われ泣きぬれて神とたわむる
Je vous souhaite d’être follement aimée.
気が狂うほどに君が愛されますように
André Breton(19 February 1896 – 28 September 1966)
此れは、遠い様で近く、近い様で遠い昔の頃のお話。
通称『極楽堂』と呼ばれる小さな庭付きの屋敷に於いて、黒曜と言う青年が紫色の座布団を枕にうたた寝をしていると、自身の頬を誰かの手がそっと撫でた様な気がした。
時に葉月、強い日差しが燦々と庭の青々とした色合いの樹々を照らす真昼時の事である。
海辺の貝殻の様にぴったりと閉じていた両の眼〈まなこ〉を薄らと開けると、其処には紫色の朝顔の柄が特徴的な浴衣を羽織った一人の人物が、正座をした状態で黒曜の顔をじっと覗き込んでいた。
醉〈よ〉い潰れて部屋を間違える程、甘酒をしこたま呑んだ憶えは無いんだがなぁ。
欠伸を噛み殺し乍ら黒曜が述べると、かの人物は、なんともまぁ、間抜けた面構えだ、とボヤく様に言った。
けっ、悪かったな。
大層夢見心地だった様だが、何の夢を見たんだ。
あなた様の様なお綺麗な方に膝枕をしていただく夢でござんす。
面白い事を言うな。
綺麗な方と宣ったが、顔が見えたのか、夢なのに。
あゝ、はっきりとな。
なんでも其の方は俺の女房らしく、お前さんみたいなのと一緒になる事が出来て、あたしゃ、幸せだよ、と迄言ってくれたぜ。
出来すぎた話だな、幾ら夢とはいえ。
軒先にぶら下げられた金魚草の描かれている風鈴が風に煽られ、ちりりん、ちりりん、と鳴る中、かの人物は懐から取り出した白扇をパチリ、パチリとさせつゝ、呆れ顔でそう述べた。
あゝ、もしかしたら此の瞬間もな。
黒曜はそう言い乍ら、ククッと言う聲で笑った。
お前は怖くないのか、自らを殺しに来たもののけの存在が。
心の臓をお抉りになさるのか、其れとも蛇が蛙〈かわず〉を呑み込むみてぇに丸呑みかは知らねえがよ、ま、煮るなり焼くなりご随意に。
ほう、随分と威勢の良い所を見せるじゃないか。
面白味があるめぇ?。
ガタガタ震えていやがんのを殺した所でよ。
黒曜はそんな風な啖呵を切ると、胡座をかいた状態で、大きく背伸びをした。
あゝ、そうだ。
殺すの殺さないの前に一つだけ頼みがあるんだが。
取ってやっても良いぞ、末期の水でも。
そんな殊勝な話じゃねぇや。
名前〈なめぇ〉だよ、名前。
お宅さんの。
地獄で彫ってくれるのか?。
私の名前に命と付け加えた刺青を。
大当たり。
莫迦は死ななきゃ治らないと言うらいが、堕ちて尚莫迦を貫き通すとは。
其の口調には明らかに嘲りがあった。
が、黒曜は其の様な事なぞ気にはせぬとばなりに懐からするりと取り出した燐寸で囲炉裏に火を点け、南無阿弥陀仏と彫るよか、粋だと思うがねぇ、と、のそのそ茶を沸かす準備をし乍ら呟いた。
お前もどうせ殺されるなら、惚れた者に殺されたいとか言う酔狂なクチか。
かもしれねぇな。
分かった。
付き合ってやろう、其の酔狂さに。
お有難う御座います。
淀みない口調で礼の言葉を述べた黒曜は、戸棚から取り出し、茶葉を入れたばかりの伊万里焼の湯呑み茶碗にトボトボと音を立て乍ら湯を注ぐと、もてなしの部類に入るか如何か分からねぇが、と言い乍ら湯呑み茶碗を差し出した。
かの人物はひと言、丁度喉が渇いていた、と呟いたのち、迚も美しく形の整った、そして
未だ誰にも触れさせた事すらない口元に湯呑み茶碗を運び、茶を啜ると、悪い味ではないな、と茶に関する感想を述べた。
そして半分程茶の量が減った湯呑み茶碗をじっと見つめ乍ら、モクレン、其れが私の名前だ、と丁度鳥が囀る様な綺麗な聲で名を名乗った。
モクレン、か。
良い名だな。
俺の名は黒曜。
見ての通りの不束者さ。
まるで見合いの席での言い草だな。
俺は其の気で居るが?。
見合いの席なら茶菓子位用意しろ。
へいへい。
軽い口調で返事をした黒曜は、欠伸を噛み殺し乍ら今一度立ち上がるや否や、よたよたとした足取りで台所迄赴き、冷蔵庫の中から取り出した桐の箱に入った饅頭を二箱分持って来た。
此れ、全部喰っていいのか。
餡子のぎっしり詰まった箱の中から早速饅頭をひとつまみし、口に運んだモクレンがそう質問すると、御上品なお口に合うなら、と黒曜は答え、空っぽになったモクレンの湯呑み茶碗に三杯目の茶を注いだ。
こんなモノを毎日喰ったりなんだりしている辺り、余程呑気に生きているらしいな。
おめぇさんみたいな物騒なのをこうやって応対する位にゃあな。
物騒?。
雅と言うべきだろう。
土足でお前のこゝろの奥底を覗き込んだ訳でなし。
寝顔は覗き込んだ癖に。
殺気に気付かない方が悪い。
あゝ言えばこう言いやがる。
其れはお互い様だろう、旦那様。
そうでござんしたね、奥様。
黒曜はそう言い乍ら、自身の頭髪同様、深紅に染まった懐紙でモクレンの左の口元にちょこんとついたばかりの饅頭の滓をさり気なく拭き取り、其れを囲炉裏の中に放り込んだ。
パチパチと言う火花の音色が二人きりの部屋の中に響く中、モクレンは黒曜が自身の分の茅色した湯呑み茶碗にお湯を注ぐ姿をじっと見据え乍ら、黒曜のモクレンに対する所謂人を喰ったような態度は、「微笑い」と言う意味でのおかしみを覚える反面、憐れみと言うか哀しみを帯びている様にも映った。
同時に他者からの愛に対して、途轍も無く飢えている様にもモクレンには視えた。
つかぬことを聞く様で悪いが、此処にはお前以外誰も居ないのか?。
茶を啜ったばかりのモクレンがそう質問をすると、居たよ、つい二十日ばかり前迄は、と黒曜は答え、茶を啜った。
そもそも此処は俺の家でも何でも無かった。
此処に住んでいたお婆婆が死ぬ迄は。
其のお婆婆とやらとお前の関係は、差し詰め拾った者と拾われた者と言った所か。
正確には「行儀見習い」と言う名の使いっ走りとしてな。
炊事洗濯掃除荷物持ち、ありとあらゆる事をやらされて、お婆婆が寝込む様になってからは、下の世話迄こなしたモノよ。
そんなお婆婆の生業は?。
女郎屋の女主人さ。
其れもあってお婆婆の使いっ走りと並行して店で働く女郎達の世話だのなんだのも引き受けさせられた。
良く不貞腐れ無かったな、そんな過酷な世界で。
無かったんだよ、不貞腐れる暇〈いとま〉も体力も。
あったのは死んだ様に眠ることと飯を喰らうチカラだけか、其れも畜生の様に。
死にこそしなかったが、生きた心地がしなかった。
其れが今迄の俺さ。
で、今からの俺は?。
気が付けば最後の一個になった饅頭を頬張り乍ら、モクレンが言った。
おめぇと言う花をぼんやりと眺め乍ら、長生きするさ、其れもまだ生きてやがると陰口叩かれる位によ。
無論、あわよくば、だが。
花は水をやらないと枯れるぞ。
おい、何か飯を作れ。
甘いものを喰った後だ、塩っけのあるものだろうな、作るとすりゃあ。
分かっているならさっさと行け。
大層解り易くて何よりですよ、顎で使うことに慣れていらっしゃる方の指示は。
黒曜はそんな事をボソボソ呟き乍ら、再び台所へ足を運ぶと、約一時間半と言う時間をかけてご飯、白身魚の味噌汁、肉野菜炒め、目玉焼き、餃子、焼売、春巻き、塩漬けサーモン、白菜の漬物、林檎味の発酵乳〈ヨーグルト〉、と言うメニューを額に薄らと汗を浮かべ乍ら二人分せっせと作り、涅槃像の様にゆったりと寝転がって庭をぼんやりと眺めていたモクレンに、ひと言、出来たぜ、と料理を添えた皿の乗った大きな朱色のお盆を持って部屋に入ってくるなり、聲を掛けた。
其の聲を聴いたモクレンは、鼻をぴくぴくと動かし乍ら、実に且つ大変に態とらしい口調と聲色で、あゝ、腹が減った、と言ってのっそのっそと身体を起こした。
其の様子は、浜辺に波がざぶんと音を立てて押し寄せて来る様子にも似て、黒曜の眼には何となく眩しく映った。
酒はあるか?。
黒曜から臙脂〈えんじ〉色の大内塗りの箸を右手で受け取ったモクレンが言った。
瓶麦酒〈ビール〉が冷えているが。
じゃあ其れを。
あいよ。
返事をした黒曜は、ゆったりと歩き乍ら台所へと戻って行き、冷えた瓶麦酒を握ったお陰で両手にひんやりとした感触が伝わる中、部屋へと戻って来て、戸棚から取り出した麦酒の栓抜きで栓を抜くなり、トクトクトク、と言う耳に心地良く、そして慾望を掻き立てる音を奏で乍ら、同じく戸棚から取り出したグラスに麦酒を注ぎ込むと、ほれ、と言って其のグラスをモクレンに差し出した。
其れから自身の分のグラスに麦酒を注ぎ終えると、何の為に乾杯するかだが、とモクレンの瞳を覗き込み乍ら言った。
其の言葉に対してモクレンはほんの数秒だけ黙りこくったのち、今日の良き日に、とでも言っておけばいいんじゃないのか、と右手にグラスを持った状態で言ったので、黒曜は其の言葉に従い、では、今日の良き日に、と言って、自身の分のグラスをモクレンのグラスにコツン、とぶつけ、調理に勤しんでいる間にすっかり渇いた喉を潤して、左手を使い早くも二杯目をグラスに注いだ。
モクレンは其れとは対照的に半分だけ麦酒を流し込むと、いただきます、と呟いてから料理を嗜み始めた。
食事をしている間、二人は必要以上の言葉を交わす事は無く、蝉時雨に耳を傾け乍ら、ただただ相手の喰いっぷりを観察するばかりであったが、今の二人の距離感から考えれば其れで充分だった。
食事を済ませると、黒曜は調理の際同様に玉の様な汗を浮かべ乍ら、食器類を洗い、モクレンは寝転がった状態で赤銅色の皿に載った黒曜曰く、人からの貰い物だが、と言う高級仕様の羊羹を時々茶で口の中を潤し乍ら、皿同様赤銅色の爪楊枝でぱくつき、黒曜が部屋へと戻って来る頃には皆胃袋の中に収めてしまった。
黒曜は其の様子を見て、此の喰いっぷりに付き合っていたら、幾つ蔵が空っぽになりますやら、とこゝろの中で思いつゝ、モクレンが暑さから逃れられる様、鯉の滝登りを描いた和柄の扇子でモクレンの方に風を送った。
そうこうしているうちに、時刻は夕刻を迎えた。
遠寺の鐘が午后六時を告げる音を辺り一面に響かせる中、モクレンは許可なく黒曜の膝に頭を載せるなり、指をぱちり、と鳴らして自前の耳掻きを右手の掌に出し、呆気に取られている黒曜に対して、耳を掻け、と命じた。
耳掻きを受け取った黒曜は、嘗て女郎達の世話をしていた頃の記憶を手繰り寄せ乍ら、耳掃除をしたのち、時間にして約十分間ずつ綺麗に整った耳を揉んだ。
併し、耳のツボ押しの技術迄持っているとはな。
何から何迄叩き込まれたとは正に此の事か。
頭を揉まれ乍ら、モクレンが言った。
出入りしていたあん摩が揶揄い半分に、坊ちゃん、面白いことを教えてあげますよ、と言って授けられた事を今でも後生大事に憶えているだけさ。
で、其の授業料は何だったんだ?。
紫煙一箱。
高かったんじゃないのか、其れ。
良く遊びに来ていた紫煙屋の主人に赫赫然然〈かくかくしかじか〉と事情を説明をしたならば、しょうがねぇ、俺の奢りにしといてやらぁ、と言って「ロハ」でくれたから、懐は痛めなかった。
とは言えお前に対する憐れみの視線は辛かった、と。
其れも何となく。
紫煙屋から女郎屋迄は歩いて五分とかからねぇ距離だったが、其の帰り道くれぇ、陰日向に生きる事がこうも辛え事はねぇと思った事はねぇよ。
棍を詰め過ぎといやぁ、其れ迄の話ではあるが。
つくづく辛いものだな、生きると言う事は。
眼を瞑ったまゝ、モクレンが言った。
あゝ。
だからこそ面白いんだが。
一旦モクレンの頭を座布団にゆっくりと載せた黒曜は、化粧品を収納している錆利休色の和風の鏡台の引き出しを開けると、本当に此奴を使う時が来るとはなぁ、と言い乍ら、丁子〈ちょうじ〉色のつげ櫛を取り出し、痛かった言ってくれ、と言葉を添えてから、モクレンの鏡台の前迄移動させたのち、丁寧な手付きで髪を梳かし始めた。
曰くありげな櫛らしいな、其れ。
先程の口振りから察するに。
丁度今日てぇな日に庭先で掃き掃除をしていたら、用事があってやって来たらしい飾り職人が、人は生きてりゃ一生にいっぺん、此奴の為なら命もくれてやると心底思える程の相手に出逢う時が来る、そん時になったら此の櫛で其の相手の髪を梳かしてやんな、そうすりゃあ世に言う「もしかすると」があるやも
しれませんぜ、なんて言われたのを真に受けて今日の今日迄持っていた。
ただ其れだけの事だ。
幾つの時の話だ。
十五になった時の事だから、ざっと十四年前の話だな。
想像がつかん。
そんなモンだろ、誰だって。
そんな会話を交わしているうちに、神社の方から笛だの太鼓だのの鳴り物の音色が二人の耳に聴こえて来たので、一旦手を止めて、行ってみるか、とモクレンに聲を掛けた。
モクレンは閉じていた眼を見開き、退屈させないでくれるなら、と呟いた。
其の後黒曜は慣れた手付きで海老色の浴衣にさっさと着替えると、パナマ帽に黒縁の眼鏡を掛け、つい数日前立ち寄った呉服屋で買った下駄を履いた状態でモクレンの前へと現れた。
モクレンはあからさまに胡散臭いなと言う想いの込められた視線を黒曜に向けつゝ、さあて、参りましょうか、旦那様、と言って、自身の右手を差し出すと、黒曜は苦笑いを浮かべつゝ、あいな、奥様、と言って左手でモクレンの右手をそっと握った。
お祭りの夜らしく、通りには色とりどりの浴衣或いは服装に其の身を包んだ人々たちの姿があり、特に出店のある神社の周辺は、手を繋いでいないと迷子になるのでは、と思ってしまう程、人の数が多かった。
さて、何を願う。
進んでは止まり、進んでは止まりを繰り返す事、凡そ十五分。
漸く賽銭箱に近づきつゝある中、前に立っている若い男女の肩越しに見える賽銭箱を視線を向けた状態でモクレンが言った。
互いの末永い幸せだろ、一先ずは。
そう言って黒曜は、黒革の財布の中から取り出したモクレンが投げる分の五百円玉をモクレンの右手に握らせた。
鶴は千年、亀は万年、か。
五百円玉を受け取って落としてしまわぬ様にギュッと右手の掌で握り締めたモクレンがそう呟くと、二人して祈って如何にかなるモノでもねぇだろうが、まぁ、やるだけやってみるさ、と黒曜は言った。
軈て二人が賽銭を投げる番がやって来た。
二人が投げた二枚の五百円玉はコロコロ、と言う音を立てて転がり落ちる中、パンパンと手を叩いた二人はしっかりと御願い事を済ませると、二度礼をしたのち、ほんの少しだけ早歩きで其の場を離れ、足元に置かれた灯籠の灯りに自分達の脚が照らされる中、紺色のベンチにゆっくりと腰掛けた。
今から何か買ってくるが、何が欲しい。
黒曜がモクレンの額に浮かんだ汗を純白のハンカチで拭い乍ら言った。
サイダー。
たこ焼き。
焼き蕎麦。
焼き鳥。
唐揚げ棒。
駆けずり回る事になるが、其れでも構わんかね。
何百年、何千年も待つ訳でなし、少々時間がかかっても気にはせん。
頼もしいねぇ。
何とかの怨みは恐ろしいと言うだろう。
無駄口なんぞ叩いていないで、ほら、さっさと行った。
相変わらず手巖〈きび〉しいこって。
懐に折り畳んだハンカチを入れ乍ら、黒曜はそう呟くやいてのけると、いい子で待っていてくれよ、いい子でよ、と言って、モクレンの頭を右手で軽く撫でたのち、出店の方へと歩みを進めた。
ふと空を見上げると、幾千、幾万の星々が輝いており、今此の瞬間の出来事も宇宙の歴史からすればほんの一瞬の出来事なのかと思うと、モクレンは自身のこゝろの中に寂寞感を自然と覚えたと同時に、早く黒曜が買い出しから戻って来て、頭だろうが手だろうが何処でも構わないから、今一度自身の身体に触れて欲しいと静かに思った。
黒曜が戻って来た、と言うか、慌ただしく動き回るのを辞めて漸く席に着く事が出来たのは、右の様な出来事から三十分後の事で、自身を満足させる為に東奔西走した黒曜に対してモクレンは素直に礼の言葉を述べた。
其れに対して黒曜は何処か照れ臭そうな表情を浮かべ乍ら、ほら、喰えよ、冷めないうちに、と言って食事を促した。
花火が上がったのは二人が食事を済ませ、アンニュイな夜風に互いの頬を撫でる中、紙コップに注がれたばかりの暖かなブラック珈琲を静かに嗜みつゝ、人の流れを眺めていた時の事で、二人は互いの空いた手を握り締めた状態で、ただただ黙って花火が上がっては消えていく様子を見ていた。
そして花火が上がり終わると、そろそろ帰るとするか、と言って、モクレンの希望に沿うカタチで、身を寄せ合い乍ら家路をとぼとぼと歩いた。
葡萄酒があるんだが、呑むか?。
黒曜が言った。
お摘みは?。
チーズとちくわ、後薩摩揚げもあったな。
そんでもって枝豆も。
冷や奴は?。
作ろうと思えば作れるが。
じゃあ縮緬雑魚〈ちりめんじゃこ〉と一緒に喰いたい。
分かった。
二人が家に辿り着いたのは、夜も九時を過ぎた頃だった。
こじんまりとした門をくぐり、玄関の灯りをつけた黒曜は、薄明かりを頼りにモクレンの身体を手繰り寄せると、突然の出来事に眼をぱちくりとさせるモクレンの顔をそっと見つめ乍ら、皆んな、お前の美しさに溺れ死んで行ったんだろうな、と呟いた。
なあ、約束して欲しい事があるんだが。
モクレンが黒曜の身体をぎゅっと抱き締め乍ら言った。
守ることの出来る範囲であれば。
死ぬとか如何とか、あんまり口に出してくれるな。
お前はそろそろ背中から荷を下ろせ。
もう独りで何もかも抱えなくても良い。
詰まるところ、捨て鉢な気持ちなんか、抱いてくれるなってか、せめてお前の前では。
あゝ。
其れが無理ならせめて寄っかかる事位、キチンと覚えろ。
分かったよ、何とかすらぁ。
こりゃ敵わん、と言わんばかりに黒曜は左手の小指をモクレンの右手の小指にくるりと絡めると、お互いに独りぼっちはもう勘弁って所だな、と艶かしい聲色で言ったのち、態とらしく、くちゅり、と音を立て乍ら、モクレンの小指に唇を落とした。
そして玄関先に腰掛け、モクレンが履いていた下駄を脱がすなり、モクレンの身体をひょいと抱え上げて所謂「お姫様抱っこ」をすると、其のまゝ寝室へと担ぎ込んだ。
「乗っかっていい」と言った憶えはこれっぽっちも無いんだがなぁ。
寄りかかっていいとは言ったが。
外した眼鏡を踏み外さぬ様、机の上に置いたのち、お姫様抱っこの影響なのだろう、帯が緩んだ浴衣姿で布団に寝転がったモクレンをじっと見据える黒曜に向かってモクレンがそんな風な「抗議」をすると、黒曜はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべつゝ、甘えさせてくれや、初夜位は、と言って、「やけに」慣れた手つきでスルリと紐を取った。
見ないのか、全部。
モクレンが言った。
後々のお楽しみにしとかぁ、がっつくのは品がねぇからよ。
人をショートケーキの苺みたく扱うな。
頬を染め乍ら言う台詞じゃあねぇな、熱くなっていらっしゃる所大変申し訳ねぇが。
黒曜はモクレンからの鋭い言葉の鋒〈きっさき〉を上手く避けると、繊細な造りに見えてギュッと引き締まった身体を引き寄せ、左右の首筋と肩口、そして耳朶〈たぶ〉に口付けを落とした。
一向に辞めても構わないんだぜ、まだ今だったら。
後には引けまい、お互いに。
与えられた快感に身と聲を震わせ乍ら、モクレンが黒曜の耳元でそう告げると、連れてってやるよ、御望み通り〈極楽〉に、と言って胸元へ唇を二、三度落としたのち、両手を使って両の果実を黒曜は摘み始めた。
其のねちっこい手付きはまるで粘っこい生き物が身体に纏わりつく様で、何とも言い難い快楽をモクレンは味わう事となり、気が付けば黒曜の指先が時に軽く、時にしっかりとモクレンの身体に触れる度、びくんびくん、と反応をする様になっていた。
他に何処か触って欲しいところは・・・?。
耳たぶ舐め回し乍ら、黒曜が言った。
お腹・・・の下・・・っ。
そんじゃ其処に指を這わせますかね、と。
黒曜の左手の指が蛇の様にモクレンの下腹部に触れると、其処はすっかり湿り気を帯びており、黒曜はひと言、痛けりゃ痛いって言ってくれても構わねぇからな、と囁いてから其処を刺激し始めた。
びちゃびちゃ、ぐちゃぐちゃと言う卑猥且つ淫らな音は互いの心拍数を上げ、深い口付けを交わす度に放たれる熱い吐息が紫煙の様に空中に漂う中、軈て二人は『二つ巴』の姿勢になり、今迄のお返しとばかりにモクレンが黒曜の男性器を時にソフトに時にハードに舐め回すと、黒曜も其れに呼応するが如く、モクレンの下腹部をべちゃべちゃ、ぬちゅぬちゅと舐め回し、粗同時の瞬間に果てた。
其れから二人は「互いの顔をずっと見続けられるから」と言う理由から、『本茶臼』『唐草居茶臼』『時雨茶臼』と言った座位での性交をじっくり且つしっとりと嗜んだ。
其の間黒曜は何度となくモクレンに対し、体勢が辛くはないか、痛くはないか、などと言った事を質問しつゝ身体を動かし、甘ったるく囁く様な聲で愛の言葉を述べ続けた為、モクレンは黒曜が宣言した通り、すっかり「極楽」へと導かれる事と相成った。
満足出来たか?。
椅子に腰掛けさせたモクレンの髪に付いたシャンプーの白い泡を熱過ぎず温過ぎずな温度のシャワーのお湯で流し乍ら、黒曜がそう質問すると、モクレンは眼を瞑った状態で、そうだな、自分でも驚く位には、と呟く様に言った。
何度となく味合わせやるよ、飽く迄もお前が其の気になりゃあ、の話だが。
己の方からがっつくのは御法度と教授されたか。
エチケット、とだけ言っとかぁ。
エチケット、か。
乙な文句を知っていらっしゃる。
エチケットが乙な文句かは兎も角、傷付ける事は厭だとだけ憶えておいてくれ、せめて。
お前がそう懇願するなら仕方あるまい、そうしてやろう。
其の後二人は手と手を繋いだ状態で湯船に浸かり、身もこゝろも暖め合ったのち、其々揃いの紺の浴衣に着替え、座敷に於いて肩を寄せ合った状態で湯上がりの一杯と称して、葡萄酒とお摘みのちくわ、さつま揚げ、枝豆を扇風機の涼しげな風を浴び乍ら楽しむ事にした。
葡萄酒と扇風機からの涼風は、様々な意味で火照った身体を冷ますには持ってこいだと黒曜が自身で葡萄酒を注いだ和蘭製のグラス片手に思っていると、モクレンは黒曜によって注がれた葡萄酒越しに黒曜を見つめ乍ら、そう言えば、と言う様な話でも無いが、お前の其の背中の蜥蜴〈とかげ〉の紋様、何時からあったんだ、と黒曜に質問した。
其の質問に対し黒曜は、葡萄酒を半分程飲み干したのち、左手の親指で口元に付着した紫色の汚れをしゅるりと拭き取り乍ら、お婆婆が死ぬ間際に教えてくれた事なんだが、と前置きをした上で、神さまなんだとよ、俺の本当のとと様とかか様てぇのは、と呟く様な聲色で言った。
そう言えば其の昔、土地に旧くから住む龍神の夫婦が天寿を全うし息絶えた際、其の夫婦の間には背中に蜥蜴の紋章のある男の子が居たと言う話を仲間のもののけから耳にした事があるが、まさか・・・。
其のまさかさ。
でもってお婆婆はお婆婆で、嘗てこゝろ無い人間に苛め殺されかけた所をとと様とかか様に助けられたってぇご経歴のある狐様だったらしく、とと様とかか様とは文字通りの長ぇ付き合いだったんだと。
ではお婆婆がお前を育てたのも過去の恩からだったと言う訳か。
そうらしいぜ。
俺を手嚴しく育てたのは、とと様とかか様と亡くなる随分と前に交わした約束だったらしい。
嘘ばかり吐いた挙げ句に手酷く扱って済まなかったと言った後、お婆婆の眼には大粒の涙が溢れていたが、其れ一回きりさ、お婆婆が人前〈め〉ぇで涙ぁ流すなんてぇ所を見たのは。
中々な体験だな。
モクレンが言った。
かもな。
悪かったな、胸を抉る様な話をさせて。
何も悪いこたぁねぇさ、いずれ話さなきゃいけなかった事を今話しただけの事よ。
だと言いんだが。
さぁ、辛気臭ぇ話はもう沢山だ。
全部呑み欲しちまおうぜ。
黒曜はそう言ってのけるや否や、右手で瓶を持つなり、トクトクと言う音を立て乍ら、モクレンのグラスに葡萄酒を注いだ。
其の後モクレンは黒色のエプロンを身に付けた黒曜が片付けをする間、台所に設置されたスピーカーから流れるポインター・シスターズの『スロー・ハンド』の歌詞に耳を傾けていた。
スローな手を持つ男の人
優しくタッチしてくれる恋人
自分の都合でせわせわするんじゃなく
一緒に過ごしてくれる人を見つけたの
曲が流れ終わると同時に、モクレンは作業を終え、エプロンを取り外したばかりの黒曜にお姫様抱っこをされた状態でまだ甘ったるい香りの残っている寝室へと運ばれた。
グッドナイト・ベイビー。
黒曜はモクレンを布団の上に寝かせると、モクレンの耳元でそんな風な台詞を優しく囁いた。
モクレンはぽつりと、気取った仕草で気取った台詞を有難う、と皮肉っぽい口調で述べるなり、訪れた眠気に身を任せる様に眼を瞑った。
其の様子を見届けた黒曜は、書斎の煉瓦色の戸棚から紫煙と燐寸を取り出し、軒先に腰掛けて紫煙を吸おうとした。
すると暗闇から火の点いた燐寸を持った大柄な手がニュイと現れ、聡明な眼〈まなこ〉を持つ筈の知恵者ですら自ら進んで獣道に入るとは、げに怖ろしきは戀情と言った所か、と
言う聲を響かせた。
相変わらず唐突な来客だな。
そんでもって「お説教」か。
御大層な御身分だこって。
聲の主に対してそう述べた黒曜は、聲のする方向にチラリと視線を向けた。
黒曜の視線の先には、身の丈百九十センチの大男がおり、憂いを帯びた瞳がじっと黒曜を見据えていた。
此の男、名をシンと言って、お婆婆の用心棒兼黒曜の教育係を務めていた人物で、現在は街の教会で身寄りのない童〈わらべ〉達相手に身の回りの世話だの教育を施す仕事を務める傍ら、生前のお婆婆との約束を守って、黒曜を陰に陽に支えているのであった。
獣道だろうが、そうじゃなかろうが、いっぺんこっきりの人生、好きに歩ませろい。
らしい台詞と言えばらしい台詞だな。
シンは燐寸の燃え殻を黒曜が書斎から持って来た赤と黒の鯉が描かれた灰皿に放り込むなり、つくづくお前には敵わんと言わんばかりの笑みを浮かべた。
良かろう。
お前の言う通り、好きにするが良い。
但し、何があっても後悔だけはするな。
でなければかの者を幸せにする事なぞ、夢の又夢よ。
そう述べたシンの瞳は真剣其の物だった。
其の言葉に対し黒曜は、ひと言、あゝ、と答えて灰皿の上で紫煙の火を揉み消した。
邪魔したな。
では又いずれ。
其れからシンは腰掛けていた軒先からゆっくりと立ち上がり、忍びの者の如く静かな足音で其の場を立ち去った。
口寂しくなった黒曜は、もう一本の紫煙に火を点け、口に紫煙を咥えたまゝ、真夜中の夜空を見つめた。
其れと同時に流星が視界に入り、流星は二手に分かれたかと思うと、螢火の様にあっという間に消えた。
黒曜の人生は、此処に来て漸く始まった。
〈終〉
われ泣きぬれて神とたわむる