。
小学生の私には理解出来なかった。
母に聞くとお手伝いさんのことだと教えてくれた。
今、私が小学生を見るとなんて可愛らしいのだろうと思う。
よくこんな可愛らしい存在に罵声を浴びせたものだわ。
感心すると同時に痛みを感じる。
もう怖くないよ。
私には仕事がある。
患者さんがいる。
そして、彼氏がいる。
私の彼氏の名前は達也という。
1か月前に仕事を辞めて、就職先を探していたが、結局見つからずに前の職場に戻ることになった。
何ていい職場なんだろう。
それで、今日は2人でお祝いすることになった。
久しぶりに達也のアパートに行く。楽しみだな。
「帰れよ。彼女来るだろ」
達也の声だった。
「だって」
「もういいだろ」
玄関口で達也と女の子が言い争ってる声が聞こえた。
女の子はセーターにショートパンツ姿で、色っぽく、お尻をだってと言う声に合わせて振っていた。
私とは真逆のタイプ。
私はお尻を他人に向けて振ったことがない。もちろん達也にも。
「なにしてるの。誰」
私は勇気を振り絞って、声をかけた。
「彼女が来たじゃん」
「わかったわよ」
達也は彼女の肩をたたき、彼女を玄関から追い出した。
「ごめん。佐和子、入れよ」
「うん。でも、誰なのかな、と思って」
「友達」
「そうなんだ」
納得出来るわけなかった。
「仕事、復帰出来て良かったね。いい職場だね」
「良くねーよ。マジで辞めたい」
「今でも」
私は達也の気持ちに変化がなかったことにショックを受けた。
このご時世に、仕事を辞めた人間にもう一度チャンスをくれる職場があるだろうか。
達也はありがたいと思わないのかな。
「働くしかねーじゃん。食ってけないじゃん」
「必要とされているんだよ。達也」
「佐和子は資格あるからいいよな」
私と達也は二人掛けのソファーに座った。
いつから。
どうしてこんなことになったの。
私は達也に頬を叩かれた。
私の体がソファーから床に落ちる。
声も出なかった。
達也がソファーに座ったまま、両足で私を何度も蹴る。
やめてよ。
そう思ったけど、やっぱり声はでない。
「ほら、立てよ」
私の手首を掴み、立たせて、半ば引きずるように玄関まで引っ張られる。
私は裸足のまま、外に放り出された。
アパートの前の私道に私は膝をついて倒れた。
私の背中に靴とバックが投げつけられる。
私は泣いていた。
声には出さずに泣いていた。
「おれ達一緒に暮らそうって言ってたよな」
私も一緒に暮らしたいと思ってるよ。
「佐和子が一緒にいねーから、おれが仕事の心配しなきゃいけなくなるんだ」
でも、達也も仕事しないと困るよね。
「佐和子は高給取りじゃん。佐和子がいればおれは好きな仕事が出来るだろ」
そんな仕事あるの
「ないから、探してんだろ」
「いいよな、お前は。何やっても感謝されてよ。おれは頭下げてばっかでよ」
そんなことない。
「おれだって、考えてるんだよ。結婚とか、いろいろ。なのにお前は」
ああ、もう思い出したくない。
達也はどんなに私が結婚に憧れているか知らない。
私は生後3カ月で保育園に預けられた。
私の両親は共働きで、私は凄く寂しかった。
私はもう一つ思い出した。
「かわいいね」
達也は私を見てから、笑いかけてくれた。
だから、私は達也を好きになったんだ。
私は美智子の父親の相談に乗っていた。
私も達也とのことを誰かに相談したかったけど、あまりにも傷が深くて話すことが出来なかった。
「大変だったね」
美智子の父親は肺炎の疑いで入院していたが、先日の検査で肺がんであることが分かった。
私は看護師になってから、仕事以外でも、病気に関する相談が多くなったような気がする。
今になって授業で先生が言っていた言葉を思い出す。
「四苦八苦の四苦はどういう意味でしょう」
生、老、病、死。
「看護師はその全てに関わらなければなりません」
基礎看護の教師は元看護師なので、その言葉に重みがある。
「それで、佐和子も神社に行って欲しいの」
「え、病院じゃなくて」
「佐和子は父と面識ないじゃない」
「そうだけど」
何か看護師としてアドバイス出来るかもしれないじゃない。
「仁井田宮司って知ってる」
「知らない」
「有名な霊能力者なの」
「霊能力」
美智子は他の兄弟とは年が離れていて、また待望の娘だったから父親から溺愛されていたと聞く。
ショックが大きかったのだろう。
「私は宮司に聞きたいことがあるの」
「いくらかかるの」
「御包みは決まってないの。むしろ、お断りされるそうなの」
「本当に」
もし私の友達を騙そうとしたら、すぐに訴えてやるわ。
「分かった。私も行く」
仁井田宮司はとにかく忙しい人だった。
一日に、社務所と祭殿を何往復しているのだろう。
お参りに来た人と社務所で話をしているのかと思えば、祭殿の方から祝詞が聞こえる。
私達は予約の電話をしていたが、それでもしばらく待たされた。
「お待たせしました。予約されてあったでしょう」
宮司は大きな声で、私達に挨拶をされた。
「本当は予約は入れないようにしてます。時間通り来ないから」
私は仁井田宮司を観察した。
宮司の年齢は不明だけど、還暦は迎えていると思う。
黒い鳥帽子をかぶり、紫色の衣装が日に焼けた顔に似合っている。
「急に忙しくなって。こんなに忙しくないなら、山の草刈りがしたいけど」
「宮司さーん」
私達と宮司の間に中年の女性が割り込んでくる。
「大阪の幸田社長の紹介で来たんですよ」
「そうですか。今、忙しいですよ」
宮司は女性をちら見したものの、足を止めることはなかった。
何よ、かっこいいじゃないの。
私は賞讃の眼差しを送った。
「どうぞ」
私達は宮司の後ろについて祭壇の階段を上った。
きいい、きいい。
宮司の手によって、祭殿の戸が開かれる。
戸は観音開きになっていて、とても古い材質で出来ていた。
薄暗闇の中で蝋燭の灯りがゆらゆら揺れていた。
とても良い香りがした。
それは私にとって、なつかしい香り。
子供の頃に胸いっぱいに吸い込んだ風の匂い。
私の子供の頃は自宅の周囲は田んぼばっかりだった。
私は畦道を歩くのが好きだった。
私の顔に思わず笑みが浮かぶ。
気がつくと、宮司の祝詞が始まっていた。
どんな意味が詞に込められているのだろう。
私は大きな安心感に包まれていた。
「どうしました」
宮司は私達と向かい合って座っていた。
私は美智子に同席して良いのかを目で訴えた。
美智子は私の膝に手を置いてそばに居るよう求めた。
「お聞きしたいことがあります」
私は怖くなってきた。
祭壇は拝殿よりもせまくて、天井も低い。
蝋燭の灯りがご神体を照らしている。
先程まで、気さくだった宮司でさえ怖い顔をして黙っている。
「父の寿命を教えて下さい」
「美智子」
私はびっくりして、友達の顔を見た。
「逝くものを引き止めることは出来ない。そばにいてあげなさい」
「はい、ありがとうございます」
「時期は神様にも知らされていない。ただ近いということは確かだ」
医学的にも符合する。
たぶん宮司の言う通りになるだろう。
美智子の父親は肺がんのいくつかの分類で小細胞がんにあたる。
小細胞がんは発見されにくく、発見された時は全身に転移している場合が多い。
「あなたは」
宮司は私の目を見て言った。
私は胸がチクンとした。
本当は私も聞きたいことがたくさんあった。
「私は付き添いです」
でも、聞けなかった。
「そうですか」
「我慢してますね」
宮司は私の顔をじっと見つめた。
「え」
「我慢してる顔をしてますね」
宮司は立ち上がって、私達を置いて祭壇を下りていった。
私は両手で顔を覆った。
何が神通力なの。人の顔色読んでるだけじゃない。
次の公休日、私は一人で神社に行った。
今日は先日のお礼参りにきた、と仁井田宮司に言うつもりだった。
本当は、最近の出来事をまとめて話してしまいたい。
本当は、私にも美智子みたいなアドバイスが欲しい。
「宮司さん」
私は社務所に入って、拍子抜けした。
私は宮司に会う為の口実まで考えていたのに、どこにもいなかった。
「親父なら外へ出かけているよ」
「はい」
私はびっくりして、振り返った。
長身の体格の良い男性が社務所の戸に手をかけて、立っていた。
「宮司は出かけてるから、座って待ってるといい」
「ありがとうございます」
私は男性をじっと見つめた。農家の息子のような服装だった。ゆったりとした長ズボンに長袖のTシャツを着て、首にはタオルを掛けている。
「あのー」
私は男性から目を反らした。私は観察する癖がついている。
「おれのお嫁さんにならない」
私は男性を睨みつけた。
「なりません」
「そうだよね」
男性は鷹揚に笑って、腕を組み、うなずいた。
「亘、帰ってたのか」
「もう帰る」
外から仁井田宮司の声が聞こえた。
「誰かきてるのか」
私は社務所から外に飛び出した。
「こんにちは」
「おお」
仁井田宮司は私を見て、にっこりと笑った。
「あの人は」
「おれの息子」
「素敵な方ですね」
あの変な男は誰ですか、と言わなくて良かった。
社務所は私と宮司の二人だけになった。
他に誰もいないので、私が二人分のお茶を入れた。
「先日はありがとうございました」
仁井田宮司は私達のことを覚えてくれていた。
「いいよ、いいよ。座りなさい」
「はい」
「それで、どうしてる」
「仕事辞めたいです」
私は目の前が真っ暗になった。
絶対に口にしてはいけない言葉だった。
「やめたらいい」
「やめません」
私は口唇をかみしめた。緊張した時みたいに手が振るえて呼吸が荒くなる。
「ほら、顔に出てる」
「辞めたら、私は何の役にも立たない人間になってしまいます」
「役に立たん人なんかおらん」
「初めてだった。私は初めて必要とされたんです」
「パン屋でもレジ打ちでもいい。人の役に立つ」
「でも、仕事を辞めてしまったら、弟が困ります」
「なんで」
「なんでだろう。分からない」
私は涙が止まらなかった。
弟は統合失調症になって、今は精神科に入院している。
私は医学の勉強をたくさんして、看護師の国家資格も取得した。
何も状況は変わらない。
ただもし弟が小さい頃にもっと優しくしてあげていれば良かったかもしれない。
もっと私に知識があれば、弟は病気にならなかったかもしれない。
「あなたが優しいから、あなたを必要した」
「私は何もできません」
「何でもやったらいい」
私は子供のように声を出して泣いた。
「困ったなー」
宮司は苦笑いをした。
「ごめんなさい」
私は情けなくて、さらに泣いた。
「いいよ、いいよ」
宮司さんの優しい声が私の真っ赤な耳に届いた。
トクン、トクン、トクン。
私は子宮の中で母親の心臓の音を聞いていた。
いつの間にか聞くことが出来なくなってしまった。
もう失くしてしまったのかと思った。
なつかしい音色。
なつかしい色のグラデーション。
それから、あのなつかしい匂い。
私は体が温かくなるのを感じた。
とても気持ちがいい。
時々、胸がチクンとすることがあった。
その痛みが消えている。
「この娘どうだろうか」
「かなり疲れが出てますね。心臓と肝臓に出てます」
仁井田宮司と男性の声が聞こえる。
私は泣き疲れてしまったから、裏の空き部屋で横になっていた。
「何ですか」
私は泣き過ぎて視界がぼんやりしていた。
男性は白色の道着をきていて、宮司の隣に立っていた。
「今、先生に診てもらってる。ちょうど気功の先生が来るようになってたから」
「そのまま横になってもらってて結構ですよ。何にもしませんから」
気功師は私に触れていなかった。
確かに何もしていなかった。
でも、じわん、じわん、と波のようなイメージで何かを感じ取ることが出来る。
「よく分からないけど、感じる事は出来ます。体が温かくて、気持ちがいいです」
これが、気功の効果。
こんなにも気持ちが変化するものなのかな。
それとも、泣いて気持ちがすっきりした後だから。
私が患者さんの背中をさすったときに、気持ちがいいと言ってもらえたことがあった。
気功ってそういうことだろうか。
「私にも出来ますか」
「誰にでも出来ます」
私は前向きな気持ちが持てるようになってきた。
「私にも教えてください」
「いいですよ」
私は気功を習うことになった。
「後は自分で考えなさい」
仁井田宮司はそう言って送り出してくれた。
私は自分で考えることを放棄していたような気がする。
何故、考えることを止めてしまうのか。
それは、私の考えを誰にも受け入れてもらえないという思考があるから。
私の思考と私の現実が一致しなくなる。
やがて私は私の思考に敬意を払わなくなり、自分で考えることを止めてしまう。
私が何をしようとも、世界は変わらない。
私は自分を失くしてしまうことで、自分自身を表現した。
達也は自分の主張を暴力に変えることで、表現した。
私と達也は同じ考えをしていたから、惹かれあった。
何故、人は本来の自分を犠牲にしてしまうのか。
それは、本来の自分では受け入れてもらえないという思考があるから。
私は溜息をついた。
これでは同じ道を何回もぐるぐる回って、歩いているようなもの。
宮司さん、どうしたらいいの。
「いいよ、いいよ、座りなよ」
何気ない宮司さんの言葉が私の心にじんわりと入ってくる。
仁井田宮司。
あなたが私を容認してくれるなら、私もあなたを容認します。
私は達也に電話をかけることにした。
あの暴力事件以来、私から彼に電話することはなかった。
「佐和子、どうした」
彼は私への暴力を謝らないし、何もなかったようにふるまっている。
私は彼に謝ってほしいと思わないし、変わってほしいとも思ってない。
「私達、別れよう」
「おれは別れない」
「達也。仕事はきっとうまくいくよ」
「佐和子」
「うん」
「ごめんな」
私は静かに電話を切った。
私は神社の境内にある離れに来ていた。
私は水色のジャージに白いパーカをきて、髪は邪魔にならないように後ろにまとめている。
これから、私は気功を習う。
今日の生徒は小学生の女の子を連れた夫婦と中年の男性、女性。私と同じくらいの年齢の20代の女性もいる。
それぞれ、好きな服装で集まっていた。
講師は週に一回、他県から来てくれる。
講師の名前は斎藤先生という。
斎藤先生はふくっらとしたお顔立ち、体型も太めで、お腹も出ているからスタイルは良くない。
けれど、白い道着がよく似合っていた。
「まず、準備体操をしましょうか」
先生が窓の前に立つ。窓からは鎮守の森が見えた。この場所は社務所と拝殿をつなぐ渡り廊下の裏手にあたる。
「誰か一から十まで掛け声をお願いします」
「その掛け声に合わせて、はい、と返事をして下さい。はい、にはとても良い言霊が宿っていて、授かること、承諾の意を表す言葉です」
「もう返事なんかしたくない、と思う時ほど、はい、と返事をして、相手からパワーを受け取って下さい。」
私はみんなと一緒に大きな声で、はい、と言った。
本当に気持ちがいい。
はい、はい、はい。
いつもは返事をすることに意識を向けたことがなかった。
無視した、と思われたくないから返事をするという人も中にはいるよね。
「次は足の指を十回ずつ回します。足の血行が良くなり、体の緊張を緩めることが出来ます」
私は斎藤先生の真似をして、足の指を持って時計回り、反時計回りにぐるぐると回す。
今まで体を労わってあげてなくてごめんね、と思いながら回した。
私はまだ仕事を辞めることを家族に話していなかった。
仁井田宮司は、私が仕事を辞めたら、しばらくは神社の仕事を手伝ってほしいと言われた。
とてもありがたいことだと思う。
そして、ささいなことでも私が私であることの難しさを感じる。
例えば、友達が私の服装に対してこんなコメントをした。
「佐和子は小学生のような服を着てる」
わたしは、そうかな、と答えた。
「普通、よくみんなが着てるような服じゃないもん」
そうかな、と言うしかなかった。
私は私なの。
私は私が選んだ服を着るの。
はい、はい、はい。
世界が、はい、だけの言葉しかなかったら、どんなに良いだろう。
みんなが、はい、を授かり、世界から承諾される。
全てを肯定する言葉。
もっと、はい、を大切にしょうと思った。
家庭は社会の縮図だという人がいる。
病院で起こった事故が誰のミスなのか分からない場合はお互いに責任をなすりつけ合い、やがて、事故そのものがなかったことになる。
私の家庭でも同じような現象が起こった。
最初は弟の不登校が原因だった。
弟は部屋に引きこもり、ゲームに夢中になった。
私の父は弟に空手を習わせようとして、弟を無理やり道場に通わせた。
祖母はゲーム機を床に叩きつけて、機械を破壊した。
そして、母は、ゲームだけが弟の楽しみだから、と弟を擁護した。
私は弟と距離を置くことで、自分の居場所を確保した。
母と祖母は私の弟への接し方を責めた。
祖母は、たった二人の兄弟じゃないの、何でそんなに冷たい言い方するの。
母は、どうしてそんなにあの子を遠ざけようとするの、あなたの弟じゃないの。
あの人達からは私が弟を嫌っているように見えた。
でも、私が弟を嫌いになったことがあるだろうか。
一度もない。
私は私なりに弟を愛していた。
これ以上、弟を傷つけないように、私は弟と距離を置いた。
本当はもっと私のことも考えてほしかった。
本当はもっと祖母に弟と同じように大事に育ててほしかった。
私は自分自身を殺すことしか出来なかった。
それが弟に出来る、私の唯一の方法だった。
わたしは仁井田宮司と出会ってから、考え方が変わった。
不登校をすることが弟の生き方で、それを家族といえども彼の人生を変えることは出来ない。
その時は、学校に行って、立ち直らせることが正しいと誰もが思っていた。
立ち直るですって。
犯罪者でもないのに。
弟は何の罪も犯していない。
優しくて、気が弱い男の子。
教育とは子供の成長に合わせて、行われるものだった。
昔はお金もちが家庭教師を雇って、子供に勉強を教えた。
今はどうだろう。
犯罪者扱いされる。
私は思い切って、家族に打ち明けることにした。
「仕事を辞めようと思うの。それから、しばらくは神社のお手伝いをしたいの」
「どうしてやめたいんだ」
父が私に聞いた。
「私は看護師に向いてない」
「仕事が嫌になったのか」
「そうじゃないの。でも、手が震えて嫌になる時はある」
「あなたまでそんなこと言わないで」
母は私に叫んだ。
「続けるのが無理なら、仕方がないじゃないか」
父は母をなだめた。
「だって、佐和子まで仕事を辞めてしまったら、後はどうするの」
「どうにかなるさ」
「それで、生活できると思ってるの」
「嫌なことをさせても仕方がないだろう。職場には言ったのか」
「うん。看護部長には伝えてある」
ありがたいことに部長は私の退職を惜しんでくれた。
「部長さんはなんて」
母は目に涙をためて、私を見た。私の胸がチクンと痛む。
「分かったって。人間関係に問題があれば、部署を変えるし、やめてほしくないと言われたけど、そんなことは問題じゃないの」
「どうにかなるさ」
父は溜息をつきながら、言った。
「考え直せないの」
「もういい。また仕事をしたくなったら、探せばいい」
父は母を押しとどめた。
「ありがとう」
私は父に感謝した。
やっぱり、私のお父さんなんだな。
祖母は相変わらず、私の両親と同居していて、家の中にはいるけど、一緒に食事をすることもなくなった。
食が細くなり、体があまり動かせなくなったので、自室で食事をとっている。
私をどなったりすることはもうないし、家族間の問題に口を出すこともなくなった。
そう優しいおばあちゃんになってしまった。
私は忙しい日々の中で、小さい頃を思い出すこともなくなり、祖母を恨むことなく、労わりながら生活を共にしている。
私を育ててくれたのは、おばあちゃんだから。
私はありがたいな、と思ってるよ。
私は大好きな仁井田宮司のそばで、お仕事をすることになった。
私の自宅から神社までは車で一時間半くらいの場所にある。
宮司は神社に泊まってもいいと言ってくれた。
私は住み込みで働くことにした。
場所は私達が気功をしている離れに布団を敷かせてもらった。
ここではしなければならないことが決まってない。
早朝、私は鎮守の森を一時間かけて散歩をする。
舗装されていない道に石が積まれていることもあれば、むきだしのところもある。
それから、両腕を広げても足りないくらいの大杉の樹が視界にせまってくる。
「凄い」
ただ長い間、切り倒されなかった、というだけでは説明の出来ないほどの大木に圧倒される。
神社には他の土地では育たないような樹齢何百年の大木が多くある。
もしかしたら、神の手によって育てられたのかもしれない。
耳が痛くなるほどの静寂。
私はこういう時間がほしかった。
神と対話する時間を持ちたかった。
私は大きく息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺の中に満たされる。
とても幸せな気持ちでいっぱいになった。
今日だけは幸せでいよう。
これは祈りだろうか、願いだろうか。
今日だけは幸せでいよう。
今日だけは幸せであろうとすれば、それは明日への希望になるから。
今日だけは幸せでいよう。
「ああ」
私は山の稜線から朝日が昇るのを見た。
空の色が美しいグラデーションに染められる。
山の峰から太陽の光が溢れ出す。
奇跡のような瞬間。
私は全てのものに感謝に祈りを捧げた。
仁井田宮司の医学的な知識は、どこで学んだものだろうと感心する。
「昨日、緑内症の手術をするかどうか聞いてきた」
「緑内症ですか」
「あれは薬だけじゃ、治らないね」
「眼圧を下げるお薬で様子を見る場合が多いです」
「手術した方がいいといわれた」
「そうですか」
私は宮司にお茶を入れた。
「ありがとう」
「今日は11時に秋山さん、13時に磯辺専務が見えられます」
「秘書みたいだね」
私は顔を赤くして、恐縮した。
仁井田宮司には全国から相談者が訪れる。
そのすべてがご神託によって、解決されるわけではない。
むしろ、私のようにただ話を聞いて下さることが多い。
場合によっては、一日中、社務所で過ごされる人もいる。
宮司と話をした後も、まだ話し足りないことがあり、私達と一緒にご飯を食べる。
宮司が他の人と話している間も、じっと座って待っている。そして、また宮司に話かける。
宮司は嫌な顔をせずに、何度も同じ話を聞いてくれる。
凄い人だな、と思う。
こんなに丁寧に話を聞いてくれる医療従事者はいない。
私は患者の話を聞いていたら仕事にならない、と言った医師を知っている。
患者はそんな医師をよく観察している。
A先生は気分屋で機嫌がいい時は、やあ元気ですか、と言うけど、機嫌が悪い時は、何も言わないで無視することもある。
A先生はまさに気分屋で物を投げつけて八つ当たりをしたり、壁を叩いたりする。
私達、看護師から見ると、患者の前ではA先生は医師の顔をしていると思っていたので、患者の意見に返す言葉もない。
仁井田宮司には神様から授けられた神通力があると人々は言う。
けれど、等しく人と話をすることは、神通力で成せるものではない。
この場合は邪魔になることもあるだろう。
確かに、信者の中には先生、先生と宮司を崇める者もいる。
これに胡坐をかいて、高みから人を見降ろせば忽ち人はいなくなるだろう。
この神社に訪れる人は、病む人だ。苦しむ人だ。弱い人だ。
彼はその全ての人を受け入れてしまう。
私に出来る事といえば、ご飯を多めに炊くことくらいだった。
私はいつものように鎮守の森を散歩していると、笛の音が聞こえてきた。
風を切り裂くようなせつない音色だった。
亘が横笛を吹いていた。
亘は頭にタオルを巻いて、灰色のジャージを着ている。
亘は目を閉じて、真剣に吹いていた。
「さっちゃん」
亘が私に気がついた。
ああ、笛の音が消えてしまった。
「おはようございます」
「おはよう」
「何という笛ですか」
小学校で習ったリコーダーとは全然違う形をしている。
「竜笛。雅樂で使う管楽器の一つだよ」
亘は私に竜笛を渡してくれた。
竜笛は軽くて両手に納まるくらいの大きさで、黒っぽい色をしていた。
「竹で出来てる」
亘は私に笑いかけた。
「いいこと教えてあげようか」
「はい」
亘は竜笛を袋に入れて、足元に置いた。
そして、私を大杉の前に立たせた。
「自己紹介をすると、この杉の木は必ず答えてくれるよ」
「まず、普通に触ってみて」
「はい」
私は両手を大杉の樹に触った。。
「次は心の中で自己紹介をする。住所、名前を言ってから、はじめまして。よろしくお願いしますと挨拶してね」
「はい」
私は心の中で実家の住所と名前を言った。
はじめまして、幸子です。よろしくお願いします。
先ほどと、同じように大杉の樹に両手で触る。
「何か、違う」
じわーん、と手の平を通して大杉が答えてくれる。
「でしょう」
「うれしい」
「それは良かった」
亘は足元に置いた竜笛を拾い上げて、道を歩き始めた。
「ありがとう。亘さん」
私は亘の背に向かって言った。
亘は片手を上げて答えてくれた。
仁井田宮司のカウンセリングはどんなに落ち込んだ人でも笑顔に変えてしまう。
ある時は病気で仕事を辞めた女性が訪ねてきた。
彼女は顔を真っ青にして、うつむき、誰とも目を合わせて離せないくらいに落ち込んでいた。
「私、どうしたらいいのか」
「大丈夫、大丈夫」
宮司は明るく笑顔で女性に答える。
「まだ、体調も良くなくて、仕事もできないし」
「今のうちに、休みなさい。仕事が決まったら、ゆっくりできないから」
「でも、このままってわけにも」
「大丈夫、大丈夫。何が心配なの」
「何がって」
「あなたは美人だし、性格も良いし、スタイルもいいし、頭もいいじゃないの」
「ふふふ」
女性はうつむいて小さく笑った。
「そんなことはないです」
「なんの心配があろうか」
「そうですけど」
女性は顔を上げて、宮司を見る。表情がだんだんと変化していく。
「家にいると考えてしまって」
「外に出てみるといい。太陽の日を浴びて、草木を愛でて、知らない場所にいってみるといい」
「そうですね」
初めて女性に肯定の言葉が出た。
今までは、でも、まだ、が続いていた。
彼女は気づいているだろうか。
「ご飯でも食べていかんね」
女性は鎖骨が浮き上がるほど、痩せていた。
私達は一緒にご飯を食べた。
女性は私達の半分の量でいいと言う。
いつも家ではこれくらいの量しか食べないから。
しかし、全量摂取した後、ご飯をお代わりした。
「よく食べなさい」
その頃には頬がゆるみ、口もとには笑みが浮かんでいた。
「こんなに食べることが出来るなんて」
女性は自分でも驚いている様子だった。
「ありがとうございました」
女性は宮司に深く頭を下げた。
「遠くからよく来たね。気をつけて帰りなさい」
私と宮司は駐車場まで彼女を見送った。
亘が境内の落ち葉を集めていた。
「私もお手伝いします」
「う、いいよ。汚れるから」
宮司もその息子も誰かに手を借りるよりも、自分でした方が早いと思っている。
実際、二人とも手際がよくて、何でもしてしまう。
「ビーム」
亘はウルトラマンのポーズをとって、私の方を向いた。
何がしたいんだろう。
「や、やられた」
亘は胸を押さえて倒れたふりをした。
「・・・・・」
どんなリアクションをしたらいいのか分からない。
「時々、夢を見ることがあって」
「はい
「夢、見るの」
「私は夢は見ないほうです」
「おばあちゃんがね、苦しんでいると白いワンピースの女の子がおばあちゃんの背中をさすってあげるの」
ゆきちゃんのことは仁井田宮司にも話していない。
何故、彼が知っているのだろう。
「その女の子は悲しい顔をして、手が震えていたから、おれはこの娘を元気にしたいなと思って、いろいろ言ってみたら、一つだけ笑ってくれたセリフがあった」
「私のことですか」
「秘密ね」
「予知夢ですか」
仁井田宮司の能力が息子にも遺伝してるのね。
「予知夢は夢で見た通りの出来ごとが起こることでしょう。夢で見たことが現実になったことはないよ」
「でも、実際に私の過去を見たでしょう」
私の体験が亘の夢になった。
「うーん。おれ達は夢で逢ったことがある」
「夢で」
「信じる、信じないはさっちゃんの自由だけど」
仁井田宮司の知らない情報を亘が知っている。
これは疑いようのないことだ。
「いつも顔はわからないけど、会うとこの人って分かるんだよね」
亘はよく分からない。
私は仁井田宮司を見送った後、宮司が持ってきてくれたワインを社務所で飲むことにした。
外を見ると、日が暮れて真っ暗だった。
ここは山の中にある神社なので、街頭の灯りもなければ、車などの騒音もない。
「酒は何を飲む」
数日前、宮司に聞かれた。
「何でも飲みます。でも、ワインが一番好きです」
そう答えると、宮司はどこからかワインを5本持ってきてくれた。
「好きなだけ飲みなさい。いっぱいあるから」
宮司は私をアルコール中毒にさせるつもりだろうか。
「仁井田宮司に乾杯ね」
私はグラスに白ワインを注いで、飲み干した。
とても美味しい。
このワインは信者のお土産であったり、お歳暮の時に持ってきてくれたものだろう。
仁井田宮司は気前がいい。
お供えしたワンカップの日本酒は近所の主婦が持って帰って、料理酒として使ってると聞いた事がある。
そういえば、神様に捧げようと思ったのか、日本酒のふたを開けてお供えしてあったものが倒れて、おみくじが使えなくなってしまったこともあった。
「ふふ」
私は思い出し笑いをした後に、溜息をついた。
私は亘が気になり始めている。
亘のことがよく分からないとは。
つまり、亘のことがもっと知りたいと思っている。
亘は私のことをどんな風に思っているのだろう。
「あなたは自分のことしか考えていない」
祖母の怒鳴り声が頭の中から聞こえる。
ごめんなさい、ごめんなさい。
小さい頃の私はひたすら許しを請い願う。
「どうして何も言わないで行動するの」
何度も、何度も、繰り返し、私は祖母から叱られる。
私は変わりたい。
あらゆることは変化する。
恋人との別れ、家族との和解、転職、そして、新しい出会い。
私は私であること。
私が私のことを考えるのはあたりまえのこと。
どうして、私は行動する前に誰かに許可も求めなければならないの。
私は自分自身でいたい。
本当に私が謝らないといけないのは自分自身だった。
ごめんね。
許してね。
私はあなたが大好きだからね。
亘は鎮守の森にいた。
大杉の樹の根本に寄りかかって、寝ていた。
「さっちゃん」
亘が目を開けて、私を見上げた。
「竜と腕相撲する夢を見た。酒も飲んだ」
亘は手の甲で目をこすった。まだ寝むそうにしている。
「竜って龍神様のこと」
「さあね」
私は亘の隣に座った。
「私は覚えてないけど、信じているから」
「ありがとう」
「私も夢で逢えたらいいな」
「すぐに逢えるよ」
亘は即答した。
「私は実家に帰ろうと思う」
「連絡先、教えてくれる」
「はい」
私は嬉しくなって、大きな声で返事をした。
「おれはさっちゃんの、はい、が好きだな」
「気功の先生に教えてもらったの」
「そうなんだ」
「はい」
私は寂しくなった。
いつまでも仁井田宮司に甘えて、神社で働かせてもらうわけにはいかない。
けれど、この神社から離れるのはとてもつらかった。
「感情を羅針盤にするといいよ」
「感情は何てやっかいなものだろうって思う時もあるかもしれない。それをじっと、観察して、今、どんな
自分がどんな感情を持っているのかに気づくことが大事なことだから」
「ありがとう」
「さっちゃんが好きなことをやればいいよ」
「好きなことが見つからなかったら」
「そこに在るもの。すでに持っているものをじっと観察する」
「私は観察するのは得意なの」
亘は私の顔を覗き込んで笑った。
亘は綺麗な目をしている。
「おれ達はつながってるんだよ」
亘は右手を大杉の樹に手を当てて、左手の手の平を私の方に向ける。
私も左手を大杉の樹に手を当てて、右手の手の平を亘の方に向ける。
私の手と亘の手がつながった。
一つの輪が出来る。
「すごいね」
私は亘と一緒に笑った。
亘の顔が私に近づいてくる。
私の唇と亘の唇がつながった。
私は目を閉じるのが怖かった。
瞼の裏に暗闇の中で怯えている私が見える。
どんなに怖くないよと言い聞かせても、私の耳には届かなかった。
でもね、宮司さん。
私はあなたとのつながりを思い出すことが出来ました。
あなたは私の光です。
あなたは私の愛です。
あなたが私を受け入れて下さった日に私は確信しました。
私はあなたの光です。
私はあなたの愛です。
私は目を閉じるとあなたを感じることが出来るようになりました。
それは私達がつながっているからだと思います。
先日、亘が予知夢で見た男性に会いました。
彼は竜二と名乗りました。竜の児、竜の子供とも読めますね。
彼は長身なのにやせていて、顎は切り立った岬のように尖っていました。
そして、目には悲しみをいっぱいためて、私を見ました。
以前の私であれば、心配していたでしょう。
今は彼と私のつながりがどんなものかわくわくしています。
私はあらゆる絶望的な状態でも、鎮守の森を思い出して、繰り返し祈ります。
今日だけは幸せでいよう。
今日だけは幸せであれば、それは明日への希望になるから。
あなたは私の光です。
あなたは私の愛です。
あなたと私はつながっています。
祈り2
読んでくれて、ありがとう。