黒狼の話

 全てへ納得する最善の方法は、今もまだ白昼夢か何かの中であると思い込むことである。
 もぬけの殻になった部屋を見ても、私は驚かなかった。予想していたことがとうとう起きたのだ、それだけである。その内李緒は出て行くだろうなと分かっていた。端から噛み合っていないことなど明白であった。出会いからして恋愛とは呼べない代物であった。バーで飲んでいた所へ、恋人と喧嘩した李緒が半ばヤケクソ、酩酊も甚だしい状態で声を掛けてきたのである。そしてそのまま私の借りているアパートの部屋へ住み着いてしまうような性分であったから、彼女の方で気が変わればヒョイ、といなくなってしまうことは容易に察せた。そろそろだろうなという予感もあった。小説を書いて食っているくせに筆不精な私の性情のせいで、最近は締切に追われて李緒へ構う時間を取れていなかった。そのことで諍いも増えていたので、感情と筋肉の直結したような性質の李緒が出て行くのも時間の問題であった。
 私はそのまま寝る気にもなれなくて、外へ出た。夜風に当たりながら感傷を気取ってみたくなったのだ。そういう気分になれるくらいには生活の内に李緒がいたのだなあ、とニヒルな笑みを浮かべながら鍵を掛けた。カチャン、という音が緊張した夜の帳をよく揺らした。
 私が部屋を借りているアパートは繁華街から少し離れた場所にある。深夜になると、ポツポツと街灯の光が朧に路面を照らすだけの閑静な街並みになる。夜の喧騒と地続きで繋がっているのが疑わしくなるくらいに対照的である。
 極太の刷毛で一筆に塗り上げたような濃紺の夜空に、左側を少し削がれた月が淀んだ灰の叢雲の陰から見え隠れしていた。あと数日で満月であろう。私は静かで重い溜息を夜風に乗せた。
「ウォーン」
 寂寞の中へ、静謐な威厳と神聖な格調を持った声が、物悲しく、しかし鋭利に澄み渡った。私は声の方へ振り向いた。
 カカッ、カカッ、とアスファルトを弾きながら、影が駆けて来る。かなり離れているというのに、はっきりと輪郭を確認できる。夜闇に馴染まぬ黒であった。影は街灯の下へ差し掛かり、ようやくその実体を現した。
 私へ馳突せんばかりの勢いで街を疾駆するのは黒い狼であった。
 何故こんな場所に、そもそも日本に狼などいたか、そんな疑問を差し置いて、私は心を奪われ、刮目した。自然を生き抜く逞しさそのままに人間の暮らす地を蹂躙する雄姿は、自然、街、そういった区分は我々の都合であり、彼にとっては眼前に広がる世界が遍く自らの馳せる地であるという想念を私に齎した。黒狼のあるがままの美しさは、私から逃げるという選択肢を全く取り払い、剰え死を覚悟させた。
 しかし、黒狼は私の頭上を軽く跳び越えた。私は仰ぎつつ振り返った。月光の前で黒狼は再び影に戻った。そのまま叢雲へ分け入っても突飛でない神々しさであった。黒狼の着地するまでおそらく数秒、だが私にはもっと長かった。私の数メートル先へ下り立った黒狼は、顔だけをこちらへ向けて私を一瞥し、
「ガフ」
 そう唸って顎先で促すように首を振ったかと思うと、私の反応を待たずして走り出した。私は何も分からぬまま追い掛けた。
 黒毛の案内人に誘われた先は、森であった。森へ入ると黒狼はゆっくりとした歩調になった。私への配慮だろうか。私は黒々とした木々の間を通りながら、こんな所に森なんてあったかしらと不安になったが、なまじ森へ足を踏み入れてしまったがために、黒狼の案内のないことには進むことも戻ることもできないのである。
 暫く進むと、途端に視界が開けた。その先へ広がる光景に、私は目を疑った。
 開けた空間の中央に湖があった。夜空の色を深く抱き込んで、水面に月を浮かべている。この空間だけが、不思議に薄ら青く光っているように明るいのである。試しに今まで進んで来た道を振り返ると、やはり不気味な夜の森そのものであった。黒狼の体毛もここでは藍と、光の当たる部分は白く見えた。
 黒狼はほとりまで行って頭を下げ、ぴちゃぴちゃと水を飲んだ。私は近くの木の根元へ腰を下ろした。感傷的になるにはうってつけの情景である。
 気付くと黒狼は私の隣で伏せっていた。ひどく無防備であった。私はおそるおそる手を伸ばし、黒狼の背へ触れた。存外ひんやりとしていた。黒狼はその緑の双眸で私を見たが、すぐに目線を戻して顎を前脚に乗せた。私はそのまま黒狼を撫でた。
「ガフ」
 黒狼は心地良さそうな声を上げた。
 目が覚めると玄関であった。服は昨晩着ていたものである。私は立ち上がって扉を確認した。鍵は掛かっている。次に下を見た。李緒の靴はない。
 夢か。
 李緒のいなくなっていることに気付いた私は、玄関へ座り込んで茫然としている内に眠ってしまったのだろう。あるいは、散歩へ行った時ににどこかで酒を飲んで酔っ払ったまま玄関へ倒れたか。否、だとすれば鍵も掛けられなかっただろうし、二日酔いの症状のある筈である。きっと散歩へも行かなかったのだ。
 そんな状態にしては、随分と良い夢を見たものだ。そう思いながら体を伸ばすと、バキバキと背中が鳴った。固い床で寝たからか、脚まで痛んでいた。
 シャワーを浴び、髪を乾かして私はキッチンへ向かった。締切が近いので、多少疲れているからと休んではいられない。そして冷蔵庫の前へ行くと──
「ガフ」
 黒狼が私を出迎えた。
 その日から、私と黒狼の同居が始まった。
 黒狼は夜行性であった。日中は部屋の隅でずっと寝ているため、仕事の邪魔にはならない。寧ろ、私の立てた物音で起こしてしまった時などは、却って私が疎ましそうな目で見られるくらいである。
 ただ、夜になると黒狼は活発になる。扉をガリガリやって外へ出ようとするのだ。開けてやると凄まじい速さで駆け出して、あの森の中にある湖へ行き、水を飲む。この黒狼、あの湖の水以外のものを口にしないのである。また、排泄もしない。どうやって生命活動を維持しているのかまるで不明である。
 そう思っていた矢先、それら以上に奇異な特徴のあることを発見した。黒狼は、私以外の者に認識されないのであった。黒狼を外へ出してやった丁度その時、大家と出くわしたことがある。このアパートはペットを飼ってはいけないので、私はまずいと思った。しかし、大家は「散歩ですか」と何も見ていないような様子で声を掛けてきた。そこから数分、大家と私は少し話したのであるが、その間ずっと黒狼は急かすように吠えていた。だが大家は調子を変えず話し続けていた。本当に黒狼を認識していないと断ずるより外に説明がつかない。それに、黒狼は扉を開けられないため、湖へ赴く際には私が付いて行かねばならないのであるが、その道中ですれ違う者は皆、全速力で必死に黒狼を追い掛ける私の方を物珍しそうに見るのだ。黒狼は私の前方を走るため、そちらが先に視界へ入る筈であり、もしそこへ黒狼を認めたのであれば、街を走る私と狼のどちらが異質かは火を見るよりも明らかである。それでも私を目で追うのだから、やはり彼らには黒狼が見えていないとしか考えられない。
 他の者へ見えなくたって私には見えて触れる以上そこにいるわけであるが、元来人付き合いの少ない私には、黒狼への認識の齟齬による弊害は殆どなかった。寧ろ、李緒よりよっぽど暮らしやすいとさえ感じる程であった。李緒がいなくなって家事全般を私一人でやらなくてはならなくなったが、それは苦ではなかった。私の負担になっていたのはそこではなく、原稿を書かねばならぬ時に、放置されて機嫌の悪くなった李緒の相手をする必要が生じ、あるいは私の肉体的精神的に参っている時に限って寄り添ってくれなかったり、といった明白な食い違いの多数あったことである。対してこの黒狼は、夜に森の湖へ行く以外私に何も求めず、私が休憩がてら様子を見るついでに撫でても「ガフ」と言うのみで拒まない。黒狼と暮らす心地良さを感じる度に、李緒の居心地悪さも浮き彫りになっていくのである。
 そういった精神の健康は仕事へ顕著に表れた。私はかねてより書いていた短編を大幅に改稿した。元々それは後に尾を引く陰湿な結末であったが、随分明るい展開へ変えた。編集からも好評であった。
 黒狼と出会ってから20日弱、私はあの森のことを考えていた。黒狼に連れられないとあの森へは着けないのである。1度、私は1人で近辺を歩き回ってみたのであるが、森など見当たらなかった。そこである夜、私は黒狼の走る道順を詳細に覚えようと試みた。黒狼を追い掛けるのにも少し慣れてきて、走りながら物を考える余裕は案外あったので、1日で大体の道筋は覚えられた。
 しかしながら、明朝、黒狼の軌跡を手繰った先にあったのは民家であった。廃屋でもなく、生活感のあるただの一軒家である。その証拠に、ベランダへ洗濯物を干しているのが見えていた。私はアパートへ戻って、また何度か同じ道を辿ったり、曲がるのを1つ手前の角にしたりと様々に試したが、一向に森は見つからなかった。それどころか、曲がる場所を1つや2つ変えるような微調整ではどうにもならない程に、森の気配がないのである。私は諦めて部屋へ戻った。
「あの森、何なんだよ」
 黒狼へ問うても、
「ガフ」
 やはりそれしか返ってこないのであった。
 私はこの近辺の地図を調べてみた。すると、驚くことにと言うべきか予想通りと言うべきか、この辺りに森はないのであった。その時初めて、私は黒狼へ少し恐怖を抱いた。その日の夜である。
 森から帰って来ると、私の部屋の前へ人影が見えた。ドアノブを弄っているようである。
「いるんでしょ、ねえ」
 そう喚きながらドアノブをガチャガチャやっていたのは李緒であった。
「何してんだ」
 声を掛けると李緒は一瞬硬直し、私へ向き直った。
「……」
 李緒は俯いて黙った。暫しその状態が続くと、見かねたように黒狼が李緒の前へ歩み出て、
「ガフ」
 と鳴いた。すると李緒は途端に蒼白になり、言葉を失ったまま走り去った。李緒が完全に視界から消えると、黒狼は私を見ながら、
「ガフ」
 再び鳴いた。心なしか得意気に聞こえた。
 次の日の夜、黒狼は外へ出ようとしなかった。試しに玄関まで行って靴を履く素振りを見せたりしてみたが、黒狼は来なかった。そんな日もあるのか、と部屋へ戻ると、隅で寝そべっていた。
 それから更に3日程、黒狼は夜になっても森へ行きたがらなかった。日中と同じように、ゴロゴロしてはたまに「ガフ」と言うのみであった。この奇妙な生活が始まってから既に1ヶ月弱が経過しており、夜に外へ出ないと却って私が居た堪れなくなっていた。
 1人で散歩に行こうかと思い始めた頃、スマホへ着信があった。李緒からであった。
「もしもし、何」
「今、家いる?」
「……いるけど」
「行っていい?」
「ちょっと待って」
 私は部屋の隅でモップのように丸まっている同居者へ尋ねた。
「お客さん呼んでいいか?」
 黒狼は立ち上がって私の隣まで来た。てっきり「ガフ」が返ってくると思っていた私は面食らった。黒狼は私の頬を舐め、そこでようやく
「ガフ」
 と言った。
「いいよ」
「じゃあ、今から行くけど……」
 李緒は少し歯切れを悪くした。
「ねえ、この前のアレ、何?」
「え?」
「ペット飼い始めたの?」
 私は黒狼を見た。黒狼は部屋の隅へ戻ってずんぐりとした毛玉になっていた。
「……まあ、とにかく行くね」
 通話はそこで切れた。
 この前李緒が私の部屋へ来た時、やはり彼女にはこの黒狼が見えたのだ。何故見えた。私は最悪この黒狼にまつわる全てが幻覚であってもいいとは思っていた。しかし、李緒にも視認せられたことで、存在することが裏付けられたようなものである。黒狼への恐怖は急速に肥大し、募っていった。やがてその恐怖は私自身へも向いた。この得体の知れない獣を当たり前のように受け入れ、心地良さすら感じていた自分がそら恐ろしく思えた。私は李緒を待ち侘びた。黒狼と2人きりの空間に耐えられなくなっていたのである。
 ピンポーン
 その音を聞いて私は玄関へ走った。急いで扉を開け、そこへ立っている李緒を確認し、私は安堵した。
「ごめん」
 李緒は開口一番に謝って頭を下げた。
「取り敢えず入れよ」
 私がそう言って振り向く、
「キャアアアア!」
 李緒が叫ぶ、そして──
──黒狼が李緒へ飛び掛かるのが同時であった。
 叫んで以降、李緒の声は1つも聞こえなかった。私は震えながら先程まで李緒のいた場所を見た。そこに李緒はいなかった。血の1滴、骨の1欠片、そこへ人のいたという痕跡1つ残さず、黒狼が李緒を喰らった後であった。黒狼は全くイノセントな目で私を見上げながら言った。

「ガフ」

黒狼の話

黒狼の話

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-19

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