少年

少年

ユウナギ

 幼い頃から、自分の容姿がよくないことは知っていた。幼稚園ではっきりわかった。同じ組に三沢家の三女がいた。いつも髪を結い、かわいいリボンをしていた。服は皆同じ制服だが、明らかな素材の違いを思い知らされた。男児はかわいい子を好む。たとえ、自分勝手でわがままでも。おまけにパパは社長……と自慢した。
 嫌いな子だった。ああいうチャラチャラした中身のない子は大嫌い。ただひとつ、羨ましいことがあった。私にはないもの。兄貴だ。10歳年上の素敵な兄貴が、時々妹を迎えに来ていた。中学生の兄貴は妹の自慢だ。妹は見せびらかして甘えた。兄は妹の手を取って帰って行った。私の顔など見やしなかった。

 素敵な兄貴の妹たちは私と同じ小学校だった。3人いた。皆かわいくて目立っていた。兄は運動会には応援に来ていた。先生たちと話していた。もう大人たちより背が高く、誰よりも素敵だった。噂は私の耳にも入った。三沢家の長男。学力優秀。スポーツ万能。
 
 その後は何度か、ホームや電車の中で彼を見かけた。社会人になった彼はますます素敵になり、まわりの女性も意識していた。私のことは覚えていない。妹のそばで見つめていたのに。

 三沢家に飼われていた犬は、父が経営する動物病院に予防注射を受けに来た。家族旅行の時は犬を何日も預けた。長男が連れてきたこともある。私が大学生のとき、父の助手をしていると、彼が子犬を抱いてきた。診察室でしばしふたりきりになった。ふたりと1匹。
 18歳の飾り気のない女の頬は紅潮しただろう。しかし、彼は慣れていた。見られることに慣れていた。私は慣れていなかった。犬の爪を切り足の毛を刈る。彼は私の手元を見ていた。
「先生のお嬢さん?」
お嬢さん……
「似てますね」
そうよ。父親似なの。母に似ればよかった。

 男と交際したことはある。面倒くさい女より男の方が話しやすかった。ほとんどの男は私を恋愛の対象には見なかった。私も、あの三沢家の息子と比べてしまい、それを超える男には出会わなかった。

 それから10年以上経った。憧れていた男は目の前に現れた。最低の男、父親として。
 私は彼の妻を知っていた。私と同じ歳の女が、憧れた男の妻になった。嫉妬は湧かなかった。噂は聞いていた。三沢家の長男は結婚を反対されて家を出た。女のために家族も会社も捨てたのだ。
 そして、会社が危うくなると長男は戻ってきた。妻と子供を連れて。学歴のない東北の貧しい女だという。

 そのひとには感服した。父親は半身不随、母親も介護で腰を悪くした。妹たちの寄り付かなくなった家は荒れていた。三沢家の長男が、何もかも捨てて妻にした女はたいした人だった。荒れ果てた邸がきれいになっていった。その美しい人は、梯子に乗り植栽を切っていた。結婚を反対した義父を車椅子で散歩させていた。笑っていた。楽しそうに。
 母が噂話を聞いてきた。魚屋でアラを買っていた。八百屋で大根の葉をもらっていた。もう、あの家には金がないのだ。なのに、笑っていた。皆、彼女に好意的だった。その妻のおかげだろう。会社は持ち直した。三沢家は再びにぎやかになった。

 ある日、彼女は病気の犬を連れてきた。大きな病院に検査に行くことになり、私が車を運転し乗せて行った。彼女に興味があった。彼女は自分で調べていて、病気のことに詳しかった。

 その後なにがあったのか? ある日、彼女から父に電話がきた。私は三沢邸に桃太郎の様子を見に行った。何があったのか? 彼女は家を出て郷里に帰っていた。弱った犬と息子を残して。
 7歳の息子が犬の世話をしていた。薬の副作用で粗相をする。世話は大変だろう。
「おうちの方は?」
私が大先生の娘だというと、少年は安心したようだった。父親は仕事で帰りが遅い。祖母は具合が悪く、寝ている。
 具合が悪いのは目の前の子供の方だった。片方の瞼が青い。アイシャドウでも塗ったように。転んだんだ、と息子は父親を庇った。
 
 気が気ではなかった。私はランニングしながら三沢邸の様子を伺った。父親の帰りは遅いようだ。手紙を門扉に挟んだ。
「桃太郎のことでお話があります。電話をください。遅くても構いません」
 
 電話はなかった。放っては置けない。私はもう1度手紙を書いた。  
「2度目の手紙です。間違っていたらごめんなさい。間違いならいいけど。英幸(えいこう)君のことでお話があります。K動物病院の娘です。以前1度だけお目にかかりました。電話がなければ警察に連絡します」

 日にちが変わるまで待ったが電話はなかった。その時、少年がやってきた。犬を抱いて。真夜中にひとりで歩いてきた。副作用で体重の増えた重い犬を抱いて。
 その夜、ふたりで犬を看取った。
 そこにようやく現れた父親は酒臭かった。私は自分でも驚いた行動に出た。酔った男を外に押し出し、犬を洗う水道の栓を捻った。3月だ。まだ寒かった。男は勢いよく水をかけられた。
「子供を殴るなんて、最低の大バカやろう。あの子は返さない。酒をやめるまで返さない」
父親はずぶ濡れで土下座した

 朝、少年を送っていった。情けない父親は元のかっこいい男に戻っていた。丁寧に謝り礼を言い、2度と暴力は振るわないと私に誓った。少年は学校へ行った。ほとんど眠っていないのに。
 私は少年を放っておけなかった。父親の方も。そして、祖母はもっと危険な状態だった。祖母は明らかに病んでいた。病院に連れて行くとすぐに入院になった。情けない男は立て続けの出来事に後悔した。
 妻のいない家に出入りした。いろいろ噂されただろう。父親は私に頼んだ。息子の力になってくれ、と。あなたに懐いている。心を開いている、と。
 
 家は平和を取り戻していった。やがて私は求婚された。ひとつだけ気がかりがあった。私は前妻の郷里を訪れた。かつて英輔と英幸と3人で暮らしていた部屋に島崎がいた。
 島崎、三沢家に不幸をもたらした音楽教師。彼女は息子も社長夫人の座も捨てて、余命宣告された男と暮らしていた。
 私たちは道路を渡り海岸に降りた。
 彼女は話した。
 島崎の子供が欲しい。死にゆく男の子供が欲しい。命のすべてをかけ愛してくれる。愛は奇跡を生むのね。彼は、まだ生きている。愛はひとつじゃないのよ、亜紀さん。

 英輔が私と再婚したのは息子のためだ。八方塞がりだった。どんなに有能な男でも父親としては失格だった。
 結婚式は内輪だけで行った。本当はやりたくなかった。ドレスも着物も着たくなかった。似合わない。私は成人式さえパンツスーツだった。夫は最高のスタイリストだった。見栄えの悪い女を激変させた。選んだドレスはシンプルでくすんだブルー。それが私を引き立てた。彼の手が私を変えていった。化粧のマジック。さすが、化粧品会社の社長だ。
「素顔の君のがいいけどね」
嘘? まさか、本当に? 美しい女を、美しく化粧した女を見慣れているから?
 
 この家に嫁いできて、いきなり9歳の子の母親になった。大きな邸の崩壊……幸せな家庭が突然壊れ、母親が出て行った。父親は酒に逃げ、母親そっくりの息子に暴力を。
 私が義母になったことは、救いになったのだろうか? 
 家は姑が切り回していた。姑には平和が戻っていた。義母には私のような嫁がよかったのだ。美しくもなく家事もできないダメな嫁。それが姑を安心させた。

 初めて風呂に入った。大きな邸に広い庭、羨ましがられるが古い。たいそう古い。庭の木は姑が嫁いで来る前からある。風呂も広いが古かった。窓は風でカタカタ音がした。開ければ木々が騒めく。亡霊でも出そうだ。
 電気も薄暗い。髪を洗おうとして、排水溝に信じられないものを見た。亡霊よりも苦手だ。私はシャワーをかけ、流そうとした。流れていかない。騒いだのだろう。英幸がドアを叩いた。
「亜紀先生、大丈夫?」
「な、ナメクジラ」
「……」
「ナメクジが、流れていかない」
「棚に塩があるでしょ。それをかけると流れていくよ」
 棚の上のきれいなボトル、入っているのはバスソルトではないのか? 
「獣医のくせに、虫が怖いの?」
「ナメクジは虫ではない!」

 大きな邸は虫屋敷。広い庭には……子供には宝物のクワガタが。土にはミミズ。それをこの家で育った息子は手でつかむのだ。部屋には蜘蛛が出現する。少年は素早い。蜘蛛の動きを予測し捕獲。手で捕獲。それを窓から放る。
 少年は夕方になれば言われなくても風呂を洗った。ズボンを脱いで。この少年も古い風呂は怖かったのだろう。ドアを開けて洗っていた。冷たい水に催したのだろう。少年は排水溝に向かって放尿しだした。窓の方を向いて。
 長い放尿時間に感心した。
 翌日、洗う前にトイレ行きなさい、と言うと赤くなっていた。

 彩が生まれた時、英幸は6年生だった。気持ちは複雑だったに違いない。彩が生まれると私は英幸に世話をさせた。ふたりで沐浴させた。風呂はリフォームしていた。手の大きな兄が支えると彩は気持ちよさそうだった。 
 兄は頼りになった。忙しい父親に変わり、妹の世話をした。おしめを変えた。丁寧だった。便を拭きとった。それでも嫌だったのだろう。シャワーを浴びさせた。雑な私は怒られた。兄は、妹のお尻が汚れると面倒くさがりもせずにシャワーを浴びさせた。地震があれば階段を駆け降りて彩のもとに駆けつけた。普段は怖がっていた、急な階段を。目も耳もよかった兄は妹の泣き声に敏感だった。
 彩も英幸に懐いた。初めて発した言葉はママでもマンマでもなく『ニー』だった。おにいちゃんの『ニー』
 『ニー』は学校から帰ると彩のところに来る。歌を歌ってやる。歳の離れた兄がままごとをして遊ぶ。

 夫は息子の名を呼ばなかった。いや、英幸本人が自分の名を嫌った。両親から一字ずつ取った名前。この家で息子の名前が呼ばれることは稀だった。

 義母が亡くなると家の中は大変だった。ちょうど家政婦も都合で辞めてしまい、私はひとりで家事も育児もやる決心をした。
 幸子さんがやっていたことだ。あの人は、家事に介護に犬の世話、庭の手入れ、すべてひとりでやっていた。私にもできないわけがない。対抗心がわいた。しかし、慣れない家事は大変だ。私はごはんを炊いたこともなかった。
 初めて用意した朝食。ごはんを食べたふたりの反応は微妙だった。「朝炊いたの?」と英幸が聞くのを英輔が「ま、こんなもんだ。午後から雨だ」と話題をそらした。
 夕方、英幸はおなかがすいた、と冷やご飯でおにぎりを作った。手は大きい。残りごはんで大きなおにぎりをひとつ。器用だ。味噌をつけ、そのままの手で食べた。
「おいしそうね、ひとくち」
 初めて食べた。素朴な味。
「パパには内緒だよ」
ああ、幸子さんが作ったのだな。
 英幸は炊飯器を洗うと米を研いだ。私は見ていた。
「おばあちゃんが教えたのね」
「……僕の仕事だった」

 ごはんが炊き上がると英幸は見ていた。私が反応しないと、
「炊けたらすぐほぐさないと駄目だよ」
しゃもじを持って器用にほぐした。
……幸子さんは息子を見事に躾けていた。その晩食べたごはんは光っていた。

 やがて、私は少年に見惚れるようになった。神は女の私の顔を、手を抜き適当に仕上げた。少年はまだ中性的で私はある映画を連想した。14歳の美少年。恋焦がれた音楽家は髪にさわることもなく死んでいった。私は触れられた。髪にも頬にも。肩にもお尻にも。
 それを見ている男がいた。男には触れられない。話もできない。そして少年は知っていた。楽しんでいた。父親の反応を。少年は空を見上げた。ため息をついた。父親の手の中でグラスが割れた。少年の中に前妻がいた。

『私がまだ非常に若かった時のことだ。ホームズ君。私は生涯に1度しか経験したことのない恋愛をした……
 彼を見ていると愛おしい彼女のあらゆる仕草が私の記憶に蘇ってきた』
 

少年

少年

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-05-13

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