地震・雷・火事・おやじ・では無いものについて。
何と言うか・・。
地震・雷・火事・おやじ・では無いものについて。
昨日は時間が無く別の事で終わったので、その続きから。
上記の様な言葉を聞いた事はあるでしょう。
この内おやじの権威は真っ逆さま・・かな?
火事も昔は多かったが、此処のところ近所で大きな火事も無ければ、消防車が何台も出動する光景も見られなくなった。
遡る事千年程度で、都・京都の災害と言えば、やはり、落雷と火事が多かったので、陰陽師も活躍をした。
雷も近頃見た事が無い。と、残るは地震だが此れも、関東大震災・神戸阪神大震災後、福島・茨城辺りでよく起きていて、その中で最も大きかったのがあの原発関連。
現在、ぴたり止まったような災害だが、物事何でも同じ様に・・と言うのは青い惑星は天然パーマの惑星なので、人類では手のつけようもない事になる。
尾上雄二が東海道線の準急「東海・・号」に乗ったのは夏休み明けの休みの日だった。まだ新幹線も東名高速も無かった時代。
四時間程かけて名古屋駅に着いた時には、いとことその家族が出迎えに来てくれていた。
いとこは大蔵省の官舎に住んでおり、栄の繁華街や東山動物園などに行ったりした。
蝉は手掴みで幾らでも取れたから、逆に興味は無かった。いとこは身長が186センチ程あり、近所の子供達ではとても逆らえる存在では無かった。
立ちすくんでいる相手の頬にびんたを食らわしたりすれば、済みませんの表情で・・雄二としては・・困ったな?
何日かしてから俄かにTVやラジオが騒々しくなってきた。此処からは面倒なのでコピーを貼り付け、雄二は最後に登場するだけ。
夏の風物と言えばこれも加わる。
伊勢湾台風(いせわんたいふう、昭和34年台風第15号、台風195915号、国際名:ヴェラ/Vera)は、1959年(昭和34年)9月26日(土曜日)に潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心にほぼ全国にわたって甚大な被害をもたらした台風である。
伊勢湾沿岸の愛知県と三重県での被害が特に甚大であったことからこの名称が付けられた。
死者・行方不明者の数は5,000人を超え、明治以降の日本における台風の災害史上最悪の惨事となった。
1959年(昭和34年)9月20日にエニウェトク島付近で中心気圧1,008mb(当時の単位「ミリバール」。hPaに同じ)の弱い熱帯低気圧(当時の用語)が発生、西に進み、21日にはサイパン島の東を北上しながら次第に発達し、21日21時には、マリアナ諸島の東海上で1,002mbの台風15号となり、再び西寄りに進路を変えて急激に発達した。
9月22日9時には996mbであったものが同日15時には970mb、翌23日9時には905mbとなり、22日9時からの僅か24時間で91mbも気圧が低下した。
15号の発達はさらに続き、23日15時にはアメリカ軍の気象観測飛行機により894mbが観測された。
すなわち、発生からわずか2日も経たないうちに、中心気圧が100mb以上も下がったことになる。
中心付近の最大風速は75m/s(アメリカ軍の観測では90m/s)、風速25m/s 以上の暴風雨圏(暴風域に同じ)は半径300kmであった。
台風15号はその後もほとんど勢力が衰えることなく、9月25日昼頃まで900mb前後の猛烈な勢力を保ち、進路を北西から次第に北に転じて26日9時には潮岬の南南西400kmに達したが、その時点でもなお中心気圧920mb、最大風速60m/s、暴風雨圏は東側400km、西側300kmという猛烈で超大型の台風であった。
台風は26日18時過ぎ、929 mbの勢力を持って潮岬の西15キロ付近に上陸した。 上陸時の勢力としては、本州へ上陸した台風の中では今でも史上最強の記録である。
26日朝までの進行速度は毎時30km以下であったが次第に加速して、上陸後は60 - 70kmで紀伊半島を縦断し、中央高地を経て27日0時過ぎに日本海に抜けた頃には90kmにも達している。
27日9時前後に秋田県沖に進んだ中心は次第に消滅し、青森県の日本海上に新たな中心が生じて東北東進する「ジャンプ現象」を起こした。
台風は同日21時に北海道の東で温帯低気圧に変わり、東太平洋にまで達して10月2日に消滅した。
伊勢湾岸の高潮による大災害から、9月30日、気象庁により伊勢湾台風と命名された。
年平均1.3個弱の台風が900mb以下に発達するが、いずれも海水温の高い北緯20度付近で、日本からは遠く離れた場所であり、日本付近に北上したときには950mb程度に衰弱している場合がほとんどである。
しかし伊勢湾台風の場合は、北上して北緯30度線を越えてもなお、920mbの猛烈な勢力のままであった。
伊勢湾台風は発生後2日足らずで猛烈な台風に成長し、最低気圧観測の3日後に上陸したときにも929.2mbという、日本本土では史上3番目に低い気圧を観測するほどの勢力を保ち、紀伊半島や中部地方の急峻な山岳地帯を通過しても衰弱の度合いが小さく、暴風や高潮の被害を大きくする原因となった。
記録的な風台風とされた1991年(平成3年)の台風第19号では、最大風速30m/s以上を観測した気象官署はわずか4か所に過ぎなかったが、伊勢湾台風では9か所もあり、40m/s以上も2か所あった(台風第19号ではなし)。
伊勢湾台風以前の記録的な猛台風であった1934年(昭和9年)9月21日の室戸台風と比較すると、上陸時の気圧は室戸台風が911.6mbでかなり低いが、最盛期における最も外側の閉じた等圧線の直径は室戸台風がおよそ2,000kmであるのに対し、伊勢湾台風はおよそ2,500kmに及び、暴風域も非常に広く、北日本と西日本の一部を除いて全国的に最大風速20m/s以上を記録した。
全国被害状況集計において、犠牲者5,098人(死者4,697人、行方不明者401人)、うち愛知県で3,351人(うち名古屋市1,909人)、三重県1,211人と、伊勢湾岸の2県に集中した。
負傷者は3万8,921人。全壊家屋3万6,135棟、半壊家屋11万3,052棟、流失家屋4,704棟、床上浸水15万7,858棟、船舶被害1万3,759隻。
被災者数は全国で約153万人に及んだ。うち、三重県は約32万人、愛知県は約79万人と、県全人口の約2割が被災した。
死者・行方不明者が多い台風(1951年以降)
伊勢湾台風(昭和34年台風第15号) 1959年 5,098
洞爺丸台風(昭和29年台風第15号) 1954年 1,761
狩野川台風(昭和33年台風第22号) 1958年 1,269
ルース台風(昭和26年台風第15号) 1951年 943
(以下略)
当時の状況 トイレは汲み取り式だから溢れた。
ラジオは真空管でトランジスタ(勿論最新式の半導体使用)は殆ど普及していない。
冷蔵庫?電気では無く、表通りを自転車にリアかーを繋げたおじさんが走って来、氷の塊を注文に応じて鋸で切り売ってくれたので、一番上のスペースに其れを入れただけ。近所の子供達は、その氷の切りくずで遊んでいた。
TVは雄二の家にはあったが、まだ近所の家には無く駄菓子屋の店先に幾つもの長椅子が置かれ、其処に多くの人達が座って一台のTVを見たような状況だった。
因みに白黒TV14インチの値段は当時で6万円・今に換算すると60万程になる。
そんな金・・どうしたって・・?
「日銀の様に・・幾らでも刷りゃあ・・いいじゃない?」
マスメディアの状況
台風襲来当時、日本で最初に開局した民放局であるCBCはテレビ放送を開始して3年未満、ラジオ放送を開始して10年に満たず、CBCと同じ中日新聞社系列の東海テレビは開局して1年も経っていなかった。
NHK名古屋放送局のテレビ放送もやっと5年を経過した状況であった。1959年(昭和34年)4月10日、皇太子と正田美智子の「世紀のご成婚」があったことで、テレビジョン放送の全国ネットワークがようやく作られ始めた。
当時主流のラジオは中波 (AM) 放送しか存在せず、NHK名古屋は現在同様3県をエリアとしていた。
民放はCBCラジオが名古屋に本社を置いて3県をエリアとしていたものの中継局は今と比べて少なく、それ以外には岐阜県域のラジオ東海と三重県域の近畿東海放送が存在する程度であった。
しかも、NHK・民放の両方とも常時24時間放送を行っておらず、報道取材態勢についても現在ほど充実したものではなかった。
伊勢湾台風の教訓から、乾電池を電源として使用可能な、当時最新の半導体技術を用いた小型の携帯トランジスタラジオの普及が進む要因となり、これによりラジオ放送が受信可能な状況が大幅に増え、いつでもどこでも迅速な情報入手が可能となったことで、台風や地震の際に活用されている。
1951年(昭和26年)9月1日 - 中部日本放送(CBCラジオ)が、日本初の民放局として開局。朝6時半に本放送開始(新日本放送(後の毎日放送。現:MBSメディアホールディングス)は同日正午にラジオ本放送開始)
1953年(昭和28年)12月1日 - ラジオ三重(後の近畿東海放送)開局
1954年(昭和29年)3月1日 - NHK名古屋放送局、総合テレビ本放送開始
1955年(昭和30年)
3月 - (旧)岐阜放送(後のラジオ東海)開局
8月 - 東京通信工業(現:ソニー)、日本初のトランジスタラジオ発売
1956年(昭和31年)12月1日 - CBCテレビ本放送開始
1958年(昭和33年)12月25日 - 近畿東海放送とラジオ東海の合弁により東海テレビ放送開局
1959年(昭和34年)
9月26日 - 東海ラジオ放送名古屋局の予備免許下りる。その夜、伊勢湾台風上陸
11月20日 - 近畿東海放送とラジオ東海が合併し、東海ラジオ放送設立
1960年(昭和35年)3月31日 - 旧近畿東海放送と旧ラジオ東海がこの日を最後に閉局し、翌日に東海ラジオ放送開局
1962年(昭和37年)12月24日 - 岐阜日日新聞(現:岐阜新聞)の子会社として、ラジオ岐阜(現:岐阜放送、ぎふチャン)開局
CBCテレビは、2019年の伊勢湾台風60周年を機に、放送局所蔵のフィルムのほか、視聴者から提供されたカラー写真などをリマスター、カラー加工し、カラー写真は提供した視聴者から名古屋市博物館に寄贈、またこれらの写真を含め、人工知能を使ったフィルムのカラーリマスターを、筑波大学人工知能科学センターの全面監修により行い、2019年の台風発生60周年記念日の9月26日の「チャント!」スペシャルとして2時間にわたり特集したほか、12月30日に再構成した内容を単独の特番として放送され、現在、CBCテレビ公式YouTubeに公開している。
台風については人類の歴史上こんな事が話された。
「・・え?台風の進路を変えるのに、原子爆弾を使用したら?」
「・・冗談じゃない。放射能の問題や・・一体何処に進路を変えるの?変えられた地域が被害に遭うよ・・其れに、台風のEnergyはそれどころでは無い」
てな具合で、人類には今のところ手の打ちようもない事になる。
雄二は戸建ての家に住んでいた時より・・低層の鉄筋コンクリートの最上階の方が・・何が起きても・・安心していられる・・と感じている・・。
そろそろ終わりにしよう、時間が無い。
Lastにこんな事も。
実は雄二の大学時代に下宿をした家は、芙蓉グループの日本冷蔵~今はニチレイかな?の会長の家だったが、周囲は高級住宅街で大会社の社長やら文部大臣の家もあり、ポリスボックスが設けられていた。
ところが、そんな後(のち)でも、その家のトイレは汲み取り式で・・雄二は驚いた。
もう一つ人類の面白い話を・・権力も金も地位も・・頭脳levelとは無関係。
雄二の学友で、一浪して入学し卒業後何年か働かず実家に戻っていたが、ようやく公認会計士の資格を取った・・後に結婚をした嫁さんの家は市でも指折りの大金持ちで・・おそらくは彼も大金持ち。。
高校時代は勉強はできなかったが、暗記物は得意のようで、世界史の教科書のページの内覚えた部分を、マジックで真黒く塗っていた。
そんな彼のアパートに行った際に・・学生にしては珍しく小型の冷蔵庫を買って貰ったよう・・家は個人会社の社長だった。
夏の暑い時だったが・・尋ねた際、彼が冷蔵庫のドアを開け頭を突っ込んでいる・・。
「・・ああ涼しい・・クーラーの変わりだよ・・」
其れを見て雄二は・・。
「お前のクーラーか?そりゃ面白い発想だな・・でも、悪いけれど、冷蔵庫の後ろ・・お前の部屋は・・恒星の様だよ・・」
「・・うん?・・」
明日は東芝の笑える・・お客様相談室その他電化製品等について?いや、時間があるかな・・。
お終い。
「牛のように図々しく進んで行くのが大事です。夏目漱石」
「あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである。最も賢い処世術は、社会的因習を軽蔑しながら、しかも社会的因習と矛盾せぬ生活をすることである。最も賢い生活は、一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである。芥川竜之介」
「読んだだけ、聞いただけがただ残っていくという意味の物知りがいる。これは知恵というものにはならない。志賀直哉」
「by europe123 野暮の骨頂」
https://youtu.be/4ksrHwExE84
地震・雷・火事・おやじ・では無いものについて。
そうとも・・。