イマジナリーチャイルド
不吉な黒衣がおしよせる。古めかしい群青が追いはらわれ地の果へとながれこむ。群れなすお仕着せの雲たちが月の素肌をまたたくまに背後に隠匿し、あるいは彼女の訴えをもさえぎる。
影と影とがまざりあう。影と風とがむつみあう。行き場のない渡り鳥の仔たちが最後の落日へとわれさきに身を投ずる。やがて彼らは引き下ろされた夜の暗幕の一部として、ふできな星座のかたすみに縫い付けられる。子守唄とも、すすり泣きともとれない声で、夜風は街なかを這いずり回る。
むきだしの冷気が路地をすべり、女の青い足首にまとわりついた。夜そのもののように黒く、長くなびくその髪が、かりそめの心電図とでもいった乱れた波形を宙にえがいている。流れ、ふりみだされるその束の一筋までもが、いまでは疲れきりだらんと垂れ下がった指などよりも、ゆたかに、したわしげに路地の先へふられ、暗闇の一角をかき抱こうとしているのが、私の目には見えた。
なぜそんなことになったのだろう、と私は思う。あの女の人は、つい三日前には、もっと和やかな昼の大通りを、幼い子供の手を引きながら歩いていたはずである。娘はまだ二歳にもならなかっただろう。言葉をおぼえたてらしく、丸みのあるあやふやな発音で、驚きと、興味のきざしを陽ざしの下にふりまいていた。まだやわらかい骨格と同様、形のさだまらない言葉の数々が、空気と、水と、光とから絶えずよせられる祝福への、ままならない、けれどせいいっぱいの応答に見えた。そして、それをだれより強く感じ取っていたのは、母親自身のはずだった。
彼女の目には、そんな娘の一挙手一投足のあやうさが、この世界のあやうさであり、脆さのように映っていただろう、と私は思う。薄氷の上を踏みあるくように、母子はたどたどしく通りをたどっていった。そこかしこに奈落へいたる亀裂があって、一歩間違えれば二人はそこを踏み割ってしまうかもしれない。なぜ、そうと知りながら歩いていけるのだろうか。
闇雲に? そうかもしれい。こんな場合に人の踏みだす一歩が、畏れでなくて、祈りでなくて、感謝でなくて、ほかの一体なんだというのだろう。
二人の周囲に、父親らしきすがたは見えなかった。働きに行っているのかもしれないし、ひょっとしたら最初からいなかったのかもしれない。それは母子が私の視界をさり、私自身もそこをはなれて、しばらくして日が陰りだしてから、ふと思い浮かんだ疑問だった。けれど私はこだわらなかった。あんな風に、手とともにそれ以上のものでつながりあった人びとのすき間に、それ以外の何かをもちだす必要は、さしてないように感じたから。
私は冷たい風の吹きすさぶ屋上から、もう一度地上に目をこらした。流氷の間にはしる亀裂のような路地のひとすじを、彼女は歩いていた。目につくものにはわけへだてなくすがりつこうとし、しかし傾きかかる手前で思いとどまり、落ち葉のように掃きよせられて、風におされるまま、角をまがって消えてしまった。
「ずいぶん熱心に見てるじゃん」
聞きなじみのある声が、私の視線を呼びもどす。ふりかえると、私とおなじ背格好の少女が、入り口の扉の前に立っている。おなじ性別、同い年。違っているのは、髪の長さ、眼鏡の有る無し、そして私が空手をコートのポケットにつっこんでいるのに対して、彼女はグローブをはめた手で、飲料の缶を二本もっていることだった。
「そんなに静かに閉めたつもりなかったけど、音、聞こえなかった? よっぽど夢中になってたわけだ」
私はうなずくでもなく彼女を見返した。短く切りそろえられた前髪が、うすく開いた目のうえで揺れている。その吐息は私と同様に白い。
彼女は私のもとへ来て、手に持っていた缶の片方をさしだした。それでもまだ三歩ぶんほどの距離が空いていたのだけれど。
「はい。こっちはあなたの。甘いの嫌いでしょ?」
私は、聞こえるかどうか怪しいほどかすかな声でお礼を言った。おそらく聞こえなかっただろう。でも、唇の動きで伝わったはずだと思う。いつもそうなのだから。言いながら、三歩すすんで缶コーヒーを受け取った。無糖と書かれた黒い缶だった。
「何見てたかあててあげよっか?」
彼女がまぢかでそう言った。目がさらに、どこか意地わるげにほそめられる。
「女の人でしょ。二十代くらいの。あたしらより一回りくらい年上の。あたし自販のそばですれ違ったよ。ひどかったな。暗くてよくは見えなかったけど、お化粧なんて目からもほっぺたからも剥げ落ちちゃって、まるで顔の輪郭とか表情とかといっしょにゴミ箱にでも捨ててきたみたいだった」
彼女はゆっくりとそこまで言うと、何でもないことのように付け足した。「で、女の子もそばにいなかった」
「知ってるの?」
「知ってるとも。だってこの間あたし、あなたのうしろからあの親子のことも見てたもん。あなたを偶然見掛けて声かけようとしたら、なんかそんな雰囲気じゃなかったから、ちょっと経ってから帰ったわけ。非常にご執心そうだったしね」
「茶化さないでほしい」
私ははっきりとそう言った。時折、こんなふうに大きな声が出る。
彼女は表向き平静そうにそれを聞き流してから、まるで用意した台本でも読むようなそらぞらしい口調で言った。
「これはあたしの憶測を交えての話です。でもたぶん本当のことだと思うけど」
それから、わざとらしく手の平のコーヒー缶を転がして、間をもたせる。「てか、いいの? 冷めちゃうよ。早く飲まないと」
「教えて。何か知ってるなら」
「やっぱりニュース見てないんだね」彼女は言って、ふてきにほほ笑んでみせた。
「あの女の子ね、おどろくなかれ、実の子供じゃなかったんだってさ。他の人の子供だったの。小っちゃい頃さらってきたんだって。病院のベビールームみたいなところにこっそり忍び込んで、それこそ保育士さんみたく天使のような笑顔を見せて、ちゃっかり連れてきちゃったんだ。ばかな看護師をだましてね」
「ありえないよ」おもわず口をはさむ。「実の母親でさえ、そんなこと許してもらえないはず」
「じゃ、なんか別の方法でさらってきたんでしょ。悪いけど、これってかなり私の想像もまじってるから。今朝のテレビじゃそんなに詳しく報道してなかったし。でもあの女の子があの人の手からはなされたのは本当。昔さらってきたっていうのも、たぶん、本当」
「それでどうして捕まっていないの?」
「逃げてんじゃないの。そこまでは知らないよ。多分、あのニュースのあとで逃げ出したんじゃないかな。あたしだって、ついさっきまではその誘拐犯があの人だなんて思ってなかったもん。そしたら、あんな風になったあの人を見掛けてさ、たちまち頭ん中に名推理が閃いたわけ。いい線いってない?」
彼女はおどけたしぐさで頭をゆらし、私の顔から目をそらした。持っていた缶のプルキャップをおこす。シュッと一瞬、いきおいよくガスがふきだし、彼女はそれを一口飲んだ。ちらと私をうかがう。
「こわっ。そんな目で見ないでよ。私の言ったこと、信じてないんだ」
「あのときの二人は、そんな風には見えなかった」
「かもね。私も見てたし」
「本当に、心から互いを信頼しきっているように見えた。だれにもつけいる隙がないくらいに寄り添いあって、気持ちも重なりあっているように見えた」
「幸福とは、かくあるべきものと知った……、そんな感じ?」
私はいつになく険悪な表情を浮かべていたのだと思う。彼女はその視線をふりはらおうとでもするように、空いている方の手を目の前でひらひらさせた。
「残念だけど、それってあなたにそう見えてたってだけだよ。あの女が相手を自分の子と思いこむくらいに気がふれちゃってたから、その妄想があんたにまで憑依しちゃったんじゃないの? ま、たしかに迫真の演技だよね。審査員、全員一致の女優賞。自分自身ですら騙しおおせてたくらいなんだから。でもそれって銀幕の中だけでのお話だよ」
そう言うと、彼女はもう一度コーヒーの缶に口をつけ、飲み込んでからフウと息をついた。よく見ると、手が肘のあたりからぷるぷると震えている。寒さのせいばかりではないようだった。
「あの女の子だよ。一番かわいそうなのは」彼女は思い切ったように口を開いた。「二年か、三年か知らないけどさ、見ず知らずの女に育てられて。そんで気が付いたら引きはなされてるんだよ? もしかしたら、これから一生の間、小っちゃい頃のこと思い出そうとするたびに、本当のお母さん以外のひとの顔がちらつくかもしれない。自分が、だれか知らない人の手に引かれていた瞬間が、ひょっとしたら人生で一番幸せだったと思うようになるかもしれない。どんな気分だろ。想像できる?」
私は答えなかった。たぶん、返事を必要としていないだろうと思ったから。
彼女はジャンパーの胸のあたりをせわしなく探りはじめていた。それは何かを手に取ろうとしてというより、無意識にそうしているのだと思った。声に、舌足らずな感じが増す。感情が激しているのだ。
「あの女だってさ、きっと、もっとうまく逃げられたはずだよ。なんでドジなんかふんじゃったんだろ……。そう思わない? そんなにあの子がかわいいならさ、あたしだったら、地の果まで逃げきって、最後まで本当の母親だと信じさせてやるのに。
でもさ、そんな目論見は全部パーだね。あの女はどうせ逮捕されて、裁判になって、お金を払えなきゃ檻に入れられて、そこを出てからも一生あの子供には会えないんだ。そのあと仮に自分の子が生まれたとしたって、きっとあの女の子の思い出がよみがえってきて、同じようには愛せない。憐れだね、本当に。ほんとだれもかれもみんな憐れ。あの女も、女の子も、それに同情してるどっかの誰かさんも、そのどっかの誰かさんに一部始終説明してあげてる私も。あー、いやんなる。ほんといやんなっちゃう」
私は彼女の目をまっすぐに見ようとした。それが濡れているように思ったからだ。でも本当にそうだったら、私だって冷静でいられなかっただろう。彼女は一瞬のあいだ目を合わせてから、さっと、かぶりをふるように俯いてしまった。私は無言で、正面から彼女の肩を抱いた。
「子供なんて、母親なんて、そんなものぜんぶ幻ならいいんだよ」彼女が言った。
「もういい。わかった。」
「ぜんぶ、あの女が見てたような幻」
「わかったってば」私は、彼女のあたたかい首筋のあたりにむけて言った。
私の顔は彼女には見えなかっただろうけど、もし見えてもいいように、努めて笑顔でいようとした。そうしなかったならば、彼女の感情に釣りこまれてしまっただろうからだ。彼女の顔は私からは見えなかったし、見ようと思わなかった。泣いているところを見られるのは、恥ずかしかっただろうから。
「寒いね」少したってから私は言った。
「うん」彼女ははっきりうなずいた。
「降りよっか」
それから私たちは手をつないだ。
空いているのが私の右手だけだったので、私はそれでノブをまわし扉を開いた。彼女は片手を私とつなぎ、もう片手には飲み終えたばかりの缶にぎっていたからだ。ともに内側にまわり、ズボンから取り出したカギで施錠した。それから、階下への段を一段づつ、ゆっくり歩調を合わせて下っていく。明かりとりの窓はあっても、全体に暗いので、いきおい慎重な足運びになる。
「どうせ冷めちゃったでしょ」彼女がぽつりと漏らした。
「え?」
「コーヒー。せっかく買ってきてあげたのに」
「ごめんね」私は言った。「でも、大丈夫だよ」
「どして?」
「だってあなたの手、あったかいし」
「んなわけないじゃん。グローブしてんだよ?」彼女はそう言って視線を浮かす。「じゃ、外す」
「いいよ。あったかいのは本当だし」
「あ、そう」そう言うと彼女は私の肩に頭を乗せた。
そのとき、どこかからパトカーのサイレンが聞こえた。不穏な響きがいっとき、このビルの建つ一角に近づき、まもなく通り過ぎていった。遠ざかるにつれ、不協和音とよべるほどに音が下がる。
そこは踊り場だったので、私はふと格子窓の方を見上げた。そこからちょうど月が見えるのだ。雲は去り、月はあらわになっていたが、今ではそれはむしろ裸身を恥じてでもいるようだった。
「ほんと言うとさ、」と彼女の耳の近くで言った。
「ん」
「あんな子供がいたらいいなって思ったんだ」
「だれとの間に?」
「ばか、」
イマジナリーチャイルド