珈琲と彼女
ゴリ、ゴリ、ゴリ、ゴリ。
そんな何かをすり潰す音が遠くから聞こえ「笠水上あやめ(かさみずかみ あやめ)」は目を覚ました。
ぼんやりする意識と視界の中、スマホを探し出して画面を点ける。ロック画面に表示された時刻は、午前六時を少し回っていた。
(徹夜明けかな・・・・・・それか、まぁ起きようかしらね)
あやめはそうして布団から這い出ると、おぼつかない足取りで自室のドアまで向かい、ノブを捻り、押し開ける。
ドアを開けるとすぐに居間で、左向かいに台所がある。その台所に件の音の正体がいた。
「おはよう、あやめ。ごめん、起こしちゃったね」
「ん、ほんとよぉ。どうしたの? こんな朝早くに。締め切り明け?」
「いや、今回は締め切り前に脱稿できたから、後は『編集者さん』に渡すだけだよ」
「ふぅん。珍しいね。いつも落とすのに」
「私だってやる時はやりますよ」
「はいはい。じゃあ後で原稿、ちょうだい。見るから」
「はーい」
台所にいる声の主はあやめの同居人で名前は「篠倉結(ささくら ゆい)」————そして彼女が手に持っている物こそ、音の発生源だった。
それは、下部分は箱状で小さな引き出しがあり、上部分はお椀状だが中心部には金属製の取り外し可能なハンドルが付いていた。そのお椀部分には茶色の豆、コーヒー豆が入っていた。つまりは「コーヒーミル」と呼ばれる、コーヒー豆を粉状にする器具で、朝の音はコーヒー豆を挽いていた音であった。
結はまたコーヒーミルのハンドルを左手で持ち、右手で下部分を抑え、ハンドルを時計回しで回し始める。
「あやめも飲むでしょ?」
「そうね。目覚ましに一杯、頂こうかしら」
「りょうかい」
ゴリ、ゴリ、と鈍く砕ける音が部屋を満たすのと同じく、コーヒーの香りも部屋を満たす。窓の外は陽が昇り始め、部屋に影を落とし始めていた。
「そういえば、結。また本買ってきたでしょ」
「え? なんのこと?」
「はぐらかしてもムダよ。というより、あれで言い逃れする気だったの?」
目を閉じていたあやめは、思い出したように問い詰め始めた。それに対し、挽き終わった豆を「フレンチプレス」の容器に入れ、ポットのお湯が温まるの待っていた結は、平然を装うとしていたが、明らかに動揺していた。
「先週の二十日。駅前でやっていた古本市に行ってたでしょ? アナタ」
「行ったけど、数冊だけだよ? 買ったのは」
「えぇ、そうね。買ったのは数冊だけ」
「その前に、ちょっ、ちょっと待って。なんで私が古本市行ったの知っているの?」
「単純な話。その時、私も駅前にいたの」
「だとしてもだよ? なんで私がいたって、一発で分かったの?」
「・・・・・・なんとなく」
「ある意味怖いよ。それ」
「まぁ、二年も一緒にいれば、嫌でも覚えるものよ。で、話は逸れたけど、問題なのは量でも『買った』っていう事実でもないの」
「じゃあ、何が問題なの? っときたきた」
会話の途中でポットから湯気が立ち、結は火を止め、中が納まるのを待ってから、フレンチプレスの容器内に湯を注ぎプランジャーで蓋をした後、四分に設定したタイマーのスタートボタンを押した。その間に二人分のカップに余ったお湯を注ぎ入れ、周りを片付け始めた。
「話の続き、良いかしら?」
「ごめん。どうぞ」
「それでアナタ、先月も買ったでしょ。本。それとコーヒー豆も」
「う、うん。買いました。でも」
「でも?」
あやめは低い声と、冷めた目で結を見やる。それに後ずさりしてしまう結。
「前ほどは買う量減らしていますよ? あやめさん」
「『毎月』は良いのかしら?」
「いや、ほら、あのね? 自制はしているつもりですよ? でも無意識に足が本のある場所に向かってしまうというか、あ、そう市場調査だよ! 常に最新の情報を得て、新鮮な刺激を取り入れることは作家にとっては重要で、その副産物というか、調査結果というか・・・・・・ごめんなさい」
なお鋭く、冷たくなっていくあやめの視線に、結はついに白旗をあげた。と、その時にタイマーが四分経ったことを知らせ、結は助かったと言わんばかりに、素早くタイマーを止め、カップ内のお湯を流しに捨て、フレンチプレスのプランジャーを押し下げ、底まで着いたらゆっくりとカップに注ぎ、あやめの所に持って行く。
「お、お待たせしました。ミルクは要りますか?」
「頂こうかしら」
あやめに言われ、結は冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、机に置きながら自分も座った。
「はぁ、あのね? 別に買うなとは言わないし、そもそも個人の趣味に口出しするなんておこがましいと思っているの。でもあなたの部屋前を見て」
そう言い、結は後ろを見る。そこには扉があり、その先が結の自室なのだが、その扉前に本が積まれて置かれていた。
「部屋に収まりきらずに、外まで溢れている。じゃあ中はどうなっているのか? 想像に難くないでしょうね。それで、今後も買い続けるのであれば、間違いなくこのリビングまで本で浸食されるのは、必然。じゃあそれを解決する方法は?」
あやめは一旦そこで区切り、コーヒーを一口、口にする。
「引っ越し、でしょうか?」
代わりに結が答えた。
「えぇ、そうなるわね。幸い、二人とも稼ぎはそれなりにあるから金銭面はあまり問題にはならないけど、引っ越ししたのは、半年前のこと。それから今日の時点であの状態になって「はい引っ越しします」とは簡単にはいかないの。まぁ考えが甘かった私にも非はあるけど」
「それを言うなら私だって考えが浅はかだった。まさかここまで蔵書量が一気に増えるとは考えてなかった。無計画とはこのことだよ。それにここ、内見に来た時に凄くいい感じがしたというか、長く住みたいなと思ったから、他に引っ越しはしたくないな。なんて」
結は左手で頭をかきながら苦笑いした。それに溜息をつくかなめ。
「・・・・・・第一、なんで急に本、増えたの? しかも小説以外もかなり増えているけど」
扉前に積まれている本の中から一冊取り、流し読みをしながら、結に問いかける。その本はコーヒー豆の品種と生産国につての解説本だった。
「それはほら『これ』を始めたから、それの勉強用にと・・・・・・」
そう言う結の視線を追うと、先程片付けたコーヒーの器具に行き着き、あやめは納得したと同時に、また深いため息をついた。
「そういうことね。それで、今回はどれほど長続きしそうなの?」
『今回は』というあやめの言葉から、これ以前にも結の中で流行りみたいなのがあったのだろう。だがどうやら、熱しやすく冷めやすい性格を結がしている様で、ちょこちょこ趣味が変わっているらしい。
「『今回』は大まじめですよ。なにせ色々揃えたので、後に引けない状態だからね」
「まぁ、確かに色々あるけれど、いくらしたの? 全部で」
また少し声が低くなるあやめ。
「えっ、えーと、怒らない?」
そんなあやめに対して、視線をそらす結。
「あなたが稼いだお金で買っているでしょうから、怒る理由なんて無いわよ。まぁ金額次第だけど」
「そっ、そっかー」
『言えない! 言ったら確実に血祭りになるのは明白! でも変に誤魔化してたら、後でバレて更に厄介になるのもマズイ・・・・・・仕方ない。ここは素直に言おう。それが身のためだ。うん、それが一番』
結は深呼吸をしてから、切り出す。
「まずは『フレンチプレス』これはそんなに高くなくて、三千円くらい。次に『コーヒーサーバー』これは千円ちょっと。で、次にコーヒー豆を粉状にする『コーヒーミル』これが・・・・・・少々お高くてですね、フランスのミルなのですが、約三万円しました。もちろん全部のミルがこんなに高い訳じゃないよ?! まぁ、コーヒー器具の中でミルは重要視されているから、どこのメーカーもこだわって作る結果の金額なんだけど・・・・・・」
恐る恐るあやめを見てみると、きょとんとしてはいるが、あまり怒っている感じは見受けられなかった。もっとも空気は朝日で温かいはずなのに、なぜか冷えていたが。
「色々言いたいことはあるけど、それだけ真剣なのが分かった。分かったけど、三万円は普通に高いわね。どうしてそれを選んだの?」
「一目惚れ、かな。周りに溶け込んで余計に主張しないデザイン。クラシカルなんだけど、古臭くなくて、むしろ時間を積み重ねてきた物だけが出す、どっしりとした佇まい。そして実際に豆を挽いてみると、このメーカーが得意とする、金属切削加工による軽やかな回り方。飾って良し、使って良しのお気に入りなんですよ!」
あやめが身を引くくらいの距離で今の説明を一息で語る結。
「わかったから、近いわよ。結」
「あ、ごめん。あやめ」
互いに気まずくなり、しばし静かになる。あやめは落ち着こうとしてひと口、口にする。幾分冷めていたが、熱さで分かりづらかった苦味や酸味以外の香りを感じられ、あやめは驚いた表情をした。
「コーヒーって、ただ苦かったり、酸っぱいだけじゃないのね。美味しい」
「ホント?! 嬉しいな。コーヒーってね、そういうイメージばかりが先行しがちだけど実際はもっと複雑で、産地ごとによっても変わるし、煎り方、挽き方でも変わる。だから自分だけの一杯を淹れられることを私は目指しているんだ」
「じゃあ、今日はどうだった?」
「んー六十点かなぁ」
「意外と厳しめね」
「まだまだ不慣れな者でして、常に改善を求めないとそこで妥協してしまうからね」
結はカップを揺らしながら答える。黒い水面は結の顔をおぼろげに反射しながら、揺らいだ。
「そうだ。出来た原稿、見せてもらっても良い?」
「あぁ、そうだね。ちょっと待ってて、今持ってくる」
結は席を離れ、自室に戻り原稿を取りに行き、また戻って来る。
「では、お願いします」
「拝見させてもらいますね」
互いに仕事の空気に変わり、紙をめくる音だけが室内に響く。その間、結は終始落ち着かず、家中を右往左往していたり、あやめを覗き込んでいたりしてたが、あやめは読むことに集中して気付いていなかった。
そして一時間後———「ふぅ。終わったよ、って何しているの?」
「へ? いや、落ち着こうと思って」
「だからって、それはちょっと・・・・・・」
あやめが言い淀む先、結が壁に支えられながら逆立ちをしていた。しかもTシャツ一枚しか着ていないので、顔付近までずり落ちて下着が見えかけていた。
そして「よっと」と言いながら結は綺麗に半円を描きながら着地した。
「もしかしてあやめ、ドキドキした? 最近見てないからね。私の下着姿」
「うるさい」
「でも顔真っ赤だよ?」
「あぁもう! 後で覚えておきなさい! それより『これ』について話してもいいかしら!?」
「はいはい、お願いします。あとコーヒー、おかわりする?」
「後でもらうわ」
「じゃ、私もあとで」
イスに座り直し、あやめが持っている原稿に目をやる。その時にちらりとあやめの顔を見てみると、怒ってはいなそうだった。
「それでどうだった?」
「そうね。バーのマスターに恋する女の子の話っていうところが気に入ったかしら。しかもマスターが年上で、かっこいいお姉さんなのも良いわね」
「あやめ好きだもんね。かっこいいお姉さんキャラ」
「語って良いなら語るわよ? 一晩くらい」
「結構です」
「そう、残念。で、恋をする女の子というより女性ね。彼女は決して目立つキャラクターではない。けど彼女は現実的なキャラクターで読書が共感できる部分もある。だから作品内の世界を追体験しながら読むことで、また違った感想も持てる。おかげで何度も読みたくなるなと私は思ったわ」
結は、あやめの感想に「おぉ」と驚いた。
「なんかえらく高評価だね」
「ただ、マスターが鈍感過ぎるかしらね。もしくは気付いているけど気付いていない所はマイナスね。まぁ奥手といえば聞こえは良いけど、もう少し女の子の反応に気付いてあげても良いと思うわ。でもこういうお姉さんキャラは、人たらし位がちょうどいい場合もあるからバランス取りは難しいわね。ちなみに私は弄ばれたい派ね。思わせぶりにさせて、その気じゃないって落とされるのは、一番最高ね」
「うわぁ・・・・・・」
いつの間にか熱弁していたあやめの少し偏った嗜好に、結は少し身を引いた。
「なによ、それ」
「あぁいや、ごめん。まぁ趣味嗜好は人それぞれだから、少しくらい尖っていても問題はないけど」
「ないけど?」
「・・・・・・あやめの一面を知れて良かったって、痛い! ほっぺた引っ張らないで! ごめんなさい!」
「あぁ、ごめんなさい。良く伸びる物だからつい」
「無意識だったの?!」
引っ張られた頬をさすりながら、驚く結。そしてさすっている頬が少し赤くなっていたので、あやめは意外にも力があり、結が下手に出ているのもそれを分かった上なのだろう。
「とにかく、原稿はこのまま編集部に持って行って編集長に見てもらうわ」
「はい、お願いします」
「はぁ、そう言えば朝ごはんまだだったわね。コーヒーのお礼に何か作ってあげるけど、何が良い?」
あやめはテーブルから立ち上がり、台所に向かう。
「じゃあ、卵焼き。甘めで」
「分かったわ。しかし結は、甘くしないと食べないわね。卵焼き」
「追加で柔らかめで」
「しかも半熟派だし」
「それじゃ私は、昨日『コハクパン』屋さんで買ってきた食パン出して切るよ。後は夜中作ったリンゴジャムも食べ頃かな。あやめはパン、どれくらいの厚さが良い?」
「厚めで。ってか、夜中にそんなことやってたの? しかもパン屋、いつ行ったのよ」
「今日の朝。コハクパン屋さんはねぇ、なんと朝の五時からやっているのだよ。だから朝の散歩ついでに寄って買ってきたのさ。ジャムは昨日原稿書き終わって、麦茶飲もうと冷蔵庫開けたらリンゴが何個かあったから、全部使わせてもらったよ」
あやめの隣で冷蔵庫から山形をした食パンとリンゴジャムが入った小瓶を取り出し、それらをテーブルまで運ぶ。そしてその後ろからあやめがブレッドナイフと、木製のまな板を持って来てくれた。
「ありがと」
「どういたしまして」
素っ気ない会話だが、二人にはそれで充分だった。台所に戻ったあやめは四個分の卵を二つのボウルに分け、片方に多めの砂糖を入れ、もう片方のボウルに昆布だしの素を入れる。そしてそれらを混ぜ、予め温めておいた卵焼き器二つに溶き卵を流し込む。結の分は半熟なので、少し早めに裏返す。じゅー、と焼ける音と、甘く香ばしい焼ける匂いが先ほどのコーヒーと同じく部屋に満ちる。そしてあやめは自分の分を裏にひっくり返し、結の分は皿に移す。柔らかく、黄金色に艶やく卵焼きが出来上がった。
それからしばらくして、あやめの分も出来上がり、二つ分の卵焼きが乗った皿を持ってテーブルに着く。あやめが焼いている間、結もトースターから焼きあがったパンと、紙パックのアイスコーヒーと牛乳、カップを両手一杯にして来た。
「ご、ごめん。ちょっとなにか持って」
「一度に持ってき過ぎよ、まったく。牛乳とコーヒー持つから、それ離せる?」
「う、うん。とっと、離してもいい?」
「持ったから離していいわよ」
「ふぅ。たすかったよ」
「力ないんだから、無理しない」
「はぁい。じゃ、食べようか」
「私、食べ終わったら会社に行くけど、結は?」
「寝ようかなぁ。あぁいや、一緒に行くよ。良さげな喫茶店見つけたから、お昼そこでどう?」
「これから朝ごはんなのに・・・・・・まぁいいわ。楽しみにしているわよ」
二人は手を合わせ「いただきます」と言った。一日はまだこれから始まったばかりだった。
珈琲と彼女