それでも世界は廻っていく

 今日は今年一番の猛暑日だそうだ。そのせいか、街ですれ違う人達は皆気怠そうな顔をしていた。サラリーマンのおじさんは薄い水色のYシャツの背中を濡らし、ハンカチで汗を拭いている。母親と手を繋ぎながら歩く少女のうなじは、汗で濡れているせいか太陽の光に少しだけ反射していた。僕も例外ではなく、噴出してくる汗を袖で拭いながら行きつけの個人病院へ急いだ。

――腕まくりしたいなぁ。

 でも、出来ない。手の甲まで覆う薄手のロングTシャツの袖は、拭う度に汗を吸収し不快感を増していく。白だから汗はあまり目立たないのが救いだ。たまにすれ違う人が僕の格好を珍しそうに見てくる。そりゃあそうだ。38度越えなのに、長袖の人なんて見たことがない。子供に至っては真っ裸で公園の噴水で遊んでいるというのに。こんなのは僕だけだ。

*

 自動ドアの向こう側は、外とは別世界に感じた。白を基調とした涼しげな内装、髪の毛を綺麗に纏め上げた看護師、ピアノ調の落ち着いたBGM。そして何より、設定温度25度のエアコン。大きく息を吸い、一気に吐き出す。暑さのせいで知らず知らずのうちに早足になっていたらしい。少しだけ呼吸が乱れているのに気が付いた。首筋から流れ落ちる汗を拭いながら、受付へ診察カードを差し出す。

「予約していた松任です」

 受付の女性はにっこり笑うと、診察カードを受け取り「呼ばれるまで椅子に座って待っていてください」と指示した。
 椅子は薄い灰色で、3人座りのものが5つ置いてある。僕は一番後ろの席の一番右端に座った。何故なら、クーラーの真下だからだ。汗で纏わりつく服を早く乾かしたい。
 胸元をつまみ、前後に動かして服の中へ風を送る。汗は引いてきたがまだまだ暑い。僕はまた大きく息を吐き、待合室を見渡した。アームカバーを付けている女性や、半袖から伸びる骨と皮だけの腕。大きな白いマスクをしている少女に、虚ろな目をして空を眺めている男性。
 僕は知っている。あの女性が日焼け対策でアームカバーを付けているわけではないことを。大きな白いマスクは、風邪のせいではないことを。
 僕は目を閉じてゆっくりと背凭れに寄り掛かる。音楽が心地いい。若干の汗臭さを交え、病院特有の消毒液の匂いが鼻をくすぐる。不思議と病院の匂いというのは安心でき、いつもこの待ち時間は眠りの時間へと変わってしまう。
 だが、今日は違った。
 静かに自動ドアが開く音が聞こえ、受付で会話が聞こえた。声のトーンからして女性というのは判断できた。会話からして、今日が初診らしい。ふうん、と僕はあまり気にも留めず、眠りの世界へ片足を突っ込んだ。徐々に遠のくBGMと2人の会話。全身の力が徐々に抜けていくのがわかる。それが気持ち良くて、そろそろもう片足も眠りの世界へ突っ込もうとした時だった。若干椅子が沈むのがわかった。反射的に目が開いてしまう。ゆるんだ全身の力をもう一度引締め、みっともなく開いた口を少し固く閉じ直す。そして、椅子が沈んだ方向へ顔を向けた。
 そこには、あるひとりの少女が座っていた。
 真っ白なフレアースカートに薄いピンクのTシャツ。服の色に反して、長い真っ黒な髪の毛が際立っていた。すらりと伸びる細く白い腕は、フレアースカートのように真っ白だが、頬はうっすら桜色をしている。口元には小さなホクロがあり、色素の薄い瞳を覆う長い睫。年齢は僕より10は下だろうか。18歳前後のように見えた。そんな少女が、左端に座っていた。

――何故こんな子がここへ?

 あまりに美しすぎる。触れたら崩れてしまいそうなほど繊細で、ひとつの欠点も見当たらない容姿。脚は綺麗に閉じられ、膝の上に置かれた手は小さく細かった。爪も桜貝のように可愛らしく、清潔感がある。
 目が離せなかった。まさかこんな場所で、こんなに美しい人物を拝められるとは思わなかった。それほどの少女が、なぜこんな場所にいるのか、見当がつかない。ただ、ひたすら見入ってしまった。それこそ、穴が開くんじゃないかと思うほどに。
 だが、少女は動かない。気付いているのか気付いていないのかわからないが、視線はじっと前を見つめていた。その視線の先を追う。診察室の横にある生け花が目に入った。ラッパのように花弁の先が外側へ丸まっており、女性の手のひらほどの大きさの白い花だった。
はて、何の花だったか。思い出せない。

「先日、飼い猫が死んだんです」

 はっとして横を振り向く。そこには相変わらず真っ直ぐ前を向いた少女が座っていた。

「先日、飼い猫が死んだんです」

 もう一度同じことを呟く。僕はどう反応していいかわからず、小さく頷いた。薄い唇も桜色をしていた。リップを塗っているのか、艶々している。その唇が動いた。

「昔から時々考えていたことがあるんです。もし、この子が死んじゃったら私はどうなっちゃうのだろうと。世界はどう変わってしまうのだろうと」

 顔の割には少しだけハスキーボイスだと思った。とても静かな口調で、BGMと一緒に流れてしまうのではないかと錯覚してしまうほどだった。
 僕はやはり、なんと言っていいかわからずに頷くだけ。見た目の美しさに反して、よくわからないことを話す少女に困惑していた。
少女は依然として前を向いたまま、僕に視線を合わせようとはしない。

「どうなったのですか」

 やっと発した一言だった。そこで初めて、少女がゆっくりと僕に視線を合わせる。それと同時に、僕の心臓は大きく跳ね上がった。途端に鼓動が速くなり、息がしにくくなる。
 僕は、こんなに美しい女性を今まで見たことがない。
 芸能人やモデルなんて比ではない。比べるのもおこがましい位だ。どこにも欠点がない。切れ長の瞳が、ツンと通った鼻筋が、形の綺麗な唇が、全てが完璧だったのだ。

「何も変わらなかった」

「何も?」

「そう、何も」

 その時、僕の名前が呼ばれ、反射的に肩が動く。はっとして前を向くと、診察室前で看護師が少しだけ微笑んで立っていた。僕は頷いて立ち上がる。「それじゃあ」と少女に背を向けると、左手首を掴まれた。そして思い切り袖を捲り上げる。驚きで何も出来ず、ただ唖然と少女を見下ろすしか出来ない。
 少女はまじまじと僕の腕を眺める。赤黒かったり、紫に変色した僕の手は肘までそんな状態で、誰かに見せれるようなものじゃない。本来の肌の色は全くと言っていいほどなかった。

「醜いですね」

 少女はそう言うと、ぱっと手を放した。

*

 雨のおかげか、暑さは随分和らいだ。だが、湿気があり不快な暑さでじっとりと背中が汗ばむ。
 僕は今日もロングTシャツを着ていた。これからまた病院へ向かう。3週間に一度、水曜日に病院へ行くのだ。
 こうやって病院へは行くが、何かが変わったとか、そういうことはない。20分程度、世間話のようなカウンセリングを受けて、薬がなくなれば薬をもらって帰る。それだけだ。正直、意味がないことはわかっている。だが、もう何年も続けてきた生活を変えるのは、僕の人生を壊すような気がしてなかなか踏み出せない。それこそ、世界が変わってしまうほどに。
 いつも通りの時間に着き、椅子に座る。一番後ろの一番右端。今日も花が活けてある。そして思い出す。3週間前の出来事を。僕は左手首をそっとさすった。あの少女は、見た目によらず力強かったなと思い返す。

「お久しぶりです」

 聞き覚えのある声と同時に椅子が沈む。すぐにわかった。あの少女が来たのだと。
 少女は今日も白いフレアースカートだった。だが、Tシャツは薄いオレンジのものを着ており、長い髪の毛はサイドでひとつに結ってある。
 僕は無意識のうちに左手首を掴む力を強める。そんな僕の姿を見て、少女は小さく頭を下げた。

「先日はどうもすみませんでした」

 黒い髪の毛が揺れ動く。真っ黒な絹糸のようだった。艶々と光に反射し、天使の輪が出来ている。

「どうしてもその袖の中を知りたくて。予想はしていましたけど」

 そう言って前を向く。やはり視線の先はあの花だ。
 僕は気になって質問してみる。

「あの花はなんていう名前なの?」

「ユリです。テッポウユリ」

 そうだ、ユリだ。よく見かける花なのに忘れていた。

「好きなの?」

「はい。一番好きな花です」

「何故?」

 少女は僕を見ようとはせず、ゆっくりと話し始めた。ユリには様々な種類があり、ひとつひとつに花言葉があること。ユリの花全般の花言葉の意味は「純潔」であることから、結婚式に多く使われること。ヨーロッパ産のユリはマドンナ・リリーと言われ、聖母や聖人に送られていたこと。ある使い方をすれば、美しく死ねること。そして、自分の誕生花であること。

「ちなみに、私の誕生花はヒメユリなんです。誇りや、強いからこそ美しいって花言葉があります」

 そこまで話すと、少女は小さく息を吐いた。その表情はどことなく嬉しそうで、満足気でもあった。桜色の頬が少しばかり濃さを増したようにも見える。純粋にユリが大好きなのだろうと思った。思えば、髪をまとめてあるシュシュも小さなユリの柄だし、足の親指に光るピンクのサンダルのワンポイントもユリだ。そうなってくると、そのフレアースカートもユリに見えなくもない、とさえ感じてくる。
 
――面白い子だな。

 先日の腕捲りの件を忘れたわけではないが、別段怒っているわけでもないし、見られたこと自体は別にどうでもいい。ただ、やはり一般的な感覚から言えばこの腕は気持ちの悪いものとして分類されるだろうし、そんなものをわざわざ大っぴらにして歩くわけにもいかない。それ故僕はこうして夏場でも長袖で行動している。だが、そんな腕を少女は目を逸らすことなく見つめてくれた。
 きっと、僕は嬉しかったのだ。
 看護師から名前を呼ばれ立ち上がる。今日は手首を掴んでこない。少し寂しく思いながらも、僕は診察室の奥へと消えた。

*

 季節は夏から秋に変わり、森は徐々に赤く染まっていく。街を歩けば足元には落ち葉が纏わりつき、たまに刺すような突風が顔を直撃する。
 今日も僕は病院へ来ていた。少し遅れて彼女も入ってくる。
 この数カ月で、僕らは色々なことが変わった。お互いの名前、誕生日、年齢、携帯番号やメルアドを知り、僕はユリの花について詳しくなった。前までひとり分空いていた椅子の距離も、今ではもうない。相変わらず彼女は淡々と物静かに話す子で、未だに笑顔は見たことがない。だが、確実にお互いの心の距離は近くなっている。そう確信できるのは、診察帰りにふたりで近くのカフェへ寄ったり、月に数回、お互いが眠れない夜は電話し合ったり、そんな小さなことだけれども。
 今日も僕達は診察が終わるとカフェへ出向いた。僕も彼女もブラックコーヒーを頼み、席に着く。だが、彼女は各テーブルに置いてあるスティックシュガーとガムシロップを必ず2つずつ投入する。だったら違うのにすればいいのに、と言うと「これが良いのです」と言ってきかない。まぁいいか、と僕も放っておく。

「長袖でももう辛くないですね」

 スプーンでゆっくりとコーヒーをかき混ぜる彼女は、なかなか絵になっている。写真に収めて拡大し、額縁に入れて飾ってもおかしくはないだろう。

「そうだね。過ごしやすいよ」

 静かなジャズ調の音楽が店内を流れている。オレンジ色のライトが店内を暖かくしている。隠れ家にいるような、そんな気分だ。客足も疎らで、僕ら以外には3人しかいない。
 僕達は診察が終わる度にここでコーヒーを飲むが、会話らしい会話はしたことがなかった。たまに話してもお互いぽつぽつと話して終わる。それでもこうやって通い続けるのは、この店の雰囲気が良いということもあるだろうが、ふたりでいることがとても落ち着くということもあるだろう。僕も、彼女も。

「そろそろ帰ろうか」

 日が傾き、街灯が明かりを灯し出す。それが僕達の解散の合図だ。
 彼女は小さく頷くと鞄を持ち、席を立つ。その一連の流れさえ絵になっている。僕がその姿に見惚れていると、彼女は眉を寄せ首を傾げる。僕は恥ずかしくなり急いで顔を逸らす。
 外に出ると、如月の風が僕らに体当たりしてくる。首に巻いていたマフラーに顔を埋める。彼女もコートの襟を顔に寄せ身体を硬直させた。
 僕たちは駅までは同じ方向なので、彼女のペースに合わせて歩き出す。女の子だからか、歩くのがとても遅い。だが、最近ではそれも慣れてきた。ゆっくり歩けば彼女との時間も増える。それがたまらなく嬉しい。
 帰り道には小さな花屋さんがあり、そこでユリの花を眺めるのが自然と決まりになっていた。

「あ、ヒメユリ」

 彼女がそう言って指差す先にはヒメユリがあった。普段はテッポウユリしか置いていないのに、今日は珍しい。ヒメユリは片隅に置いてあり、他の花よりも申し訳なさげに咲いていた。彼女はしゃがみ込み、ヒメユリを見つめる。

「ヒメユリの花言葉、覚えてます?」

「覚えてるよ。強いからこそ美しい、だろ?」

 少しばかり自慢げに答えると、彼女は小さく頷き立ち上がった。

「私は、いつまでも美しくありたいと思っているんです」

 視線はヒメユリに向けたまま言った。

「19歳の自分のまま、一生を過ごしていたい」

 彼女が言うには、19歳というのは人生において一番輝かしい時期なのだそうだ。10代の最後であり、大人のようでまだ子供。その中途半端な年齢、立場が、女性の本来の魅力を引き出すのだと言う。何でも出来そうで何も出来ない。けれども、何でも出来る。

「19歳でなければいけないのです」

 風が吹いて、ヒメユリが揺れた。彼女の長い髪の毛も風に乗る。寒さで紅潮した頬がとても愛らしく、気が付けば僕は彼女を引き寄せていた。
 驚く様子のない彼女。一方、僕の心臓はこれ以上に無い位胸を叩いていた。きっと彼女にも聞こえているだろう。身長の小さい彼女は抱きしめてみると、僕の胸に彼女の顔が押し当てられる。
 通行人がじろじろと僕達を見てくる。お花屋さんのおばさんなんかは両手を口に当てて驚いている。でも、そんなのお構いなしに僕は彼女を抱きしめ続けた。彼女も腕を背中に回すわけでもなく、かと言って嫌がる素振りもない。じっと僕に抱かれたままでいる。

「ヒメユリの花言葉は、強いからこそ美しい」

 そう言って僕からそっと離れる。そして、僕の左手首を掴んだ。ゆっくりと少しだけ捲り上げる。赤黒い傷跡が広がっている。

「あなたは弱い」

 傷口一本一本に指を這わせながら彼女は言う。

「あなたは弱いからこそ醜いのです」

 色素の薄い瞳が、僕の瞳を捉える。彼女の眼孔には僕が映っていた。

――なんて酷い顔をしているのだろう。

 数年まともい手入れされていない髪の毛。いつからあったのかわからない隈。血色の悪い肌に生気のない顔つき。
 途端に僕は吐き気がした。彼女を汚してしまった気がした。この、何の汚れも知らない19歳の少女を、一瞬にして取り返しのつかない汚点を擦り付けてしまったような気がしたのだ。僕は急いで彼女から離れた。全身が震えている。動悸が早い。口の中が乾き、喉が貼り付いているかのように声が出ない。次第に顔から血の気が引くのがわかる。過呼吸だ、と判断するより早く、彼女は僕の背中を擦ってくれていた。
 だが、僕はその手から逃れるように這いずり出す。彼女は僕なんかに触れさせてはいけない。汚れを知って欲しくない。ただその一心で彼女から逃げた。視界がかすみ、前がよく見えない。周りの声も雑音も響いて聞こえる。それでも僕は彼女から離れなくてはいけない。
 だが、彼女は僕を後ろから抱きしめた。
 
「その姿が醜いのです」

 その声だけが、脳に直接響いてきた。
 時が止まったような錯覚に陥る。周りの景色が真っ白になり、僕の呼吸も、心臓も止まった。わかるのは背中に広がる彼女の温もりだけだった。それがひどく安心できて、僕は眠るように意識が遠のいた。意識が遠のく瞬間、遠くのほうで何かが聞こえたが、聞き取ることはできなかった。

*

 朝起きると、白い息が宙を舞っていることに気が付く。その光景が面白くて、しばらく寝ていたソファーの上で息を吐き続けた。寝ている間も付けっ放しにしているテレビからは、今日は今年一番の寒さとなるとアナウンサーが言っていた。画面の左上に表示されている時計は8時30分だった。僕は大きく伸びをすると、毛布を体に巻いたままキッチンに立ち、コーヒーを淹れる。
 
「起きて」

 コーヒーを淹れ終わると同時に彼女を起こす。ベッドで猫のように丸くなている彼女の寝顔は、長い髪の毛に覆われて見えない。カーテンの隙間から差し込む冬の光が彼女の黒髪を照らす。細かな埃が光にあたって宙を舞っているのがわかった。
 僕はカーテンを思い切り開ける。その音で彼女はもぞもぞと動き出した。

「コーヒー淹れたから、冷めないうちに早く」

 それだけ言い残して僕はソファーに座る。しばらく芋虫のように動いていた彼女は、ふいにすくっと起き上がり窓の向こうを眺めた。

「外が粉砂糖だらけになっていますよ」

 今年の初雪だった。
 僕らはあの秋の日から、お互い一番近しい存在となった。3週間に一度の病院が終わるといつものカフェへ行く。いつも通りふたりともブラックを頼み、彼女はスティックシュガーとガムシロップを2個ずつ投入する。飲み終われば花屋へ行き、ユリを眺める。そしてスーパーへ出向き晩御飯を買い僕の部屋へ帰る。
 付き合っているというわけではない。身体の関係どころか、僕はあの日から彼女には一度も触れていない。それでも、僕らはお互いが一番近しい存在なのだ。何がと言われればわからないが、言葉では説明できなくとも、それはふたりの暗黙の了解であり、僕らがわかっていればそれで良いと思っている。
 彼女は身体に毛布を巻きつけながら僕の横に座り、コーヒーを飲む。あらかじめ角砂糖とミルクは入れておいてある。ふたくちだけ飲むと、マグカップを置き窓へ向かった。ゆっくりと窓を開けると、12月の風が部屋を覆い尽くす。勝手に身震いしてしまう。
 空からは桜の花弁の様に雪が降っていた。それは地面に触れると、一瞬にして粉砂糖になってしまう。
 
「来週、クリスマスだね」

 彼女は窓を閉めながら言った。

「クリスマスパーティーをしませんか」

「え」

 信じられない言葉だった。僕は聞き返す。「今なんて?」

「来週の24日の夜7時から、クリスマスパーティーをするの。チキンとシャンパンとケーキを食べて、お互いプレゼントを交換するのです」

 窓から差し込む光が、彼女を包み込む。その姿はまるで聖母マリアのステンドガラスのようだった。

「わかった。それじゃあ、部屋の鍵を開けておくから――」

 「いいえ」彼女は言葉を遮った。「私の部屋でやりましょう」

「本当に?」

「はい。ここの最寄駅から西へ3つ先の駅で、駅前のコンビニ裏にあるアパートの2階です」

 初めての彼女の部屋。僕は想像する。きっと、白くて何もない部屋なのだろうと思った。ベッドと、机と、タンスしかなくて、靴箱やベランダにはユリが置いてある。それが僕の想像の限界だった。
 それと同時に彼女のプレゼントも考える。だが、すぐに決まってしまった。ヒメユリしかないと。
 僕が頷くのを確認すると、彼女も小さく頷いて、また窓の外を眺めた。

*

 花屋さんへ行くと、背の高いヒメユリが僕を見てきた。暫くヒメユリと見つめ合ってしまう。店員が「お買い求めですか?」と尋ねてきた。

「ヒメユリを5輪ほどお願いします。クリスマス仕様にして頂けないでしょうか」

 店員は「かしこまりました」と言うと、慣れた手つきでヒメユリの手入れを始める。無駄な部分を切り、カラフルなラッピングやリボンを使い、ヒメユリを変身させる。あっという間にクリスマス仕様のヒメユリが出来上がった。その姿を見て思わず笑ってしまう。彼女には似合わないなと。そんな僕の様子を不思議な顔で見ながら、店員はヒメユリを差し出した。僕はそれを受け取り、代金を払う。
 店を出ると雪が降り始めていた。先週降った雪はすぐに溶けてしまい、後に残ったのは地面に張った硝子の様な光を放つ薄い氷だけだった。
 駅へ向かう途中、ケーキ屋さんが目に入る。舌を出した可愛らしいキャラクターがサンタの格好をして首を揺らしていた。そう言えば、どっちがケーキを買うだとか、チキンを買うだとか一切相談していないことに気が付く。暫く店の前で悩んだが、ないよりは多いほうが良いと思い店の中へ足を踏み入れる。
 店の中は少し暑い位だった。だが、寒さで冷え切った身体にはちょうどいい。ウィンドウを覗き込むと宝石のようなケーキが並んでいた。ガーネットのような大きな苺、ベリルのような栗がのっているモンブラン、アメジストがひしめき合っているブルーベリータルト――甘いものが苦手な僕でも、不思議と美味しそうに感じる。
 小さいホールケーキを買おうかと思ったが、どうやら予約制でありショートケーキ類しかないという。悩んだ末、イチゴのショートケーキにした。彼女はきっと甘いものが好きだと思った僕は、彼女にはふたつ買うことにした。
 会計を済ませ、駅へ向かう。冬の匂いに乗ってヒメユリの香りが鼻をくすぐる。そして気が付く。彼女の匂いだと。
 僕は目一杯ヒメユリの香りを吸い込んだ。胸一杯に彼女が広がる様な感じがして嬉しくなる。それと同時に、罪悪感も芽生えた。こういう行為でさえ、彼女を汚しているように感じたからだ。
 電車に乗り、西へ向かう。言われた場所で降り、駅前のコンビニへ向かった。とても閑静な場所で、僕が住んでいる場所より寂れている。コンビニを通り過ぎる際に中を見たが、店員は初老のおじいさんがひとりいるだけだった。一応、駅前や小さな雑貨屋さんなどはクリスマス仕様にデコレーションされていたが、どこか物足りない。
 コンビニ裏のアパートはとても小さなものだった。だが、新築なのか外装は綺麗で、薄いピンク色をしている。階段を上がり、2階に着く。標識をひとつひとつ確認し、彼女の名字を探す。一番左端が彼女の部屋だった。
 インターフォンを押すと軽快な音が部屋の中から聞こえてくる。だが、彼女からの反応はない。もう一度押してみるが同じだった。携帯を見てみるも、連絡は何もない。両手に持っていた荷物を左手に全て持ち替えドアノブに手をかける。ゆっくり回してみると、開いた。ふわりとヒメユリの匂いが舞う。一瞬躊躇したが、部屋に入ることにした。
 ドアを開けるとすぐに廊下があり、左側にはキッチンがあった。ふと、足元のゴミ袋が目に入る。何かの花の茎や葉が大量に入っていた。ところどころに赤色の花弁もある。すぐにわかった。ヒメユリだと。
 キチンの向こう側にはまたドアがあり、細い縦長の摺りガラスから部屋の中が若干窺がえた。だが、よくわからない。僕はドアノブに手をかけて、ゆっくりと押す。瞬間、咽るほどのヒメユリの香りが広がった。思わず咳き込んでしまう。それでもドアを開くと、信じられない光景が広がっていた。

 全てが赤かったのだ。

 床から天井、部屋の隅から隅までヒメユリが覆っていた。本来は白いであろう部屋の内装は、ある一か所を除いて全てが赤色に染まっていた。
 ヒメユリに囲まれた部屋の中央に、彼女は横たわっていた。真っ白なワンピースを着て、眠っているかのように。
 そのあまりの美しさに僕は目眩した。この6畳の小さな部屋が、とても神聖な場所に思え後ずさりしてしまう。だが、彼女を起こさなくてはならない。クリスマスパーティーをしなければならないのだ。
 ヒメユリを踏み潰しながら彼女に近づく。くしゃり、と花弁が潰れる音が静かに響いた。

「起きて」

 しゃがんで顔を覗き込むと、あの桜色の頬はなかった。テッポウユリよりも白かった。そして思い出す。彼女が以前言っていた言葉を。

『ある使い方をすれば、美しく死ねる』

 こんな使い方をするのか、と感心した。

「本当に美しいよ」

 こんな絶景を僕は見たことがない。聖母マリアがこの6畳に横たわっているのだ。美しくないわけがない。
 僕は買ってきたヒメユリを彼女の髪の毛に刺した。絹糸のような黒い髪の毛が指の間をすり抜けていく。あの日以来、初めて触った。

「ヒメユリをプレゼントで贈ろうと思ったけど、こんなにあれば必要ないね」

 そう言って僕は彼女の側に横たわる。暫く天井のヒメユリを見つけていたが、次第に眠くなり目を閉じた。
 意識が遠のく寸前まで、僕な彼女とのことを色々思い出していた。
彼女は初めて会った日、飼い猫の話をした。飼い猫が死んでも世界は何も変わらなかったと。きっと、それは僕達も同じだ。この部屋で僕達が死んでも、世界は変わらないだろう。

『あなたは弱いから醜いのです』

 僕は弱い。わかっている。彼女は強い。自らの命を絶ったのだから。それじゃあ、僕も強くなれるのかな。美しくなれるのかな。彼女に触れられた傷口が少しだけ疼くのを感じた。

――あの日、彼女が言った言葉はなんだったのだろう。
 
 花屋さんの前で倒れたあの日。意識を手放す寸前に聞こえた彼女の声。

――まぁ、あっちで聞けばいいか。

 その瞬間、体が軽くなるのがわかった。とても気持ち良い。
 ヒメユリの匂いが薄くなっていく。全身の感覚が遠のく。そして、脳内が真っ白になった。

 意識を手放す寸前、彼女の声が響いた。

 そんなあなたが、美しい
と。
 

それでも世界は廻っていく

それでも世界は廻っていく

僕は病院で、美しい少女と出会った。彼女はどこまでも美を追求し、そして僕を蔑む。 誰かがいなくなっても、世界は今日も変わらず廻り続ける。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-03

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