霞ゆく夢の続きを(3)
【前回までのあらすじ】
赤井かさの君は、新人賞に応募した小説がすべて一次で落ちていた。そこで起死回生をねらって駅でお手製の本を配布するものの、受け取ってくれる人が予想以上に少なく落胆する。
折しもそこに現れたのが、箱村と花菱という奇妙な二人組。彼らは生活に困っていた赤井君に不可解なバイトを提供する。さて懐の暖かくなった赤井君、さっそく風俗通いし始めるが、ヤクザ絡みのもめ事に巻き込まれ九死に一生を得る羽目に。
一方、ルーズな仕事環境に居心地よさを感じる赤井君に対して、どういうわけか箱村、花菱の二人組は彼に小説の応募を思いとどまらせようと図る。とはいえ、花菱の話など奇想天外すぎて、どうやら赤井君にはまったく響いてこないようだ。二人の執拗な説得はこれからもさらに続く模様である。
(20)
「お前は作家にだけは絶対なれない。どうしてだか知りたいか。知りたいだろう」
‥‥‥確かに知りたい。ずっとそのことが気がかりだった。けどそんな簡単に言いきれる理由など果たしてあるものなんだろうか。答えを聞きたいという逸る気持ちと、そんな答えなどあるものかという疑いがないまぜになっている。
「ええ、そりゃあ、まあ」
赤井君は半信半疑のまま箱村の問いに応じた。ここにきて何故か、はりつめた緊張感と胸のざわつきがある。
「たとえば新幹線とか飛行機とかでお前と有名作家がたまたま隣同士になったとする。これは偶然の場合もあるが、俺の想像では作為的な場合も多分にある。作家になれる人というのは処世術に長けている。これは千載一遇のチャンスだと思って、その作家さんに『私の話を聞いてください』と必死で自分の才能をアピールできる。ある意味、作家の器とはそういう図太さのことを言うんだよ。たいていケンもホロロだろうが‥‥‥‥てか、故意にすげなくする場合が大半だろうが、少なくともその作家に自分という存在を印象づけることができる。物書きなんて水もの商売、そうでなく装っていても、結局ツテをたどって近づいていくんだ。ツテがなければ自らつくる。ネットなんかにもそんな話がチラホラ出てるな。もちろんネット情報なんて当てにならないし、俺がそれを新聞や雑誌の記者みたいに裏どりしたわけじゃないけど、火のない所に煙は立たぬとも言うだろう。お前、見てると、指の先にほんの小っちゃな棘が刺さっているだけで、それが気になって何も手につかなくなっちゃうタイプだな。そんな小心者が偶然隣合した作家らしき人に売り込みなんかできるか? 第一したくないだろう。有名人を横にでもしようものならガチガチに固まってるだけだな。無理もねえ、お前にとっちゃ、有名作家なんて地球外生命体と一緒だからな。とつぜん宇宙飛行船の窓にヌッと顔が現れたら、そりゃ魂消るわな。いいかげん感じとったらどうだ。目が出ないのは、あたりきしゃりき車引きだ。卵を割らないでオムレツは作れないんだぜ。俺が投稿してたころは大事なのは繋がりだったよ。だから入り込む余地なんてない。繋がりがなければ、こっちから繋がろうと努めなきゃ論外だ。ダボハゼでなきゃ駄目だ。そういう世界だったよ。日本はまだまだ村社会だ。チャンスの大半は人との関わりの中に生ずる。特に小説の世界なんかではな。もちろん俺にぜんぶの事実が分かるわけじゃない。でもそういう世界であって欲しいから、そう見えたんじゃないぞ。それが現実だったら、何のコネもない俺にとっちゃ、むしろ不都合な現実じゃないか。それでもそう強く感じ取ったんだ。なんの情報操作も受けてない。今となっては事実は藪の中だけどな。お前なんか向こう様がわざわざやって来てくれたんだろ。﨑田から聞いたぜ。お前、作家が目の前にやって来た時、幻覚を見たってビビりあがってたそうじゃないか。それじゃあ、全くお話しにもならない。俺だったら遠路はるばるお疲れ様でした、と揉み手して迎え入れるだろうによ。指先の棘ぐらいでナーバスになって一行も書けなくなる気弱なお前に、プロの作家が務まるもんか。」
‥‥‥なんだ箱村さん、それ、薄目で世界を見て真実を射抜いた気になってるだけじゃないのか。ファンタジーか。そんな曖昧でとらえどころのない話をされてもなあ。よほどの耳寄りな情報があるのだろうと勇み立ったが、期待はずれもいいとこだ。もっと具体的な理由が知りたかったんだが‥‥‥。それにしても、あのキナ臭い﨑田がまたまた登場とは。
「﨑田の野郎、何でそれを知ってるんだ。やっぱりアイツは絵師が送り込んだ使者だったか。べらべらと喋りやがって」と気色ばめば、すかさず箱村がかぶせてくる。
「トホホ、まだ学んでいなかったのか。アホだな。﨑田がどうしたって? 過去にこだわるということは、終わってしまったことにエネルギーを浪費するということだぞ。そんなことは全て神や仏にまかせて、現在のためにそのエネルギーを使いな。嫌なことが起こっても、起こった瞬間にそれは過去のものになるだろう。過去はもはや現在にそれ以上の影響を与えることはできないじゃんか。そんな過去にこだわるのか? 確かにどんな体験も無意味ではない。お前に考える材料を与えてくれるからな。だけどもう﨑田の話は置いとけよ、もう二度とお前と会うことはないんだから。なるほど過去をふりかえり教訓を得るのは賢明なことだ。しかし過去に生きるのは賢明なことじゃない。現在の自分を否定しかねないことだからな。未来だって同じだ。未来を予測し準備することは賢明だ。しかし未来に生きることは賢明でない。それも現在を否定することになるからだ。﨑田って過去だろう。お前は過去に生きている。過去はもう存在していない。お前の記憶に残っているだけのことだ。自分の頭の中だけにあるものなら、それをいかように作り変えようが何の問題もないだろう。もともと人の記憶なんてものは曖昧で間違いだらけだ。いくら捻じ曲げたってどうってことねぇ。﨑田なんて消しちまえ。アイツなんて、いくら捜しても見つからないボールペンのキャップだ。キャップなんかなくても、とりあえず字を書くのに困らないだろう。明け方、床のなかで見た悪夢の登場人物の一人でしかないんだ。お前が頭のなかでつくりだした架空の産物だ。そう思え。それでも『﨑田は夢じゃない、実在の人物だ』と言い張るのか。そうだとしても今となっては、奴はお前に触れることも話しかけることもできない。はるか彼方、最果ての地にいるのと同じだ。そんなの存在してるとも、してないとも言えないだろう。いいか、﨑田はもうこの世にはいない。そう思い込め。でないと﨑田と一緒にあの頃の辛い記憶もよみがえって来るぞ。思い出したくないのに、どうしても蘇ってくるあのしつこい記憶がな。お前もあの頃、辛い思いをいろいろしたよな。瓦礫の下に埋まってるよな息苦しい過去の記憶だ。だけどお前の記憶を俺がもらってやるわけにはいかんだろう。だからそれがフラッシュバックしたときは、作り変えろ。何度も繰り返せば、過去の事実がどうだったにせよ、それがお前の真実になる」
「そんなパズルのように都合よく、記憶のピースを嵌め変えることなんてできるんですか? それに箱村さんに何で僕の過去の苦しみが分かるんですかぁ」
「分かるんだよ、手に取るように。いいか、よく聴け。トラウマというのは、過去の辛い出来事が、現在にほとんど当てはまらないのに、当てはまると無意識に錯覚してしまうことで生ずるんだ」
「それは理解できますけど、だいたい僕が辛い思いをした“あの頃”っていつの頃のことなんですか?」
「若い頃だよ、感受性が繊細すぎて一番人生に絶望しやすい時期だ」
「今がその若い時期じゃないですか」
「分かってないなあ。分かってない奴にこれ以上言っても混乱するだけなのか。そもそもだな、大作家がやってきたなどとビビリあがれば、犬はそれを感じ取り、ますます吠えまくって追いかけてくる。面白いからな。そんなことも分かんない、それがあの時のお前なんだよ」
「あの人たち、犬にされちゃうんですか?」
「そうだよ」
「え?」
「お前だって花菱から散々ぱら動物にされてるだろうが。馬とか頓馬とか馬鹿とか‥‥‥」🐎ウマウマウマ‥‥🏇パカパカパカ‥‥‥バ〜カ!
やはり彼の言うことはあまりにも生産性のないファンタジーだ。赤井君は角度をかえることにした。
「あの、そんなややこしい事より、話をもとに戻しましょうよ。別に箱村さんのいう作家になるための繋がりが悪いって言ってるわけじゃないですよ。日本全国津津浦々、とくに個人商店なんかは繋がりで商売してるとこ、多そうですから。日本はコネ社会です。小説家なんていうヤクザな稼業は尚更そうでしょう。出版社だって、大手でも上場してるところが少ない‥‥‥いわばマンモス個人商店みたいなわけだし。個人商店ってことは、知り合いや身内で固めたがるってことじゃないんですか? 縄張り意識も強いだろうし。どうしたって身びいきしますよ。身びいきで商売してると言ってもいい。違ってるかなあ。ま、それはそれとして作家や出版社の繋がりって何ですか? 互いに見栄をはりあったり、パリピなテンションで酒場で飲んだくれてバカ騒ぎ、そのあげくゲロを吐き合うことだとでも‥‥‥」
「知んない。そういうのも含めてってことかな」
「知らない? なんか、話を聞いてると曖昧過ぎて色と欲、陰謀の匂いまでしてくる」
「いや、そういうイメージじゃないんだな、ちょっとした交遊録的な感じ。昔と今は違ってるかもしんねえが‥‥‥なんかそんな感じがするってことだ。第六感ってやつだ」
「なぁんだ、頭ん中で想像してただけですか。そう直感したってことだけなんだ」
がっかりして、赤井君が気の抜けた炭酸飲料水になっていると、
「悪い? 俺、それ、さっき言ってなかった?」と箱村は平然としている。
「いえ、ぜんぜん悪くないです。何をどう想像しようが、人それぞれ自由ですから。でも‥‥‥‥でも箱村さん、『百聞は一見にしかず』を英語で何て言うか知ってます?」
「馬鹿にしてんのか。Seeing is believing.だろう」
「そう、何事も見るまでは信用できない。一番確かなのは目で見たこと、次に確かなのは聞いたこと、そして一番アテにならないのは、そう、思ったことでしょう」
「おうおう、言うじゃないか。俺は自分が思ったことを一番信じるぞ。第六感を甘く見るなよ。第六感ってのは、人の無意識下でスーパーコンピュータ富岳なみの超高速分析処理をほどこした出力結果のことだからな。人の目なんていくらでも騙せるよ。俺に言わせりゃ、何事も見ただけでは信用できない、だ」
「どうして?」
「どうしてって、人は必ずしも実際に起きている現実を見ているとは限らないじゃんか。自分の脳が知覚したことを、現実だと思い込んでるだけのことだろう。実際の現実と脳のなかの現実が大きく異なることだってあるからな。自分の目で見たと言ったって、ただ手品を見せられてただけってこともあるかもしれないじゃないか」
「なるほど言われてみるとそうかぁ。珍しく説得力、バカありじゃないですか。詰まるところ、信じるか信じないかってことなのかぁ」
「珍しく、ってぇのはねえだろう、珍しくってぇのは。そうだよ、信じるか信じないかだけ、それしかない」
「信じるか信じないか二者択一。それが一番大切で、真実かどうかはその次の話だと‥‥‥」
その瞬間、不思議なことに赤井君には次に箱村が何を語り出すかが分かったのである。あたかもそれを過去にすでに経験したことがあるかのように。あたかも過去に書いた物語の筋書きを今、辿っているかのように。
「信じるか信じないかだけだ。お前のところに有名作家がやって来たって話、誰も信じないだろう。お前の部屋のドアの前で黙って立ってたり、行きつけの食堂で焼肉定食を食ってたりさぁ。普通そんなこと話したら、『UFOに乗って宇宙人が俺にわざわざ会いに来た』と吹聴する変人と同列に扱われる。『未知との遭遇』なんて映画の中だけの話で、誰も信用しないからな。『そんな偉い作家がなんでアンタなんかのところに興味本位でやって来るんだ、作り話見え見え』ってなる。けど俺は信じるぞ」
赤井君は唖然とする。赤井君には、小説を出版社の新人賞に応募し始めた頃、かなり有名な小説家たちが当時住んでいた学生アパートやって来た経験がある。彼らは話すこともなく亡霊のようにこちらを見つめたまま黙っているだけ(詳しくは拙作『女と』)。これは嘘いつわりない真実なのだが、誰一人信じてくれる人などいないと思っていたところ、なんと箱村は信じると言い出した。﨑田から聞いたなどとトンチンカンを言っているが、微に入り細に入り箱村がそこまで知っていると言うこと自体おどろきである。そのうえ信じてくれるとは。
「なにエンストしてるんだ、黙りこくって。ガス欠か」
そう揶揄う箱村。
「なんでそんなことまで、知ってるんですか」
「当り前じゃないか。お前の一作目の『女と』に書いてある。あれをお情けで読んでくれた人はみんな知ってるよ」
‥‥‥‥そうだったのかぁ。そっちだったのか。でも『女と』がここで出てくるなんて。時系列がデタラメじゃないか。話が奇奇怪怪すぎるな。これを論理的どう解釈すればいいんだろうか。
と、必死で自問自答しようとする赤井君ではあったが、この矛盾の説明はつかない。
「ちょっと現実と非現実がぐちゃぐちゃになってるみたいな話ですね。ああ、混乱してきた」
「今の段階でお前には分からないよ、ずーっと歳くってからじゃないとな。お前のことはグルっとマルっと全部お見通しだぁ! おそれいったか」
「あ、TVドラマ『トリック』の決め台詞! それ、もろパクリじゃないですか。幼い頃に仲間由紀恵のこと、綺麗なお姉さんだなと思って憧れて観てたんですよ〜ぉ」
「あれだけ視聴率とってんだから、みんなの共有物だ。けち臭いこと言うな」
「まぁいいや。ほんで箱村さん、ほんとに信じてくれるんですか?」
「盗聴器はどこだ。家じゅう探し回ってもどこにもない。そんなもん最初からなかったんだ‥‥‥‥」
“なんだ、被害妄想だって言うのか。やっぱり信じてくれないんじゃないか”と赤井君ががっかりすれば、
「‥‥‥って早とちりするほど俺がノータリンだと思うのか。俺を信じて夢茶を飲んでくれた奴を、逆に俺が信じなかったら、それこそ神様が黙っちゃいないだろう。信じてなきゃ黙ってるよ。どうして、あえて面と向かって信じてるって言ったと思うんだ」
「嘘を言う人、その嘘を信じる人。でも一番の曲者は嘘を信じたフリをする人ですよね。嘘をついている人には信じているふりをしろ。そうすればもっと厚かましく嘘をつき、いずれ馬脚を露す。箱村さんはこれ狙ってるんでしょう」
「お前もひねくれてるな。中国のパンダ外交じゃないんだぞ。裏なんてない。もっと素直になれよ。いじけてるのが見え見えだぞ。信じたフリなんてややこしい事するか。ストレートに信じてるんだよ。安心しな」
「信じてくれる人も、いるところにはいるのか。何かうれしいな」
「人って、何で嘘を信じて騙されちゃうと思う?」
「さあ、なんででしょう」
「嘘にところどころ真実を混ぜてるからだよ。だからホントは真っ赤な嘘なのに信じちゃう。詐欺のイロハだ。彼らが実しやかに嘘をつけるのは、そういう話術を駆使するからだよ」
「なるほどォ、納得」
「それに引き換え、作家がやって来たというお前の話は大嘘まる出しだろう。最初から最後までまるっきり嘘バレバレだ。誰がそんな間抜けな嘘をつくかねえ。だから逆に信じるんだよ。“二度と嘘はつきません”───その言葉、嘘と相場が決まっているよな。ペテン師は情に訴えて煙に巻く。自分を正直だとかたる正直者は、たいてい嘘つきだ。けどお前の場合はその反対で、詐欺師が僕は詐欺師ですと言っているようなもんだろ。嘘ついてる訳ねえじゃねぇか。真実味があるんだよ」
「そう言われてみればそうですね、筋が通ったお話しで」
「だろ? 偽高木ブーと違って説得力あるだろう。で、どうしてやって来たと思ってるんだ。目的は何だ」
「なんで彼らがやって来たのか結局わかんないんですよ。『女と』を読んでくれたんですよね」
「ああ」
「なら分かると思うんですけど、ある女の人と一緒に考えたんですけどね。結論を導き出すにはデータが少なすぎるんですよね」
「ある女? 俺の読んだ『女と』にはそんな女なんか出てこなかったけどな。オイお前、後から編集で物語を付け足したんじゃないだろうな。ホントにいたのか、そんな女。あ、そうかそうか、まだ遇ってねぇ。これから遇うんだった、その女と。で、お前は現時点では小倉の勝山公園のベンチで寝ながら夢を見ている。その夢なんだよな、俺ら」
「はぁ???」
赤井君は一瞬、言葉をつまらせる。
「事実関係は多少前後するかもしんねぇ。なにぶん大昔の話だからな。おい、何でそんなに困惑した顔してる」
「だからぁ、話が矛盾だらけで」
「馬鹿かァ、事実は小説よりも奇なりだ。裏の裏は表だろう。細かい糸をぜんぶ編みあわせていけば全部が整合するんだよ。こんな簡単な方程式が解けないなんて、おめえ、理系脳じゃねぇな。ちっせぇこと言うな、もともと大雑把な性格のくせして」
「どうして箱村さんはそんなに自信たっぷりなんですか。何が何だかサッパリ分かりません」
「情けねえこと、言ってんなあ。作家が来たってのはお前自身のことだぞ。そんなことの理由も想像できなくて前に進めんのか。何とかひねり出せよ。面白くねぇじゃねぇか。その前に小便だ。小腹もすいたしな。小便して下のコンビニでなんか買ってくらぁ。お前、オニギリでいいな。何個食う?」
「一個」
「なに? 一個? 冗談だろ。そんなことだから今にも逝きそうな、ガリガリの生ける屍なんだ。見るからにそうだぞ。俺みたいに二十個ぐらいは食えよ。しっかり食わねぇと、体だけじゃなく気持ちまで細っていくぞ。おい、お前の分もいっぱい買ってくるからな。食えば、まだ身長が少しぐらいは伸びるかも知んねえぞ、アハそんなことねえか。とりあえず湯、沸かして、お茶を淹れといてくれ。それにあのデブ爺さんにも電話してやんねえとな。あんな奴でも心配になってきた。いいか、俺が戻ってくるまでに何か考えとけ。説得力あるとこ見せてみろよ。なるほどォ‥‥‥ってうならせてみな。侃々諤々やろうぜ。ギャフンと返り討ちだ。鬼の居ぬ間に洗濯といこう。差しでたっぷり楽しもうぜ。面白くなってきたな、よお」
🍙オニギリコロコロ
‥‥‥‥やれやれ、アンタの長話にずっと付き合うのか。拷問部屋だな。
赤井君はそう思って溜息をつく。
「一つ気になることがあるんですが」
「なんだ」
「“小説、書くのやめろ、やめろ”って、どうしてそんなに親身になって僕のことを考えてくれるんですか?」
「そんなの当り前だろ? お互い誰からも優れていると評価されない、はみ出し者どうしじゃねぇか。俺の若い頃と全く同じ境遇だから、ほっておけないんだよ。自分とそっくりな奴のためなら、憎まれっ子になって泥をかぶってやれるってもんだ。お前、信号機が赤になってるのに渡ろうとしてんだろ。しかもそのことに気づいてない」
部屋の扉を閉めて出ていく箱村。広い肩幅。小説を書いては裏切られ続け、妬みと不信感に小説を恨み、そして終いには何の酔狂か、小説で足を踏み外さないよう若者を必死で説得しようとしている‥‥‥そんな変わった男の大きな背中がそこにあった。いずれにしても悪意は微塵もない。よほど普段からお喋りに飢えているのか、小躍りしそうなほど嬉しげに、今その背中が揺れている。
「アンタはまっすぐ過ぎるんだよ。そのうえ優しすぎるんだ。優しいという字は優れているとも読む。優れている人というのは優しい人のことだ。頭がいいとか、金持ちだとか、美男美女だとか、ましてや賞をとった人のことじゃない。本当はアンタみたいな人のことを優れた人と呼ぶんだ。少なくとも僕だけはアンタを優れていると評価するよ。まあ、アンタの憂さや屈辱を晴らしてやれるのなら、退屈な話にも付き合ってやるか。結局僕のことを思ってくれてるんだ。有り難いじゃないか。けど何を言われたって、こっちはやりたいようにやるだけだけどな」
そんな言葉を部屋を出ていった大きな背中に、そっと投げかけてみる。
箱村がいなくなり、自分一人だけになったこの部屋は意外なほど広く、寒々とすら感じさせる。あらためて眺めてみると殺風景な部屋だ。とはいえ何となく心が落ち着き、居心地のいい空間でもある。誰もいないのでソファーに寝転がってみた。花菱も箱村もこんなふうに、だらしなく天井と向かいあっていたのか。こうして横臥して体の力をぬけば、やたら気が大きくなって、天井をつきぬけ広々とした青空を仰ぎ見ている心持ちである。草原にでも寝転がっているかのようだ。ついでに魂までが自分から離れて、このビルの屋上をさまよっている。
天井には油汚れなのか煙草のヤニ汚れなのか、何やらきたない染みが際立つ。しばらくそれらを目にしていたら、染みがだんだん人の顔に見えてきて、その輪郭を辿るうち次第に眠気が差してきた。睡魔とともに、背中に当たるソファーがやがて水枕のようにブヨブヨになり、闇の底に溶け落ちていく感覚に支配される。
昔から「腹の皮が張れば目の皮がゆるむ」という。人は飽食の生活を続けていると怠け者になる。もうオニギリを腹いっぱい食べた気になって瞼が重くなる、だらけにだらけきった赤井君。やっぱり君はナマケモノに似ている。
(21)
波の音が聞こえてくる。気づくと銀紙をかぶせたような砂浜にいた。広大な海の青い顔。静かだ。砂浜には僕一人しかいない。寄せては返す波。その波音はどこか大観衆の拍手に似ている。波際の湿った砂に裸足が埋まる。
いつかこの浜辺に来たことがある。あの時は独りぼっちではなかった。誰かといっしょにいた。そう、隣に女がいた。僕は女といたんだ。女と。
女が問う。
「ねえ、海がどうやってできたか、知ってる?」
答えに窮すると、女はこう語った。
「むかしむかし、ある男が歩いていると、そこは森だったの。そしてね、その男はそこで、木に果実のようにぶら下がっている青い頭を見つけたのよ。男はぼんやりと、不思議そうにその頭を眺めてるのね、そう、眺めてるの。すると頭が次第にブクブク膨れ上がってきて、やがてその男を飲み込んじゃって、それでもどんどん大きく広がっていって海になったの。そうなの、正真正銘ホントの海よ。青い、青い本当の海」
女の肌を海の青さが洗う。女の髪のゆらぎが潮風を運ぶ。
「どうして俺なんか住まわせてくれたの?」
「かわいそうだからよ。あたしの眼の中にアンタの命の蝋燭が今にも消えそうに映ってたの。ちょっと気障かしら」
気障すぎるよ‥‥‥そう言いかけた途端、生暖かい風が脇をすり抜けたと思うと、ふいに女の唇が僕の唇に重なった。長い髪が筆となって頬を撫ぜた。まるで南国のヤシの葉が風になびき、耳元で囁いたかのように。
そのとき僕はこの女と結婚したいと思っていた。ずいぶんと時が流れてしまったかに思う。大海原。海の青と空の青とが溶け合う。あらためて周りを見渡しても、夕凪の静寂の中には僕一人しかいなかった。女はどこへ行ってしまったんだ。そう思うと悲しくて涙がひとすじ頬をつたった。
耳の穴に流れ込むセンチメンタルな涙滴のブルー。海はゆっくり輪を描きながら濃密さを増していく。心が花びらとなって、その中心に吸い込まれていく。それは死という一点に向かって濃縮されていく人々の運命と同じ。
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部屋は暗くなりかけていた。花菱はまだ眠ったままだ。窓から流れ込む照り輝く黄金の蜜。花菱はその黄昏時の光の粒子の海に、風船のように浮かんでいる。
これも過去に見たことのある光景だ。花菱? 今日は出勤していないはずだが‥‥‥‥デジャヴ? 違うな。そうか、これは夢だ。夢の中で過去を再現しているんだな。夢だと自覚できるということは、明晰夢か。しばらく見たことがなかったが、久しぶりに見た。
「オッ、おいでなすったか。よう、よう、今日はイカした服をきてるじゃないか。垢ぬけてるぞ。スタイリストにでもなる気かな?」
振り向くと眠っていたはずの花菱が起きている。いつの間に。破顔一笑、えびす顔だ。イルカの目が笑いジワに埋もれる。確かこれも見たことがある光景だ。しかしちょっと時間が前後している気がするが。どうなってるんだろう。額にピリッと不安の電流がながれる。
「化粧して、ミニスカートはいて来るんじゃないかとハラハラしてたぜ。おみ足のお毛々はちゃんと剃ったか」
このセリフも記憶にある。二度目だな。変だ。何かが僕を、人形のように幕の裏から操っているような気がする。この光景は果たして見せられているのか見ているのか。
「箱村はあそこだよ、あそこにいるよ。なんかコチョコチョやっとるようだな」
花菱の左腕が僕の顎のあたりまで伸び、箱村のいる方向を指している。
箱村さんはここにはいないはずだぞ。何を言っている。下のコンビニにおにぎりを買いにいってるはずだ。それにアンタが心配だから電話すると‥‥‥あれ? なんでアンタがここにいる。そっか、これは夢だったんだ。
それにしても夢なら、アンタの指につままれたタバコの煙が目にしみるのはどうしてか。そして暖炉で燃える人形の、ブロンドの髪のようなこの匂い。死んで地獄に落ちた後も、霊は霊なりに肉体的痛みを感ずるとはこういうことなのか。
僕はその煙と匂いに鏡台を前にした女の後ろ姿を浮かべている。そういえば、あの女もタバコを吸っていた。誰? 狐面の‥‥‥あの風俗店の太った女?
うわ、よしてくれ! たくさんだ! もう嫌だ。アンタとは二度と会いたくない。救けてくれ!
思わず叫んでいる。女が振り向いた。違っていた。ほっとする。見たことがあるが、思い出せない。誰? 可愛くて綺麗な顔のこの女。女の髪をたぐり寄せるように記憶をたどるが、誰だったか一向思い出せない。
セーラー服姿。ん? いつの間にセーラー服に着替えたんだ。セーラー服でもこの娘は女子高生ではないことが僕には分かる。カナ‥‥‥何かそんなような名前の‥‥‥記憶が覚束ないのはなぜだ‥‥‥思い出せない、カナって誰だったかな。
長くて尖った赤いマニュキュアの爪。目の奥にギラつくナイフの光。真っ赤な爪がナイフに映っている。彼女、こんな爪だったかな。どうもおかしい。
「ねえ、ニイチャン、しない? お安くしとくわよ」
彼女はこんな口のきき方はしないはずだ。コイツ、まさかいろいろな女の人格が混ざり合っているんじゃないだろうな。
濃い化粧水の匂い。唇にこってり塗った口紅の味。暗い地のそこから生え出たような白い脚。海岸線につらなる体の曲線。
「あんちゃん、なにバカみたいに、そこに突っ立ってんのよ。するのしないの?」
あんちゃん? やっぱりあの女狐ババアか!
急にそこに男二人の会話が挿入される。
「愛を金で買うということは‥‥‥‥」
「仕方ねえだろ、ビジネスなんだからよ。本は売れなきゃ、ただの紙屑だろう」
お前ら、どこから来たんだ、急に入り込んできやがって。いったい誰なんだ!
一方の男は構わず語り続けている。直立しているその姿は、墓場に根を張った大木そのものだ。
「華美だが、それでいて実に空虚な人間という廃墟の城。あるのはただ見下ろす度に崩れ落ちていく、過去という名の螺旋階段。そしてただ死体安置所に至るだけの、未来という名の闇の通路。そう、この狭い部屋のどこかに二つの世界を結ぶ通路がある。現実と幻、真実と虚構。私はその通路をとおってここにやって来た」
男は懐中電灯らしき眩い光をこちらに照射してきた。明と暗が混淆し、明々とした揺れる虚空が覆いかぶさってくる。投げられた光のボール。その刺激で瞳孔が閉じていくのを感じた。目がくらみ、はっきりと相手の顔が分からない。しばらく沈黙が流れ、周囲の空気を凍らせる。目が光に慣れ、視界が幾分はっきりしてきた。といっても男の顔はまだおぼろげで、その後方はただ闇の広がるばかりである。
「お前は誰だ、誰なんだ!」
繰り返し問う。
「私だ」
「その私が誰かと聞いているんだ」
「私というのは僕だよ」
「えっ?」
「君は既に私になりつつあり、私は君になりつつある。すなわち僕だ」
「なに訳の分からないことを言っている、お前は誰なんだ!」
「誰でもあり誰でもない、すべてだ。あまねく無尽に存在する」
「どういう意味なんだ」
「同じ波長をもつ者どうしのほうが互いに交信しやすい。つながるためには相手の心に自分の魂を入れてしまうこと。すでに私は君の中に入った。たった今、入った」
怖い。とても怖い。心臓が花瓶のように床に落ちて、砕け散る。
「すでに二人はサムシング・グレイトの中にある。私は君でもあるのだよ。君は私の分身だ。もうすぐ私のところにやって来る」
男の投じた言葉の重みが、僕の頭骨にピンとはられた無数の神経の弦の上に落ち、鈍い音をたてた。男の笑いが闇に響く。壺のなかに押し込められたような、くぐもった笑い声。意識が小瓶の中に浮かべられ、少しずつ溶解していく。
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そこで一気に場面が変わる。箱村がドアの横のスイッチを押し、蛍光灯に明かりがともる。この場面も記憶にある。光の波が瞬時に辺りに満ちて眩い。眩くて奥行きの感覚が失せて、部屋全体がコンクリート製の砂漠にでも変質したかのように思える。砂漠なのに二人の影がない。
「まあ、座りなよ」
箱村はそう促すと、なにやら語りはじめた。だがその後、口をパクパクさせるだけで、音声がまったく消えている。
僕は‥‥‥というよりは“僕の魂は”というべきか。宙に浮かび、いま箱村の頭上にいる。箱村は、魂の抜け殻となった僕相手に、大きな身ぶり手ぶりで熱弁をふるっているようだ。
いきなり、また意識が飛んだ。
あの廊下だ。毎日のように通る、この階の廊下。不気味な機械音がやみ、エレベーターの扉が開く。外の空気が流れ込み、足先から頭までさすり上げる。定規で線を引くように遠近法の消失点に向かってずっと奥まで続いている、あの廊下。果てしない奥行きを感じさせるあの廊下。ここにも箱村が喋りながら僕と並んで歩いているのが、宙から見下ろせる。
あの時‥‥‥‥あの時はもう日が沈みかけていて、目が痛いほど眩しかった。ワックス塗りの廊下の紫色の照り返し。はじめて箱村と会い、箱村夫婦の子供が流れたという告白を聞いたあの場所。
頭痛がする。言葉が‥‥‥‥言葉が湧き出てくる。何のつながりもない言葉が自在に動き出す。差し込む日射しが斜めに傾き、フロアーに細長い陰影を紫色に刻んでいる。夕陽の色が様々な言葉と情景を呼び起こす。
一面に床にはりついた紫水晶。ひしめくアメーバ群の背中の色。剥がれた紫色マニュキュアの爪。それらがアルコール溶液に浮かんでいる。そこに淡い光が当たり、その剥片が砕ける。襟のフリルに滲んだ経血の匂いとその色彩。
頭痛がする。言葉が息つく間もなく溢れ出す‥‥‥言葉があてどもなく想像の荒野をさまよう‥‥‥言葉が波となって押し寄せてくる‥‥‥‥頭の中でグルグル回るガラス切り。紫の回転軸。幼女の唇から噴き出されるプラスチック製の肉腫。紫の血の海をボートで渡ろうとしている、夢の中の黒い影が。
首をひねり殺された直後のニワトリの充血した目。今にも嘔吐しそうな紫色の舌。魔女の赤マニュキュアの爪が首筋に食い込み、食い込んださきから血が噴き出す。
プレパラートにのせた銀紙の深海魚が、夜の底に潜んでいる。回転扉に重なる陽炎の影。帽子の中で道に迷う小人たち。死神は命の間隙にセメントを流しこむ。魂がしぼんでミイラ化する。
何物かの鼓動が僕の肋骨に共振する。空が裂け、悪魔の吐しゃ物が乳白の精子さながら、顔にむかって落ちてくる。太陽がのぼり、そして沈む時はいつでも、善と悪の芽がこの地球の数え切れない人々の心に生え出つづけるだろう。祈祷書の行間ににじむ血液と、涙と、そして‥‥‥。
夜の腹を噛み破る牙がほしい。蒼穹に金色の網を張る人々。海面がぱっくりと割れ、そこから鮮血がほとばしり出る。闇に掘られた白い穴。棘をもつ軟体動物の密集するイメージの池。そのなかに溺れていく古典的人々の姿。
海だ。観念の波が僕におし寄せ、死人の首がそこに漂う。深い沼の色をした目の男が、線路に裸になって横たわり、近づきつつある列車の振動を胸に感じる。額縁のなかに駆け込んでいく人影。
悪魔が女の唇を奪うと、ルージュの色が青みがかり、血液の温かさを生命とともに吸い取った。口奥でとろける血のルビー。棺桶のフタにこびりついた血を細い舌が舐め溶かしていく。
犬の死骸が地中に埋まっている。手の平の上の土饅頭が、乳房の輪郭をたどる。女の裸体にアルコールを流す。夢は首の折れた鳥のように意識を失った。黒メガネをかけたように周囲が暗くなる。水平線に沈む夕陽のように、心臓がゆっくりフロアーに落ちて、ひしゃげた。
僕は紫色の頭巾を頭から被り、段ボール箱のなかで死ぬ。段ボール箱のなかには永遠があった。手の平には一点の痛みがある。真夏の正午、僕はロンドンの霧に浮かぶ二つの赤い眼を見る。脳ミソが宙に浮かんだ。蛙の腹に垂れ落ちる雫。それが海に沸き立つ一つの球体となる。空は鉄格子の奥の暗さに満ちている
閉鎖された工場のブラインドの隙間に、真珠色のビーズが流れ込む。溶けかけた目が浮かぶ葡萄酒の飛沫。振り向いた女学生の色独楽のスカート。その動きが脚に映す影の色。マシュマロにたらされたスポイトのなかの水溶液。斑模様の蛇の卵、そこから孵化する夢魔の色。
チューブからとび出た紫色の練り歯磨き。腐食した指はそんな形をしている。膝の上にそぎ落とされた指の踊り。燐光を発する指がポトリと落ちて、ミルク色の波紋をコーヒーカップのなかに広げる。
見てみろ。そ~ら、その切り取られた五本の指が、血に飢えた鍵盤の上を炎のように華やかに踊っているじゃないか。そう指だよ‥‥‥‥そうら何かを思い出さないか。ほらアレだよ。泡立つ黄褐色の海に浮いていた、あのタバコの吸い殻を思い出さないか。あの便器の中の‥‥‥‥。
「ああ、それは御気の毒に。あんまり考えないほうがいいですよ。まあ、考えるなといっても、イメージは勝手にポコポコと浮かんできますけどね。意志で止めようとしても、できるもんじゃない。僕だってその話を聞いて、指の映像が勝手に流れ出てくる」
(22)
肩を揺すられて赤井君は目覚めた。
‥‥‥‥それにしても恐ろしい悪夢だった。本当にただの夢だったのだろうか。夢にしては、あまりにも鮮烈にすぎるのだが。
「いつまで寝てんだ。花菱が乗りうつったのか。冗談じゃねえぞ、寝てばっかいて。産着をきてる赤ちゃんみてぇにスヤスヤとオネンネか」
‥‥‥‥さいわい白昼夢はすぐ忘れる。前世の出来事と同じ。
「おい、ちゃんと分かってるのか? 顔面蒼白で死に化粧してるみてぇだぞ。死期が近づいた病人か。お~い、ダイエットし過ぎてガリガリになった高木ブーかぁ!」
箱村が大声を張り上げている。頭がまだ真っ白だ。薄目を開けると、眼の中にバターを溶かし込んだまま眠ってしまったかのように目ヤニがこびりついているのが分かった。そんなに長くは眠っていないはずだ。おかしい。関節という関節に血が凝集して固まってしまったかのように、手足の動きが鈍い。
「おい、俺の声、ちゃんと聞こえてるよな?」
目をこすりながら起き上がる。人心地がついたようなので、
「ぷぁ~、玉音放送だと思って、真剣に聞いてますよ」と無理して軽いジャブを打ってみたところ、
「お、起きたか、やっと起きたか。びっくりしたなぁ、もう。そんな低レベルのギャグかませるぐらいなら大丈夫だ。お前、寝すぎもよくないぞ、過ぎたるは猶及ばざるが如しって言ってな」
「あ、すみません。お茶、淹れてない」
「それはいい。淹れるのは俺の方がうまいからな。なんせ夢茶が作れるぐらいだかんな」
「え、夢茶をまた作ったんですか」
「あんなマズいもん、淹れるかよ。やっぱしお茶はまともなのに限る。いつもマズいのを仕事で飲んでるから、たまに飲むとおいしさが引き立つねぇ。お前も飲め。そいから早いとこ、オニギリも食え」
「もう食べてます」
「あ、もう食ってたの。抜け目のない奴だ」
「それにしても、こんなにたくさんのオニギリ‥‥‥コンビニの棚、全部さらえてきたんですか」🍙オニギリ アリスギ‥‥‥
「だいじょうぶだよ、あそこは客が多いんだ。在庫は裏に取ってある。迷惑はかけねぇ。俺も歳くったよ、たった十個しか食べられへん。残りはお前、持って帰れ」
「いいんですか?」
「もちろん、いいよ。なんでなん? 野暮ったいこと言うな。人の好意はサラッと受け入れろ。明日になったら固くなって、もう食えないからな。でもその前に今、食いたいだけ食え。だいたいお前、痩せすぎだぞ。ガダルカナル島の餓死寸前の日本兵かよ。おっと、しまった。デザート買ってくるの忘れた。デザートがいるよな。デザートを忘れるなんてなぁ、情けねぇ」
‥‥‥やれやれ、まだ食う気かよ。いいかげん腹の皮がつっぱっていそうだが。大食い選手権にでも出れるんじゃないのか?
「箱村さんは、今まで一度も会ったことのない、映画やテレビでも見たことがない全く知らない人が夢に出てきたことがありますか?」
「ない。いま見てたお前の夢にそいつが出てきたのか」
「ええ」
「だけどそういうことはあるんじゃないのか? 全ての人の潜在意識は繋がってると言うからな。なあ、ユングが集合的無意識とやらを唱えてるだろう。きっとそいつは潜在意識の広大な海を渡って、お前の夢のなかに潜り込んだんだよ。そいつだって、たまたま迷子になってお前の中に入り込んだだけだ。自分で意図して他人の中に入り込める奴なんていねえよ」
「いたとしたら? 現実なのか非現実なのか曖昧な、意識や記憶の隙間にスッとすべり込んでくるような人が」
「だから、いねえって。何でそんなにこだわるんだ」
「いや、ただの夢のように思えなかったんで」
「タダでなけりゃ、いくら?」
「え、ここでボケるの?」
「デヘヘへ‥‥‥」
箱村は“すべっちゃったか”と照れ笑いである。 (´∪`〃)ゞ ポリポリ
「デヘヘヘ‥‥‥‥でも気をつけな。心は愛しているものと同様に、恐れているものも引き寄せるからな。怖がらないこった。怖いものを怖がるなったって無理かもしんないけどよ。そいつは二つの世界を行き来する。向こうに行ったり、こっちへ来たり‥‥‥‥その二つの世界って、お前の意識とそいつの意識ってことか? それとも前世と来世ってことか? 分かんねぇけどよ、そいつが好きな時にお前の世界にスルリと図々しく入り込んでくるってか? おジャマ虫野郎が。何しにやって来るんだ。お前の影でも踏みに来るのか。そんなの、もろサイエンスフィクションじゃんか、アホらし」
「で、花菱社長なんて言ってましたか?」
「“今日はヤル気せん、そこで好きにしとけ”だとよ。何でえ、アイツ。まあ金さえくれればどうでもいいんだけどよ。なんせ俺はA型だからよ、きちんとしてなきゃ何か気になるんだ。ああ、“赤井君に金わたすのを忘れんな”とも言ってた。アイツにしちゃ優しいとこ、あんじゃねぇのか。払うのが当然だけど、気持ちが嬉しいだろ?」
「そうですね」
「それはそうと、お前の結論は?」
「結論って?」
「なんだ、忘れてんのか。作家たちが何でお前のところにやって来たかって話だよ。寝ぼけてんのか」
「寝てましたから」
「なんだよ、そのボケは。どっ白けだぞ」
「ほらほら、またそういうふうに言う。自分のボケがいつもすべってるのは棚にあげて‥‥‥‥」
「なに? 今なんか言った?」
「すっとぼけて。でも座布団はもらえないですよね」
「www座布団なしだ、床に座れ。で、やって来た目的は何だ。動物園に珍獣でも見に来たのか。わざわざ餌でもやりに来たのか。違うな、なんにもくれなかったろう。ただの冷やかしのためだけに交通費つかって遠路はるばるやってきたのか。それってアホのすることじゃないのかぁ? しょうもない」
「しょうもない?‥‥‥ですか」
「そりゃ、しょうもな、だろう。がめつい大阪人からみれば」
「アアそうかぁ、それでかぁ。箱村さんのノリは関西生まれだったからか。どうりで」
「違うよ、関西人じゃねえよ、俺」
「あら、たまさか例の幻の関西人がでた。花菱社長と同じチグハグ節。どうなってんの、この実りなき会話‥‥‥‥」
「はん? 今なに言った? 小声で聞こえなかったぞ。今はグローバル時代だ。大阪や福岡や東京や札幌もあるもんか。ネット回線のテレビ電話で田舎の方言なんかすぐ聞ける。もう“ふるさとは遠きにありて思うもの”じゃないんだよ。“田舎? ふるさと? 近くにあり過ぎてここと区別つかないじゃん”ってな、そういう時代になってんだろ、今は。日本全国どこで生まれ育った人間もみんな一緒だ。そうじゃないのか、あん?」
‥‥‥‥ちゃんと聞こえてるじゃないか。また訳の分からない屁理屈をこね回しだした。
「はん? 今なんか言ったんか、ボソボソと。お前、つぶやきシローにいつなった」
「いえいえ、ただの独り言です、僕の悪い癖」
「そのセリフよく使うなぁ。杉下右京か!」
「え、誰ですって?」
「『相棒』も見てないのか。お前ってホントなにも知らないな。それはともかく何でやって来たかだ。何でやって来たんだ、お医者さんが往診でもしに来たのか」
「まず言い出しっぺの箱村さんの見立てを訊きたいな。どうして彼らはやって来るのだと思います?」
「とりあえず何かしたたかな企みがあるに違ぇねぇ。意味なくやって来るわけないからな。常識的に考えればこうだろう。お前のところに大物作家が一人ならず複数やって来た。黙ってるだけなので来た理由は不明。そんな尋常でないこと、普通では起こり得ない。その一方でお前の作品は全部一次で落とされて歯牙にもかけられない。この二つの事実を突き合わして憶測すれば、そりゃ心理的にグラグラ揺さぶりをかけてお前を支配するためだろう。動揺させる目的は何か。支配するため以外に考えにくいよ。何のためにお前を支配したがるのかは分かんねえけどな」
「それが分かれば迷ったり悩んだりすることもないんですけどね」
「少なくとも本当の狙いは別のところにあることだけは言えるな。ごくごく平凡な女の娘が、ある人から容貌やスタイルをべた褒めされた。そんなこと普通では起こり得ない。どうしてそんなことが起こったか」
「そうかぁ、褒めちぎった人は化粧品店とか衣料品店とかの店主だったんだ。商品を買わせるためかぁ」
「そうだと思うぜ。本当の狙いを隠して近づき、混乱させる───海千山千の連中ならやりそうなことだ。黙っているところからして少なくとも取引しに来たわけでないことは分かるな。取引でなければ、からかいに来たのか? そんなことあり得ないだろう。やっぱ他に何かあるな。一次で落とす一方で作家がやって来る。そういう生かさず殺さずの峰打ち斬りをするところを見ると、お前に何らかの利用価値があると踏んだのかもしれない。“あわよくばコイツ、操り人形にして使えるかもしれない、廃棄するのはずっと後でもいい”ってな感じかな。作家連中にわざわざ赴いてもらって、お前にチラ見させたのも、自分は特別な存在だとお前に信じ込ませる効果をねらってのことだったかもしれない。どうしてかと言えば、自分が特別な存在だと思わせれば、それだけ操りやすくなるからだ。ある種のマインドコントロールだな。では、お前をどう利用しようというのか。ゴーストライター要員か? 考えにくいが、あり得ないこともないな。なぜならお前はいくらでも替えが利くが、有名作家は替えが利かないからだ。お前なんか搾れるだけ搾りつくして、もう何も出なくなったら使い捨てればいいが、有名作家はそういうわけにはいかない。消耗せずに長くもってもらわなきゃ出版業界としても困る。代われるところは雑魚にやらせて、それを丸ごといただきゃいいだけのことだ。有名作家は大輪の花。お前は雑草だろう。雑草はウザいと思われて、いつか抜かれる運命だ。悪くすると大輪の花の養分まで奪いかねないからな」
「物書きにも階級があるんですね。奴隷は搾取され、貴族は搾取する。現代版カースト制度だ」
「けど、いくら何でもゴーストの可能性はかなり低いよ。ゼロとは言い切れないが、違うだろうな。花菱と似たような感じで、なにやら訳の分からないことでも目論んでるのかね。まぁ何はともあれ、百歩譲ってお前に利用価値があるとしてだな、強いてこじつければ、思わせぶりでつなぎ止めておこうという腹だな。他に行っちゃわないようにだ。飼い殺しってやつさ。その誘導にまんまと乗れば、後々ダメージを受けるのはお前だけ。過ぎ去った月日はもう取り返せないぞ。そのうちお前は用済みの付箋となる。もう不要だから外されてゴミ箱へポイ。向こうにとっちゃ、ポイ捨てだけでまったく後腐れなく片がつく。なぜなら結局お前が手足としてさほど使い道が無かったことが分かり、いよいよ廃棄処分する段になっても、ただ知らぬ存ぜず、頬かむりを決め込めばいいだけのことだからだ。“アンタが勝手にそうだと思い込み、勝手に期待して待ってただけだろう。アンタとウチとの接点って何かある? なんで責任をこっちに転嫁するのか、頭おかしいんじゃないの?”───そう言われて反論する気になるか。反論できないよな。世間様が客観的にこれを見ても、お前は出版社にとって全く無関係の、顔も名前もない死人同然の存在でしかないからだ。さて結論。では自分の思い込みのせいで飼い殺しにならないために、ここでお前のすべきことは何か。荒れそうな海にはもう舟をだすな。“三十六計逃げるに如かず”だ。お前があらぬ事にとらわれているだけだ。本当はどこにも鍵はかかっていない。さあ、心の牢屋敷からぬけ出せ。早くシャバに出ちまおうぜ」
「ま、そう急かさずに。二次までいけないってことは、僕の作品にまったく才能が感じられないって判断されたんでしょうね」
「才能の有る無しは人それぞれ見方が違うが、読んで面白くなかったというのはあったんだろうよ」
「その面白くない作品を書く作者を見に、わざわざ作家やその他の人がやってきた。逆に考えれば、僕がどういう人間だったらそうまでする動機が生まれるものだろうか」
「そりゃ、お前が金持ちの子供で、出版社に大口の出資をしてくれそうだからとか‥‥‥」
「その反対に超貧乏人の家庭の子供で、現にいま金に困ってるとか」
「え、なんで?」
「そんな金に困ってる奴なら、金のためなら何でもするでしょう。裏返せば何でもやらせられる。ふつうの人ならとても耐えがたく嫌なことであっても」
「お、そこそこ、そこだ。グッドポイント! お前、超貧乏学生だろう。たしかに人間、切羽詰まれば何だってする。金のためなら鰐がいるよな危ない沼にも入りかねない。お前の家庭の事情なんて出版社の力をもってすればワケなく調べられるからな。こいつ、泥水でも飲むな。使えるかも。搾れるだけ搾って、潰れたら捨て駒にでもすりゃいい。これだ、これだよ。足許みられてんだ」
「けどねぇ~、やっぱ見当外れですよね。それって奴隷商人がするような所業でしょ。いまの時代に、そんなこと‥‥‥‥僕がオレオレ詐欺の受け子や出し子みたいな感じにされちゃうとでも?」
「なに呑気なこと言ってんだ。俺だってお前ぐらいの歳のときは、同じよなオボコだったけどよ。こんな名の知れた立派な世界にいる人がそんなことするはずない、お前はそう思う。でも、する奴がいるんだ。こんな立場の人がそんなことするはずない? する奴がいるんだよ、それも結構な割合で。お前、小さい頃イジメのターゲットにされたと言ってたな。学校に入学する前に、学校にそんなことする奴らがいると思ってたか。思ってなかったろう。新しいランドセルを何度も見ながら、希望に胸をふくらませてただけだろう。だけどいざ行ってみたら、クズどもはいた。悪くすりゃ教師までグルになってな。若い時は分からない。俺みたいに歳とって、いろいろ嫌な経験をしてこなきゃ分からない。偉ぶっていても、世の中は至る所、見せかけばかり。なんだ嘘と偽善だらけじゃないか───上辺だけ見ていいように解釈してるから、そういうのが全く見抜けない。中に入ってズブズブの関係になった頃に、ようやく化けの皮が剥がれるのを知る。後の祭り。小説の世界に理想を見ている今のお前は、入学前に学校生活に希望をいだいていたお前といっしょだ。ボケっとしてると、現代版奴隷制度に組み込まれちまうぞ」
「奴隷制度?」
「おう、さっきお前が、今の時代に奴隷商人みたいな人はいない、なんて言うからさ。アホいうな。いるよ。トロトロしてると見えない鎖に繋がれちまうってことだ。魚は網にかかっちまったら最後、もうされるがままだろう。のがれようがないんだ。いま逃げないと、とんでもないことになるぞ、ほら」
「そんな極端な考え方はどうも‥‥‥‥」
「これ、絶対ビンゴだと思うぞ。“いまの時代にそんなこと‥‥‥”なんて温いこと言ってたけど、アマゾン川に落ちてピラニアに襲われたいのか。ジャニーズで性加害を受けた男の子たちはどうなるんだ。これってロシアで戦争にかり出される囚人と同じ図式じゃね? 背に腹は替えられねぇのよ。お前の発想にしちゃ、珍しく正鵠を射てらぁね。きっとお前みたいのが他にもいるよ。まとめ買いでさらにお得に、というわけだ。まぁ、その考えがお気に召さないってんだったら今はいいけどよ。とりあえず俺の自論はさっき述べたぞ、今度はお前の番だ。なんで彼らはやってきたわけ?」
「幽霊だったんじゃないですかねぇ。ほら、“幽霊の正体見たり枯れ尾花”って言うじゃないですか。あん時、僕、相当怖がってたから」
「おいおい、興がこれだけ乗ってきた時になんだ、そのふざけた卓袱台返しは。いきなり梯子をはずすなよ。ドン引きだぞ。彼らを風にゆられる枯れススキにしちゃって、それでお終いにする腹か。だいたい幽霊なんて元々この世のもんじゃない。死んで生気が完全にぬけちまった人が、やっとこさこの世に現れるんだ。もうヘナヘナだよ。なんで東京方面から馬鹿をわざわざ見に来れるだけのエネルギーがあるんだ」
「霊なんだから思えば即、その場に行けるでしょう」
「お前と幽霊論争するつもりはないぞ。そんなの敵前逃亡だ。せっかくこっちが信じてやったのに。レッドカードだぞ、レッドカード!」
「まあまあ、抑えて。そうだなぁ、やって来たのは、何ていうか、たぶん観察するためでしょう。既存の統計データや数字を分析することに頼って内向きに商売していくだけなら、いつまでたっても新しい才能は探し出せない。小説の読者はロボットじゃないんだから。生身の作者を実際に自分の目で確かめることでしか、何もつかめない。そう思ってるんじゃないのかなぁ。 “いいものを嗅ぎ当てるのは皮膚感覚。マーケティング戦略じゃない”ってな感じかな。それにいくら才能がありそうな人でも、あまりにも性格が悪い奴だったら、編集者と作家の信頼関係が築けないでしょう。ついでにそこも見ている。ある時は偶然を装い姿を現し、またある時は陰に隠れてこっそりとね。本を作るのって、人と人とがふれあう共同作業でしょう。誰だって嫌な奴とは仕事はしたくない」
箱村はポカンと口を開けている。
「えらく抽象的じゃないか。お前のパソコンは文字化けしてる。ここ、悠長にバグってる場合かよ。説明が下手だなぁ。七夕の短冊に下手すぎる字で願い事を書いたって、神様が読めなきゃ意味ねぇじゃないか。言葉だけ並べて中身なし。論理が空っぽで、なに言ってんだか分かんねえぞ。だいたいお前の言ってる事なんて編集者の仕事だろう。それって作家の仕事か? 隠れて編集者もついて来てたのか? そうかもしんねえけど、なんでお前に探りを入れなきゃなんないんだ」
「じゃ、いまの僕のセリフと時間をカットしてください。言いなおしましょう。やっぱ会社の利益や後のちの自分の立場がかかっているんで、懸命に作者の力量を見ぬこうとしてるんじゃないですかねえ。できるだけきめ細かく、できるだけ多く、応募してきた人に会う。作品だけ真剣に読み込んで評価していればいい時代は、とうの昔に終わってる。人となりも含めてトータルパッケージで作家を売る時代にかなり前から突入してるんじゃないかな。とくに純文学ではそう。作品を売るというより人物を売る傾向にハマりがちになってる。試みが成功してるかどうかは別として」
「そんなこと言うけどなあ、人をチラ見しただけで、たいして話すこともなく全てを見通せる、そんな洞察力をもった奴なんて滅多にいないぞ。まあ、確かにいるこたいるけどな。魂の色が見える奴が‥‥‥。でもそんなスゲー奴がなんでお前なんかのところに来るんだ。お前の何を見ぬくつもりなんだ。作家の他にも腰巾着がついてきて、お前を隠し撮りでもしてるのか」
「なんのために? 隠し撮りして何の得があるんですか。綺麗なお姉さんだったら別でしょうが」
「だがらさ、だから編集会議かなんかで、動画を映しだして行動心理学的に仕草や癖から“コイツはどういう人間なんだろうか”なんて皆で分析するわけよ。三人寄れば文殊の知恵だ。コイツは従順かどうか戦力になるかどうか等々」
「それ、なにかで確かめたんですか? 誰か出版社の人に教えてもらったとでも」
「さ~てなぁ」
「アホらし。それじゃ話にならない」
「知らぬが仏ばかりなり」
「なんですって?」
「まぁいいよ。じゃ何でやって来るんだ」
「ふむ、だったらあれでしょう、箱村さんの言葉をかりれば繋がり。“君はまったく繋がりがないよね、じゃあ繋がってあげよう。さあ手をつなごう。輪をひろげようじゃないか”っていう優しさ。情けというか」
「都合よく解釈するのは勝手だが、どこまでおめでたいんだ。うまい話が向こうからわざわざやって来ることはない───そんな理屈ぐらいどんな無学なオバチャンだって心得てるぞ。わざわざやって来るようなウマい話は、絶対に信用するな。こんな当たり前なことを知らないとはね。それに引っかかるおバカさんは、みんな自分だけは特別だと自惚れてる。ほんで、やすやすと騙されて最後にはケツの毛まで抜かれるんだ。お人好しというか馬鹿というか‥‥‥‥まるで若かりし頃の俺だな。あいつらがそんな立派な人間なもんか。いつの時代の話だ。昭和初期の匂いがするぞ。武者小路実篤の『友情』か。それとも志ってやつか、大義名分か。彼らはビジネス志向オンリーだよ。商業主義が徹底されている。情けをかけてもらったなんて言ってるけど、その情けってのは何処に向かってんだ。ほんとにお前に向かってんのか。だいたい人の情けなんて長くは続かないぜ、アテにならない。仏様の慈悲ですらそうだよ。お釈迦様の慈悲で蜘蛛の糸を垂らしてもらったカンダタだって、最後には地獄の底に真っ逆さまじゃないか。結局自分を守れるのは自分だけだ」
「遠路はるばるやって来るぐらいだから、何かを教えようとするメッセンジャーだとは思いたいんですけどね、なんせ黙ってこっちを見てるだけなんで。“君のはグロテスク過ぎてどう見てもホラー小説だよ、出すとこ間違ってない?”とでも言いに来てくれたのかなぁ」
「脳ミソがシステム障害おこしてんのか。どこの馬の骨ともわからない赤の他人に、誰がそんなお世話をしてくれるってんだ。お前がどうなろうと知ったこっちゃないだろうが」
「そういうもんなのかなぁ」
「なんだかまだ俺の言い分に不満そうだな。そんな異星人を見るような目はするな。あくまで向こうの肩を持つ気だな。なんなら百歩譲ってやるよ。こういうふうに考えな。わざわざお前にチャンスを与えに来てやったぞ。お慈悲だ。ただしチャンスは一瞬、これっきり。心掛け次第ではアンタにだって『もしかしたら』があるかもな。だから来てやった。アンタにそれを掴み取る強さはあるのか。これはテストだ。ボヤボヤしてこのチャンスを掴み損ねたら、もう終わり。すぐに通り過ぎていくぞ、二度と戻ってこない。他にも代わりはいくらでもいるんだからな‥‥‥そういうことなのかもしんねえ、と思ってみな。どうだい、『そげな訳の解らんチャンスなんかいらんばい!』と方言で口答えしたくなったろう」
「奇貨居くべしと言うか、この得難い機会をのがさず利用する力が君にはあるのかな。彼らはその点を見ていると」
「そうだ」
「それが当たっていたらまるで男女の関係ですね。女が思わせぶりな素振りをする。男が乗ってくればよし、乗ってこなければ『コイツは求める熱意がたりない。弱っちいわね』と捨て台詞を残して去っていく。あまり気持ちのいい世界ではないですね」
「近づけば離れる。離れれば近づく。そんな恋愛の駆け引きみてぇなことはお前には向いてない。そんなの嫌だろう」
「ええ。結局それって世渡りのスキルのない奴は消えろってことでしょう。はしっこくなければ残れない。余計なお世話かもしれないけど、それってかなり歪んでませんか? そういうことなら僕には無理だ。だいたいわざわざ来てもらっても、何をどうしろと言ってもらわないと馬鹿な僕には分からないし、動きようもない」
「そこを忖度しろってことだよ。忖度できない奴は世渡りのできない奴。だから、とっとと消え失せろってなるよな。どうだ、少しは腹が立ってきたか。お前はいつもノホホンとし過ぎだよ。少しは怒れ」
「忖度で得をするのは、忖度される側でしょう。得しようと思って忖度するんだけど、結局相手が得をすることになっちゃう」
「当然の成り行きだな、それは。忖度するから誤るんだ。高級官僚の出世競争をつぶさに観察してれば分かる。無理して忖度しても痛い目にあうだけだぞ。お前が忖度できないのは至極当然だ。忖度するためには、相手が何を狙っているか読めないといけない。読むためには相手と自分がある程度同種の物の見方をすることが前提だ。ぜんぜん波長の違う魂が通じ合うと思うか。お前と彼らは心の中が異質だよ。だから忖度なんて無理。どっちが上でどっちが下だと言ってるんじゃないぞ。魂の色が違うんだ。どこの世界も類は友を呼ぶで成り立ってる。物書きの世界もそうだと思うぜ。お前のもぐりこめる世界じゃない。俺は神や仏じゃないから魂の色は見えないが、文壇にいる人たちは皆おんなじような色をしているに違いねえ。それはお前の色とは違う。そして俺の色とも違う」
「無理だから別の道を選べってことかぁ」
「少なくとも俺は、今じゃそう達観してる。まともな奴なら少し考えればそう思うんじゃないか。ここに70歳になったお前がいたとしたら、別の道を選んで生きてきてよかったと安堵してること請け合いだ。だけど小説はしょせん水物だから、それも仕方ないかもな。 『人生は椅子取りゲーム』っていう、お決まりのフレーズもあるくらいだし」
「せっかく投げてやったボールを投げ返さないのはいかがなものか。このボールの意味が分からないのか? そんなことぐらい忖度せい! せっかくいい餌つけて釣り糸を垂らしてやってるのに、食ついてこないようじゃねぇ、ってなるのかな。たとえ相手が一筋縄ではいかぬ壁のような存在であっても、ともかくボールを壁にぶつけなきゃボールが跳ね返ってくるはずもない。ヤッホーって叫ぶからヤッホーって木霊が返ってくるんで。何も投げず何も叫ばなきゃ返ってこないのも当然かな。この業界って才能だけでは才能と呼ばないのかもしれないですね。才能と行動力がセットになって初めて才能と呼ばれる。もともと才能と言ったって何をもって才能と呼ぶのか定義が明確じゃないですもんね。そりゃ本を出してみて、それが大衆受けして、人気が出て、その結果数字も出したのなら、そこで才能のある人ってなるんでしょうが。本になる前の応募や選考の段階じゃあねぇ」
「だったら文学新人賞の選考は何のためにあるのかね。分かんねえな。仲良しの身内どうしが飲み会の幹事を決めてるわけじゃないだろう。名だたる出版社だ、選定基準ぐらいはあるだろうにな。ヤッホーって叫べるかどうかも選定基準のうちか。ホントに分かんねえや。やっぱ一筋縄では行かないわ。お前の言う通り壁だよ。アホらしくなってくる。けど成功する奴らってのは、そういうところが俺らと違うのかもな。俺みたいに冷ややかに見ない。さっきの忖度ってやつだ。アホみたいだと思っても取りあえず果敢にチャレンジする。熱意や野心がハンパないんだよな。捨て身でいく。傘の上にのってる雨粒は、払えばほとんど落ちちゃう。だけどそいつ等はしぶとくしがみついて、なかなか落ちない。常日頃から才能以外のところでも、せっせと成功の種まきをしてるから、ここぞという時に素早く動けるんだな。チャンスと見るや、のるかそるかで必ず仕掛ける。そこに少しのためらいもない。未確認飛行物体らしきものが空に見えたら“しめた!”とばかり、カメラを持って地獄の底まで追いかける。グイグイ押してくんだよ。必要とあらば芸人みたいに小芝居も演じてみせる。時には可愛い子犬のふりしてジャレつく真似もする。世間をよく見てみろ。成功しそうな奴ってどんな奴だと思う? “成功するには少しぐらい汚い手も使わなきゃ”ってな感じのギラギラした奴じゃないかぁ? どんな人もチャンスが訪れる割合はそんなに違わない。乱数表から数字を拾うのと一緒だよ。それが確率論ってもんだ。けれども彼らはチャンスが訪れたとき、要領よく立ち回ってチャンスを半ば強引につかみ取り、けっして放さない。裏道をほのめかされればそっちを通る。抜け穴が示されれば強引にでももぐり込む。当人は自分の一生をかけたつもりでいるんだ。目的さえ達成できれば、ルールなんかに構ってられるもんか。当然ショートカットで行く。他方俺たちは何も動こうとせず、チャンスが去っていくのを何もできずにただ眺めているだけ。なので、一振りで払い落される雫になる。その差かもしれん。お前、刺し違える覚悟ができている奴と闘って勝てると思うか? まぁ、どっちがトータルで幸せな人生かは別問題だけどよぉ」
「ちょっぴり狡い努力であっても、努力したことには変わりない。いろんな煩わしさにもめげず、とにもかくにもその人はやりぬいた。僕たちならやりたがらないことを。て言うか到底できないことを。こっちは手をこまねいていただけ。待つだけで何もしない人ほど、僕らみたいに不平不満を陰で言う。不満があるなら自ら動いて変えようとすればいいのに、面倒だし気恥ずかしいからしない。不満を言うくせに、その不満の対象に依存しちゃってる。だけどそれは認めたくないんだな。そうこうしてるうちに、気づけば膨らんでいた夢の風船はしぼんでいる。何であれ努力したものが成功し、努力しないものは成功しない。人生、善い行いも悪い行いも自分に戻ってくるもの。だから文句いったところで始まらないですよね。ただし箱村さんが言うみたいに、成功してかえって不幸になっちゃう人も少なくない。それは神様がその人の心を読んで決めること。だって心の中は神様しか読めないから。だから裁けるのも神様だけ」
「神様じゃなくて仏様だったら?」
「善い行いと善い思いにはよい報いが、悪い行いと悪い思いには悪い報いが‥‥‥‥そういう鉄壁の因果の法に任せたまま、何もせずに寝っ転がってる。何もしなくても自動的に必ずそうなるから。そうなるのが遅いか早いかだけの話。人生、一寸先は闇。闇にブーメランを投げてもその軌跡は辿れない。だけど投げたブーメランは必ずかえってくる。暗くていつかえってくるかが読めないだけ」
「思うより道理をわきまえてるじゃないか。そういった境地は知識や知能では辿りつけないからな。なかなかのもんだぞ。お前が神や仏の存在を信じているとすりゃ、まだぎりぎりの所で幸せの側にいるということだ。まだ向こう側に行くなよ、行きそうだけどな。いいこと教えてやるよ。あの世に行ってみろ。アッと驚くぞ。あっちを見てもこっちを見てもこの世の序列と真逆になってる。この世の格付けやランキングはあの世では通用しないってことだ。どうしてかっていうと、あの世は心の世界だからだよ。心のありようで序列がぜんぶ決まっちゃうんだ。地位とか役職とか収入とか職業とか学歴とか容姿とか、そういったもんで誤魔化しようがない」
「よくそれが分かりますね、まだあの世に一度もいったことないのに。どうしてあの世のことが分かるんですか?」
「それが分かるんだよ、気が向いたら後から話す。ちなみにあの世には貧富の差もないぞ。誰もあっちに金を持って行けねえからな」
「なんか非科学的と言うか、何と言うか‥‥‥」
「シンプルに言ったら、文学新人賞受賞やその他のルートでプロの作家になった彼ら彼女らは、大勢の中から神様に選ばれただけと考えることもできるな。神があの世から、関係する多くの人々の無意識に働きかけ、あたかも偶然を装ってそっちの方向にいざなう。周囲は全員自分の意思でその人を後押ししたと考え、操られていたことに少しも気づかない。そしてたまたま選ばれた人は選ばれた人で、選ばれたことの苦痛やわずらわしさも含めて試されている。それに気づかず一生を終わる人もいるが、気づく人もいる。ちなみにハラミちゃんっているだろう」
「ああ、あのピアノが目茶苦茶うまい女の娘ですよね」
「あの娘があそこまで脚光を浴びるようになったのは、やっぱし神様に選ばれたんだよ。テレビ局の力だとかユーチューブの力だとか言う奴もいるが、彼女にたまたまテレビ局やユーチューブという縁を与えたのも神様だ。俺たち素人から見れば、テレビでピアノを弾ける人なんざみんな同じ、チョー上手くて、どの人もどの人も才能の青天井だと思う。でもな、家内が芸大出ててな、アイツに言わせりゃ、人によって明らかに能力の差があるんだそうな。世界は広い、上には上がちゃんとあるって話だ。目立たないけど、ハラミちゃんの上にもそういう人たちは確実にいる。だけどハラミちゃんは大勢の中から選ばれて、こんなに世間の注目の的になった。やっぱり神様がいるんだよ。神様があえて選んだんだ」
「ああ、そういえばビル・ゲイツも話してたな。私はたまたま神に選ばれ、その恵みによって成功した。だから私にその恵みを譲ってくれた多くの人々にお返しするのは当然だろう、って」
「だからアイツはいっぱい寄付するってか。神様の意図がかなったって言いたいわけだ。そういうよくある美談は聞き飽きた。どうせ大金持ちの節税対策だろう。ビル・ゲイツってずっと前から昆虫食の普及を推進してんだろう。有名な会議で“昆虫食は環境負荷が少ない”とかなんとか一席ぶったり、昆虫食の企業にいっぱい投資したりしてさぁ。どうせ俺達みてぇな無知な消費者を騙くらかして、昆虫食で儲けようって腹だろう。なあ、昆虫食と聞いて誰かを思いださないか?」
「あ、花菱社長!」🐜🐛🐝🐞‥‥‥‥ムシムシムシムシ
「そうだろう。アイツはビル・ゲイツにあこがれてるんだ。そのうち自分のことを日本のビル・ゲイツだ、っていいだすぞ。おいおい、いくら何でもそれ、厚かまし過ぎだろう。何でお前が超世界的な実業家と肩を並べるんだ。大笑いだぜ」
「そう言えば池上彰もコオロギ推しのようですね。テレ朝の番組で何かそんなの見た」
「だからアイツの口癖は“わしゃ、今日も切れ切れだ。池上彰レベルだな”となるわけよ」
「社長も池上彰ぐらい分かりやすいといいんだけどなぁ」
「ま、所詮ビル・ゲイツなんて雲の上の人だ。脱線はこれぐらいにして、話を俺たちの現実に戻そうや。いま思いついたんだが、ひょっとすると‥‥‥‥」
「ひょっとすると?」
「作家がお前んとこに来たってのは、もう変なの送ってくんなっていう暗黙の警告かもな。ある種の威嚇射撃と言うか何というか、まあ体のいい嫌がらせだよ。シッ、シッ! こっちの世界に来んな、迷惑なんだよ、邪魔なんだよ。あっちに行っちまえ。俺と同じ方向に歩いてもらったら困るんだよ、糞ボケ! 目障りだから消えろ、的な。ついでに言えば、警告しにやって来るのは作家だけとも限らない。そこまで足蹴にされて平気なのか。お望み通り消えてやれ。その方がお前のためだ。それぐらいの気骨もないのか」
「うわあ、せっかくいい話になってたのに、一気にそこまでひねくれた見方をし始めちゃったとは。こりゃ言いたい放題だ」
「ほんの数作しか出してないけど、全部一次で落とされた。その程度の痛手しかないお前に何が分かる。心血注いだ作品を俺がどれだけ送ったと思ってるんだ。この屈辱感が分かってたまるか」
「そりゃ、分からないですけど」
「お前だって、ここで終止符を打たなきゃ俺の二の舞いを演ずることになるぞ。悪くすると何十年も虚仮にされどおしだ。たいした道化役者だよ。俺の経験を例え話で言えばな、魚の住まない溜め池に釣り針をずっとたらし続けていたってことだよ。そんなに長い間、なにしてたんだ。空き缶でも釣ろうとしてたのか。空き缶じゃ中身が空っぽで空虚だよな。お前は絶望を釣り上げたかったのか、ってなる」
「僕達、ここで『分かんない、分かんない』って才能の無いものどうしで傷を舐めあっていないで、いっそ花菱社長に訊いてみたらどうでしょう。イタチごっこしていても始まらない。むかし出版関係にいたんでしょ? なにか知ってるかもしれない」
「アイツは駄目、駄目。いいかげんアイツのピント外れに気づいてるだろう」「あ、そうかぁ、なるほど言われれば。レクチャーしてやるっておっしゃるから、一杯話を聞いたけど、駄洒落ばっかりで」
「例の迷惑ダジャレの押し売りか。アイツは受け狙いのハイエナだな。隙あらば鼻先を無理やり突っ込んでくる。あそこまで意地汚く笑いが欲しいとはねぇ」
「それに例え話ばかりで何を言いたいのか全然わからないんですよ。僕が馬鹿だからかもしれないですけど」
「そうだろう、なに言ってるかチンプンカンプンだろ。アイツは前いってたことと違うことを平気で言うだろう。二枚舌、どころか三枚舌四枚舌だ。前いったことは全部忘れちゃうんだろうな。地獄で閻魔さんに舌を抜かれても、次から次へといくらでも生えてくるじゃねえか?」
「箱村さんと話す時どうなるんですか。やっぱりあの調子? きっと二人で例え話ばっかりの肉弾戦になるんでしょうね。いつまで経っても終わらない女子高生どうしの長電話って感じ?」
「そうとも限らないな。こっちがたまりかねて正論を吐けば、アイツが怒ってそれでお終いだ。はい、終了で〜す。アイツに正論や道理はつうじねぇ。こっちが気を利かして黙っててやると、ただ喋り放題喋るだけだ。いったん話し始めると長くて手が付けられねぇ」
アンタもだろう────と、赤井君は心の中でつぶやく。
「アイツはお喋りなだけだ。喋るか寝てるかどっちかだ。お喋りが飯より好きなんだ。ほっとけば、くたばるまで話してるよ。棺桶のなかでも口だけ生きてて喋ってるんじゃないのか? 明石家さんまか! 明石家さんまぐらい面白い話なら聞いてやるが、アイツのスカタンを延々と聞かされる身にもなってみろってんだ。それに出版関係なんたらってのは大昔の話だぞ、アイツの知識が今に通用するもんか。出版関係って言ったって、どういう出版関係だか分かったもんじゃねえ。本屋の店員さんだって出版関係じゃないか」
「本屋大賞をとった本は読むようにしてるんですけど、店員さんの見る目は確かだと思うんですけどね。僕は趣味がかなり偏ってるんですけど、そのわりに当て外れが少ない」
「おいおい、いきなりそっちに行っちゃうのか。店員だって色々だわ。本屋大賞が当て外れでなくても、アイツはピント外れ、的外れなんだって。なんであのボケに頭を下げて訊かなきゃなんねえんだ。俺たち、たんなる興味で話してるだけだろう。差し当たり、知らなくたって生活に困るわけじゃなし‥‥‥‥うん、閃いた! そうか、問題の答えが分からないときは、既に分かってると自分に言い聞かせるんだ! 問題の答えは落とし物と同じ。既に自分の潜在意識のどこかにあって、その無限の広がりの中にただそれを探し出せずにいるだけなんだ。だから釈迦は臨終のとき弟子たちに自灯明で行けと言ったんだ。おい、これってスゴくないか。突然今、天から降ってきた教えだぜ」
「どこが?」
「何処がって、すごいじゃないか。降ってきたんだよ、霊媒師にご先祖様の霊が憑くみたいに」
「降ってきたって、大袈裟ですよ。空から雹でも降ってきたんですか。そんなのインチキ霊媒師なんじゃないですか?」
「これって、そんなにスゴくないのかぁ? 昔、なにかの本で読んだのがたまたま浮かんできただけなのかなぁ。ともかく、いくら分かんないっからって、アイツに頼るんじゃなくて、二人で答えを探しにいこうや、まだ探し方が足りないだけだ」
「僕にも霊言が降りてきましたよ。ひょっとすると‥‥‥‥」
「大川隆法か。なんだ、お前にも『ひょっとすると』があるのか」
「ひょっとすると、作品を募集する前から、誰が新人賞を取るか決まってることもあったりして‥‥‥‥誰を売り出すかは事前に会社の方針で決まってるという‥‥‥賞取りレースは宣伝の一形態に過ぎない。出版社とは違うけど、そんな感じの芸能プロダクションだったら結構あるんじゃないのかなあ」
「決まってる? それが本当だったら、どえらいマグニチュードの激震じゃね?‥‥‥‥‥んなわきゃねえだろう。そんなの当選番号をはじめから決めてるインチキ宝クジじゃねえか。勝負の前に勝敗が決まってる八百長ゲームなんて、出版の世界には無い。何度落ちても諦めきれず、半ば人生を棒に振りそうになってる俺みたいな奴らの立つ瀬がないじゃねぇか。そんなの最大級の罪作りじゃねぇか。人の血が流れてる限りそんなことはできねぇ。そんなスーパー依怙贔屓があってたまるか。そんなに貝ばっかし食わされたら嫌んなる」
「な、何ですか、それ?」
「不発だったか、スルーしろ」
「貝といえば、中国では殷の頃から貝殻が貨幣として使われてたそうですよ。だからお金にまつわる漢字には“貝”の字が中に入っていることが多いとか」
「お前、やけに詳しいな」
「さあ、いつもお金にピ~ピ~してるからでしょうか」
「もっともらしいこと仄めかしてるが、そうか、さては依怙贔屓には現ナマも関わってるかもしれない、とでも言いたいんだな」
「いえ、そこまでは」
「とぼけんな、顔に書いてあるぞ」
「気づかないと思って、僕が眠りこけてる間に顔に落書きしたんでしょう。さて、ここで質問。箱村さん、車に乗りますよね」
「乗るよ、なんだ急に」
「たとえば、いつも入れてる馴染みの小さなガソリンスタンドの向かいにセルフの激安大型ガソリンスタンドができた。八割ぐらいの値段だ。箱村さんは今後どっちのスタンドで入れます?」
「そんなもん、これからも馴染みのとこで入れるに決まってるじゃないか」
「どうして?」
「だって可哀想じゃねえか」
「そういうのを依怙贔屓と言うんじゃないですか?」
「‥‥‥‥‥」
「そうでしょう。箱村さんが選ぶ側だったら、率先して依怙贔屓するタイプなんじゃないですかねぇ。だって生き方そのものが浪花節なんだもん。僕だってしちゃいそうだ。やっぱ人間、感情の動物だから」
「何だ、何だ。鬼の首とったようなその笑みは。ウーパールーパーみてぇな顔しやがって。モナリザの微笑みか。お前はニタニタしてるほうが怒っているより不気味でよっぽど怖いぞ。話が回りくどいんだよ。いけ好かねえ。なんでぇ、この丸め込まれ感はよぉ。これで一本とった気になるな。そんなのプチ依怙贔屓だ。お前、日本人だろう」
「ええ」
「日本人なら、そんなメンタリティーぐらい分かるだろう。俺が問題にしてるのは、受賞者が最初から決まってるってなスーパー依怙贔屓のことだ。まさかそんな恥知らずなスーパー依怙贔屓はねえだろうって言ってんだ。スーパー依怙贔屓された奴だってある意味、不憫だ。贔屓の引き倒し、ってのがあるからな」
「そうかぁ。聖書に“初めに言葉ありき”とあるぐらいだから、“初めに答えありき”もあるんじゃないかと思ったんだけどなぁ。やっぱり、まさか、ですよね。プロたちの尺度に合わせて選んでいったら結果、そうなった。それ以外にないのかぁ。それが素人の僕らの尺度と全然違うだけのことだったのかぁ。そもそもそんな人を小馬鹿にしたような裏取引が明るみに出たら、誰も応募しなくなるし、誰も読まなくなっちゃいますもんね。やっぱし、まさか、かぁ」
「もち、まさか、だよ。明るみに出なくたって、こんな作品が賞を取れるのに俺のがどうして落ちちゃうんだと疑問を抱いた奴はどんどん離れて、ふつう二度と応募しなくなる。なんで忌み嫌いだすかって言うと、万一ある一定条件に当てはまらないものは初っぱなから問答無用で弾かれるカラクリになってるとしたら、条件に合わない奴は本腰を入れて小説を書くほど時間と労力をドブに捨てなきゃいけなくなるからだ。長びけば長びくほど空費する時間が積み上がっていく。いくら投稿しても選ばれないと最初から決まっているのなら、書けば書くほど無駄な犠牲をより多く払わされることになっちゃうだろう。しかも最終的には手遅れになり、逃げ道すら閉じかねない。そうなったら覆水盆に返らずだ。後悔しても後の祭り。ホリエモンじゃないけど、“お前が終わってんだよ!”ってことだな。さて、そういう選考の仕組みになっていたとしても出版社は事実を言わないな。そんなこと公にしたら、えせ正義感を振り回す輩からネット等でクソミソに叩かれる。俺みたいに何十作も応募して全部一次落とされてきた連中なんか、ここぞとばかり攻撃しまくるだろうな。今はどうか知らないが、俺の頃は文芸誌の新人賞に応募する奴なんて、すごい数だった。この積年の恨みをいつか‥‥‥って思ってる奴らが今でも一杯いるに違いねえ。“犬に噛まれれば痛いが、こんなことぐらいで犬を憎んでも仕方ない”と普通なら考える。けど積年の恨みは人を変える。恨みのパワーはすごいぜ。悪くすると犬に人間が噛み返しかねない。黙っちゃいねぇよ。言いがかりの荒らしだ。別に法律に触れてるわけじゃないんだが、そういうよくない風評が立っちゃうと企業イメージにもかかわってくる。訊かれたら事実はどうあれ、ちゃんと公平にやってますって言うよ。そりゃ応募する側の勘違いや思い上がりも大いにありだな。実際に公平にやっているってのが常識的な見方だろうと思うぜ。だけど御当人たちにとっちゃあ、猜疑心ってのは時間とともにどんどん根深くなっていくもんだからな。もし小説に狂ってる時期が、自らの一生を決めかねないほど大切な時期だったらどうなる。取り返しがつかないぜ。右か左か真実のほどは分からなくとも、賢い奴だったらそんなリスクはとらない。“お前、終わってんだよ!”と言われたくないからな。ただでさえ人生は、路線図通りたどっていけば目的地に着けるほど単純じゃない。ましてや信用した路線図が嘘八百だったらどうなる? 万に一つだってそれは困る。身の破滅になりかねないからな。だから賢い奴ほどどんどん離れていく。それって出版社にとっては損だよな。なので、そんなことしてないだろうと思うんだが、ホントのところは分からない。確かめようがないからな。それでも懲りずに応募するとしたら、自分はどんな条件でもクリアできるとはき違えてるアホか、それともただのアホかのどっちかだ」
「そうか、アホなんだ、僕たち」
「おいおい、そんなことは言ってないぞ」
「だって選考を疑問視するような賢い人は二度と応募しないんでしょ? この道一筋とばかり、何度も頑なに応募する人は、僕も含めてやっぱアホですよ。冬になれば、猫だって陽の当たる場所を求めて動き回るのに。日向ぼっこせずに、いつも痩せ我慢。世間で一番、貧乏クジをひかされるタイプだ。“得るのが難しいと相手に思わせるほど相手は欲しがる”────こういう心理学的誘導に完全にのっちゃてる。賢い人ならすぐ心理トリックを見ぬき、術中にはまらないのに」
「俺、語るに落ちたのか? 俺の立場はどうなっちゃうんだ。何十作も送った俺の立場は。オレオレ詐欺に連続して何十回もひっかかるような超ド阿呆ってことになっちまうじゃねえか。お前の比じゃない」
「アホがお気に召さないなら馬鹿でもいいですよ。馬鹿は自分に都合のいいことだけ信じる、都合の悪いことは信じない。信じたいことだけ信じて生きているから、やすやすと騙されちゃう。心理学でいうところの確証バイアスにもろハマってる。それに欲張りほど自分に限って踊らされるワケないと慢心してるって言うし。そら、詐欺に何回も引っかかる懲りない人。自分は詐欺に引っかかるほど馬鹿じゃないと自惚れてる馬鹿」
「欲張りって言うけどな、俺たちの何が強欲だってんだ」
「さあ、名誉欲とか金銭欲とか」
「ボンヤリと生きてるお前にそんなものあるのか」
「ちょびっとでいいからお金は欲しいです」
「そんなの強欲とは言わないよ。弱欲だ。確認のしようがないけど、さっきのあらかじめ受賞者が決まってるなんてのは被害妄想だ。んなことねえよ」
「そうか、やっぱりそう思いますか。考えてみれば、あれだけの応募数だ。そうなら毎回ド阿呆を大量生産することになっちゃいますね。小説というのはこのままオワコンになっていくんだろうなと思っていたら、新人賞に応募する人って、今でもものすごい数ですよ。主要な文芸誌だと千人、二千人、それ以上の世界ですよ。箱村さんの時代もすごい数だったんですよね」
「ああ、すごい人数だった。まさかとは思うが、かりに数字の鯖読みがお家芸だったとしてもな」
「盛ったりなんかしてないでしょう。応募総数が増えたら賞の権威に箔がつくとでも? あまりにもケチくさ過ぎるじゃないですか。応募総数が多いほど賞の競争倍率も高くなる。応募する人はどこでもいいから、とにかく作家になりたい人ばかり。優秀な人が敬遠するの恐れて、出版社側にしてみれば逆に応募総数を少なく見せかけたいぐらいだと思いますよ。売れた部数だったら、“これだけ売れているのだから、きっと面白い本だろう”思わせる効果が期待できるかもしれないですけど」
「発行部数と公称部数と実売部数ってやつだな。あれって鯖読みっていうよりは本を売るためのテクニックだよな。儲けを最大化させるために、出版業界はうまいこと使い分けてるよ。実売部数なんて集計が大変だろうし、他にもいろいろ業界の事情や掟があって、なかなか正確なのは表に出せないだろうな。本が売れる売れないなんて、もちろん作家の実力もあるんだろうけど、もともと出版社のビジネス手腕に負うところが少なくないもんな。やっぱ出版社が宣伝に力をいれた本はある程度売れて、そうでないものはそれなりにしか売れない。母数は限られてるが、作品の部数と出来と宣伝力を俺なりに一つ一つ分析していくと、そんな気がしてくるな。俺は角川春樹が映画とタイアップしてベストセラーをどんどん出していた古き良き時代を知ってるから、尚更そう思う。新聞・雑誌に極太のゴシック体で大見出しを掲げたり、テレビなんかで話題にしてもらったりする本は強ぇよ。宣伝にドカッと金をつぎ込んだ本は売れるんだ。中身はその次だ。素人が趣味や脳トレの延長で作品を書いてネットに貼り付けるだけなら、読まれる売れるなんてどうでもいいことだろう。けどプロは読まれる売れるが最優先課題。耳目をひくためにイベントを企画したり作家に炎上発言をいわせたりと、なんやかんや工夫しなきゃなんない。マーケティング手法が問われる。その点から言えば、プロの世界は作家以上に出版社の力量が問われるんとちゃうか?」
「ふ~ん、やっぱりそういうもんでしょうかね。角川春樹の全盛期はまだ生まれてないから分かんないや。ところでさっきの話、目ぼしいネットの投稿サイトに送られる作品数と出版社なんかの賞に応募してくる作品数と、どっちが多いんでしょう。どっちにしたって結構な数でしょう」
「さあね、超短いやつも含めたらネットかな。中編程度以上の長さに限るとなると出版社だろう。当たれば金にもなることだし。どっちにしたって結構な数‥‥‥か。やっぱ鯖なんか読んでないか。どっちだっていいよ、チンケな数字合わせには興味ない」
「ネットでもいくらか金になるのもありますよ」
「そうなの? まぁ、小遣い稼ぎの話はどうでもいいや、今んとこカカアのおかげで食っていけてるから。だけどダブって送る奴もいるんじゃないか?」
「いるでしょね。出版社にとっては、けしからんという話になるんだろうけど。とりあえずここでは、応募総数の正確性って話は置いといて、そんなスゴイ人数なのに下読みも含めて選ぶ人って何人ぐらいいるんでしょうか。十分人員が確保できてればいいですけど、そうでなければどうなっちゃうんだろう。てんてこ舞いの忙しさじゃないですか。だから僕が選ぶ立場だったら、さっきの話じゃないけど先に条件を決めておいて消去法でどんどん切ってっちゃう。いろんなチェック項目をあらかじめ定めておいて、それに合わない作品は、せいぜい最初の2、3ページぐらい読んでサヨナラ。でないと一定期間で全部さばけないでしょう」
「そこまで冷たいもんかねえ。みんな一生懸命、書いて送ってるのになあ。俺の頃だったら、そういうこともあったかもしんないな。だけど今の人はちゃんと読んでくれるんじゃないの? 今の若い奴ら、結構真面目だよ。ジジイやババアが下読みしてるかもしんないけど」
「あんな人数応募してくるんだったら、上の方の人はみんな才能があって当然、力のある人たちの団子状態。箱村さんが言うように全部きちんと最後まで読むんだったら、甲乙つけ難い人がウジャウジャ出てくる。どうやって選り分けていくんだろう。その中から誰か一人を選べったって簡単じゃないでしょう。選別が大変だ。儲けにもかかわってくるから適当にやるわけにもいかない。小説の赤字分を小説以外て補てんすると言ったって、出版社にも限度があるでしょうからね。テストみたいに〇×で点数化できるなら、全員納得して落ち着くところに落ち着くんでしょうが、小説の出来なんて主観が入り放題で、マークシートで正答を選ぶようにはいくはずない。真面目にやろうと思ったらホント、しんどい作業だろうなぁ。そんなキツイときに、たとえば上の力のある誰かから『この人の作品、ちょっと何とかしてやって』などと肩を叩かれたとする。福田赳夫じゃないですけど“天の声にも変な声があるな”と思っても、つまるところサラリーマンだ。上には盾つきにくい。僕だったら渡りに船で“しめしめようやく落としどころが見えたな、そういうことで働きかけてみるか” ってなことになっちゃうと思う。たぶん『はい、おっしゃる通りに』と即答するだろうな。だから文学賞で選ばれるには才能どうこうを問題にしてちゃダメ、だって団子のなかの人たちはみんな等しく才能があるんだから。その中から選ばれるためには、結局気に入られるしか手がない。極論言っちゃうと、才能のある奴より才能のなさをヤル気で埋め合わそうとしている奴の方が、出版社も可愛いんじゃないんですかねぇ。書いてやる人と書かせてもらう人。優越的立場にある側の人ほど、ツンとすました美人より愛想のいいブスのレジに並びたがる。どうしてか。自分の優越を確かめて気持ちよくなりたいから。色々な人がやってきたのもそのためなんだ。コイツは尻尾振って近づいてくるポチかどうか。実力がだいたい同じだったら、そりゃ、すり寄ってくるポチのほうを採るでしょう。多少実力に差があったってポチを採る。ポチであればタッグを組んでも仕事がしやすいし、何かと重宝だ。操り人形にして利用しやすくもある。でなきゃ特別の繋がりがあるとか‥‥‥‥それに加えて知名度だな、ネームバリューがあれば何たって強い。何十万回、何百万回もの再生回数をかせぎ出すユーチューバーが作品を送ってきたら、一発で通るんじゃないんですか? でもそういう人はコスパ重視、タイパ重視だから、小説を出版社の新人賞に応募したりなんかしないと思うけど。そういう人には、どっちかって言えば出版社の方から働きかけるんだろな‥‥‥‥♪なんてったってアイドル♬~♩‥‥‥♪♩(◜◒◝)♩ナンテッタッテ♩♬」
「するってぇと、一次で落ちた俺らは団子集団にも入ってなかったってことになるな。承服できねえ‥‥‥‥ちょっと待てよ、そうなら作家がわざわざやってきたお前は辛うじて団子のなかに入っていたことになるじゃないか。おいおい、そりゃねえだろう。俺だけ仲間外れか。お前はビークラスで俺はびりクラスか。一字違いでも承服できねえ。お前のポチ団子理論には異議ありだ」
「僕が一次選考で落ちた大多数の中の上位にいたって言うんですか。目くそ鼻くそを笑うとでも? とどのつまり僕たちは切り上げようと切り捨てようと、どっちだって構わない端数みたいなモンなんですよ。それに箱村さん、さっき作家になるには繋がりだって言ってませんでしたっけ?」
「前言撤回だ。目糞だろうが鼻糞だろうがどっちだっていい。お前の理屈は穴だらけだ。それって応募者の多くが、金持ちの本棚の、読まれることのない大量の蔵書みたいに扱われてるってことだろう。飾ってあるだけで一度も読まれない本。同様にただ応募しただけでほとんど読まれない応募作品。せいぜい最初の数ページ読まれただけで終わり。中には職業や略歴をチラ見されただけで没。ひと昔前のネットが普及してない頃なら、住所を見ただけで全く読まれず問答無用で弾かれることだってあったかもしれないってか? 無茶苦茶じゃねえか。地方から何十作も送った俺の立場はどうなっちゃうんだ。世間に名の通った出版社がそんなことするわきゃない。ちゃんと全部読むよ、それが仕事なんだからよ」
「そうとも言い切れませんよ。足利事件の菅家さんが冤罪だったでしょう。あれだって、もとはと言えばDNA検査は絶対だと警察が信じ込んでしまったことが原因で、それが世紀の冤罪事件に発展したんでしょう。名の通った出版社がそんなことする訳ないと安易に信じ込んじゃたりしていいんですか? DNA検査だから絶対だ、みたいに」
「いきなり、そんなとこにもってくのか。飛びすぎもいいとこだ。だいいち、お前、ポチだろう。けっこう人当たりいいぞ。お前の話だと、彼らはポチかどうか確かめるためにやって来るってことだろう。お前はポチだ。なんで2次に選ばれない。ポチ団子理論にお前自身が矛盾してないか?」
「そりゃ、外面と腹の底が違うから。それがバレちゃってる。見る人は見透かすんですよ。尻尾をふらない一癖も二癖もあるポチだってこと」
「そうなのかぁ? そんなふうには見えないぞ。感情の起伏の少ない、ただの単純でボーッとしたニイチャンだろう」
「それって褒めてるんですか、けなしてるんですか?」
「両方だよ。作家が来たってのは、ボーッとしてるから猫じゃらしでからかってってみたくなったんじゃねえのか。またまた前言撤回、お前はポチでなくてタマだ。なんならお前と俺のどっちが正しいか、ここでコインをトスして決めるか?」
「ひょっとして‥‥‥」
「なんだよ、『ひょっとして』が好きだなあ」
「ひょっとして作品を応募した人のほぼ全員に出版社側が連絡とることになってるんじゃないですかねえ。作家や編集者がわざわざ来ることはなくても、電話とかメールとか何だかのコンタクトをとる決まりになってるんじゃあないかと」
「またその話の蒸し返しか。同じユーカリの葉っぱばっかし食ってると、そのうちコアラになるぞ。なんでそう思うんだ」
「いっぱい餌を撒いておいて喰いついてきた奴だけ釣り上げる。ほら、そうやれば、揉み手で繋がろうとしてきたのはそっちの方だろうと後から有利に交渉できるから。強い立場で相手をコントロールできるでしょう。そのほうが商売上、都合がいいし、結果の責任を相手になすりつけることもできる。だからやって来たり電話したりした意図は、あえて伏せるんですよ。そうすることで責任逃れの布石を打ってるわけ。あくまで欲しいのはポチ、たまたまそいつに才能がそこそこあれば、なおよしというわけ。そういった計算が働いている」
「ありゃまあ、ついにとんでもないピンぼけを言い出したな。話がチグハグで呆れはてるぞ。ただでさえ忙しくてキリキリ舞いの出版社が、なんでそんなことすんだ。手間と時間と金の無駄遣いだろう。相手が癖のある奴だったら、面倒くさいぞ。編集者に食ってかかるからな。だいいち俺にはそんなコンタクトなんて一度もなかったぞ」
「箱村さんがボケっとしてて気づかなかったとか」
「俺が何作だしたと思ってるんだ。その度ごと、いつもボケっとしてたのか。だいたいそんなことしてたら、少しは世間で話題になるだろう。お前以外にそんな素っ頓狂なこと言ってる奴に今まで一人も会ったことないぞ」
「そうかなあ、ボケてたのは僕の方なのかなぁ」
「お、いじらしいじゃねえか。お前のそういうとこ、いいぞ。まぁ、やって来るってことは何か腹ん中にあるか、それとも誰かに行けって言われたか‥‥‥せいぜいそんなところだろうな。やっぱし立ち見席にいて空想で絵をかいてるだけじゃ、何もわかんねえよ。図形の問題だったら、補助線をあっちこっちに引いてるうちに“これだ”ってのが出てきて解ける。だけどこの謎は単なるお勉強の領域を脱してるな。でたらめに星を結んでいたら星座になって、ぴったんこカン・カンってな具合にはいかないわ」
「僕たち推測するだけで、確かめてないですよね」
「確かめられないからな。推測だけで喋っちゃダメなのか」
「そりゃ喋るのは自由ですけど、ちょっとデフォルメし過ぎてません? ドキュメンタリーに創作をいっぱいブチ込んでるみたいに。難しく考え過ぎじゃないのかな。そんな気がしてきた。さっきから、やたらあっちこっち掘り返してるけど、ただ根拠なく詮索するだけ。取材も裏どりもしてないから、深堀りが全くできてない。だからいつまでたっても水脈は見つからない。無理スジばかり並べたててるだけ。高~い壁に囲まれて、その中をぐるぐる回っているだけじゃないですか。将棋の千日手ですよ。いつまで経っても堂々巡りで勝負がつかない。補助線をいくら長く引いても、その延長戦上には何もない。」
「“ろくろっ首”はやたら首を伸ばして覗き込むがが、手がそこまで届かないんで触れられないってかw」
「wwwなにしろ“ろくろっ手首”とはいかないんで。触って確かめることはできないんですよ。いくら首を長くして答えを待っていても得られない」
「うん、ちょっとクドいが、その返しはまずまずだ」
「なぁんだ。僕たち冗談並べて、ふざけ合ってるだけじゃないですか。いいのかなぁ、こんなんで。ここ、冗談いってる場合でしょうか」
「いいよ、そりゃ。俺たち、ただの一作も一次を通してもらってないんだぞ。洟にもかけられてない。ならこっちも花づくしだ。鼻で笑ってやれ。どうせ下の下じゃねえか。水準に達していないって言われりゃそれまでだが、同じ夕陽や満開の桜を見ても、見る人によっていくらでも違って見えるだろう。あれさ、どうせ文学賞の評価の物差しも、欲目、ひいき目で目盛りがいくらでも変わるんだろう。そういう意味じゃ俺とお前は一枚岩だ。足蹴にされた者どうし、負け犬の遠吠えぐらいさせろってんだ。再生回数何万、何十万回の人気ユーチューバー動画だって、ほとんどコタツ記事だろう。だったら雑魚キャラの俺らにも雑談ぐらい自由にさせろや。人が机上だけで考えることなんざ、100パーセント正しいなんてあり得ない。どんな優秀な哲学者だって、せいぜい6、70パーセントがいいとこだ。カオス理論ってのがあるだろう。川面を流れている葉っぱの進路を予想するのはほぼ不可能だ、ってやつだ。葉っぱのその後の動きは、人知を超えた無限の要因によって決定されていくからだ。頭でつくり上げる世界より実際の世界ははるかに複雑だってことだよ。理論上完璧であっても、そんなもん実際の世界には通用しないってことだ。カオスだよ。何ごとも最終的には神にたよるしかないのさ。デタラメで構わん。有ること無いこと、無いこと無いこと、自由に喋らせろ。どこが悪い。俺たちにはその権利がある」
「もういっそ頭で考えずに水の流れにまかせちゃいましょか。カオスだから。そのほうが楽だし」
「おいおい、せっかく痛い目に遭ったのに、それをネタに楽しまなくてどうすんだ。もったいない。楽という字は楽しむとも読むだろう」
「実際はもっとずっとシンプルだったりして‥‥‥‥だけど立ち見席でいいんですよね。この際、高みの見物をきめこんじゃいましょうか。外野であれやこれやと無責任に想像して、こんな根も葉もない事をしゃあしゃあと言いっぱなすのは楽しい。やっぱり楽しまないと、ですね。向こうにしてみたって、馬鹿二人がなに幼稚なことをピーピー言い合ってる、ぐらいの話ですよ。こんな空理空論、まわりが聞いたら面白くも何ともないんでしょうが、僕は結構楽しんでる。旅行だって、いい加減なほうが楽しいんだ。何時何分に何処そこへ行くと決まっている修学旅行じゃ、面白くも何ともない。綿密で正確なプランはいらない。これからどうなるか、行き当たりばったり、何が正しくて何が正しくないかなんて分からない、って感じほうが楽しいんじゃないかな。筋書きが分かっているスポーツの試合なんて見たいですか? 予測できないから面白いんでしょう」
「それってかなり話、ちがくね?」
「いいじゃないですか、箱村さんだって、ぜんぜん違う話を無理矢理ねじ込んでくるでしょう。たまには僕だって」
「俺ってそうなの?」
「そりゃ僕らの話より、有名人のスキャンダルや不祥事に群がる禿鷹ユーチューバーの動画の方が大衆受けするし、もっとずっと面白いんでしょうが。ん? 僕たちってハゲタカ?」
「ハイエナか寄生虫かどうか知らないが、少なくともハゲタカじゃないな。ハゲタカは花菱だろう。『おいジジイ、その頭頂部、なんでハゲたか』なんてな。やかん頭をアッチッチ~にして怒るだろうぜ、こりゃ面白え」
「それってジョークですか? ちょっとブラックがかってますけど」
「アチャ~ぁ、笑えなかったか。上手の手から水が漏れちまった。ともかく俺たちゃ禿鷹ユーチューバーとは違うよ。大衆受けをねらって、溺れていく犬にあえてインタビューするリポーターなんかとも違う。溺れそうな犬を叩いちゃいけねぇな。溺れそうな犬は基本、助けなきゃ。だけど俺たち叩いてないだろ、井戸端でギャアギャア言ってるだけで。溺れそうな犬は俺たちの方じゃないか。負け犬が陰でいくら悪態をついたところで、社会に何の影響も与えられない。んだから害はないよ。それに権威を批判するのは別に悪いことじゃないしな。優位な立場にある人達におもねるより、よっぽどいいじゃないか」
「辛かったことが、なんでか知らないけどだんだん楽しくなってきた。なんであんなに悪戦苦闘してたんだろう。何遍も落とされた経験がある者だからこそ、この話にこんなに興味をそそられるんだろうな。ある意味、楽しめるのは僕らの特権でもあるんじゃないでしょうか。でなきゃ、こんなに面白く感じないはず。楽しいってことは、すでに劇中にいないんだな。突き放して楽しんじゃってるんだ。対岸の火事ですね。下手の考え休むに似たり。土台、素人は背後関係を明らかにできない。どうせブラックボックスなんだから。外から封印された世界、実際に現場で回収して開けて中を調べてみなきゃあ。そんなこと、部外者にはできないでしょう。ぜったい見つからない隠れんぼですよ。鬼が確かな情報もなく、ただ頭ん中で勝手なストーリーをでっち上げてるだけなんだから。暗闇の中の数字を言い当てるようなもんだ。いくら考えようと時間を喰うばかりで本当のところは分かりっこない。でもそこがいいんじゃないですか? 証拠がないからかえって野次馬根性で好き勝手に言えて。見つからなくても鬼は探し出すのを楽しんじゃってる。これだけ無責任に口にできるってことは、もうあの世界と関係を絶ちつつあるんだろうな」
「俺もエンジョイしてるぜ。こんなに長く話すのは久しぶりだ。偽高木ブーのズル休みのおかげだな。こういう生産性のない青臭い議論を長々としてたのは青春時代ぐらいのもんだ。それだけで十分楽しかった。懐かしいよ。あの頃は若くて、話し相手もチラホラいたんだよな。鼻つまみ者の俺にも友達がいたってことだ。今じゃ、じっくり話せるのはお前しかいない。頼りにしてるぜ」
「そんなこと言ってもらうと、なんだか面映ゆいです」
「なんだ、お前でも照れることがあるのか。顔が赤くなってきてるぞ。演技で赤くできるなら、たいした顔芸だと感心もするんだが‥‥‥“赤井の顔、赤い”なんてな。でも本心からだったか」
「生まれてこのかた人から頼られることなんてなかったから、そりゃ照れますよ。話し相手が誰もいないときは、自分と会話したらいいですよ。年老いて病院や介護施設で寝たきりになれば、みんなそうなります。その予行練習ですよ。孤独で無口な人ほど、実際は頭のなかで一杯お喋りしてるって言うでしょう。アレですよ」
「なるほど言えてるかもな。そうか、お前もずっと独りぼっちだったんだ。作風がな、何かそんな感じだと思ってたんだ」
「もしかして箱村さんも?」
「ああ、若い頃は孤立無援で奮闘してたからな。やりきれなくて心に怒りが湧き上がったときは、誰もいないところで、風に向かって大声はりあげて叫んでいたよ。だけど今はお前がいる。過去のことはもういい」
「‥‥‥‥‥‥」
「お前の言ったとおり、こっちは見捨てられた身なんだと決め込んじゃえば、確かに詮索するから堪能できるって部分はあるよな。いっぱい落とされた身でなければ、この楽しさは分からない。しかしいくら考えても、あんなのがどうして商売上の手練手管になるのかねえ、サッパリだ。正確な情報がなけりゃ、絵解きは無理。ホントのことは突きとめられない。よしんば幸運とマグレ当たりが重なって突きとめたところで、こっちは何もできない。けどな、実際に仕事にたずさわっている方の立場になれば、そりゃ、いろいろ事情もありゃ言い分もあるだろうさ。ホントはこっちが何だかんだ言えた義理じゃないかもしれない。だけどああだ、こうだと陰口を叩くのは、やっぱ楽しいな。こんな他愛のないことをぐだぐだ話してたら気分も和むし、傷口も癒える。それは正直に認めなきゃな。負け犬がふてくされて吠えてるだけだから、みっともないこた、みっともないが」
「僕たち認めてもらえないけど、作家に向いてるんじゃないですかねぇ。だってさっきから抽象的な文学的解釈ばかり並べてるでしょう。具体的な事実や数値の論考がまるでない。それで平気でいるんだから、やっぱ作家に向いてますよ。なのに何でいつも落とされちゃうのかなあ。もうこの際、遠まきに見て楽しむことに集中しちゃいましょうか。楽しむには巻き込まれないこと。じかに関係者に会っちゃうと感情移入して言いたいことが言えなくなっちゃう。それじゃ面白くないし楽しめない」
「それって随分と無責任で薄情な話じゃないの? お前、ちょっとずつ変わってきてるな。それでいいのか」
「いいですよ、それで。お互い様じゃないのかなあ。双方おとなしくしてれば傷口も浅くて済むし」
「そうか、それでいいのか。そうかもな、見えない敵を相手にしても仕方ないか」
「敵なんですか?」
「今となってはな。だからお前が仲間であることは揺るぎないんだ。だって“敵の敵は味方”って巷間、よく言われるだろう。どれだけ合わない者同士だって、共通の敵さえいれば仲良くなる。お前が信用できる理由はこれだよ」
「とうとうそこまで言っちゃいますか、僕もかなり言っちゃってますけども。そんな敵だなんてひねくれてないで、箱村さん、もう一度新人賞に応募してみたら? しないんですか? 花菱社長はボロカスに言ってたけど、あの人の作品評価力じゃねぇ‥‥‥説得力のあること話してたと思ったら、突如チンプンカンプンを言い出すし、いまひとつ当てにならないんですよね。箱村さんの作品のこと、言葉がつむげてないとか耽美的でないとか言ってましたけど、俳句や短歌なんかはどれだけ言葉を削って相手にイメージさせるかが勘所でしょう。別にきらびやかな言葉がいっぱい並んでなくたっていいんだ。かえって言葉が邪魔になることだってある。まだ読んでないけど、あれだけの分量が書けるということだけでも相当なことですよ。僕にはあそこまで重量感たっぷりの作品群を、これでもか、これでもかと言わんばかりに書き倒すことなんてできない。やっぱり一つの才能ですよ。今まで運に恵まれなかっただけで、箱村さんの作品はきっと筋がいいと思います。のるか反るか、もう一度挑戦しないんですか?」
「しない」
「どうして?」
「いまさら何だ、ってことだ。シャボン玉ははじけた。はじけたシャボン玉がもとに戻るか? 一度死んだ情熱は二度と蘇らないよ。ゾンビじゃねぇんだ。震災で止まった大時計の針だよ。文字盤をいくら叩いても、もう動かない。過去は取りにかえれねぇんだ。割れちまった皿をどうやって食器棚に戻すというんだ。それにもう歳だからな、下らないものしか書けない。体力も能力も朽ち果てたよ。昔だったら“一次ぐらいパスさせろや”と文句を言う気にもなったが、いま書いたとしても“これじゃ一次も通らないのも無理ないな”と書き上げたそばから自分の力のなさに落胆するだけのこった。そんな代物、恥ずかしくて応募なんかできないよ」
「そんなこと、ないですって。弱気の箱村なんて変、いつもと芸風が違う。箱村さんは言葉の軽業師じゃないですか」
「なんで急にもちあげ出したんだ? 小説の沼にはまっていた若い頃ならいざしらず、いまさら派手な曲芸はできないよ。もう言葉の泉から湧き上がってこない。だいいち、どれだけの分量が書けるかも分からない。体力、気力ガタ落ちだ。情けねぇが、誰かサンが言うように種無しのカウパーだよ。時の流れにはあらがえないな。若い頃は簡単に表現やストーリーが湧いて出てきた。だけど今は湧いてこない。昨日できたことが今日できないんだ。歳をとるということは、そうやって出来なくなったことを少しずつ捨てていくということだよ。雪ダルマだ、どんどん溶けて細くなっていく。俺も終いには花菱みてぇに認知症もどきになっちまうのかよ。ああ嫌だ嫌だ、あんな半ボケにはなりたくねぇよ」
「そんなぁ、また小説に沼ってくださいよ。そんなことないですって。まだバリバリですって。何かもったいないような気がするな」
「ありがとサ~~ン、そう言ってくれるのはお前ぐらいのもんだぜ。義理チョコでも貰えば嬉しいってもんだ。だけどよ、お前だって俺のを実際に読んだら、そうは思わないかもしれない」
「そうかなぁ、箱村さんに弱気は似合わないですよ。もったいないなぁ、まだ力が残ってそうなのに。なんなら昔に書いた作品を歳相応に枯れた感じに化粧直しして、もう一回出してみたら?」
「落とされるに決まってるじゃないか。溝が埋まるもんか」
「落とされたらもう一回次の年に同じものを出すんですよ。それでも落とされたら、再来年また同じものを出す。向こうも何回も同じものを読まされたら、スルメみたいに噛むほどに味が出てきて、高評価につながるかもしれない」
「それって、もろ嫌がらせじゃんか。イヤだよ、そんなの」
「そういう変に優しすぎるところがねぇ‥‥‥‥優しくしても誰も言うこと聞いてくれませんよ」
「お前みたいにか」
「まぁまぁまぁまぁ」
「今さら背中を押されてもねぇ。古ぼけた花菱、色ぼけた赤井、二人あわせて古色蒼然。やれやれ、ここにきて古色蒼然コンビに上げたり下げたりされるとは思わなかったな」
「うまい! さすが四字熟語の鬼。さすが血液型A!」
「それを言うなら四字熟語病の重篤患者だろう。なあ、いくら俺が落ち込んでるからって、こんなの、褒めるのかよ」
「せめて箱村さんの昔の投稿作品だけでも読ませてもらえませんかねぇ。几帳面なA型だから、原稿をコピーして残してるでしょう」
「そうか、そういう魂胆だったか。お前、それで今、お世辞を言ったんだな。バレバレの布石を打ちやがって、お子ちゃまランチが。クレバーなオレ様がお前の口説き文句なんかに踊らされるもんか。で、なんで? なんで読みたい?」
「何でって、読めば“ああ、なるほどそういうことだったんだ”ってもっと全貌がはっきりしてくる気がするから」
「今あの作品を誰かに読ませるなんざ、ごめんだよ。あれを何処かのシケた処分市にもう一回並べて、“後生です、読んで下さい”って皆にお願いしてるよな感じがするからな。お前の心の内はありありと見えるぞ。つまりアレなんだろう。他人のことは外側から見てるから意外と分かる。だが自分のこととなると、そこに入り込み過ぎて、誰でも冷静な視点を見失う。自分自身のことですらそうだ。だったら自分の作品ならなおさらそうなる。自分の作品を客観的に見るのは極めて難しい。突き放すことができなくて、どうしても評価の目盛りが狂っちゃうんだな。作品の評価をより確からしいものにするには、できるだけ多くの第三者の目に触れさせ、その率直な感想を聞くのが一番だ。けど友達のいないお前にはそれができない。だったらせめて一次で全部落ちた俺の作品を指標にして、真実を確かめようじゃないか。こういうことなんだろう。俺の作品がとても一次で落とされるようなレベルの作品でないと気づけば、やっぱりオカシイってなる。やっぱり何かあるってなる。見え透いてるぞ。ついでに言えば、お前は俺の作品が凡作でなくて秀作であることを密かに望んでいるな。なぜか。こんな秀作が一次で落ちるなんてオカシイってなれば、選考自体がオカシイってことになる。であれば同じく一次で落ちた自分の作品も、純客観的に見たら本当は秀作だったんじゃないか。そう納得したいだけなんだよな。そうだろう。おそれいったか。お前の企みはスルっとマルっと全部お見通しだぁ!」
「あららぁ、パクリ再来!」
「で、仮にそんな感じで全貌が薄っすらと見えてきたら、がっかりして小説家になる夢をきれいサッパリ捨てられるのか? どうだ」
「さあ、それは分かりません。ただ見当がついただけの段階じゃ」
「やっぱり前と変わってなかったか。なら駄目だ。もう過去の恥部は誰にも見せたくねぇ。一度決めたことの筋を通すのもA型だ」
「筋を通すと言うより、頑固なだけじゃあ‥‥‥」
「なんだよ、それ。俺はもう秀作だろうと凡作だろうと、どっちでもよくなってきたよ。ついでにお前の心理をもう一つ読み解いてやろうか。お前は意外に素直で単純な奴だ。だから思考の道筋がすぐ垣間見える。考えていることはこうだよ。賞をとった作品と一次で落とされた自分の作品とには、どこか決定的な違いがあるはずだ。だがその違う点が何なのかいくら考えても分からない。俺がこれまで辿ってきた道だな。俺は最後の最後までそれが分からなかった。もう分からないのは仕方ねえと思っている。お前はまだ若いから仕方ないじゃ済ませられない。違いがわからないのは自分の作品に執着し過ぎているからだ。お前はそう思った。そんだから俺の作品と受賞作を読み比べて違いは何か突き止めようとしているんだ。違いが浮き彫りになれば、それを次回の改善点として応募作に活かせるからな。他人の作品を間に挟めば、自分の作品のアラも客観的に見えてくる。人の振り見て我が振り直せってわけだ。これで次回は賞に少しは近づけるかもしれない。つまり俺の作品を読むことを成功へのワンステップにしようとしている。これがお前の腹づもりだ。どうだ、図星だろう。違うか?」
「見事じゃないですか。そのとおりです。見透かされちゃったらどうしょうもないかぁ」
「お前の心はすぐ読める。頭隠して尻隠さず、本音がいつも見え隠れしてんだよ。だけどこんな面倒くさい詮索しなくてもよ、実際に俺らの作品を一次で落とした御当人様に、落した理由を聞くことができれば全部クリアになるのにな」
「一度会ってみたいですね、その人たちに。どういう感じの人なんだろうか。どこがどう劣っているのか率直に教えてもらいたいですよね」
「結構いい人たちだったりしてな」
「根っこのところでは、僕らとわりと似てるタイプなんじゃないのかなぁ。僕の場合はまだ生きてるでしょうけど、箱村さんの場合はもう全員死んでるかもしれないですね」
「同一人物だったりしてな」
「別に当選作と比べなくてもいい。せめて二次までいった作品と比べて僕たちの作品の何処がどうダメなのか教えてくれるだけでいいんですけどね。そんな理由ぐらいだったら簡単に教えられますよね」
「ああ、教えるとマズい理由でない限りはな」
「教えるとマズいって、まさか“YOU、ナントカ‥‥‥”って声かけてくるような独裁者が出版社にもいて、その人に気に入られない限り二次に進めないとか。世に言う、優越的地位の乱用ってやつ」
「アホか。カマでも掘られたいのか。そんなんじゃねえよ。変態助平ジジイは関係ねぇよ。花菱といっしょくたにすんな」
「あれ? つい先そういうこともあるかも、って言ってませんでした?」
「そうなの?」
「え、忘れちゃったんですか? ちょっと前ですよ」
「それ、花菱が言ったんだろう」
「そうだったかなぁ。いずれにしても僕らにこんなデタラメ言われたくなければ、落とした人がこの場にやって来て、話に割り込んで反論してくれればいいのに」
「アホくさ。やって来るわけねぇじゃねぇか」
「実際問題として、作家さんたちは僕んとこにやって来ましたよ」
「来たってボーッと黙って突っ立ってるだけじゃないか。それってホログラムなんじゃね? お前の声なんて相手の耳に届くわけねぇよ。たとえ届いたって、そうやって挑発すりゃ乗ってくるような甘ちゃんじゃないわな」
「落とした理由を聞いてみれば、案外僕たちが気づいていない説得力ある理由だったりしてね。なら笑うでしょうね。“ああ、そこだったのか。気づかなかったなぁ。なるほど納得”ってな感じで」
「俺たちが気づいてない理由なんてあるのかね。それに下読みの人たちは毎年、山のような応募作を読むんだろう。俺たちの作品のことなんか、いちいち憶えちゃいないよ。作品を憶えてないなら、落とした理由も憶えてない。もし何年も下読みの印象に残り続けるほどの作品を書く人物がいるとしたら、とんでもない逸材だ。とうにプロになってるよ」
「僕らの作品を憶えていないなら好都合じゃないですか、箱村さん、昔に書いた作品を化粧直しして、もう一回‥‥‥」
「またその話をむしかえすのか。しつこいぞ。アホちゃうか」
「じゃあこの際、今この小説をスマホかパソコンかなんかで読んでくれている読者諸君に訊いてみましょか。二次まで進めた作品に比べて僕らの作品のどこが劣っていると思うか。あるいは‥‥‥」
「あるいは?」
「他に何か落とす特別な理由があるのか。賢明な彼ら彼女らなら多分見抜いているはずでしょうから」
「けど、“君たちの応募した作品はきっと退屈に違いない。だっていま読んでるこの小説も退屈だから。だから落とされるんだよ”ってな返答だったらどうする」
「やっぱり嫌だな。でも事実がそうだったなら仕方ない」
「いくら理由を知りたいからって、読者に教えてもらうなんて反則技まで出してくるのか。そんなの、小説作法としてタブーだろう。ルール破りもいいとこじゃね?」
「この前だってこの小説の作者がしゃしゃり出てきて、なんかぐだぐだ喋ってパッといなくなったぐらいですから。そういうのもアリかと‥‥‥」
「アイツ出てきたの? 出てきたら駄目じゃないか。アイツは俺でもあり、お前でもあるだろう。なんで出てくるんだ。何でもありか。支離滅裂じゃねぇか」
「ただの目立ちたがりなんじゃないですか?」
「まぁ、こんな非現実的で訳の分からないことばっか二人でダラダラたれ流していたって意味ないか。諦めな。いや、諦めようぜ。俺たちゃ一丁目一番地から間違ってたんだよ。実は若い頃の俺もお前と同じで、作家になることが人生で成功することを意味すると大誤算してたんだ。成功だって? そんなの、本が売れて自分の著作権で出版社と対抗しうる一握りの有名作家だけだよ。親亀こけたら子亀孫亀曾孫亀こけた───きっと総崩れの人生になる。これを失敗と言わずして何と言うんだ。救いようがないよな」
「いいものはいいダメなものはダメ、ただそれだけのことなのかなぁ。駄々をこねるのも、いい加減きまり悪くなってきたな。まぁそれはさておき、ぜんぜん違う話で恐縮なんですけど、僕んとこに大作家たちがやって来たって話、ずっとず~っと昔のことのような感じがするんですが‥‥‥‥これ、さっきから気になってたんですけども」
「自分のことなのに分かんねぇのか。そんなに大昔だったら、お前、生まれてねぇじゃねぇか」
「そうなんですけど、なんか変な感じなんですよねぇ」
「それも無理はないか。ここには複数の時間軸があるから」
「時間軸って箱村さんのと僕のとでしょう」
「もう一つあるんだよ。姿を見せないんで気づかないけど、いつもここにいる奴のが」
「それって神様でしょう」
「違うよ。あのよ、これはいくら説明したって、今のお前には理解できないんだ。そういうことになってんだ」
「理解できないと言われるほど理解したくなるのが人の性ですよ」
「ともかく過去っていうのは変えられねえ。そんなの、うだうだと論じたってはじまらないよ。過去はふりかえるな。ふりかえりすぎると勢いあまって過去世まで行っちまうぞ。大切なのは今だ」
「もしかしてもう一つの時間軸って﨑田の野郎のじゃないでしょうね」
「﨑田? まさか。﨑田といやぁ俺もアイツのことで、ずっと前から気になってたことがあるんだぞ」
「なんですか?」
「お前、いつも“﨑田の野郎”って言うだろう。﨑田は女じゃないか。なんで﨑田のババアって言わないんだ」
﨑田が女だって? なんということだ。衝撃で顔面から皮膚が流れ落ち、床に雫をたらしている気がする。二度と目覚めることのない夢のなかに沈んでいくかのようだ。
(23)
精神病棟の一室、男はベッドの上で浅い夢を見る。今夜も言葉が波となって押し寄せてくる。頭痛がする。言葉が‥‥‥‥言葉が湧き出てくる。何のつながりもない言葉が自在に動き出す。
ああ、頭痛がする。言葉が息つく間もなく溢れ出す‥‥‥言葉があてどもなく想像の荒野をさまよう‥‥‥。
言葉に写像が重なる。目を開けていようが閉じようが、心に浮かぶ血塗られたイメージはとどまることを知らない。それが毎夜、私を恐怖の底に追い込む。凶暴な心象がとめどなく流れ出る。狂気が襲ってくる。もし私が盲目になれば、いつか音だけの夢を見ることができるのだろうか。
夢の城に駆け込んでいく少女の後ろ姿。大理石の白い大地にぽつんと影一つ、その上に私のガラスの頭蓋骨が落ちて破片を散りばめた。バラの花びらが魔の手のひらに血なま臭く踊る。
背後で私を嘲弄する見知らぬ男。頭を二つ持った大猿の化け物は、重油の黒い涙とともに、エメラルドの眼球をとろけ出す。皮手袋のなかの時間と嵐、ボロボロに風化していく手。森林の剣のうえに浮かぶ月。
頭痛がする。言葉が湧き出てくる‥‥‥言葉があてどもなく想像の荒野をさまよう‥‥‥。
狂人の吐く息が糸となって無数の透明なコードを震わせる。蝙蝠が心臓を切りひらくナイフの羽根を広げ、髑髏の眼窩のような虚ろな窓から、いま飛び立った。
大理石の階段を切りとられた指がかけ上がり、ピアノの鍵盤上を跳びはねる。鍵盤の歯が耳元に囁き、舌が口奥で笑い転げている。
脳みそを引きずりながら去っていく喪服を着た足音。私はスポットライトの中、何百万のひしめく顔に見つめられ、そのまま海底に沈んでいく。暗幕がギロチンのように頭上から落ちてくる。
雲上の金貨の塔が崩れ、地上に飢え苦しむ亡霊たちの顔を黄金色に照らす。象牙の先端が心臓を射抜く。はらわたが溶岩となって体の外に流れ落ちる。ガラス職人がウエハースのような銀河の背骨をへし折った。
猫の目の光は冷たく流れ出る月光。ツタのように腕にからまる女の細い指先。麦わら帽子のふちが、少年の顔を黒ベールの影で包む。胸の内の一点の染み、地図上の小さな黒い区画。
等身大の鏡が割れて、その割れ目の向こう側の闇。赤い太陽の目玉が喉をとおり、内臓の沼にめり込む。獣の面をかぶった子供、悪魔は馬車に乗ってやってくる。少女の背後から悪魔の影がのりうつる。
水中で私の心臓が炎のように燃えている。多くの死体が溶け込んだ沼。陰湿な観念が、夜に広がるこの黒々とした空の河に流れ込んでいく。とろりと流れ落ちる悪魔の粘液。宇宙の終焉を告げる幕は血に彩られている。
目隠しされた死刑囚の嘆きが、独房の灰色の空気に澱んでいる。地下室に無数の白い手がひしめいている。断頭台の刃先の血に飢えた赤い光が、私の内にやどる悪魔に語りかけている。
(24)
﨑田が女? もしかして大恩人の‥‥‥‥しばらく一緒に住んでいたあの女? 初めて結婚したいと思った女。そして最後に結婚したいと思った女。後にも先にもたった一人。
女が一緒に住んでいたマンションを引き払い忽然と姿を消してしまったとき、お前はどうした。女の名前は‥‥‥‥サキタ。そう言えば今、僕の問いかけに「契約書にはサキタと書いてある」と家主が答えている場面がおぼろげに浮かぶ。サキタ‥‥‥‥だが記憶が定かでない。これは夢でみたシーンなのか、実際にあったシーンなのか‥‥‥‥あの時、女はどこへ行ってしまったのかと茫然自失になっていた男。この男は誰だ。この男は果たして僕なのか? それとも‥‥‥。
‥‥‥‥会いたい。言葉を交わせなくてもいい。肌に触れられなくてもいい。せめてもう一度だけ‥‥‥もう一度だけ会いたい。
「どうした、なんで黙ってる。喋り過ぎて油がきれたのか」と箱村。
驚愕の余韻がまだ尾を引いている。今ここにいるのは僕の体だけで、心は気の遠くなるほど離れたどこかの外国の街の、あるホテルの、ある一室の安楽椅子の上で揺られているような気がする。
「‥‥‥‥‥‥」
「そうか、﨑田ってのはオカマかオナベかのどっちかなんだな。お前のまえでは偽男、俺のまえでは偽女‥‥‥いや逆だった。お前のまえでは偽女、俺のまえでは偽男、ああややこしい、そんなのどっちでもいいや。どっちにしろ﨑田は不細工女、不細工男なんだからな」
「‥‥‥‥‥‥」
「おい、しっかりしろ、何とか言え。少し顔が青いぞ。まぁ理由を言いたくなけりゃ言わなくていいけどよ。お前の自由だからな」
「あの﨑田というその女の人、いま何処にいるか教えてください。ぜひ知りたいんです。お願いします」
「どうしちゃたんだ、仲良しこよしの﨑田ちゃんだぞ。そんな真剣な顔して、もしかして恋したんじゃあるめぇな。そんな訳ねぇか、お前は面食いだもんな。ブスの年増にゃ用はねえってな。どこにいるかなんて知らねえよ。お前が知らねぇぐらいだからな、分かるわけねぇ」
「‥‥‥‥‥」
赤井君は失望で胸のうちに暗雲が広がっていく‥‥‥‥なんだ、何処にいるか箱村さんも知らないのか。
「おいおい、ホントどうしちゃったんだ。ちょっと話題を変えてみっか。なんちゅうかな、あのよ、さすがにもう作家や編集者もどきはお前のとこに来なくなったろう。﨑田どうこうなんてより、そこが一番大事な点だ」
「もう来ないみたいです。分かんないですけど。何でそれが一番大事な点なんです?」
「向こうは一流の文筆家や企業人で抜け目がない。彼ら彼女らは、今誰と会ったら得で誰と会ったら損か、絶えず計算している。あの人たちの時間には限りがあるからな。もう来ないということは、あの人たちにとってお前はそういう存在になったということだ。いやこの場合、そういう存在になれたと言うべきかな? もうお前には旨みはないと踏んだ。さすがに愛想を尽かしたか。もう来れないし、行きたくもない。いずれにせよ向こうにとって、いまのお前は既に取るに足らないちっぽけな存在になっている。本来お前が注目されるべき人材の一人にされること自体、何処か変だったんだ。だが、お前が向こうにとって取るに足らないちっぽけな存在であったとしても、お前自身にとっては重大事だ。お前はまだ若い。俺や花菱みてぇに十年、二十年たったらまず棺桶行き確定、てなわけじゃないだろ。じっくり考えろ。もうこれ以上考えられないと思っても、まだ足りない。なんせ一生を左右しかねないことだからな。だから一番大事な点だと言ったんだよ。どうだ、これ聞いたなら、来なくなってずいぶんとスッキリした感じがするだろう」
「ええ、床屋さんに行ったみたいです。でも僕が気づかないだけで、まだ来てるとしたら‥‥‥」
「オッ、元気でてきたようだな。その調子だ。実際にまだ来てたって、いいじゃんか。図太くしてりゃいいだけのこった。ただ見てるだけで、お前の肩をポンと叩くわけじゃないんだろ? 一度も話したこともない連中の心中が、つかみかねるのは当然だ。つまり向こうが黙ってるならこっちも黙ってろってことだ。そろそろ分かりかけてきたろう。彼ら彼女らは明晰夢に過ぎないのさ。実際にそうでなくとも、そう思え。お前は普通の人と違い、明晰夢を見る。もし目の前に出現した連中が、たんに夢の中の登場人物に過ぎず現実でないのなら、必ずそれは見抜ける。それがたとえ現実であっても、現実ではない。そう、霞ゆく夢だ。その続きはもう見なくていい。ほっとけば消えていく、そして長い時間をかけて少しずつ忘れていく」
「そうか、霞ゆく夢か‥‥‥たとえ現実であっても現実ではないのか」
「そう呟くところをみると、もう安全圏に入りつつあるのかもな‥‥‥忍の一字で我慢していたお前も、やっと庭の落ち葉をきれいサッパリ掃き終えたわけだ。ガンジー顔負けの無抵抗主義は無駄じゃなかった、気持ちはスッキリ爽やかってか? なら、それでいい、それでいい。危機はとりあえず去った。そうなら安心してさっきの話に戻れるな、実は俺だって半分ポチなんだぜ。お前と一緒になって好き勝手に言ってるけど、吠えるだけで噛まない」
「何ですか、もろ韓国映画のタイトルじゃないですか。パクリ大好き人間ですねwww」
「パクッてどこか悪い。あれだけ売れりゃ、みんなの知的共有財産だ」
「そりゃお好きにどうぞ。つまり言いたいことはこうなんでしょう、うっすら霞んで見えますよ。当然彼ら彼女らはポチがキャンキャン吠えるだけで噛む勇気がないことを見抜いている。こいつらは現実を見ている気になっているが真実はまったく見えてないじゃないか、なんてふうに。そして疲れて吠えなくなるまで観客席に放っておく。へたな勘繰りをいくらしようが結局自分には何一つ分からなかった、と白旗を上げさせるために」
「そうなんだよな。向こうの方が大人っちゃ大人だ。けど、ずいぶんと上から目線の話じゃねえか。ノッポの俺が何で見下されなきゃなんない。チビのお前が見下されるなら話は分かるが」
「それ、ボケかましたつもりですか?」
「まぁまぁまぁまぁ、ちょっとピリッと薬味をきかしてみただけだ。よくあるギャグじゃないか。なに言うてまんねん、ほなアホな、ってな。ぽてちん。だけどよ、俺なんか観客席に座ってから30年以上経つ。とうに白旗を上げてるが、どうってこたなかったんだよ。ずっと身軽で幸せだ。観客席に放っておいてくれて有り難かったんだよ。変な荷物をかついで生きてこなくてよかったんだ。楽する人にならなきゃな。お前も完全に手を切って、楽する人になれ。選ぶ側と選ばれる側がいれば、選ぶ側の立場が強くなるのは当たり前だ。仮にな、あくまで仮の話だぞ、仮に選ぶ側が強い立場に乗じてどんどん嵩にかかった態度に出て来るような連中ばかりだったとしたら、お前、そんな集団の仲間に入りたいか?」
「できれば入るのは願い下げを‥‥‥‥さっきから聞いてると、仲間になると言うよりは子分になるって感じだから」
「そりゃそうだろう。純な奴がそんな集団に入ろうものなら、人生が台無しだ。だけどこの社会にはそういう人品の薄っぺらい連中がウジョウジョしてる。それが現実だってことよ。文学の世界に限ったことじゃないぞ。この世の中、誰かが誰かを評価する組織では、会社だろうと何だろうと、必ず評価する側が強くなり評価される側が弱くなる。評価する側は高慢チキになり、される側は萎縮してビクビクだ。暗黙の上下関係というか、権力ヒエラルキーというか、そんなのが自然に出来上がっていくんだな。そこで、評価される側は気に入られようと胡麻すったり、言いなりになったりする訳さ。もちろん評価する側はそれを見逃さない。評価される側の心理を読み切って、自分の利益のために利用しないはずはないと言うことだ。俺はお前より長く生きて経験値が高いから、そういうことがよく見える。言ってること、ちゃんと理にかなってるだろう」
「至極まっとうなお話で。何でそういうふうに自信をもって言いきれるようになったんですか? 興味あります。体験談が聞きたいです」
「聞きたいか。そうか。俺の人生にはドラマが一杯あるからな。その前に小便だ。やっぱ本物のお茶はうめえよ。夢茶はまずいもんな。うめえからガブガブ飲んじまったせいだろな。体験談は小便のあと話してやる。待ってろ。ああ今日はいい日だ。むちゃ楽しいぜ。しびれるねぇ」
(25)
夢の中の世界は、決して夢の中にだけあるとは限らない。夢から覚めてみると、私はやっぱり閉鎖病棟の中にいて、未だ夢の続きを見ているかのように思う。覚めやらぬ夢。いくら叫び声をあげようが、ここから救い出してくれる人はいない。ここから二度と出られず、一生閉じ込められたままなのではないか。そう考えると絶望で気が狂いそうになる。もっとも私がここにいるのは社会が私を狂っていると判断したからに他ならないが。
主治医の下した診断名は統合失調症だった。自分では長期入院しなければならないほど社会に不適応な状態だとは思えない。多少、人との意思疎通に難はあるが、それだけのことだ。今の状態が夢なのか夢でないのか判別がつかず、恐ろしい幻覚に悲鳴を上げることはある。だが夢を見ている時に、これが夢だと気づいている人がどれぐらいいると言うのか。夢はいつか必ず覚めると人は言う。この悪夢は一体いつ覚めるのか。
ただし自分が社会に不適応な状態ではないと自信をもって言えるのは、今のように正常でいるときに限る。かなりの頻度で発狂することがあるのだ。芥川龍之介の小説に『河童』というのがある。有名な小説なので知らない者はいまい。その主人公、精神病患者第二十三号は、同じく精神病院にいる私とまったく一緒の境遇である。彼は上高地の梓川のほとりで、腕時計の上に影を落とした河童を見る。河童の世界に迷い込むが、むろんこれは彼の病がなせる幻覚である。同様に私も、突として異様な世界に迷い込むことがある。それは認めなければならない。
だが私は彼と違って、それが現実でなく幻覚だということを承知している。夢を見ている時、これは夢だと自覚できる明晰夢のようにだ。夜ともなれば、私は鏡の城の中を自分の影に追い立てられて逃げまどう狂人になる。だがいかにそれがリアルであったとしても、少なくともこれが単なる幻覚にすぎないことは自覚できている。
小説『河童』の中で、トックという河童は自動車の窓から緑色の猿が一匹首を出したのを見た。信じてもらえないだろうが、私にも今ここに、その緑色の猿が部屋の隅からこちらを凝視しているのが見えるのだ。
緑の猿だけではない。ある夜には、小さな鬼が何処からともなく病室に現れ、私の脳ミソをペロペロと舐め溶かしていた。私にはそのパックリ割れた自分の頭が上から見えた。理性的に考えれば、これは恐らく幻覚だろう。幻覚だが緑の猿はいま現在、確実にここにいる。非存在と決めつけるのにはあまりにも像が鮮明すぎるのだ。どこまでが現実でどこからが非現実なのだ。
おい、お前は実際には存在しているのかいないのか。存在しているならそこにいないで、非現実の世界を飛び越えてこちら側にきてみろ! 私に触れてみろ! そう語りかけても緑の猿は何の反応もない。ただ薄ら笑いを浮かべて見つめているだけだ。
ずっと昔、もう半世紀近くなるだろうか。私の分身が、とある学生アパートにて同じ猿たちを見ている。奴らは作家の仮面をつけて何人もやって来た。その光景は彼の記憶のフィルターを通して、私もありありと思い出すことができる。今と同じだ。少しも変わっていない。ただ見つめるだけで奴らは何の反応もない。
小説では河童のトックはピストル自殺することになっている。私も同じ運命を辿るのか。私が死んでもこの世界は前と全く変わらない。相も変わらず歯車は平然と回り続けているのだ。甘く見るな! 私がそれを許すと思うのか! どんなことがあっても首は括らない。
薬物治療は受け続けている。だが、医師を疑う訳ではないが、むしろあれは逆効果なのではないか。どうせ精神安定剤の類だろうが、幻覚は一向なくならない。それどころか入院の期間が長引くほど、症状が悪くなっていく気がする。
看護師たちもどういう訳か、よそよそしい態度に見える。他の患者と接しているときと何処となく違うのだ。笑顔があり優しくて丁寧な言葉遣いで接してくるのだが、全員目の奥に深い恐怖心がある。自分でも気づかない、心の奥底の邪悪な何物かを看護師たちは見透かしているに違いない。そのことが手に取るように分かるのだ。なぜそうも恐れる。どこが怖いのか。何が怖いのか。
主治医にはいつ退院させてもらえるのか何度も尋ねた。その度にはぐらかされる。いやしくも精神科医であるならば、素人にも説得力ある分かりやすい説明ぐらいできそうなものだが、いまだかつてそれがない。
「告知義務はないのか。治療計画とか治療方針とか何らかのプログラムぐらいはあるだろう、見せてくれ」と必死に頼んでも、主治医は波のように表情を歪めながら、何やら訳の分からない理由をつけて見せようとはしない。
「あなたには極度の抑うつ傾向と幻覚症状があります。反面危険なほど支配的・攻撃的な部分も目立ちますので、現時点では退院は許可できません。やむを得ず行動を制限しないと、あなたの心身の安全が守れないのです。どうかご理解ください」と高圧的ではないものの、何やら抽象的なことを繰り返すばかりで、埒が明かない。
いつからだろう、私が自分の中でこの怪物を育てはじめたのは。しかしそれよりずっと重要なことは、その怪物を寄ってたかって殺そうとしているのは誰かということなのだ。お前らだろう。私の病名は統合失調症ということだが、統合失調症なのは、実は医者や看護師、お前ら自身なのではないか!
困るのは病院外と連絡が取りにくいことだ。直接人と面会できないことはもちろん、信じがたいことに病院には公衆電話がなく、スマホやパソコンも持ち込み禁止。これではインターネットやメールを通信手段にすることもできない。唯一許されているのが手紙だが、外出できないので、職員に頼むしかない。本当に郵送してくれているかどうか確認のしようがないのだ。
私には家族も親族も友人もいない。しかし外との唯一の交流手段が手紙である以上、くじけず手紙を出し続け、何とか外部とコンタクトを取るしか方法がない。幸い心当たりがないわけではない。以前おかしなバイトをしていたことがある。そもそも私の心が本格的に病み始めたのもあのバイトが発端だった。
そうか、自分の中に怪物が育ち始めたのもあの頃か。実労働時間が少ないわりにやたら金払いがいい‥‥‥‥あの頭の悪いお喋り好きの馬鹿二人、アイツらなんて名前だったか‥‥‥‥そうそう、花菱と箱村だ。あの単純で、わりと優しい二人組。手紙で相談すれば何とかしてくれるかもしれない。できれば弁護士とつないでくれればな。
そうそう最近、私とそっくりの分身が君らのところに来ているはずだ。それがはっきりと見える。何しろ彼の中にはすでに私の魂がはいっているからな。
私の分身、赤井君。君は私の声を感じ取れるか。君はもう私の中に入っているんだよ。すでに二人はサムシング・グレイトの中にある。私のアバター、赤井君。私はもう一人の君でもあるのだよ。もうすぐ私のところにやって来る。
私たちは自分の欲するものではなく、自分と同種のものを引き寄せるのだ。赤井くん、君は私たちの運命を決定するのは私たちの思いと行いだと信じているのか。違う。望みは君の思いと行いがサムシング・グレイトの意思と調和したときにのみ叶えられる。サムシング・グレイトは操る。これまで君の過去に起こったことの全ては、君をこの場所に導くためのものだったんだよ。
踏み潰す人には蟻の姿が見える。踏み潰される蟻にはその人の姿が見えない。私には君が見えるが、君にはまだ私が見えない。会うのが楽しみだよ。君とは久方ぶりに会う。君は憶えていないだろうがね。
(26)
用を足した箱村がもどってきた。いかにも話したくてウズウズしている様子だ。
「体験談が聞きたいって言うんなら、話してやるよ。さてどれにするかな。う~ん、出血大サービスで思いつくのを次から次へと全部話してやるか」
「あ、一つでいいです、一つで」
「そうかぁ? いっぱいネタはあるんだけどな。歳くってる奴にみんな金があるとは限らない。日本は貧乏なジジイだらけだ。だけど歳くうほどに思い出だけは皆、一杯増える。ジジイは金持ちとはかぎらないが、全員思い出持ちなんだ。体験を思い出にするには年月の熟成がいるだろう。ワインといっしょだよ。生々しい体験を人に話せるよう、まろやかな味にするには、長い年月を経なけりゃなんねぇ、なんてさ。含蓄のある話ができるようになるためには、俺みたいにある程度、歳くってなきゃなんねえんだ‥‥‥」
「前口上はそれぐらいで、いよいよ本論のほうに‥‥‥」
「そうか、そうだな。ここからが面白いんだ。若い頃、アイツが『働け、働け』ってウルさいんだよな。んで、広報見てたら市役所が事務職員を募集してたんだ。非常勤の期限付きで、正規職員を補佐する仕事だ。安い報酬だったけど、ウチのがウザいんで行ったよ。人手不足のせいで応募が少なかったからなのか、予算が余りそうだったからなのか、なんか分かんねえけど、簡単な面接と作文で即採用だ。雑用ばかりの最下層にいる臨時職員は下から山を見上げるから、その全体がよく見えるんだな。働き出して慣れてくると、おんなじ臨時職員のオバチャン達と喫茶店で雑談するわけだ。『あの課長は私たちには思う存分パワハラするくせに、市議会議員や上役の前では最敬礼よ』とか『あの思いやりのある係長が、どうしていつまでも窓際部署なの? すいぶん歳とってるみたいに見えるけど。上の人は見る目ないわよねえ』とか‥‥‥どうせ小遣い稼ぎで来てるようなオバチャン達だから、無責任に言いたい放題だ。ちょうど今の俺らみたいだよ」
「窓際で何もしないで給料もらえるんなら最高じゃないですか、夢のような話だ」
「おめえ、もう公務員も古き良き時代じゃないんだぜ。国の馬鹿が大借金かかえこんでるから、緊縮財政でいつまでも窓際の無駄飯食いをかこっているだけの余裕はなくなってきてんだ。窓際にまわされるような人たちは普通、愚直さだけが取り柄で社交性も要領のよさもないから、ずるい裏工作や根回しができない。いつか誰も引きたがらないババを引かされるんだよ。たとえば国や県と市民の間で板挟みになるよな、しんどい役職だよ。どんな木偶の坊でもそれなりに経験年数があれば、年功序列が不文律になってる地方公務員だ、拒否はできない。昔、山一証券がつぶれたとき、『社員は悪くありません』と泣いて謝ってた社長がいただろう。あんな大企業の社長みたいに偉い人物ではないが、あのミニ版とでも言うべき人は公務員の世界でも結構いるぜ。みんなノイローゼになりそうになって、こっそり目立たず辞めていく。俺の知ってる例では、辞めた人の友人がツイッターだったかフェイスブックだったか、何かのSNSに“これってあり? 酷すぎません?”なんて若者口調で呟いてたけど、それで終わりだよ。それだけだ。当然だけど社会の反応はゼロ。マスコミなんかがネタにしてくれりゃ少しは違ってくるんだろうけど、そんな何処にでもあるちっぽけな話、誰が話題にすっかねぇ。ニュース性もなけりゃ金にもならねえ。結局、本人が弱っちかったから悪いんだ。図太くいきゃよかったんだよ。本人のせいだよ」
「ふ~ん、そんなこともあるんだ」
「で、その話は胸糞わるいから、もういい。俺が言いたかったのは、臨職のオバチャンたちと喫茶店で喋った話の方だ。時代が時代だったんだろうな、当時はたまに臨時職員のくせに古参のオバチャンがいた。そんなオバチャンが得意顔で言う訳よ。『あたしゃ、正規の奴らの多くが、上に取入ろうとあくせくする姿をずっと見てきたんだよ』ってな。そういう人には、いつも群れててやたら馴れ馴れしいのが多いんだそうだ。仕事はチャランポランのくせして、酒の席だけ大ハッスル、おべんちゃら言って回って上との人脈つくることだけには長けてる───そういうのが出世が早いらしいな。人脈づくりも仕事のうち? おいおい民間企業の営業職かよ、てな話になる。公平性が求められる公務員がそんな我利我利亡者でいいんですか、って誰かに叱られそうな感じだな。ふつう利己的に人脈を利用する奴には、真に頼りになる人脈はできないだろう。お前、自分を利用しようとして近づいてくる奴と繋がりたいか?」
「そりゃ繋がりたくないですよね」
「そうだろう。繋がりたくないだろう。でも公務員にはその原則が当てはまらないそうな。基本的に親方日の丸は儲けなくていい。だから民間みたいに能力を数字で明確にあらわせない。セールスパーソンの個人別売り上げ高棒グラフみたいなのが、公務員のどこの職場にいっても壁に貼り出されてないでしょう、だって貼り出しようがないもの───と古参のオバチャンが言うわけさ。そこでどうしても上に取り入り、上からの引きを期待するようになるんだと。事務系一般職の地方公務員は年功序列だろうと言ったら、それは給料の話でポストは違うと言い負かされちまった。要はいち早く評価される立場から脱して、みんなを評価するポストに就きたいってことだ。そうなりゃ世の中が一変するぐらいに考えてる。ぜんぜん変わりゃしないのにな。かくしてポストを巡っての欲ボケと足の引っ張り合い、偏執症的出世競争が始まるっていう寸法だ。上の方にいる奴らがこれを見逃すわきゃない。わざと役職を一杯つくって、そこにほんの僅かな身分上の格差をつける。それで互いにもっと競わせようという悪だくみだ。公務員ってのはノルマがないから、昇進以外に自分の成功を確認しようがないだろう。ほとんど給料は変わらないのに、僅かの役職の差をつけるだけでそこに身も心も捧げてしまうというわけだ。石頭の仕事人間はそういうふうに作られる。上層部の操りたい放題だよ。マインドコントロールにかかってんだな。バカ丸出しだ。俺に言わせりゃ、そんな奴らは仕事や組織だけの狭い世界に住んでいる。閉鎖環境に押し込まれたまま、まったく外を見ようとしないから駄目なんだ。今いる世界の外側にもいくらでも世界が広がってるのにな。頭が固くて外側の世界に目を向けることができねえんだ。幸福ってのはワクワク、ウキウキすることに自分を燃焼しつくすことだろう。それなのに、人生を自分らしくたっぷり楽しむことより、組織で上に行く方が立派なことだと錯覚しちまってる。アホじゃないのか。限りある人生、自分が楽しいと思うことに狂いに狂えばいいのにさ。それを棚上げにして、同僚と自分を比較してその優越を確かめることだけが生きることの全てになっちまってる。こりゃあ、どうも公務員に限ったことでもなさそうだな。今まで組織や会社のI Dカードを一度も首からぶら下げたことのない浮草人生だから分かんねえや。俺がもし組織人だったら、上の評価なんてガン無視だ。好き勝手にやらしてもらう。独立独歩だ。てめえに俺の何が分かる。組織の評価なんかに振りまわされるかい。俺のことは俺が評価する。誰だって自分に似た者を評価するに決まってるじゃないか。お調子者はお調子者を評価し、ずるい奴はずるい奴を評価する。類は友を呼ぶだよ。トンチキに選ばれたらお前もトンチキってことだ」
「それって詰まるところ、さっき僕がでっち上げた文学新人賞選考のありさまと同じじゃないですか」
「見事に論破してやったポチ団子理論か。今ごろ、性懲りもなくまた出してきやがったな。おそ出しジャンケンか」
「評価なんて評価する側の都合でコロコロ変わる。評価する側は圧倒的に優位な立場にあるんだ。尺度なんていかようにも変えられる。都合がよければ高評価、悪ければ低評価。コイツは現在の自分の利益にとって望ましいか望ましくないか、それで全部決まっちゃう。とくに団子集団の一人ひとりが優劣つけ難い場合は。評価とは即ち、選ぶ側の損得勘定です」
「理屈としては成立してんだろうけどよ、なんかお前のは上滑りに感じるんだよな。さっき俺って、どうやってお前を論破したんだっけ?」
「まだ論破されてないと思うんですけど‥‥‥‥コイントスもしてないし」
「いいかげん男らしくシャッポを脱げよ。まぁ、それはいいや。どうせ俺には論破王ひろゆきの真似なんかできねえんだ。議論に勝ったところで、嫌われちゃ元も子もないからな。それはいい。だからな‥‥‥だから俺が言いたかったのは、お前の小説が出版社からちっとも評価されなくたってどうってことないってことだ。他人の評価は自分の真の価値とは無関係。そんなの関係ねえの小島よしおだ。アレ? これ前も言ったかな」
「もう何回も」
「あれ、そうだった?」
「公務員、めざすの止めようかなあ。箱村さんからそんな体験談を聞かされるとたまんないな」
「なに? 公務員めざす?」
「ええ、このままだと追い詰められる一方なんで、保険かけとこうと思って公務員試験の問題集を読み始めたんです」
「おうおう、いいことだ、いいことだ。だいたいなぁ、純文学の小説家なんて、賞とった時や運に恵まれてベストセラーを出した時は多少華やかだが、一部の人を除いてそんなに収入はないと思うぜ。全体的に見て、そのストレスや労働量に見合うだけの対価が与えられているとは到底思えない。そのくせ作家になる競争率だけはやたら高い。しかもその競争が公平かどうかも、実のところ分からない。怪しいもんだ、と思っている奴も世の中には少なくないだろう。一方、公務員は作家に比べりゃ競争率は低いし、採用は大学入試センター試験なみの公平さだ。仕事がさほど過酷でないわりには収入も安定している。どっち目指すべきか明々白々じゃね? それにお前は何処からどう見ても、紅葉マークの尻を追ってノロノロ運転していくタイプだろう。寄らば大樹の陰が一番似合ってる生き方だよ。親方日の丸で額に汗して地味に働きな。そうすりゃ生涯、平穏無事だ」
「大樹にも時には雷が落ちますが」
「おっ、言うじゃねえか。落雷で感電死するするような奴は、日本を背負ってるという気概で働いてる超真面目な公僕だ。そんなの一部だよ、お前はそんなのになれやしない。さっきも言ったろう、俺達みたいなのは嫌われて真っ先にお払い箱になるタイプだ。公務員は悪事を働かない限り首にはならないぞ。年功序列の世界でもうこれ以上遅れようのないドン尻をたらたら歩いていけ。“出る杭は打たれる、出過ぎた杭は打たれない”って言うよな。だったらお前は超無能の杭になって、地面にめり込んじまえば、全く打ちようがないし、引っこ抜くことすらできないってわけだ。下手に出ようとするから、出る前に打っとけってなるんだよ。俺もなあ、もっと早く気づいてれば堅実な仕事にもありつけたんだろうによ。あんなに何十作も出すまで気づかなかったなんてなぁ。賢い奴らみたいに、おかしいなと少しでも思った時点でバッサリ切っちまうべきだったよ。でもなぁ、どうしても小説を書き続けたから人生を無駄に使ったとは思いたくねえんだよ。なぁ、それじゃ過去の自分を否定することになっちゃうだろう。アイツが珍しくギブ・アンド・テイクの打算の女でなかったからよかったものの、アイツがいてくれなきゃ今ごろ橋の下で野垂れ死にだ。そうなってたら、ここにはいなかったな。お前と巡り会ってこうして話してることもなかった。人生という綱渡り。独りぼっちの綱渡り。僅かでも道を誤れば転落する。命綱もなければ下にネットもはられていない。首の皮一枚だな」
「ちょっとオーバーですよ。自殺しないかぎりは、生活保護もあるし‥‥‥」
「首の皮一枚というのは俺のことじゃない。これから先が長いお前のことを言ってんだ。お前、自殺するタイプだぞ、俺の目に狂いはねえ」
「まさか。物乞いしながらでも生きてきますよ」
「自分で自分のことが理解できてないな。お前の生き方をこのまま続けていくと死神が近づいてくるぞ。死神が近づくと死にたくなるから、すぐ分かるぜ。“ああ精も根も尽き果てた、オウムの麻原にポアされたい”ってなる」
「なんでオウムなんかが出てくるんですか」
「これだけ言っても分かんねぇなら別の角度から攻めるとするか。俺は人を動かすのは欲と恐怖だと思うが、お前はどうだ?」
「ナポレオンの言葉ですね」
「それは知らねえが、俺は野村克也監督の名言集で読んだんだ。監督は人を動かすのは利益と恐怖と尊敬とユーモアだと書いてたぞ」
「尊敬とユーモアなんかで動くかなぁ?」
「うん、そうだな。俺は尊敬されるべき人間だし、笑いのセンスもばっちりだが、お前、ぜんぜん俺の言うこときかないもんな」
「う~ん、やっぱり何といっても利益と恐怖ですよ。他の二つは添え物にすぎないでしょうね」
「見たところお前には欲はないな。特に名誉欲はない。俺みてえに目立ちたがり屋じゃないからな。ナントカ賞を取ったなどという名誉が実は近づけば消える蜃気楼だということぐらいは、とうに理解してるようだ。となるとお前を動かしてるのは恐怖だな。このままいくと自分の人生どうなっちゃうんだろうという先の見えない恐れが、作家になって身を立てなきゃに短絡している。ホントは物を書くことなんて少しも好きじゃない。逆をしてるんだよ。そんなもんにカマければカマけるほど、ますますお先真っ暗になるぞ。もっと鮮やかな色を足して未来を描けよ。小説に拘泥し過ぎるから周りが暗くなる。そんなもん、ずっと後回しにしちゃえば、パレットにもっと明るい色の絵の具が並ぶのによ。こんなことも分からないのかねぇ。よほどクルクルパアだぞ。追い詰められてるお前にいくら言っても無駄なのか。路頭に迷いたくなけりゃ、このさい心機一転、完全に軸足うつしちまえ。空に浮かんでる雲を追うのは、もうよせ。お堅くいったほうがいいぞ」
「やっぱりそうなんですかねえ」
「もちろんそうだよ。時機を逸して俺みたいになったら、一生カミさんからドヤされどおしだぞ。長く生きてると分かるんだわ。この世の中、努力した人や真に才能のある人が必ずしも報われるようにはできてない。ゴマすりやハッタリや調子の良さが、それより重んじられることなんてザラだ。ずる賢い奴が上からの贔屓で甘い汁を吸ってる例はいくらでもある。変な理想にとらわれず、この世の中はそういうものだと割り切っちまえ。ここはそういう場所だと感じたら少しでも早く離れること、それが人生を楽に乗り切るコツだよ。食ってくためにどうしても離れられないんだったら、そりゃ仕方ない。言うことはないよ。けど、お前は思い一つで簡単に離れられるだろう。俺たちゃ物書きの世界では通用しないよ。一円も稼げない。稼げなくたっていいとお前は言うだろうな。お前が一山当てたいわけでも、一花咲かせたいわけでもないことはちゃんと分かってるよ。だけどどうすんだ、霞を食って生きてくのか。いいかげん気づけ。まあ取りあえず、公務員試験の準備を始めたと聞いてひと安心だがな。ところでな、俺にはお前みたいに作家は来なかったけど、テレビ局から電話があったんだよ、実は」
「え? ほんとですか。どうせイタズラか詐欺の類でしょう」
「若い頃のことだ。女房とも仲がよかった。ぐつぐつ煮立つ味噌汁が、愛と幸せの音を奏でていた頃だ。懐かしいなあ。二人の心はまだスープの冷めない距離にあったんだよ。実はそのとき、アイツが電話を取ったんだ。 『笑っていいとも』に出ませんか、だとよ。せっかく笑っていいともって言ってくれたんだから、二人で腹をかかえて笑い転げてやったぜ。さすがアマチュアと違って、ちゃんと笑いのタイミングと壺を押さえてるな。でもなんでお前には作家が来て、俺にはお笑いのお誘いなんだ。この差は何なんだ。コメディ小説を書いて送った覚えはないぞ」
「ますます怪しい、そりゃイタズラでしょう」
「じゃあ、イタズラ電話かけてきた奴は、どうやってウチの電話番号を調べたんだ。そのとき俺は無職だったし、電話帳にも載せてない。分かるとしたらNTTか市役所か掛かりつけのお医者さんか、それから‥‥‥あとは俺が小説送った出版社ぐらいのもんだ。あの頃はネットで物を買ったりもすることもなかったから、俺の個人情報がそこから漏れることもない」
「かりに電話をかけてきたのが本当にテレビ局員だったとして、テレビ局もどうやって箱村さんの電話番号を知ることができたんでしょうか。手当たり次第に電話を掛けまくって、その全員に『笑っていいとも』に出ませんかと言った訳でもあるまいし。あ、そうか、もともと電話番号を知らないのならランダムにだって、掛けようがないか」
「だからさ‥‥‥だから俺は出版社とテレビ局がツルんでたと踏んでるんだ。ズブズブのズブリンコ、ドンブリコだよ、お池にはまってさあ大変だ」
「で、ドジョウは出てきたんですか」
「ドジョウが出てきてコンニチワはない。ぼっちゃん一緒に遊びましょ、もない。ウチのが断っちまったから。でもお前は信じるよな。お前は俺の分身みたいなもんだから、信じないはずはない」
「なあんだ、せっかくだから一緒に遊んでもらえばよかったのに。それってもしかして、馬のお尻に面白がって棒でツンツンってやつ?」
「なんだそりゃ」
「花菱社長が言ってませんでしたか?」
「なんだ、アイツの戯言か。よく相手にできるな。アイツの話は馬鹿っぽ過ぎて馬耳東風だ。馬だけにな。ウマいこと言うだろう。で、俺の話、信じてくれるの、くれないの?」
「信じますよ、もちろん。大作家が来たなんて突飛なことを言う僕を信じてくれた箱村さんを、逆に僕が信じなかったら、それこそ神様が黙っちゃいないでしょうから」
「それ、どっかで聞いたセリフだな。ん? 俺が言ってたセリフじゃねえか。なんだ、お相子ってことか」
「信じますよ。二人は一心同体だと思ってますから。それにしても勿体ないことしましたね。テレビにも映れたし、うまくいけばタモリに一言か二言、声をかけてもらえたかもしれないのに。箱村さんの頃はテレビの黄金期だったんでしょう。テレビ局も大衆受けしそうなユニークな人物を巷から何が何でも発掘しようと頑張ってたんじゃないのかなあ。喜んでいいんじゃないですか、白羽の矢が立ったんだから。カラクリがどうだったかなんて知らなくていい」
「白羽の矢なんて何本たててるか分かったもんじゃねえよ。客席で笑ったり拍手したりするだけの盛り上げ役の一人だったかもしれないじゃないか」
「サクラってこと? 違うと思うけどなぁ」
「そうか。そうだな、確かに俺みたいに言うこと聞かないヘソ曲がりを選ぶわけないな。俺は集団圧力に強いんだ。イエスマンじゃない。『はい、ここで笑って、そこで拍手して』って言われたって、どうして面白くないのに笑わなきゃなんない、どうして事前に拍手の練習なんかしなきゃなんない、って絡むからな」
「そうでしょう」
「迷ったらいつも賛成票のお前とは違う。A型だから筋を通さないと気持ち悪いんだ」
「血液型はともかく、アレって応募するんじゃなかったかな。そんなのに応募なんてしてないでしょう」
「そうか、だったらもしかして俺もタレントといっしょにステージに立てたってことか。違うと思うけどなぁ、どうせチラッと映るだけだよ。バックダンサーみたいに」
「図体デカいわりに妙にオドオドしてるから、面白がられてSNSなんかでバズるんじゃないですか、意外と」
「俺がか? 一躍スターじゃねえか」
「そうなったら、箱村さん、どうなっちゃうんだろう。ウハウハか、地獄のどん底か」
「そんなの地獄のどん底に決まってるじゃないか。それにあの頃はSNSなんてなかったし」
「あの時代はテレビ局も羽振りがよくて、きっとギャラも高かったでしょう。金がいっぱい入ってきて、奥さんからも見直されて、ウハウハなんじゃないですか? 死んだ後、神様に会ったら訊いてみたらどうでしょう。『笑っていいとも』に出ていたら自分はどうなっていただろうかと」
「どうにもなっていないよ、一回出ただけでチョンだ。それにしてもお前、プラス思考だな。それはいいことだ。それはいいことなんだけれども、言っとくが、くれぐれも自分で自分の落とし穴を掘るような真似だけはするなよ。お前のために言ってるんだ。僕の小説、いままでは落ちてたけれど今度こそ必ず、とばかりいつまでも白鯨を追い続けるなよ。しまいにはエイハブ船長みたいに海底に引きずり込まれることになるぞ。推しつけがましいと思うだろうが、まずは小説の世界から足を洗え。お前はエイハブじゃない。まだ両足そろってるじゃないか」
「もう半分、足を洗った気持ちになってますけど」
「ホントかぁ? 足だけでなく、ついでに耳も洗えよ。マスメディアがたれ流す虚飾の情報に踊らされて、話題の人になって世間で広くもてはやされたいなんて思ったりするなよ。そんな虚飾に汚れた耳垢は洗い流しちまえ。お前を見てると、まだ未練タラタラって感じがするんだがなあ。だいぶ刷り込まれちゃってるよ。以前も言ったろう、この監視社会では匿名性こそ自由と防御力の源泉だってな」
「カラスの行水はやめます。ちゃんと足も耳も綺麗に洗いますって。実力の段差に気づかず、すってんころりん、文学賞。踏み外して立場をなくした自惚れ男。いくら失脚しようとも、足はにょきにょき生えてくる。おいらの懲りないガラポン人生、あしカラズ」
「何だ、そりゃ。カラスと悪しからずを掛けたのか。長すぎて、落ちが来た時にはみんな最初のほう忘れてるぞ。ピンとこない、ひでえ不発弾だ」
「花菱社長の影響うけちゃって。知らないうちに、つい下らないのがポロッと口から出ちゃうんです。例のユーモラスの押し売り、やたらめったらウケ狙いってやつ」
「なんも空滑りまで真似ることねえじゃないか。そんなしょぼいギャグをかましてるようじゃ甚だ心もとないが、まあよしとしなきゃな。アイツじゃなくて俺から学習しろ」
「何を?」
「ボケを」
「ボケ?」
「ああそりゃいいわ、そりゃ。ところで文学賞つながりで言うとな、最近俺なんかナントカ文学賞とかカントカ文学賞とかのニュースを見ると、作家と組んで出版社どうしが談合してるんじゃないかと思うことがあるんだよ。もちろんそんなことは無いんだろうけど、そんな気がしてきちゃうんだ。お前、そんなこと無い?」
「いえ特には」
「そうか。やっぱりな。やっぱお前は俺に比べて出版社に応募した作品数が少ないからだよ。しぼった血涙の量が違う。その差だよ。俺は一杯ポシャってるから、その分お前よりひねくれてる。あんなもん続けていくほど、どんどん心が汚れていって有害なだけだぞ。だから足を洗え。洗って、しばらく頭を冷やせ。出版業界とか文壇とか、ああいう世界とは全く無縁の世界に行くべきだ。まずは足を洗って再出発だ。いま精神的に全然ゆとりがないだろう。一歩足をずらせば奈落に真っ逆さま、そんなギリギリのスペースにお前は突っ立っている。そんな場所で小説書いていて幸せになれるはずがないじゃないか。今は駄目だ。どうやって説明してやればいいかなぁ。お前、不眠症にならない方法、知ってっか?」
「いきなりそこですか、飛びますねえ。でも知りたいです。全然眠れなくて困ることがよくありますから」
「なんで寝れないんだ」
「なんて言うか、プレッシャーとか不安とか‥‥‥」
「そういう時は眠りに適してない時なんだ。眠ろうとすればするほど、ど壺にはまってますます眠れなくなる。じゃ、どうするか」
「どうするんです?」
「ずっと起きてるんだ」
「お、起きてるんですか?」
「そうすりゃ、いつか体と頭が睡眠不足に耐えられなくなって、バタンキューだ。時機が大事なんだよ、その時を待て。寝るべきときが来てないのに無理して寝ようとする。ずっとその時を待ってれば簡単に寝れるのによ。小説もおんなじだ。今はその時じゃない。いま書こうとするから、ど壺にはまって苦しみの深みに落ちていくんだ。お前には長い年月が必要だよ。今が人生で最も危ない時期だ。何でそんなときに無理して書く。それでもどうしても書きたいことがあるって言うんだろう。だけど今はとりあえず塩漬けにして、ずっと年取って失うものがなくなってから、どっかのネット投稿サイトに自分史でも何でも書いて送信すりゃいいんじゃないのか。それで満足しろ。満足できるはずだ」
「不眠症と小説。ふう、どう考えてもそれ、無関係なんじゃないですかねぇ。またまた無理矢理ねじ込んできましたか」
「なに言ってんだ、このお子ちゃまランチが。減らず口たたくな、かわいくねえな。関係あるよ。今、若いお前は書くことが苦しいだろ。なんせガラス細工のメンタルだからな。お前と違って書くのが楽しいっていう若者だって、プロになって生活が人質にとられたら苦しくもなるよ。小説書くのも苦しい、不眠症も苦しい、同じじゃねえか。苦しみを取り除く処方箋も一緒だよ。ただ楽になるまで待つことだけだ」
「書くことが苦しくなっちゃうホントの原因って何でしょうか?」
「考えてみな」
「おそらく競争しなくちゃいけないからだろうな。ナントカ賞、ナンタラ賞、誰がとれるか競争だ。販売部数がどうのこうの、読者や識者の評判がどうのこうの、競争だらけでウンザリしちゃうんじゃないのかな。競争地獄だ。作家になるような人はどっちかって言うと肉食系じゃなくて草食系でしょう。そんな競争、ちっとも楽しくないだろうと思う。だけど生活かかってるから逃げようがない」
「お前はどう逆立ちしても小説家なれねえんだから、こんな話は別に置いといてもいいんだが、結局俺も同意見だ。いつも議論が平行線でも、たまには交わることもあるんだな。根っこの深いところでは、俺とお前は発想の仕方や立ち位置が似てるのかもしんないよ。書くことには二種類の目的がある。一つは純粋に書くことを楽しむこと、もう一つは競争して勝つことだ。だけど競争することではどこまで行っても決して幸福になれない。勝っても負けても不幸なままだ。そんなこと、誰だってちょっと考えれば分かるだろう。競争は利己主義を発動させ、心に混乱を持ち込むだけだからな。人は競争で幸福になれるようには創られていないんだ。競争に負けない一番確実な方法は何だ? 競争をしないことだよ。どうだい、俺がジジイになってからネットに投稿しろってお前に言った意味が理解できたか。ジジイは競争せずにすむからだ。受験の偏差値競争に始まって、社会人になればノルマノルマの出世競争、もう真っ平御免だぜえ。ジジイが競争してどーすんだ。何でわざわざ年くってからも競争で心の平静を乱されなきゃなんないんだ。どうせジジイは承認欲求ゼロなんだ。投稿サイトはできるだけ競争の少ないところを選べよ。競争に巻き込まれずにすむってことが大事だ。欲を言えば、荒らしの悪意ある攻撃を受けにくい隔離されたサイトがいい。ジジイが辛辣な評価を目にしたところで、自分を変える気はないんだ。それで技量が高まるわきゃないし、もはや高めたいとも思っていないよ。有害で不健康な感情が噴き出てきて、寿命を縮めるだけのこった。炎上商法してるユーチューバーじゃないんだ、そんな批判はいらねえ。ネット上の心ない言葉に、みすみす踏みつけられたり振り回されたりするこたねえよ。まぁ心配しなくても反響ゼロだろうけどな、ジジイの作品なんか誰も関心もたない。なあ、こんな当たり前のことぐらい理解できるよな」
「ええ、分かります。しかしアレですね。今でさえこんな感じなのに、そのときはもっと読んでくれないだろうな」
「いいんだよ、それで。誰も聴いてないよな、名前の売れてない政治家の街頭演説。多く人が気にも留めずに行き過ぎてしまう。だけどそんな無関心に見える人たちの心にも、知らず知らずのうちに何かが残っていく。根雪のように積もっていくものがある。でなきゃ、なんで街角に立ってあんな演説を続けるんだ。意味ないじゃないか。ストリートピアノってのがあるだろう。駅や空港に置かれているピアノで、通りすがりに演奏する人たち。演奏が上手で周りに人垣ができる人もいるが、行き過ぎる人だれからも注目されず黙々と弾き続ける人もいる。彼は何のために弾いているんだ、誰一人たち止まる人がいないのに。いいんだよ、それで。時が経ってあるとき通行人の一人に旋律が浮かぶ。あれ? このメロディどこで聞いたんだろう? どこで聞いたのかも誰が弾いていたのかもまるで記憶がない。けれどもその人の心に今、確かに黙々と弾き続けていたあの人の旋律がある。それでいいんだよ。お前の小説はそういう小説だ、そこだけを目指せ。『綺麗な花は山に咲く』ということわざがあるだろう。ほんとに美しい花は山奥であまり人目に触れることもなく、ひっそりと咲いている。ほんとに価値あるものは人があまり気づかないところにあるもんなんだ。この世は必ず上には上がいる。ネットの小説投稿サイトをうろついていたら、稀にスゴ過ぎる作品に出くわすことがある。プロと遜色ない作品なんだな、これが。お前も一度電脳空間の流浪の旅人になってみろ。いるから、そんな奴が。コイツは誰なんだ。“コイツ、なんでプロにならない”って奴がいる。なりたくないのか、なれないのか‥‥‥それともそもそもプロデビューなんて俗事は、はじめから眼中にないのか。つまり世間で一番脚光を浴びてる作家が必ずしもほんとうに一番だとは限らないと言いたいわけよ。ハラミちゃん以上のピアノを弾く手練れたちは黙して語らず、森の奥にじっと目立たず息をひそめている。この世は奥深い。山奥に分け入って探せば、“ここにもいた、アッここにもいた”って感じだろうな。綺麗な花は山に咲く───昔の人はよく言ったよ、本質を見抜いていたんだな。誰に手入れされることもなく、一人だけ。孤独のうちにあって毅然と咲いている。お前の目指すべき場所はそこだ。凡庸な自分には到底届かない場所と分かっていてもな」
「“有名無力、無名有力”って言いますもんね」
「安岡正篤か」
「空海の方が先でしょう」
「言ってることが正しけりゃ、どっちが先でもいいんだよ。有名な人は思うほど力がなく、真に力がある人は無名であることが多いってことだ。ちゅーことで、喝采なんていらねぇんだよ」
「喝采はいらない、か。なるほどそれもアリかも」
「アリだろう。生涯、自称覆面作家でいいんだよ。“自称”ってかぶせれば誰だって作家になれる。ジジイ覆面作家だ。ジジイはいいぞ。そういう俺も含めてジジイに片足つっこんでるがな。おいぼれジジイはまずプロにはなれない。ババアなら新人賞をとる優秀な奴も辛うじているかもしんねぇけどよ。いくら書かせてやろうにも、ジジイは操りにくいからな。 『どうせもうすぐ耄碌して死ぬんだ、己がなんぼのもんじゃい』とどいつもこいつも居直ってるもんな。前頭葉が委縮してるから感情の抑制がきかなくて、いつ老害をバラまき出すか分からない。映画業界で監督からセクハラうけてもじっと耐える無垢な若手女優とは違う。そういう素直な娘のほうが光るものもあるし扱いやすいだろう。ワシントン州立大学の研究報告では、男は女より自分のパフォーマンスを高く評価する傾向にあるってことだ。なのに何で石頭の年寄りを、しかもババアでなくジジイをわざわざ選んで一から教育しなきゃなんないんだってなる。年寄りより若者、男より女ってのが本音なんじゃねえか? ジジイはプロにはなれねえよ。だけどそのおかげで書くのが楽しい。上手くても下手でも、もともと何かをつくり上げていくことは楽しいからな。いい頭の老化防止にもなる。お前、自分を認めてもらいたいわけじゃないだろう。どうせ自分は大したことないと分かりかけてる。だからせめて少しでも多くの人の心に残るものがあれば‥‥‥‥ただそれだけなんだろう。なら出版社に送っても駄目だ。中には我慢して最後まで読んでくれる人もいるだろうが、悪くすると誰か一人に最初の二、三ページざっと飛ばし読みされて、それで終わりだ。今しがた、お前自身がそう言ってたろう。たぶん当たってるよ、特にお前の場合に限ってはな。考えてみろ、若くて感受性豊かな頃の作品でさえ、まったく相手にされないんだぞ。ジジイは問題外だ。だからジジイは投稿サイトってなるわけよ。ボケてきてるから作品がお粗末なのは仕方ない。もっとも世の中にはパソコン使えないジジイも一杯いるけどな」
「ちょっと待ってください。“特に僕の場合に限っては”というのは?」
「それ、訊きたいか」
「ええ、もちろん」
「お前の書いた作品はどれも相当の難産だっただろうことは想像がつく。お前のような作品を書ける奴は少ない。これは正直に認めるよ。だけどああいう作品が書けるのは若い一時期だけだ。すぐに書けなくなる。今がお前のピークだよ。『砂笛の孤独』しか丹念に読んでないんで、確かにそうだとも自信をもっては言えないけれどもな。お前にとって悲劇は、今がピークなのにもかかわらず、出版社が求めているものとお前の素質がぜんぜん噛み合ってないことだ。水と油ってこと。出版社と言ったって、その総意っていう意味じゃないぞ。発言力のある一部の人達ってことだ。お前の心血を注いだ作品も、彼ら彼女らにとっては季語のない俳句だよ。“なんじゃ、これ。こんなの品質保証できないぞ”の類だよ。悪くすると、あまりにも作品がサイコ過ぎるんで、『もしかしてコイツ、なんとかと紙一重の人なんじゃねえ?』なんて思われかねない。ほんで、お前の作品は結婚式の忌み言葉みてぇに避けられるわけだ。一部のマニア受けはするかもしれないが、商品としては売れないと彼らは踏んでいる。おそらく需要がないというその読みは正しい。だからお前が頑張れば頑張るほど彼ら彼女らのニーズから遠ざかっていく。いくらお前が作品に自己陶酔しようが、彼ら彼女らの琴線に触れることはない。彼ら彼女らにお前を理解させることは無理だ。まったく住む世界が異質なんだよ。それを俗人の世界と呼びたければ呼ぶがいい。向こうは狂っているのはお前の方だと判断するだけのことだ。どのみち彼ら彼女らの進む途上にお前はいないんだよな。最初から開きがハンパないんだよ。もっと他にもドロドロした嫌らしい理由もあるかもしれんが、それは横に置いといてな。一応それは置いといて、作品の出来とその結果を素直に分析していくと、そういうことになる。ついでに言えば、今の大衆が求めているものもお前の素質と相容れない。こっちの方も見事に噛み合わせが悪い。今んとこお前と同じテイストを好む読者は多くないよ。時代がお前についていけないのか、お前が時代についていけないのか。周回遅れはどっちだ。お前か? 時代か? あのラストの絶望的な暗さは何だ。もう少しぐらいハッピーな軟着陸ができないのか。読み終えた人は皆、くら~い気持ちになる。読んで損したって思うよ。読み手をそんなに置いてきぼりにして何が楽しいんだ。出版社も大衆の好みに迎合しないとこが、お前の致命的な欠陥だと見てるんだよ。“コイツ、自分がいいと思えばそれでいいと達観してるんじゃないのか? もっと大衆に受け入れられるようアレンジしろよ”ってとこだ。立ち位置がぜんぜん違うんだよ。それにリアリティーも足りない。いかにも作り物って感じに思われてる」
「バイロンが“事実は小説よりも奇なり”って言ってるじゃないですか。作為的にどんなに現実に見せかけても、小説である以上しょせん虚構であることに変わりない。事実には勝てないでしょう」
「いやいや、別に俺はリアリティーがないのを貶してるわけじゃないんだぞ。お前の作品は冷蔵庫の隅にある激辛高級辛子明太子だよ。ただの残り物じゃねえ。高級品だ。高級なのに誰も手をつけようとしない。口に合わないのか、遠慮してんのか。どういうわけか隅っこに眠り続けている。“物がいいのは分かるけど、この強烈な辛さ、どうにかなんない? 血圧が上がっちゃいそう”‥‥‥などとお前を嫌う人たちは色々と難癖つける。完全に異端者あつかいだ。選考する人たちがみんな激辛マニアだったらよかったのにな。てなわけで、そのうち腐っちゃう。それがお前のこれまでの作品だよ。これでも俺は俺なりにお前の作品を評価してんだぜ。できるだけ客観的に、できるだけ公平に‥‥‥‥」
「やっぱり僕だけ時代に合わず、独りぼっちで浮いてたかぁ。置いてきぼり食ってたんだな。どうもそんな気がしてたんだよなあ」
「いいじゃねえか、そんなことぐらい。岡本太郎って芸術家を知ってるな?」
「ああ知ってますよ。“芸術は爆発だ、グラスの底に顔があってもいいじゃないか”でしょう」
「彼なんて、人が“なんだ、これは!”と言わせるような作品を、敢えて創ろうとしていた。人が眉をひそめてゲテモノ呼ばわりしようとお構いなしだ。ずっと自分を貫き通した。評価する立場にある人が、ありきたりに評価するような作品なんて全然重みがないと思うぜ。彼は多くの人から評価される作品ほどつまらないと信じて疑わなかった。実際に『好かれるヤツほどダメになる』と言って憚らなかったよ。そういう生き方のほうがずっと自由だとは思わないか。お前が書くような狂気じみた作品の方が、かえって時代を超えて価値がある場合だって、きっとあるんだ。今の尺度で今を評価したって意味ないよ。俺が若いころは“消費は美徳だ”なんて言われてたんだぜ。ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代だ。聞いたことあんだろう。それが今じゃ省エネ時代を通り越して、一億総貧乏人時代じゃねえか。時代の流れなんていいかげんなもんだ。クルクル変わってくよ。───♪まわるまわるよ、時代はまわる、喜び悲しみくり返し───(^O^)♩🎶」
「中島みゆきの『時代』!」
「ピンポ~ン。クイズ・ドレミファドン! あ、この番組、若いお前には分かんねえかもな。大衆や業界や専門家がいま何を求めていようが、お前独自の価値を信じられさえすりゃあ、それでいいんじゃねえ? そこに上も下もねえよ。上とか下とかそんなのは、どこぞのずる賢いエゴイストがせっせと社会に刷り込んでる企みに過ぎねえ」
「箱村さんの分析が当たってたら、どうすべきなんだろう」
「居場所を変えるんだよ」
「居場所?」
「そうだ。商業ベースにのらない場所だ。これ、さっきから言ってることだよな。居場所が違ってたらダメなんだよ。どれだけ励ましの言葉で背中を押されても、そこが駅のホームの最前列だったらどうなんだ。線路に落ちて轢かれるぞ。いったい何回地獄に落とされたら気が済むっていうんだ。‥‥‥‥ゼゼコにならなきゃ始まらない、芸術性、文学性なんかよりもっと在り来たりな “それって、あるある”系を優先しろ! そうすりゃ少しは大衆受けする‥‥‥‥悪評は無名に勝る。心にもないヤバイ発言を吐いてネット炎上させろ! そうすりゃ話題になって少しは本も売れる。炎上を金にしろ!‥‥‥‥売れないとそんな雰囲気にも追い込まれかねない気の毒な場所とは縁を切っちゃえ。そんな場所、想像するだに息がつまるだろう。小説の世界は“聞いて極楽、見て地獄”の世界だ。そういう場所には、お前じゃなくて、ふさわしい人がちゃんと埋まるから、ほっときゃいい。そんなの出版社や選考委員に選んでもらった少数者にまかせとけ。お前、自分の足跡を残したくて書いてるんだろ?」
「ええ」
「足跡残すのは何も本に限ったことじゃないじゃねぇか。ネットの投稿サイトだって、古いのはどんどん消しちゃうって所でない限り足跡は残せる。紙の本がデジタルタトゥーに代わるだけのこった。そうそう簡単に消えてなくならない。お前が老人になる頃には、紙の本なんて折り紙みてぇに小さく畳まれて、どっか時代の隅っこに押しやられてるよ。賞を取って出版社に本にしてもらいたい? そんなお題目を唱えていられるのも、この先そんなに長くないぜ。お前の作風は特に若い連中には受けないだろうけど、足跡残すことが目的なら読まれる読まれないは関係ない。読むか読まないかなんて相手の問題で、お前の問題じゃないだろう。そんなこた、どうでもいいことだ。どんなに好きなことでも、仕事にすれば辛い。これ、世間でよく言われることだな。葉が枯れ落ちるのが冬だとしても、冬なら冬なりの美しさがある。歳をとり萎れゆく花になったお前。その花に水をやる場所はそこじゃないんだ。そこじゃない、もっと安心できる止まり木を探せ。俺が言ってることが少しでも当たってるなら、投稿サイトの方が少しはましじゃないか。そりゃそうだろう。俺とお前の経験則を合せれば、作品が選考関連以外の人の目に触れることはまず九割九分ないことが分かる。二人の全作品が一次で落っこてんだからな。それってまったく小説を書いてないのと同じじゃないか。ゼロだよ。ところが投稿サイトは作品を送信さえすれば百パーセント、ネットで不特定多数の目にさらされる。ゼロと百、どっちを取るんだ。読む読まないは読み手の自由だが、たとえ読むのが一人であったとしても、一般の人に読んでもらったことには変わりがない。ゼロよりずっとましだ。それだけでも出版社の文学賞に応募するより価値があると思わないか? 同じ労力を注ぐなら、そっちがいいに決まってるな。さっきから言ってるだろう。名を捨てて実を取れ。お前と違って、何十作も賞に応募して全部一次で落とされた汚辱まみれの俺が言うんだから間違いない」
「いつも通り一次で落とされたら、その落とされた作品を投稿サイトに送ったら? そうかぁ、箱村さんの頃はそれができなかったのかぁ。ネットで公開すれば、『出版社にまた落とされた。俺は意地悪されてる』なんて見当違いの逆恨みする人だって、少しは憂さが晴れたりするでしょ?」
「何、こすいこと言ってんだ。そんなの俺が若い頃おんなじ作品を同時に幾つもの出版社に送った過ちと似たり寄ったりじゃないか。それってどうなんだ? 古本屋の朱書き値札か、それともスーパーの値引きシールか。そこまでして自分の作品のバリューを下げたいのかねぇ。恥はないのか、恥は。それでも金玉ついてんのか」
「現代は再利用、廃物利用の世の中ですから」
「ニタニタしながらそんなトボケをかますなよ。俺は真剣なんだ。文学賞なんかに深くハマってしまったら、情けない一生をおくることになるぞ。新人文学賞に応募する? そんなの旧日本軍がアメリカ本土にむかって風船爆弾を飛ばしたようなもんだ。太平洋を挟んでるんだ、太平洋を。そんなの届くかよ。お前に俺の二の舞は演じさせたくない。桜の花ビラが落ちる速さは、雪が降る速さとだいたい変わらないんだぜ。プロだけが表現者じゃない。人として生きている限り誰だって今すぐ表現者になれる。出版社だろうと投稿サイトだろうと変わらないよ。風が吹けば花ビラは散り、地面におちれば雪は溶ける。どちらにしたって無常ではかないことは同じだ。でも一山当てようなんて下らないことを考えていない限りは、投稿サイトのほうがいい。夜、投稿サイトの小説を孤独に読むような奴は、負け犬の悲哀を癒したがってる。失敗とヘマだらけのお前の赤っ恥人生を書いてやれば、それを読んで癒しや力をもらえたって奴も現れるかもしれないぞ。 『元気を出せ。上を見るな、下を見ろ。そこにはお前よりもっと世渡り下手な俺がいるじゃないか』って感じだ。ただしそんなに多くの人は読んでくれないだろう。当り前だな。大手出版社じゃないんだ、宣伝力はゼロ、てか最初から宣伝する気なんてサラサラない。おまけに若者受けしそうな作風でもない。これじゃ、どんな優秀な作品だって読まれない。だいたい海のものとも山のものとも知れない素人の作品に、ネットをさまよう読み手がそんなに反応するわきゃない。けれども読む人が多くないほうが、逆に自由で気楽に書けるからいいんじゃないのか? ほら、たくさんに読まれちゃうとなあ、重箱の隅をつつくような粗探しをして、難癖つけてくる奴が必ず出てくるだろう。ケチつけるのが生き甲斐って奴がいる。そんな奴は悪かろうがよかろうが関係なく、何でもケチをつける。辛口の評でも無いよりマシ? 冗談じゃねえ、そんなもん無いほうがいいに決まってらぁ。プロじゃないから“たくさんの人に読ませて儲けろ”って、上から鞭打たれてるわけでもないしな。まぁいずれにしろネットの広大な広場に転がしときゃ、そのうち拾う奴も出てくらぁ。そんな奴が一人でも二人でもいてくれたら、世のため人のために一肌脱げたってことにならないかぁ? それって誰かにとって価値ある存在になれたってことだろう。誰だって自分の価値を実感できれば嬉しいじゃねえか。お前の人生の、みっともない失態と挫折の数々。つまずきとズッコケの連続。誰かの役にたつよう使ってやらなきゃ、その苦い経験も浮かばれないじゃねえか」
「そういえば“喜びも苦しみも神が与えたもの。十分役立てなければもったいない。”というインドのことわざがあったなぁ。ヘマも多くの人のために使え、ということか。うん、たしかに有効活用だ」
「そんなことしたって何の得にもならないし匿名だから承認欲求も満たせない。人知れず自尊心が満足する程度かな。けど全ての人間が死ぬのと同じで、全ての人間はどうせエゴと欲の塊なんだ。少しぐらい気持ちよくさせてもらったぐらいで罰はあたらないよ」
「人生は苦しみの砂漠、それでも潤いの水が少しでも与えられるなら───」
「さあ、それは分かんねえ。お前自身の問題だからな。まずはその時が来たら試してみな。投稿サイトなら自分の日常をほとんど変えることなく、それが試せる。ただ気が向いた時に三十分か一時間、小説書くことに時間を割くか割かないかだけの違いに過ぎない。若い頃ちょっくら小説で敗北感を味わった、そんなことぐらい物の数じゃないぞ。むしろ貴重な体験だ。おかげで、調子に乗って出版社の賞に応募すれば全てブチ壊しになることを厳しく学ばせてもらえるんだ。お前のことだ、これからも一杯失敗をやらかすよ。だけどいくら順風満帆にいってる奴だって、老いと病と死の前にいつか敗北する。人間である以上、百発百中の確率で必ず敗北するんだ。究極の敗北感、そのリハーサルを何度もやってるお前の方がずっと人として格上じゃないか。それを皆のために役立てようぜ。お前も俺も枯れていくのには抗えない。どんどん弱れば、読んでもらいたいともさほど思わなくなっちまうだろう。評価されることにも認知されることにも関心がない。人と繋がりたいとも思わない。もちろん今と違って、金もビタ一文もらいたがらない。とりあえず完全に枯れきっちまう前に、恵みの雨を砂漠にドバドバ降らせようぜ」
「そうかなあ、いくら歳とって弱っても、金くれるって言われたら、雀の涙ほどでも喜んで貰うと思うけど」
「矜持の欠片もない奴だ。きれいごと言うようだが、まず与えることだけ考えろ。あんたの与えるもんなんていらねぇって、どうせ言われるに決まってるんだが、そんでも心意気ってもんがあるだろう。これだけしてやったんだから、何かをよこせ。そんなふうに考える人間を神さま仏さまが好くと思うのか。なるほど貪欲で計算高い人なら少しは金持ちになるかもしれない。だけど心のなかは貧しいままだ。自分より裕福な人がこの世に一人でもいる限り、満足できず欲求不満に苦しむからだよ。佳境に入ってきたのに、なんで俺の言葉尻をとらえてそんな生臭い方にもって行くかねぇ。本質から横道にそれるなよ。なんだ、今カッコいいこと言ってたばかりなのに」
「カッコいい話はどうもね、嘘くさくて。『ねえ、こんな立派な僕を見て』的な臭いがしてくるんですよ。箱村さんが言うとおり人間なんてみんなエゴと欲の塊なのに。“金の問題じゃない”って粋がる人ほど普段からピーピーしてるときたもんだ。ねぇ、そうですよねぇ」
「ピーピーで悪かったな。金で尊敬は買えないぞ。丸めた札束で尻をツンツンされたら、ドッコラショと動き出すのか。やっぱしお前は、顔の皺に人生が刻み込まれはじめる歳まで書いちゃいけねえな。俺の読みの通りだ。若い頃のお金の重みと老いてからのお金の重みは違ってくる。歳とりゃぁな、まともな老人なら肩書や名誉の重みが軽くなるのと同様に、金の重みも軽くなるんだ。欲望そのものが枯れていくからな。歳とりゃお前も分かるよ」
「そうかなあ。いくら爺さんになってもギラギラしてる人、政治家や有名人に一杯いますよ」
「違うな、分かってねえ。もしバンクシーに後ろ盾がいて、裏で金をガッツリ貰ってたら幻滅だろう。奴は匿名かつ無償でこっそり壁画を描くからカッコいいんだ。それって名誉欲と金欲を最初から捨ててるってことだろう。カッコいいじゃねえか。今は若くて健康で、しかも飢えてるから、金、金って思うんだ」
「バンクシーって絵を売って莫大な収入があるんじゃなかったっけ?」
「あ、そうなの?」
「そうだと思いますよ、記憶違いでなければ」
「うわ、アジャパーだ。呆れて社長の口癖まで出ちまうってんの。アイツも銭ゲバか。こりゃ幻滅だぁ。バンクシーはもういい、もうアイツは駄目だ! おい、お前、エドワード・L・デシのモチベーション理論、知ってるか?」
「知ってますよ、有名ですから。飴と鞭で人のモチベーションは操れないってやつでしょう。飴を与えちゃうと、かえってヤル気がそがれてしまうことだってある‥‥‥あの実験で使ってたのって積み木のパズルでしたっけ、何だったっけ、忘れちゃったな」
「ああ、ソマっていう、めちゃ面白い立体パズルだよ。あの実験のことを一度でも読んだり聞いたりしたことあるなら、何でお前は金、金、金ってほざくんだ。おさらいすればだな。パズルに病みつきになった学生たちを二つのグループに分ける。一方のグループには一問解くごとに一ドル、金をやった。もう一方のグループには何もやらない。どっちのグループがよりパズルに熱中して楽しみ倒したか。もう結果は知ってるよな。金をもらわない方だ。彼らは休憩もとらず、自由時間返上でパズルを続けた。金をもらったグループは自由時間にはパズルをやめて休憩を取りくつろぐか、別のことをしていた。加えて、もしパズルを解く速さや正確さに順位をつけたり、優秀者を表彰したりしたらどうなるか。学生たちはますますパズルを解くのが楽しくなくなり、モチベーションはもっと下がっちゃっただろう。これ、小説にも同じく当てはまると思うぜ。少しは金にはなるかもしんねえが、なんでわざわざプロ作家になって出版界やその他の業界の人たちに自分を管理、コントロールさせようとするんだ。成果主義、評価主義のただ中に身を置いたってロクなことないぞ。もともと楽しいはずのことも、余計なものがくっついてきたら楽しくなくなる。というか、苦しみに変わっちまう。おまけにナントカ賞、カントカ賞とかいう人参を鼻先に吊り下げられて、どうして他人様の評価軸に自分を合せて競争させられなきゃなんない。お前みたいなタイプは、モチベーションだだ下がり受け合いだ。どうせ人生の幸福値を最大化させようとしてプロ小説家なんぞを目指してんだろうが、逆だよ。そんなの自らの手で人生の幸福値を最小化しているようなもんだ。どんなに本人が面白いと感じることでも、そこに代価や評価が入ってくれば、途端に面白くなくなるってこと。なんでこんな単純なことを分かろうとしない。それでも俺の言ってることが信用できないなら、耳を澄ませ。そこにいる未来の彼に訊いてみろ。未来も今、お前と共にあるんだからな」
「な、何ですか、それ? どういう意味? 箱村さんは時々チンプンカンプンなこと言うんですもん」
「慌てんな、時が満ちるまで待ちな。この場所は今、複数本のタイムラインが交わってんだ。なあにいずれ嫌でも知らされることになるよ。それはそれとしてだ、じゃあ聞くが、俺の作品でもお前の作品でもいいが、あれでホントに金とれると信じてるのか? みんなが金を出してまでして読もうとすると思うのか? 正直に言えよ」
「‥‥‥‥‥」
「どうした、社長みたいに急にオネンネか。ひどい勘違いをしてるぞ。あんなの二束三文にもならねえ。なんの変哲もないジジイが御大層に自叙伝を出そうとする場合は、通常自費出版だろう。著者の方が制作費用の全額負担するんだ。払うのは向こうでなくて、こっちなんだよ。そんなの常識中の常識だろうが。普通、書店にも置かれない。買う奴なんて誰もいないからな。せいぜい知り合いか親戚ぐらいのもんだ。つまり自分の葬式のとき会葬者に配るためだけにある本なんだ。出版社の賞に全て一次で落とされて自費出版社の社員しか評価してくれないような作品は、負の商品価値しかないから、向こうでなくこっちが金を払うんだ。そうだろう、金くれるなんて変だと思わなきゃあ。平凡でどこにでもいるようなズンベラ坊が、体も使わず頭脳労働だけで稼げる世の中だと思ってるのか。お前が過去にそれに相応しい行いや思いを積み上げてきたのなら、それもいいだろう。けど、そうでなけりゃ、金なんかもらったら必ずはね返りがあるぜ。そのうち怒鳴りまくられて、何倍ものお金をふんだくられて、泣き寝入りってとこが、せいぜいだ。かりにそうでなくとも、少額でも貰ったが最後、しがらみが出来て少しずつからめとられていくのは目に見えてる。今のお前にはそれが分からないが、ジジイのお前にはよく分かる。歳をとれば老眼で文字は見えづらくなるが、それと引き換えに若い頃に見えなかった大事なことが見えてくるんだ。恐れるべきはただ一つ、奪われることだけだ。決して近づくな、奪われるぞ。歳をくったお前には、至る所に自分から奪い取ろうとする落とし穴が仕掛けられているのが見える。幸いウブなお前も、歳くえばそれぐらいの分別はついたようだな。若いころ痛めつけられた経験が今になっていきている。人生、若い頃に痛めつけられるに限るな。試練で得た教訓は若いほど、死ぬまでのより長きにわたって活用できるから、なんてったってお得感がある。コロナワクチンみてぇにしばらく経ったら免疫が効かなくなっちゃうのとは違うぜ。それもこれも最初に向こうがボタンを掛け違えてくれたおかげだ。今さら最初からボタンを掛けなおさせるには手遅れ。もう残り時間がそれほど残っちゃいないからな」
「確かにそう言われてみると。最低限生きていくのに必要なお金さえあればいい。それ以上のお金を貰っても、そのお金をどうやって自分や他の人の幸せのために使うか頭をしぼらなきゃいけない。そんなの面倒だな。備えあれば患いなしに資するぐらいの大枚くれるんだったら話は別だけど」
「なんだ、まだせびり取ろうとしてんのか。金の話はいいかげん興醒めなんだけどなぁ。口を開けてオコボレにあずかろうとするなんて、そんないじましいことすんなよ。そういうとこが今のお前の間の抜けてるところだ。そんなに金が好きなら公務員目指すのやめて銀行員になれ。自分の金じゃねえけど、嫌と言うほど札束を数えられるぞ。金をもらわなきゃ小説書かないってんじゃ、ホントに小説を愛しているってことにはなんない。小学生でも納得いく理屈じゃねえか」
「僕が小学生なら何か詭弁くさいなあって思いますよ。“金いらないなんて、嘘つき!”ってなる。お金儲けは悪いことなんですか?」
「ふん、村上ファンドか。ませた小学生だぜ。んなことだから、いいように操られて痛い目に合うんだよ。飢えた若者にいくら言っても無駄なのかなぁ。自分の立場の弱さを計算にいれて考えることができないからな。やっぱジジイになるまで待たなきゃダメだ。梅干ジジイになってから書きな」
「梅干ジジイなんて言葉があるんですか。梅干ババアだったら聞いたことあるけど」
「ババアがありゃ、ジジイもあるだろう。ネットかなんかで探しゃあ、そんなハンドルネームだってあらぁな」
「ジジイ、ジジイって。僕、まだ若いですよ、何十年待てばいいと‥‥‥‥」
「しょうがねえな。黙っとこうと思ったが、白状するよ。俺がそう言うのは、お前の人生のストーリーがぜんぶ見えるからだよ。平凡な職業に就いて小説の呪縛から解放されたお前は、今まで書くために苦しみながら読んでいた小説が、余暇の娯楽の一つにころっと変わっちまう。もう苦しくない、楽しい。そうしてそのまま歳をとり、今まで人生を楽しませてくれた小説に恩返ししたくなる。だからジジイは書くんだよ。どうせ誰も読まないだろうと思っても、もうすぐ老化で書けなくなるのが分かっていても。微力ながらも恩返ししたくてな。恩返しなら無償でしなきゃおかしいだろう。一円でも貰っちゃぁな。労働の対価じゃないんだからよぉ」
「なにを言い出すんですか。どうして僕の未来が見通せるんですか。あんまり長く無駄話してるから、調律しないピアノみたいにだんだん音がずれてきてません? それどう考えても変ですよ」
「だから黙っとこうと思ったんだ。今のお前は絶対信用しないからな。なぜ俺が見通せるか。それはお前が既に自分の人生台本を書きあげてこの世に生まれて来てるからだ。俺みたいに霊格の高い人間はそれを読ませてもらえるんだよ」
「なんてSFっぽいこと言ってんですか。箱村さんは江原啓之ですか。僕は箱村さんのソウルメイトですか。江原啓之でもそんなことは言わない。本人でさえ未来が分からないのに、なんで箱村さんが分かるんですか。アホらし」
「本人に分かるわけないじゃんか。分かったら生まれて来る意味がなくなちゃうだろ。もちろん脚本家はお前だ。お前が書いた脚本だから筋書きを変える権利もお前にあるよ。だけどそっちを無理して選ぶと若くして死ぬことになっちゃうんだ。だから書き換えてもらったら困るんだよ。これで俺が必死でブロックする理由が分かったか」
「ぜんぜん。全く分かりません」
「いいよ、それで。気長にいく。最初から分かるなんて思ってないから。ともかく理由はどうでもいいから、ジジイになるまで待て。そうだよ、ジジイはもう質素な生活が染みついちゃってるから、今さら餌には食いつかないはずだよ。今となっては欲しいのは自分を表現できるほんの少しのスペースだけ。それだけあれば十分だ。たぶんそんなジジイになってるだろうよ。はてさて、このジジイは何でそこまでして書くのかな」
「それ、質問ですか? 話がどんどん分からないまま先いっちゃうから」
「お前が鈍くさいからだよ。さあ、答えてみろよ、知りたいな」
「書いているときだけ自分が意味ある存在だと思えるから。生かされている実感っていうのかな」
「そのものズバリ言い切ったな。そんな未来のことがなんで分かった。占い師みてぇに水晶玉をのぞいたら見えたのか。ホントは恩返ししたいからなんだが、まぁそれもあながちハズレじゃないんで合格点だ」
「なぜか、ふっと浮かぶことがあるんですよね。心の深い水底からポッカリと遠い未来の気泡が浮かび上がってくるんですよ。次第に輪を広げながら‥‥‥‥ずっと未来と今とがシンクロしてるみたいに。僕がまだそこにいないはずの遠くの未来から突然、自分の声が語りかけてきて教えてくれるよな、そんな感じ」
「なんなんだ。タイムトラベル、四次元旅行か。以前もおんなじようなセリフを言ってたぞ。なんの呪文だ、般若心経か。もうセリフがオートメーション化されて出てくるんじゃねぇのか? 耳タコだぞ。それって正確に言やぁ、未来からやって来るんじゃなくて、ここにいるもう一人のお前が過去をたぐり寄せてるだけのことだよな」
「どういうことでしょうか、またまた意味が皆目分からない」
「いずれ分かるよ。まぁそりゃともかく、そういうジジイになってるってことが、これまでずっと何とか正しい選択をし続けてこれた証なんだよ。今はそうは思えないだろう。今は自分の人生、お先真っ暗だと思っている。そんだから作家になって世にでなきゃあ、などと超現実離れした話にしがみついてるんだよ。そんな妄執に囚われるな。大丈夫だよ。今どれだけ悩み苦しむ泥縄状態であろうが、将来は確実にそういうジジイになってる。なぜ分かるかっていうと、俺は今も信号を受け取ってるからだよ、なんていうかな、パラレルワールドみたいなところからその信号は来ている。書いているときだけ自分が意味ある存在だと思える────そう思ってジジイは今も書いているよ。こう感謝してるみたいだな。まだ思うほど鈍ってないおかげで、下らないものでも曲りなりに書くことができると。だから自分の小説はおろか、この世に小説を読む人自体が一人もいなくなったとしても、全くこたえない。自己完結しちゃってるからだよ。ジジイは不死身だ。聴衆は一人もいない。喝采もない。だけどお前は一人、ステージ上で歌い続ける。なんと言っても、そこから生活の糧を得る必要がないのが大きい。物書きを生業にしてないから、うっかり金をもらっちゃって自縄自縛になることもなければ、締切りに追われることもない。仕事のコスパをいちいち考えることもなければ、売り上げ部数の少なさに悩むこともない。編集者から突き返されることも『ここ削れ、ここ書き加えろ』とドヤされることもないぞ。もっともジジイの与太話なんか、どんな優秀な編集者でも手直しのほどこしようがないか。駄目なら駄目で結構、好き放題書き殴ってありのままをネット空間に吊り下げとけ」
「今でも評価されないぐらいだから、爺さんになって水っぽいものしか書けなくなったら、なおさら評価されないだろうな。なんだ、この欠陥だらけのお粗末な作品はって。みんなから笑われちゃう」
「それがどうした。笑いがとれたなら悦べ。ジジイは感性が干からびて、人間そのものが水っぽいんだ。出て来るものが水っぽくて何がおかしい。だいたいお前の作品が水っぽくて、つまらないって言う奴はどういう奴なんだ。モーモーと鳴く馬に向かって『馬はヒヒーンと鳴くもんだ。モーモーと鳴くなんて小説としてつまらない』とでも言っているのか。『馬の鳴き方はその馬が決めることだ、貴様じゃない』と噛みついてやれ。欠陥だらけで何が悪い。不完全で何が悪い。読みたい奴がいたら読むだろう、いなければ読まない。ただそれだけのことだ。どっちでもいい、好きにしてくれたらいい。厚かましくいかなきゃな。作品が不完全だとか欠陥だらけっていうのは、裏を返せばどういうことだと思う?」
「どういうことでしょうか」
「普通と違うってことだろう。普通と違うってことは、見方を変えれば優れてるってことだ。普通のマラソンランナーより車椅子マラソンランナーの方が優勝タイムが上回ってるだろう。欠陥なんかじゃねえんだよ、個性なんだ。作品の完全不完全とか欠陥の有る無しとか、そんなもの詮ずるところ誰かサンがそう言い張ってるだけのことだ。何もこっちからそいつの物差しに合せてやることはねえ。目が一つしかない人を見て、この人は不完全で欠陥のある人だと決めつけるのか。だったら目が三つある人はどうだ。やっぱり不完全で欠陥のある人って決めつけるんだろ。そんなのおかしくねえか」
「それってスピノザのエチカでしょう。あの有名な、角が一本しかない牛と二本ある牛の話‥‥‥‥」
「だからぁ、たまたま読んだのをひけらかすなちゅーの。そういうの、うぜえんだよ。お前の哲学のつまみ食いにいちいち付き合ってられるか。俺はスピノザなんて読んだことないし、牛の角の話なんかしてない。人の目ん玉の話をしてるんだ。スピノザとかキルケゴールとかゲーテとか、お前の悪い癖だ。そんなことより俺が言いたかったのは‥‥‥‥あれ? 俺、なに話してたんだったかな、ああ嫌だ嫌だ、歳はとりたくねえよ」
「あれですよ。小説はおじいちゃんになってからネットに投稿するだけで満足しな、っていう話」
「おうおう、そうだそうだ、そうだった。若い奴はトロくなくていいな。いいか、ジジイは命の残量が少ない。だからかえって自由だとも言えるんだ。イタチの最後っ屁だよ。デブおじいちゃん、花菱を見習え。アイツみてぇに好き放題やりゃあいい。書きたくなったら暇つぶしにチンタラ書けばいいんだ。気楽なもんだ。でも年とったらなかなか書きたくなんないとも言うから、サグラダファミリアみてえに書き始めた作品がいつまで経っても完結しないかもな。寄る年波には勝てない。俺だって今、若い頃みたいに書けって言われたって土台無理。毒にも薬にもならない、欠伸の出そうな超駄作しか書けないもんな。でもそれで一向構わないよ。老いぼれが書くもんなんて古臭くて読めねえ───そう迷惑がる奴もいるだろう。文句が出たら言わせとけ。だからネット空間にわざわざ吊り下げてるんだ。架空のペンネームで出してるから、誰もお前が書いたなんて気づかないよ。それに気づく鋭い奴がいたとしても、せいぜいチョロチョロ数人いるだけのこった。こっちとら、余生の趣味や気晴らしの一つでやってるに過ぎないんだ。ジジイの時間は加速度的速さで流れ去っていく。そりゃ一日のうち無意識で行動する時間が若い頃よりどんどん増えていくから当然そうなるよな。そのうち無意識だけになって、最後にはその無意識すら消えてしまうんだ。古臭くてどこが悪い。どうせもうすぐ死ぬんだからよ。自分の死を前にしたら、そんな取るに足らないことに付き合ってられない。実をつけるためには花ビラは枯れ落ちていかなきゃな。俺もお前もそんな花ビラどうしだよ。歳くったら、きっとそれが分かってくる。分からず死んでいく奴も多いけどな。だが幸いお前は違っていた‥‥‥‥‥しかし何だ、たかがお前ごときのことで、なんでこう熱くならなきゃなんないんだ。いいかげん馬鹿らしいんで話をガラッと変えるぞ。いいか?」
「どうぞどうぞ、お気の召すまま。独演会、続けちゃって下さい、面白いです」
「その前に小便だ。あれ? ちょっと前に行ったばかりなのにな。おかしいな、歳かな?」
「過活動膀胱ってやつじゃないですか? 僕もつれションします。つきあいますよ。ノッポとチビの頻尿親子だww」
そう悪ふざけを言うと、
「親子ってのはねぇだろう、せめて頻尿兄弟とでも言えよ。それとも一心同体だから双生児か」と、箱村はふざけ返してきた。ギャグの意味が分からない。
「双生児?」
「ソーセージだよ、あそこの」
「え?」
「何だ、その間抜け面は。おもろ過ぎて漏れちゃうじゃんか」
大のおとなが馬鹿げた下ネタを上からかぶせて笑い転げている。箱村さん、そんな戯言、小学生でも言わないぞ。下らなさもここまで来れば、芸術の域だ。
(27)
精神病棟の一室、男はベッドの上で浅い夢を見る。今夜も言葉が波となって押し寄せてくる。頭痛がする。言葉が‥‥‥‥言葉が湧き出てくる。何のつながりもない言葉が自在に動き出す。
ああ、頭痛がする。言葉が息つく間もなく溢れ出す‥‥‥言葉があてどもなく想像の荒野をさまよう‥‥‥。
倒立する深淵のような空。大地の鏡に映された、もう一つの空。ガラスの水平線。穴底の闇。暗雲の黒手袋が私の脳みそを掴む。海の底に揺らめきながら落ちていくカミソリ。急に冷却される焼けた刀。海原のむこうで火を吐く龍。怪鳥の翼の陰に隠れる男。墓場の扉を開こうとする、地鳴りのような悪魔の声。
軍服を着た幻の兵士の影が、地べたにうつ伏せになってひしめいている。兵士達は数知れぬ私の分身を踏みつぶして行進する、前方に見える白い楼閣に向かって。ふくらはぎにかかった血しぶき。廃墟からうめき声が聞こえる。切断された切り口にべっとりと土がこびり付ついている。鉄板をナイフでひっかくような悲鳴が触手となって絡みつく。
空に向かう二本の平行線が重力の歪みで交わるところに何物かの眼玉があって、私を見おろしている。遠い異国の街に影のない男がいて、そいつが語りかけてくる。快楽の海に浸る頭が、森の深奥へと続く暗い闇にむかって、青白い炎に包まれて、燃え尽きながら転がっていく。
壁に吊り下がった鏡の中に、髪をふり乱し斧を振り上げている老婆が笑っている。徒刑場のカサブタからは血が噴き出している。爪は閃光をはなち、人々は魔天へつづく階段の影のもとに立つ。解剖台には頭を砕かれた子供の人形がピクピク手足を痙攣させている。
闇の牙が獲物の首を噛んでいる。神の遣いが私の運命を切り落とそうとしている。死人の口に血潮があふれ始める。ブヨブヨの溺死体がコンクリートにぶつかって砕けた。床に落としたモザイク壁画。人の形をしたアイスキャンディーと飛び散る破片。
時計の秒針が手首を切りながら、その脈拍を死人の耳たぶに刻々と伝える。歯車が透明な水車となり、永遠の心臓に女神の血液を流し込む。私の手や足や頭が、操り人形の糸を切るように闇の底に落ちていく。
上昇するエレベーターには鎖の首飾りが絡みつき、餓鬼がそこに宙吊りにされたまま浮かんでいく。鉄塔から見下ろすと、はるか下方には内臓や目玉や血液がからまりあった巨釜があり、蠅の頭をした人間がそこに顔を突っ込み中身を食っている。ここは地獄だ、私はいま地獄にいる。
最後までお読みくださり、有難うございました。
赤井かさの(ペンネーム、挿絵も。広告は違います)
霞ゆく夢の続きを(3)