神様の〇〇〇

 僕は世界一弱くてみじめな小学生だ。
 舌でなぞると口の中が切れて、唇の左側が腫れてめくれている。こうやって部屋で体育座りしていると何百年もじっとして、何百回も飛行機が頭上を通過していく音を聞いてきた気がした。カンカンと近所の踏切を、糞尿やそれと同じくらい不潔な憎悪と悪口を詰め込んだ何百個もの肉袋でぎっしりの電車が通過するらしい。座って一点を見つめていると部屋に夕陽が差して、オレンジ色に炙られた畳と、ぬるい冷房が吐き出すカビのにおいが鼻の奥の脳味噌まで突き抜けた。外の河川敷の土手から見たら、このアパートの部屋は電子レンジの中みたいに見えるだろうか。半袖半ズボンの剥き出した手足は、にじんだ汗でまんべんなく油を塗ったように光っている。僕は悪意や怒りの電磁波を体全体に浴びて、逃げ出すこともできず、内臓が沸騰して穴という穴から勢い良く飛び出しそうだった。
 中山は死ね。渡辺は死ね。田中も死ね。山口も死ね。泉も死ね。鈴木も、斎藤も、谷も、クラスメイトは全員死ね。教師も全員死ね。学校も全部死ね。殺す殺す殺す。血反吐を吐いて目一杯苦しんで、みんな仲良く手を繋いで地獄に堕ちろ。
 オトーはまだ帰っていなかったし、今日も帰ってくるか分からなかった。オカーが死ぬ前からそうだった。深夜にドアをこじ開けると全身油で汚れた作業着姿で、オカーが止めるのを壁に叩きつけて台所の流しでアルコール臭い小便をした。警察から電話がきたと思ったら、喧嘩で相手の前歯をへし折ったとのことだった。オカーが死んで一週間も経たないのに、学校から帰ると家で知らない女と犬猫みたいに交尾していた。オカーは癌になって、月二十万の治療費を払えなかった。オカーが骨になって壺へ入ると、糞を垂れたり小便を流すように、犬猫みたいにオトーはなにもかもすぐ忘れたみたいだった。学校の図書館で借りた東野圭吾を放り出すと、眠っていた虫けらが身じろぎするように隅に溜まったホコリやら陰毛が散らばった。何百人もの中山や渡辺や田中の頭を金属バットで叩き割った。僕がやられた何百倍返しだと思ったけど、頭の中の人間の体は手ごたえが無くて、何度も何度もめまいがして目の端に星が散るまで叩きつけた。
 座卓や本棚、テレビ台、服が突っ込んである金属製のラック、壁際、窓際、台所、2ドアの冷蔵庫の上なんかには埃の浮いた大小さまざまな薄汚れた物が置いてある。ビールの空き缶、栄養ドリンクの空き瓶、空のカップ麺の容器、おにぎりや菓子パンの包装フィルム、そしてそれらのゴミがパンパンに詰め込まれた無数の白いスーパーのビニール袋、何かを入れた後何かを入れるために放置された紙コップ、耳かき、爪切り、三色ボールペン、黄色いカッターナイフ、軍手、アラビックヤマトののり、スマホやタブレットの充電器、レシート、楽天やAmazonの納品書、送り状が破れてへばりついたダンボール、コンビニで貰った未使用の割り箸、未使用のオシボリ、鼻をかんだ後さらにまだ2〜3回は使おうと思って四つ折りにされたティッシュペーパー、ゴミ箱からこぼれた丸まったティッシュペーパー、先の少し黄色い綿棒、弁当や宅配ピザのチラシ、電気や水道の請求書、汚くて読めない文字や数字が書かれたノートの切れ端、ビー玉、ガチャガチャで出た小さな車のオモチャ、ライター。
 床に落ちていなければ何を置いても良いんだと言わんばかりに、物が少しでも乗せられそうな机や部屋の出っ張り空きスペースの上はおびただしいほど価値の無い物であふれていた。床は床で漫画雑誌や日本酒の2リットルパックや脱ぎ捨てられたジャージやらがそのまま放り出してあった。その無数の干からびた人生の残りカスの中に、魔法みたいにもの凄い、光る電子タバコが埋もれていた。
 オトーを見て、その電子タバコの使い方は分かっていた。真ん中のボタンを素早く何回か押すと、余熱が始まってボタン自身が七色の光を放ち、吸い口から美味しそうな煙が漏れる。一瞬森や林、草むらの胸をつまらせるような緑色の匂いがした。電子タバコ本体に取り付ける交換用の小さなガラスのボトルに蜂蜜色のトロトロした液体が入っていて、それは普通のタバコとは違っていた。機嫌が悪い時に頭を叩かれるくらいで、オトーは子供が部屋にある酒やタバコをいじるのを見ていてもまるで無関心に見えた。普通の酒やタバコは気分が上がって目一杯になって、頭が狂うまでにたくさん飲んだり吸ったりしなきゃいけないけど、その電子タバコは2、3口吸うだけで8時間くらい頭がぶっ飛んだ。一度だけオトーの方のおじいちゃんとおばあちゃんに会った時にもオトーは吸っていて、怒鳴り声で追い返された。オトーはその電子タバコをなんとかエクスプレスとか、神様のマンコだと言っていた。
 今ではそこまでの飛びは無いけど、神様のマンコを初めて吸った時は物凄くぶっ飛んで、自分がバラバラになるかと思った。たとえば家や学校で何かを考えている時や何かを思い出している時に空想の映像が頭に浮かんでも、すぐに思い直して現実に戻り、歩いたり喋ったり鉛筆を動かしたり自転車に乗ったりして、空想にとらわれる前に現実でやっていた動作を続けることが出来る。だけど神様のマンコを吸うと空想と現実が溶け合って、どちらが妄想でどちらが本当のことなのか分からなくなり、体が上手く動かせなくなった。現実にある光景を見つめていても、すぐに視界の奥から空想が染み込んで、風景が曲がって見えたり、光がまぶしく見えたり、風景自体が何重にも重なったりして、そこから瞬きをする度に妄想や記憶の世界へ取り込まれてしまい、しまいには目を閉じてしまう、視覚だけじゃなく言葉や感情もバラバラに配列されて意味不明なものとなり、だんだん思考や感覚も遠くで打ち上がる花火みたいに小さくなっていって、意識の中がグチャグチャになってしまう。真っ直ぐ歩けずに座り込み、涎を垂らしながら一生懸命目を開いていた。それは目を閉じると死ぬと思ったからだけど、抵抗すれば抵抗するほど体が痙攣して、体が力んで、歯を食いしばって、どんどんまぶたが重くなって、ついには目をつむってしまった、殺虫剤をぶっかけられた虫みたいに手足を縮こまらせて。何かを考えようとしても言葉がこんがらがって丸まって、両手ですくった砂糖みたいに隙間からこぼれ落ちていく。僕は苦しくて悲しかったけど、このまま死ぬのも良いなと思って、まあ死ぬしかないのかなと諦めて、何も考えられなくなって、死んで、ずっと目を閉じていた。目を閉じているのに、目が開いていた。薄暗い僕の目の前にはミルクの海が広がっていて、というかミルクの海の無限の屹立する壁が広がっていて、その真ん中に光る円がある。円の中は膨らんでいるのか、凹んでいるのかは分からなかった。円は星みたいに瞬いていて、その度に波紋がミルクの海に広がる。僕は死んだはずなのにその円をずっと見つめていた。苦しかったはずなのに、死んだとたんに、死を受け入れた時に、ただただ穏やかな気持ちになって、ずっとその円を見つめていた。何分か、何時間か、そうやっていたのか分からないけど、いつの間にか少しずつ体が動かせるようになって、すこしずつ言葉が戻ってきて、だから僕は神様のマンコを吸って、一回死んで、生き返ったのだった。涙が出ていた。
 だから僕は泥まみれの教科書みたいにぐちゃぐちゃの心を目掛けて、また神様のマンコを思い切り吸い込んだ。10秒くらい肺にためると、煙が喉をキックして激しく咳き込む。5回も吸うと視界のネジが緩んで、世界が煙で覆われた。一回死ななあかん、一回死ななあかん、いきなり左耳からオトーに向かって言うおじいちゃんとおばあちゃんの声がして、そうか、またもう一回死ななきゃいけないな、と思った。僕はアシックスをつっかけて外へ飛び出すと、アパートの正面にある、道路を挟んだ河川敷の土手を目指した。



 赤トンボの群れ。土手の下の自販機で買った100円サイダーを飲むと、炭酸の中に飛び込んだみたいに風景が青く泡立つ。全面に雲を薄く刷毛で伸ばしたような空は水色と白とオレンジが混ざって、オカーが死んだ時に病院の屋上で見たのと同じ色をしていた。風が吹いていて、汗が冷えて、アパートの部屋よりも過ごしやすかった。河川敷は広い芝生になっていて、大人も子供もサッカーをしたり、凧を揚げたり、川辺で釣りをしたりして遊んでいる。大きな川の海と交わるあたりに夕陽が浮かんで、その下の川面は線香花火みたいに光が爆ぜている(あの線香花火はジンワリ心地良く重く沈んだ僕の脳みそなのかもしれない)。ははは、ジンワリ心地良いのはサイダーが甘くて美味いからだろう。風が気持ち良くて目に映る輝くものが綺麗でそんなものにくすぐられてるみたいで、かなり笑えた。オカーもこの川沿いの家で生まれた。オトーとオカーはこの川の近くの職場で出会った。神様のマンコを吸うと、しばらく鼻水が止まらないから匂いは分からなかった。河川敷の草の匂いか、遠くからでも漂ってくる海の匂いか。僕は土手の上の舗装された歩道を綱渡りのように揺らめきながら、空を飛んでいるような不思議にすっきりした気持ちでよちよち歩いていった。「チルする」「チルしてる」いないはずのオトーの声が聞こえる。
 住宅街の方を歩くとシラフの人間が多いから怖くて冷汗が出てくるけど(当たり前だ)、この川の土手の道を歩くのはいつも気分が良かった。幻覚なんだろうか、河川敷へ降りる石段や斜面の芝生に座る人たちがぽつぽつ居て、みんな何かを吸っているみたいに見えた。耳を舐めあったりしているゲイカップルらしき男たちはアルミの空き缶の真ん中を凹ませて、そこに部屋か車の鍵なのか尖った物で小さな穴をいくつか開けて、その上に乾燥した葉っぱを乗せてライターで炙りながら、飲み口から煙を吸っていた。階段に座ったおばあちゃんは盆栽の形をした、凝ったガラスの置物みたいなものを持っていて、ガラスの枝の先の小さい受け皿をガスバーナーで炙った後、その受け皿に小さじでバターのようなものを落とし込むと、別のガラスの枝から息を吸い込んで、ごぼごぼ泡が浮かぶ水の入ったガラスの容器は真っ白な煙で満たされた。反対の車道にも脇に車が停められていて、中で数人が紙で巻いた葉っぱを砕いたものを回して吸い始めて、車の中が牛乳で一杯になったみたいに煙で外から何も見えなくなった。老若男女、みんな咳き込んでいた。
 サイダーに口をつけると僕は青く泡立つ、風が吹くと僕は白い風になる、僕は夕陽と線香花火になって川と海に沈みながら爆ぜて、鼻が通ると草の匂いに緑色の芝生に、海の匂いに灰色の魚になって、川や海や草や夕陽なんかの全ての輝きに僕は分裂して笑う。水色と白とオレンジ、空を見ると雲も笑っていた。すべてが糸電話とか、波紋とか、ドミノ倒しみたいにつながっていて、世界の何かが笑うと僕もつられて笑っていた。世界全体が小さく縮んだり膨らんだりして、呼吸をしていた、人や植物だけじゃなくコンクリートの家や道路も呼吸していた。オカーが生まれ、オトーとオカーが出会った大きな川だった。僕もこの川で生まれて、この川で死ぬのかもしれなかった。川から夕陽の光の色があふれ出して河川敷の全てを染めていった。赤トンボの群れが舞い上がる。
 芝生が炎のように揺らめいて、あたり一面が緑色に燃えているみたいだった。その上に花柄の敷物を広げて、この川でオカーを産んだオカーのオカー、オカーの方の死んだはずのおばあちゃんが、生きているような平気な顔をして座っていた。
「え? おばあちゃんじゃん」
「マサルよお、久しぶりだねえ」
「は? マジ?」
 おばあちゃんは「高倉健」という文字と顔写真がプリントされた白いTシャツを着て、ゼブラ柄のもんぺを履いている。隣に座ると線香の紫色の匂いでくらくらしたけど、おばあちゃんは髪を薄い紫色に染めていたのだ、なんで? たしかにおばあちゃんの髪は紫色だったな、煙、急にだいぶ頭が朦朧としてきて、サイダーを飲む時だけ一瞬意識を元に戻して集中することができるので、少しだけ飲んだ。大丈夫。煙が風に揺らめいただけだ、光が気持ち良い、滝の水が落ちるような光の轟音が聞こえる、台風みたいに強い光の音、線香花火、火花。あわててもっとサイダーを飲んだ、だいぶ混乱してる。僕は青く泡立ち、風が吹くと僕は白い風になる。
「マサルはあれか?」
「なに」
「ほら、あれ」
「え?」
「頭の中に、あれよお」
「なにが」
「ああ、忘れた」
 おばあちゃんも何かキメてるのか、単にボケてるのか分からなかった。おばあちゃんはしわくちゃの顔をしている。たいていどんな老人もしわくちゃな顔をしているけど、見分けがつくのはなぜだろう。虫や動物はみんな同じような顔をしていて、あまり見分けがつかない。おばあちゃんは僕と同じ人間だからなのかもしれない。僕のおばあちゃんは口をもぐもぐさせて、少しだけ猿に似ている気がする。
 川面は光の粒をバラまいたみたいに輝いて、それを見る僕は吸い込まれて大きな川になる。虫、小さな動物、人、あと幽霊、川には生まれてくる者と死んでいく者がいて、駅の改札みたいに、あの世とこの世の出入り口を忙しなく出たり入ったりしている。
「マサルよ、この川の近くには昔、いっぱい金持ちが住んでてよお、大きな家が並んでてよお。でもここら辺に工場を作るって、工場ってのはだいぶ汚れた水やゴミを出すからよお。金持ちたちはみんな、山の方に引っ越した。今でも山には大きい金持ちの家があるだろうが、あいつらみんな川を出て行った金持ちで、ワシらみたいな貧乏人は工場や土方で働くために、この川へやって来たんだ」
 生きてる頃みたいに、またおばあちゃんの昔話が始まった。僕はおばあちゃんから目をそらし、川めがけて大きな唾の塊を飛ばす。おばあちゃんの話は死ぬほど長い割に、発狂しそうなほどオチがつまらなかった。しかも、同じ話を無限に繰り返す。しかし老人にとって別に面白いかどうかは関係無くて、ずっとしゃべり続けることでほっこりしたいだけなのかもしれない。そういうのに付き合ってあげるのが孫の優しさなのかもしれないけど、思わず舌を尖らして白目をむいてしまう。でもまあ、そういうのも全部懐かしくて、目じりを指でぬぐった。この川でおばあちゃんの昔話を聞く時、いつも空は水色と白とオレンジが混ざった淡くて悲しい優しい色をしている。
「おばあちゃんって、今何してんの?」
 石段のコンクリートの表面のザラザラから少し虹色がかった半透明の幾何学模様が花火みたいに浮かんでは形を変えてゆく、そしてそれがコンクリート自体に燃え移った。冷たい炎だ。石の灰色の部分は灰色の冷たい炎、白い部分は白の冷たい炎を出して燃えるように揺らめいて見えた。それは炎じゃなくて石の波なのかもしれない。人間の脳はちょっとした凹凸からでも何かのパターンを勝手に見つけようとするのかもしれない。
「へえ?」
「おばあちゃんって前死んでたじゃん。今天国に住んでんの?」
「まあねえ。駅も近いし買い物も便利で、天国はわりと都会よ」
「楽しい?」
「天国はなあ、年金が月30万出るからよお」
「ふうん」
「バイトもしてる。チラシ配りでな、月20万稼いでるから、合計で月50万。駐車場も貸してるから、それ合わせたらもっとよ。今のワシ、生きてる時には考えられないくらい金持ちだわ。海外旅行もいっぱい行ってるし、楽しいよお」
 言いながらおばあちゃんは手のひらに収まるくらいのガラスのパイプを口にくわえて、乾燥した草を詰めて火を点ける。僕は小さい頃から目をつぶると瞼の裏に虹みたいにカラフルな幾何学模様が見えるけど、ガラスのパイプはちょうどそんな感じの綺麗な色をしていた。
「てかさ、なんかいろいろヤバいんだけど。僕って死んじゃったの?」
「まだ死んでないよ」
「ふうん」
「ほらマサル、危ない虫だよ」
 子供の声、車の音、飛行機、木々のざわめき、そういったものが僕のまわりで渦巻いていて、排水溝に吸い込まれる感じがした。おばあちゃんの目から虹色の半透明の大きな目が二つ浮かび上がって、おばあちゃんの頭から二本の角、というよりもスタンドライトが生えたみたいにカニや宇宙人の目みたいになっている。おばあちゃんの涙袋も目に見えてきて、合計六個も目があるように見えてきた。おばあちゃんは虹色の光をまとい変になって、顔や半袖からのぞく肌にも複雑なタトゥーが浮かんでは線が生きているみたいに模様が変化してゆく。体が虹色の液体になって、それが体中で渦を作っている感じ。体を動かしもしないのに体自体も伸びたり縮んだりして、かなりキモかった。汗が止まらない。汗を止めないと、みんなに見られてる気がする、みんなこっちを見てる、こんなに汗をかいてたら変に思われる、変に思われる! やばいやばいやばい、いま自分はどんな顔をしてるだろう、ラリってるか、普通にしないと変に思われる通報される、変に思われる通報される、変に思われる警察が来る逮捕される!
 分かってるこれは強い妄想だ、みんな自分のことなんか見てない、頭では分かっていても恐怖心は止まらない。落ち着くために目を閉じたけど余計悪かった。まぶたの裏には蝿みたいなキモイ虫が無限にいて、そいつらが集合して線になって氷の結晶みたいな無数の幾何学模様を形作っている。死体の目玉。そしてその模様がものすごい勢いで回転して僕の中を通過する。模様は蝿から様々なものに変化していく。油でぬめりをおびた肉の塊のような、内臓のような、心臓のような、昆虫のような、腸のような肉が幾何学模様を形作って、ぐるぐる回転して僕はその中へ落ちていく。グロテスクな肉の花。内臓の形をした心の中に虫みたいな棘がばらばら入り込んで、むちゃくちゃに突き刺されてるみたいに気持ち悪かった。気持ち悪い気持ち悪い。吐いた方が良いかもしれない。空を覆うくらい巨大な悪い虫が落ちてくる。
「おーい、大丈夫? わたしよ、わ・た・し。分かる?」
 声がした瞬間、体をきりきり縛る鎖が千切れた。目を開くと水色と白とオレンジの空が笑っている。顔面を手のひらでしごく。隣に座っていたおばあちゃんは、死んだはずの同級生、三年生の時に引っ越していった加護めぐみになっていた。
「ヤバかったよ。マサルくん、こんなんなってたよ」
 加護は笑いながら白目をむいて、手足を突っ張らせてぶるぶる震える真似をした。最後に見た時と同じ、白いポロシャツに紺のスカートを履いていた。赤トンボの群れが舞い上がった。
 引っ越した先でもう死んだはずの、僕のことが好きな女の子だった。



 お前なんか嫌いだよ! ブス
 三年前に僕と加護は同じクラスの三年生で、思わず僕は加護に悪口を言ってしまったのだった。加護はブスではなかった。だけど飛び抜けて可愛い訳でもなかった。顔がカエルに似ていて、でも髪の毛が硬くて縮れていた。嫌いじゃないけど、特に好きでもなかった。昼休憩や放課後に校庭や公園でみんなで遊ぶとき、加護はいたりいなかったりした。同じクラスの奴から、加護が僕のことを好きだと言われて、僕は恥ずかしくなったのだった。別にみんなにからかわれた訳でもないのに、すぐに僕は恥ずかしくなって加護にブスと言ったのだった。僕のことが好きらしい加護は物凄くびっくりした顔をして、何よ! と言い返した。
 それからすぐ仲直りというか、別に普通に喋ってたけど、僕は謝らなかったし、加護も特に何も言わなかった。あとで加護の友達からも、本当に加護が僕のことが好きで、だから謝れと言われたけど、謝らなかった。なんか恥ずかしくてそのこと自体に触れたくなかった。加護はそれからもいつも通りに笑ってた。それから転校して、二年後に病気で死んだ。



「よ、よお。加護元気?」
「久しぶりじゃん。マサルくんは背が伸びたね」
 そして僕は青く泡立つのだった。僕は白い風になる。すべてがパターンとなって繰り返した。ひとつの模様から始まり、サイダーの青い泡立ち、白い風、それらは幾何学模様が描かれた織物が最後まで模様のパターンを繰り返すように世界の隅々に波紋を広げた。それは僕の後悔だった、僕の後悔は花のパターンにまぎれて散り散りになった。線香花火の夕陽が川と海に沈みながら爆ぜ、空は水色と白とオレンジに波打った。すべて花柄みたいに全てを覆いつくして一気に生まれては消え、そして生まれては死んでいった。何が? 世界が。そして世界は今も生まれながらにして死んでいっている。花柄の織物は風にひらめいた。すべてが青い泡立ちであり、白い風であり、緑の河川敷で大きな川の渦で、花火とそして水色と白とオレンジ色の空だった。おばあちゃん。加護めぐみ。赤トンボの群れが舞い上がった。世界はリアリティの糸で作られた織物だった。そしてリアリティの炎に燃え上がっては一瞬で閃き消えていった。織物はひらめく。そして残光がまた炎を散らし、リアリティは燃え上がっては消えていくのであった。すべてがカラフルで、虹色がかっていた。幽霊は見間違いじゃなくて、それはリアリティの別の呼び方で、言葉で伝えようとしても錯覚とか幻覚と片付けられてしまうほど儚いものだった。なんだか良く分からなかった。加護は味方なのか? すべてのパターンが一部分であり、一部分がすべてのパターンを表わしていた。すべてがすべての分身で、花の中に花があり、僕というパターンを含めた、すべてが一つの織物で花の模様をしていた。花模様の渦に飲み込まれて、僕はもう自分が目を開いているのか閉じているのかも分からなかった。すべて赤トンボになって舞い上がった。
「加護は怒ってるの? だからまた出てきたのか?」
「なに?」
「僕が加護の葬式に行かなかったこと」



 加護と仲が良いクラスメイトの女子は何人か葬式に行ったみたいだけど、僕は行くことができなかった。担任教師から知らされたけど、遠い県外までどうやって行けば良いか分からなかったし、そこに僕が行って良いものかも分からなかったのだ。別に加護のことは好きではないけど嫌いでもなく、だからと言ってわざわざ転校先まで行って、葬式に出てあげる感じの間柄じゃない。ものすごく気になりつつも、加護の葬式に行くことが出来なかった。僕のことが好きだって友達から聞いただけだし、本人から告白された訳じゃない。そもそも加護とはグループが違うというか、女子は僕のグループにはいなかった。あの時からもうすでに病気だったんだろうか、加護がポーチに何かの錠剤をたくさん入れている。いや、それは筆箱で筆記用具を入れているだけかもしれない。だけどやっぱり加護は僕のことを好きだったんだと思う。加護と仲が良かった女子から、加護のために葬式に行ってくれと言われた。僕は初めて人から好きになってもらったのかもしれない。だけど僕は行かなかった。
 僕は怖かった。受け入れるにしろ断るにしろ、他人の真剣な気持ちを受け止める覚悟が無かった。だからブスと言われてしまった加護の気持ちを考えるのも怖かったし、ちゃんと加護に向き合って応えてあげることもできなかった。僕は加護の、僕にブスと言われた時の真剣な表情を思い出す。僕はふざけたり笑ってはしゃげれば良かったのに、加護は真剣な顔をしていた。加護に何を言っても怒られそうな気がした。だから僕は最後まで、彼女と真面目な話をすることができなかった。
 加護とは帰り道が同じで、たまに一緒に帰ったこともあった。その時も川が流れて、空は水色と白とオレンジだった。



「葬式に行かなくてごめんな」
「ウンウン」
「ずっと誰かに謝りたかった」
「あははは」
「だけどやっと、他でもない本人に謝れたよ。加護にずっと謝りたかったんだ」
 涙が出てきた。僕はふだんからそんなに感動家じゃない。良い映画を観たくらいでは、ものすごく感動したとしても涙が一粒二粒出るくらいだ。いくら悔しくても泣いたりなんかしない。だけど今は、大雨の日の川ぐらいの勢いで涙が出た。涙が溢れては両頬を伝って、顎の下から流れ落ちる。初めての経験で驚いて、そしてこんなに涙を流していることがなんだかおかしく、笑えてきた。僕は爆笑しながら涙を流していた。
「やっと会えた。加護、ごめんな。ごめんな。ごめんな。やっと謝れた。やっと。やっと」
「また会えたね」
「ごめん、また会えた。ずっと後悔してたんだ。やっと。やっと。やっと」
「そうだね」
「会えた。また会えたんだ! やったぞ、やったぞ! 僕はやったぞ! はーっはっはっは、また会えた! 加護、加護、加護! ヒャーハッハッハッハッハ! 幽霊だ幽霊だ! ヒヒヒヒヒヒヒ、ヒャッヒャッ、ギャーッハッハッハッハッハ!!」止まらない笑いと涙。
「もうマサルくん、ぶっ飛びすぎ! 糖分とか摂った方が良いかも」
「ヒッ、ヒッ、ヒッ、ヒッ、ヒッ」
「ほらマサルちゃん、空を見て」
 急に加護に強く抱き締められた。
 びっくりして見上げると柔軟剤の匂いがして、オカーだった。
 オカー。オカー。お母さん。お母さん。オカー。
 死んだはずのお母さん。長い髪をひっつめて、元気だった頃の、ふっくらした白い頬をしていた。
「ほらマサルちゃん、空が綺麗だねえ」
 アーモンドの形をした丸い目に、水色と白とオレンジの空が映った。空は気を抜けば吸い込まれそうなほど広く大きくて、オカーが死んだ時と同じ色をしていた。空は僕らが生まれては死んでいく広く大きな川に溶けて、河川敷に色が、光が溢れ出した。すべてが青い泡立ちであり、白い風であり、緑の河川敷で大きな川の渦で、花火とそして水色と白とオレンジ色の空だった。赤トンボの群れが飛び上がった。
 すべてが一つになった。
 そうだったんだ。
 すべてあの空でつながっている。
 死んだおばあちゃんも。死んだ加護も。死んだオカーも。
 もう昔みたいに話をしたりできないけど、寂しくないんだ。
 会いたくなったら、あの空を見上げれば良いんだ。
 そうすれば、あの時のおばあちゃんに、あの時の加護に、あの時のオカーにまた会える。思い出とかそういうものじゃなくて、いつでも空を見上げればまた会えるんだ。
 だってあの日、あの時と、あの空はひとつになって今へと続いて、つながっているんだ。空と川がつながっているみたいに、ひとつの織物になって。
 だから寂しくないんだ。僕もあの空に、川に帰っていくんだ。その時まで頑張るんだ。
 僕はまだ頑張れる。僕はまだ生きてる。僕はまだ空を見上げることができる。



 気が付くと日は沈んで、紫色の夜になっていた。夜の壁紙には川面に映る街の光や工場と鉄塔の赤いランプ、車のライトの輝きが散らばる。芝生に寝転がった頭の上から、ランナーの軽快なスニーカーの足音や、自転車のブレーキ音が聴こえてきた。夜の空気がひんやりした絵具のように広がっていった。小さくまばらな星々が、蛇口から落ちる水滴みたいに瞬く。おばあちゃんも、加護も、オカーも、みんないなくなっていた。
 オトーはもう家に帰ってるだろうか? それとも今日も帰らないんだろうか。すっかり神様のマンコの効き目は切れていた。ペットボトルに口をつけたけど、サイダーは一滴も残っていなかった。
 明日も学校に行かなくちゃいけない。だけど僕は頑張れるだろう。辛くなったらまた空を見上げれば良い。みんなちっぽけな悩みに思えた。別に、こうやってまだ自分が生きていることに比べれば、まだ僕があんなに笑ったり泣いたりできることに比べれば、ぜんぶちっぽけなことに思えた。大丈夫、まだ頑張れる。みんなを見返してやろうっていう怒りや憎しみの気持ちもあるけど、それよりも大事なものがあるように思えた。世界一弱くてみじめでも良いじゃん、まずはそこから始めよう。勉強とか、運動とか、いろいろ頑張るんだ。頑張って何か、確かなものを掴むんだ。
 僕はもう神様のマンコを吸わないだろう、少なくともしばらくの間は。悪ふざけや遊びでまた吸ったら、あの空と一つになった世界が全部嘘になってしまうんじゃないかと思って怖かった。怖くてもう一生吸わないかもしれない。あれはただの夢や幻覚じゃなかった、本物より本物だった。僕は一生忘れないだろう。忘れるな。忘れるな。またあの空を見上げろ。
 まあでもまた、いつか僕が一人前の立派な大人になったら、自分のお金で買った神様のマンコを吸おうかな、とも思う。

神様の〇〇〇

神様の〇〇〇

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-05-21

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