悪女

悪女

ユウナギ

 3月の終わりの夜遅く、女が門の外に立っていた。はかなげな後ろ姿、白い服。風が吹いて木々がざわめく。長い髪がなびく……

 亡霊! ママの亡霊!

 ああ、送別会で飲みすぎた。

 亡霊が振り向いた。

「瑤子……さん?」
 瑤子は義母の亜紀の8歳下の従妹。亜紀が父と結婚し、瑤子が東京で働くようになると毎週のように訪れていた。
「あの坊や?」
「どうしたの? こんなに遅く?」
「……出入り禁止」
 
 ああ、確か、父の部下との婚約を破棄した。結婚式間際で破談になり亜紀も父も大変だった。それ以来、瑤子は来なくなった。
 
 父親が入院し瑤子は仕事を辞め故郷に帰るという。
 愚図る瑤子を僕は連れて入った。
 しかし……瑤子を連れて入ったときの異様な雰囲気。亜紀も父も最初言葉が出なかった。亜紀はすぐに平静に戻ったが、父の態度は異常だった。立ち上がり出て行った。なにも言わずに。
 亜紀は1晩だけよ、と言い父のところへいった。僕は茶と菓子を出した。冷淡な扱いをされた瑤子に同情した。
「大きくなったわね。いくつになった? まだ小学生だったのに」
「もう、21歳だよ。瑤子さんは?」
「23。女は7掛けよ」
「通るね」
「あなたの彼女でも通るわ」
 沈んでいた女がお喋りになった。
 亜紀が戻り部屋に通す。客間でなにか話していた。瑤子は泣いているようだった……?
 
 夜中、瑤子のことが気になり目が覚めた。父の態度はひどすぎた。当時、両親は父の部下と瑤子とよくゴルフに行った。父は、気に入っていた部下と亜紀の従妹を一緒にさせようとしていた。部下は瑤子に夢中だった。破談になったときは酔って大変だった。父も亜紀も謝っていた。

 瑤子には当時付き合っている相手がいた。不倫だ。それを精算しようとし結婚に逃げ、逃げられず壊した。

 かすかに音楽が聞こえ僕は廊下に出た。書斎から明かりが漏れていた。ノックすると、どうぞ、と瑤子が答えた。
 瑤子は椅子に座り曲を聴いていた。23歳に見える女は僕にも座らせた。化粧を落とした瑤子は変わらずきれいだった。
「素顔もみられるね」
 瑤子はむくれる。 
「素顔のがいいって言われたわ」
 不倫相手にか? ナチュラルなロングヘアも。
「どれだけ努力してると思う? お金も。亜紀は手入れしなさすぎ。亜紀は子供の頃から本ばかり読んでた。私はおしゃれにしか興味なかった。皮肉ね。亜紀はステキな旦那と息子を手に入れた」
 勝手に喋り目を閉じ曲を聴く。
「この曲好きだわ。死ぬときに聴いていたい」
「父の好きな曲だよ。エルガーのチェロ協奏曲。エルガーは愛妻家だ。妻になるアリスに『愛の挨拶』を作曲した」
「もう止めて」
 怒った……? ああ、『妻』は禁句か?
「……亜紀はどう?」
「……いいおかあさんだよ」
「英輔さんは、愛してるのかしら?」
「決まってるだろ」
「あなたは愛してる人はいないの?」
「ふられてばかりだ」
「じゃあ、私と一緒ね」
「……明日帰るの?」
「そうよ。送ってくれる?」

 翌朝父は早くに出かけた。急な出張が入ったらしい。瑤子は早くに起きて朝食を作ったが、父は食べずに出かけたらしい。それを僕に出した。亜紀よりうまい。盛り付けもセンスがいい。
「今日帰るんでしょ?」
「英輔さん、いつまで?」
「あさってよ」
「おみやげ買いに行くから、英幸(えいこう)クン、付き合って」

 買い物に付き合わされた。
 両親に服を買っていた。下着売り場では、僕は離れて待っていた。
 たくさんの荷物を車にのせ家に戻った。瑤子は買った下着の包みを亜紀に渡した。プレゼントよ、と。
 亜紀が開ける。瑤子を見て、僕を見た。
「たまに、そういうの付けなさいよ。亜紀もおしゃれしなさいよ。今に英輔さんに愛想尽かされるわよ」
 亜紀の自信たっぷりの笑い。瑤子は気にさわったようだ。出ていった。
「幸せそうだね? パパに愛されてる自信あるんだ?」
「男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる。オスカー ワイルド」
 僕は思わず亜紀をみつめた。亜紀はパパの最後の女だ。そうでなきゃ困る。
 黒の下着を亜紀がつけるところを想像する。子供の頃抱きしめてくれた重量感のある胸の感触、スポーツで鍛えていた身体。まだ余分な脂肪は付いていない、はずだ……
 
 瑤子は書斎で音楽を聴いていた。ベートーベンのテンペスト。
「楽譜ない?」
 階下に降りピアノを弾いた。
「これだけは弾けたんだけどな。弾いてよ、ボク。うまいんでしょ?」
 僕は弾いた。瑤子は目を閉じている。
「終わったよ。拍手はないの? 寝てるの?」
「聴いてるわよ」
 次はスクリャービンのエチュード悲愴。
「明日ゴルフしない?」
「今日帰るんだろ?」
「明日ゴルフして夜帰る」
 亜紀はダメだとは言わなかった。

 ゴルフも久しぶりらしい。亜紀のウェアを着た瑤子は人目を引く。うまくはない。下手だ。空振りもする。僕が笑うと彼女はむくれ、目を閉じ集中した。僕たちは恋人同士に見られた。きれいでいることが瑤子の仕事。性格の違う亜紀のことは好きではないらしい。

 帰りの車の中、
「音楽はいらない。なにか喋って」
 瑤子は目を閉じている。
「もう、戻ってこないの?」
「そうよ。田舎で埋もれる。朽ち果てる……」
 恋人は? とは聞けない……
「喋ってよ」
「不倫……」
「知ってたの? 坊や」
「大騒ぎだったからね」
 瑤子は窓を開けた。出してはいけない話題。僕も窓を開けた。風が気持ちいい。瑤子の長い髪がなびく。
「……亜紀をどう思う? 魅力ある?」
「亜紀はちょっと面白い女だよ、って父は言うけど、ちょっとどころじゃないよ」
「面白いわね。確かに。亜紀は一生独身だと思った」
「亜紀はいなかったの? 結婚しようと思った男?」
「いいわよね。社長夫人」
「亜紀は……物欲はない」
「豚に真珠」
「ひどいな」
 瑤子の胸元に赤いサンゴのネックレスが見える。亜紀はほとんどアクセサリーを付けない。
 瑤子は目を閉じている。眠ったのか?
「話してよ。なんでも。音楽の話、映画の話、本の話。初体験でも……」
「……」
「亜紀と……想像しなかった?」
「え?」
「よくあるじゃない? 義母とやっちゃうの」
「よせよ。恐ろしい」
「去勢されるわね」
 瑤子は声を出して笑った。
「あなたのおかあさんは幸せね。死んでも忘れられない」
「……僕の母は亜紀だよ」
「〜〜死んだおんなより〜〜もっと哀れなのは〜〜忘れられたおんなです〜〜」
「なんだよ? その歌?」
「鎮静剤」

 瑤子が帰る日は伸びていく。その夜は疲れたからと眠ってしまった。
 翌日の昼過ぎ、僕は瑤子を送った。駅までのつもりが実家まで。途中バラ園に寄りまだ咲いていない庭を散策した。瑤子は腕を組んできた。紅茶を飲みアップルパイを食べた。瑤子は目を閉じ思い出に浸る。不倫相手と来たことがあるのか? もう精算してきたのだろうか? 

 実家に着いた。母親は帰りが遅くなるという。広い家に瑤子とふたり。瑤子は荷物を片付けシャワーを浴びに行った。

 期待していた。誘惑したのは彼女のほうだ。
 指の逍遥。瑤子は目を閉じている。
「ペチャパイだと思ってた。結構あるんだな」
「もっと褒めなさい。きれいだって言って。名前を呼んで。愛してるって言って」
 ベッドの上ではいくらでも言える。いや、本気になりかけている。23歳に見えるひと回り年上の女に。
「瑤子、きれいだよ。愛してる」
「大丈夫よ。今日は安全日だから」
「……」
「ドクター亜紀に教育された? 年上の女に騙されるなって」

 思考停止。瑤子は誘惑した。彼女は全身全霊で僕を誘惑した。瑤子は目を開けない。珊瑚のペンダントだけを身につけた瑤子。血赤(ちあか)の珊瑚……血赤……
 瑤子は上になる。長い髪が揺れる。血赤の珊瑚が揺れる。
 思い出す。亜紀の胸にも下がっていたことがある。なぜ? 目を閉じ喘ぐ瑤子が亜紀に見えた。亜紀、この世で1番尊敬する女……亜紀の下にいるのは?
 
 ダメだ。
 瑤子はなにも言わなかった。気づかれたことに気づいても。言葉より先に手が出ていた。女に暴力をふるった。
 平手だ。たいしたことはない。

 途中ホテルで1泊した。体を洗い流す。なにもなかったことにする。亜紀の目が怖い。見破られる。
「実家まで送って観光してきた」
 亜紀は怪しむ。
 血赤の珊瑚。気持ち悪いから覚えていた。でも確かではない。思い違いか? 思い違いかも……? 思い違いであってほしい……

 亜紀の留守のときに僕は探した。瑤子のネックレスと同じもの。亜紀の胸にかかっているのを見たのは確かなのか?
 夫婦の寝室をそっと開ける。片付けの下手な女の部屋。僕は亜紀の宝石箱を開けた。探しているものは見当たらない。感のいい女はとっくに隠していた。なぜか手に取るようにわかる。この乱雑な部屋はひとつでも動かせばわかるだろう。亜紀は僕がやることをわかっている。
 思わぬところからそれは露見した。僕にも亜紀のやることはわかるようになっていた。妹のおもちゃ箱に……
 亜紀は僕に見せまいとして手の中に隠した。
 僕は亜紀の指を力ずくで開かせようとした。互いの目には憎しみがこもる。
「私はおまえの母親よ」
 なおも続けると、足を蹴られた。
「見なくたってわかるよ。珊瑚だろ? 瑤子のおとうさんにもらった?」
「そうよ。叔父は私と瑤子に同じものを買ってきた」
 僕は亜紀の顔をじっとみつめた。眉ひとつ動かさない。とても太刀打ちできない。
「瑤子はあなたにもらったって」
「まったく……そうよ。パパのプレゼントよ。妻と妻の従妹に同じもの。面倒くさいから同じもの。瑤子は喜んだでしょ。妻と同等の扱いをされたと思ったかも」
「パパは寝たの? 瑤子と。おかあさんは妊娠してた」
「パパを侮辱しないで」
 殴られると思ったが亜紀は我慢した。
「私の息子を誘惑するなんて。瑤子の耳を薬でつぶしてやるわ。自慢の手足を切り落とし、両目をえぐり、薬で喉もつぶしてやる。それから……」
 さすがにあとは言わなかった。
「この家にやっと穏やかな暮らしが戻ったのよ。それを壊さないでくれって、パパは瑤子に土下座して頼んだのよ。瑤子は諦めるしかなかった。父親が危篤になったとき、なんて言ったと思う? パパに会えるのはもう不幸があるときだけだって。家に来たとき追い返していればよかった」
「なにもないよ。僕たちはなにもない。瑤子はそんなにバカじゃない」
 亜紀がまくしたてたおかげで僕は冷静になれた。亜紀はもう僕の様子から真実を見抜くことはできなくなっていた。
「おかあさんはどうしてパパと結婚したの? あんな弱くて情けない男。僕のため?」
「弱くて情けない男が好きな女もいるのよ」
「パパとは……うまくいってるの? 忙しすぎて………………」
「疲れたなんて言わせないわ」
「……負けた」
「勝ったわ。ハハハ」
 顔色ひとつ変えない。何百ものオスを去勢してきた女だ。
 見透かされなかったか? 瑤子とあなたを重ねたこと? 知られたら生きていけない。あなたは、光栄だわ、エイコウクン、なんて言うだろうな……

 電話して怒りをぶちまけようと思ったがやめた。2度とこの声を聞かせてやるものか。亜紀でさえ父と間違えるという、パパそっくりの声を。
 パパに会えるのは不幸があったときだけ……哀れな女だ。
 
 家を出てアパートを借りると言ったとき、亜紀はもう瑤子のことは聞かなかった。
「いつまでも家にいるほうがおかしいわね。勝手にしなさい。そのかわり、全部自分でやるのよ」
「そっちこそ。ちゃんと掃除しろよ」
 涙が出そうになって急いで家を出た。
 殴ってくれ。2度と妄想するなと叩きのめしてくれ。
 もうこの家には戻れない。

悪女

悪女

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-05-12

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