夏休みの思い出

夏休みの思い出

ユウナギ

 僕がなぜピアノを弾くのかは誰も知らない。パパでさえ記憶にないだろう。

「なぜあんな男に? 俺が劣っているのはピアノだけじゃないか? おまえがあいつを負かすんだ。最年少入賞という自慢の記録を塗り替えてくれ」

 酒に溺れていたパパが覚えていなくても、約束は約束だ。

✳︎

 まだ、ときどきは女の子に間違えられていた中学1年の夏休み、背は平均より低く、体重は女子より軽く華奢だった。

 区のトレーニングジムに通った。若い子は少なかった。来ているのは年配者、老人が多い。
 その日は3人が初心者だった。身長、体重、体脂肪、血圧……を測っていく。
 太った女がいた。年は不明。メガネをかけ、青春からはじかれた体型。

 女はスポーツには無縁のようだ。ストレッチでぐらついていた。
 マシンの使い方をひと通り教わる。
 最後にランニングマシンで走った。隣のマシンで、太った女がバタバタ走る。
 呼吸を乱し、無理をしている……
 女は貧血を起こしたのか、僕はマシンを停止させた。
 コーチの声が、無理しないで、とわめく。女はしばらく休んでいた。
 話が聞こえた。
 歳は……高校3年、都立高。そこそこの学力。
 体重は70……声をひそめた。一念発起、夏休みの間に痩せたい……
 最初から無理しちゃダメだよ……
 
 太った女は(かつら)さん、と呼ばれていた。僕は三沢クンだから、名字なのだろう。
 桂はよく来ていた。僕は1日おきくらいだが、彼女はいつ行ってもいた。
 午後の1時間、トレーニングをした。成果があるのかはよくわからないが。
 クラスの男子はその夏、背がぐっと伸び男らしくなった。努力している僕の身体は相変わらずで、逞しさとは程遠い……
 いっそ、桂の身体と交換したいくらいだ。

 隣のランニングマシンで桂が走る。もう貧血は起こさない。彼女は1キロをゆっくり走る。自分のペースで。それを何回繰り返すのか? 
 僕たちは口をきかない。かたくなに、どちらからも話しかけない。
 常連たちは気軽に声をかける。
 痩せたんじゃない? 痩せたよ。きれいになった……
 桂も気さくに話していた。僕には話しかけない。かたくなに、意地でも自分から話しかけるものか……とでも。

 その日、桂の手に目が止まった。今までしっかり見ることはなかった。桂は視線を感じたようだ。
 なに? というように僕を見返した。
「ピアノ、弾きますか?」

 そこからは話が弾んだ。桂はコンクールを目指していた。
 家では思い切り弾けない。グランドピアノで弾きたい……

 急速接近。義母の亜紀は僕が初めて連れて行った女を見て驚いた。
 5つ年上の太った女、すでに10キロ近く体重を落としたらしいが……
 興味があるのは彼女のピアノの腕。目指すコンクール。
 桂は思いきり弾ける環境を羨ましがった。住んでいるのはマンションだった。思いきり弾いたら苦情がくるだろう。

 三沢家の古いグランドピアノで最初に弾いたのは……
 最初はわからなかった。
 ゆっくりで、別の曲かと思った。
 今まで僕はなにを弾いていたのだろう? この曲を速く弾いていた。
 モーツァルトのよさはわからなかった。簡単でつまらない……
 桂の8番は違った。僕は初めてモーツァルトに泣いた。恥ずかしいが、とめどもなく涙が出てきた。

 父がハンカチを頬に押し当てた。父が帰ってきたのにも気づかなかった。
 恥ずかしがることはない。
 感動したのだ。崇高な音楽に感動した……
 おまえのとは大違いだ……
 そう思っただろう。
 父と亜紀と3人で拍手した。桂は父の出現に驚いたが、クラシック好きな魅力的な男にリクエストされ、次々に弾いた。

 トレーニングジムでは冴えなかった、年配のコーチにさえ軽くあしらわれていた女が、ピアノの前では魅力的だった。
 僕は彼女の前では恥ずかしくて弾けない。亜紀が菓子と果物を出し、父が紅茶を注いだ。
 父はいろいろ聞いていた。驚いたことに彼女に練習場所を提供した。僕に教えることを条件に。
 亜紀と気の合った彼女はいろいろ話していた。
 コンクールにドレスを着たいの。だから、痩せたい……

 その夏、桂はトレーニングに励み、僕にピアノを教えに来た。そして父が手配したピアノの教授のところへ習いに行った。
 コンクールに多勢入賞させてきたベテランの年配の男だった。
 父はそのために多額の金を使った。
 父は僕との約束を覚えていたのだろうか? 
 桂はあの男が入賞したのと同じ年、おそらく3位以上の賞を取らせたいのだろう。

 亜紀は痩せたい彼女のためにいろいろアドバイスした。
 父の帰りが早い日は夕飯を食べていった。太った女はメリハリのある体になっていった。
 亜紀は気が付いていたのだ。なぜ彼女が短期間で変わったのか。
 青春からはじかれていた女は一気に魅力的な女に変わっていく。
 桂はメガネからコンタクトに変えた。化粧品会社社長の父が直々に化粧を教えた。
 僕は真似て亜紀に化粧した。
 楽しかった。

 その年の秋、桂は僕の目指しているコンクールに出場し1位になった。
 色の濃いシンプルなブルーのドレスを着て会場の注目を浴び、演奏で一層惹きつけた。
 彼女から学んだことは多い。彼女の訪れが父と僕の距離を少し縮めた。

 18歳の女と42歳の男。
 桂は恋をしていたのだ。亜紀にはわかっていた。
 恋の魔力はすごい。鈍感な父にはわからないのか?

 亜紀が言った。
「もう、ピアノはやめてもいいのよ。ちっとも楽しそうじゃないわ」


     (了)

夏休みの思い出

夏休みの思い出

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-05-14

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