美少年と殉教

 恰も冷然硬質な壁から背徳の滴りおちるような、打ち棄てられた人間を囲う牢獄めいた石張の密室である。
 其処はどぎつい深紅の淫靡がトロリ水音と照るような印象、恰も後ろめたい熱帯雨林の籠る湿潤な雰囲気が張りつめているようなのだった。
 湿り潤う、鼻腔をすべらかにみたす甘やかなroseの香気が漂っていた、それは嗜虐を被ったために乱れている、ウェーブのかかりふっくらと豊かな黒髪から立昇っているようなのだった。
 囚われの美少年。
 その、果実がまっさらに剥かれたようにしろくほそい手首、それはいたましい様子できつい銀に燦る靭い革紐に繋がれてい、しなやかに華奢な線をひくうら若き肢体には、さながらに夜空めく群青色のガウンを羽織らされている。少年は、古びた鉄のベッドにくくりつけられている状態なのだった。傍らにはプロのサディストを称する中年の男、かれ、少年が実際に受ける肉体的損傷に対してさらに凄惨な印象をパフォーマンスとして観衆に魅せる、サディズム的ショーのプロフェッショナル、また悲愴無惨なる悲鳴や鞭の音色を、観衆の官能の深みへ快楽音楽として抉りこむアーティストでもあるというのが自称であった。男は鞭を幾たびも少年へ振りおろし、ピシャと凄惨な肉と暴力の交じる甘美な音を迸らせて観衆を酔わす、そのたびに少年、なにか嬌声めいて聞えるかわゆらしい悲鳴をあげていて、びくびくとちいさく締まった尻を跳ねさせる。しばしば背をのたうたせ、男に暴行されるがままとなっているのだった。
 ステージから二メートルほど離れたところには数脚の椅子があり、そこははや、真剣なそれとみまちがうほどに無我夢中な注視する眼差し、陵辱の現場を眺める、惨たらしく濁った液の溜り吐きだしたくなるような残酷な欲望を抑えられぬ男たちで満席である。
 客の一人である倉元は、その綺麗な少年の、恰もdiamondの硬さの匂うような肌を注視していた。
 陶器さながらに照る、硬質な乳白色の肌はいかにも若きそれ、恰も赤々とした灯を撥ねるような象牙の燦りを表面に遊泳させたそれは世にも肌理こまかい様相である。そのナイーヴな硬さを呪い穿ち砕くように打たれた印──紅(くれない)の凄惨な傷痕が、まるで完全にすぎるかれの美貌の、魅惑的なアクセントとしての役割を果たしているようなのだった。それはかれがうごきのたうつたび、宝石の波紋様さながらに陰翳として這うように見え、その翳、いたみに躰をくねらせるたび靡らなしなり方で翳うつろわせ、魅惑の腰はクイと波打ち男たちに欲情の火をともす。
 その悲痛きわまる情景を傍観者として眺める悦び、まるでぞっと甘い憐憫の薫りで倉元のふかい官能を舐めるようでもあるのだった。かれはこれまでの少年の肉体的ないたみを想い、事情不可解だが如何にも不幸な境遇なのであろうと想像し、どんな人生をおくれば斯く状況に往き着くのだろうと同情の愉悦に満たされた。美少年の潤みの豊かな切れながの眼から、つ、とさみしげな印象で涙が頬を伝った、その殉教めいた絵画の立ち昇る象徴的情景、それにかれふるえるような憐み・圧し揺るがされるような感動をもよおした、して、かれの神経はそのいたましい共感的な想像にまるでわななくよう。
 倉元はしかし、そんな感覚をむしろ愉しむ性癖なのだった。憐れみと美的感動の交叉する点は、恰も至上の快楽をそこから滴らせるよう。かれの欲望の暗みの泥沼から、おどろおどろしく射し昇る炎の湧き、かれじしんへもいたみと刺して交叉するような悦楽、同苦しながらそれを愉しむというある種高度にして最低劣な悦楽、そいつははや、シャーデンフロイデという幾分ペダンチックな趣きのある言葉をむりじいにつかうよりほかはあるまいが、然し、それともやや異なるともいえるだろう。この、残酷な、ある種自罰にも転じえるような、情緒をいたみにふるわす、暗い歓び。
 黒猫。
 そんな名で、少年はよばれていたのだった。本名はなんというのだろう、かれの美貌に所有欲をもよおしたために、倉元は詮索したい気持になりもしたのだけれども、しかしかれの立場を想うと、果たして戸籍が在るのかさえもさだかではないのだった。何故ってこんな社会的立場が、行政に許されることなどあってはならないから。黒猫というのはいわば源氏名であるように推定される、しかし、かれの在る状況は水商売のそれというよりむしろ捕虜、或いは監禁された性奴隷、乃至見世物の美しい獣のそれにも似ているようなのだった。
 しかしながら、かれ打たれ瑕負うごとに、高貴な雰囲気が香気と曳くような佇まいを立ち現すよう。倉元は、そのみずからよりも劣位に沈むが故に優位に昇るような高貴性を、呪い砕きたいような感情である。黒猫へ降る暴力の銀の弧を曳く雨の情景、手を下しているのが自分ではないという状況、傷を負い手折られた花さながらに項垂れて往く美少年の肉体的状態、これらのうながす感覚は心身にやみつきの激情をかれの肉に駆り立たせ、いま、倉元の情緒は夢みるような高揚に打ち震えていたのだった。
 やがて極度の疲弊のために、少年は力なく横たわった、「立ち上がれや奴隷が!」と男は野太い声で叫ぶ、牢獄の陰鬱な暗みのなかで、真紅の花々に装飾されたかれのまっしろな裸体は、無辜の白い薄明さながらにみえた。刹那幻惑される、おどろおどろしいましろの宗教的絵画の印象。それは恰も殉教のおそろしい美と歓びをめざめさせるよう。倉元がそれをみすえたとき、みずからの性的嗜好の卑しさと、暴力に濡れ罪の張る眸の濁りに呆然とする。かれは此処を退館するたびに、こまかく穢れを拭い落すように手を洗う卑怯者。はや、この場所へは来ることはやめよう──そう毎度決意するのだけれども、またこの場所を訪れてしまうのが、倉元の弱い性情をかれの自我へと突きつける。

  *

『殉教』
 倉元が、その肌粟立たせる名の性風俗俱楽部の存在を知ったのは、仕事帰りに訪れた風俗街のビルで、怪しげな看板を発見したことがきっかけなのだった。
 かれは二十七歳、まだ若き情欲をもてあますであろう年齢、それは時と場合によれば、暴力的なそれをだって産みだすこともあるかもしれない。ひりつきささくれだったような状態の神経は、時にかれをぞっとする程残酷にするのだった。かれはゲイではなく、いわくバイ・セクシュアルだった。ただ、どちらかといえば女には甘えたがり、じぶんよりも若く美しい男をなぶってみたいという、欲情の質の違いがあるのだった。
 かれは娼婦としか寝たことがなかった、ゆきずりのワンナイトラブ、そんなものはかれには無縁だった。むしろ、そんなひととき限りの関係はロマンチックにすら想えるほど、女性との縁に乏しかった。直接的ないいかたをするならば、かれはセックスに飢えていたのだった。淋しさにひりつく意識がくるおしく、息も喘ぐようで、どうにか普段社会で被っている仮面を剥ぎとって、ありのままの肉体の深淵から染みるすべらかな体液を潤滑液とし、魂の恥部を結び合わせ、そのまま他者と融解しどっと果てへ投げだされてみたかったのだった。いずこへ、というのはおそらく、空無へ。
 しかしかれには、娼婦というけっして断じて自分を求めていない女性と寝ることに、殆ど快楽をえることができない。
 かれの劣等感は、女性を誘うことをいつもためらわせる。女性のこころを刺激しない、魅力なき男。臆病者。卑怯者。そうであった。
 かれ、意を決して重厚な扉を開ける、受付には誰もいない。ベルを鳴らす。しばらく人が姿を現さないので、かれは壁に書かれてある注意書きを読んだ。

 当店は、美少年をいたぶるSMプレイの様子を観覧できる施設となっております。すぐ目の前でハードな陵辱が行われる様子を、どうぞ座って、何もせず、ご覧ください。「椅子から立ち上がる」「暴行・暴言」「盗撮」など、違法行為が発覚した場合、相応の対価を強制的にお支払いいただきます。

 やがて男が現れた、かれスタッフのようである。
「初めてのお客さんですかね。内容は、いま見られている注意書きの通りです。ご参加されますか?」と訊かれた。
「はい」
「三万八千円になります」
 かなり高価だと想ったが、なかなか実際にみることはできないだろうという好奇心もあって、あっさり払ってしまう。
「こちらです」
 奥にある部屋の扉まで連れていかれた。扉を開けながら、ややドスの効いた声で男は話し始めた。
「お客様は絶対に手を出さないでくださいよ。たまにいるんですよね、興奮して立ち上がり、暴力にくわわろうとするお客がね。うちの嗜虐者はSMのプロですもんで、ちゃんとした訓練を受けているんです。うちの商品はいうなれば、アングラ業界の文化記念物みたいなものですから、残さないといけないんですもんで、たとえば修復のむずかしいほどの怪我をお客様が与えてみる、そしたらわたくしどもも、相応の対応をしますんでね」
 白いシャツに、グレーのベストを着た肥った男である。髪型は艶っぽいオールバック、強い外国製煙草の薫。堅気ではなさそうなスタッフがそう忠告すると、倉元はヤニの香りのついたジャケットを脱ぎながら、黙って頷き男が指さした椅子に座った。横をみれば、十人に満たないほどの暗い顔をした男達が座っていた。目の前は濃紺のカーテンに覆われ、向こう側はみえない。
 暫く立って、前述した嗜虐のプロフェッショナルが現れる。実に特徴のない容貌の大人しそうな男だが、まるで眸になにも映っていないかのような、穴が穿たれているといっても信じてしまいそうな、奇妙にがらんどうの眼をしている。
 かれは何もいわず、カーテンを開け放った。
 倉元は息をのみ、食欲にも似た欲情に息をのんだ、唾液の粘るようなクチャとした音がした。
 それというのは、どうみても十四歳くらいの、驚きに打たれるほどの冷然硬質な美貌を有した黒髪の少年が、鉄製のベッドで鎖に縛られていたのである。一瞥だけで背徳の悦びがこみあがり、かれは舌で唇を舐めた。倉元は、想わず舐めまわすような視線で美少年の躰の彼方此方を眺めはじめた。
 黒髪は赤々と照る淫靡な灯をこばむような漆黒である、灯の光は辷るようにしてつやをうつろわせながら、ベッドの鉄組へ無為に流れ、項垂れる血のように滴り落ちて往く。やや癖のつよい前髪はなまめかしくめもとにかかり、うなじのあたりは清潔な印象で丁寧に刈り込まれている。睡たげな猫のようにもの憂げできれながの眼には月のように硬い光りがやどり、それは中年男と眼が合う刹那きっと恐怖に円くみひらかれるのだけれども、平常のそれは学校帰りの少年達を観察する倉元が時々見付ける、あらゆるものを蔑む不遜な少年の印象なのだった。無垢であるが故の高潔、そう名付けもできるようなそれ。
 …そのショーを見終えたのちのどっとのしかかる疲れ、高揚を補うような自責、自責の確認作業、かれの卑しき習性の一つ。

  *

 月に一度、倉元は倶楽部に通った、この日の為に、やりたくもない仕事をやった。
「倉元さん」
 黒猫ほどとはいえずしても、どことなく冷たい雰囲気の美しさのある年上の社員が、非正規雇用のかれに話しかける。
「この書類やっといて」
「はい、わかりました」
 甘やかに媚びるような、社会不適合なかれの過剰適応がみいだされる声質に、倉元自身が嫌悪を感じる。
 彼女はふだん柔かい口調で話すが、孤立し陰鬱な雰囲気を醸すかれに対しては、最低限の会話で終わらせ、取り澄ましたような態度が終始である。かれにはそれがむしろ蠱惑的であった。
「あのひと、なに考えているか解らなくて怖いよね」
「ちょっと不気味」
 彼女が同僚とそう話しているのを聞いて、「ぼくのことだ」と被害妄想、しかし、ほかにそういった印象の人間は社内にいないので、大方かれの噂であると推定できるであるだろう。
 ふるえる情緒、わが身への憐憫、愛されないがゆえの誰かからに愛を受けるに値するのではないかという切情、世界から切り離された自己への凝視は、何故かしら遥かうえから為され、わが身を砕いてしまいたい心地、然し、どこかそれが心地よい。「ぼくなんて」、という意識に停滞するのは取り残され寝そべるような気楽さがある。
 気づくと勃起していた。かれは家に帰って、彼女に恋薬を過剰に飲ませて自分に惚れさせ、狂うように求められる妄想で陰茎をしごき射精した、白濁の液には血のようなにおいがあった。かれはせめて肉から剥いだような射精をしてみたいとかんがえた。
 恰もティッシュから毀れた精液のように、かれは躰を項垂れさせ、みずからの躰の魅力のなさに泣き、ただ、淋しいという理由だけで、それが生涯つづくであろうという確信的予測のために、消えて了いたいと想った。
 殉教。
 嘗て、かれは殆ど損得勘定でこれを欲望していたのだった。

  *

 かれは金もないのにひき寄せられるように倶楽部を訪れ、まるでかれを俟っていたかのように鍵があけっぱなしになっていたのをみてとった。あきらかに反社会勢力が関係している店という危機感がいまのかれにはない、倉元は扉を開け、闊歩するようにズカズカと黒猫の部屋に向かい、ふっとあのオールバックの男が顔をみせたが、かれに関心すらなさそうに奥へ引っ込む。おそらくや、倉元のような客に慣れているのだろう、否、この倶楽部の存在意義とは、現在の倉元を破滅に陥れることにあるのかもしれない。
 おおきな音を立てて扉を開ける。
 黒猫。
 綺麗な目元を、微睡むようにほそめていたかれは、倉元の侵入に微笑する。
 倉元は、かれに、跪いた。そして、かれへ呪詛を投げつけた。ぼくなんてどうにでもなれ、そんな自暴自棄が、そのときのかれの肉を満たしていたようだった。
「黒猫」
 呻くように、視線を床に注ぎながら話しはじめる。
「きみはほとんど美のようだね。けっして膝の上にとどまらず、掴めたと想うと霞さながら掌から融けて往き、どうしようもない蠱惑を湛え、ともすればひとを破滅もさせる、もっとも怖ろしいことにはね、おおくの場合、きみのような美は道徳と一致しないんだ。美と悪の配合、きみのつややかな黒い眸と髪は、その悪酒の乱痴気騒ぎにもみちびくようだね。エロティックなんだ。きみに殉うことはね、空で死者と連続するような妄念を引き起こすんだよ、ある種の淋しがり屋には、ぞっと蠱惑めいた印象を与えるんだよ。されどそれは妄想だ。人間はね、死んだら終わりなんだ。魂なぞ無い。知っているんだよ。魂、唯物論を支持するぼくは、こいつを虚数として信仰しているんだ。
 告白しよう。ぼくはきみを縛りたいんじゃない。暴行したいんじゃない。ぼくはただ、きみの美しさを呪っているんだ。黒猫。ぼくにとってはね、貴様なぞ存在しないほうがいいんだ。いくども殺そうとしたよ、愛の運動エネルギーにはね、憎しみのそれをだって同量含んでいるんだよ。されどきみへの恋にも似た感情が、いや恋なんて透明なことばを使うのはよそう、執着だ、執着がね、きみをどうしても殺しきれないんだ。
 坂口安吾がね、好きなものは、呪うかころすか争うかしなければいけない、そう書いたんだ。ぼくはこいつ、どこまでも正しいと思うね。ぼくはかつて無償の愛に焦がれていた、それをね、ころしたんだ。絞殺。されどぼくはただ、この期におよんでもきみをうじうじ呪っていたんだよ。
 ようやく本心が視えてきたんだ。本心。胡散臭いことばだね。ぼくにはそんなものはないとおもっているよ。あるいは無数にあるんじゃないか。しかしあえてこいつを使おう、ぼくの本心はね、きみという美を、呪うことでも、ころすことでも、獲得するために争うことでもない。ぼくはきみに、殺されたいんだ。愛するひとに殺されたい、非常に平凡な欲望であると思わないかい。この醜悪なぼくという肉体を、きみという美にがんじがらめになることを希むんだ。引き裂かれたいんだ。ぼくはね、ぼくなんていらないんだよ。ぼくは自分のことばかり考えすぎているんだ。自画像に轢死しそうだ。貴様はまるで神経的に澄んだ青空のようだよ。きんと冷たい硝子の反響が響きわたるようだ。歯の治療さながら、ぼくの神経をひりひりひりひりわななかせるんだ。きみを視るといたいんだよ。美というものにはその存在じたいが「我」を忘却させ無我へ引き伴れる筈なのに、きみは在ればぼくにどこまでも「我」の存在を突きつける。とすると、きみは美ではないのかもしれない。或いはぼくの眸に張る地獄がきみを美とみまがわせているのかもしれない。地獄の花。若しやそうであるか?
 無ければいいのに。きみなんか。ぼくはきみという青空にね、あるいは風景画に、わが身を磔にしてしまいたい、そしてズタズタに空から降る神鳥に喰われ罰を受けたいんだ、そのときぼくが身はどっと赦されるであろう、そしてぼくからついにぼくが剥奪され、空の反映に侍らせられたいんだ。妄念。そうだね。そうなんだ。もう一度訊こう、こんな欲望の、なにが善く美しい? 殉教なんて嘘じゃないか。自己犠牲なんて悪じゃないか。
 黒猫。さあ、はやく、ぼくを殺しておくれ。ぼくの絶対的な孤独と罪悪の意識を噛み締め舌でしゃぶりながら、その失念のなかで息絶えたいんだ。ぼくには、ぼくなんていらない」
 杯から毀れ落ちた水が、ぞっと狂乱するように燦き立つように、黒猫の眸が真蒼に燃えあがり、あたりは黎明の底のようにましろへどっと変色して、刹那、硝子と肉の綾織る不協にしてpsychedelicな響きが轢き散らされ、跡には鼻のひん曲がるような悪臭のほか、なにひとつだって残らなかった。

美少年と殉教

美少年と殉教

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2023-04-29

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