旧作品に演歌などの演奏

旧作品に演歌などの演奏


 Last scene

 
  京野英雄と安井詩織は、今、映画を見終わったところだ。
 二人はもう三年も付き合っているが、映画を見に行く事は殆ど無い。
 レンタルDVD屋で簡単に借りる事が出来るからだ。
 このレンタル屋の料金も最近値上げされて、前よりは借りる事が少なくなった。
 今見た映画は、「永遠の恋」という邦画の時代恋愛物だった。
 詩織が劇場を出て行く人混みの中を歩きながら「まあまあ、面白かったね。主役が私の好きな人だったから、あなたを誘って見に来たんだけれどね。相手役が今一だったかな」と、パンフレットを見直すように眺めると、英雄が、「でもさ、ラストがもう少し面白かったらと思ったな。極ありふれた恋愛物という感じで終わったから、余韻が残らなかったな」。
 詩織が頷きながら他の劇場の看板を見た。「そうかもね。レンタル屋のDVDだって、洋画なんて、新作なんかズラッと並べてあるけれど、此れは是非見たいなという物が無いものね。もう、或る程度パターンが決まってしまっていて、斬新なアイディアを思いつかないのかも知れないね。アクションものか、ちょっとしたミステリーとか、戦争ものなどが多いわね。邦画のコーナーは殆ど新作が無いしね。此処の建物だって幾つかの劇場が入ってるけれど、今日見たやつ以外は、皆、洋画のそのパターンだものね」
 二人は一休みと、近くの喫茶店に入ってコーヒーを飲む事にした。
 また先程の映画の話になった。
 喫茶店にも、映画館から近いせいか、映画関係の雑誌が置いてある。
 詩織がその一冊を手に取ろうとして、ページをパラパラと捲ったら、メモ紙の様なものがフロアに落ちた。
 詩織がそのメモ紙をを拾い上げて読んでみた。「最近の君は冷たいな、別れるなんて言われたら、僕はショックだな。僕が主役、君は準主役なんだから。Hより、T様」
 詩織が拾い上げたメモに書かれていた、文章を読み上げた。「何、此れ。さっきの映画の主役と同じイニシャルが書いてあるけれど、まさか本物が書いたんじゃ無いだろうな。だけど、宛名は、先程のTとなっているな。あの映画は、平山悟演ずる男がが自分に恋こがれている高田美智子演ずる女性と恋仲なんだが、周りからいろんな障害があって、別れざるを得なくなるところを、永遠の恋を確かめ合うという最後だね。」
 英雄はメモを詩織から渡されて見ていた。「でもさあ、映画はお話だから、もし、此れが映画から飛び出した、俳優同士で交わされたものだとしても、おかしくは無いけれど、二人は芸能界でも、私的に仲が良いと噂のあるくらいだからね」
 詩織は、店員には拾得物として渡さないで、バッグに入れて持って店を出た。
 紙切れ一枚ぐらい持って行っても、犯罪にはならないだろうと、英雄も言うから。
 有楽町から地下鉄に乗った。
 電車の中で、詩織がドアの横のスペースに寄り掛かりながら英雄に、「ねえ、このメモどうしようか?まさか、誰のものかハッキリ分からないのに、誰にも渡しようが無いしね。仮に、本当に俳優同士のものだとしても、芸能人だから、事務所とか何とかややこしいしね。捨てちゃおうか?でも、何か気になるな、暫く持っているかな」
 英雄が笑いながら言った。「そんな物、何だか分かった物じゃ無いし、どちらだっていいじゃない、気になるなら持っていれば、映画を見たという記念にでも」

 それから、大分してから、二人が横浜で待ち合わせをした時だった。
 海に近い公園で、丁度ロケをやっているのに出くわした。
 二人は、海を眺めてベンチに座っていた。
 人垣が出来ていて、歓声が聞こえてくる。
 二人は興味は無かったが、人垣の向こうに船がとまっていて、人垣は港の方まで拡がっている。
 拡がっている人垣の間から、ロケの光景が見えた。
 詩織が英雄の顔を見て驚いた様に言った。「あれ、あの二人じゃない。次の作品でも取っているのかな?ちょっと見に行ってみようか?」
 やはり、同じ二人だった。
 ファンらしき女性に聞いてみた。「これ、何のロケですか?」
「永遠の恋」の次作らしい。
 港を出て行く船に東野が乗ろうとしているのを、高田が見送りながら泣いているというシーンだ。
 前作を見ている二人には、此れがどんなシーンなのかが大体分かるような気がした。
 大抵は、二番煎じだから、似た様なストーリーに新たに話を付け足した感じでは無いかと思われた。
 前回同様、愛し合っている二人が事情があって、一旦別れるという事では無いかと思った。
 何回か、やり直しがあったが、収録は順調のようであった。
 そろそろ終わりかなと思われた時、予想外の事が起きた。
 人垣の中からいきなり飛び出した男性のファンが近付くと、果物ナイフの様な物で東野を差そうとした。
 東野は剣道をやっているようで、何度か交わして犯人と争っている。
 両者とも差し違いの様になった。
 二人の周りには血が飛び散っている。
 悲鳴の渦が拡がり、その場は混乱して、スタッフなど関係者が東野に駆け寄ると、暫く抱き上げていたが、やがて二台の救急車がサイレンを鳴らしてやって来た。
 パトロールカーも二台駆け付けて、東野と犯人の乗った救急車の後をついて別々の病院まで行くのだろう。
 高田はその場に立ち尽くしていた。
 詩織は驚きのあまり、英雄の腕を掴んでいた。


 やがて、新聞にこの事件の記事が載った。
 平山哲夫という男が個人的な恨みから東野を襲ったという事のようだ。
 個人的な恨みの内容については掛かれていなかったが、役者としての知名度からの妬みと、以前何回もひどい仕打ちを受けて、役を貰えなかったからでは無いかとの事だった。
 此の事件は、単純な殺人未遂事件として処理されそうだ。
 ちょっと気になったのは、平山も俳優だという事だ。
 詩織は英雄にメモを見せた。「此のHというのは平山ともとれるわね。そうだとすれば、平山が高田に横惚れしていたが、東野を妬んで、殺そうとしたとも考えられるわね」
 英雄が頷いた。「そういう事も考えられるな。痴情の縺れから、という訳か」
 警察の取り調べも、新聞の記事も同様な内容の物であった。
 幸い、平山も東野も命は取り留めた。
 それで、事件は落着した。


 それから、三作目の製作が始まったようだ。
 大体、連続作品の内容は、一作、二作目を延長した様な同じ様なものが多い。
 連続ものは、前作から突然話が飛ぶようには、つくられていない、そんな物かも知れない。
 しかし、よっぽどの人気作品で無い限り、何作も次から次へと作られる事は無く、此の三作目でラストを迎える様に決まったようだ。
 東野と高田の名コンビも此れで見納めかと誰もが思い、続編を望むファンの声も少なくなかったようだ。


 最後のシーンは、高田が敵の男達と戦ってから、東野を追って行き、正に二人は結ばれるというシーンだった。
 そこで、思いもかけない事が起きた。

 この日は、皆、真剣を使っていた。
 東野などは剣道もやっていたくらいだから、扱いには慣れていた。
 東野を恋する高田が追って行く。
 カメラが最後のシーンをアップで捉えている。
 正に、二人は結ばれると思った瞬間、いきなり高田が背後から東野を突き刺した。


 撮影現場は大混乱となった。
 スタッフが一斉に東野に駆け寄る。
 救急車が手配されたが、一目で東野は心臓を何回か突かれている事は明白だ。
 警察も駆け付けたが、高田の身を拘束するだけで、東野を蘇らせる事は出来ようも無い。

 後日、警察の取り調べの結果が新聞の記事になっていた。

 東野と高田は、私生活では、仲は決して良くは無かった。
 以前、東野を襲った平山が高田の本当の恋人だった。
 芸能界に入った高田は、平山と恋仲になった。
 それを、役柄で、高田が準主役に抜擢された辺りから、東野にしつこく付きまとわれるようになった。
 高田は、平山との本当の恋を貫いて、東野の誘いをハッキリと断った。
 断るだけでは済まなく、酒の席に誘われて、無理矢理襲われた。
 高田は抵抗したが、剣道をやっていた東野の前では、なすすべも無くという訳だ。
 高田は、悔し泣きをしながら、真実の恋人である平山に話した。
 平山は売れない役者ではあったが、高田の事は真剣に結婚を考えていたから、その事実を聞いて、東野に何回か話して聞かせたが、人気絶好調の東野は、鼻で笑い、お前もこの世界にいられなくなるぞと脅された。
 切羽詰まった平山は、港でのロケの時に、東野刺殺を実行したが、失敗に終わり、平山は、裁判の後、刑務所に送られる事が決まった。
 高田は、憐れな、そして最愛の平山の分もと、東野刺殺のチャンスを窺っていた。
 そして、そのチャンスが訪れたという訳だ。
 ラストシーンで。


 詩織は英雄に記事を見せながら、バッグの中からメモを取り出した。
「やっぱり、此のメモ、いい加減じゃ無かったんだ。俳優としては、私もファンではあったけれど、真実の姿は分からなかった。高田美智子も可哀想だな。恋人も失って、自らも殺人を犯すなんて」
 英雄は読んでいた新聞を、閉じると大きく頷いた。



 貴重品


 やっと、自分の番が来た。
 迷う事は無かった。
 物書きである夢中仁は、此れからちょっとした預け物をしようと思っている。
 質店の看板がある建物の横の狭い階段を上がって行ったところに事務所があって、其処で預け物と交換にモノを受け取る。
 預けるのは・・「貴重品」。
 また戻して貰う事は出来るが、今のところ・・暫くは・・預けておくつもりだ。
 では、どの様なモノかと言えば、スマホ型のコントローラーを介して、耳を通して人の心や、頭の中の考えが声の様に聞こえて来るというモノ。
 仁は別に其れを欲得目的で利用しようと思った訳では無いのだが、其れなら其れでまた別にもう幾つかの純文学的な物語が作れてしまいそうだなどと思った。
 街を歩いていても、すれ違う人々の心が分かってしまったり、会話をする時に相手が此れから何を話そうかとしているかが分かってしまう。
 実は、他にもレベルによって交換できるモノはあり、最高レベルなどになると、無敵のパワーコントローラーなどとも交換できる。其れに緊急用のスイッチも付いている。此れは、勝手に死なれては質屋も後で面倒だから、そんな装置も付けているらしい。
 その代わり、貴重品の価値によってどのレベルのものなら交換できるかという基準があり、仁の貴重品では、其処までの価値は無いと言われた。
 だからと謂って仁は今手に入れているモノでは不足だとは思っていない。
 目的があくまでも物語を書く為の材料になりはしないかとの事だったから、少なくとも最初の考えでは。
 仁は早速其の材料を探して、彼方此方歩き回っている。
 そうしているうちに、あまりにも同時にいろいろな他人の心の声が聞こえてくるから、一つ一つが正確に聞き取れない事に気が付いた。
 質屋に連絡して、コントローラーの使用方法を教えて貰った。
 コントローラーの切り替えで、限定されたものだけが耳を通じて仁の脳に入って来るようになった。
 「不安・困惑等」に限定してからは、すっきりした気分で材料探しが出来ると安心したのだが。
 其れでもハッキリ聞こえて来るものにもいろいろあるので、仁が自ら選択をする事にした。
 仁は、世の中の人々に殆ど其の条件に該当しない人はいないことに気付いた。
 仁が、「俺は何でも無いのだから、どうする事も出来ない事について頭を悩ませても意味が無い」と思った時、以前医者が仁の不治の病について、「医者は神様じゃ無いんだから」と言われた事を思い出した。
 病の治癒から見放された経験があるだけに、其の類のものに首を突っ込むのはやめよう、もっと簡単なものから材料をと・・。
 そんな事を考えながら街のデパートに入った時だった。
 エスカレーターで六階まで上がったところで、若い女性の悩みが聞こえて来た。
 女性は楽器売り場の前で、どうしたら良いか、何処に行けば良いのか、などと考えながら立ち往生をしている。
 どうやら、「学校には行きたくないから家に閉じこもっていたのだが、親に気分転換に何か気に入った趣味の様なものを見つけたらどうかと言われ、最初はその気も無かったのだが、何となく・・気が付いたら此処迄来ていた」という事らしい。
 無表情な顔からは、何も窺えないのだが、心の声が、「どうしようかな。TVで見たミュージシャンのライブの印象が、楽器を購入して習ってみようかな、でも、自分には無理かな。そんな事をして、また人から馬鹿にされたら嫌だな・・、どうにか此処までは来れたけれど、やめた方がいいかな」
 と、続けざまに仁の耳に入って来る。
 仁は出しゃばるつもりは無かったし、どうしてよいかなど分かる訳も無いと思ったのだが、余りにも其の声が大きいのでつい、「此の楽器、弾いてみたいな。弾けるかな」と口に出してしまった。
 仁は、楽器の椅子に座ると鍵盤に手を触れてから、単音で鍵を押してみた。
 どうってことが無い音が出ただけで、詰まらないから、色々なセッティングをしてから、自分の知っている曲を弾いてみた。
 女性が帰るんじゃないかと心配になった。
 通り過ぎる人達がちらちらと仁の方を見ていたが、女性が帰っていない事が分かった時、仁は続けざまに何曲か連続して弾いていた。
 何か、そうする事によって、女性の気をひく事が出来るのではと・・、賭けだった。
 だから、時々分からないように女性の顔を見ながらも、自分の演奏に酔っている様にノリながら派手なアクションで弾いた。
 女性は帰るのかと思ったのだが、まだ、立って此方を見ている。
 周りに響く音で弾いてしまったから、人が何人か寄って来て女性に混じって仁の演奏を聴いている。
 店員が近付いて来て、「如何ですか?」と聞かれた時に初めて我に返った。
 仁は店員の目が仁の反応を期待している様な気がしたので、椅子から下りると、クラッシックギターが並んでいる辺りまで移動した。
 仁はどうせ女性は帰ってしまうんだろうと思ったから、其ればかり気になっていたのだが、女性はまだ、売り場に留まっている。女性の心の声ははっきりは聞こえない、何か考えているのだろうが、仁の心の動揺が邪魔をしているのか、其れとも・・、コントローラーを操作しようと思った時、女性が迷う様に一歩二歩、仁の方に近付いた。
 仁は思い切って女性に声を掛けた。「君、ひょっとしたら楽器に興味無いかな?僕は音楽が好きでね・・つい、楽器が弾きたくなってしまって・・、勝手にノッテしまうんだ」
 コントローラー―の周波数を調整するまでも無く、女性は遂に口を開いた。「あの、音楽、好きなんですけれど、弾けないから・・、でも、ちょっと見に来たんだけれど・・」
 仁は、女性が何の楽器に興味があるのかと思ったのだが、心の声が聞こえるようになって、「ギターなんか最初はいいのかな・・」との事だった。
 仁は、近くにある女性用の長さが短いギターを手に取ると、黙って女性に見える様に抱えて弦を鳴らしてみた。
 女性が後ずさりし始めた様な気がして、心の声に集中した。
「何処の人か分からない人に、学校の同級生だって会うのが嫌なのに・・」
 仁は、此れは拙いと思いながらも、この場を逃したら、帰るに決まっているからと、「あの、僕は音楽屋さんじゃ無いんだ、文章を書いているんだけれど、ああ、御免、僕の名は夢中仁という・・変な名前でしょ、何でも夢中になってしまうからかな・・いや、そんな訳じゃ無いんだけれど・・」。
 女性は少しずつ話を始めた。「私は川野・・文、中学三年・・」
 仁は背は高いがまだ中学生では、難しいかなと思った。
 難しいとは、楽器を鳴らすという事や、年齢的に傷つきやすい年頃、増してやひきこもりとあっては・・と。
 質屋に連絡してもう一つ契約に追加して貰いたい事があると話した。
 相手の心の声を聞くだけで無く、此方の心を逆に相手に転送する事は出来ないかと。
 質屋は、「難しいですね。コントローラーに頼らず、心を込めて話すしか無いですね」と言うから、仁はその通り、「楽器は最初は誰でも上手く扱えない。でも、音楽というものは自分だけ満足すれば、つまり、一曲でも弾けるようになったら、楽しいよ」と言いながら、スマホに楽器を演奏している人の顔や体ごとノッテいる映像を映し出して、文に見せた。
 最初は反応を示さなかったが、仁が、「楽器は美味い下手よりも自分がノル事が出来れば弾けたようなものだ、楽譜通りに弾くだけで無く、上手くなれば楽譜などいらない、メロディーを聞いただけで何でも弾けるようになるし、自分の好きなアレンジで弾けば自分がノッテ来る、其れが音楽だよ。何でも学校というものに頼るよりは、先ずは、弾いてみる事をしなければ・・」と、話を進めていくと、文は、何か考えている様な表情をした。
 文は、其れから暫くして楽器に触れて、音を出してみたりしていた。
 仁は、「今日はこんな感じでも、何時かは分かって貰えるかな」と呟いた。

 偶々、二人の帰る方向が一緒だという事だったから、表通りに出て歩き始めた時だった。
 文の心の声というよりも、まるでメーターの針が激しくマックスを示すように揺れたが如く、文が走って逃げようとした。
 仁が気が付くと、正面から中学生の男子生徒が歩いて来る。
 仁は、文が舗道を歩いて来る生徒に違和感を感じたことに気が付いた。
 文は、舗道から車道を走り抜けようとしているのではないかと、仁には思えた。
 そうであれば、その先には、此方に向かってくる車やバイクが信号待ちをしているのが見えた。
 文は走り出ようとしている。

 仁は緊急スイッチを押した。
 質屋の声が聞こえたか瞬間、仁は、「契約を、変更して!・・・に!」
 質屋は、「其の変更をしますと、「貴重品」の返還の保証が出来なくなる可能性が・・。上手くいけばいいのですが・・」

 その言葉を最後まで聞くまでも無く、仁は既に文の後を追ってダッシュしていた。
 信号が青に変わって、車やバイクが一斉に、此方に、文の走る方向に向かって来る。
 仁はコントローラーを操作した。
 質屋がセッティングを完了したかどうかは頭の片隅にも浮かばなかった。
 何とか、仁が文を追い越して、文の身体を覆う様に前に出た時、急ブレーキの音が聞こえた。

 仁の身体がに何かが当たる鈍い音がした。
 文は、立ち止まり・・難を逃れる事が出来た。


 仁は、質店の看板がある建物の横の狭い階段を上がって行った。
 事務所に入ると主人と話を始めた。
 コントローラーを返すのと引き換えに、「貴重品」を受け取った。
 主人が苦虫を潰した様な顔をしながら尋ねた。「大丈夫とは信じられない。どうなったんですか?」
 仁は笑顔を返すと、「まあ、運が良かっただけ。軽傷で済んだ。ところで、今回は文章が書けなかったから、また、改めて契約に来るよ。今度はどんな契約にしようかな、オプションも付けておいた方が良さそうだな」と、主人が、「あまり無茶されますと、貴重品が質流れする事になりますから、尤も此方は、損をしないように、保証を掛けてありますから、損害はありませんが」。


 仁は、帰りがてら、質屋の事務所の契約書を横目で見ながら狭い階段を降りて行った。



 契約書には。
「第四条 乙の「命」(以下単に「貴重品」と呼ぶ)が著しく・・・・・」



 Te prestaré las llaves de  邦題 アパートの鍵貸します



 地下鉄の改札を抜け銀座通りを歩きながら呟く。
「毎日、同じ事をやって、帰れば冷たい部屋が待っているだけか・・」
 身寄りのない緒方謙介は大学を出て、商事会社で契約関係の仕事をしている。肩書は課長だが、自分ではそんなものを気にした事は無い。
 タイムカードを押し、デスクに座るが、まだ始業時間まで大分ある。コーヒーでも飲もうかと、リースのコーヒーメーカーの前に。
 先にコーヒーを入れている三田ゆかりの後ろに並ぶと、「緒方さんの分、私が持っていきますから、座っていてください」。最近では、何処の会社も肩書などつけずに名で呼ぶ事が多い、いい事だ。
 こんな時間から出勤している彼女も、両親を亡くして一人だが、美人だしよく気が付く女性だと思う。仕事はベテランだし社内の男性の間では人気があるようだ。男性達とは時々飲みに行くようだ。
 謙介も、二度程、彼女と飲みに行った事がある。何れも、飲み会の後などで成り行きでそうなった。だから、彼女の両親の事などを知っている。
 決済箱を空にして、出掛ける準備をする。バッグに書類を詰め込む時に、底に何かあるのに気が付いた。
 子供のおもちゃの様にも見える、先日、レストランに行った際に隣に家族連れがいたが、トイレに行っている間に、いなくなっていた。
 ひょっとしたら、あの子供がうっかり落としたものがバッグに入ってしまったのかも知れない。
 手に取れば、小さな鍵のおもちゃのようだ。そう言えば、あの子供が小さなMagicボックスのようなものを開ける際に盛んに此れを使っていた。
 ゴミ入れに入れようと思ったが、子供の無邪気な顔が浮かんだら、捨てるのはやめにして、机の上に置く。また会う事は無いだろうが、まあ、暫く置いとくか。
 



 丁度ホームに滑り込んできた地下鉄は空いていたからシートに座って、一応、訪問先の順番と地図を確認する。
 なるべく、ロスのあるコースは避けたい。其の後何がある訳では無いが、時間があれば、本でも読めば良い。謙介は本が好きだから、一人で何もやる事が無い時には本を読む事が多い。
 趣味といっても其れと、音楽を演奏したり、イヤーフォーンで聴きながら寛ぐくらいだ。其れも、一人ではなかなか元気が出ない。
 音楽にしても、最近の曲をレンタル屋で視聴したが、良いものが無いから、同じものばかり聴いている。唯一の気晴らしだから、音が無いと淋しくなる。
 訪問客からは書類を貰うが、客によっては自分の周りに起きた事などを話し出す事もある。誰かに話したいのだろう。相槌をうっているだけでも、本人はストレス解消になるのかも知れない。
 仕事は、特段の事情でも無い限り、ほぼ予定通り終わる。最後の客先を訪問する。何と、家族の多い家だ。賑やかでいいなと思う。大した事でも無くても、家族にとってはちょっとした問題なのだろう。
 笑顔で客先の扉を閉めれば、あとは自由の時間が訪れる。帰り道に適当な公園を見つけると、ベンチの埃を持っていた新聞紙ではたいて座る。
 音楽のボリュームを上げる。他の場所では音漏れになると苦情が来るが、此処なら誰にも迷惑はかけない。
 誰もいない公園、しかし、誰もいない部屋にいると憂鬱になるが、どうして、表に出ると気分が良くなるのだろう。
 社内の事や仕事の事は、何時も気にはなるが、帰って適度なその程度の事は、意識下で生きているという自覚を感じさせてくれるから、まるきし迷子にならないようにとの足枷のようなものだ。
 丁度、気晴らしが、と、スマフォが振動する。社からだ、何か揉め事があったというが、連絡してきたのは、役員だから、無視も出来無いだろう、戻らなければ。
 


 
 デスクに座った途端に、役員室迄来るようにと課員から。役員室のドアをノックして入るとすぐに、用件が口をついて出てくるようだ。
 どうやら、男性の課員がこなした案件が役員の目では、いい加減過ぎるから、本人を呼びつけて、釈明させようとしたら、反抗的な態度で、反省の色が窺えないという。
 役員室の内線電話で、課員を呼ぶ。普段は大人しい性格なのだが、どうしたんだろう。課員の主張は契約には瑕疵はないというが、役員は、信用情報の評価が良く無いのと金額からして、保全が甘いという。
 役員には、分かりましたと返事をしてから、私が相当の処置をしますからと、課員と共に一旦課に戻る。課員の判断は間違っていそうも無いが、出来れば保証人をとった方が無難ではある。
 信用情報の見方は間違っていない。裏読みをしても問題は無い、相当過去にネガ情報が一つだけあるが、その後かなりの期間が立っているのに、契約先の業績は上がっている。
 若さゆえ、其れを懇切丁寧に説明する間に、横槍を入れられるから、腹が立ったというだけだ。
 金額も大した事は無い。課員に、妻の保証は取れないかと聞く。妻など働いてもいないし、保証人としての価値は無いというから、誰でもいいんだ、つければ納得する筈だ、君だって妻に保証など面倒だが夫婦なら気にはするだろう、その程度で充分大義名分は通る。
 役員にはそういう事で納得をさせた。課員に、役員が言っている態度とは何だい?と聞くと、今朝、出がけに妻と口喧嘩をしたので、つい、正論だと言い張ってしまったという。
 謙介は笑いながら、まあ、あまり奥さんと喧嘩しないようにした方がいいんじゃないか、夫婦喧嘩は犬も食わないっていうだろと話すと、東という課員は突然、笑顔になり頭を下げる。
 



 デスクに座って一息入れたら、机の上の鍵が無い。間違えて捨てたのかなと、ぼけたかなと思った時、ゆかりが、御免なさい犯人は私ですと。
 あんなもの何か興味でもあったのと聞くと、余り可愛いから、此れお返しします、ちょっと手に取ってみたんです済みませんと。
 其れ、もうあの子供に会う事は無いから、かと言って警察に届けるようなものでも無いしあげるよ、若し、子供にまた会った時は新しく買ってやればいい。
 いいんですか、と、おかしな事に喜んでいる。ゆかりの年は自分と幾らも変わらないだろうが無邪気だなと思う。ついでにだろうが、何か話したい事があると一言。また何か問題でもと思ったが、そんな感じでも無さそうだ。
 健介の机の上には内線電話とカレンダー付のメモがあるだけだが、その後ちょっとしたことがあった。
 再び出掛けて戻って来たら、電話の下に折りたたんだ紙片が見える。一見、何でも無い紙屑の様に見えたからゴミ入れに捨てるつもりで広げた紙片に文字が。二行ほどの短い文章。其れで、今晩の孤独が解消されそうだ。




 待ち合わせは銀座の書店が多い。多いというのは過去にはいろんな事があったから。一言で言えば、懇意にしていた女性が急の病で亡くなったが、待ち合わせは此処だった。
 早めに行って立ち読みしていたら、待ちました?済みませんの声。振り返れば明るいゆかりの目が。
 内幸町の高層ホテルのレストランで夕食を食べる事にする。良く利用するが、社から近いし帰りも駅に近いから便利だ。
 落ち着いた広いFloorの臙脂の絨毯が足に心地良く感じられる。窓は大きな総ガラス張りだから、数寄屋橋から日比谷や東京タワーまで綺麗に拡がっている。
 何回か一緒に飲んでいるから、直接言えば良かったのにと言おうとしたが、流石に課員の目があるだろう。何と言っても社の花だから目立ち過ぎる。
 彼女の身の上は大体聞いているから、話は、東と役員の件から個人的な事に移っていく。互いに孤独な身の上だからと、そういう意味では話題に違和感を感じさせない。
 謙介がゆかりのグラスにワインを注ぎながら、「どう、何かいい事でもありそうかい?」と、ゆかりが軽く首を横に振り、「相変わらずです。緒方さんは、その後、何か素敵な事でもありました?美女と出会ったとか・・」というから、「目の前にいる人の事?フランス人ならもう少しましなjokeを付け足すだろうが・・」。
 ゆかりは、あら、と反応し、「以前、伺った女性の方様に、御不幸は残念でしたが、緒方さんって私はよく分かるんです。何故、男性からも好かれるかって、ああ、だから女性からも・・」謙介は、其れは買い被(かぶ)りじゃないかな、好きな女性は確かにいたけれど、他には・・でも・・」。
 ゆかりは、窓の外から視線を戻すと、健介の目に、「でも・・って?」健介が赤いワインを口に含むと、「人って、何時までも想い出を持っていても、何時かは別の感情が騒ぎ出す事もあるって事かな・・君の事だって、そう思うよ・・」
 ゆかりは、白い顔をやや紅潮させながら、「・・言っている意味が私の考えている通り正しければ、私は嬉しいのですが・・とても・・」
 二人の仲は、間違いなく同じ方向に向かって進んでいそうだ。
 其れから、待ち合わせが続く毎にいろいろな話がされ、二人の間には何等の壁も存在しなくなる。



 社で、異動の噂が出ている。かなり、大掛かりな異動らしいが、其の中にゆかりと謙介が含まれているか、だとしても対処していけるだろうと二人は思っている。
 異動は、役員が一部、系列会社から出向者と交代になり、課は其のまま存続するが、同じく出向社員が加わったから人数は増える。
 発表の後、社長からの訓示があり謙介の課の一層の活躍を期待するとの事だった。系列各社とも入れ替わりや増員などで、今後、これ以上に奮起をと促された。
 やはり、景気の後退に対応するシフト体勢が組まれた事になる。
 ゆかりは、課から外れ系列各社合同の社員で構成される業務部に属すことになった。
 場所は、近くだが別のテナントになる。



 新宿のホテルで二人は待ち合わせをした。異動で同じ建物とはいかないまでも、近くだから二人の関係は寧ろやりやすくなると思われる。
 只、毎日朝から晩まで顔を見るという事は出来なくなった。
 謙介が、ゆかりの慣れるまでが大変だと心配したが、ゆかりは、大丈夫、何が変わるという訳では無いですから、と、余裕がある言葉で謙介も安心をする。
 謙介がゆかりの目を見ながら、「そろそろ、住まいも考えようかと思っているんだ。今すぐでは無くてね・・異動に慣れるまで、一年位か後・・其れ迄は・・どうする・・?」ゆかりは微笑みながら、「あの鍵、覚えています?小さなおもちゃの鍵・・あれ取り敢えず返しておきます・・その代わり・・」。
 ゆかりはバッグから鍵を出す。小さなおもちゃの鍵。其れに、もう一つ鍵を出すと、謙介の手に乗せる。
 謙介が手の上の鍵を見る。
 ゆかりが微笑みながら一言。
「アパートの鍵貸します・・」
 




「青年は真面目がいい。夏目漱石」

「懐疑主義者もひとつの信念の上に、疑うことを疑はぬという信念の上に立つ者である。芥川龍之介」

「金は食っていけさえすればいい程度にとり、喜びを自分の仕事の中に求めるようにすべきだ。志賀直哉」



 「演歌 都はるみ 北の宿から」
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 「さよならをする為に8・1」
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 「白い恋人達からパリの空の下ARRANGE」
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 「ダンシングオールナイトARRANGE」
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「moon river」
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旧作品に演歌などの演奏

旧作品に演歌などの演奏

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-21

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著作権法内での利用のみを許可します。

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