無敵の夏
休日にしては珍しく、早起きした。学校に行く日は、七時半に起きても、自転車フルスピードで田んぼを突っ切れば、始業にはギリギリ間に合うんだけど、今日は六時に起きた。なんてったって、伊智子ちゃんとデートだから。
ともみは伊智子ちゃんのことがすごく好き。高校二年生で同じクラスになってから、まだ三か月しか経っていないのが、逆に驚きなくらい。伊智子ちゃんのことは、一年生の頃からなんとなく知っていた。一年生の夏、軽音部のライブを見に行くことがあって、そこでとっても惹かれたとあるバンドのボーカルの女の子が、伊智子ちゃんだった。伊智子ちゃんは、すでにその頃から、きらきらしていた。高校入学と同時期にバンドを組んでから、まだ日が浅いはずなのに、伊智子ちゃんはステージの上に堂々と立っていた。透明だけど、力強くて、ストレートに言葉が乗った歌。ともみも軽音部に入ってたら、こんな素敵な人と音楽できたのかな、って、少し考えたくらい。結局は、今までずっと帰宅部なんだけど。
そんな伊智子ちゃんに会うから、ちょっとでもかわいくして行こうと思って、髪を編み込みの三つ編みにする。ともみ、そんなに手先が器用じゃないから、数日前までは編み込みなんて出来なかったけれど、今日のために数日間練習したら、ほら、すらすら出来るようになった。早朝の洗面所の鏡の前で、ふふんと得意げな顔をしてみると、耳の下の三つ編みが揺れた。
「何、今日、出かけるの」
気づくと、洗面台を使いたそうな眠たい目をして、お姉ちゃんが近くに立っていた。そうだよ、と、ともみは答えた。
「気合い入ってるね、男の子とデート?」
なんだか、その台詞が嫌に感じた。気合入ってるのは間違いじゃないけど、気合が入ってるイコール異性とデート、ってことにされたのが少し不服だった。伊智子ちゃんと会わないで、誰と会うためにこうやって服を選んで髪を三つ編みにしたのか。
「いや、友達だけど」
ふーん、と、お姉ちゃんは興味無さそうに肩をすくめた。どいて、と言われて、ともみはちょっとつんとした感じで洗面所を出た。廊下では、お姉ちゃんが洗面所で顔をぱしゃぱしゃ洗う音が聞こえた。
伊智子ちゃんに会うために、駅まで自転車を走らせる。お姉ちゃん曰く、『気合いの入っている』編み込みのお下げが、夏風になびいてぴたぴたと肩を叩く。街は蝉の声と車の走る音ばっかりで、空気はじっとりしているけど、伊智子ちゃんに会えるなら、そんなことは一ミリも気にならなかった。
駅の近くに自転車を停めて、ホームに来た電車に乗り込む。電車にはいろんな人がいるから好き。じっと窓の外を見てる小さな子どもとか、手鏡を見ながら何度も前髪を整えている女子高校生とか、ギターを背負っている金髪のお兄さんとか、ゆっくりと会話のキャッチボールをしている老夫婦とか。ともみも、好きな服装をしていて許されるし、これからデートなんですか、って、会う人会う人に言われるわけでもない。スマホをいじっていると、時間が経って、電車は降りたことのない駅に停まった。あと三駅で、待ち合わせの駅に着く。
まもなく××駅です、と車内アナウンスが放送されて、ともみはスマホをスリープさせる。スマホの暗い画面に、唇にティントリップを塗ったともみの仏頂面が映っていて、こんなんじゃ伊智子ちゃんに会えない、と顔を上げた。丁度、電車がホームでゆるやかに停止したところだった。スマホは鞄にしまって、席を立つ。
伊智子ちゃんはもう、改札の外にいるらしかった。ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、数多の人々が改札にICカードをかざして出ていく。ともみもそのうちの一人だった。うすもも色のパスケースをぴ、とかざしながら改札を通り過ぎる。ともみの目は残高表示を見ることもせず、ただ、伊智子ちゃんを探していた。
伊智子ちゃんはすぐに見つかった。伊智子ちゃんは、駅の壁のそばで、イヤホンを耳にさして、スマホを見ていた。
「伊智子ちゃん」
ともみが声をかけると、あ、と、伊智子ちゃんはイヤホンを耳から外す。「やほ」
「何聞いてたの?」
「えっとね、『東京』」
東京、という名前の曲はいっぱいあって、そのうちのどれかは分からなかった。でも、伊智子ちゃんが聞いてた曲が「東京」と知れて良かった。
「じゃ、行こっか」
伊智子ちゃんがそう言って笑ったので、ともみも笑った。ともみの三つ編み、かわいいね、と伊智子ちゃんが言ったので、やっぱりともみは笑った。伊智子ちゃんとともみは、そうして夏の街へと歩き出した。数ある夏の中でも、無敵の夏だった。
無敵の夏