ぷくぷか




「腰に重くぶら下がっている鍵束を空いた片方の手で握って、雨の日の気温に冷える、その感触に声を失くした。」


何故?
そう問われる受け身の弱さは、ひみつの用事をスケジュールに組み込むため、無防備に開いた紙の手帳に、ポタポタと滑り落ちてくる雫が好き勝手に滲んでいくのに似ていて、決して元には戻らず、乾いた後の、ふにゃけたままの格好になってその内容を更新する。



「気分と目線の低さからほんの少し、顎を上げれば、天気が悪いって言われる色の、理由は見える。」


向こうから転がって来たボールだったから、しっかりと受け止められるよう屈んで拾って、ずっと待っていた。いつもよりずっと近くなった路面の傷み具合を観察して、その間も、ずっと降り続けた雨が勢いよく跳ね返っては、傘の柄をしっかりと握る手の甲に当たるのを知っていて。
だって、これが大切な遊び道具だと知っているから。疎かにはできない、手に付いた泥だって後から綺麗に歌って流せる。これはとても物理的な話。だから心に深く刺さる。棘のように、針みたいに。



「底ばかりを眺めても。匂いを嗅いでも、何をしても。」


シャワーの音だけが鳴り響く、誰も帰って来ない一室。素足になった状態の左右の動きが水の中のバタ足の動きを上手に真似て、ニンゲンは浮力を得る。普段なら想像することもできない景色。その中で、叶えたかった夢や希望の全ては真下に見えて、手が届かなくなる。だから瞼を閉じたまま、聞こえて来る音に打たれる。至るところに穴が開くまで。誰だったかを、知れなくなるまで。
憧れた、人魚の姫を超えるように。泡となって消える前に。雨はまだまだ止まないから。そういう予報を聞き遂げて。


キュッと閉められる、蛇口。



「二本の足はこうして溺れる。人間らしい靴を履いて。」


既に。
しとしと、と続けて泣く者が一人もいなかった。その公園の遊歩道に入った頃には空はすっかりと晴れていて、窄めた傘の先の石突きを思い思いに動かしながら談笑を楽しむだけの余裕が、皆んなの身に降り注いでいたから。所々の、整備不十分な窪みに出来た水溜まりを何個も見つけられたけど、これもまた軽々と飛び越えられて、それを喜ぶように、木々を濡らす雨の痕跡が世界の明度を上げていた。何もかもを夕暮れに煌めかせるのに、これ以上の演出はきっとない。蝸牛の足もグンと伸びた。人にとっては、限りない幸せ。


けれど。
あの比類なき抵抗感を求めて。点々と滴る、この雨傘を肩に乗せる。



「謝って。帰る。」


粉々に割れなかった陶器のコップの、把手部分。手足だけを残して、居なくなったお人形。聴くだけしか出来ない携帯端末に、愛以外を知らないという本。沈黙を貫く床。雷鳴に喘ぐ鳥。
冷蔵庫の扉が蓋のように開いて、冷たいものだけが時間をかけて生温くなっていく。切れ切れになったニュースを届けるラジオの顔が、どんどんと青白くなっている。何かを焦がしたフライパンが真っ黒な影を生み出して、踊っているし、歌っている。


生み落とされた時の勢いが減殺されて、今は緩やかに沈んでいる。一番悲しい時には必ず一人で、涙声も、誰にも知られない一生が続く。だから、喜びのお腹を直には触れない。浴びるように知るしか、許されていない。
なら、
だから。



「言えないことと交換して、忘れたい物を返して貰う。」


ソチラが見送ると分かっているから、玄関の扉は硬く閉められて、コチラからは二度と動かない。こうして私が救う告白は、だから階段のあちこちに綺麗な花を何本も咲かせて死んでいく。恵みの雨に打たれている間は、だから幸せなんだ。そうやって止め鋲を外す傘の色味はすっかり色褪せていて、独白する気分を盛り上げる。濡れてしまってもいっか、とかけれど風邪は引きたくないからなぁとか、人様の都合に合わせない言葉が広げ過ぎた羽を根本から折って、積極的に逃げて行く。そんなお天気雨の中。率先して。


恋しく詩う。


誰かさんって、詩う。

ぷくぷか

ぷくぷか

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-21

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