
思い出
ユウナギ
もうすぐ30歳になる。また見合いだ。いやになる。
夏の終わり、久しぶりにプールで泳いだ。日曜の3時。
そこに目を引く若い女がいた。延々と泳いでいる。広い肩幅。クロールと背泳を交互に。
俺は同じコースであとを追った。等間隔でずっと泳いだ。彼女は自分のペースを崩さず4時に上がり更衣室へ行った。
急いでシャワーを浴び着替えた。受付の近くで待つ。帽子とゴーグルで髪型も目もわからない。
しばらくして彼女は来た。あの肩幅。
ダメだ。若すぎる。まだ高校生かもしれない。化粧していない光っている肌。染めていない長い黒髪、目が印象的だ。スタイルもいい。肩幅だけ広すぎるが。おしゃれとはいえない服。しかしそのほうが引き立つ。
彼女は歩き出す。誘うのは……できない。ただあとをつけた。彼女は近くのラーメン屋に入った。時間は5時前。
俺は少し考え店に入った。まだ客はいない。彼女もいない? 夫婦でやっている店らしかった。彼女はこの店の娘か?
ラーメンを注文する。しばらくして運んできたのは彼女だった。長い髪を束ね、営業用の愛想笑い。働いているのか? この店で?
彼女はサッちゃん。入ってきた常連客がそう呼んだ。幸子か?
繁盛している店だった。幸子目当ての客が多い。近所の若い工員が気安くサッちゃん、と呼ぶ。彼女はきびきび動く。会計は暗算で素早い。
俺は釣りをもらい彼女の手を見て驚いた。若い女の手ではない。大きくて苦労した手だった。傷があった。手のひらに……
小1時間いて得た情報。年は18歳。名前は幸子。秋田か青森の出身。中卒で東京に出てきて家に仕送りしている。水泳が楽しみ。今日も泳いできたのか? と聞かれていた。店は9時まで。
9時に店の前で待つ。幸子は俺を見て戸惑い……無視して歩き出した。深呼吸して走り出す。
まさか走って逃げるとは……それが速い。追いかけ肩をつかむと……
不覚。彼女は腕を振り上げ、振り下ろし一瞬で逃げた。護身術か?
翌日仕事帰りに寄った。彼女が注文を取りに来た。ビールと高い順に3品頼む。店主の愛想がよくなる。
「顔が引きつってるぞ」
上客の俺に営業用の笑顔。石鹸の香り。
「今日も泳いできたのか?」
「……銭湯行くより安いの」
彼女は客に言われ領収書を書く。難しいワタナベ、と言われポケットからメモ用紙を出しさらさら書く。
難しいワタナベを何種類も書けるのか?
俺も領収書をもらう。
「ツゲ」
幸子はメモ用紙に書く。
(拓殖)
難しい名前を探す。
「リンタロウ」
(林太郎、麟太郎、凛太郎)
1週間通い詰めた。営業用の愛想のいい笑顔。店の常連客が幸子のおかげでまた増えた。
母は察した。だが、聞いたら驚くだろう。論外だと。
毎日領収書をもらう。徳川慶喜、諸葛亮。幸子はメモにサラサラ書いて笑う。愛想笑いではない。楽しんでいる。
「今日は誰?」
「スティーブン、キング」
(Stephen King)
「君の好きな名前でいいよ」
(ヒースクリフ)
「今読んでるの」
日曜日3時のプール。幸子は泳いでいた。あとをつける。彼女は笑った。営業用ではない。その日はラーメン屋まで並んで歩いた。
「9時に待ってる」
彼女は頷いた。
久しぶりに家で食事した。見合いは断った。母は彼女がいるなら連れてこいと言う。まだ彼女ではないし、不可能な恋。
その夜から9時に店の外で待ち彼女を送る。風呂もないアパート。幸子は11歳上の男を恋愛対象とは思っていない。おにいさん、と呼ぶ。言葉に訛りが残る。
「田舎に帰りたい」
愛しくて抱きしめた。
足を踏まれる前に離し飛びのいた。
おにいさんが抱き締めてはいけなかった。
「俺がおまえの故郷になってやる」
なぜそんなことを言ったのか?
立ち去るなら2度とは会わない。諦める。諦めて見合いして結婚する。
幸子は立ち止まった。心の声が聞こえたのか? ひとりで健気に生きてきた幸子が泣き崩れた。
初めて部屋に入った。殺風景な部屋。初めてインスタントコーヒーを飲んだ。砂糖と粉末ミルクの微妙なバランス。
「おいしいでしょ?」
「ああ。うまい。毎日飲みたい」
テレビもない。働いてるラーメン屋では常についている。幸子は物知りだった。ニュースにワイドショー、政治、スポーツ、雑学、俺の知らないことを知っていた。中学の成績は良かった。漢字と数学、歴史の本があった。小説はたくさんあった。
幸子はノートを付けていた。わからないことを書き出している。それが10冊以上。丁寧な字だ。辞書で調べるのか?
夭折の天才、揮毫……わからない言葉は調べて、済になっている。
『ベナレスで夜明けのガンジス川を見た。素晴らしかった……』
「これは?」
「新聞の投書欄。自分の悩みのなんとちっぽけなことか……絶望してたときだったから……見てみたいわ」
(連れて行ってやる)
詩もあった。断片だけ。ラジオやテレビから聞こえてきた断片だけ。
(おまえはなにをしてきたのだと吹きくる風が私に問う)
「中原中也」
「おにいさんはなんでも知っているのね」
ラジオでクラシックを聴くのが好きだ。
ウイスキーのコマーシャルのピアノの曲?
コーヒーのコマーシャルの雄大な曲?
彼女の謎を解明していく。何年か前のコマーシャルの曲を口ずさむ。俺も思い出し口ずさむ。
「チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番第1楽章」
幸子はノートに書く。
「おにいさんはなんでも知っているのね?」
「有名な曲を知らないんだな」
「私は無知だから……」
「無知じゃない。話していてこんなに楽しい」
「ウイスキーのほうは?」
「モルダウだよ」
この会話、クラシック好きの母が喜ぶだろう……いや、無理だ。
幸子の数年来の疑問が解けていく。次に来る時はCDを持ってきてやろう。幸子からも教わる。彼女の心をとらえたジャズ、ロック、演歌、歌謡曲も。
数学は好きだったから独学で勉強していた。高校数学の分厚い本。数列が面白いか? ラジオで英会話を聞いていた。
「もっと勉強したかった。友達の家にピアノがあって、素敵な応接セットがあって、私よりできないのに高校行った……ピアノ、習いたかった」
(今からでも習わせてやる)
キスは我慢する。この年下の娘の兄貴でいいじゃないか。やがて郷里に帰るまで見守ってやるだけで……
幸子は貪欲に曲を聞く。貸したCDが頭の中で鳴っている。俺の好きな曲に共鳴する。
「あなたは弾けないの? テンペスト」
「妹たちも続かなかった」
ピアノは宝の持ち腐れ。
「子供に習わせたいわ。男の子に。テンペストを弾いてもらうの」
「俺の子に?」
幸子は肯定も否定もしなかった。
「君はなんでもできるようになる」
「ならないわ。なにひとつ、うまくいかない」
夜間高校に行けるはずだった。就職してみると話は違った。食肉加工工場で男の課長にひいきされ嫉妬された。袋詰めしている肉の中に包丁が紛れ込んでいた。
「美貌の罪ね。誰がやったかわかった。怖気付いてかわいそうだった。かばってやったの。自分の不注意だって」
幸子は笑う……
抱きしめた。幸子は泣きもしない。
「あなたはどこかのお嬢さんと結婚して。私は田舎へ帰る。先に死んだほうが亡霊になって会いに来るの。キャシーみたいに」
そうだな。それがいい。そうするしかないんだ。
19歳の誕生日に外に連れ出した。買ったばかりの車で迎えにいく。自慢した。バカだった。
彼女は車にも詳しかった。服をプレゼントした。幸子が入ったこともない店で。1桁違う金額の服。それを着て食事に行く。車の中で化粧してやる。淡い口紅だけで充分きれいだ。
エレベーターから降り、彼女は堂々としていた。場慣れしていた。テーブルマナーは教える必要がなかった。ホテルで働いていたからだ……
「誘われるの、日常茶飯事だったんだろ?」
「当然でしょ。 百万出すって気持ち悪いのがいたわ。できないから添い寝するだけだって」
若くて美しい娘の過去になにがあったか?
宝石店で指輪を選ぶ。幸子は意味がわからない。
「時間がないんだ。また見合させられる」
「私を……選ぶの?」
「ああ、そうだよ」
「もう、働かなくていいの?」
「1桁違う生活をさせてやる」
幸子は指輪を選ぶ。正面に陳列してある、車より高いダイヤ……
店員が説明する。小娘に……
幸子の質問に、店員がたじたじになった。
「これがいい。傷もないし」
無理だよ。それは……
「これが欲しい。1桁じゃいや。ほかのならいらない」
幸子は指輪を置いて出て行った。
「すみません、また来ます」
この女のためなら車なんか手放す。本当に欲しいのなら……
しかし、幸子は笑っていた。笑い転げていた。ダイヤはただの光った石。
「驚いた。宝石にも詳しいんだな」
「原価も掛け率もね。ホテルで働いてたときに展示会のたびに手伝わされた……安く買えるわよ。紹介しようか? 私なら原価でいいって」
「……」
「金を払ってもいいって」
「百万で添い寝するだけか?」
「悪い? 大学いきたかった。大倹受けて……」
「……いかなかった」
「軽蔑してやるの。あなたみたいな高学歴の金持ち。バカばかり。3月で都会とはお別れ。田舎にできるスーパーで働く……今より安い給料で。楽しみだわ。学歴を見下され、美貌を嫉妬され意地悪されて快感。次は何をされるか……」
幸子は手を見る。俺は想像しただけで震える。
暮れに幸子は田舎に帰った。ホームで見送る。4日会わないだけなのに。こんなに辛いと思ったことはない。もう帰ってこないのでは? 不安が胸を押しつぶす。正月は地獄だ。親戚が口々に言う。まだ結婚しないのか?
幸子は帰ってきたが本当の別れが近づいていた。
「こっちで働いて年に何度か帰ればいいじゃないか?」
「ハイジみたいに病気になる」
幸子はため息をつく。決心は変わらない。一方的な愛だ。怒りに任せゴミ置き場の袋を叩いた。右手に激痛が走り血が流れた。ガラスか? 割れたガラスが袋に?
幸子は素早かった。近くの家のドアを叩き救急車を呼んだ。ハンカチの上から彼女の手が押さえる。気が遠くなっていく。
「しっかりするのよ」
頼もしい女だ。必死で俺を支えた。俺が守ってやる必要はない。守ってほしいのは俺のほうだ。
「一緒だな。おまえの手と……キスを……このままでは死ねない」
人間の精神力はすごい。遠のいた意識が戻った。気を失っている場合ではない。幸子の唇が正気に戻した。
怪我のおかげで幸子は帰郷を伸ばし、ずっと付いていてくれた。手術の間は家族とは離れて待っていた。ふたりきりになると世話を焼いてくれた。食事、歯磨き、体を拭き、着替えさせる。そして……勉強熱心な女はキスの研究をする。角度を変える。映画のようにステキなキスを……ずっといてくれるなら治らなくていい。
父が幸子のことを調べさせた。幸子の家族のこと。直接聞いた通りのことだ。深く付き合った男もいない。それでも反対する。母がとりなす。1度会いたい、と。なにを言われるかはわかっている。19歳の田舎の貧困の父親のいない中卒の娘。三沢家の長男の嫁にするわけにはいかないと。
5月の連休に幸子は帰る。もう戻っては来ない。俺は幸子を家に連れてきて紹介した。幸子は家の大きさに驚き、グランドピアノに驚き、飾ってある日本刀に驚いた。
「本物? 斬られるかも」
幸子は買ってやった服ではなく普段の地味な服装で来た。ソファーに座らされ質問攻め。感情をなくすことの訓練を積んでいた女は、怒りも憤慨もせず涙も見せなかった。
すぐ下の妹の言葉に幸子は出て行った。立ち上がり俺の顔さえ見ずに、客にお辞儀をするように丁寧に頭を下げて出て行った。
「本当のことでしょ? 財産目当て」
父は聞く耳を持たなかった。男の孫は3人いる。
海辺のホテル、幸子はベランダに出てすぐ真下の海を見て波の音を聞いていた。長い時間……体が冷え切っても。
1週間後、幸子の実家に挨拶に行った。近くに部屋を借りた。幸子は当面俺を養うくらいの金は貯めていた。車を買ったばかりの俺が自由にできる金は僅かだった。幸子はスーパーで働く。籍を入れて夫婦になった。祝福は幸子の家族からだけ。
5月の海、冷たくないのか? 幸子は足を濡らす。水を得た魚だ。泳いで行ってしまいそうで怖くなる。誰もこない海。幸子の帰りたがっていた田舎の海、青空の下で抱きかかえた。
(了)
思い出