
絶対喋らない
ユウナギ

ミサオに会った。
衝撃だ。
面談のあと母と入った甘味家で。中3の男が母とお汁粉食ってた。
篠田が、大嫌いな篠田が女の子を連れて入ってきた。俺は見つからないよう下を向いた。あいつはすぐに気がついた。
含み笑い。マザコンの優等生……
あいつが、硬派の篠田が女の子を?
「新しい奥さんの連れ子かしら? 真面目そうな子。美女と野獣ね」
連れ子は男の子のはずだ。
離れた席でも彼女は光っていた。
同じ年か? ミサオ、と呼ぶのが聞こえた。
彼女は篠田さん、と呼んでいる。話しているんだろうな。俺のことを。この年でママとお汁粉、呆れるぜ……
彼女はこっちを見て微笑んだ。 無邪気な屈託のない笑い。自分のことを笑われているんだろうに情けない。
母は俺の口を拭く。やめろよ、とも言えない。彼女に聞こえるから。立ち上がり横を通る。篠田はなにも言わない。しかし、変わるもんだ。目つきの悪い篠田の目が、人のいい優しい目をしていた。恋の魔力か?
次に会ったのは本屋だった。彼女は篠田と入試問題を見ていた。篠田が本屋に? 高校いくのか? 学校にも来ていないのに。ふたりは楽しそうに話し、何冊か買い出て行った。
彼女は俺に気がつかなかったのか? 意識の中にも入らないのか? なぜ篠田なんだ?
数ヶ月、思っていた。しかし薄れていく。篠田は違うクラスだし、この頃は登校しているようだが話すこともない。感じが変わった。先生もびっくりしていた。彼女のせいだ。真面目に高校に行く気になったらしい。家でもうまくやっているらしい。新しい母親とも義弟とも。
H高の入学式。大勢の生徒に保護者。同じクラスに操がいた。
周りの男子は息を呑む。近寄りがたい雰囲気の女。篠田と一緒のときとは全然違う。
彼女は俺の斜め右前。頭もいいらしい。クラス委員は俺と彼女、のはずだったが、先生は言い直した。違う女子に。操は家の事情でバイトの許可をもらっていた。
操は頭がよかった。俺は勝てない。勝てたのは国語の時間だけだ。
詩を暗唱する。俺がミラボー橋を暗唱し終わると先生はフランス語で歌い出した。操の冷ややかな表情。頭にきて俺も歌った。父母が聞いていたシャンソンだ。
フランス語で先生と最後まで歌うと拍手喝采。操は無表情。この女には詩も歌も理解できない。頭はいいがバカだ。
操は婦人服売り場でバイトをしている。品出しや値札付け。8時まで働いている。
家庭の事情。篠田は知っているんだろう。水曜日、バイトは休みのようだ。M橋で篠田は待っている。以前のとげとげしさは微塵もない。操を待っている。操は篠田に会うとあの笑顔。俺には……教室では見せないくせに。ふたりは橋を渡っていく。毎週水曜日、M橋で俺はふたりを見送る……
2年になって篠田がM橋で俺を待っていた。
「操を泣かせるな」
「?」
操の帰りが遅い。
俺と会っていることになっていた。篠田が問い詰めると泣いた……
「そうなるとは思ってたよ。操はおまえを好きになると……」
篠田は勝手に誤解をし、
「かわいそうな子なんだよ。大事にしてやってくれ」
わけがわからない。
翌日操に言うと、初めて俺の目を見て謝った。そしてお願いされた。
「そういうことにしておいて」
「……」
「お願い……三沢くん」
みつめられ断れるはずがない。
断れないからどんどんエスカレートしていく。
次に篠田とM橋で会ったとき、篠田はいきなり殴りかかってきた。柔道をやっていた俺は手は出せない。
「女を殴るなんて最低だ」
バカな、俺が操を殴ったことになっている。冗談じゃない。本当のことを言おうとして言えなかった。俺は2度と手をあげない、と誓わされた。
休み時間、屋上に操を呼び出した。頬がうっすら青くなっていた。長い髪で隠していたのだろう。
「お願い。あなたがやったことにして」
「冗談じゃない。篠田に殺される。言えよ。相手は誰だ?」
次の言葉。俺はなにを言われたのかわからなかった。
「エンコウ」
「?」
「してるの」
「?」
「バイト先に来て、娘に選んでほしいってマフラー選ばせて私にプレゼントしてくれた。父だと思ってたの。私の本当の父親が探してくれたんだって。いろいろプレゼントしてくれて、小遣いもくれ、勉強できる部屋も借りてくれた。名乗れないけど父だと信じていた」
声も出ない。
「篠田さんに知られたら……殺すわ。だから言わないで。話を合わせて」
「……」
「お願い……三沢くん」
チャイムが鳴りそれから操は俺の顔を見なかった。なぜ俺に告白した? 俺の気持ちを知っているくせに。
バイトのあと、操を付けた。彼女はタクシーを捕まえた。俺もあとを付け小さなマンションの前で降りた。エレベーターが3階で止まっていた。
どうする?
止められない。叩きのめす。窓から放り投げてやる。自分がこんなに激昂するなんて。
止められない。父にそっくりだ。
俺は片端からインターフォンを鳴らし操を呼んだ。端の部屋の男がその男だとわかった。操が見ている前で急所を思いきり蹴って操を連れて逃げた。
「なんてことをしてくれたの? あなたはバカだわ」
言いながら彼女は笑った。いや、泣いたのか?
俺はバカだ。夜道を操の手を取って歩いた。彼女は覚悟を決めた。夜遅く叔父の家にふたりで行った。
後始末は弁護士の叔父に頼んだ。俺はどうなってもいいが、操のことは絶対守ってくれと。
なにも起きなかった。両親にも知られなかった。男に俺を訴えることはできなかったし、男の罪のほうが大きすぎる。蹴り足りなかった。まだ怒りが収まらない。
解放された操は俺に感謝した。
「軽蔑して。私を」
「……」
「篠田さんには言わないで」
「……お願い、三沢くん、か。言わないよ。絶対」
ばれてしまえばよかったんだ。篠田に愛想を尽かされ、捨てられればよかったんだ。
哀れな女だ。操はそのあと結核がみつかり療養した。
篠田は見舞いに行かない俺を責める。操は俺を愛しているのだと誤解している。
行きたいよ。飛んで行きたい。ずっとそばにいてやりたい。操が望んでくれるなら。
「もう無理なんだ。あんな女とは付き合えない」
篠田に殴られてやり、操のことは篠田に任せる。操が愛してるのはおまえなんだ。おまえには死んでも知られたくない。俺は生涯喋らない。俺は忘れる。
操は2年の後半と、3年の前半休んだが戻ってきた。篠田がその間励ましていたのがわかる。戻ってきた彼女は長い髪をばっさり切っていた。
よく笑うようになっていた。療養していた間、たくさん本を読んだらしい。思慮深くなっていた。俺に向けられた目は穏やかだった。
俺が愛してるなんてこれっぽっちも思っていないのか? なぜ篠田なんだ?
卒業間際、彼女に屋上に呼び出された。篠田のことを話す。幸せそうに。
「M橋から飛び降りて死のうと思ってたの。篠田さんがバイクで通りかかり止めてくれた」
操の出生、父親だと思っていた男は酒に酔い話した。母親には他に男がいた……
「母が死んでてくれててよかった。篠田さんは高校進学を諦めていた私にお金を貸してくれた。父にもよくしてくれるの。私には神様みたいな人なの。あなたは恩人だわ。一生忘れない」
一生忘れない。それだけで充分だ。
何年かしてふたりが結婚したことを聞いた。
そして何年かして篠田は俺を呼び出した。指定された店に行くと篠田は酔っていた。ボロボロだった。
父親の会社が倒産。
「頼みがある。おまえ、まだひとりだろ? なんで結婚しない? 操をまだ愛してるだろ? 忘れられないんだろ?」
篠田はまだ誤解していた。俺と操は愛し合いながら、操の出自と結核。三沢家の嫁にはできないからと諦めた……
操の初めての男だと思っている。
「操もおまえを愛している。あいつに貧乏生活はさせられない」
ボロボロの篠田を家の前まで送る。
豪華なマンション。篠田は、操に会っていけ、と離さなかった。
連れて行かれた篠田の部屋。10年近く会わなかった操、子供のいない彼女はまた笑わない女になっていた。
「操、おまえの愛しい三沢を連れてきてやったぞ。会いたかっただろ? 隠れて会ってたか?」
操はひとことも喋らずコーヒーを入れた。
「どうなってるんだ? 君たちは?」
「金の切れ目が縁の切れ目。操は、俺と別れて三沢と一緒になれ」
勝手なことを喋りソファーで眠る篠田に操は毛布をかける。
「贅沢な生活も続かなかったわね。金の切れ目が縁の切れ目」
「本心じゃないだろう?」
「……子供ができないの。天罰かも」
「そんな天罰はない」
できる限りのものを操に残し、ふたりは別れた。豪華なマンションは売られ篠田は再出発した。操を見守ってやってくれと篠田は頭を下げた。力になってやってくれと。
操は働き始めた。俺は彼女の働いている紳士服店へ行った。スーツを試着する。彼女は1番高いのを持ってくる。愛想笑いでも嬉しい。言われるままにカードを出す。
操はひとりで生きていく決心をしていた。子供好きな篠田のために操は別れた。まだ篠田は若いからと。
操が働きすぎで寝込んだ。俺は篠田のために彼女に会う。少しでも俺を見てほしかった。しかしそれは叶わない。彼女は篠田の様子を聞くために俺と会う。
篠田の事務所を訪れた。
「操は元気か?」
「結核が再発した。もう俺には無理だ。見合いした。結婚するんだ」
篠田は仕事を放り出して飛び出して行った。
絶対喋らない