黙れ!ラジオ男

序章

 とある大学。大講堂の掲示板にはざわざわと大勢が押し寄せていた。午後5時、人波を掻き分けるようにして教員が一枚の掲示物を貼った。

【工学部機械科 2年後期 中間成績順位表】

 学生たちはいっそうのこと、押し合いへしあい掲示板に集る。しかし一目見ると、上位の学生は面白くなさそうに人群れを離れた。
「どうせ佐倉さんでしょ。」
「分かってたわ。勝てっこないよ。」
 佐倉 香澄(さくら かすみ)。この大学に入学してから一度もトップ成績を譲ったことのない優等生だ。
 大抵の学生が順位表に目を通すと、小声を交わしながら離れていった。
「なあ、佐倉さんってどう思う?」
 佐倉は機械科でたった2人の女子学生の一方でもある。
「可愛いというより綺麗系?高嶺の花っていうか。」
「プライド高そう。」
「あの感じで勉強もできるとか、正直近寄りがたいよな。」
 そんな大講堂に、佐倉の姿は無かった。

 この時間、佐倉が居たのはパソコン室だった。学生アカウントで大学のネットワークシステムにログインすると、自分の順位だけは見ることができるのだ。画面に表示された「80人中、1位」の文字。それを、もう一人の女子学生が覗き込んでいた。
「すごーい!香澄ちゃんまた一番じゃん。ウチ65位だよ!」
「それは、もうちょっと頑張れば?あんたバイトしてばっかじゃん。」
「ソシャゲに課金するから仕方ないの!」
 敷戸 礼子(しきど れいこ)。細身の佐倉とは凸凹コンビとも言えるぽっちゃり系。性格も何もかも正反対なのに、つるんでいるのは他に女子がいないから仕方ないだろう。
「香澄ちゃん、掲示板見に行かないの?」
「他の人の順位とかどうでもいいし。」
「そっかあ。一人で行ってくるよ。」
 敷戸は噂の種でも探しに行ったようだ。佐倉にとって最も興味のないことだった。

本章

 彼はラジオ男と呼ばれ、大学一の有名人だった。ラジオとは大概にして、ひとりでに喋り続けて鳴り止まないものだ。今日もあの大音量が近付いてくる。
「それでさ、アパートのベランダから畑が見えてるから。ずっと向こうで赤いトラクターが走ってるのが見えるから、僕、双眼鏡で毎日見てたんだよ。そしたら急に夕方チャイム鳴るから何かと思って、ドア開けたら農家のおっさんなんだよ。いつも双眼鏡で覗くなって言ってきやがって。でも向こうからじゃアパートの一室なんて点なのに、何で気付いたんだよって。それで今度は直接その畑を物陰から見てて、おっさんが帰るの見てて家突き止めたんだけど、家からおっさんが僕のアパートの方、双眼鏡で見てんだよ。僕その時は本当に怒鳴り込みに行って…」
 隣で大人しそうな男子学生がずっと相槌を打っている。やがて、あからさまに時計を気にするふりをして顔を上げた。
「あ、俺、用事あるから。」
 駆け足で去っていった。
 ラジオ男はそれを名残惜しむでもなく、すぐさま電話で誰かと話し始めた。正確には、誰かに対して一方的に、だ。通り掛かる人々は皆、電話の向こうの相手を気の毒に思った。

 逆巻 勇斗(さかまき ゆうと)。彼の存在は機械科はおろか、工学部を超えて大学中に知れ渡っていた。名前を知らなくても誰に言っても伝わる。
「逆巻って分かる?あの、ずっとでかい声で喋ってる…」
「あーあのメガネ掛けた、あいつだろ!?昨日西エリアの自習室に居た人。」
「多分合ってる。文系のとこまで行くとか…てか自習室で喋ってたの?」
「ああ、それでテスト勉できなくて、2時間後に見に来たらまだ喋ってた。」
「ありゃ騒音マシンだよ…。」
 彼の悪評は、ただやかましいだけに留まらなかった。機械科では必修の基礎力学の講義。大学でも重鎮の教授が教壇に立つ。広い講義室の緊張と静寂を、あっという間にあの男が破った。
「先生!θの書き方おかしいです!」
「先生!今の式26ページの時と違います!」
「先生!僕目が悪いから黒板の青い字見えません!」
 その度に授業が止まる。教授が苛立っているのは誰の目にも分かった。気付いていないのは逆巻だけだ。皆、教授の表情にはらはらしつつ、逆巻の態度に辟易しつつ、授業どころではなかった。
 講義が終わっても、方々の教授の部屋に難癖をつけに行く逆巻の姿が目撃されていた。大学教授なんて誰も忙しいのに、とんだ身の程知らずだ。真面目に取り合ってやって大喧嘩になる教授もいた。
「しかもさ、あいつ最初は寮に入ってたけど、設備とか規則に文句つけまくって追い出されたらしいよ。」
「駐輪場のヒビを修理しろって、毎日のように管理課にやってくるから出禁になったらしいよ。」
 行く場所行く場所でトラブルを起こす、”歩く災害”などと呼ぶ者もいたくらいだった。

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 大講堂の掲示板には今日も大勢の学生が待機していた。今回は成績順位の発表ではない。佐倉も敷戸に連れ立って訪れていた。新3年生、これから始まる実験科目の班分けが発表されるのだ。
 教員が一枚の掲示物を貼ると、その場はどよめいた。
「えーっ!佐倉さんと逆巻が同じ班!?」
「可哀想、絶対あいつ足引っ張るだろ。」
「成績に響くんじゃないか?」
 皆は自分の班よりもE班の内容にばかり注目していた。

 E班
 逆巻 勇斗
 佐倉 香澄
 潮谷 研二
 敷戸 礼子

 別々の理由で名を馳せる2人が同じ班になったことを誰もが憂いた。そんな中、佐倉当人はやっぱりかという反応だった。
「これ、ただの出席番号順だからね。2年で誰かが…逆巻より前の番号の人が留年とか退学しない限り、逆巻との間で切れ目にはならなかったのよ。」
 それはかなり確率の低いことだった。
「人の不幸を期待するのもなんだし。それより潮谷くんの方が可哀想。」
 潮谷 研二(しおたに けんじ)。それはいつも逆巻の話し相手として捉まっている、気の弱そうなあの学生だった。
「まじでそれ。実験中まで離れられないとか地獄じゃん。」
「でも聞いてやる方も聞いてやる方じゃない?無視すればいいのに。」
「それがさー、ウチも断れないタイプだと思うわ。」
「礼ちゃんお人好しだからね。」

 2人が自習室に戻った後、逆巻はやはり潮谷を連れてやってきた。
「イヤホンは耳の後ろから付けるのが本当なんだって。それだったらもっとしっくりくる付け方ないかなって思って、めちゃくちゃ長いイヤホン買ってきて肩にグルグル巻きにして付けてみたり、イヤホンの上からヘッドホンつけてヘッドホンにグルグル巻きにして…あ、ほら、班発表されてる。」
 逆巻は少し離れたところから掲示板を見上げた。
「80人の中で女子2人がこの班に入るとか凄いな。実験に差し支えないかな。」
 差し支えそうなのはお前だよ、の一言を潮谷は胸に仕舞っておいた。
「なあ逆巻、女子と絡めるとか…興味ないの?」
「それは実験に関係ないって!お前はそういう気で行くの!?」
「いや、俺じゃ無理だけどさ…。」
 何かそれ以上の感想が出るわけでもなく2人は空き教室に戻っていった。

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 実験日の朝。誰しも慣れない作業着に身を包んで落ち着かない様子だ。皆、そんな互いの姿を笑いあってごまかしていた。
「すげえベテラン作業員みたいじゃん。俺はどう?」
「お前みたいな人相悪い奴が着ると服役囚みたいだよ。」
「「「わはは!」」」
 作業着は男女共通サイズ、というかほとんどメンズ服だ。ズボンの裾を折るだけで済んだ敷戸はともかく、佐倉は一番小さいサイズでも全身ブカブカだった。
男子学生は親しみやすい敷戸にも声を掛ける。
「敷戸、まじで工場のおばちゃんみたいじゃん。めっちゃ世話焼いてくれそう。」
「ちょっとー、おばちゃんは失礼よ!」
「「「わはは!」」」
 佐倉はその場から取り残されていた。似合ってない作業着。誰もイジれない空気。そして、本当は逆巻との実験班にすごく嫌な予感がしながら、不安を隠していた。
 敷戸が話の輪から戻ってきた。
「香澄ちゃん、なんか暗い顔してるけど大丈夫?いつもおしゃれだから作業着なんて嫌だよねー。そのうち慣れるから恥ずかしくないってば!」
「ああ、そうだね。大丈夫。」
的外れな励ましにも気を取り直して、佐倉は実験棟に視線を向けた。
「そろそろ、行こう。」
 2人は連れ立って、班ごとに指定された実験室へ向かった。

 集合してみていきなり、佐倉たちは凍り付いた。逆巻は私服で現れたのだ。いつもの黒いパーカー姿があまりにも浮いている。ツッコむ間もなく担当の教授が到着してしまった。
「逆巻くん?作業着はどうしたのかい?」
「安全靴のサイズが無かったからいらないんです!こういうの誰にでも合うように用意してないのは大学側の配慮が足りてないんですよ!」
「ええと、作業着だけでも着てこなかったのかい?」
「嫌です!全部揃ってないと意味ないし不愉快だったので着ませんでした!」
 それは滅茶苦茶な言い分だった。佐倉なんて一つもサイズが無いけど何とかして着用してきたのだ。佐倉は思わず身を乗り出した。
「ね、ねえ、逆巻くん、」
「まあ今日のところはいいでしょう。実験の用意をしましょう。」
 教授の意外な冷静さに一同は一旦席に着いた。
 今日の実験は交流電流の観測だ。2人ずつに分かれて、一方が電流や電圧の強さを操作する。一方は測定器を操作して記録する。別に話し合うまでもなく男女で分かれることになった。
「男子どっちがいい?」
「僕、記録の方やりたい!」
 逆巻は即答した。くだらない理由で作業着を拒否した割にはやる気満々なのは何故だ。
ともかく、物事がすんなり決まったのは良いことである。教授の指示に従って実験は開始された。
機器の電源が入り測定が始まった。記録シートに波形が印刷されていく。じりじりと変化する波形。正直言って少し退屈な実験だった。教授は離れたところから見ている。そして、危惧していたことは起こった。
「こういう波とかトタンみたいな形のことコルゲートって言うけど、コルゲートって言うとなんか漫画とかゲームで技の名前とかに使われてカッコいいイメージあるけど日本語に直すとただの波なんだよ。そういう言葉っていくらでもあって、ずっと自転車、自転車って言い続けてるだけの歌とか、黄色い潜水艦とか何が言いたいんだって思う。あと一見ただのTシャツだけど英語で変なこと書いてるTシャツとか、海外の人から笑われるからね。この大学も文系は留学生多いから。僕は無地の服しか着ないから問題ないね。黒しか着ない。黒は収縮色って言って細く見えるんだよ。色の組み合わせでも派手に見える合わせ方とかあって、反対色とか補色とか言って、」
「逆巻くん、測定器の方見て!」
 教授が戻ってくると記録シートが切れて空回りしていた。潮谷も逆巻に気を取られて見ていなかった。これで、女子チームの操作も全て水の泡になり実験はやり直しになった。この惨事に…怒り出したのはなんと逆巻だった。
「何でやり直しなんですか!普通、こういう機械ってシートが切れたら警告音が鳴ったりしないんですか!」
 教授も困り顔だった。
「専門的な機械ほどそんな風には出来てないからねえ。実験は集中してやるものだから。」
「そもそも途中で切れないように用意してくれなかったんですか!」
「途中で気付いたら交換できる仕様だから…」
「そんな要求ばっかりの機械当たりたくありません!僕、電圧の操作の方行きます!」
 皆で、ちらちらと顔を見合わせながら、男女のチームは交替した。
 席に着くなり逆巻は騒ぎ出した。
「椅子が低いじゃないですか!これモニターの位置がここで、首悪くしたらどうするんですか!モニターの画面も暗くて、僕ただでさえ目が悪いのに、」
 結局、その日の実験は3時間掛かった。例年の学生で1時間で終わるような実験だった。ツッコみどころは数えきれないが、佐倉も敷戸も疲れ切って愚痴も交わさずに帰っていった。

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 実験科目が始まって4週目。逆巻以外の3人はもう、この時間が憂鬱で仕方なかった。今週指定された実験室へ向かう。逆巻は今日も私服だった。気難しそうな教授が待ち構えていた。
「逆巻くん、作業着はどうしたのかね。」
「靴のサイズが無いから着ないんです!」
「君のことは噂には聞いているよ。どうしてそう我儘ばかり言うのかね。」
「我儘じゃないですよ!どれも正当な抗議です!言わないと変わらないじゃないですか!」
「君が言ってもどうにもできないことばかりなんだよ。」
「どこの実験室も機材を買い換えたらいいじゃないですか!」
「逆巻くん、そんなことは簡単にはできなくて…」
 この日は開始までで20分も掛かってしまった。
 今日の実験は熱流体の観測だ。2人ずつに分かれて、一方は一定時間ごとに電熱器の出力を調節し、一方は流量と温度の変化をグラフに記録していく。
「僕、記録の方やります!」
 どういう選定理由なのか分からないが、逆巻は潮谷の意見を聞いたことは無い。
「この記録用紙の色見づらいです!あと記録は鉛筆じゃなくてシャーペンがいいです!」
 早速言いたい放題言って、また10分くらい遅れて実験は開始された。
 記録用紙は指数関数で示される特殊なグラフだ。逆巻は自分から引き受けたにも関わらず苦戦しているようだった。
「つ、次は2段目に飛んで…えっと…」
 潮谷が心配そうに覗き込む。
「原点そこじゃなくない?」
「お前は口出すなよ。えーっと…」
 譲ろうとしない逆巻と、何とかアドバイスしようとする潮谷。その会話内容を聞いて、佐倉は逆巻がどこでつまずいているか分かっていた。よく勉強していれば手元の様子が目に浮かぶのだ。
 このままではまた実験がやり直しになってしまう。どちらにしろ、今は逆巻のために女子チームの作業もストップしているところだった。佐倉は逆巻の元へ向かった。
「ちょっとそれ見せて。そう、3桁目のところでズレてる。」
「大丈夫だから。僕一人で出来るから。」
「大丈夫じゃないじゃん。じゃあ今表示されてる数字で付けてみてよ。」
「えーっと、待って、えーっと、」
「違う。横軸を先に見た方が書きやすいよ?」
「ここまでずっと縦軸で見てたんだよ。これまで通りに…」
「それでずっと実験止まってたんでしょ?いいから横軸を先に見て、それから…」
「僕のやり方でやってたら駄目になるとか、そもそも記録用紙がおかしくて、」
「いい加減にして!!」
 突然の怒号に、敷戸も潮谷も、そして教授も振り向いた。
 有無を言わさず、実験の記録係は交代となった。あとの実験はすんなりと進んだ。さすがの逆巻も、この日は最後まで何も言わずに電熱器を操作していた。

 翌週から、佐倉は逆巻に容赦ない激ツッコミをかますようになった。
「安全靴のサイズが無かったから…」
「作業着忘れたって言って謝ればすぐ済むでしょ?」
「こんな壊れやすい実験器具じゃ…」
「逆巻くんが壊したんでしょ?頭下げなさいよ!」
「こんな分かりにくい画面じゃ結果が読めないから…」
「そこは勉強してたら分かるところ!」
 逆巻が関係ない話をして喋り止まなくなったときも、いつも止めに入るのは佐倉だった。
「黙れ!ラジオ男って呼ばれてるの知らないの?うるさーい!!」
 実験が終わると逆巻は縮こまっていた。
「佐倉さん、勘弁してくれよ…。」
 それは抗議ではなく、完全に降参の姿勢だった。

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 ある日の夕方、佐倉は電子レポートをまとめるためパソコン室へ向かった。そこに居たのは逆巻だった。
「逆巻くんじゃん。おつかれ。」
「わーっ佐倉さん!静かにレポートやってただけだから!許して!」
「何も怒ってないじゃん。実験でもないし。」
「そっかあ。でも佐倉さん、あんまり男子に話し掛けるイメージないっていうか。」
「あんたには仕方なく話し掛けててこうなったのよ。」
 確かに佐倉は、他の男子学生との絡みはほとんど無かった。敷戸から少し噂に名前を聞く程度だった。
「ところで逆巻くん、そのレポート課題は進んでるの?」
「全然。ナブラ演算子使うところで詰まってる。」
「そこ私もう終わってるから貸すよ。丸写しは駄目だからね。」
「助かるよ。」
 逆巻の態度は素直だった。佐倉は隣に座った。
「そのコーヒー、購買で買ったやつ?」
「そうだよ。ボトルコーヒーって有名メーカーのはあんまり美味しくなくて、実はあの購買の無名のコーヒーが一番美味しいんだよ。僕は酸味のあるコーヒー嫌いだからどちらかというと苦い方が良いかな。あと普通のと深煎りのコーヒーって売ってるけど、深煎りの方が濃いイメージあるけどカフェインは少ないんだよ。煎るときに多少はカフェインが飛ぶからだよ。それからアイスコーヒーの方が…」
 ここまで喋って逆巻は立ち止った。怒られる。ちらりと佐倉の顔色をうかがった。
「それで、アイスコーヒーがどうしたの?」
 佐倉は本当にラジオでも聞くように気楽そうに椅子にもたれていた。
「ああ、それでアイスコーヒーは冷たいぶん味を感じにくいから、同じ店でもホットより苦く作ってあるからね。コーヒーフロートでもそうだけど。でもそれってコーヒーならいいけど、コーラとか炭酸のやつあるじゃん。あれってそのままの炭酸ジュースにアイス浮かべたら一気に泡になって溢れちゃうから、普通にジュース出す時より炭酸抜いてるんだよ。それにああいうドリンクって半分以上は氷で…」
 佐倉はいつの間にか電子レポートを書き始めていた。でも逆巻の話を制止するわけでもなかった。時折、耳を傾けてこくこくとうなずきながらレポートを書いていた。そのまま、パソコン室が閉館時刻を迎えるまで佐倉はラジオを流しっぱなしにしていた。

 次の日、共通の講義が終わった後、逆巻は佐倉に借りたレポート用紙を返しに行った。
「ありがとう、これ助かったよ。ジュースでも奢るから。」
「いいの?」
 それは男子学生同士でも、普通にレポートの貸し借りをした時のお約束というか、軽いノリだった。でも佐倉にとっては初めてだった。
 今まで佐倉は数えきれないほどレポートを人に貸していた。出来が良いぶん当然の需要があった。でもそれで何か貰ったことはない。ほとんど敷戸を通して勝手に流通していたからだ。その敷戸でさえ、佐倉に何か買って返したことは無かった。天からのお恵みは降ってきて当然。そんな認識がいつの間にか常態化していた。
「本当にいいの?」
「そんなに遠慮しなくても。好きなの買ってよ。」
 自販機の前で逆巻は佐倉に200円を渡した。佐倉はミルクティーを買った。
「ありがとね。」
 佐倉は暖かいボトル缶を握って、まだ驚きを隠せなかった。ただ見返りを受けたことへの嬉しさではない。雲の上の優等生ではなく、身近な友達として接して貰えたことに対してだ。
「佐倉さん、やっぱりそれびっくりしたでしょ?最近のホットドリンクって昔よりずっとぬるいんだよ。昔は熱々だったけど、それじゃすぐに飲めないとか火傷するとかいう苦情があったり、節電のためとか言ってぬるくなったんだよ。でも本当はそれ電気代をケチってるだけだと思うけど。あとショッピングモールの暖房も昔は暑すぎて、」
「あ、うん、本当ありがとう。私は4限あるから。」
 佐倉は足早に次の講義室へと向かった。

 その後も2人は飲み物を奢り合うようになった。何も、成績の良い佐倉ばかりが貸す側になるわけではない。テストの過去問なんかは先輩にコネのある学生が手に入れて、人の手から手を渡って回ってくるのだ。今まで全て自力で勉強していた佐倉に、逆巻は何度も過去問を貸してくれた。そして、飲み物はいつも購買のコーヒーを選んでいた。
「ここのしか飲まないから!」

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 ある晴れた日。午前11時30分。まだ食堂は空いている時間帯だ。午前の講義が休講になった佐倉は入口でフェアメニューの看板を眺めていた。
「おっす、佐倉さん!」
 突然の呼びかけに振り向くと逆巻の姿があった。
「それ食べるの?」
「分かんない、見てただけ。」
 別にどちらが誘ったでもなく、2人は一緒に食堂に入った。
 逆巻はカレーライスのコーナーへ一直線に進んだ。この食堂でカレーだけはセルフサービスで、盛りつけ放題になっている。食の細い佐倉は何だか損な気がして、ほとんど利用したことがなかった。佐倉は麺のコーナーで焼きそばを注文した。
 トレイに受け取って会計へ進むと、逆巻が先に並んでいた。それを見た佐倉は噴き出しそうになった。逆巻はカレーライスを漫画みたいに山盛りにしていたのだ。
「何それ、そんなに欲張らなくても。」
「そんなわけじゃなくてさ。他のメニューじゃ腹一杯にならないからいつもカレーにしてるんだよ。」
 佐倉は何だか納得が行ってしまった。あれほどの声量で延々と喋り続けられるエネルギーがどこから来ているかについてだ。
 会計を済ませると2人は向かい合わせに座った。今日は一体何の話をされるのだろうかと佐倉は身構えていた。割り箸を割った。逆巻は喋らない。焼きそばを一掴みした。逆巻は喋らない。
 前を見ると、逆巻は無我夢中でカレーライスを頬張っていた。途中、息継ぎをするように顔を上げて「うめぇ…」と呟いた。そして、そのまま平らげるまで、その一言しか発しなかった。
「ごちそうさま!あれ、佐倉さん食べないの?」
 気が付くと佐倉はずっと逆巻の食いっぷりを見ていた。
「あ、ちょっと考え事してただけ。今から食べるから。」
「そう。じゃあお先に。」
 一人になった席で佐倉が焼きそばを啜っていると、トレイ返却口の方向から声が聞こえてきた。
「美味しかったです!!」
 逆巻はわざわざ、厨房に向かってでかい声で感想を述べたのであった。佐倉は今度こそ噴き出してしまった。
(あいつどんだけ腹減ってたの?まじ、犬とかにご飯あげた時みたい。)
 佐倉は悔しいながらも、この日の逆巻を何だか可愛らしく思ってしまった。

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 明くる日、午前の講義を終えて歩き出す逆巻に、先に声を掛けたのは佐倉だった。
「逆巻くん。今日も一緒に食堂行かない?」
「僕コンビニにする予定でさ。」
「ねえ、何でも奢るから他のメニューも頼んだら?」
 逆巻は佐倉がそこまで粘る理由が分からなかった。
(佐倉さん、僕に気があるんだ!!)
 そんなにポジティブに生きていけたらどれほど幸せだろう。
「じゃあさ、僕が奢るから一緒にコンビニ行かない?」
「うーん、いいけど。」
 佐倉は誘った手前断れず、コンビニに付いていくことにした。もちろん、鳴り止まないラジオを聞きながらだ。
 コンビニは工学部から経済、教育学部のエリアを越えて学外にある。いつもの大人しそうな男ではなく、見た目にも眩しい佐倉が逆巻に連れられている姿。大学中の多くの人が目撃していた。
「ラジオ男と歩いてた女、誰?」
「同じ学科の人らしいよ。何かのついでじゃない?」
「それにしても、あんな奴と一瞬でも隣り合ってくれるなんて。」
 たった一度でこれほど噂されているとは2人は知る由も無かった。

 コンビニに着いてからは各々自由に買い物を始めた。
(逆巻くん、奢るって言ってたなあ。断るのも悪いし…。)
 佐倉は迷った挙句、遠慮がちに一番安いサンドイッチを手に取った。辺りを見回す。逆巻はチルド食品のコーナーを物色していた。
「佐倉さん!見てよこれ、大盛ナポリタン。他のコンビニでは大盛って書いてるけど大して入ってない、嘘ばっかりだけど、ここの大盛は本当に多いから!」
 そんな情報は求めていない佐倉は苦笑いした。
「それと、僕の好きな海老天むすび!これもここの系列の店が一番エビが大きくてご飯も多いんだよ。あとは…」
「どうでもいいよそんなの!自分の会計済ませてくる。」
「待って、奢るから!佐倉さん何食べるの?」
「本当にいいの?」
 佐倉はそっとサンドイッチを手渡した。
「それだけ?」
 別に遠慮してもしなくても、佐倉は普段からそんな昼食だ。
「もっとちゃんと食べなきゃ佐倉さん!ほら、佐倉さんの分の大盛ナポリタンも買うよ。」
「ちょ、それはまじでいらないって!」
 佐倉は膝を叩きながら爆笑してしまった。
「何かおかしかった?じゃあ天むすは?」
「そうね、それなら後で食べるかも…ありがとう。」
 レジに並ぶと高齢女性がすでにカウンターで待っていた。店員は奥でスマホをいじっていて気付かない。すると逆巻が、屋内ではびっくりするような大声で呼んだ。
「店員さーん!何やってるんですか!」
 慌てて店員が駆け寄った。
「店員さん、おばあちゃん困ってるじゃないですか!仕事ならともかく、スマホいじってて気付かなかったなんて怠慢です!本部に報告しておきます!おばあちゃんもああいう奴いたら容赦なく報告していいんですよ。通報先はホームページの右下から…」
「逆巻くん、もういいから!ね?」
 おせっかいというべきか、本人なりの優しさなのか。そして正義感さえ感じさせる一面を逆巻は見せた。それは佐倉にとってまた新しい発見だった。

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 その日の午後3時、東エリアのラウンジ。昼一番の講義を終えた学生で満員だった。その中に逆巻と潮谷は居た。ラウンジは逆巻の声でさえ紛れるくらいの雑音で溢れていた。
 逆巻は潮谷に耳打ちした。
「なあ今日、佐倉さんに学食誘われたんだよ。断ってもめっちゃ誘われたんだよ。佐倉さん僕に気があるに決まってるよ!」
「へえー。俺が女子と絡まないか持ち掛けたとき、関係ないって言ったくせに。」
 潮谷は否定も肯定もしなかった。その代わり、こんな風に問い掛けた。
「それで、本当に気があるとしたらどうしたいの?」
「どうするって、そりゃ、付き合えたら嬉しいけど…。」
「今付き合えたって尻に敷かれるんじゃないの?」
 逆巻は考え込んでしまった。
「逆巻、佐倉さんに怒られてばっかじゃん。いつもフォローしてもらってるし。あと成績でも勝てっこないでしょ。そんなカッコがつかないような付き合い方、本当に嬉しいの?」
 いつも話し手ばかり務める逆巻が嘘のように押し黙ってしまった。
「逆巻、最後に発表された成績何位だったの?」
「80人中、52位…。」
 頂点などはるか上だった。
「俺より低いじゃん。」
 鼻で笑った潮谷の態度に逆巻はむっとした。
「お前は関係ねえし!」
 逆巻は椅子を蹴飛ばすように立ち上がるとラウンジを去っていった。

 同じ頃、佐倉と敷戸は空き教室でレポート課題を解いていた。ここは特定の時間だけほぼ無人になる穴場スポットだ。
 佐倉がふいに話し掛けた。
「礼ちゃんって好きな人とか居たことある?」
「うーん、やっぱ一番はセレクトプリンスに出てくる花畑アレンくんかな!」
 目を輝かせて答える敷戸に佐倉は呆れた。
「二次元の彼氏のことは訊いてないよ。リアルで!恋とかしたことないの?」
 敷戸は途端につまらなそうな顔をする。
「そんなの、箸にも棒にも掛からないよ。三次元の男に興味ないし、向こうから見てもウチみたいな、デブでブスじゃ対象外でしょ。」
「ふーん。痩せたら可愛いと思うけどね。」
 適当なフォローをして佐倉はレポートに向き直った。
 佐倉には相談できそうな相手はいないようだ。

 逆巻はアパートへ帰るなりベッドに飛び乗った。そして、うつ伏せのまま考え始めた。
(好かれて嬉しいと思うのは、僕からも佐倉さんのこと嫌いじゃないからだよな。)
 アリ寄りのアリだ。整った小顔に、すらりと長い手足。あれを我が物にしたいと誰も言い出さないのは、自分じゃ届かないと思っているからだろう。
 性格の方はどうだろう。みんなツンケンした女だと思っているが、逆巻の感じ方は異なっていた。
(僕にあんなにビシビシ言ってくれるなんて、優しい人に違いない。)
 逆巻がワガママ放題に育った原因は生育環境にあった。実の両親も、周りの人間もまともに叱ってくれなかったのだ。子供は普通、成長するにつれて、叱られることも愛だと気付いていくものだ。逆巻は無意識のうちに寂しさを抱えていた。
(佐倉さんみたいな人がずっと傍にいてくれたら。でも、そんな形で愛を交わせることと、尻に敷かれることとはまた違うし…。)
 潮谷の言葉を反芻する。
(やっぱり成績で見返すしかないのかな。)

 佐倉はアパートへ帰ると、メイクも落とさずにしゃがみ込んだ。ベッドにもたれかかってぼんやりと目をつぶった。いつの間にか逆巻のことばかり考えていた。
(あいつ超まじウケる。この前も一人で回転寿司行って30皿食ったとか言ってたし。第一印象あの問題児で、実は食いしん坊キャラとかズルくない?)
 その件は学食のカレーの時から、佐倉の中ではかなりツボだった。でも、それより大事なことがあった。
(逆巻って駆動が狂ってるのであって、もっとこう、根本的なところでは良い奴だよね。赤の他人でも困ってる人に味方したりとか。)
 それは、佐倉だったら見て見ぬふりしているようなことだった。
(良くも悪くも何でも口に出すから、あれが偽善には思えない。裏表が無いんだよ。すっごく分かりやすい。)
 佐倉の生い立ちは、叱られてばかりだった。抑圧され、ずっと良い子を演じてきた。そして、今に至るまで完全無欠の優等生だと思われている。
(だから逆巻みたいな奴、可愛いんだよ。)
 でも、好きとまで断定する勇気は無かった。
(ラジオ男に片思いとか頭おかしいから!)
 佐倉は自分にまで自分を偽ってばかりだった。

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 今日は3年生最後の成績順位の発表日だ。にもかかわらず、大講堂の前に人の姿は無かった。この後、研究室配属の振り分け会議の折に直接発表されるのだ。
 会議と言っても話し合って決めるわけではない。成績順位の高い順に研究室を選ぶことができる、ただそれだけだ。総勢80人が10部屋の研究室に均等に分かれる。
 佐倉と敷戸はいつもの空き教室でその時を待っていた。
「今年は流体力学研究室が人気があるらしいよ!香澄ちゃんどこ行くの?」
「うーん、まだ悩んでるけど、皆が行くからとかで選ばないよ。」
「香澄ちゃんは選び放題だから迷っちゃうよねー。」
「礼ちゃんはどこにするの?」
「ウチは伝熱学研究室。」
「へえ、伝熱学に興味あったの?」
「ううん、あそこの教授は研究緩いとか、卒論の審査甘いって言われてるからさ!」
「楽がしたいだけとか…。」
 佐倉は溜め息をついた。
「しかもさ、あんたの成績で選べるの?」
「うーん、行けたら行く!」

 逆巻と潮谷は一足早く会場へ辿り着いていた。
「逆巻、何でそんなに乗り気なの?選べるような順位じゃないだろ。」
「目が悪いから前来ただけだってば!表が白くて見づらいからさ。」
 最前列を陣取りながらも、逆巻は諦め半分だった。
(どうせ佐倉さんは流体力学に行って、すぐに枠が埋まるだろう。)
 教職員が黒板に大きな紙を貼った。上部に横一列に、10部屋の研究室の名前が並ぶ。その下にはそれぞれ8個の枠があった。誰がどの枠に名前を入れるか、4年生の研究室生活の運命が決まるのだ。
 準備が整う頃にはほとんどの学生が揃っていた。教職員が声を掛けた。
「それでは研究室配属の振り分けを始めたいと思います。呼ばれた学生から順に、希望の研究室の枠に記名して下さい。」
 皆が一斉に前を向き、背筋を整えた。
「1位。佐倉さん。」
 この時点では誰も驚かない。佐倉も当然のように立ち上がる準備をしていた。しかし、表に歩み寄って記名すると会場はどよめいた。
「え、生体工学?」
 その研究室の注目度について多くの学生が知らされていなかった。生体工学研究室は去年設立されたばかりの新進気鋭の研究室で、教授は期待の学生にだけ声を掛けてまわっていたのだ。
 逆巻は身を乗り出した。一気に心拍数が上がってきた。
(これならチャンスがあるかもしれない。)
「2位。中川くん。」
 流体力学を選んだ。
「3位。大城くん。」
 生体工学を選んだ。
「4位。森くん。」
 流体力学を選んだ。
 この2つの研究室は、分散したとは言え、やはり上位の学生で次々に埋まっていく。
「12位。久米くん。」
 生体工学を選んだ。
「24位。飯田くん。」
 流体力学を選んだ。これでもう流体力学の枠は埋まってしまった。
「33位。堀田くん。」
 生体工学を選んだ。生体工学の枠はあと1つになった。
 逆巻はもう駄目だと思った。前回の成績順位は50位台だ。それまで誰も生体工学を選ばないとは考えにくい。
「34位。西村くん。」
 電磁気学を選んだ。
「35位。渡辺くん。」
 伝熱学を選んだ。
「36位。逆巻くん。」
「…。」
「逆巻くん?えー、欠席かな?」
「は、はい!居ます!!」
 逆巻は震える脚で立ち上がった。あの最後の枠だけを見つめながら、一歩、一歩、歩み寄った。そして、記名するとその列の一番上を見上げた。同じ研究室に、確かに佐倉の名前があった。

 配属が終わってほとんどの学生が会場を後にしても、逆巻と敷戸は最前列の席に残っていた。
「何であんなにガクガクしてたんだよ。」
「いや…思ったより順位上がっててびっくりしただけだよ。」
「勉強してたもんな、逆巻。本気で行くんだな。」
「お前には関係ないだろって!」
 この日の逆巻は逃げ出さなかった。ただ下を向きながら、敷戸と共に会場を去った。
 逆巻は心に決めていた。
(成績順位で佐倉さんを超えたら、僕、告白するんだ。)
 チャンスは残り少なかった。4年前期に発表される3回だけだ。後期からは大学院入試や卒論の準備が始まって通常の試験が行われないからだ。

 佐倉と敷戸は連れ立って購買へ向かっていた。
「礼ちゃん、伝熱行けて良かったね。」
「まじで滑り込みだったよ。危なかったー!」
「何とも言えない面子だね、伝熱。」
「香澄ちゃんのとこの方がヤバいでしょ。また逆巻居るんだよ?」
「あー、うん。」
 佐倉は一瞬立ち止まった。
「研究の邪魔されても取り合っちゃ駄目だよ?てか距離置いた方がいいよ?」
 本気で心配する様子の敷戸を見て、佐倉は尚のこと自分の気持ちに蓋をしてしまった。
「しかも香澄ちゃん、あのラジオ男とよく一緒に居るって噂されてるんだよ。香澄ちゃんまで変な人だと思われたら大変だよ。」
 その一言には不穏な気配を感じた。
「だ、大丈夫だってば!それよりさ、潮谷は電磁気だよ。逆巻と別のとこになって良かったなーって。」
「そうだね、電磁気は静かな感じの人が集まったし。そもそも教授が全然喋らなくて…」
 佐倉は無理に話を逸らした。敷戸になら、他の人の話題を挙げてもいくらでも噂話が出てくる。購買で別れるまで適当にごまかすだけの、この会話が友達として悲しかった。

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「次、どうぞ。」
「大城雅也です。趣味はサッカーです。よろしくお願いします。」
「次、どうぞ。」
「久米省吾です。趣味はロードバイクです。よろしくお願いします。」
「次、どうぞ。」
「逆巻勇斗です。趣味は街で配られてるポケットティッシュを集めることです!まず大きく分類すると広告が外から入れられてるやつと中から入れられてるやつがあって、コストが掛かるのは…」
「あああー逆巻くん!皆さんすみません、ちょっと変わった奴で。私は佐倉香澄、趣味はアロマテラピーです。よろしくお願いします。」
 なんとか自己紹介は切り抜けた。
 生体工学研究室の隣、広めの多目的スペース。新4年生の8名と、去年から居て大学院に残った先輩5名、そして教授が一堂に会して顔合わせが行われた。リーフレットが配られ、研究室の規則などが簡単に説明された。読み終えると教授は書類を鞄に仕舞った。
「あとは院生が研究室を案内してやってくれ。」

 教授が歩き去ると一同はぞろぞろと先輩の後に続いた。一つ目の扉を先輩が開けると、誰からともなく、おおっと感嘆の声が湧き起こった。
「こっちは解析班の部屋です。」
 真新しいコンピュータがずらりと並び、中央には最新鋭の3Dスキャナ、3Dプリンタが鎮座していた。
「凄いです!このパソコン最新のOSでプロフェッショナルモデルですよね!?しかも使われてるソフトは普通に買ったら何百万とかするやつで、僕には手が出なかったから自分のパソコンに入れるときパチモンにしたけど、機能はあんまり変わらないけど他の高いソフトと互換性が…」
「逆巻くん!」
 言われなくとも皆、凄いのは分かっていた。
「こっちは測定班の部屋です。」
 先輩が二つ目の扉を開けた。床には手作り感満載の実験道具が散らかっていた。一応、個人用のパソコンはあるようだが、そこら中から廃品を掻き集めてきたような古ぼけたパソコンだった。この光景には逆巻もノーコメントだった。
 解析班、測定班と名がついているが、それらは連携しているわけではないこと。そして、班分けについては選択権は無いことが告げ知らされた。
「教授が本腰を入れてるのが解析班の研究で、結構難しい研究をしてるんだ。そのために優秀な学生に声を掛けてるけど、呼んだ全員が来てくれるわけじゃないからね。」
「残りの枠…俺みたいな、お呼びでない学生はこっち。テキトーな実験課題が与えられて放っぽり出されてるようなもんさ。」
 逆巻は自分がどちらに入れられるか分かっていた。悔しかった。でも、教授にも誰にも抗議しなかった。下手な真似をして追い出されたりしたら台無しだ。

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 大体の研究室で、新4年生は先輩の顔を覚え、研究の基礎も教わって落ち着きつつあった。佐倉は時間が空くと、3階の敷戸の研究室に入り浸っていた。
「本当に伝熱研、緩すぎない?席めちゃくちゃ空いてるし、関係ない人が喋っててもいいとか。」
「教授優しいからね。ゲームとかカラオケ持ってきても大丈夫だって!」
「さすがにそれは遠慮しとくわ。」
 佐倉が苦笑いする。ふと、敷戸はソファを座り直した。
「ところでさ、新歓だけど逆巻大丈夫だったの?」
「大丈夫って何が?」
「いや、絶対あいつ先輩とかにも自分の話しまくって、空気読まないでしょ?あんなの一人いたら飲み会も台無しになるって思って。」
「あー、それは大丈夫。大人しくしてたよ。」
「何で?あの逆巻が?」
「えっと…」
 この頃にはもう、佐倉は逆巻の話を誘導したり、自分に注意を引いたりする方法を完全にマスターしていた。しかし、そんなことを敷戸に話すのは躊躇われた。
「香澄ちゃん、どうかしたの?」
「何でもないよ。うーん、あいつ具合悪かっただけじゃない?それじゃ…」
 佐倉が立ち上がろうとすると、敷戸はもう一つ付け加えた。
「そういえば逆巻って、うちらの学年で勝手にやってる飲み会に来たことないよね。」
「あれってメッセージアプリのグループでハブられてるんじゃなかったの?」
「違う違う。幹事はちゃんと全員に連絡してるけど、逆巻、返事すらしたことないらしいよ。」
「へー何でだろ。後で聞いてみるね。」
「いや、別に聞かなくてもいいけどさあ。」
「礼ちゃんから言い出したくせに。」
 佐倉は今度こそ席を立つと、生体研のある4階へ戻った。

 逆巻は測定班の部屋で一人、学科の勉強をしていた。仕方なく配属されたようなここの学生はほとんどサボっている。
「ねえ気になったんだけどさ、逆巻くんって非公式の飲み会に来たことないよね。飲み会、嫌いなの?」
「嫌いってわけじゃなくて…。」
「何か理由があるのね?」
「この話、ほとんど人にしないんだけど、佐倉さん口が堅そうだから教えるよ。」
 誰も来ないのを確認して、逆巻は語ってくれた。
「中学のとき、友達と5人くらいで飯行ったんだよ。当時、こうピシッとした、スリムな感じのシャツが流行ってて、みんなそんな服装だった。僕もそういうので白地に緑の縦縞の服で、素材は…」
「別に服装はどうでもいいから本題に入ってよ。」
「それでみんなで店に入ってさ、食べ放題だったんだよ。どれも美味そうだし注文したらすぐ来る店でさ。僕そのときもまじで腹減ってて、止まんなかったんだよ。ずっと食ってた、最後までずっと。」
 佐倉は逆巻の壊れ方の原理をよく理解していた。お喋りだろうがお食事だろうが、夢中になったら自分では制御不能なのだ。
「それでさ、時間が来るまで僕、気が付かなくて、そろそろ行こうやって言われたときにはみんな帰ろうとしてて。」
 逆巻は身振り手振りを交えながら話し始めた。
「それで慌てて立ち上がったらさ、なんかもう、こんなくらいお腹が膨れてて、服がピチピチになっててさ。それ見てみんな、指差しながら爆笑しだしたんだよ。僕もう恥ずかしくてさ。みんなふざけて、蛙みたいとか妊婦みたいとか言ってふざけてさ。僕のお腹バシバシ叩きながら爆笑してんだよ。本当に恥ずかしかった。次の日学校行っても給食の時間にまたからかわれて、恥ずかしくてしばらく学校休んだんだよ。あの時のことがトラウマになって、僕、正式な集まりとか以外では人と飯行かないんだよ。服もダボダボの黒い服しか着なくなったんだよ。」
「あ、服は関係あったのね。」
 佐倉は最後まで嗤わずに聞いてやった。そしてもちろん、この話は敷戸には教えなかった。あの女に「ここだけの話…」なんて言って吹聴しようものなら、あっという間に広まってしまうのは分かりきっているからだ。

 しかし佐倉には、一つ引っかかっていることがあった。
(前にさ、私とは学食一緒に座ってくれたじゃん。もしかして逆巻くん…)
 思い出しながら階段を移動していると、佐倉は潮谷とすれ違った。
「潮谷くん、おつかれ。」
「おつかれ。」
「ねえ、潮谷くんって逆巻くんとご飯行くことあるの?」
「いっぺんも行ったことないけど。てか昼休みになったら消えるし。」
「学内ですら行ってないの!?」
「それがどうかしたの?」
「何でもない。またね。」
 佐倉は階段を駆け下りた。
(もしかして逆巻くん、私のこと…)
 そこまで考えて、踊り場で立ち止まった。
(私のこと、友達だと思って、仲良くしてるだけかもしれないし。)
 佐倉は逆巻よりはかなり慎重な性格だった。

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 この日の逆巻は解析班の部屋を訪れ、いつも通り佐倉のラジオと化していた。昼休み中は出入り自由なのだ。
「戦時中にみんな竹槍で訓練したっていうの、弱すぎって馬鹿にされてるけど本当なのかと思って。僕、竹やぶで竹を取って、それでイノシシか何かと戦おうと思ったんだよ。それで向こうで何か動いたから僕、竹槍を持って突進したら、タケノコ掘りの爺さんだったから慌てて止まったんだよ。爺さん、それじゃタケノコは掘れないっていうから、でも僕…」
 いつの間にか昼休み時間を過ぎていた。
「逆巻くん、そろそろ…」
「待って、あとちょっとだから。僕、掘れるようなもの持ってなかったから、爺さんと竹槍で勝負して、勝ったらタケノコくれって言ってさ…」
「逆巻くん。どうしてここに居るのかね。」
 振り向くと教授が立っていた。
「ここに居る理由ですか?えっとまず佐倉さんに書類返しに来て、」
「違う逆巻くん!出てけって意味だよ!」
 佐倉は慌てて逆巻の服を掴んでドアへと引きずった。
「いてて、佐倉さん!痛いって!」
 そのまま廊下へ放り出すと力任せにドアを閉めた。
「あー、失礼しました、先生。御用ですか?」
「今度の学会、院生じゃなくても発表できるんだけど、佐倉さんどうかい?」
「さすがに早いですよね、いきなりはちょっと…。」
「今年の勧誘は君に一番期待してたんだよ。ずっとトップ成績で、プレゼン授業でも上手かったってね。」
「研究のことは覚えたばっかりで、私じゃ力不足です。」
「今からでも君の実力なら間に合うよ。このプロジェクトを完成させれば研究室としても名が挙がるだろう。そのために君に声を掛けたんだよ。さあ、どうかい?」
 それは、参加しなければ用無しだと脅されているようなものだった。
「分かりました、出来るだけやってみます…。」
 逆巻はドアの外で、この話に聞き耳を立てていた。

 佐倉は敷戸の研究室を訪れた。
「礼ちゃん、私、正直不安だよ。学会とか普通、大学4年でいきなり行くものじゃないし、先輩の話聞いても学会に出るのって相当大変らしいよ。」
「大丈夫だって、香澄ちゃんくらい優秀だったら余裕っしょ!」
 敷戸は全くもって事態の深刻さを理解していなかった。
「ねえ、私は学会の準備だけすればいいわけじゃないのよ。スライド作ったりスピーチを書いたりしながら、研究そのものも今よりもっと難しくなるし、あと同時に、学科のレポートとかテストもずっとあるんだよ。」
「いざ間に合わなくなったら、無理って言えば何とかなるんじゃない?そのとき断れば?」
 楽だからなどと研究室を選んだ敷戸は、佐倉のような責任感は持ち合わせていなかった。そして、佐倉が敷戸の元へ遊びにくる頻度は減っていった。もう全く来なくなっても、佐倉のその後についてはすっかり忘れていた。敷戸は男子学生だろうが、いくらでも戯れる相手がいて退屈しないのだ。

 代わりに、佐倉のことをずっと気に掛けていたのは逆巻だった。研究棟がほとんど無人になっても一人残っている、佐倉の元へ逆巻は毎晩会いに行った。
「本当に僕んち黒い服しか無くて、そこら辺に丸めて置いてたら黒猫かなんか寝てるかと思ってびっくりするわけ。それでそいつに半吉って名前付けたんだよ。でも半吉、僕が着たり洗ったりしちゃうと行方不明になるから。そしたら別のやつを半吉にするんだけど、結局どれが半吉だったか分かんなくなるから全員半吉にして、僕んちでは服のこと半吉って呼んでるんだよ。それで半吉に囲まれて暮らしてると…」
 研究は頭を使うことばかりではない。コンピュータの計算を何時間も見守っていなければならないような退屈な作業もあった。そんなとき、ラジオのように延々と鳴り続けている逆巻の存在は佐倉には有難かった。
 佐倉は、うん、うん、と相槌を打っていることもあれば、完全に無視していることもあった。もちろん、静かに集中したい場合は我慢していたわけではない。
「うるさーい!今大事なとこだから!」
 時によっては容赦なく廊下へ放り出された。それでも逆巻は、めげずに佐倉が帰るまで隣の部屋で待っていた。

 しかし、楽しく相槌を打ってくれる日も、勢いよく放り出される日も、次第に減っていった。いつの間にかほとんど放置されていた。
 佐倉が日に日に弱っていることは逆巻も気付いていた。目は落ち窪み、肌はファンデーションの上からでも分かるくらいくすんでいた。
「佐倉さん、ちょっと休んだ方がいいよ。」
「休めないのよ。このままじゃ学会に間に合わない。」
「ねえ、本当に断った方がいいよ。」
「断れるわけないじゃん。この研究は一大プロジェクトで、手を抜いたら教授の面子を潰すことにもなるんだから。」
 佐倉の机にはエナジードリンクの空き缶が整列していた。

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 その日、教授が不在とあって解析班の学生たちも席を外していた。ガラガラの研究室で佐倉だけが学会の準備に追われていた。逆巻はここぞとばかりに、昼間から部屋を訪れていた。やることはいつもと同じ、とめどないラジオを聞かせることだけだ。佐倉が聞いていても、聞いていなくても。
「でもズボンの色はバラバラだからさ、みんな別々の名前にしなきゃと思って全員に名前付けて、それを出席番号順に並べて点呼取ってたら、ズボンは凄い片付いたんだよ。半吉は部屋中に散らばってるんだけどさ…佐倉さんどうしたの?」
 逆巻はふと佐倉の方を見た。佐倉はキーボードの上に手を止めたまま、前を向いたまま固まっていた。スクリーンが動いているわけでもないし、目の焦点も合っていなかった。
「佐倉さん?」
 佐倉はそのまま、ずるりと椅子からなだれ落ちた。
「佐倉さん!佐倉さん!」
 揺すっても反応は無い。逆巻は一秒も迷うことなくスマホを手に取った。
『こちら119番です。火事ですか?救急ですか?』
「人が倒れたんです!場所は大学の東エリア、研究棟の4階で…」
 詳しい説明をして電話を切ると、逆巻は佐倉の脈と呼吸を確認していた。
「佐倉さん、今救急車来るから。今。まだか!?早く、早く!」
もどかしげに窓の外を覗いていると、やっとサイレンの音が近づいてきた。
「こっちです!」
 救急隊員がいそいそと担架を運んできた。
「誰か付き添い人になる方はいますか?」
「僕が行きます!」
「責任者の方とか、先生はいますか?」
「いません!僕が行きます!!」

 救急病棟、待合室の長椅子でうつむいていた逆巻に、医師が声を掛けた。
「検査で異常はありませんでした。無理が祟ったのでしょう。佐倉さんは無事です。」
 ほっと胸を撫で下ろした逆巻に医師が続けた。
「もう目を覚まされてますよ。ベッドはこちらです。」
 逆巻は案内された部屋へ向かった。佐倉は既に起き上がってこちらを見ていた。
「逆巻くん。逆巻くんが救急車呼んでくれたのね。」
「当然のことだよ。119番通報して、呼吸見て脈取って待ってたんだよ。」
「脈の取り方とか分かるの?」
「高校の時の訓練で習ったんだ。こことここの筋の間を取って、指を揃えて…」
 逆巻は佐倉が見ている前で、躊躇なく手首を握った。
「ほら。僕にもやってみてよ。」
「…ほんとね。」
「でしょ!?じゃあ僕、佐倉さんの分のミネラルウォーター買ってくるから、ゆっくりしようね。」
「ありがとう。」
 しばし一人になった部屋で、佐倉は手の感触を思い出していた。
(逆巻くんと手を取り合ってる間、触れている間、幸せだった。私。)
 佐倉は自分の中で、もうその気持ちに嘘をつくことができなくなっていた。

 しばらくの安静を取った後、佐倉は自宅アパートに帰された。逆巻は荷物を取りに大学へと戻った。もう日が沈もうとしていた。
 研究棟への道すがら、大講堂の前からちらほら人が帰っていくのが見えた。掲示板が灯っていた。今日は成績順位の発表日だったと、逆巻はこの騒動ですっかり忘れていたのだ。
 逆巻は14位だった。この順位を見てかえって安堵した。
(こんな状況で勝てたって喜べないよ。)
 それでも佐倉は1位だった。
(チャンスはあと2回だ。)

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 次の日、逆巻は怒りに満ちた足取りで教授の部屋へ向かっていた。
(もう僕が追い出されたっていい。佐倉さんのことの方が大事だ。)
 ドアを激しくノックした。
「失礼します!」
「逆巻くんじゃないか。どうしたんだね。」
「どうしたもこうしたもないですよ。佐倉さんのこと聞きましたよね。」
「ああ、学会は私が代わりに出席するから問題ないよ。」
「問題ないって何ですか!教授が押し付けた研究のために無理して、倒れて、問題ないんですか!」
「別にあれは強制してるわけじゃないんだよ。優秀な学生には是非、挑戦してみたらどうかなと。」
「真面目な佐倉さんが断れると思ったんですか?ずっと背負い込んでたんですよ。」
「それにしたって体調管理は自己責任だからねえ。」
 悪びれる様子もない教授の態度に逆巻は拳を握り締めた。
「そもそも解析班にばかり重荷を負わせてどう思ってるんですか?」
「君は測定班だろう。外野から口を出されても仕方ないんだよ。」
「じゃあ外野から口を出しません。僕を解析班に入れて下さい。」
 突然の申し出に、教授は頭を掻いた。
「はあ、身の程知らずとはよく聞いていたよ。君の実力で解析班の研究が務まると思っているのかい。」
「今回の成績発表は14位でした。」
「それは本当かね?」
 確かに教授は、解析班の候補生に声掛けをしていたとき、十数番目くらいまでの生徒は誘っていた。そして、その頃の逆巻は52位だった。
 教授はしばしパソコンに向かうと、教職員専用アカウントから昨日発表された順位表を確認した。
「よろしい、加わってもらおう。分かっていると思うが、研究で結果が出せなかったらすぐにクビだからね。」
「ありがとうございます。」
 逆巻は静かに扉を閉めて教授の部屋を後にした。
 解析班の研究がいかに難解かつ多忙か、逆巻は佐倉を見ていてよく分かっていた。それでも逆巻は強く覚悟を決めた。
(これで佐倉さんのこと、ちゃんと守ってあげられる。そして、公平な勝負ができる。)

 佐倉は学会の終了を待って研究室へ復帰した。そこへ待っていたのは、堂々と解析班の一席を陣取る逆巻の姿だった。
「教授が無茶を言ったら僕が一緒に断るよ。研究が大変だったら僕も手伝うよ。」
 佐倉は息を呑んだ。逆巻の眼差しが今までで最も凛々しく見えた瞬間だった。

 それからというもの、2人が共に過ごす時間は格段に増えた。なにも喋ってばかりではない。研究を協力し合い、学科の勉強を教え合い、そして、夜遅くなれば一緒にコンビニやファミレスへ連れ立った。
 かねてより逆巻は、佐倉と食事に行くのは躊躇しなかった。何であれブレーキ役になってくれる人となら安心するからだ。

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 佐倉は久しぶりに敷戸の研究室を訪れた。
「最近どう?ここの研究室。」
「めっちゃ良いよ!教授がお菓子くれるのよ。アイスとか!」
「だーかーらー痩せられないのよ。どうせ、くれたからーって言い訳するんでしょ。」
 くだらない会話も一段落したところで、敷戸が声をひそめた。
「ねえ香澄ちゃん、あんまり遅い時間に逆巻と歩かない方がいいよ。」
「え、礼ちゃんも結構夜まで居たの?」
「そうじゃないよ。みんな…文系の人まで噂してる。いくらでも耳に入ってくるよ。」
「だから何なのよ、噂とかどうでもいいし。」
「不安だよ。逆巻あんなに指差されてる人間なのに、香澄ちゃんにまで飛び火しないか。」

 その心配は的中というか、敷戸の思った以上だった。
 佐倉は大学図書館の化粧室でメイクを直していた。ここなら入り組んでいて、誰にも見られず口紅も塗りやすい。すると、入り口の方から女子学生の会話が聞こえてきた。
「さっきの見た?あれがラジオ男の付き人だよ。」
「結構、暗くなってからも一緒に居るんでしょ。付き合ってるのかな。」
「ウッソー、どんな悪趣味だよ!」
 佐倉は逃げるようにトイレに入り、声が去っていくのを待った。
 コンビニへ行けば、見も知らぬバイト学生が笑いをこらえた顔でバックヤードに走っていった。隠そうともしないひそひそ話がする。
「ラジオ男の女が…」「クスクス…」
 噂など気にしないと言った佐倉でもさすがに不快に感じた。
 またある日、柱の陰になる場所で勉強していると男子学生の騒ぎ声がした。
「昨日まじ笑える、逆巻と佐倉さんめちゃくちゃ仲良さそうにしてたよ。」
「何のつもりなんだろ。佐倉さんならもっと相手選べるだろ。」
「ああいうカンペキな女ほど変人が多いんだよ。俺の言った通りだ。」
「超ヤバい奴じゃん、関わんない方がいいよ。」
 名前を知っているような層からもそんな評判を聞いて、佐倉はショックを受けた。

 佐倉はアパートで一人、頭に思い浮かべた。好き。その気持ちを逆巻に伝えて、もしフラれたら。そんなことがあればあっという間に噂が広まって、佐倉は逆巻以上の笑い者になるだろう。
(いや、この際他人のことは我慢すればいいとして…。礼ちゃんは。礼ちゃんも気持ち悪がって離れてくだろうな。もう伝熱の部屋でお喋りできないだろうな。)
 そして、それ以前にもっと辛い想像をした。
(ずっと仲良くしてくれた逆巻くんとも当然、気まずくなるよね。話しかける相手なんて私じゃなくていいし。長々とラジオを聞かせてくれた時間も無音になるんだ…。)
 憂鬱な光景ばかりがよぎる。
(大学中の笑い者になり、聞いてくれる人もいない、研究もずっとずっと一人ぼっち。私には何一つ残らない。)
 そのリスクを考えれば、佐倉から告白するのはほとんど不可能に近かった。

 逆巻は潮谷の研究室を訪れていた。ここの研究室は緩いというより、教授に放ったらかしにされている。所属学生はみんな幽霊部員のような状態だった。大学院に残らない潮谷は就活のため出入りしていた。
「久しぶり。企業説明会どうだった?ああいうのでもたまにティッシュ配りしてる企業があるから、僕まだ就職組じゃないけど出入口で待ち構えてるんだよ。そういうのって街のティッシュよりも金掛けてるところが多いから広告紙がちゃんと内側に入ってるし紙質も良いし、なんならビニール自体に印刷してるの貰ったときは嬉しくてさ、」
「逆巻こそ、最近、佐倉さんとどうなの?」
 逆巻はのけぞった。
「関係無いじゃん!お前、何でそれそんなに気になるの?」
「なあ、佐倉さんとどうなの?」
「うん…まあ、上手くやってるけど。一緒に研究とか勉強したりとか。」
「とか?夜中まで残って2人きりになったり、飯行ったりしてんだろ?」
「何でそこまで知ってんだよ。気持ちわりいな。」
「みんな噂してるけど本当だったんだ。」
 潮谷はうつむいて悲しげな顔をしていた。
「潮谷?お前も好きだったの?」
「お前もってことは逆巻も好きなんだろ。」
「待て、何が言いたいんだよ。じゃあ僕が居なかったら潮谷が手出してたのかよ。」
「いや…。逆巻に成績超されるまでは外野からからかってた。でも後から、負けたんだなって。順位のことだけじゃなくて、俺、挑むような男気もない、その他全員の一人だったんだなって。」
「潮谷、お前が応援してくれてなきゃ僕もここまで来なかったよ。」
「だから悔しいんだよ!」
 逆巻は戸惑った。
「えーっと、女子はもう一人居るよ?」
「ない。」
 もう潮谷に掛ける言葉は無かった。

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 4年前期、中間テストが数日後に迫っていた。逆巻は教科書で分からなかった例題について、佐倉から丁寧に教わっていた。いつの間にか2人だけになっていた研究室に教授が入ってきた。
「君たち、早くしないと退出時間だよ。」
「忘れてました!すぐ出ますから。ほら逆巻くん、行こう。」
 今日は午後から、大学を貸し切って外部の資格試験が行われる。その秘匿のために、全ての学生は構内を閉め出されるのだ。2人は急いで東エリアの裏門から大学を出た。
「ファミレスでも行こうかしらね。」
 その判断は遅すぎた。既に大学を退出した学生で満席だったのだ。近くのカフェや休憩所など、どこも埋まって学生たちが路頭に迷っていた。
「どうしよう、さっきの問題分かんないままだけど。」
 そんな状況に、大胆にも切り出したのは佐倉だった。
「逆巻くんのアパート、ここから近いよね。行ってもいい?」
「うーん、狭いけど大丈夫かな。」
「散らかってるの?」
「そんなことないよ。ズボンは出席番号順に整列してるし。」
「意味分かんないこと言わないで。」
 それは佐倉が聞き逃していた話だ。
「大丈夫、ちゃんと物置く場所とか決まってるよ。コーヒーのボトルは右奥、エナジードリンクはその手前。左奥は書類で、手前はパソコンと座椅子と…」
「待って、それじゃ四隅が埋まっちゃうじゃない。どこで寝てるのよ。」
「いつも適当に物を除けた空間で寝てるよ。」
 佐倉はだんだん心配になってきた。
「とにかく行く。部屋がどうなってるか見せなさい。」
「分かったよお。あ、半吉の寝場所は自由だから適当にどかせてね。」

 ドアを開けた瞬間、土間は色とりどりの靴でごった返していた。
「サイズの合う靴が滅多に売ってないから、見つけたら集めてるんだ。あ、結構これ大事だから踏まないでね。」
 佐倉はハイヒールをドアの外に置いて、靴の山を慎重にまたいだ。
「ねえ、この段ボールは何なの?」
 廊下には大きな段ボール箱が積みあがっていて、通れる場所は半分くらいに狭まっていた。
「それはポケットティッシュのコレクションだよ。種類ごとに分けてるんだ。こっちが金融系で、こっちはウォーターサーバーとか、あとパチンコの店の」
「うん分かった。進んでいい?」
 カニ歩きで渡る廊下の途中、キッチンには鍋や食器が滅茶苦茶に積み上がっていた。どこがシンクだったのかもよく分からない。
 そして辿り着いたリビングは、目も当てられない惨状だった。
「これ…どうやって暮らしてるの?」
「ほら、ちゃんとペットボトルと缶の場所は決まってて…」
 決まっていると言っても、ゴミ箱どころか袋も無い。指差した周辺に山積みになっているだけだ。そして、ペットボトルと缶以外のゴミに置き場所は決まっておらず、所構わず散乱しているのだ。
「逆巻くん、この長いパイプに風車が付いたのは何?」
 ここはただのゴミ屋敷ではない。ガスマスクとか水遊びセットとか鳥籠とか、一体何に使ったのか分からないような物が折り重なっているのだ。
「こっちの部屋にあるものは踏んでいいからね。ズボンが整列してるのを見せるよ。」
 部屋の奥のクローゼットへ向かう途中、佐倉は思わず飛び退いた。
「ひゃっ!もう、猫踏んだかと思ったじゃん。」
 本当にそこかしこに黒い服が脱ぎ捨てられ、黒猫のようにうずくまっていた。
「テスト勉強は中止!この部屋片付けるから。」
「えー?さっきの例題どうするの?」
「ここで出来るわけないじゃん!」

 近くのコンビニでゴミ袋を買ってきて、作業は始まった。
「私は明らかにゴミと分かるものだけ分別して詰めるから。逆巻くんは要る物と要らない物と仕分けててね。」
 テキパキと作業をして、部屋右端のペットボトルと缶はあっという間に袋詰めされた。
「次は燃えるゴミね。」
 佐倉が立ち上がって振り向くと、部屋の光景はほとんど変わっていなかった。
「佐倉さん、これ、鉛筆を自分で作ろうとして集めた木なんだよ。芯は炭だから木を燃やしたら出来ると思って木しか拾わなかったんだよ。でも燃やしたら全部灰になったから、その灰をこっちのチューブで押し固めて…」
「バカ!もう、じゃあ逆巻くんが燃えるゴミ集めて。私は物を仕分けるから、要るか要らないかで答えてね。」
 佐倉はガラクタを拾い始めた。
「逆巻くん、これは要る?」
「その箱は叩いたら煙が輪っかになるやつで、煙の出し方が分からないからとりあえず煙草を買ってきて、吸い込んだらむせて喉やられたから諦めて、」
「要るか要らないかで答えて。」
「要らない。」
 こうして、逆巻の荷物は段ボール箱3つに収まった。半吉も一つの袋にまとめられ、クローゼットに収まった。あとは書類だけだ。
「このパンフレットは要る?」
「要らない。」
「この青い分厚いやつは要る?」
「要らない。」
「この手書きのプリントは要る?」
「要らない。」
 佐倉の手が止まった。
「待って逆巻くん。これ要るやつだよ。ずっと探してたやつだ!」
 逆巻は覗き込んだ。その紙は先輩が解いた過去問のコピーだった。
「ここの単元だけ過去問無いってみんな言ってたじゃん。誰も分かんないから諦めようって。逆巻くん、これどうやって手に入れたの?」
「そんなの覚えてないよ。」
 逆巻の部屋からは、そんな出所不明のお宝が次々に出てきた。片付けは日暮れ頃には終わり、綺麗になった部屋で2人は勉強を始めた。もちろん、今まで手が付かなかった秘蔵の単元についてだ。

 テスト当日、逆巻はこれまでで最も良い手応えを感じた。そして成績順位の発表の日には、自信を持って大学のアカウントにログインした。
(これで相当、他の奴を出し抜いて順位が上がっているはずだ。トップも夢じゃない。)
 午後5時、一早くと更新ボタンを押すと、そこに表示されたのは「80人中、2位」の文字だった。
 逆巻は一応、大講堂の掲示板の方も見に行った。1位は佐倉だった。逆巻は重大な事実に気が付いてしまった。
(そりゃ、当たり前じゃないか。一緒に同じところを勉強していたら、基礎が出来てて地頭も良い佐倉さんには勝てない。自分なりの猛勉強で勝負するしか方法は無いんだ。)
 そんな大講堂に佐倉は今回も来ていなかった。逆巻がここまで追い上げていることを全く知らなかった。
(チャンスはあと1回だ。)

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「礼ちゃんの部屋って綺麗にしてる方?」
 佐倉は何気なく尋ねた。敷戸は実家住まいなので人を招いたことがないのだ。
「ウチんとこは香澄ちゃんの部屋みたいに綺麗じゃないよ。ゲーセンで取ったぬいぐるみが溜まっててさ。」
 さすがに逆巻の部屋よりはマシだろう。
「ぬいぐるみだったら可愛いじゃん。」
「でもさ、中に何か埋もれてることがあるから。賞味期限切れのお菓子とか、食べかけとか。この前、片付けてたら腐ったチョコレートが出てきてさ。」
「はあ?チョコレートが腐るとか聞いたことないよ。」
「本当だってば!」
 話しながら、佐倉はこの前の大掃除を思い出していた。逆巻の部屋からは、期限切れどころか、食べ物と思しきものは一切出てこなかったのだ。
(あればあるだけ食べちゃうから備蓄ができないんだろうな。ふふ…)
「何ニヤニヤしてるの?香澄ちゃん。そんなに馬鹿にしないでよお。」
「いやごめん。そんなにフケツにしてて、花畑アレンくんに恥ずかしくないのかと思って。」
 佐倉はまた話を逸らした。
「スマホの中のお部屋は綺麗だから大丈夫だよ。昨日、LOVEゲージが7まで上がったんだよ!10までいったらスペシャルボイスが聞けて、モーションも…」
佐倉はとりとめもない架空恋愛の話を飽きるまで聞いていた。自分の恋の話は一切出来ずに、だ。

 逆巻は懲りずに潮谷の元を訪れていた。
「ここに来て佐倉さんの話なんて、俺を見下しに来たのかよ。」
「違うって!どうしたら佐倉さんに勝てるのか、何か名案でも出てこないかって。どうにか協力してほしいんだ。」
「うーん、また学会のこととか押し付けさせてテスト勉強出来ないようにすれば?」
「駄目だ!僕は正々堂々と勝負したいんだ。」
「じゃあ無理だよ。俺らとか先輩の力を全部合わせたって佐倉さんには勝てない。佐倉さんより頭良い人ってせいぜい教授くらいじゃない?」
「分かった!教授に教わってくるよ。」
「待て、行けって意味じゃない!そんなの無謀だよ!」
 逆巻は振り返りもせず部屋を飛び出した。

 まず向かったのは、潮谷の研究室の教授のところだ。
「失礼します!」
「誰かと思ったら逆巻くんか。今度は何の文句を付けに来たんだ。」
「先生、電磁気Ⅱの3章のところから教えて下さい!」
「テストでどこが出るのか知りたいのかい?そんな不公平になるようなことは教えられないよ。」
「そんなんじゃありません。本当に教科書一緒に見てくれるだけでもいいんです。載ってる問題、全部解けるようにしたいんです。」
「逆巻くんだけにそんなに手を掛けるわけにはいかないからねえ。」
「お願いします!」
 教授は少し考えた後、向き直った。
「君もTAをやってくれないかね。」
 TAとはティーチング・アシスタントの略だ。学生が下級生の授業を手伝ったり、教授の代わりに教えたりして、その報酬を受けることができる制度だ。この教授は研究室も授業も放ったらかして部屋に籠りたいがため、TAが不足していた。
「普通はTAは院生しかできないし、金銭も出せないが。君には特別にTAをやってもらって、その代わりに少しだけ時間を取ってやるというのはどうかね。」
「ありがとうございます!」
 逆巻は交渉を快諾した。
 その後、逆巻は方々の教授の部屋を当たった。
「TAやるので勉強教えて下さい!」
 中には手放しで教えてくれるという教授もいたが、逆巻は全部で4つものTA業務を抱えることになった。
 これで逆巻の噂は1、2年にまで広まったが、これまでの評判とは違っていた。
「さっき製図の添削やってた、さかまき?って人。あれが先輩が言ってたラジオ男だって。」
「へえ、なんか思ったより真面目そうだったけど。」
 逆巻はもちろん、TAばかりやっているわけにはいかない。研究も、学科のレポートも山積みだった。徹夜する日もあった。部屋の右手前にはまたエナジードリンクの缶が雪崩れていた。
 研究室のデスクに突っ伏す逆巻を佐倉は心配していた。
「逆巻くん、最近忙しそうだけど大丈夫?これ、買ってきたから。」
 逆巻の前に置かれたのは、コンビニの”大盛ナポリタン”だった。
「うめぇ…」
 この頑丈な男は、燃料さえあればまだまだ頑張れた。

 4年前期、期末テスト。最初の科目は電磁気学だった。学生たちは整然と席に着いた。出席番号順に決められた席の、佐倉の隣は今回も逆巻だ。
カンニング防止のためかなり間隔は空いているが、互いの姿を見ることくらいはできた。ギリギリまでノートに目を通す逆巻を、佐倉は何となく眺めていた。
「試験開始!」
 皆一斉に紙を表返し、計算を始めた。
 佐倉にとってはいつも通りだった。解ける問題はあっという間に解ける。ただ、どの試験にも捨て問題というものがあって、極端に難しい問題は、見極めてすぐに飛ばすのもテクニックの一つなのだ。佐倉はそれでもトップ成績をキープしていた。捨て問題は解かれるように想定されていないのだ。
 佐倉はあらかた解き終わると、飛ばした問題以外の見直しに入った。それも終わってしまうと、あとは捨て問題をペン先でいじくり回すだけになった。ふと、佐倉は逆巻の方を横目に見た。
 逆巻は尚も真剣に解答用紙に向き合っていた。これまでになく精悍な横顔に感じられた。
(なんか、変わったよね逆巻くん。何でだろう。)
 佐倉はまだ気が付いていなかった。

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 順位発表の日、逆巻は前日からよく眠れなかった。泣いても笑っても、これが最後のチャンスだ。そして、運命はもう決まっているのだ。
掲載は夕方だというのに、落ち着かずに午前中から研究棟前を歩き回っていた。通り掛かったのは潮谷だった。
「おいおい、待ち遠しいんだろ?佐倉さんに勝ったら…」
「待て、こんなところで!せめて潮谷のとこ行くから。」
 2人は誰も居ない電磁気の研究室に移動した。

「結局さあ、潮谷、負けたとか言っていじけながら、僕と佐倉さんがどうなるか気になるのかよ。」
「そうじゃない。佐倉さんに勝てたら告白するんだろ?じゃあ、勝てなかったら逆巻はどうするのかなって思って。」
「勝てなかったら…?」
 逆巻はこれまで、勝つことだけを考えてきた。勝てたら告白する、その光景だけを思い浮かべて努力してきた。勝てなかった場合のことを想定したことが無かったのだ。
「勝てなかったら、何も起こらないだけだよ、別に。何もしないよ。フラれるわけじゃないんだからずっと仲良くしてくれるよ。」
「それで、友達でいいの?お前さ、ずっとずーっと佐倉さんに、ぶっ壊れたラジオみたいに喋り続けながら、『好き』の一言が言えない、それがあと2年半続いて、別れが来る時を想像してどう?」
 仮に進学できても、大学院では成績順位は発表されない。ほとんど研究の成果で業績が決まるので比べられないのだ。
「お前いつも何が言いてーんだよ。まだ結果出てないし、変えられるわけじゃなし。」
「訊いてみたかっただけだよ。お前があんまり楽観的だから。」
 潮谷はニヤニヤ笑っていた。
「馬鹿にしてえだけかよ!」
 逆巻は部屋を出ると乱暴にドアを閉めた。潮谷の言ったことは、今からじゃどうにもできない、価値のない問いだ。それが分かっていても、逆巻は怖くなってしまった。
(『好き』だけが言えずに過ぎていく2年半…。)

 まだ正午だった。逆巻は自分の研究室へ戻ると、佐倉に声を掛けられた。
「一緒に学食行かない?」
「OK、荷物置いてからね。」
 逆巻の脳裏には走馬灯のように思い出された。初めて佐倉から学食に誘われた日。好意に違いないと思った。告白すれば応えてくれると思った。でもすぐには出来なかった。男のプライドに懸けて頂上を望んだ、全ての始まりだった。
「いい?行こう、逆巻くん。」
 今ではこんなに身近な間柄になったが、登頂まではあと一歩なのだ。
「僕の食べてるのじーっと見るのやめてね。」
「やだ。見る。」

 学食から帰ってきてもまだ1時間も経っていなかった。佐倉は何の気なしに、寄稿用の論文の続きを書き始めた。逆巻の緊張には気付いていなかった。逆巻はまだ4時間も前なのに、大学の学生アカウントにログインした。別のウィンドウで何か作業していても、少しも集中できなかった。無意味に学生アカウントのページを開いて、何度も更新ボタンを押した。時間がものすごく長く感じられた。あと3時間。あと2時間。あと1時間。あと30分。あと20分。あと10分。
 あと5分。
 あと3分。
 あと1分。
 逆巻は手が震えていた。潮谷に言われたことが恐ろしかった。
 研究室の電波時計が午後5時を差した。目をつぶって更新ボタンを押した。右目からゆっくりと薄目を開いた。
(やった、ついにやったんだ…!)
 逆巻は何度も、目をこすって何度も、画面を見直した。それは幻ではなかった。

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 胸を押さえ、深呼吸した。そして佐倉の方を見ると、まだこちらには気付いていない様子だった。逆巻は佐倉の席へ向かった。
「佐倉さん!」
 佐倉は背を向けたまま無言だった。
「佐倉さん?」
 画面を覗き込むと「80人中、2位」の文字が表示されていた。
「終わり良ければ全て良しって言うけど、それって、最後が駄目だったら何もかも駄目だったってことでしょ。」
 佐倉が深く傷付いているのは無理もなかった。彼女にとってはトップを陥落するのは初めてで、しかも、あと一度でパーフェクトだったのだ。自分の話ができる様相じゃないのはさすがの逆巻でも分かった。
 逆巻は諦めきれず、何とか遠回しに気付いてもらおうとした。
「ね、みんな大講堂に集まってると思うよ。1位誰だろうね?」
「どうでもいい。どうせ大城か中川か、森とかその辺でしょ。」
「見てみなきゃ分かんないじゃん。一緒に行ってみようよ。」
「放っといて!何も知りたくない!」
 顔を伏せると、机からはすすり泣きが聞こえてきた。
「ごめん。」
 逆巻は部屋を出ると、一人で大講堂へ向かった。
 人群れの後ろから、確かに一番上に逆巻、の文字が見える。しかし誰も逆巻を祝ってはいなかった。
「佐倉さん、可哀想。」
「よりによって逆巻?最後まで空気読めない奴だったな。」
 逆巻は誰にも話し掛けず、ずっと向かいの建物にもたれて掲示板を眺めていた。日が沈むにつれてぽつぽつと人が減っていき、ついに逆巻だけになった。空には星が光っていた。
 逆巻はやっと掲示板へ近寄った。機械科80人の頂点、そして佐倉の上に自分の名前があった。この光景を見せたかった。ただ口頭で教えるわけにはいかない、そう思った。
 研究室へ戻ると、佐倉はまだ自分の席でうつむいていた。
「佐倉さん、みんな居なくなったよ。大講堂へ行ってみようよ。」
「見たくないって言ってるじゃん。」
 分かっていた返答だった。逆巻はこれ以上無理に誘うか迷った。嫌われるよりは、友達でいた方がマシかもしれないのだ。でも、それでは何のためにここまで来たのだろうか。
 逆巻はひとつ頷いて、大きく息を吸った。
「佐倉さん。大講堂のとこ街灯が少なくて、星がすっごく綺麗なんだよ。今はサソリ座が出てるけどサソリ座が出てるときはオリオン座は出ないんだよ。ギリシャ神話でオリオンはサソリと敵同士だからだよ。けんかした理由はしょうもなくて、僕はナルキッソスの話の方が好きだよ。池に映った自分に見惚れて、ずーっと見てたら水仙になったとか意味分かんなくて笑ったよ。多分、水仙が水辺に生えるからだと思うんだけど実際はどこにでも生えてるよね。この大学だと西駐車場の周りに生えてるよ。水仙って花が咲いてないとほとんどニラと似てるけど、毒があるから絶対食べちゃ駄目だからね。それで食中毒ってこれまで何度も報告されてるんだよ。もっと酷いのは、水仙をニラと間違えたまま野菜の直売所で売られちゃったことがあるんだよ。買った人は飛んだ災難だよね。ああいうところってキノコも間違えて毒キノコ売られてる可能性あるから信用できないよ。しかも産直市場でよく売られてる手作りコーナーのアクセサリーって本当は」
「分かった!!行くよ!!」
 佐倉は机を叩いて立ち上がった。
 夜の大講堂は本当に真っ暗で、掲示板だけが白く照らし出されていた。それは、見たくなくても目に入ってしまうものだった。佐倉はふらふらと掲示板の前に立った。そして、順位表を下から順に目で追った。大城、中川、森の名前は途中途中で見つけた。誰が出ていないのか、思い当たらなかった。
 それよりも、佐倉は2位に自分の名前があるのを見る方が辛かった。5位くらいで少し留まったあと、意を決してゆっくりと顔を上げた。

 1位 逆巻 勇斗
 2位 佐倉 香澄
 3位 …
 …

「まさか。」
 佐倉は逆巻の方を振り向いた。
「何で?」
「佐倉さん、好き!」
「え?」
「僕、いつか佐倉さんを超えたら伝えようって決めてたんだ。そのためにずっとずっと努力してきたんだ。」
 逆巻は佐倉の方を真っ直ぐ向いて両腕を差し出した。
「僕と付き合って下さい!」
 力強いその手を、佐倉は優しく包んだ。
「私も、逆巻くんのこと好きだった。」
 佐倉は掴んだ両手を引き寄せると逆巻を抱きしめた。
「よろしくね。」
 その返事に、逆巻も佐倉の背に手を回した。2人きりの夜に星空が降り注いでいた。

終章

 次の日、佐倉はいつものように敷戸の研究室を訪ねて話をしていた。お気遣い屋の敷戸は順位のことには触れなかったが、代わりにこんな風に言った。
「ねえ、大学院に行っても逆巻ついてくるんでしょ?まじキツくない?」
 そう、佐倉と逆巻の進路はもう決まっていた。最終結果で2位までの学生は、同大学の大学院に無試験合格となるのだ。
 佐倉は昨日のことを敷戸に話すか悩んだ。たった一人、最後まで味方してくれた敷戸まで気味悪がって離れていくかもしれない。でも、大事なことを話さずにいるのも友達としてどうかと思った。
「香澄ちゃん、どうかした?」
「逆巻と付き合う。ことになった。」
「へ?何それ。何の付き合い?」
「恋人として、に決まってるじゃん。私も好きだったから。」
 佐倉は首元が強く脈打つのを感じた。伏していた目を恐る恐る上げた。
「え、そうなの?良かったじゃん!まじおめでとう!」
「礼ちゃん…何で?ずっと逆巻のこと遠ざけようとしてたのに。」
「そりゃ香澄ちゃんが嫌々相手してると思ってたからさあ。香澄ちゃんが好きなんだったら全然良いと思うし、そんなの自由だよ。おめでとう!」
「そっか、ありがとう。」
 佐倉の胸には安堵が戻ってきた。
「ああ、礼ちゃん。あんまりみんなに言いふらさないでね。」
 これを敷戸に言ってしまうのは、言いふらせと言っているようなものだった。佐倉はもう誰に知られても、何と思われても怖くなかった。ラジオ男との賑やかな大学院生活が待っている。

黙れ!ラジオ男

黙れ!ラジオ男

ラジオのように喋り続けて鳴り止まない男って、あなたの周りにも居ませんか? 大学一の問題児と学年トップの優等生が繰り広げるドタバタのキャンパスライフ。恋の行方は如何に!

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-07

Copyrighted
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  1. 序章
  2. 本章
  3. 終章