薔薇と棘

薔薇と棘

ユウナギ

 引っ越してひと月になる。慌ただしく過ぎたひと月だった。もう来月分の家賃を払いにいかねばならない。
 土曜休みの午前中、隣の邸に家賃を払いにいった。門は開いていた。庭で若い女が花の手入れをしていた。広いツバの帽子を被り中腰で。近寄ると振り向いた。
「あの、家賃を」
 女は立ち上がった。めまいがしたようで思わず支えた。大丈夫です、と女は歩き出す。玄関に入り、待たせ、たいして待たせはせず、すぐに金を受け取り領収証を書いてよこした。きれいな字だ。
「大丈夫ですか?」
「丈夫だけが取り柄なのに。さっき、亡くなった義父が立っているのかと思った」
「亡くなった、おとうさんですか? ちょっと、ショックだな」
「義父に、ひどいこと言ったから。私を恨んであの世から歩いてきたのかと思った」
 彼女の名前も年も聞けなかった。大きな邸の嫁。化粧もしていなかった。それでも引きつけられた。
 肩幅が広かった。手も大きかった。彼女は半身不随の義父を献身的に介護していたと、隣の奥さんが言っていた。あの世から恨んでくる……とは?

 休みの日、ベランダに出てみた。3階だから隣の邸の庭がよく見える。彼女は花の手入れをする。中腰の姿勢で長い時間。視線に気づいたようだ。こっちを見上げ目があった。互いに軽く頭を下げた。
 彼女の夫は何度か見かけた。朝、車が迎えにくる。和樹が仕事に出かける時間。10才年上だという夫が後部座席に座り、もう書類を読んでいた。見送りに出ていた彼女は和樹を見て会釈をする。
 休みの日は何回もベランダに出た。小さな椅子とカモフラージュにするタバコを買った。
 
 バラが満開になり見事だ。また家賃を払いにいくと『嫁』は庭で手入れをしていた。気づいているのに振り向かない。和樹はそばに寄った。
「ピアノが得意なんですって?」
「隣の奥さんだな、好きだって言っただけですよ」
「テンペスト、弾ける? 生で聴いてみたい」

 日曜の朝、ベランダに出てタバコを吸っているフリをした。隣の庭が見える。ベランダの小さな椅子に座り庭を見る。
 目当ての彼女はバラの手入れをしていた。素手でしている。トゲで傷つけ、そこへ夫がパジャマのままやってくると、傷ついた彼女の手を舐めた。
 庭の椅子にふたりは座り花を眺める。和樹は部屋に入り窓越しにみつめた。夫、彼女より10才年上の男は妻にキスをした。長い時間キスをした。洋画のようだ。
 庭仕事に戻ろうと立ち上がった彼女を夫は後ろから抱きしめた。見られているとは思わないだろう。
 和樹は離れた。日曜の朝、好きな女が凌辱された。好きな女? 人妻だ。夫婦が休みの日の朝、愛し合う。当たり前のことだ。しかし……苦しかった。苦しくてドアを蹴った。

 となりの娘のピアノが上達していく。和樹は習っている先生を訪ねた。いまさらのピアノ。日曜の午後久しぶりにレッスンをした。
 歩いて帰る。区民農園があった。日曜の午後、彼女が農園で長靴を履いて作業をしていた。目が合った。
 畑でふたりで話した。葉を見ても、和樹はなんの野菜かわからない。彼女は教えた。野菜不足でしょ、と取り立てのトマトをくれた。ふたりでトマトを食べた。こんなところをお義母さんに見られたら? 
「よく義父と散歩したわ。車椅子で。最初は義母にしか面倒みさせなかった。体格のいい人でわがままで、義母のほうが体壊して」
 彼女は突然笑い出した。
「初めてトイレでパンツ下ろしたとき、憤死するかと思った」
「憤死?」
「拒否するのを力づくで。孫くらいの娘に」
 年は知らない。名前も聞かない。言わない。彼女は堪えきれずに笑う。十代の娘のように。
「すごいバトルだったの。夫も、義母も、義妹たちも役立たず。虐待かも」
「まさか」
「悔しかったら歩いて立てって。恨んで出てきてほしい。庭にいると感じるの。私を見てる。花を枯らしてないか、ちゃんと世話してるか……」
「じゃあ、キスしてたのも見られたな」
 彼女は和樹を見つめた。やはり、見てたのね、とは言わない。
「おおらかでいいな」
 表情を変えない。
「見てみたかったな。続きを。ベッドで乱れるのを」
「ベッドじゃないわ」
「え?」
「布団なの」

 次の週の日曜日、隣の邸はにぎやかだった。黒服の男女が大勢出入りした。義父の1周忌か? 長男の嫁は1番若い。若いが敬意を払われているようだ。
 夕方になると黒服の男女はそれぞれ帰って行った。そのたびに彼女は外まで出て見送る。最後の親族が帰ったのか、彼女は庭の椅子に座った。まだ、黒服のままだ。スカート姿は初めて見た。首に大粒の真珠。彼女が待っているのは義父ではない。和樹にはわかった。離れている彼女の心が手に取るようにわかった。
 ベランダに出てタバコを吸った……魂が空間で触れ合った。死んだ義父が怒って出てきそうだ。彼女は人妻だ。夫が戻ってこない妻を気にかけて庭に出てきた。和樹は部屋に入る。夫は疲れただろう、と妻の肩を揉む。彼女は泣き崩れた。義父のことを思い出したのか? 揺れ動く心に罪悪感を感じたのか?

 離れなければ……和樹は部屋を探した。離れたいが、離れられない。

 休みの土曜日、天罰が当たった。和樹はひどい腹痛で苦しんだ。救急車を呼ぼうか迷っているうちに動けなくなった。隣の娘と彼女の息子の声が聞こえた。
「かずちゃーん、ピアノ教えてー」
 それから少しして彼女がきた。和樹は支えられ抱えられ、3階から下ろされた。車に乗せられ病院に連れて行かれた。痛みで喋れない。考えられない。妻に間違えられた女はきびきびと動く。尿路結石、手術? ペニスから管を入れる……やめてくれ。そんな説明は。妻じゃない……

 帰りの車、彼女は運転しながら笑いを抑えられない。
「手術したほうがいいわ。早く」
「ああ。笑うな」
「若い看護師さんだったりして……クックックッ。」
 1泊2日の入院で手術した。彼女の前で説明されたように。
 次の日は休んだ。平日に庭を覗く。彼女と若い女が椅子に座っていた。和樹はタバコを吸う。妹か? 大学に通っている? 姉より垢抜けている。化粧も髪型も。似てはいない。華奢な女だ。

 休みに集中してレッスンした。なぜいまさらのピアノ? 基礎からやり直す。
 レッスンの帰り、畑の前でふたりに会った。
 妹は自己紹介した。
「フミコです」
 知りたいのは姉の名前だ。ひととおりの挨拶。若い娘は和樹に惹かれたようだ。3人で歩く。誰に見られても困りはしない。フミコは名残惜しそうに立ち止まって話し続けた。

 妹をカモフラージュにした。ベランダから堂々と手を振った。畑で堂々と話し、堂々と歩いた。そして彼女の家の庭で話をした。映画に誘われた。喜んで応じた。姉は顔色を変えない。フミコが席をはずした。
「似てないな。姉妹なのに」
「私は父親似だから」
「オレに惚れてる」
「……」
「オレが惚れてるのは別の人だ」
「……」
「なんとか言えよ」
「出て行って。アパートから」
 ポケットからハサミを出し脅された。
「フミコに手を出したら切るわよ」
「……真顔で言うなよ。恐ろしい」
 夏のバラが蕾をつけている。彼女は怒ったように次々切り落とした。
「なんてことするんだ」
「夏咲かせると弱るのよ」
 容赦なく切り落とし、トゲで指を傷つけた。
「バチが当たったんだ。どうして手袋をしないんだ?」
 彼女の手を取り傷を舐めた。ハサミが落ちる。頬を叩かれる。フミコが戻りふたりはなにごともなかったように話した。
 フミコと出かけた。姉妹の子供の頃の話を聞いた。姉がどれほど夫に愛されているかを聞いた。 
 家賃を持っていき話す。
「このあいだはピアノのリサイタルにいったよ。生でテンペスト聴いてきた」
「子供ができたの。ずっとできなかったのに」
「……残酷な女だ。オレの上をいってるな。おめでとう。よかったな。よかったな。妊婦を恋焦がれたりはしない。よかったよ」
 ふくらんでいくおなかを見たくはない。フミコには別れを告げた。別れるほどの仲にはなっていないが。

 家賃を払いに行く。ひと月は早い。半年恋焦がれた女がやつれていた。ひとめでわかった。流産したのか?
「死んでたの。おなかの中で」
「休んでろよ。顔が真っ白だ」
「バチがあたったんだわ」
「バカな、君がなにをした? オレは出て行く。出て行くよ」
 彼女はめまいがしたのか、しゃがみ込んだ。大声で義母を呼んだがいないようだ。抱き上げ寝室に運んだ。和室に布団が1組み敷いてあった。少しの乱れもない布団に寝かせた。部屋は片付いていた。
「動きすぎなんだよ。休めよ」
 彼女はもう喋らない。
「オレが来ると思ってたんだろ?」
 キッチンへ行きミルクを温め、彼女に飲ませる。
「おかあさんは? 病院か? ゆっくり休め。なにもするな。いいな」
 彼女は力なくうなずく。別人みたいだ。
 半年しかいなかった。彼女の前から去る。最後に……彼女のために勝手に弾いた。この半年集中して練習したテンペストの第3楽章を。古いグランドピアノで。

「宝の持ち腐れのピアノ、調律しててよかった」
 彼女が後ろで聴いていた。

 引っ越す前の日、彼女が部屋の査定に来た。ざっと見て敷金を返した。
「次借りるのにまたお金かかるわね」
「癌が見つかった。長いことないよ」
 彼女は笑っている。嘘は見破られる。
「本当だったらついていてくれるか?」
「夫に頼んでみる」
「許してくれるか?」
「……」
「ああ、嘘だよ」
「テンペスト、ありがとう。私も習ってみようと思うの。やっと時間ができたから」
「君は手がでかいからうまくなるよ」
「夫の好きな曲なの」
「ああ、そうかい」
 彼女はようやく声を出して笑った。
「おかあさんが寂しがってた。あなたは義父に雰囲気が似ていた。若い頃のね。あなたのおかげで元気になれたって……」
「うまくやっているんだな。おかあさんと」
「本当の娘のように思ってくれてる」
「笑えよ。君が、笑うのが好きだ」
 彼女はベランダに出て指差した。この部屋と庭の中間点を。
「そこで…… 」
「ああ。そこで、何度も」
「……素敵だった」
「君の名前は? いや、どうでもいい。すぐ忘れるから」

薔薇と棘

薔薇と棘

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-05-05

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