真夜中探偵

『まえがきという名の言い訳』
 このサイトを利用するのが初めてで、色々勝手が分からぬままに拙作を投稿してしまいました。
 できれば色々な人に読んで頂いて、至らぬ点などの指摘を(出来れば具体的に)していただければこの上なくありがたいです。

本格推理小説・・・・・・になっていればいいなあ

 月が中天高くに昇り、草木も眠ると言われる午前二時。月夜町の繁華街は今が騒ぎ時とばかりに賑わっていた。市の条例で深夜営業を禁止された店が、日向に集まる蝿のように店舗をこの駅前の区域に移した。もっとも、日向というより日陰と呼ぶ方が適当かも知れない。わたしはコンビニで買ったアンパンとコーヒー牛乳を手に、電柱の裏から路地、路地からゴミ箱の陰へと移動して、少しずつ前方の人物に近づいた。固唾を呑み、アンパンをひと齧りする。
 わたしから前方へ十メートルほどの距離を置いて、お下げの少女が革カバンを提げて道を歩いていた。空を見上げるように傾けた顔には幼い表情が浮かぶ。制服こそ着ていないが、どう見ても未成年だった。わたしはコーヒー牛乳を飲もうとコンビニの袋を漁ったが、ストローが無い。あの態度が悪い店員、ストロー入れ忘れてやがる!
 俄然腹が立ってきて、思わず「くそうッ」と罵声を口に出してしまう。すると道の先に立っていた少女がくるり、と振り向いた。
「なんだ、カラスさんか。どうしたの、そんなところで」
 にっこりと微笑む少女に毒気を抜かれ、しぶしぶ往来の真ん中に出た。しかし、威厳だけは損なってはならないと気負い、咳払いを一つしてから、
「あー、うん。真夜、今何時だと思っているんだ」
「ねえ、カラスさん。お腹すいちゃったよ。どっか食べに行かない?」
「え、いや。このような夜更けに繁華街なんかで」
「もちろん、お代は払ってあげるからさ」
 その時、わたしの脳裏に預金通帳の四ケタの数字が浮かび上がった。そして、昼間に読んだ雑誌の「二十代後半で預金三百万の無い男性の生涯未婚率は……」という煽り文句も響いた。しかも、今日口にしたものは、朝食のトースト一枚と今手に持っているアンパンだけだ。狂おしいほどに腹が不満を訴えている。
「まあ、仕方あるまい」
 負けた、訳では無い。場所を変えて話をするだけだ。にやにやと不敵な笑みを浮かべる少女につれられて、わたし鴉山千歳は駅前の公園で屋台を出しているラーメン屋にやってきた。毎週火曜と木曜にここで商売しているラーメン屋の親父とは、古くからの顔見知りだった。
「おう、また来たのかい、カラスの旦那と真夜ちゃん。いいんですかい、警察官が頻繁に中学生の女の子連れて深夜出歩いたりして」
「教育的指導をするためであって、何も疾しい事は無い」
 屋台が出ている日はほとんど顔を出しているが、この店にわたしと真夜以外の客が来ている様子を一向に見た覚えが無い。このような客入りで大丈夫なのか、と時折心配するが、所詮他人事である。
「おじさん、わたしとカラスさん二人ともチャーシューメン」
 真夜はそういって冷水を二つのコップに注ぎ、片方をわたしに差しだした。冷水で咽喉を潤し、一旦頭を冷やすこととする。
 少女の名前は真中真夜。私立月光学園中等部在学中のいわゆるお嬢様だ。本来なら箱入り娘とされるところを、彼女は数知れぬ深夜徘徊による補導歴で、ただの非行少女と成り果てていた。そして、繁華街を担当にされているわたしが一番彼女を補導している。
よく知られている通り、警察官は二人一組となって乗用車でパトロールするのが常なのだが、相棒となっている(わたしと違い車を運転できる)男が怪我で入院してしまい、今しばらく代わりの人員がやってこないままという状態が続いてしまっている。その状態が災いして、十も年の離れた少女に言いようにあしらわれている、と他人からはまま見られている。無論、そのようなことは事実無根の風聞に過ぎない。わたしはあくまで真夜の非行の原因を慎重に探り出そうと試みているだけだ。その思慮深さ故に、迂遠な過程を進んでいるよう他者の目に映るだけである。
 わたしは間違っていないはずだ、とブツブツ呟いていると、目の前に湯気の立ったラーメンが差しだされた。まず、ラーメンで腹をくちくしてから説教を切りだそう。そう決めて割り箸を手に取った。
「カラスさん。前から注意しようと思っていたんだけど」
 麺を口いっぱいに頬張ったまま真夜を見る。
「お箸の持ち方間違えているよ」
 そういって示した彼女の持ち方は、食事のマナー教本などで良く目にかかる美しい形をしていた。それに引き換えわたしの箸の持ち方は雑、というより猿が棒を握っているのと変わらない。
「つ、つまらないことだ、箸の持ち方など」
「あーあ、これじゃどっちが子供か分かんないね」
 呆れた顔をしてから真夜は器に息を吹きかけ、熱い麺を冷ましていた。彼女は猫舌だから、しばらく時間を経たものじゃないと口にできないのだ。最初に知った際麺が伸びるぞ、と指摘したが、伸びたラーメンの美味しさを知らないなんて、と何故か同情された。
 初めて真夜を補導したのは一年近く前になる。当時、月夜町に配属されて間もない頃だったので、真夜については何も知らなかった。まだ十時を過ぎたばかりの時間だったので、ただ少し忠告しただけで解放したのだが、次の夜も見つけた時は流石にきつめの注意をした。最近多い塾帰りの子供とも思えない時間帯だったからだ。彼女の両親に連絡をすべく、家の電話番号を教えるように命じると、素直に学生証を出した。そこに記載された自宅の電話番号に先輩の相棒警官が連絡している間、わたしはじっと彼女が逃げないように観察していた。
 お下げにした長い黒髪、洗礼された物腰と端整な顔立ちはいかにも良家の子女という風だが、暗い瞳が何か違和を訴えかけていた。
 その夜両親とは結局連絡がつかず、警察署につれていくことになった。しかし、署で他の先輩警官に真夜のことを話すと、すぐに解放してあげるように指示された。
 もちろん、不可解な指示に納得できなかったわたしは、先輩に食って掛かったが、返された言葉に何も答えられなかった。
「あの子の両親はほとんど自宅にいないんだ。仕事場も県外だから中々捕まえられないし」
 真夜は深夜徘徊の常習犯で、このようなことは昔から頻繁にあったのだという。警察署に一晩留まらせても、両親の仕事場に連絡しても、解決しない。だから、彼女のことは暫定放置するほかない、となった。他の仕事も山積していたし、一人の少女のために特別な対処をするわけにもいかない。現状としては発見次第自宅に帰るよう促す程度のことしか出来なかったのだ。
 後に知ったことだが、月光学園は別名孤児学園と呼ばれているらしい。全寮制の学校だが、寮から出て一人暮らししている生徒も多いのだそうだ。そして、真夜もその一人暮らし組に与するわけである。月光学園は金さえ貰えれば生徒に無関心な学校で、子供に手間暇を掛けたくない金持ちの親が利用する恰好の場となっている。だから学校への連絡も何ら効力が無い。
「ラーメン食べたら家に帰るんだぞ?」
 わたしは真夜より先に食べ終えて爪楊枝を噛んでいた。彼女はまだラーメンを半分ほど残していたが、あまり食が進んでいない様子だ。
「どうかしたのか」
「別に。ただ、少し言っていなかったことがあってさ。実は今日友達と会う予定なんだ」
「友達、ってまさか同級生の?」
「いや、学校は違うんだけど同い年。その子もわたしと同じで家に居づらいから、偶にそういう子が集まる溜まり場で顔を合わせるんだけど、今日は二人だけで話そうって、約束していて」
 どうしたものか。警察官の立場から言って、深夜徘徊する中学生を看過するわけにもいかない。だが、頭ごなしに真夜と友達を家に帰すような真似は避けたいところだった。
「仕方ないな。じゃあ俺が一緒にいることだけ、彼女に納得させてくれ。それが条件だ。それが受け入れられないようなら、二人とも有無を言わさず家に帰す」
「ありがとう」
 真夜は打って変わって笑顔になり、ラーメンの残りを一気に食べ終えた。どうも、近ごろ彼女の思い通りの反応をさせられている気がしてならない。
 待ち合わせ場所はこの屋台だった。だから、真夜はわたしにラーメンを奢ってまでやってきたのだ。しかし、落ち合う場所を変えようと思えば出来たはずだ。それをせずにわたしを連れてきたのは、ある程度信用されていると自惚れてもいいのだろうか。
 真夜の友人はわたしを一目見るなり「何、このおじさん」と吐き捨てるように呟いた。まだ若いつもりだったわたしはいたくこの言葉に傷つき、意気消沈した。その間に真夜が要領よく友人にわたしの説明をして、どうやら納得させたらしい。
 彼女の名前は橘愛花。私立西京中学の生徒で、真夜とはカラオケバーで会ったそうだ。その点詳しく問い質したいところだが、一先ず彼女が真夜に話したかったことを聞くこととした。
「うちの母親が警察に捕まりそうなんだ。どうすればいいと思う?」
 警察という単語が出た途端、何故か真夜に睨まれた。別にわたしが関与している訳ではないだろう。
「もっと詳しく話して」
 真夜と違い、愛花の説明は脱線が多く、状況の飛躍や無関係な事柄の委細について異様に拘るなど、とても分かり辛かった。
「最近家に帰ると寝てるはずの父親が起きているからさ、早くに帰りたくなくって。昨日も帰るのが夜遅くになったんだ。どうせ着替えとシャワーに戻るだけだったんだけど、父親は顔も見たくない。というか、本当に一緒の家にいるのも嫌。しかも、洗濯物のバスタオルだけじゃなくて下着とかもリビングに平気で吊るしてエアコンで乾かしているんだよ、あり得なくない。タオルや服も数が少ないから吊るしてある乾いたものから使わないといけないし。そろそろ本気で自分のタオルとか用意して名前を書こうかと考えているけど、絶対うちの親父は名前書いても気づかないのよ。この前も冷蔵庫のシュークリームに」
「関係ない話はそのぐらいにしてくれないか」
 何気なくわたしがそう言うと、愛花は睨みつけて来ただけで何も答えなかった。
「そして、昨日家に帰ったらやっぱり部屋の中で洗濯物乾かしていて、しかも暑くて死んじゃいそうなぐらい暖房効いているの。いくら十二月に入ったといってもあれは無いわ。運の悪いことに家に入ったら母親にいきなり説教された。また下らないテレビ番組観て馬鹿笑いしていただけのくせして、何が心配するから、だ。それが終わって、さあシャワー浴びようと思ったら風呂場の方で母親が悲鳴上げて。見に行ったら親父が脱衣所の床にびしょ濡れで引っくり返っていてさ。本当にありえない。んで、すぐに警察が来て、なんか調べて帰ったと思ったら、今日の昼に突然またやってきて母親をつれていった」
 曖昧な部分が多すぎて何から質問すればいいのか判然としないが、わたしは当面答え易い問いかけから始めることにした。もちろん、相手は警戒心強い年頃の女の子なのだから、親しみ易いスマイルを浮かべて、
「警察に電話したのは誰かな。君、それともお母さん?」
「何であんたが訊いてくるの。訳分かんないんだけど」
 笑顔が引き攣るのが自分でも分かった。相手が男なら殴りつけているかもしれない。慌てて真夜がフォローする。
「ま、まあまあ。彼はわたしの質問を代弁してくれているのよ。それで、どうなの。誰が通報したの。それと、倒れていたお父さんはどんな様子だった」
「おかあ……母親だよ、連絡したのは。わたしは廊下でずっと立ちっ放しだったから。親父の姿はよく見てなかったから詳しく答えられない」
「救急だ、とお母さんは電話で言ったんだよね」という真夜の問いは、母親が突然父親の倒れているのを見て救急では無く警察を呼んだとすれば、傷害事件だと瞬時に見抜いたことになる、という発想に根差している。それは三つの推測を生む。一つは父親の身体に他者からの損傷を容易に認められるという推測。もう一つは母親自身が父親を傷つけた張本人であるという推測。あるいは、その両方である推測も成り立つ。
「うん。最初は救急車が来て、親父を病院に連れて行ったんだけど。救急隊員の人が何だか妙な顔をして、警察が来るまで浴室と脱衣所には立ち入らないでください、って。それで、すぐ警察の人が来て色々調べて行った」
 なるほど。その救急隊員は父親が倒れた原因に何か不審な点を見つけた訳だ。そして、警察の出動を要請した。何が不審だったのか。その不審な点はあからさまなものなのか。発見時の父親の姿を愛花が一瞬しか見ていないのが悔やまれる。
「お母さんを連れて行った、って。警察の人はどうして連れて行くのか理由を話してくれた?」
「何も話してくれなかった。ただ、話を聞きたいからって。家でも散々訊いてきたのに。何で、お母さんだけ連れていかれなきゃならないのか、分からなくて」
 愛花はここに来て堪えられなくなったらしく、声を上げて泣き出した。どうも、倒れた父親よりも警察に連れて行かれた母親の方が気に掛かるらしい。何だか複雑な気分だったが、哀れなことに変わりは無い。
 警察の言い分から察するに、母親は任意同行で連行されたらしい。
「真夜、何とかしてよ。わたしどうすれば良いのか」
「大丈夫、大丈夫だから」
 何とか愛花を宥めて泣き止ませると、真夜はわたしに向き直った。
「どう思う? 現役の警察官さん」
「どう、と言われましても」
 判断材料が少なすぎる。まず、父親が倒れた原因は何なのか。母親は事情聴取で何を話したのか。現場に何が残っていたのか。目下、これだけのことは最低限必要な知識だ。そうでなくては警察が何を根拠に母親を連行したのかさえ推理できない。
 それに、昨日起こった事件で、今日母親を同行させたのはどうしてだろうか。昨日分からなかったことが、今日になって分かったからか。それにしても恐らく決定的な証拠があった訳では無い。それならば出頭など求めず、すぐに逮捕するはずだ。状況証拠か、消去法か、ともかくそういった消極的証拠に基づいた任意同行だろう。
 まだ、疑いを晴らす術は残されている。それが濡れ衣だとすれば、正義の警察官として見過ごしておけない。わたしは内心滾るものを感じていた。
 ところで、父親は結局どうなったのだろうか。
 真夜も同じことを考えていたらしく、
「お父さんが入院している病院はどこ? 意識が戻っているなら既に警察から話を聞かれているだろうけど、そうでないなら取りあえず倒れた原因だけでも聞きに行きましょう」
 愛花は病院名だけは知っているが、父親の容体については全く何も知らないのだそうだ。見舞いに行こうという料簡も持っていないらしい。最近の女の子はこうも父親に無関心なものなのだろうか。
 何はともあれ父親が入院している月夜総合病院に出向くことと相成った。どうでも良いことだが、以前わたしがバイクで転倒して口の中に大きな傷を作った時も、この病院を利用した。口腔外科が設けられている市内で唯一の病院なのである。市内で大きな怪我をしたら大抵の場合、ここに搬送される。
 受付で無愛想な看護師から愛花の父親の病室を訊きだしたが、見舞いの時間を考えろと叱られた。もっとも、見舞いに来たわけでは無く、父親が倒れた原因を知りたいだけなので、その件は主治医にでも訊けば良い。だが、全くの赤の他人であるわたしや真夜に口を割るとは考え辛いので、愛花に聞いてもらうことになった。幸い、その主治医は宿直医なので、こんな遅い時間帯でも会って話をするぐらいなら大丈夫なのだそうだ。
 それまでの間、わたしと真夜は玄関ホールの待合室でテレビを眺めて待つことにした。とはいっても、電源をつけた途端に砂嵐が映り、受付の看護師から怒鳴られたのだが。
「警察はどうして愛花のお母さんをつれていったのだろうか」
 黄緑色の座席に腰かけた真夜は両手を組み、そこに顎を乗せて上目づかいにわたしを見た。わたしはテレビの電源を消し、その脇に備えられている週刊誌を一冊抜き出して彼女の隣に座った。
「愛花ちゃんの話した状況から判ずるに、凶器からお母さんの指紋が出た、とかお母さんが犯行中の状況を誰かに目撃された、という決定的な類の証拠が出た訳では無い。だとすれば一番堅いのは」
「アリバイね」
 彼女の口からアリバイ、なんて似合わない台詞が飛び出たのには、今更驚かない。真夜はあどけない表情をしながらも大の推理小説好きなのだ。
「疑わしい人間をリストにし、犯行推定時刻にアリバイが無いのが必然的に犯人となる、というお定まりの黴が生えた手法だ」
「でも、一番堅実で確実な手法でもある、でしょ?」
 何も答えず、雑誌のページを捲った。まずは愛花の報告を聞かなくては始まらない。
 二十分ほどで愛花が戻ってきて、主治医から無事に話を聞き出せた、と言い可能な限り聞いたままに語ってくれた。
父親の身体には一見外傷が見られないけれど、首筋に針で刺したような新しい小さな傷が確認でき、表面に出ている症状も踏まえてここから何らかの毒が回っていると見当をつけた。早急な検査の結果、使用された薬物は濃縮されたニコチンだと分かったそうだ。すぐに治療を施したものの、被害者は糖尿病を患っているため免疫が弱く、今は人事不省に陥ってしまっている。
予想外に深刻な結果にわたしも真夜も絶句した。愛花はさらに気落ちした様子で、肩を落とし、今にもその場で崩れてしまいそうだった。それにしても、使われたのがニコチンの毒針だとは。
つまり、これで持病の発作だとか、滑って頭を打ったなどの事故の線は消えて、傷害事件だということが確定した訳である。まあ、実際問題で警察が出張っている以上、そうした可能性は希望的観測として残したに過ぎないが。
次は捜査状況について詳しく知りたいところだが、同じ警察とはいえ、刑事課とわたしの席を置く生活安全課は直接的な関わりがあまりない。となると、やはり口の軽い奴を捕まえ、酒でも飲ませて吐かせるしか無いな。
幸い警察というものは人の寝る時間帯でも平気で活動しているため、こんな夜中でも電話するのに抵抗が無い。刑事課の知り合いである鈴木巡査に携帯で連絡をとることにした。
わたしと鈴木は警察学校時代、教官の愚痴で盛り上がった仲だ。血気盛んな警察にも、少数ながらわたしや鈴木のような根暗、というか落ち着いた気風の人間がいる。電話口の鈴木は今仮眠室に行こうと思っていたが、奢ってくれるならば出てきても良い、とのたまった。背に腹は代えられぬ、と承知すると歓声を上げて電話を切った。真夜と愛花の二人には家に帰るよう言い聞かせたのだが、どうしてもついていくと言ってきかない。どちらにせよ、事件を調べるなら愛花の家には行かなければいけないのだから、彼女を送るついでに現場の視察をすることにした。彼女の家は繁華街から離れた住宅地に位置するそうだ。
愛花の住居は2LDKのマンションで、三階で止まったエレベータを出てすぐ目の前の部屋だった。今家には誰もいないから、自由に調べても構わない、と了解をもらい、部屋に上がらせてもらうことになった。
ドアを開けると当たり前だが靴脱ぎがあり、廊下が奥へと延びている。突き当りがリビングとダイニングになっており、そこに至るまで左側に三つ、右側に二つのドアが確認できた。右側の奥のドアがキッチンで、手前がトイレになっている。左側の一番奥が両親の寝室で、真ん中が兄妹の部屋だという。
「愛花にお兄さんいたんだ」
 どうやら家族については真夜も詳しく知らないらしく、驚いたように訊いていた。
「三流大学に通っているろくでなしよ。講義にほとんど出てないから当然単位は落としているし、昨日も親父に説教されていたらしいわ。ホント、いい気味よ」
「一緒に暮らしているの?」
「うん。でも、最近は滅多に家に帰ってこないから、実質わたしだけの部屋みたいなものだけどね」
 玄関ドアのプレートに四人の名前が書かれていたから、もう一人家族がいると分かっていたが、兄だったのか。これで、橘家の人間が全員分かったことになる。父親と母親、愛花とその兄。この内の誰かが父親にニコチンの毒が付着した針を刺したのだ。
 廊下の壁左側にある一番手前のドアが脱衣所と風呂場へ通じているのだそうだ。このドアだけ他の廊下側へ開くものと違って、左へ引く戸だった。ドアを開くと、矩形の非常に窮屈な空間に出た。右手に洗濯されるのを待っている衣類が収納されたボックスが積まれており、左手に洗面台、その脇に洗濯機がある。数歩歩けばもう風呂場になっている。風呂場は二畳半程度のスペースで、入ってすぐ目の前にシャワーノズルがあり、その左隣に恐らく昨日から放置されているために水の張られた浴槽があった。その浴槽もわたしの全身が収まりきるかどうか、という大きさだった。
「狭いな」
「失礼な」
 粗方鑑識が物品を攫って行った後なので、新しい物件が見つかるとは期待していないが、それにしてもどうやって犯人は父親に毒針を刺したのだろうか。わたしの予想では脱衣所がもう少し広めの空間で、被害者が身体を拭いている最中に忍び寄り、首筋を狙った、という流れだったのだが。
 両手を広げると左右の壁に掌がついた。
 こんなに狭い場所だと忍び寄るどころか中に二人の人間が入るのも困難だ。もし犯人が小柄な子供だとしても、揉み合いになるのが必至だろう。まず間違いなく首筋を狙って刺すなんて芸当は出来やしない。
 使用された針はどのような状態だったのか。警察は凶器を手に入れているのか、それが知りたい。そうでなくては本当に針で刺されたことが毒と関係があるのか断定できない。あるいは吹き矢のようにドアの隙間から狙って射出したのかもしれない。それならば室内の狭さは問題ないことになる。
「ここで調べなければいけないことは大体分かったな。愛花ちゃん」
 愛花はわたしに名前を呼ばれると、露骨に不機嫌そうな顔をして見せる。
「君はここで待っていてくれ。これから同僚に会うんだが、こちらのお転婆は有名人だから何とでも言い繕えるけれど、君まで一緒だと色々説明が面倒だ」というよりも真夜がいないと飲み屋の代金が払えない。
「誰が親父の溜まり場なんかついていくか」
 つっけんどんな言い振りだが、一人家に残されることに心細い感じがするのだろう、やや語勢に力が無かった。だからすぐに戻って来るから、と声を掛けると口にこそ出さなかったが、僅かに頷いて返してくれた。
 マンションを出て、住宅地から再び繁華街へ向かっていく。鈴木との待ち合わせに少し遅れそうなので徒歩というよりも競歩だ。隣で小走りになっている真夜を一瞥すると、何やら考え込んでいる様子だった。彼女はわたしが脱衣所を見ている間、リビングに行っていた。何か見つかった? と尋ねるとリビングで部屋干ししてある洗濯物のタオルや服、といったものには何も不審な点は無かった、という。どうして洗濯物しか調べていないのか、と疑問だったがそこを問い詰める気にはならなかった。
 指定時刻ジャストに鈴木と会うことが出来た。とはいっても彼は先にビール瓶を抱えて陽気だったのだが。机の上には空になった食器が所狭しと並んでいる。座敷で横になっている鈴木の背中を足蹴にし、彼の隣に腰を下ろした。
「訊きたいことだけ聞いたら帰る。さあ、話してくれ」
「鴉山君ねえ、一方的に呼び出しといてそんな言い草はないんじゃないの。僕だって、暇じゃないんだけどぉ」
 すっかり酩酊しているが、完全に正気を失ってはいない。どうやらこちらから仕掛けるまでもなく、酒に溺れてくれたようだった。
「昨日橘という家で起きたヤマについて何か知っているか」
「タチバナ? タチバナタチバナ……ああ、俺も行ったよ、現場に」
「それは本当か!」
 ならば伝聞よりもずっと信憑性が高い話が聞ける。捜査中の刑事が飲み屋で酔い潰れているのも考え物だが、大方除け者扱いされて膨れていたに違いない。
「凶器は何だ。ニコチンだというのは分かっているが、何で刺したんだ」
「ふうん。良く調べたな、センセイ。何だっけ、えーと、ああ、安全ピンだよ、確か」
 安全ピンにニコチンを塗って刺した、というのか。
 何だか奇妙な感じだ。安全ピンを吹き矢のようにして刺す、なんてことは出来ないし、かといって手に持って刺すにも適した凶器では無い。
「カラスさん。多分上着に付けたんだと思うよ」
「何だって」
 いつの間にか店の入り口で佇んでいた真夜が座敷に上がっていた。どうやら話を聞いていたらしいが、上着に付けたというのはどういった意味だろう。
「だからさ、安全ピンを外したまま服に刺し込んで、愛花のお父さんが服を着ようとしたら」
「あ……」
 そうか、上着の襟首の部分に針を剥きだしにした安全ピンを仕込めば、被害者が服を着ることによって首に刺さるという寸法か。それほど上手くいくか、という疑問こそ残るが、失敗しても安全ピンなら服に付いていたところで然程怪しまれることも無く回収できる。
「発見された時、その安全ピンはどのような状態だったんだ」
「脱衣所の床に落ちていたんだよ。警察はそこの嬢ちゃんと同じ考えみたいだぜ。安全ピンの先端と、被害者の傷口も一致したし。何より針の先からニコチンも採取されたからな」
 針が刺さったことに気が付いた被害者が、一旦服を脱いだ後確認して抜き取り、次の瞬間に倒れて床へピンを放り投げた、といったところか。
 しかし、何故警察は母親だけを連行したのだろうか。そういった事前工作による犯行ならば、犯行推定時刻は相当広くなる。アリバイなど関係ない。きっと他にも犯行可能な人物はいただろう。例えば愛花の兄も昨日は珍しく自宅にいたと言うではないか。
 そのことを問い質すと、鈴木は手と首を振ってケラケラ笑った。
「ダメダメダーメ。これ以上は教えられません。守秘義務ってやつですよ、ウヘヘヘヘヘ」
 わたしは黙って店を出て行く素振りを見せた。すると、案の定鈴木は凄い勢いで掴みかかってきた。
「待って、俺今日金持って来てないの」
「奢るとは言ったが、こんなにも食うとは思ってなかった。ここの勘定を持つのに、その程度の情報では割に合わんな」
 すると不承不承といった様子ながらも、鈴木はわたしの問いに何でも答えると誓った。
「まず、どうして刑事課は被害者の妻を犯人だと見込んでいるんだ?」
「簡単だよ。犯行推定時刻にアリバイの無いのが被害者の妻だけだからさ」
「いや、安全ピンの工作なら、犯行推定時刻の断定など、出来ないんじゃ」
 にやり、と鈴木は厭らしい笑みを浮かべた。
「あのさ、被害者の上着は昨日、つまり犯行の日に購入されたばかりのものだったの。しかも、買ってきたのが他ならぬ妻。被害者は上着を妻から受け取って、そのまま脱衣所に持って行った」
 細工が施された上着がその日購入されたものであろうと、買ってきたのが誰であろうと、妻だけが犯人だという結論には至らない。
「重要なのは、その上着に細工をする機会があった人物が誰なのか、ということだろ。それぐらいはヘボ刑事の俺にも分かる。それで、その日のタイムスケジュールと人間の出入りの流れを刑事課で表にしてみたのさ。その表はここに無いから、メモしてあるのを口頭で伝えるぞ、えーと、まず午後七時頃、橘家の主人が長男を学校の成績のことで説教している。これが八時にまで及んでいるから、相当陰湿でネチネチとした傍でも聞き苦しい嫌な説教なんだろうな。それで、耐えきれなくなった長男は八時十分ごろに家を飛び出している。八時半ごろ、妻が帰宅。そこで初めて仕掛けの施されたと思しき上着が家に現れるわけだ。リビングで主人が上着を受け取って、そのまま風呂場に直行。その間妻はリビングでお笑い番組を観てたそうな。ちょうど番組が佳境に差し掛かった頃――九時半だな――妻は玄関のドアが開く音を聞いて見に行くと、長女が立っていた。この時妻はいつもよりも帰宅が遅い事で長女を少し叱ったらしい。そのすぐ後、妻は普段より長湯の主人を訝しく思い、脱衣所のドアを開いてみたら、主人が毒にやられていた、という訳だ」
 しかも、兄と愛花には家の外にいる間、マンションの監視カメラの映像や友人の証言などで、完璧なアリバイと出入りした時刻の正確な裏づけが存在しているという。ちなみに兄は飛び出して以来、家には一度も帰宅していない。
 今の話が全て事実だとすれば、上着に毒針を仕込む好機を持てたのは確かに母親だけという事になる。無論、帰ってきたばかりの愛花が脱衣所の服に仕掛けをした、という可能性も皆無ではないが、到底現実的な考えでは無い。
「分かった。ありがとう」
 わたしは伝票を取り、真夜に金を借りて食事の清算を済ませると、蹌踉とした足取りの鈴木の肩を抱えながら繁華街を歩いた。じっくりと考える時間が欲しかった。このままでは、本当に愛花ちゃんの母親が犯人だとされる。真実がそうであるならば仕方ない。しかし、犯人の立場になって考えれば、いかに馬鹿げたことか分かる。
 まず、あのような犯行をすれば自分が一番疑われると誰にだって予測が付く。わざわざ新しい服を買ってくるような真似をしないで、主人が脱衣所に持って行くと予測できる服全てに毒を塗った安全ピンを仕込めば、他の家族にも犯行は可能だ、と警察に思わせることも出来たはずなのに。どうして自分から疑われるようなことを現実の犯人がするだろう。そういった違和を逆手に取った犯行、だとしても自分以外の容疑者候補がいる時間に決行しなかったのは不自然だ。実際、犯行が可能なのは母親だけだと決めつけられてしまっているではないか。
 だが、脱衣所に父親がどの服を選んで持って行くのか分からない以上、犯人は父親が入浴中にアリバイの無い人物(つまり、父親がどの服を着るのか分かっている人物)か、父親に持って行く服を渡した人物と判断せざるを得ない。そして、母親にとって運の悪いことに、彼女は新しい服を父親に渡して着るように促している。犯行の機会があった(父親の入浴中にアリバイが無い)のが母親だけである上に、この行為は非常に都合が悪い。二つの犯人たり得る条件を満たした母親が警察に疑われるのは(犯人の立場になって考えれば不自然であるにしても)当然のことか。
 鈴木と駅前で別れ、わたしと真夜は愛花のマンションへ向かった。犯人が母親以外にありえない、という現状のままを伝える足取りは重い。やはり、わたしのような人間が出来ることは、先に刑事課が全てやっていることなのだろう。

 マンションの正面にある児童公園で、わたしはブランコに腰かけた。真夜も何も口にせず隣のブランコに座る。そろそろ夜明けも近い。腕時計に目を落とすと、午前六時五分前だった。
 そういえば、不意に些末な疑問が浮かんだ。事件とは全く無関係だが、将来父親になるかもしれないわたしには興味深い事だ。
「愛花ちゃん、家にはシャワーを浴びに帰るだけだ、とか言っていたけれど。お風呂には入らないの」
 真夜は何を言っているんだ、という顔を見せながら、
「ええ、以前本人が話していたんだけど。きまってお父さんが一番風呂に入るから、湯船には汚くて浸かれない、だって」
 やっぱりそうなのか。最近の女の子は辛辣だな。わたしはもし将来自分の子供を持つようになっても、娘だけは御免だな、と再度認識した。血の繋がった家族相手なのに、潔癖すぎる。その内使う調味料や食器にまで名前を書き始めるぞ。わたしの姉がそうだったんだ。うん? とすると最近の女の子に限った話では無くて、全ての女は時空を問わず潔癖症だということに。
 隣で大きな音がしたので振り向くと、そこに真夜の姿は無かった。彼女はブランコから飛び跳ねて、数歩先の地面を歩いていた。歩調が最初はやや早く、段々ゆっくりとなり、最後には完全に静止した。彼女の様子を訝しく思い、わたしは歩み寄って、その肩に手を掛けた。
「どうしたんだ、真夜」
 視界がぼんやりと薄い色彩を取り戻し、後方から日が昇るのを感じる。街灯が静かな音を立てて消える。しばらく経って、ようやく真夜はマネキン人形のように首をゆっくりとこちらに曲げた。
「わたし、分かったかもしれない」
 
 ライブハウスという場所に足を踏み入れた経験は今迄一度も無かった。わたしの脳内では不良の溜まり場、だとか違法な薬物を売りつける外国人が屯している、という近寄りがたいイメージが蔓延っていた。実際に行ってみると、ありきたりな雑居ビルの一階と地下を利用した貸しスタジオみたいなところだった。
 ただし、クッションを嵌め込んだような分厚いドアを開いて室内に入った途端、耳を聾する大音響が襲いかかってきた。わたしは真夜と顔を見合わせて、同時に渋面を作った。真昼だというのにライブ会場の薄暗さときたら無かった。おまけに人いきれと熱気でサウナのような蒸し暑さだ。少なくとも長居したい場所では無い。
 奥の舞台から放射線状に座席があるものの、人がごった返しているため舞台へ続く通路にまで立ち見人がいる始末だった。照明がステージ上で歌っている男に注目していた。咽喉を嗄らしてマイクスタンドに寄りかかっているのは、金に染めた長髪が中々映える、異邦人じみた顔つきのハンサムな男だった。
「あのボーカルが愛花ちゃんのお兄さんだな」
「うん。リビングの写真で見たから、間違いない」
 どうやら男の歌唱力自体はそれほど優れたものでも無いようだ。けれども、魅力的な容貌に惹かれた若い女の子たちがファンの大半を占めている。
「このショーが終了しても、すぐに会えそうにないね」
 きっとファンの女の子たちが津波のようにあのボーカルへと押し寄せていくのだろう。その中に紛れていく勇気は生憎持ち合わせていなかった。
「大丈夫よ。電話で質屋に入っていたギターの話をしたら、何をおいても駆けつける、って言っていたもの」
 愛花の兄は学校の成績について責められるよりも、高校時代から愛用していたエレキギターを父親によって勝手に質へ入れられたことを憤っていた。彼は自分の友人にも何度かそのことを漏らしている。今回の事件は計画的なものだ。こうした過去からの動機が無くては、犯人になれない。
「まあ、実際に真夜の推理を彼に話すのは俺なんだ。確認のためにもう一度聞かせてくれないか」
「いいわよ。まず、わたしが気に掛かったのは本当に父親の着替えの上着に安全ピンが刺さっていたのか、ということ。ここで、わたしたちは重要な点を見逃していたの。愛花が最初にわたしたちに話した言葉で『親父が脱衣所の床にびしょ濡れで引っくり返っていて』というのがあった。おかしいでしょう、濡れた身体で服を着ようとする人がいるかしら。そこで、もしかしたら安全ピンが刺さっていたのは、もっと別のものなんじゃないか、と思いついた。じゃあ、首筋に触れて風呂上りに使うもの、と来たら思い至るのは難しくない。そう、バスタオル」
 リビングに洗濯物が干してあり、吊るしてあるバスタオルから使う習慣があったのは、愛花が初めに話してくれている。しかし、不可解なのはその次だ。
「バスタオルに安全ピンを仕掛けるにしても、どうやってそのタオルを父親に使わせるんだ。予め使うバスタオルが分かっていないと、無意味だろう…………とわたしは質問したんだっけ?」
「そう。わたしは最初、吊るしてある全てのバスタオルに仕掛けを施しておいたのかと考えたのだけれど、事件以来愛花のお兄さんは一度も家に帰っていない。警察から事件当夜のことを訊かれたのは、友人の家でのことだし。つまり、全てのバスタオルに毒針を仕掛けても、回収する機会が無い。仮に愛花とお兄さんが共犯関係にあったとしたら、もっと早く――少なくとも母親より先に――愛花は家に帰るはず。そうしないと、何かの拍子で母親が針に気が付く危険があった。一つぐらいならばタオルについていても奇妙では無い安全ピンが、全てのバスタオルにあったら流石に変だからね。だから、そうせず遅くに帰宅した愛花は共犯では無い、と考えた」
 この愛花共犯説については、すぐさま捨て置く気にはなれなかった。否定するにはやや材料不足な気がしたからだ。しかし、真夜とわたしに見せた愛花の涙が演技であったのか、と自分に尋ねれば、自ずと納得も出来る。そもそも、わたしと真夜がこの事件について調べる契機は彼女が作ったのだ。犯人は自分に不利な行動を起こすはずがない、という原則的な考えに基づいた結論である。
「つまり、毒針を回収する共犯者がいなかった以上、毒針が仕掛けられたのは父親が使用したタオル一枚だけ、というわけだな」
 初めてこの推理をここまで耳にした時は、どうやって解決するのか分からなかったが、言われてみれば他愛も無い話だった。父親が一番風呂に入るという慣習を利用しただけだ。
「犯人はまず、吊るしてあったタオルの一枚を除いて、他のタオル全てを水で濡らした。もちろん、手触りでしか濡れているかどうか分からない、という程度に水に浸すのよ。そして、乾いている一枚だけに毒針をつけた。初めはタオルを一枚だけにして、他全部をどっかに隠すという手段も考えたけれど、それだと後で家族の誰かに不審と見られる危険がある。実際わたしがリビングに行った時、バスタオルは他にも吊るしてあったしね。ちゃんと他のタオルも濡らしたまま吊るしておけば、父親は変な印象を持たず、乾いた一枚を自然に選ぶ。タオルの仕掛けをした後は、暖房を強にして家を出て行くだけ。濡れたタオルも勝手に乾くから、犯行の跡は何も残らない。ただ、このトリックを狙った人物が当たるようにするにはどうすればいいのか、ずっと悩んでいた。でも、父親が一番風呂を好む、ということを思い出した時、何もかも全て繋がったのよ」
「一番風呂に入る人間(つまり最初にバスタオルを選ぶ人間)がターゲットなんだから、このトリックを仕掛けるのは造作も無い、というわけか。それで、このトリックによってアリバイの恩恵を受けたのは愛花ちゃんの兄貴一人。よって犯人イコール愛花ちゃんの兄貴である、QED……というわけだ」
たった一つの毒針を予め何かに仕込んで、その何かを目標の人物に選ばせて殺害するのは無理がある、という考えが純粋な思考の阻害をしていた。きちんと仕掛けをすれば、目標の人物に指定した物を使わせることが出来るのだ。今回は、偶然父親の服を買ってきて、それを渡した母親が真っ先に疑われることになった。しかし、例え母親が服を買って来なくても、毒針は脱衣所に父親自身が持って行く着替えかバスタオルに仕掛けるしか無く、そうなれば父親が入浴中しか仕込む機会がない。それまでは父親がどの着替えとどのバスタオルを脱衣所に持って行くか分からないのだから(全ての着替えとバスタオルに仕込む、というのを例外として)予め仕掛けるなんて真似は出来ない。すると、父親の入浴中にアリバイのない唯一の人物、つまり結局は母親が疑われるというわけだ。
 これだけの犯行を、愛花の兄は父親がトイレに立つなどの僅かな隙にやり終えたのだ。まず間違いなく計画的な犯行である。年齢を考慮しても、重罰は免れえないだろう。
この場に愛花を連れてこないで正解だった。
 ライブの後、わたしは彼とどこで会えばいいのか、真夜に訊いた。
「ライブが終わったら舞台裏に来て、だってさ。……カラスさん、約束は守ってね」
「分かっているよ。この推理を話したら、彼に自首を勧める。俺たちが関わったことは何も話さないと誓わせた上で」
 ところで、真夜の推理にも決定的な証拠は無い。もちろん、わたし自身はこの推理に確信を抱いている。だが、もし彼にその点で開き直られたら、どうすることも出来ない。けれども、警察とて無能では無い。真夜の推理も考慮の一つに入れているだろうし、それを攻めてこないのは積極的証拠が無いから、というそれだけのことに過ぎない。今にして思えば、母親を連行したのは真犯人への一種の挑発なのだろう。自分の母親が自分の代わりに警察に捕まるということへの良心の呵責を狙ったのだ。それが功を奏さなかったと知れば、別の手段に訴えるだけのこと。警察とはそうした組織だ。目的のために手段を選ばない。
 つまり、わたしがここで彼に自首を勧めるのは、救済行為にほかならない。父親が意識を取り戻して無事回復すれば、殺人にまで発展しないのだ。そこで自首をして、被害者自身が重罰を望まず、優秀な弁護士をつければ、もしかすると執行猶予、あるいは数年の有期刑で済むかもしれない。
 観客が一層大きく歓声を上げた。ライブもクライマックスに差し掛かったのだ。
 わたしは舞台上のボーカルを見詰めた。
 だが、あの男に救済が必要だろうか。母親が自分の代わりとなって警察に連行されたと知っても名乗り出ないあの男に。
去っていく真夜の後ろ姿を尻目にしながら、わたしは迷っていた。このまま彼女に続いて帰ってしまおうか、と。
激しいギターの演奏でライブは幕を閉じた。
ボーカルは最後の曲を歌い終えて満足げだ。メンバーは皆観客からの声援に頬を緩めている。だが、ボーカルだけがファンのコールを裏切り、すぐ舞台裏に引っ込んだ。
出口か、舞台裏か。
大きくその場で深呼吸をする。
 やがて、わたしはたっぷり時間を掛けてそちらに歩いて行った。

真夜中探偵

真夜中探偵

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-01-02

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