
そっくりな娘
ユウナギ
ここ数日……おへそが痛い。原因はわかっている。仕事のときに付けているゴムバンドのせいだ。蒸れてかゆかった。医者には行きたくない……
湯船に漬かり眺めた。
体がだるい。肩が重い。満月には体調が悪くなるらしい。眠いのも……
おへそに吸い込まれていく?
ああ、疲れているな。パートなのに正社員より動いている。いい加減にはできない。安い時給でも。
頭が吸い込まれていく。おへその中に……おなかの中に……誰のおなか? 私自身か、それとも?
子が宿った。夫は言い争っていた。産むのはやめてくれ、と。土下座して頼んでいた。
もう、40歳だ。子はふたりいる。息子は大学に入ったばかりだ。金をかけた。かわいい長男には金と愛情をありったけかけた。10歳離れた妹は……
産むのはやめてくれって?
産むわけないでしょ。あなたの子なんて、2度と、2度と2度と……
息子が大学に入った。私は正社員になる。施設長も主任も歓迎してくれる。介護職は給料が安いがふたりで生活するには充分だ。大学の授業料は夫に出させる。夫は覚悟しているはずだ。この日が来るのを。この家は私のものだ。慎ましく暮らしてきた。この家は私が探し何度も足を運び決めた。夫は無関心だった。買う気などなかったのだ……私の結婚前の貯金と、結婚してから生活費を切り詰めて貯めた金を頭金にした。夫とあの子には出ていってもらおう。夫は文句は言わないだろう。あの子はもう小学校2年だ。幼いが家事はひと通りできる。私がしつけたのだから。
まさかこの年になって妊娠? 8年もレスだったのに。この間、仕事の送別会で注がれて飲んでしまった。こんな地味な女を誘う男がいた。自慢してやりたくて……8年ぶりに夫のベッドに潜り込んだ。
夫を取られた女……単身赴任させた私の罪なのか? 2度流産した私は転勤が怖かった。父が亡くなり母は私を頼りにしていた。息子はサッカーに熱中していた。中学受験にも備えなければならなかった。
夫は高卒だが大手の保険会社で真面目に働いていた。女子社員に人気があったが単身赴任を疑いもしなかった。
打ち明けられたのはあの子が生まれたからだ。女は産まない選択肢を取らなかった。時間が過ぎ早産……あの子を産んだ母親は亡くなった。
別れていればよかったのだろうか? 当時息子とふたりで生きていく自信も意地もなかった。結局私は楽な道を選んだ。金銭的に楽な道を。
すぐに引っ越した。周りはあの子を私の子だと思っている。あの子は父親似だが。息子を産んだあと2度流産した私は、生まれるまで親には話さなかった……
8年の間、私はあの子を育てた。すぐに保育園に入れた。関わり合いは最小限に。怒りは湧き上がる。頬にふれ、撫でつねる。あの子は泣かなかった。私は強くはつねらない。叩かない。あの子は息子の幼い頃によく似ていた。
叩かないが……泣いても無視した。息子があやす。抱いて子守唄を歌う。ミルクを作る。10歳の息子は算数が得意だ。きちんと計量できる。温度も正確だ。抱っこして飲ませる。ゲップもさせる。恐れ入る。夜になるとベビーバスに適温の湯を張り私を呼ぶ。息子は太陽だ。私は息子には優しい母親でいる。
おなかのなかでわたしはどんどん育っていった。産むことにしたらしい。夫はおなかを撫でる。誰のおなかなのか? 私か? あの女か? あの女と結婚して暮らしたかったのだろう。あの女の子供をふたりで育てたかったのだろう。あの女の娘は皮肉にも私に性格が似てしまった。隣人はそっくりな母娘だと思っている。おかあさんが穏やかだものね……あの子は育ての母親にそっくりだ。おとなしく控えめで、いてもいなくてもわからない。人には利用され、夫には尽くしても報われず浮気され捨てられる……寸前だった。あの女が死ななければ、わずかな養育費で捨てられていたのだろうか?
夫も息子もあの子も、わたしが生まれるのを心待ちにしている。わたしが生まれる日は……あの女が死んだ日か? あの子が生まれた日だ。
わたしが生を受けると母親は死んだ。私は死んだ。取るに足らない美しくもなく、いてもいなくてもどうでもいい女は死んだ。
わたしは病院にいたから葬式は知らない。夫と子供、親たちが泣いたかどうかも知らない。つまらない女は消えた。私は悔いる。真面目に生きてきたことを。節約して貯めた金、人がいいから入らされた保険、夫は金には困らない。夫は長期休暇を取り育児に専念した。真面目な息子も協力した。あの子は……あの子は私が死んだことを嘆いたのだろうか? 愛されていないことはわかっていたはずだ。兄とは差別されてきた。兄はサッカークラブに入り高いユニフォームも買ってもらえた。
あの子は……雛人形も買ってもらえず、私が折り紙で作ったものを大事にしていた。習い事もさせてもらえず、かわいい服も着せてもらえず頼みの父親は単身赴任。単身赴任ばかりだった。よその女に生ませた娘を私に押し付け無責任な男だった。
わたしは泣く。あの子があやすと余計に泣いてやる。あの子はソファに座りわたしを抱いて子守唄を歌う。知っている歌を次から次に歌う。いい声だ。わたしが目をつぶるとそっと布団に寝かす。わたしはまた泣く。何度も繰り返し。幼いあの子の腕は痛むだろう。布団の上であの子も眠る。不憫な子だ。母親の愛情を求めても得られず……
家族で順繰りにインフルエンザにかかったとき、1番先にかかり治ったあの子は皆の弁当を買いに行った。まだ小学校に入る前だ。熱の引かない私を心配し、何度もタオルを氷水で冷やし額に当ててくれた。寒い冬に冷たかったろう。幼い手で絞るのは大変だったろう。私は泣けて顔を背けた。あの子は傷ついただろう。
子育ては順調だった。母親は必要なかったのだ。夫と息子とあの子。絶妙なチームワークと愛情。わたしは病気もせずに育ち子供達の成長を見守った。息子は会計士の試験に何度も落ちたが、私の貯金と生命保険があるから勉強に専念し、30歳前にようやく受かった。受かった時にあの子は言った。
「おかあさん、喜んでるね」
あの子は息子に金がかかるから塾へもいかなかった。いかなくても息子より成績がよかった。兄の古い参考書を読み自分で理解した。部活は金のかからない料理部や手芸部。器用なあの子は大人顔向けの作品を作った。私の大事にしてきた家はあの子が掃除し手入れした。あの子が作るハンバーグは、
「おかあさんのと同じ味だよ」
と言われ涙ぐんだ。私の小さな花壇にあの子はきれいな花を咲かせる。日の当たらない花壇の私の好きなクリスマスローズ。地味で下を向いて咲く花。冬に咲く花。あの子は図書館から本を借りて研究するから、可憐なクリスマスローズは寒さが厳しくなると可憐に咲く。
高校に入るとあの子は申し訳なさそうにテニス部に入りたいと言った。家事はほとんどあの子の役目だ。休日も遊べなかった。夫も息子も協力した。私はピンときた。よほどの理由がなければあの子は自分の意思を通さない。あの子は恋をした。テニス部の先輩。女子に人気のある軽い男だろう。若い男にあの子の魅力はわからない。若い男が好きなのはバラやひまわり。下を向いて咲いているあの子は相手にされない。
あの子は大声で笑わない。私がそうしてしまった。友達もあの子といてもつまらないだろう。あの子の良さがわかるのは辛く苦しいときだ。
やがて2人とも結婚した。息子の嫁は明るくて陽気で無頓着な女だった。家事はできない。息子のほうがうまい。それはかまわない。いろんな夫婦があるのだ。文句はないが……嫁はわたしには優しかったが、あの子に対しては少し見下しているようだった。息子が話したのだろうか? 日陰者だと。嫁は自分の着なくなった服をあの子にくれてやる。ブランドの高い服だ。だが、明らかに洗濯していない。酷い侮辱だ。それをあの子は、礼を言う。服を洗い染み抜きしのりをつけアイロンをかける。たいしたものだ。あの子は家事のベテラン。私に似て。家事と節約のベテラン。
あの子の夫は……最悪だった。高校中退。父ひとり子ひとり。貯金なし。おまえの貯金を出してはダメよ。いつか裏切られるかもしれない。いつでも捨てる用意をしておきなさい……
しかしあの子は幸せそうだ。男ふたりが住んでいた古くて小さな家をきれいにしていった。小さな庭で野菜まで作った。あの子の夫は幸せだ。あの子も……満たされているのがわかる。
女の子が生まれた。名前は……旦那の父親が付けた。優子……その名に男は憧れるのだろうか? 優子……あの子の母親の名だ。
あの子は幸せそうだ。肌が輝いている。名前の通り輝く。静かに穏やかに。あの子は幸せそうだ。美しい月。
わたしは年頃になっても異性にはひかれなかった。私はもう70歳だ。夫はもっと歳を取った。ふたりには広すぎる家で夫と暮らす。ときどき夫はわたしを亡くなった妻と間違える。間違ってはいないのだが。夫は仏壇の前で泣く。私の名を呼んで。許してくれ……と泣く。
病院のベッドで3人の子に看取られ夫は逝った。耳元で私は呟いた。
許すわ。あなたが許しを乞うのは優子さんでしょ。あの世で会ったら伝えてね。あの子をプレゼントしてくれてありがとう。最高のプレゼントだった。
家にひとり。ゆっくり風呂に入る。何年経ったのだろう。わたしの体はあの時の私の体と同じ、おへそが赤い。医者に行かなきゃだめだろうか?
浴室のドアが叩かれた。
「寝てるんじゃないだろうな?」
まさか、待っていた? 私が許したとでも思っているのか?
私は思い出す。手帳に書いてある。年が変わっても書き写す。何年も。繰り越し繰り越し。
『怒りを忘れるな』
追加しなければ
『あの子を愛さないように』
決してあの子を愛さないように……
そっくりな娘