平家物語より「忠度の都落ち」

 祇園精舎の鐘の声。
 諸行無常の響きあり。
 いかに栄えし一族も、風一吹きで消えゆくと、異朝の過去も示すもの。大和の国も例には漏れず、平家の末路は皆知るところ。
 かの名の高き清盛も、怨みか祟りか、病に倒れ、灼熱地獄に落とされた。清盛亡き後、平家を継ぐは、平宗盛(むねもり)。これが愚鈍な弱虫で、総大将の器にあらず。
 これを逃さず、東の源氏、西の平家を攻めに攻め、荒くれ者の木曽義仲(きそのよしなか)、遂に都に入らんと。
 平家の一族、都を捨てて、西に落ちる他になし。或いは狼狽え、或いは嘆き、その哀れな様子は、語るに忍びず。美しき武者維盛(これもり)は、縋る妻子を宥めては、自身も涙を堪えつつ、連れゆくわけにもいかぬので、妻子を置きて京を出た。琵琶の名手の経正(つねまさ)は、行先分からぬ己が身に、愛しの名器青山を、供にさせるを良しとせず、仁和寺御室に返上した。
 平家一門、各々別れを済ませては、己が宅に火を放ち、花の都も焼け野原。
 混乱最中、食えぬ狸は、後白河院その人だ。一度は平家の傀儡(くぐつ)となるも、都の風向き変わると見れば、さっと姿をくらました。平家はこの院連れてはゆけず、幼き安徳天皇と三種の神器と、都を去った。
 寿永二年、七月のこと。

 さて、その少し前、時は二月。戦乱の世に、粋なことと言うべきか、呑気なことと言うべきか、かの後白河院、ある院宣(いんぜん)を下したと。「撰集を編纂せよ」とのことである。院使(上皇からの命を伝える使者)を務めしその者は、清盛が孫、平資盛(たいらのすけもり)。まだ平家にも、光があるのが伺える。
 命を受けたは、藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)ただ一人。息子の定家(ていか)の助けを得ながら、ただ一心に撰歌に励む。とは言え、夏には都がこの様で、それどころではなくなった。
 藤原俊成その人は、平家の者ではないとは言え、旧知の者など多くあり、哀れな姿に心を痛めた。
 都落ちから早数日。五条の俊成邸宅も、門戸を閉じて、木曽義仲の入京を、じっと静かに待つだけだった。

 その静かな邸宅内に、不意に轟く名乗りの声。
「忠度」
 門の外に現れたのは、平家も平家の者である。平忠度(たいらのただのり)その人は、富士川の戦い、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで、軍を率いた猛将で、平家一門彼らと共に、逃げ落ち去ったはずだった。
「ああ、落人(おちゅうど)が帰って来た」と邸の内では騒ぎが起きる。
 再び響く忠度の声。
「特別なことはございません。三位殿(さんみどの)(俊成のこと。俊成が正三位を与えられていたことによる)に申し上げるべきことがあり、帰り参った次第です。受け入れられざる身であることは、重々承知しております。この門、開くことができずとも、三位殿、門の際まで立ち寄りください」
 俊成、家人に告げて言う。
「あえて戻って来たのには、何か理由があるのだろう。忠度殿なら、差し支えない。門を開いて差し上げよ」
 俊成は忠度というその人を、よく知り深く心得ていた。それと言うのも忠度に歌を教えた者こそが、俊成卿であったのだ。薩摩守(さつまのかみ)こと忠度は、武人であれども、雅な人で、風流解するその心、俊成卿は、弟子といえども、尊く感じた。
 遂に門戸は開かれた。戸口にいたのは、侍五騎に、童一人、忠度自身のたった七騎。
 唇の隙間に見えるお歯黒に、平家の栄華が偲ばれる。武人であれども、粗野にはあらず。この世のなんと儚いことか。
 忠度が言う。
「長年あなたに教えを乞うてまいりましたが、それらの長い年月で、あなたのことをいい加減に思ったことなどたったの一度もございません。それでも、京都の騒ぎ、国々の乱れ、この二、三年に起こりましたそれらの全てが、我らが平家の身の上のことでございますゆえ、歌の道をどれほど一途に思えども、あなたの下へ参ってご教授願うこと、全く叶いませんでした。近々撰集ありという旨を先に伺ってから、この生涯の面目に、ご恩を賜り、一首なりとも我が歌を撰じていただきたいものと存じ願ってまいりましたが、それからすぐに世が乱れ、撰集の沙汰が絶えてしまい、ただ一身の嘆きであると辛く感じておりました。そうしてついに我が君(安徳天皇)は都をお出になりました。我が一門の運命は時を待たずに尽き果てます。平家が滅び、いずれこの世が静まりましたら、勅撰(ちょくせん)(天皇や上皇の命によって編纂される撰集)の沙汰がきっと再びございましょう。ここにあります巻物に、ふさわしい歌がもしありまして、一首だけでもご恩を賜ることができたなら、草葉の陰でも嬉しく思い、三位殿を遥か遠くで御守りすると誓いましょう」
 そう言い、鎧の引き合わせから、取り出し卿に託したものは、日頃詠みおく歌の中でも、秀歌と思った百余首を、書き集めおいた巻き物だった。
 平家の没落目に見えて、「今は、もはやこれまで」と、京を立ったその時は、巻物抱えて、一門と共に落ちれども、撰集のことが心残りで、僅かな従者を引き連れて、危うき都に帰り参った次第であった。
 俊成これを開き見る。
「このような忘れようにも忘れられない形見の品を賜りました斯くなる上は、ゆめゆめ粗末に扱いますまい。疑うまでもありません。危急の時に、よくぞ戻ってらっしゃいました。あなたの歌への思いの深さに、堪えられない涙もあると知りました」
 平忠度喜んだ。
「たった今、それを伺えましたゆえ、全て満足にございます。西海の、波の底に沈まば沈め。山野に屍を(さら)さば晒せ。浮世に思い残すはなし。しからば、お暇申しまして」
 馬にうち乗り甲の緒を締め、西に向かって歩ませ始めた。
 俊成は遠ざかっていく後ろ姿を、遥か先まで見送った。ふと気がつくと、高らかに響く声がある。忠度が、馬上で歌っているのだろう。
-前途ほど遠し、思ひを雁山(がんざん)の夕べの雲に馳す(行先はまだまだ遠い 思いを故郷の雁山の夕べの雲に馳せる)ー
 歌人なら誰もがよく知る別れの歌の一節である。
 俊成卿は、歌の続きを心でなぞる。
後会期(こうかいご)遥かなり。鴻臚(こうろ)の暁の涙に(えい)(うるお)す(再び会うのは遥か先のことだ 鴻臚館で催された餞別の宴 夜明けまで飲み明かし、冠の纓を濡らすほどに泣いてしまった)ー
 次に二人が会う場所は、きっとこの世でないだろう。西方を指して旅立つ後ろ姿に、名残惜しさを感じては、溢れる涙を堪えつつ、俊成卿は屋敷に戻った。

 幾年か経って世の中静まって、俊成遂に「千載集(せんざいしゅう)」を撰じる時がやって来た。忠度のまだありし日の姿を偲び、言葉を偲び、そうするうちに、歌の道に、ただ直向きな彼の心が思い出されて、この世の無常を儚んだ。
 忠度託した形見の内に、ふさわしき歌は沢山あれど、勅勘(ちょっかん)の人(天皇などから咎めを受ける身)には違いないので、忠度の名を記すはできず、「故郷の花」という題目で、詠まれた歌を一首のみ、撰じなさったということだ。

ーさざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな  詠み人知らずー

 穏やかに波打つ琵琶湖の湖畔にも、かつては都があったという。その名も高き天智天皇(正確には遷都時はまだ中大兄皇子)、飛鳥より、志賀の大津に都を移し、律令発して、ここから国を動かした。
 然れども、子の大友皇子のその治世時に、壬申(じんしん)の乱が巻き起こり、大津京もたった五年で役目を終えた。
 けれども旧都が荒もうと、長良山(ながらやま)に咲く山桜は、昔のままに咲き誇ることよ。
 変わらぬものもある中で、常ならざるのが人の世である。
 盛者必衰。
 この世は、ただ春の夜の夢のように。

平家物語より「忠度の都落ち」

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平家物語より「忠度の都落ち」

平家物語の「忠度の都落ち」を翻訳?してみました。五条にある藤原俊成宅を、既に都落ちしたはずの平忠度が訪れるお話です。 なお、逐語訳ではないので、その点ご理解ください。

  • 小説
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-05-03

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