インマヌエル -神-

インマヌエル -神-

何を、何処から間違えたのだろう。
追い詰められた吸血鬼は、大切だった天使の教会に逃げ込む。
神殺しの少年は悪神として、戸惑う吸血鬼の拙い心を喰い破る。まだ見ぬ新たな世界に向かうために。
update:2023.5.3 インマヌエルシリーズ転座
※直観探偵シリーズをご存知なら結末以後がわかりますが単独で読めます

Lost Hexagram. -謡-

Lost Hexagram. -謡-

 
 かごめかごめ いついつでやる


 -spin a tale-

†起:by faith alone.

 
 何の変哲もない日本の一角、ありふれた住宅街の奥に。
 赤い煉瓦の花壇に囲まれて、小さな教会がありましたとさ。
 その教会には、一匹の翼の悪魔がおりましたとさ。
 ある日、悪魔を懲らしめに来た神様の使い、金色の目のヒト喰いカラスは、真っ暗な礼拝堂で悪魔と問答をしましたとさ――

「あのさぁ。『神』とヒトの恋愛って、どうすれば成立すると思う?」
「……は、ぁ?」

 軽い口調の使いの神様は真っ黒な翼で、黒ずくめの服に銀色の髪。
 呆ける悪魔は白黒の学生服で、月白(げっぱく)という青い銀色の髪でした。

 不躾な使いの神様に悪魔は呆れた暗い目色で、謎謎に謎謎で返しました。
「何でオレにそれをききますか。人間と恋愛したいなら、人間のことは人間にきいてください」
「何だよ、ケチだな。冥途の土産にそれくらい、いいだろ?」
「冥途の土産をもらうのはオレです。オマエはオレを殺しにきたんですから」
「つれないな、相方なのに。とりあえず悪魔に丁寧口調、似合わないし」

 黒い礼拝堂には十字架を飾る祭壇と、綺麗に並んだ長椅子だけが浮き上がっています。
 悪魔は最前列の長椅子に座り、使いの神様は逃げるのを阻むように椅子に片足をかけ、悪魔を見下ろして無邪気に笑いました。
「神と悪魔。互いに互いが、切っては切れない存在だろ?」
「それはどこの中二病ですか。神と悪魔が相方なんて言ったら、怒る団体が山程あります」
 悪魔はただただ、悪い使いの神様の(たわむ)れに苦い顔をすることしかできません。

 使いの神様は悪魔の不興には目もくれずに、退治すべき悪魔におかしな提案を始めました。
「何か面白い話をしてよ。アンタがオレに付き合ってくれる内は、見逃してやるからさ」
「それはどこの千夜一夜物語ですか。しかも面白い話って、何で恋バナなんですか」
「あはははは。アンタ本当に、人間界のことには無駄に詳しいな」
 教会という籠の中の悪魔が、神様の使いにかなうはずもありません。
 神様も悪魔もそれを知っています。この真っ暗な礼拝堂は、悪魔の墓場になるはずなのです。

 そもそも悪魔は恋をしたことがありません。だから悪戯好きの神様が望むような話はできそうにありません。
「ヒトが欲しいならヒトに堕ちるか、ヒトを『神』にするしかないんじゃないですか。オマエも含めて、どうせみんな、(まが)いものの『神』様ですから」
 悪魔はホンモノの悪魔なので、ホンモノの神が何かわかっています。
 けれどここにいる「神」様は、ホンモノの神の欠片に過ぎません。それも性質の悪いがん細胞のように、悪魔の本当の相方を食べてしまいました。

 神はもっと、全知全能の存在なのです。この世界の全てを知りつくし、また全てでもあるのです。
 そんな全知全能の神様なので、その使いにはこんな悪い「神」様も含まれてしまうのです。
「そんな答が聞きたいんじゃない。オレはアンタの命乞いが聴きたい――アンタと何か喋りたいんだ」

 無理難題と知りながら悪魔とお喋りしたい神様は、きっと淋しがり屋でした。
 悪戯好きな悪い神様には友達がいません。それもわかってしまった悪魔は、神様につれなくすることができなくなりました。
「神が人間と恋をする話は、古今東西どの神話でもあります。別に何の条件も必要ないし、難しく考えることはないです」
「でもそれ、どれも行きずりか、ヒトが強引に神のものになる話ばかりだろ? ヒトと神が、自然に一緒になることはできないのかな」
「違う世界の生き物ですから。二次元が三次元を侵すくらい難しいです」
「やっぱりそうなのか。創り手は生み出したものに恋をできても、生み出されたものは創り手を見ることすらできない。創り手が自ら、生み出した世界に堕ちなければってことかな」
「そういう話もちょくちょくあります。二次元に三次元の視点が入る話もあります。でも結局は、神による神のための神が行う一方通行です」
「そうなのか、つまらないな。じゃあ神は、孤独でないヒトとヒトを創ることはできても、神自体は永遠に孤独なのか」
「同じ『神』と出会わない限りは。オマエは誰も、他の『神』を探す気はないんですか」

 ずっと面倒くさそうに、悪魔は淡々と話を続けます。
 悪魔を生かすも殺すも神様の自由です。何の抵抗も無駄でしかないので、淋しい神様を少しでも(たの)しませてあげよう、と思っただけです。

 悪魔のその気遣いも、神様の筋書き通りかもしれません。
 神様はとても嬉しそうに、そんな神様の目がよく見えるように、無表情な悪魔の顔を人差し指で押し上げて上を向かせました。
「『神』同士が興味を持ち合っても、互いの都合の押し付け合いだろ」
「……」
「互いを尊重するなら、それも孤独と同じことだ。バラバラのパズルが、偶然隣り合う相手を見つける、そんな幸運はあり得ないから」
 この神様はどうやら、とんでもない欲張りのようでした。だから独りなのだ、と悪魔にはわかります。
 ぴったり合う相手でなければ、神様は嫌なのです。そんなヒトはそもそも存在するものでしょうか。

 悪魔は純粋に、不思議な気持ちになっていきました。
「人間が相手なら、孤独を忘れられると思ってるんですか?」
 果たしてヒトというものは、そこまで神様に都合の良い存在でしょうか。
 使いの神様はいったい、ヒトに何を求めているのでしょうか。
 ヒトを糧として生きる悪魔は、少しずつ思いを巡らせ始めます……。

†承:by Scripture alone.

 
 自ら神の籠に収まった青銀の鳥は、真っ黒なヒト喰いカラスに比べて、ため息が出るほど綺麗だった。
 悪魔というのは美しい姿をした者が多い。ヒトを魅せて(たぶら)かすためなら、至極当然のことなのだろう。
 「悪神」の翼を持つ彼のように、ヒトの闇をわざわざ掘り返すのとはわけが違う。悪魔がヒトに夢を見せるものなら、神はヒトの現実を晒け出すのだ。

 彼は率直に、この場に降りた理由を語る。
「オレはアンタと、何か喋りたいんだ」
 この悪魔は教会という聖域にこもることで、ヒトとの関わりを絶とうとしている。それは勿体ない、と悪魔をそこに追い込んだ彼は思った。
 彼という「神」の使徒に狙われていたから、悪魔は自分で死地にやってきた。悪魔の周りにいた者達を、その破滅に巻き込まないために。

 悪魔は彼を拒絶するように、普段は使わない丁寧語を口にする。
「オマエは誰も、他の『神』を探す気はないんですか」
 あまりに潔い悪魔に、彼は興味を持った。ヒトを(そそのか)す「悪神」として動く彼――まずヒトしか視野に入らない使徒にとって、悪魔の問いは愚問でしかない。
 そんな彼を憐れむ目つきは、悪魔たる存在にはふさわしくない。だから時の名を持つ通り雨として、世界をさまよう彼が狩らないといけない。

 時空を渡る彼は「悪神」の役目を受け、世の「悪」を取り込む黒い翼を持った「雨」の使徒だ。普段は悪魔の相方の内で眠っていたが、通り雨が降る前後だけ必要悪として世界に介入できる。
 「悪」にも様々な定義があるが、彼が扱う「悪」は、「己が存在の意味に反する人外生物」だ。人間の目には悪でなくとも、世の存在には全て意味がある以上、それに反するものは神の次元では「悪」となるのだ。
 目前の相手の例でいうなら、悪魔はもっとあくどく在るべきもの。そうでなくてはヒトの善性がかすんでしまう。

 彼が他の「神」に興味を持つのは、その「神」が自らの意味――神性に反し、ヒトに堕ちてしまう時だ。
 彼は戯れに他の「神」の望みを暴き、堕落させるために関わることもある。それこそ「悪神」たる彼の意味で、彼を使徒たらしめている。

 賢しい悪魔は、人間というヒトに関わりたがる彼の、大きな穴を口にしてきたのだった。
「人間が相手なら、孤独を忘れられると思ってるんですか?」
 彼は「悪神」としてしか、世界に干渉――存在できない。
 人間以外に関わる場合、破滅させずに付き合うことはできない。もしくは彼自身が悪事を働かなければいけない。そう定められた神性を覆せば、彼も不秩序として狩られてしまう。
 彼に関わられても無事なものは、彼程度に壊されない「神」くらいだろう。それほど彼はいない方が良い存在で、それでも決して消えはしない「悪」……誰にも自ら関わるべきでない、世界の闇の掃き溜めだった。

 ヒトの暗部に棲む悪魔は、それもまた神の被造物で、ヒトを堕落させるものだという。
 悪神である彼と、世に易々と解け込む悪魔は、いったい何が違うのだろうか。

 ヒトの心に付け込む悪魔。特にこの青銀の鳥は、ヒトに都合良く、ヒトの願いを叶えるために造られている。
「少なくともアンタは、ヒトの孤独を埋めるための生き物だろ」
「……」
「アンタは人間の望みで造られた悪魔。それなら人間は、神の望みで創られた生き物だとは思わないの?」
 ある人間の女性、大事な我が子を失った母が、悪魔の力に縋って我が子と生き写しの悪魔を造った。女性の夫は天上の鳥、言わば天にある国の番人で、聖なる番人の役目も子の代わりである悪魔に引き継がされた。時間という大いなる闇を渡り、どの時空にも雨を降らせる使徒である彼は、悪魔が生まれた事情を調べて知っている。

 悪魔は自身の素性を、知られる相手が少ないらしい。いつもは鋭く細められた目が、一瞬ぴくりと開かれたのを、彼は見逃していない。わざわざこの教会に籠った悪魔に、駄目押しとばかりにたたみかける。
「悪魔のアンタは、何を望むの? 有り得るところは、さしずめ天使……誰より近くて、遠い同胞(はらから)かな」
「…………」
「ここは唯一、アンタが望む天使の力が残る聖域。アンタだって、孤独は怖い――そういうことじゃないのか?」

 何人も彼に、隠し事はできない。正確に言うなら、その者が知らない真実までも、彼は観に行くことができる。
 今このタイミングで、どうして悪魔がこの場所に縋ったのか。
 死期を悟った者が何処に向かうか、彼は嫌というほど何度も見てきた。ヒトの本能はほとんど同じで、悪魔も人間も神が創りしものと、これほど思い知る時もないくらいだ。

 諦観で灰色だった悪魔の両目に、蒼い何かの感情が宿る。
 悪魔自身もそれが何であるのかわからず、持て余している心。
 この悪魔は存外に聖者で、自分で転んだことがない。他者に巻き込まれた災難はいくらでもあるが、自身の感情で起こした咎がほとんどないのだ。

「あんたはどうしたら、籠から出てくれる?」

 だから彼は、その芽を白日にさらしたくなったのだろう。
 人間に付け込み、孤高に生きてきたはずの悪魔は、いつしか望みを持って、ヒトに堕ちてしまったのだ。
 独りは淋しい……あえて切り離してきた者達と、本当は共に生きていきたいのだと。

「オレと一緒に、この世界の外に行こう。あんたのホントの相方になれるのは、オレだけなんだから」

 今まで悪魔が出会った相手は、悪魔と共に歩けない者ばかりだ。それを憂う心に向き合えないから、悪魔は一人でここに逃げ込んできた。
 彼を憐れむように見ていた悪魔の目に、映っていたのはそのまま悪魔の姿だった。

 直視できない心を、誤魔化して伝えたところで時間の無駄だ。
 あえて直球で誘いをかけた彼に、悪魔はしばらく、無言で呼吸を呑み込んだ後――

「……本気で言ってんの? ……それ」

 心底呆れたような、嫌がる顔を浮かべたようでいて、悪魔の普段のものに戻った口調。
 丁寧語という壁を乗り越えた彼は、くすり、と昏い微笑みをこらえることはできなかった。

 振り返らせることさえできれば、後は当初の、彼の目的を果たせばいい。
 もう扉は開いてしまったのだ。悪魔が自分でもわかっていなかった、ある大きな(あやま)ちによって。

†結:glory to God alone.

 
 夜明けの晩とは、いったい、いつのことであるのでしょうか。
 よくわからなくても、そうとしかいえない時間に、子供はいつも通りの怖い夢を見ます。

――オレと一緒に、この世界の外に行こう。

 真っ黒なカラスが、子供の眠る教会の屋根に座っています。
 アルファベットのC型、逆さま三日月を背にして、カラスは大きな黒い翼を広げています。
 大事そうに真っ赤な両手で包み込む、不思議な蒼い六芒星。それを昏い空に高く掲げて、まるで悪魔みたいな顔で笑っているカラスです。

「あははははは……! キレイだろ、軽いだろ、あはははははは……!」

 子供は毎日、怖い夢を見ます。こんなおかしな夢ばかりで、言っても誰もわかってくれません。
 特に最近、子供がよく預けられるこの教会に、妖しい悪魔が棲みついてしまいました。それから子供は悪い夢を見てばかりです。

 引っくり返った亀のように、じたばたしながら目が覚めた子供は、今日こそ悪魔を追い出すと決意しました。
 一緒に寝ている大好きなおねえさんを、起こさないようそっと布団を抜け出すと、いつも床で寝ている悪魔の姿が何故かありません。
「……?」

 不思議な胸騒ぎがして、子供は足音をたてないように、教会の礼拝堂へと向かいます。
 十字架の近くの、おかしなカラスに気付かれないよう、真っ暗な屋内を通って礼拝堂の扉を開けます。
 そこですぐに、子供の目に飛び込んできたものは――

「……やっぱり、こうなった、か」
 まるで鍵穴のように、白い服の胸からお腹を真っ黒にして、祭壇の前に座り込んだ黒い髪の悪魔。
 礼拝堂に入ってきた子供に気付くと、悪魔はとても苦しそうに、子供の方を見て笑いました。

 青白い両腕を力無く垂らして、片膝を立てて座る黒髪の悪魔は、大怪我をした鶴のようでした。
 真っ暗な床に座る悪魔は、同じ床の上で驚いて息を呑む子供の姿に、優しく微笑みかけます。
「オレもつくづく、悪運が強いね。というか――それもアイツの、予定の内かな」
「……?」

 いつもの悪い笑顔と違って、今日の悪魔は、とても穏やかに笑っています。
 ついつい子供は、悪魔の近くに駆け寄って、心配な気持ちのままに悪魔を見つめました。
「だいじょうぶ……? けが、してるの……?」
 このままでは消えてしまいそうなほど、悪魔は弱っています。
 いくら悪魔でも、消えるのはかわいそうです。弱ったヒトには優しくしなさい、と子供はお母さんからも教えられています。

 困ったように笑うだけの悪魔に、子供は白い袖を掴みながら、精一杯の勇気で尋ねました。
「どうして……かなしそう、なの?」
 気位の高い孤高な悪魔が、ここでもしも怒ったら、子供には勝ち目はありません。この真っ暗な場所には、その子供以外入ることはできないのだと、子供は知りません。

 誰も助けてくれない場所へ、たった一人でやってきた子供に、悪魔は哀しい顔をしている理由を正直に答えました。
「……神隠し、だよ。大切なヒトが……いなくなったんだ」
「――かみかくし?」

 首を傾げる子供に、悪魔は一見、関係のないようなことを聞き返します。
「オマエ、父さんは、いないの?」
「……いないよ。オレは、かみさまのこどもだって、かーさんがいってたもん」
 そうか――と。悪魔はそれで、全て納得がいったように、拙い力で片手を上げて、子供の黒い髪をわしゃわしゃと撫でました。

 どうしてなのか、子供の心臓が、さっきからどきどきと、うるさくざわめいています。
 きっと悪魔が、ひどく弱っているせいです。そしてそれは、子供のせいであるように、何故か感じてしまいました。
「オマエ……しんじゃうの……?」
 泣き出してしまいそうな胸を、必死に押えながらきくと、悪魔は、そうだね。と、諦めたような顔で笑いました。
「助からないけど……そうだね。オマエが力を貸してくれたら、延命くらいは、できると思うよ」

 永く生きるはずの悪魔の終わりは、これで既に、定まってしまったこと。
 それでもまだ、できることはあるのです。膝を立てて隣に座った子供は夢中になって、悪魔に掴みかかりました。
「オレ、どうすればいいの? どうしたらもう、いたくないの?」
 お人好しの子供は、目の前に苦しい相手がいると、黙っていることができません。たとえそれが、悪魔であってもです。
 悪魔はそれを知っていました。だから何も、遠慮はなしに、子供にそのお手伝いを頼んだのです。
「それじゃ……オレの羽を、オマエが預かってくれるかな?」

 大きな灰色の目を潤ませて、悪魔を見上げる子供に、悪魔は最後の力で上半身を起こします。そのまま内緒話をするように、子供の耳元に頭を傾けて、静かに肩を抱き寄せました。
「代わりにオレには――オマエの命を、しばらく分けて」

 その(ささや)きは、何も意味がわかっていない子供を、騙して利用するのと同じことです。
 それでも悪魔は、ここで力尽きるわけにはいきません。それは悪魔だけの問題でなく、悪魔の相方――「鍵」まで滅ぶ、「鍵」が(のぞ)み続けた未来だからです。

 必死に頷く純粋な子供の、あどけない柔らかな首元に、悪魔は無様に毒牙を突き立てます。人間の子供の温かさに、悪魔はきっと、泣いていました。
 悪魔とその「鍵」以外、誰も入れない影の中へ来た子供は、悪魔自身であったのですから。

――この世界の外は……こことは時間が、違う所だから。

 つい先刻に失って、そして今、戻ってきた心。
 腕の中で気を失った子供の、見知った命。その味を知って、悪魔には真実がわかってしまったのです。

――だからオマエは……『夕烏(ゆう)』、なんだね。

 少し前に、この子供と出会ってすぐに、悪魔の中で青銀の髪の「汐音(しおん)」というヒトが目覚めました。思えばそれは、当たり前の結果でした。
 夕烏という子供が存在するために必要だったこと。ヒト喰いカラスに連れ去られ、消えてしまった心臓――汐音の行方が、夕烏を見て悪魔にはわかりました。

 もしも本当に、全てのヒトを救う神様が、この世に存在するのであれば。
 神様はきっと、悪魔のことも、救ってくれようとした。だから悪魔の「鍵」も、その使徒に従ったのだと……。


 鳥籠の夢が終わった時、子供は一人で、祭壇の前に眠っていました。
 そこにはまるで、初めから何もなかったように、空っぽの祭壇があるだけでした。
「……はれれ?」
 子供は何も、気付いていません。くしゃん、と一つ、寒気と共に丸まった背中に、普通の人には見えない白玄(しろくろ)の翼が広がることにも。

 それはこれから、子供が大切なヒトと出会うために、必要な翼なのです。
 「神」なき世界が沈み、その心が闇に包まれてしまう前に――
 優しい子供が、ヒトとして生きられるための祈りを、子供はまだ知る由もありません。


File.S Imanu'el Lost hexagram. 了

雨夜月 -by grace alone-

雨夜月 -by grace alone-

 
雨夜月(あまよのつき)
:雨が降る夜の月。恋人の姿など、想像するだけで実際には見られないことのたとえ


 -spin a tale-


 二人目の子供が無事に一歳の誕生日を迎えた時、音戯(おとぎ)詩乃(しの)は、現在仕える神に感謝をせずにはいられなかった。
 十六歳で産んだ一人目の娘は、詩乃が愚かにも運命を変えたばかりに、帰らぬ人となった。夫と娘は二人で事故に合い、夫は即死だったが、四歳の娘は意識不明の重態が続いた。
 この小さな体で助かるわけがない。取り乱してしまった詩乃は、実家が仕える「神」の力、その中でも外法――死にかけた者同士を入れ替えれば互いが助かるという都市伝説を使い、娘を生かそうとした。それが娘と同じ歳の幼女の魂を入れ替え、本来なら生き延びたはずの娘の体を死なせてしまうとも知らずに。

「通りゃんせ……通りゃんせ……この子の七つのお祝いに……――」

 娘の魂を引き受けた見知らぬ病弱な幼女を、詩乃は遠目に見守っていた。しかし幼女が七歳となった時、その病体はこれが天寿だと、幼女の守護天使が死出の迎えに来た時には絶望で死んでしまいそうだった。
 最初の夫がカトリックであったため、詩乃は家を捨てて洗礼を受けた。だからその(あか)い瞳の来訪者を、守護天使と呼んだのは詩乃の独断だ。

 「守護天使」は、人間にはない白緑のふわふわした髪で、人間のように苦しげな紅い瞳で、詩乃にその愚かさを告げた。
「魂を入れ替えられなければ、詩乃さんの本当の娘さんは生きてたはずです。でも詩乃さん……娘さんは違う方法で、もう一度生きるチャンスを与えられてます」

 その時の詩乃は、現在の夫となる男性と出会っており、二人目の子供を身ごもっていると言われた。その子供はそのままでは流産するが、一人目の娘の魂をその胎児に遷せば、記憶はなくなるが娘は再び産まれることができる。
 紅い瞳の天使がそうして娘を助けてくれたことを、詩乃は神に感謝して祈りを捧げていた。

 それでもこんなことは、本当に赦されてよいのだろうか。それを畏れない日は無かった。運命を変えて良いのは多分、神だけであるはずだ。
 七歳で死ぬ運命だった病弱な幼女の方の魂は、娘の魂と引き換えに重態だった娘の体に遷され、四歳で死んでしまったのだ。誰も知ることはないとしても、三年早く死なせてしまった罪はどう償えば良いのだろう。

 己の罪を嘆く詩乃に、紅い瞳の天使はもう一つの贈り物を残していった。
 新しく生まれる娘が神の祝福の下にあれるように、夫の実家である教会に神聖な結界を施してくれたのだ。もしも娘が神の御心に沿わない存在であれば、この聖域を造った意志を以て、世にも不自然な娘が存在することの咎は自分が引き受ける、と。
「だから詩乃さんは、七歳――四歳で亡くなったあの子のために祈って下さい。詩乃さんにその心がある限り、この結界は詩乃さん達を守り続けます」

 娘は本当に無事生まれるだろうか。生まれても生きられるだろうか。自分はこんなに醜い罪人なのに赦されて良いのだろうか。
 そう思わない日はなかった。そして天使の言った通り、その心こそが教会を聖域として維持し続けている。夫に頼んで両親の牧師夫婦と教会に同居し、娘を教会で育てていると、驚くくらい娘は最初に生まれた時と同じような成長を見せた。本当に娘が再び生かされたのだ、と実感するばかりだった。


 だからこそ、一歳の誕生日のすぐ後、ある静謐な雨夜に、その「神」を名乗る少女が現れた時には、詩乃は心から震え上がった。
 ついに裁きの時が来てしまった。神秘の力を受け継ぐ詩乃の眼には、ヒト喰いカラスに視えた黒い髪と眼の少女。
 もう紅い瞳の天使は助けに来てくれない。夜更けに聖堂で娘を抱きながらがくがく震える詩乃の元に、カラスの少女は容赦なく近付いてきた。

 黒いセミロングの髪に黒いツーピース、黒一色の少女は詩乃をまっすぐに見る。憂いを帯びるだけの涼やかな声で尋ねた。
「……ここの結界を、維持している祭司はあなた?」
「……」
 祭壇を背に座り込む詩乃は、びくびく頷くことしかできない。
 カラスの少女は軽くまゆをひそめ、黒い眼に映る不秩序に対しての審問を始めた。
「どうして人間に、ここまで純度の高い聖域が造れるの? あなたは視た所、聖霊を受けて聖化されたほどの信仰者ではないでしょう」
「……それは……」
「あたしは橘鴉夜(あや)。人外生物専門の秩序の管理者。あなたが持つのは本来、畑違いの神秘……言霊による音義(おんぎ)の業は、多分讃美歌にも使えるものなんでしょうけど、ここまで強い結界を紡げる祭司には見えない」

 少女、鴉夜の言う通りだった。その尊き信仰の真の持ち主は、咎めを受けるかもしれないのに詩乃達を助け、結界まで残してくれた優しい紅い瞳の天使のことだ。
 だからこの「神」の使徒は、詩乃を罰しに来たのだろう。もしも詩乃が己の信仰――神に仕える聖域の源であることを示せなければ、人間の沙汰でないこの結界は不秩序として壊されてしまう。
 結界が壊されてしまえば、これから娘が生きていけるのかがわからない。娘の存在は神の御心に叶うものではない、と証明される事態に感じてしまう。

「そんな……どうか、お赦し下さい、御使い様……!」
 「神」の使徒らしき鴉夜が、人払いをしているのかもしれない。叫んでも誰も詩乃の窮状に気付くことはなく、聖堂に駆け付けてくる者はなかった。
 ある同い年の子供を持った女性……詩乃と同じように、家族を紅い瞳の天使に救われていた者が、夜遅くに助けを求める非常識な人間でなければ。

 鴉夜が顔をしかめて、一瞬で姿を消した。同時に聖堂の扉が開き、この街に来てから親しくしている女性が子供を背負って走り込んできた。
「ごめんね詩乃ちゃん、こんな遅く! ここにいるって旦那さんからきいて! 突然仕事呼ばれちゃって、悪いけどまた夕烏(ゆう)をみてもらっていい!?」
「あ……陽子……さん?」
 夫の一家で大事にされている詩乃とは違い、陽子はシングルマザーで苦労している。両親がくれた持ち家があるため生活はできるものの、こうしてよく詩乃に子守りを頼むことがあった。

 鴉夜がいなくなった状況を見て、詩乃はまたも、神に救われたような気がしてならなかった。
 陽子がこんな時間に来たのは偶然だろうか。いつもは保育所が終わってすぐに来ることが多い。一歳の夕烏も詩乃に懐き、娘と仲良くしてくれる。
 祭壇の前に座り込む詩乃に目を丸くした陽子は、夕烏をおんぶしながら両膝をつき、抱える娘ごしに詩乃を覗き込んできた。
「あれ、何か大丈夫、詩乃ちゃん……? 嫌なことでもあった?」
「…………」
「よくわからないけど、大丈夫だよ! うちの天使の夕烏がいたら、すぐに元気が出るよ! って、頼む立場で、こんなこと言っちゃダメよねぇ~」

 名前の通り太陽の笑顔を見せながら、陽子が娘を抱える詩乃に両手を回して、ぽんぽん、と背中を叩いてくれた。
 確かに陽子の言う通り、夕烏がいればおそらく大丈夫だと本能的に感じていた。鴉夜と夕烏、同じカラスの名を持つ者が来たから、鴉夜は引き下がったように思えてならなかった。
 言霊を司る家系の詩乃には、人が口にした言葉は漢字まで大体わかる。「神」の使徒というヒト喰いカラスは「鴉夜」――それを今後忘れることはない。


 最初は不意打ちだったため、何の対策も取ることができなかったが、次に鴉夜が訪れた時には冷静に出迎えることができた。この時間を稼げたことこそが神の御心、そう信じられた詩乃のことを、最早鴉夜は信仰がないとはみなさなかった。
「……それでは、一つだけ問うわ、音戯詩乃。この結界を支えるあなたの信仰に疑いはない――では、天の神がこの結界の撤去を命じれば、あなたは従うかしら?」
「――」
「そこで疑問を感じるのであれば、あなたの信仰はその程度のもの。こんなに強い結界の祭司たり得ない。さあ、答えてくれる?」

 今まで神は、紅い瞳の天使を通して詩乃と娘を守ってくれた。しかしこれからも、御心がそのままであるとは限らない。
 それは鴉夜に言われるまでもなく、詩乃が自らに何度も問うたことだった。

 今この一時、詩乃にとって神が都合良い存在だから信じるのか。結界を守るのが娘の祝福のためならば、それは詩乃個人の利得に過ぎない。
 確かに現時点では、結界を守ることが詩乃の信仰で、詩乃が神に仕える証だ。その信仰の形を、もっと純粋にせよとなったとしたら、ヒト喰いカラスはどんな答なら納得するだろうか……。

 あの日は月も見えない雨の夜だった。
 その夜、娘と夕烏の寝顔を見ながら考え続けた想いを、詩乃はゆっくりと鴉夜に答える。

 夕烏は、神様がくれた子供なのだ、と。クリスチャンでもなんでもない陽子は、よく詩乃に楽しそうに話してくれた。
 陽子にとっては、完全に父親に心当たりがなくできた子供らしい。妊娠したはずの頃は弟が早逝した後で、とても異性と付き合う気分ではなかったという。
「実際夕烏ってば、ほんとに天使なんだから! 妊娠した時はびっくりしたけど、まあそういうこともあるかー。って思ってねぇ~」
 もしもその話が本当であるなら、処女懐胎に近い神秘だろう。確かに夕烏には詩乃も人ならぬ「力」を感じ、あながち嘘ではないと思っている。陽子は全く普通の人間で、人外の血統を感じないからだ。

 娘と同い年の夕烏が四歳になった頃、詩乃は夫と娘からまた一度離されることになった。
 夫は単身赴任で社員寮は女人禁制、娘は詩乃の家系に伝わる「力」の早期教育。それは詩乃の本意ではないが、そうしないと後々娘が困るのもわかる。家出した詩乃の娘であっても、跡取り目的でもなく、義務教育が始まる前に仕込んでくれようとしているのは両親の愛だ。

 そうしたことを、理性ではわかっていても、間が悪く夫の単身赴任が重なり、詩乃の精神状態は昔に戻ったようにぐらつき始めた。娘への祝福――教会の結界を維持する信仰こそは変わらないが、突然夫と娘を失った過去が、何度もフラッシュバックするようになってしまった。
 一人で眠っている時に、特に酷い不安に襲われる。誰かに悩みを話したくても、己の愚かさの真髄を語ろうとすれば、人ならぬ「力」で犯した罪に触れることになる。それを普通の人間に話すことはできなかった。

 そうしたわけで、苦肉の策として、偶然出会った「悪魔を殺す悪魔」と詩乃は契約をすることになった。既にツバメという相方がいるときいたが、契約には支障がないらしい。
 悪魔と契約するなど、信仰者としては最大の(あやま)ちだろう。しかしその悪魔には、何故かかつての紅い瞳の天使の影が見え隠れし、さらには夕烏にそっくりな気配があるのだ。
 これは悪魔の罠なのか、それとも神の測り知れない配剤なのか。奇跡に思える出会いの中で、詩乃は悪魔の少年の手を取ってしまった。

 悪魔は一通り詩乃の事情を知ってから、いつものように放課後に集まった聖堂のオルガンの横で、平然と尋ねてきたものだった。
「それで、秩序の管理者とやらが二度目に来た時には、詩乃サンはどう答えたの?」
 何故かこの悪魔は詩乃から、言霊による聖なる力の使い方を教わっている。
 それは悪魔も、「神」の使徒対策だという。今後もし何かあれば匿ってくれ、と頼まれている。
「結界を断て。言ってみれば娘の命を差し出せって時に、詩乃サンはどう応えるのかな。詩乃サンが教えてくれた旧約聖書では、息子の命を神に差し出そうとしたお父さんもいたよね?」

 酷薄な問いを、平然と言い出す悪魔の少年。学生服によく合う黒髪と鋭い目鼻立ちが整い、変声期はないという声が中性的で、やはり何処か天使を思わせる相手だ。
 現在進行形で悪魔は、黒い翼を持つ「神」の使徒と睨み合っていて、その使徒はおそらく鴉夜の後継者だと言った。世の中は狭い、と詩乃は溜め息が出た。

 質問に質問で答えることになるが、詩乃はどうしても気になって返してしまった。
「貴方ならその場合、どうすると思う? 大事なものを差し出すように、信じる相手から言われた時は」
「オレの場合? 悪魔なんだから、断るに決まってるし」
「本当にそうかしら。それならどうして貴方は、大切な相手を沢山失っているの?」
 契約を交わした関係上、詩乃には悪魔の記憶がいくつか流れてきている。
 本当は青銀の髪を持つ青年である悪魔は、紅い瞳の天使を筆頭に、師と呼ぶ男や唯一の叔父にも先立たれている。常に身に着ける黒い手袋と銀の腕輪は師の形見らしい。しかしこの黒髪の少年「翼槞(よくる)」は、そうした記憶を遠ざける仮面の代理人だった。

「詩乃サンが言うのは、烙人(ラクト)兄ちゃんのこととかかな。そりゃ、双子の妹の魂を抱え続ければ早死にするってわかってたけど、本人が望んだことだからどーしよーもないし」
 悪魔は詩乃に、紅い瞳の天使のことを言いたくないのだ。だから普段より多弁に他のことを話す姿に、詩乃は胸が痛くなった。
 悪魔がこの教会に現れたのも、あの天使の結界を見つけたからだろう。そのことにどうしても触れられないほど、大切な存在だったはずだ。

 それだけ大切な相手を失っていても、悪魔は何も恨んでいないように見える。何かと過酷であるのがうっすら伝わってくる、己の運命でさえも。
 それどころか現在、悪魔を狙う「神」の使徒を助けたいような節すら窺える。鴉夜から呪われた黒い翼を受け継いだ使徒は、夕烏がいる場所にはやはりあまり近寄らないらしく、それはおそらく夕烏に月の類の神性があるからだと悪魔は言った。
「神性の有無は、詩乃サンが信じる神――天の(しゅ)とは違うものだけど、詩乃サンの実家の本尊は『神』だろうね。オレを狙う使徒の『神』も、本人は実際、八百万(やおよろず)の云々の方だしね」
「やっぱりそうよね……わたしは結局、(しゅ)より遣わされた聖霊も、実家の『神』も最早宿せない人間だと思う」

 「神」の使徒と「神の使徒」は、厳密には違う。どちらも(しゅ)たる神の被造物だが、主直属の御使いが真の「神の使徒」で、聖なる紅い瞳の天使がそうだろう。
 詩乃が会ったのは使徒である「神」、八百万の世の闇であり、信仰に依らず神性の縛りで(しゅ)に創られし「力」だ。だから詩乃は「神」を(しゅ)とは言わない。詩乃のような「力」ある信仰者は、(しゅ)と「神」の間の存在と言える。

「使徒たる『神』は、己の神性に絶対服従。神性を持つ奴らを狩る側で、誰もが敵だから自分も常に危ないからね。その意味では詩乃サンに喧嘩売った奴、大したもんだと思うよ。ホントに迷ってたのはどっちだって話」
「そうなのかしら……仕えるなら疑問を持ってはいけないと言われたのに」
「そんなの、自分が迷ってるからじゃん。だから中途半端そうな詩乃サンに、信仰の何たるかをききたかったんじゃない?」
 それならあの時、詩乃が鴉夜に答えたことはあれで良かったのだろうか。
 詩乃はいくら考えても、「(しゅ)が命じれば大事なものを差し出せるか」に答が出せなかった。それは例えば鴉夜の場合、「運命であれば大切な人との別離を受け入れられるか」、その切なる問いであったことを知る由はない。

「わたしは、試練の時に実際自分がどうするかはわからないし、それで招いた結果を裁くのは(しゅ)だと答えたの。主の御心は、わたし程度には測り知れなくて……もしもわたしが主を裏切ってしまい、それで裁かれるなら、わたしはゲヘナに落とされる覚悟を毎日してるようなものなの」

 詩乃は既に、果てしなく愚かな行動をとり、他者に取り返しのつかない害を与えてしまった罪人だ。毎日、(あがな)いをしたいと祈っていて、その祈りは決して揺らぐことがない。
 仕えたい心が芯でも、神の御心は詩乃にはわからないままだろう。思うのは、詩乃のような罪人を赦してくれるとすれば、神か悪魔だけだろうということ。
「わたしの信仰が変わらないなんて、いつ何時も、弱いわたしには保証できない。それでもわたしは、(しゅ)に赦されたい……何も見えないお方だけど、主があの雨の向こうにいらっしゃったと、御姿が隠されていても信じていたいの」

 あの日は隠れた月に守られた雨の夜だった。
 その夜、失わずに済んだ娘と夕烏を抱きしめた温もりを想いながら、詩乃は大切に悪魔に答えたのだった。


雨夜月 了

Lost Hexagram. -寂-

Lost Hexagram. -寂-

 
 「神」の使徒に狙われている。そう言った悪魔は、それから一カ月もしない激しい雨の夜に、胸に大きな怪我を負って教会に転がり込んできた。
 手当はこれ以上触るな、と言われ、詩乃はベッドを貸すくらいしかできない。それだけで十分、と笑う悪魔は、まるで死期を悟ったような儚さで不安が込み上げてきた。

「近い内にもしもオレが消えても、多分ひょっこり戻ってくるから、詩乃サンは気長に待っててくれる?」

 そもそも悪魔と契約した経緯を思って、自身の傷より詩乃の不安を気遣う悪魔。これを悪魔と呼ぶのであれば、詩乃など地獄の餓鬼より卑しいだろう。
 悪魔は詩乃の実感を証明するかのように、己の窮状をあっさり総括する。

「ま、これが神の御心なら、仕方ないってやつか」

 外では梅雨らしい長雨が続き、最後に見た月がもう思い出せない。
 ここで悪魔のことを助けてほしい、と神に祈るのは違う気がした。その一線を越えてはいけない、と悪魔も考えているかもしれない。だからこれ以上は、詩乃の助力を求めようとしない。
 詩乃にはせめて、悪魔が望む身の振り方を手伝うくらいしかできない。自分の我が侭だけで、引きとめることはできない。詩乃が神に逆らうことを望む相手ではない、それだけを肝に銘じる。

 ただ、雨の向こうにあるはずのいつかの月を想った。
 ヒト喰いカラスの翼も見えない黒い夜が、やがて聖なる教会に訪れる。


-please turn over-

†転:S.D.G.

†転:S.D.G.

 
 一緒に行こう、と。
 ある黒い翼の使徒が、ヒトを悪に貶める手口を、青銀の鳥の悪魔は知っていたはずだった。
 原始的な動物達が争う時も、理由は大体同じだ。生き物は常に、温かさを求めて生きているのだ。

 悪魔だって同じ手を使う。「悪」への誘いは何処にでもある。それが悪魔からであれ、悪の意を持つ「神」からであれ。
 ヒトによって、求めているものが違うのは確かだ。懐であれ関係であれ心身であれ、「寒い」ことをヒトは嫌う。
 わかっていながら、ヒトを宿す悪魔は隙を見せてしまった。造られた通り悪魔でいれば、そんな望みを持つこともなかったのに――
 全ての行き違いの源。奪われたその青銀の鳥は、自分が迷える「ヒト」だと知らなかったのだ。

「くそ、アイツ……心臓直に持ってくなんて、やっぱり、ヘンタイだった……」
 誰もいない、彼誰時(かわたれどき)よりも真っ暗な礼拝堂で。
 冷たい祭壇にもたれて座り込み、白い学生服の胸元が赤く破れた黒髪の悪魔が、ごぼりと小さな呼吸で咳込む。
「でも、それが、あいつのためなら……仕方なかった、の、かな……」

 喉元に少ない血が絡む。全身からどんどんと、零れ落ちていく体温。
 体の中心に隙穴の空いた姿は、まさに「錠」だ、と低い天井を見上げながら悪魔は自嘲した。何しろこれは、悪魔が「鍵」と呼ぶ相手につけられた傷であるのだから。

 半ば以上は死者である化け物、吸血鬼という類の悪魔は、元々心臓の力で生きてはいない。だからすぐに絶命はしないが、やがてくる夜明けの陽で灰に還ることを避けられない、紛れもない致命傷だった。
「それにしても、よくもまあ、バレてたもんだ……『汐音』の座が、オレ達みたく翼でなく、一人だけ心臓とはね……」
 呑気に感慨にふけってみるが、悪魔はもう、体を起こすこともできなかった。足下から広がる暗い影は、影の内にいる間は人払いができる悪魔の「力」だが、その範囲も少しずつ狭まってきている。

 悪魔の最期の場所がこの教会になるなら、それはそれで別に良かった。悪神という黒い翼に侵された「鍵」が言っていたように、ここは唯一、悪魔が探していたものの遺跡と言える場所だからだ。
 いつもは悪魔の左翼の核となる、透明の珠が血まみれになり、力無く転がる手の上に落ちている。これは過去に、悪魔がバカな天使にあげたプレゼントだ。今ではもういない天使の痕跡を探す内に、悪魔はここに辿り着いたと言ってよかった。
 たった一つ残された形見を、この場所に持ってこれただけで上々だろう。天使の結界が残される地で、このまま悪魔が滅びていくなら、もう肩の荷を下ろしても良いということなのだ。

 透明の珠に語りかけるように、悪魔は薄い微笑みと共に尋ねる。
「そもそも、とっくの昔に、殺された身だし……何が何でも生きてるフリは、もう、いいだろ……?」
 悪魔が悪魔として、この世に生まれ出た理由。遠い日に我が子の蘇生を望んだ人間の母はとっくに世界を去っている。
 それでもこれで良くはない、と悪魔はわかっている。悪魔には果たさなければいけない役目があり、この程度の些事で使命を止めるわけにはいかない。

――やるだけやってみるよ。できるだけ……がんばっていくよ。

 悪魔の滅びは、おそらく天使も望まないことで、他にも多少なりと困る仲間がいる。それなのに、そのことをわかっていながら、悪魔の中のヒト――「汐音」はヒト喰いカラスの手を取ってしまった。これまで悪魔を動かしてきた、全てのしがらみに背中を向けて。

 悪魔には死神の異名があり、悪魔がいた世界の天国の扉を守る仕事があった。それ故の「処刑人」の使徒だ。
 天国の「錠」であった悪魔は、せめて天国に還る力だけでも回復させなければいけない。天国を閉じたまま眠ることしかできないだろうが、ここで灰に還っている場合ではない。

 こうした事態を、全く想定していなかったわけではない。「鍵」の危うさを知っていた悪魔は、きちんと最悪の場合を考えて、切札を手元に残していた。

――ふーんだ。ツバメが反抗期になるなら、オレは猫羽(ねこは)ちゃんでも堕としに行くんだもんねー。

 透明の珠とは逆の手に、ずっと携えている小さなPHS。「鍵」が敵となった時は、「鍵」の妹から力を借りると決めていた。
 なのにどうしても、妹を呼び出すPHSを使う気が起きない。悪魔と共に歩ませていい相手ではない、と、失ったはずのヒトの心が悪魔を縛っている。
 この期に及んでためらうのなら、悪魔の甘さは死んでも治らないだろう。

「ま、どうせ……ここには誰も、入ってこれないし……」
 最早悪魔には、流れる命と同じように、「錠」である影を収める力もない。人払いの結界の内に侵入できるのは、「鍵」と認めたものか、悪魔本人しかいない。だから切札を呼んでも無駄だ、とあっさりと諦める。
「『汐音』がいなきゃ……動くの、面倒くさいし……」

 天使に別れを告げた時、同じように死地にいた悪魔は、「できるだけがんばる」と約束をした。そうして辛うじて戻った浮世の余生で、使命より何より、その約束を守りたかっただけだと、安らぎかけている悪魔は悟ってしまった。
 使命と約束以外、何もない悪魔自身には、生きることに拘る理由がない。
 最近はそれでも、十年ぶりくらいに楽しかった。退屈しのぎとなるヒトを自らの内に生み出したのは、他ならぬ悪魔自身の願いだった。

 おそらくまだ、生まれて間もなかったヒトの心。番人である悪魔が抱える、魔の力と聖の力の狭間で揺れる「汐音」は、いつまでも閉じ込めておくべきだったのだろう。
 「神」の使徒に連れていかれてしまった以上、健闘を祈るしかない。灰になりかけている悪魔にはもう守ることができない。

 この世界の外とは、悪魔の故郷とも違う世界の間隙で、「神」の軸と呼ばれている。
 「神」という幻想――概念こそが存在の礎となる高次世界では、ただの不完全な一人格に過ぎない「汐音」も、おそらく自らの形をとることができる。

――でもオレは……神様に、救ってはいらないんだ。

 「汐音」がどうしたかったのか、悪魔には本当のところ、わかっていない。
 けれど、還る場所がなくなれば哀しむだろう。既に死者として完結していた悪魔の中で、たった一つの可能性の光が、天使が残した羽から生まれた「汐音」だった。

「見よ、おとめが身ごもり……その名をインマヌエルと呼ぶ、か……」
 もたれる祭壇に刻まれた十字架から、悪魔の背中に確かな冷たさが伝わってくる。最近習った聖書の一節で、翼を持つ神子をそう呼ぶと聴いて、「汐音」にその名をつけかけてやめた。
 翼とは神が特別な使徒に与える「力」で、命の依り代ともなる。地上に落ちてしまった全てのヒトを、いつか遠い天上に帰すための温情の(しるし)。それこそが翼の意味なのだと、聖なる力を持つ悪魔は知っていた。

 いくつもの翼を抱えるこの背にも、生やすことはできなかった天使の羽。預かり続けていた羽を、いつか天使に還す日を悪魔は待っていたが、それを自身の心臓に遷し、「汐音」の基板とすることに決めたのは、他ならぬ「鍵」と悪魔が出会ったからだ。

 そうして「鍵」に「汐音」が奪われたのは、悪魔にとっては、当たり前だと笑う結果でしかない。
 「汐音」の存在は、「鍵」を「鍵」として求め、繋ぎ止めるための(くさび)。何も求められない無情な悪魔に、足りないものを補うように、都合良く造られた心なのだから。
「誰がおとめで……誰がインマヌエルだったのやら、ね……」

 ステンドグラスから少しずつ差し込んできた、悪魔を浄めんとする大自然の光。
 灼かれていく自らの影を感じながら、まだ消え残る悪魔の耳には、その運命の足音が小さく届いていた――

◆謝辞◆

◆謝辞◆

最後までご覧下さった方に感謝をこめて。
また、直観探偵シリーズからご愛顧下さった方があれば、本当にありがとうございました。

オマケ。

オマケ。

本作におけるS.D.G.は、SDGsの概念とは全然関係ありません。

インマヌエル -神-

ここまで読んで下さりありがとうございました。
ここから先は、直観探偵シリーズの『続・探偵に悪魔は反則です -神探シ-』に顛末があります。鴉夜や烙人などの一時キャラクターの話は『-青炎-』にあります。
また、上記とは違う未来を猫羽が選ぶ『インマヌエル -霊-』も、パブー→https://puboo.jp/users/sky-lux内で今後UP予定です。<書名は『聖霊火』>

上記のパブー内には他にも当作品の関連作があります。
6/26にはノベラボ→https://www.novelabo.com/books/6723/chaptersで、猫羽も大きく関わる正史『インマヌエル -悪-』を書下ろし予定です。
ここ星空文庫では、7/7に氷輪翼槞の出る橘診療所話、8月から猫羽達の過去Cry/シリーズを掲載検討中です。一作一作が長くて古いため、予定を変えるかもしれませんが、お気が向けば良ければ。
初稿:2018.6.5-2019.1.15 Atlas' -I-

インマヌエル -神-

†インマヌエルシリーズ・結† Even though I walk through the valley of the shadow of death.... 【 Lost Hexagram 】 ……一緒に、来る? 黒い翼の「悪神」は誘う。鳥籠に隠れる翼の悪魔へ、暗い扉の向こうで笑う。迎えはいつでもここに在ると。貴方が堕ちるその日を待つと。 image song:Red Moon by Kalafina

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-03

CC BY-ND
原著作者の表示・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-ND
  1. Lost Hexagram. -謡-
  2. †起:by faith alone.
  3. †承:by Scripture alone.
  4. †結:glory to God alone.
  5. 雨夜月 -by grace alone-
  6. Lost Hexagram. -寂-
  7. †転:S.D.G.
  8. ◆謝辞◆
  9. オマケ。