渡り茸
茸とクラゲのファンタジー
昨日の台風はすごかった。雨戸を閉めておかなかったらガラス戸が飛んできたもので壊されていたかもしれない。
ごーごーというすさまじい音は、寝ている僕の耳の中に渦巻き、家がぐらぐらと揺れていて、あわてて飛び起きた。音はその通りすごかったが家は揺れていない。夢だったようだ。枕元の時計を見ると、夜中の一時である。
やっと周りの状態がのみこめ、一階の居間におりた。テレビをつけると、台風が伊豆半島に上陸して、我家のある多摩地区は風雨が相当強い状態であることをアナウンサーが叫んでいる。
雨戸にごつんごつんと何かが飛んできて当たっている。庭の柿の実だろうか。
台風はスピードを上げ、海岸沿いを北上し、千葉沖で熱低に変わるとニュースが言っている。これならば朝は秋晴れにちがいない。台風情報を見続けているのも馬鹿みたいだ。もういちどベッドにはいった。
窓のカーテンの隙間から輝く日の光がもれてきた。カーテンをもちあげると、抜けるような青い空が目に入った。やっぱり晴れた。予想通りだ。
頭がすっきりしている。雲が懸かって薄暗い朝は、目の前がぼんや霞んで、起きあがるのもめんどくさい。だが今日は違う。
顔を洗って、いつもの通り朝食をすませた。
スマホがなった。秋田の息子夫婦のところに孫の顔を見に行っている家内からだ。SMSで東京をおそった台風の状態を心配している。
秋晴れで家は問題ない、と返事を返した。
居間の雨戸を開けた。デッキの上には庭の木の葉が散らばって、一部は盛り上がって積もっている。昨日の風雨の強さを物語っている。
空に雲がほとんどない。台風の後で少しばかり湿り気がある、ちょっと生暖かい風が顔をうつ。秋の香りだ。もう少し経つと風も湿気がなくなり、からっとしてくるに違いない。
柿木を見た。葉っぱはずいぶん落ちてしまったが、実はしっかりとぶら下がっている。橙色に色づき始め、もうすぐ樽柿にできるだろう。
柿の実をみていると、足元からごそごそという音がする。なんだ。デッキになにかいる。柿の葉が積み重なっているところからだ。我が家にすんでいるヤモリか。いやヤモリは音など立てない。とするとやっぱり、台風の風で飛ばされた虫かトカゲあたりだろう。
デッキの上の黄色っぽくなった葉っぱが動くのが見えた。
どんなやつがでてくるのか興味がわいてきった。一カ所ではない。数カ所の葉っぱが動きだした。なんだなんだ。
音がかさかさと高くなる。
茶色っぽいものが葉っぱの中から顔を出した。丸い。鼠ほどの大きさだ。なんだこいつは。でてきたのは顔じゃないな、だいたい目鼻がない。尻から出てきたのだろうか。それにしても尾っぽがない。
ひゃ。突然、ぴょこんと飛び出してきたのは、何だ、茸の形をしている。だが動いている。
「あの台風はひでえな、おれたちを落としていきやがった」
誰かがそんなことをいっているのが聞こえた。隣の家の庭を見た。人はいない。歩いている人かと、垣根の外に目をやってもいない。
「次の台風までまたなきゃならんな」
「だいたい、あの台風のやつ、伊豆から上陸して東北の方に行くって言うから、のっかったのに、結局海にもどっちまって、温帯低気圧になるなんて、嘘つきだ」
「そうだよ、以外と体力のない台風だったんだ」
「熱帯低気圧から台風になったときは、たいして大きくなるやつだとふんだんだがな」
「おれもそう思ったよ」
「私もよ」
「どこかに欠陥があったんだよ」
いったい誰だ、しゃべっているのは。
ひゃ、デッキの上で、いつのまにか葉っぱに囲まれて、七、八匹の生き物がふらふら揺れている。だがしゃべっているのはあいつらのわけはない。目も口も見当たらない。
「おい、俺たち人間に見られているぞ」
「あ、いけねえ、あいつぼーっと立ってら」
「どうする」
「知られちゃまずいな」
「眠らしちまうか」
「夢戦術だな」
「次の台風はいつだ」
僕はその会話をきいていて、しゃきっとしていた頭がぼーっとなってきた。
振り向くと、居間のテレビが、しばらく天気が続くことを言っている。
「ありゃ、こまったな」
大きな声が足下から聞こえた。
茶色の茸が足下で揺れている。敷居の外からテレビを覗いてそういった。
かさかさという音とともに、茸のやつ突っ立っている僕の足の下をすり抜けると、居間にはいっていった。みんなはいってしまった。僕も今に入った。
「次の台風までどうしようか」
茸はソファーやテーブルの上に飛び上がった。テレビを見ている。
「海の上で温帯低気圧になった台風の奴、呼び戻そうか」
「むりだ、あいつは力がないやね、新しい台風が発生するのを待つしかないからな。
「しょうがないよ、ここにいさせてもらうしかない、この旦那にお願いしようや」
「ねえ、だんな、熱帯魚用の水槽と装置一式買ってくんねえかな」
どうも自分に向かって言っているようだ。なんといったらいいか、茶色の茸が居間のテーブルの上から自分を見ている。ように思えた。
「ほら、デパートのペット売場にあるだろう」
返事をなかなかしない僕に、しびれを切らせた一匹の茸が強い調子で言った。
夢の中のようだが、ともかく、うん買ってくると返事をした。
それからがよくわからない。いつの間にか、大きなデパートのペット売場で、いくつかの大きな荷物を受け取っていた。
「本当に大丈夫ですか」
買ったものを送ってくれると言ったのを断ったようだ。
「それじゃ、タクシー乗り場までお手伝いします」
タクシーで帰るといったようだ。デパートは隣の駅だから、タクシーで自宅まで帰っても対してかからない。
店員さんが、どこかに電話をかけると、警備員のような格好をした人がきて、三つのうちの二つの荷物を持ってくれた。
すみません、と僕はエレベーターで一階におり、デパート前にあるタクシー乗り場に行った。お礼を言ってタクシーにのりこむと、気がついたときには、自分の家の居間で、茸たちに囲まれて、熱帯魚が飼えるように水槽を居間の隅に設置していた。
「水道水を直接使うなよ、ほら、フィルターを通した奴にしてくれ、温度は20度、少し暖か目にな」
エアーポンプから水槽の水の中に泡がたった。
「餌は買ってきたか」
そんなもの頼まれていないと思い、手元をみると、乾燥ミジンコと書かれた瓶を持っていた。
「一日一回いれてくれよな」
そういわれた。
八つの茸たちはソファーの上で一列に並んで、テレビの天気予報を見ている。
「当分だめだな、台風がこない」
「そろそろいいんじゃないか」
そんな声が聞こえたと思ったら、八つの茸が並んで、熱帯魚用の水槽の中に飛び込んだ。
おやおやと見ていると、茶色い茸は水にはいると、笠が開いて、ぷかぷかと表面に浮いた。
茶色の体がだんだん透けて見えるようになってきた。
茎が八つに割れた。
おや、傘が閉じたり、開いたりしている。
あ、茎が細い触手になった。くねくねと動かしている。
傘がぱくぱくうごいた。
なんだ、クラゲじゃないか。
淡水でいいのだろうか。
「おれたチャ、淡水でも大丈夫なクラゲだ」
「何でクラゲが茸なんだ」
「熱帯の海の上に台風が生まれたから、ちょっと寒い地方に旅行にいこうかと思っていてな、そいつに乗っかったんだ。ちょっくら陸のクラゲになってな」
茸は陸のクラゲだそうだ。
「弱っこい台風でな、伊豆に上陸したら、おとなしくなっちまって、俺たちを落っことし、お宅の庭に柿の葉っぱと一緒にデッキの上に吹きとばしやがった、次の台風がくるまで、ここにいさせてくれ、ミジンコたのむよな」
一匹のクラゲが、水槽の表面に浮かんできて、そんなことをいいやがった。
生き物は子供の頃から大好きである。本当なら猫でも犬でも飼いたいが、うちのが生き物嫌い。いつも人間だって動物なんだといっているのだが、かみさんは人間は人間だ、などという言い方をする。まったく理論的ではないし、科学的ではない。差別などというのはこう言った無知から知らぬ間に出てくるんだ。まあ、今日、この国にはこういう人があふれているから仕方がないか。
「どうだ、水加減は」
とクラゲに聞いた。フンワカフンワカ八匹のクラゲは悩みなんてなさそうだ。
「おお、いいぞ、この水槽セットは高かっただろう」
そうだった、ずいぶんした。いつの間にか買っちまったが、かみさんに文句いわれそうだ。
クラゲのやつ、そんなことおかまいなしだ。
「大丈夫だ、どんな人間だってイチコロにしてやる」
ずいぶん物騒なことをいうやつだ。
しかし、クラゲって言うのはきれいなもんだ。水槽の上に照明装置まで付いていて、光の中に浮かんでいる。
三日後、かみさんが北海道土産を持って帰ってきた。
「なんだい、カニじゃないのかい、男爵芋なんてずいぶん重いもの買ったな」
「だって、安かったんだもん」
荷物を片づけると、かみさんが居間にテレビを見に行った。水槽に気がついたようだ。
「あーた、これなに、こんなもの飼ったの、生き物なんか大変でしょ、高かったでしょ」
やっぱり言っている。
「クラゲ付きで安売りしてたんだ」
そういいながら居間にいくと、かみさんが水槽をのぞいている。
「やだ、こんなの、クラゲって食べられるでしょ」
クラゲの奴さぞ驚いているだろう。
とそのとたん、八匹のクラゲが、色とりどりにかがやきだし、フンワカフンワカダンスをはじめた。そりゃとてもきれいだ。
「あら、このクラゲ光るのね」
かみさんが見とれている。
「とても珍しいんだ、ほら深海にいる仲間だってさ」
でまかせをいってやった。
「友達に見せてあげようかしら、餌はなんなの」
「ミジンコ」
「とってくるのたいへんでしょ」
「乾燥ミジンコ売ってるんだ」
「もっとおいしいものやったら、大きくなるかしら、お刺身とか」
なにいってるんだ。高いとか言って、俺にも食わしてくれないじゃないか。
「水が一番大事なんだ、汚れると死んじゃうから刺身なんかだめだよ」
そういうと、
「少しならいいよ」と小さな声が聞こえた。
「でも、ほんの少しならいいかもね」
といいなおした。クラゲ茸のやつがそうっと言ったのだ。
「それじゃ、刺身のときあげるわね、友達つれてきたとき、ちゃんと光なさいよ」
かみさんはテレビをつけて、北海道のことを食っちゃべりはじめた。
ニュースが遠い海の上で小さな熱帯低気圧の発生したことを言っている。
クラゲたちがそれを聞いて、みんな赤くなって触手をのばし、八匹がつながって踊っている。喜んでいるようだ。
「あら、クラゲたち赤くなって手つないでる、友達にみせたいな、どうやったらこんなことするのかしら」
「まかしときな、友達がきたら、そうさせるから、その日はマグロの赤身とトロを用意しろよ」
そういうと、本当という顔をして、かみさんはキッチンにいった。
次の日、本当に隣近所のかみさんの友達が三人入ってきて、
「あら、かわいい」とか、「いいわね」とかいったものだから、かみさんもまんざらではなさそうで、
「おててつなぐのよ」
といったとたん、八匹のクラゲが赤く輝いて、手をつないで、水中ダンスをはじめた。
「きれいねえ、よくしこんだものね」
かみさんは、自分が飼いはじめたように、「よくいうことをきくのよ」なんていっている。勝手なものだ。
近所の奥さんたちが十分クラゲを堪能して、かみさんから北海道みやげのスペアミントTバックをもらって帰って行った。
夕飯はこれで刺身だ。
その後、ミジンコをクラゲたちに与えるのはかみさんの役割になった。
「クラゲの寿命はどのくらいなの」
「しらないけど、長生きするよ」
それを聞いたかみさんは、「私が面倒を見てあげるわよ、あなただったら餌やるのを忘れるでしょう」
もう自分のものにしようとしているが、こちらとしてはありがたい。
それから五日後、台風が前と同じ進路で日本に上陸することが明らかになった。
水槽の中の八匹のクラゲは、いろいろな色に輝いて喜んでいる。かみさんは自分の飼い方がいいからと自慢している。
台風は夜中に上陸するとニュースが言っている。
クラゲ待望の台風がやってくる日になった。
戸締まりしといてね、そう言うとかみさんは先に寝ちまった。
雨戸を閉める前にクラゲたちを外に出さなければ。
居間に行くと、一匹のクラゲが茶色の茸になって、水の上に傘の頭を出して浮いていた。
「こいつはせっかちなんだ」
そう言って、他の七匹も姿を変え始めた。笠がつぼむと茸の頭の形になった。八本の足が集まってくっつくと、溶けて幹になった。八つの茶色の茸がからだをくねらせて水面を泳ぐのは見ものだ。くねくね茸が泳ぐなんてのは僕しか見たことがないということになる。変に色っぽい。和服の女性がからだをくねらせて歩いているようにも見える。
「せわになったな」
茸たちが水槽から一斉に飛び出した。
ソファーに一列に並ぶと、テレビを見た。
「テレビを見たことのあるクラゲは俺たちが初めてだろう、みんなに自慢してやる」
風が強くなって、ガラス戸ががたがたいい始めた。
「そろそろかな」
ガラス戸を開けてやった。
茸たちはぞろぞろと、デッキの上に出ていった。すでに雨も大降りになった。なま暖かい風が吹いている。柿の葉っぱは前の台風でほとんど落ちたので、もう飛んでこない。
「あと、一時間ほどでこのあたりが目に入る、俺たちゃ吸い上げてもらって、北海道沖の深海でゆっくりするんだ」
「何でクラゲが茸の形になるんだ、クラゲのままでいいじゃないか」
「台風の中じゃ、足が絡まっちまってだめなんだ。だから茸の形になるんだ」
「どんなクラゲも台風旅行やるのか」
「ああ、特に深海にいる俺たちのようなクラゲは海の上を飛んでみたいのさ」
風が吹き込んできた。
「水槽にあんたたちがいないと、かみさんヒステリーをおこすだろうな、俺がわるいとうるさくなるな、めんどくさいよ」
「大丈夫」
茸は一言そういった。
またすごい風が入ってきた。
「それじゃ閉めるよ、ばいばい」
「ばいばい」
茸たちは落ちていた枯れ葉の上にのって、風に吹かれて舞い上がった。上へ上へと上っていって、見えなくなった。
雨戸を閉めて、ガラス戸に鍵をかけ、テレビをつけた。水槽の中では、空気の泡だけがポンプの先からぶくぶくと音を立てている。
台風は前のものと全く同じコースで進むとニュースが言っている。
もう寝よう。ニュースを見ていてもしょうがない。
隣のベッドからいびきが聞こえる。かみさんがクラゲがいなくなってなんていうか、気になって眠れなかったが、風と雨の音が子守唄になって、眠りにつくことができた。
朝、窓からカーテン越しに朝日が射してきた。一階で先に起きたかみさんの「あークラゲがいない」という大きな声が聞こえてきた。
パジャマのまま、下におり、居間をのぞいた。
水槽の中で、赤青緑、黄色紫橙、色とりどりに輝くミジンコたちがちょっちょふらふらちょっちょふらふらと踊っていた。
「餌もかわいいものね」
かみさんがのぞきこんでいる。なんとかなりそうだ。
渡り茸