瓶文アリア
──びんぶみありあ──
朗読にもどうぞ(約20分)
きらり、きらり。
もう届けられない想いは
そっと海に、託された。
それは、『想い』を手放すように。
けれども、どうしても傷つけるのは憚られて
小瓶に、入れられたのだった。
透明な、やや青みがかったその瓶は
『想い』を抱えて、コルクの帽子をかぶって
行先を知らされず、広い海へと駆け出して
あっという間に、波間へ溶けてしまった。
自由に
気ままに
流されるまま
藻屑となるまで。
あるいは
誰かに、拾われて、読んでもらえるまで。
とぷん
眠りかけていた瓶文は、重みに沈んだ。
慌てたように飛び立ったのは、鴎。
羽を休められるものと、勘違いをしたらしい。
瓶文はちゃぷちゃぷと笑って
陽の光をきらきらさせ
しばらくの間、抜けるような空を背景に
飛んでゆく鴎のその影を眺めていたが
やがて羽の音が波に掻き消えると、
今度は海中に意識を向けた。
上を見ても、下を見ても、青だ。
というか360度、だいたい青色だ。
海洋。
瓶文は──どこにも底がないように感じた。
かといって、世界の中心がココではないことは
瓶文も理解していた。
今日は、波が強い。
大きなうねりに巻き込まれ、無音の海中へと潜っては
ぷかり、と海面へ顔を出す。
海中の青に溶けるとき、瓶文は、自分が
魚になったような気持ちがしていた。
彼らのように、自分の意思で泳げるわけではないが
魚たちから不思議そうな顔で小突かれると
仲間になれたような気がした。
共に海流に乗った漂流物は
別の海流へと別れたり、崩れてしまったり
沈んで定着地を見つけてしまった。
大きな魚たちに食われていないことが奇跡的で
漁船に厄介になることも無く
人の目につかぬまま、青の狭間に揺られていることに
瓶文はなんとなく、諦めに似た幸福感を感じていた。
だけどもまぁ、飽きるほどの青は、
それほど永遠ではなくて。
太陽が、瓶文と並んで、海に浸かる頃には
それはそれは美しい朱に染まる。
誰かに恋するような
誰かを懐かしむような
どこかへ帰りたくなるような
そんな色だ。
瓶文は、この空の色調が
絹の織物のように、たなびいて落ちてきて、
自分をどこか素敵な所に繋ぎ止めたり
綺麗にラッピングしてくれるのをよく想像する。
そうしたら、誰かに見つけてもらえるだろうか?
いや、見つけてもらっても、抱えた『想い』を
読んでもらえるとは限らない。
早咲きの星の煌めきを散りばめて着飾っても
外側の瓶と装飾だけに興味を持たれては困る。
瓶文は、瓶文であって、瓶ではない。
瓶でもあるし、文でもあるのだ。
どちらかが欠けては、瓶文足りえない。
マリトッツォやオレオに、クリームがなければ
それとして成立しないのだ。
あれ?
瓶文はふと思った。
ならば、誰かに拾われて文を読まれるとき
すなわち、瓶から文が、分離されるとき。
瓶文は、瓶文で、なくなるのだろうか?
…………
それは、そうなったときに考えよう。
そうなってみないと分からない。
早々に考えるのをやめて、
いつのまにやら、とっぷりと暮れた
夜を堪能しはじめる。
最初の頃は、この無限の黒が怖くて寂しくて
泣いていた瓶文だったが
今やすっかり肝が据わって、受け入れていた。
知っていたのだ。瓶文は。
この世界は、ほとんどがこの漆黒だということを。
つまりはこの暗さが、本来の世界の有り様で
だからこそ、光が愛しく感じられるのだと。
そして慣れれば、慈悲のない黒だと思っていたものは
実は優しい冥色だということに
瓶文は気付いたのだった。
──と、急に、瓶文の身体が
空中へと舞った。
いや、たしかに、直前になにかの衝撃はあった。
驚いて周りを見渡すと
鯆が、夜の波に遊んでいた。
瓶文を見つけて、おもちゃにしたのだろう。
月や星の光が、粒になって散じて
ざぁっと軽い音を立てて、海面へと落ちる。
瓶文は、ぱしゃん、と海面を打った。
その直後、また身体が宙に浮かぶ。
月が、いつもより少し、近い。
柔らかい、鯆のくちばしが、尾ひれが
くすぐったい。
風を切る。高く、夜を裂く。
瓶文は、衝動的に叫びたくなったが
叫びたい言葉は出てこなくて、ぐっと噛み殺した。
違うのだ。わかっている。本当は。
思うことがたくさん。
いろいろすぎて、まざってしまって
こんがらがって、言葉にならなかったのだ。
まぁいいや。
今、楽しいから。
こんな夜もアリだろう、と
鯆たちに感謝して、
瓶文は何度も何度も空を舞っては
星々をその身に写した。
夜を追いやって
また顔を出したお日様に、
瓶はクリアな輝きを海へ穿つ。
水の在処を少しだけ、間借りして。
────明け方。
月の光で浄化された空気が、あたためられて動き出す。
何度目の朝日だろう。
海に漂う前までは、時の流れは、とても早かった。
特になにもない、陸での日々。
それが、海に漂い始めてからしばらくは、
誰かに拾い上げてもらえるのでは、という
期待と希望で
一日が、とても、とても長く感じていた。
それはもう、苦痛なほど、長かった。
囚われている気がするほどに。
でも、待てど暮らせど、拾われる機会には恵まれず
季節が流れていくうちに
誰か、が現れることを夢見なくなった。
だって、瓶文の生まれた理由は、
この『想い』を、誰かに読んでもらうことではなくて
あのひと、が。
手放したい『想い』を捨てるため、だったのだ。
それを思い出してから、瓶文は
自分の生まれた目的よりも
この環境とこの感情を、大切にしようと考えた。
毎日いろいろ考える。
無限に続く景色を、眺め続ける。
永遠、というものを、恐れなしで
ちゃんと見ることができるとなぜか、
時の流れはまた、とても早くなっていった。
どこに流れ着いたっていい。
そう思っていた。
だけど
こんな岩肌の多いところで
嵐にあうのは予想をしていなかった。
さすがの瓶文も、
岩に強くぶつかり微塵に割れて
ただの硝子になってしまうのは
ちょっと怖かった。
岩肌があるということは、陸が近いんだろうか。
ヒビでもつくって水が中に入ってきたら、
もう水面に顔を出すことはできなくなってしまう。
海の底に沈んでしまえば
地引網にでも引っかからない限り
この『想い』を読んでくれるひとに出会う機会は
なくなってしまうだろう。
ここまできて、やっぱりまだ
この身に抱えた『想い』を
誰か、に届けたいと思う自分がいることに
瓶文はこんな状況で笑えてきてしまった。
そうだ、認めよう。
誰かに、読んでもらいたい。
流される前に、ぎゅうっと抱きしめられたぬくもりが
あのひとの、名残惜しそうな
切ない指が
悲しくて恋しくて、懐かしくて。
たしかに、あたたかかった。
どうして誰にも打ち明けずに
海に放ったんだろう。
この身に託された『想い』は
いったい、どんなものなんだろう。
瓶文は知りえない。
何かが書かれている様子だけれど
内側に閉じられて、くるくる巻かれた紙に
どんな『想い』がしたためられているのか。
劣化してきていたコルクの帽子が、
荒い波に攫われていった。
ここまでか。
瓶の中に、冷たい海水が入ってくる。
幸いなのは、文が──
文まではすぐに、波に攫われなかったことだ
瓶文は、小さく思った。
ごめんね。
届けられなかった。
ぷく、ぷく、ぷく。
空気が代わりに、こぼれてゆく。
涙のしずくのように。
瓶のからだは、流されながら
深く、沈んでゆく。
けれど、これでよかったのかもしれない。
あのひとの『想い』は
あのひとだけのものだ。
瓶文を構成する大切な一部だったけれど
この『想い』だけは、瓶文のものではないのだ。
文は、海の水を吸って
ゆるやかに、ほぐれてゆく。
遠ざかってゆく海面をぼおっと見つめながら
最後に触れたあたたかな感触を思い出しながら
瓶文はゆっくりと、意識を落とした。
ぱちり。
瓶は、なにかがごそごそと
自分をまさぐっていることに気づいて
目を覚ました。
驚いた。
文が『想い』ごとほぐれて
海に融けてしまっていても
瓶は、瓶文としての意識を失ってはいなかった。
ほっとして、動いてきた意識で世界を見渡すと
瓶は。
ヤドカリの家に、なろうとしていた。
磯巾着が装飾されてゆく。
移植されてむっちりと張り付いたその感触が
どうにもむず痒い。
けれど、なんだか悪い心地ではなかった。
ヤドカリはそのままするりと瓶を背負い
しばらく居心地悪そうにしていたが
やがて、海中をのそりのそりと歩き出した。
これから
どんな旅がはじまるのだろう。
いずれはきっと、さっき住み替えられたように
自分も、このヤドカリとお別れするのだろうけれど。
届けられなかった『想い』の存在を
あのひとがたとえ忘れても、瓶は覚えている。
けれどもそれらは
海に溶けてしまったから。
もう、いいんだ。
ヤドカリの家瓶はかつて、
あのひとの、瓶文だった。
その前はただの、瓶だった。
『想い』の溶けた水の中に
こんどは瓶が、揺られている。
そうしてはるかのち
まぁるくなった瓶のカケラは、
砂浜で遊ぶ
あなたの、あなたたちの
笑顔のもとへ。
瓶文アリア
作成した当時の身に起きたことと心情を、書きたいように書きました。絵本のようにご想像いただけたら嬉しいです。