濡れたTシャツに伝わる熱
【 一 】
それは高校三年の夏休み。
青々と茂る草原は、さっきまで満点の星空で眩しいくらいに輝いていた。それなのに、自分がこぼした一つのセリフで黒雲が大空を支配し、暗い空から無数に注ぐ雨粒に、オレは思わず走り出さざるを得なかった。
当てもなく、ただ闇雲に走り続ける。やり直せるなら今やり直したい。たった数秒前でいい。それだけで、それだけで......。
サンダルにまとわりつく雨草は、不快でしかなかった。さっきまで、この草原が、この星空が、世界中で何よりも美しくて、この時間を止めてずっと留まっていたいと思ったのが、嘘のように思えてならない。
いつか生命の輝きを放つ草木は全て枯れ果て、地面は泥沼のようになり、オレの足をさらっていくのだろう。
早くそうなってくれ。今すぐに、早く、早く!
「アキラ、待て!」
背後から響く聞き慣れた野太い声。
オレはその言葉に、一瞬走るスピードが緩んだ。だが、止まるわけにはいかない。再び足に力を入れようとしたその瞬間、後ろ手になっていた左腕を強く捕まれてしまった。握り拳を固め、強く唇を噛んだ。
いつの間に追い付いていたのだろう。相手はオレと同じように、いやそれ以上に荒い呼吸をしているのが分かる。オレは堪忍して振り返ろうとした。だが、それよりも少しだけ早く、相手はオレの身体を抱き寄せた。
「バカやろう......」
オレを抱きしめる男の小さなつぶやき。毛むくじゃらの太い両腕に抱きしめられ、大らかで頼もしさを感じる大人の肉体を体中に感じる。その肌は、オレのせいで、すっかり冷えてしまい、濡れたTシャツは重みに耐えられず雫が滴り落ちていた。だが、目の前の相手が荒い呼吸を整えようと胸の奥から伝わる熱をはっきりと感じる。
オレは男の背中に震える両手を回した。
「ごめん、オレ......」
そう伝えるのが精一杯だった。
「何で、謝るんだよ。バカやろう......」
そう言って、オレを抱きしめる力を強くする。言葉の一つひとつをゆっくりと理解し、ようやく心の緊張が溶けてくのを感じた。
「ごめんな。俺もお前のことが好きだ」
耳元でささやくような甘い言葉だが、微かな震えに声の主には未知なる世界へ飛び出していくような気持ちなのだろう。
さっきまで響いていた雨音はいつしか聞こえなくなっていた。濡れた抱擁に包まれた空の雨雲は次第に溶けていく。オレは相手の背中に回した手の力を強めてみる。これが夢でないことを確認したくて。
見なくても分かっていた。その頭上には仄かに輝く星空が再び広がっていることを。
【 二 】
夏の空は高い。
コンクリートの地面を這うように漂う熱気は、花壇のヒマワリを、商店街のかき氷の暖簾を、プールへ急ぐ真っ黒に日焼けした子供達を、全て飲み込んだとしても、あの空へはきっと届かない。強い日差しにサングラスの奥の瞳を細めるワンピースのお姉さんも、ビアガーデンで仕事終わりの汗を流すサラリーマンも、この夏を実感しているはずだ。
「......キラ」
どこか遠くから声が聞こえる。
だが、そんなことはどうでもいい。オレは水面から顔を出すのを諦めて、水中に奥深く沈んでいく。今度は深海の底まで行ってみようか。きっと涼しいだろうな......。
「アキラ......。 おい、アキラって!」
声の主はオレの肩を揺さぶり始める。
うるさいな。この海底探検を邪魔しようとするのか。心地よい真夏のダイビングを邪魔するのは何処のどいつだ。仕方ないから、遥か先にある水面へ向けて、光に向かって浮上していった......。
「おう、やっと起きたか。四時に起こしてくれって言ったのはお前だろ」
ゆっくりと重いまぶたを上げると、見慣れた男の顔がそこにはあった。ふくよかな丸顔だが、目鼻立ちは力強く、引き締まった男らしい顔付き。無精ひげを蓄えたいつもの顔が、少し怒っているような表情でオレを見つめている。昔からこのままだと言っていた短髪が手伝って、一見すると、その手の仕事人のように見えるが、この人は高校教師なのだ。
「サンキュ、ゴリタ先生......」
オレは寝ぼけ眼をこすりながら、軽く礼を伝える。だが、そう返答する後頭部にやってきたのは肉厚な手による軽やかな一撃だった。
「バカやろ、もう先生は辞めろって言ってるだろ。あと、俺はゴリタじゃねぇ。ゴウタだ、ゴウタ!」
その強い言葉に、はっきりと目が覚めた。
「痛ってぇな! ずっと、それで来たんだから仕方ないだろ。今さら何だよ!」
軽く叩かれた頭をわざとらしくさすってみる。
ゴウタはオレの高校三年の時の担任だ。その当時から、生徒の間ではゴリタというあだ名が付いていた。見た感じの風貌から、そんなあだ名が付いたのは容易に想像できることだろう。
ゴウタは言い返すオレのことを呆れたような表情で見ていた。
「名前は大切にしなくちゃいかん」
鼻息を荒くしてそう主張するゴウタ。オレからすれば、どっちでもいいし。悪口ではなく、ゴリタというのも嫌いではない。
「へいへい、ゴリタ先生」
ちょっとからかってやった。オレ達は付き合うようになってもう五年になる。
「......よろしい」
ゴウタはそう言って、丸太のような腕を振り上げると、
――パコーン!
さっきよりも強くオレの後頭部に平手打ちをした。
「痛ってぇな! 暴力教師め!」
オレの悲痛な声に、ゴウタはもう耳を貸さずにノシノシと歩いて部屋の奥に行ってしまった。
オレは昼寝の寝ぼけた顔を少しでもマシにしようと、洗面所で顔を洗うことにした。するとゴウタがキッチンから顔を覗かせる。鏡越しに背後に映る表情から察するに、もう怒ってはいないようだ。
「今夜の約束忘れてないよな。七時に案内所の前だぞ」
念を押す言葉に少しだけ浮ついたものが見える。普通には強面の顔付きに似合う低いドスの効いたような口調だが、何か楽しいことや嬉しいことがあると、そのトーンが少しだけ上がる。上ずったような口調と顔のギャップで、オレも軽く笑みを浮かべた。
「分かってるって。オレだって楽しみにしてたんだから」
今夜は海岸で花火大会がある。ゴウタがこの港町の高校に転任して数年後、オレは追い駆けるようにしてこの町へやってきた。一緒に暮らすようになるには、そう時間はかからなかった。今年は二人で迎える初めての夏。今夜の花火大会も一緒に見に行くのは初めてのことだ。
「もう一度言うが、案内所は駅前の方だからな」
「へ? 海水浴場の方じゃないのか?」
オレの言葉に、ゴウタはあきれたような表情になる。
「だから、海の方は混雑していてお互い見つけ難いから、駅前の方って何度も言っただろ」
「あー」
オレは間の抜けた返事をした。そうだった。そんなこと言っていたな。
その様子を見て、ゴウタは続ける。
「本当に俺の話しを聞いているかどうか怪しいもんだ」
「そんなことないって、ちょっと勘違いしただけじゃん」
オレは引きつった笑いを浮かべて、その場から逃げた。
「じゃ、図書館に行ってくる」
オレは返却期限が今日までの本を鞄に入れて、玄関で履きなれたスニーカーに足を通す。そんなオレを追いかけるように、ゴウタは玄関口までやってきた。
「......お前。そのTシャツ、何時まで着ているんだ」
そう言われて、改めて自分の着ている服に目を落とす。
古びた半袖の紺色は何度も洗濯をしてすっかり色褪せている。緩んだ首元は繰り返し着た証拠だ。胸元の小さなロゴも剝げかかっている。そんな古着でも、オレは何度も繰り返し着続けていた。
「いいんだよ。オレ、これが気にっているし」
「でもよ。そんなボロボロのシャツなんか、もう捨ててもいいんじゃないか?」
「いいんだって......」
「じゃあ、今度俺が新しいの買ってやるからよ。だから、もうそれは......」
ゴウタの親みたいなお節介も今に始まったことではない。
だが、セリフの端に続く言葉を聞く前に、
「だから、いいんだって!」
思わず声を荒げてしまった。
それ以外のことなら、こんなにムキにはならない。だが、こればかりはどうしても譲ることができないのだ。もっと言えば、当のゴウタがそんなことを言い出すとは、思ってもいなかった。あの日のことを忘れてしまったのか。そう思うと、腹立たしくも思えてくる。
オレは張り詰めた空気をその場に残し、玄関のドアを後ろ手で力強く閉めた。
分厚い鉄の扉は夏の日差しで熱い。その温度を確かめるように、扉に寄りかかり、高い空を見上げた。湿った密度の高い空気に蝉の鳴き声が響いている。打ちっぱなしのコンクリートは焦げつき、どこからか柑橘系の香りが伝わってくる。
『忘れ得ぬ。このTシャツに、伝う夏』
こぼれた小さな句は、いつかどこかで読んだ詩集の一節だったかもしれない。
【 三 】
図書館で借りていた本を返却した後、オレは自転車を海の方角へ漕ぎだした。すぐに家に帰るのは何となく気まずかった。
小さな商店街を通りがかり、交差点で信号待ちをしていると、角にある魚屋から威勢の良いおっちゃんの声が聞こえてくる。
どうやら今日のおススメはアジのようだ。先週ここで買ったアジもデカくで旨かった。単純に塩焼きにしただけなのに、ゴウタは「うまい、うまい!」と喜んで食べてくれた。自分の手料理に子供ように喜ぶ相方の姿を見て、オレも嬉しかった。今度はもっと美味いものを食べさせてあげよう。
信号が青になり、再び自転車のペダルを漕ぎ始める。小さな川の橋を渡ると、小さな病院が見えてくる。
半年前の雨の日、オレが自転車で雨水に滑って転んでしまい足を挫いた時、ゴウタに電話をしたら飛んで来てくれた。
その日の朝、雨の日に自転車なんか危ないと止められていたから、怒られると思っていた。だが、ゴウタは今まで見たことない程の慌てようで、歩けないオレを背負ってこの病院まで運んでくれた。
足のレントゲンを撮ったが、大したことないと分かると、ゴウタはヘナヘナとその場に座り込んで、「良かった、良かった!」と安堵の表情を浮かべていた。
海岸へ出て漁港の方角へ自転車を進めていった。
途中から道沿いに線路が平行して走ってくる。その空の上にはカモメが飛んでいて、もう少し進むと駅が見えてくる。潮風に晒されてボロボロの木造駅舎。
ゴウタとオレとの一緒の生活はここから始まった。鞄一つでやってきたオレをゴウタは駅のホームで迎えてくれた。その時は、「......おう、来たか」とたった一言。その時の表情は、思い付きで行動に出てしまったオレを呆れている様に見えたが、その頬は微かに赤く染まっているの
を、オレはこの先もずっと忘れないだろう。
漁港の中を進んで、船着場の方角へ進んでいく。対面の防波堤の突端には白い灯台が見える。船が係留されていない場所を見つけると、そこで自転車を停めた。太陽は西の山に向けて傾きつつあり、それでも頭上の空は夏の光を放っている。潮風は心地よく、波も静かに踊っている。
オレはコンクリートの先端に腰を下ろして、足を放り出し海面の上に浮かべた。目線を上げれば、外洋に一艘の船が見える。光に輝く海原は、まるであの夜の草原のように見えた。
「あーあ......」
さっきのつまらないやり取りを思い出していた。
ゴウタが言うように、このTシャツがボロボロでいつ捨ててもいいようなものだと言うことは分かっている。繰り返し着て伸びた襟元、袖の縫い口からこぼれる糸、ずっと大切にしたいと思って何度も洗濯して色褪せてしまった紺。
だが、それでもオレは着続けてきた。これはあの夜、短い人生の中で一番大切な夜に二人で着ていたものだ。
ユニホーム代わりに部活で作ったオリジナルのTシャツ。それはオレとゴウタだけの特別なものではなく、誰もが着れる細やかなおそろい。そんなものでさえ、あの時のオレは同じTシャツでいることが何だか誇らしく思えた。
あの夜、オレはずっと堪えていたゴウタ先生への想いを正直に伝えた。だが、その言葉を発した途端、何だかすごく悪いことをしているような気がして、後悔が心に影を落とし、その場を逃げ出した。それでも、ゴウタはちっぽけで臆病なオレのことを同じように好きでいてくれて、雨に濡れたTシャツから伝わる熱は今でも忘れることができない。
ーーあの熱……。
ゴウタはもう忘れてしまったのだろうか。
一緒に暮らすようになって、そんな昔のことはどうでもいいのなら、それはそれでも構わない。きっと些細なことを覚えている余裕がないほど、今を楽しんでくれているのだろう。
でも、オレは期待していた。ゴウタも同じように想ってくれていると。
潮風が水面を揺らす。その光は少しずつオレンジ色になろうとしている。陽が傾いてきた。
「......帰ろ」
その小さな呟きに、カモメが一羽だけ鳴いて答えてくれた。
少しゴウタに言い過ぎたかもしれない。帰ったら、謝ろう。
【 四 】
家に戻ると、ゴウタはもう出掛けていた。
『先に行く。今日はこれを着るように』
テーブルのメモと共に置かれていたのは、真新しい一枚のTシャツだった。古びたTシャツとは真逆の溢れるような深い紺色。胸元と袖口にプリントされた鮮やかな黄色の熊のロゴ。それは少し前にネット通販で見つけて、欲しいと思っていたものだ。
オレは着慣れたTシャツの裾を握り、唇を噛んだ。
だか、ここにある真新しいTシャツは、普段洋服なんか買わないゴウタが用意してくれたもの。いつもなら他人のものどころか、自分の服でさえ無頓着で滅多に買ったりなんかしない。そう気付くと、オレがこのボロボロのTシャツを着続けているのを咎められるのも、服を買ってやると言われたのも、さっきが初めてのことだった。
夕焼けが西の空へ向かい、月と星が踊る夜がやってきた。相変わらず夏の熱気は冷めやらず、今夜は熱帯夜になるらしい。
オレは約束の時間より少し早く駅前に着いた。小さなロータリーの隅にもう使われていない案内所の建屋がある。さっきゴウタから少し遅れると連絡をもらっていたが、このままここで待つことにした。
僅かな違和感を感じている。クタクタになった丸みを帯びた生地とは違って、新品特有のキッチリとした形と独特の既製品の匂い。まだ体に馴染まない肌の感触。心に感じる新しい気分。これも決して悪いものではない。結局、ゴウタが用意してくれた新しいTシャツに渋々袖を通したのだが、今は気に入りつつある。
少し肩幅が広く、裾も長く感じる。タグを見たらオレにはワンサイズ大きいものだが、それもまた良い。ゴウタはオレのために慣れないことを一生懸命にやってくれたのだろう。
目を落とし、胸元にある小さな熊に手を触れた。
どれくらい時間が経っただろう。
「よう、待たせたな」
その声に、オレは目線を上げ、
「ゴリタ、遅い……」
と、急に言葉が詰まった。
「お、着てくれたな。似合うじゃねぇか!」
ゴウタはオレの胸元の熊を指差して、ガハハと笑った。
大きな口を開いて豪快に笑う相方は白地のアロハシャツを着ているものの、胸元には黄色い熊がプリントされた紺色のTシャツを着ている。
オレと同じもの。お揃いのTシャツ。
だが、胸や腕の熊のロゴは横に膨らみ、堅太りの腹を窮屈そうに収めていた。
「……サイズ、間違ってないか?」
「通販なんか使わねぇからよ」
そう言ってゴウタは軽く目を逸らし、わざとらしく無精髭の鼻下を太い指でポリポリとかき始める。
「バリバリのペアルックじゃ、ちっと恥ずかしいからな。俺は上に羽織らせてもらったぞ」
そう言って、アロハの軽い生地で織られた裾をちょこんと摘んで見せた。
「それよりも何で遅れたんだよ!」
オレはこんな照れ臭い出来事に、緩みそうな口元を隠して、わざと口を尖らせた。
「おっと。そんな口の利き方をして、いいのかな?」
ゴウタはそう言ってニヤけた笑いを浮かべると、右手に持ったスーパーのビニール袋をアピールしてくる。中には冷たく冷えた缶ビールと、ゴウタの好きな柿の種や、オレが最近ハマっているポテトチップが入っていた。
「すげぇ! 買い物してきてくれたんだ」
「海岸沿いに屋台もでてるからよ。そこで焼きそばでも買って行こうぜ」
そう言って、ゴウタは一足早く歩き出す。
オレもそれに続くようにして、海岸へ向けて歩き始めた。目の前を歩く大きな背中は、軽い鼻歌を夏の夜に載せて、ゆっくりと左右に揺らしながら前に進んでいく。そんな姿を眺めつつ、オレはさっきから我慢していた笑みをこっそりとこぼした。
「ゴリタ、オレが持ってやるよ!」
そう言って、ゴウタからビニール袋を奪うようにして受け取ると、隣に立ち同じ方角を向いて再び歩きだした。
「……アキラ君、何度も言ってるじゃないか」
低いつぶやくような声と共に、ゴウタは右手のゲンコツをオレの頭にグリグリと押し付けてきた。
「俺は、ゴ・ウ・タだ」
「ゴリタ、痛ってぇな。逃げろっ!」
名前のことになるとムキになる朴念仁を残して、オレは手にしたビニール袋を振り回しながら走り出した。
「あっ、バカッ! 中にビール入ってるんだぞ。振り回すなって!」
ゴウタは声を張り上げて追い駆けてくる。オレは何だか楽しくなって、海岸へ向けて走るスピードを更に速めた。
【 五 】
海岸の北にある港から真っ直ぐに伸びている防波堤の先には小さな灯台がある。長年の潮風に晒されて錆びた白い灯台の下までやってくると、オレ達はそこに腰を下ろした。
ここまでくると屋台が並ぶ海岸から遠く離れているので、花火の見物客もほとんどいない。賑やかな海岸を遠目に見ながら、静かに波打つ音に包まれ、花火が始まるのを待った。
「……いいか。ゆっくりだぞ」
ゴウタの真剣な表情につられて、
「ああ……」
オレも緊張感を漂わせる。
缶ビールをそっと開けたが、清々しい発泡音と共に白い泡が勢いよく噴き出してきた。乾杯する余裕もなく、二人同時に一口目を急いで飲み込む。
「さっき振り回したからだぞ」
口の周りを泡だらけにしながら、ゴウタはオレを睨んでいる。
「ごめん、ごめん」
オレはそれには気付かなかったふりをして、もう一口ビールを飲んだ。
喉が潤うと、ゴウタは柿の種を開けて口にする。オレもさっき屋台で買った焼きそばに口を付け始めた頃、星空に最初の打ち上げ花火の低い音が響いた。数秒も待たずに一筋の光が立ち上り、その頂点で大きな大輪の華を咲かせた。少し遅れて花火玉が破裂する衝撃音が響くと同時に、海岸からも歓声が上がった。
「きれいだな」
「ああ、きれいだ」
オレの素直な言葉に、ゴウタも静かに同調してくる。オレ達はしばらくの間、花火の美しさに心を奪われた。
「走ったから暑くなってきたな」
と、ゴウタは羽織っていたアロハシャツをおもむろに脱ぎ始めた。汗ばんだゴウタの匂いがオレの鼻をくすぐる。
オレは花火を見るふりをして、横目でゴウタのTシャツ姿をチラチラと見ていた。次々と打ち上げられる大輪の華を見つめる彼の瞳は力強くも穏やかに見えて、時々口にする缶ビールで頬は軽く染まっている。お揃いのTシャツでいると、まるであの夏の夜に戻ったみたいだ。
「なぁ、アキラ……」
「……ん?」
ゴウタは振り向き、真っ直ぐにオレを見つめる。
「俺はお前と一緒に居ることができて幸せ者だ」
「何だよ。急に……」
「いいから、聞いてくれないか?」
オレは何も言わずに、次の言葉を待った。
「俺だって、あの日の事は忘れられない大切なものだ。一生の宝物だ」
付き合うようになって、ゴウタがあの夜の事を持ち出したのは今までなかった。オレはうつむき、自分の頬も赤くなっているのは手にしたビールのせいだと、決め付けた。
「だが、俺は今のお前と、これからのお前と一緒の時間を大切にしたい」
ゴウタはその言葉を証明するかのように、強い眼差しでオレを捕らえて離さない。
「オレだって……」
それ以上の言葉がスムーズには出てこなかった。
「アキラ、俺はお前が好きだ。今日、新しいこのTシャツを2人で着たように、これからの新しい毎日をずっと一緒に居たい」
ゴウタはいつしか胸に手を当てていた。絞り出すような声で言葉を綴ると、最後に大きく息を吐き、オレの手を握った。
ゴウタの肉厚な手は汗で濡れていて、その手から伝わる熱は夏の暑さだけではないと分かる。
オレを見つめるゴウタの真剣な眼差し。瞳の光は力強く、打ち上げ花火の存在すら忘れてしまうほどに引き寄せられる。
自分の頬が更に赤く染まるのがハッキリと分かった。
「ゴウタ……」
もう言葉は要らなかった。
俺は迷わずゴウタの大きな背中に両腕を精一杯伸ばした。同じTシャツは汗でもう冷えている。ゴツゴツとした肩に顎を乗せ、抱き締める力を強くした。この大きな身体が風邪をひかないように。ゴウタもオレを抱き締める腕の力を強くする。
「アキラ、好きだ」
もう一度響く、ゴウタの言葉。その何気ない一言を振り絞るのに、どれだけの勇気が必要か、オレは知っている。
その言葉に返事をすることすらできなくて、強く頷くのが精一杯だった。胸の奥から湧き上がるものを必死に抑えようと、ゴウタの肩に顔を埋めながら。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
さっきまで夜空を彩っていたはずの花火は、すっかり消えてしまっていた。潮風に乗って微かに感じる火薬の匂いと、闇にかき消されそうな白い花火の名残り。遠くの海岸には小さな人影が歩いている様子が見える。
「終わったのか。そろそろ帰るか」
最初に口を開いたのゴウタだった。
波の音が静かに戻ってくる。
ゴウタは立ち上がり、空き缶やつまみの袋を集め始めた。だか、オレは心の奥底から湧き上がるものを抑え切れず、もう一度ゴウタに抱きついてキスをした。
不意打ちに驚いたのか、目を大きく開くゴウタ。その頬は再び赤く染まりだす。
だが、すぐにオレを受け入れてくれた。舌先がゆっくりと絡み合い、肉厚な唇の温度をハッキリと感じる。
それだけではない。Tシャツ越しに伝わる体温、心臓の鼓動、夏の匂い。その一つ一つがゆっくりとオレを満たしてくれる。それはきっとゴウタも同じであると、何故だか確信している。
誰にも邪魔されない二人だけの夏の夜。甘えたなオレをしっかりと抱き止め、ゴウタは優しく頭を撫でてくれる。新しいTシャツに伝わるこの熱をいつまでも感じていたい。
「……アキラよぅ」
しばらくして、ゴウタが小さく呟く。
「ん? ゴウタ……」
掠れた声で答えるオレ。
「そろそろいいか? 俺、もう、恥ずかしいんだが……」
その言葉に、オレは我に帰ってゴウタの顔を見上げる。
ゴウタは真っ赤な茹でダコのようになっていて、鼻の下を伸ばし太い指でポリポリとかき始める。
オレはその姿を見て、ゲラゲラと声を上げて笑ってしまった。
濡れたTシャツに伝わる熱