頬色の情熱と青
熱意の瞳
「おい、お前。」
僕が椅子から振り返ると黒髪で前髪を切り揃えた中学生のような女性がいた。髪は胸まで伸びており、その先端が僕の目に入った。
「椿さんじゃないか。今日は天文部が休みなのに珍しいね。」
僕は天文部の部室で年末の予定を考えていたところだった。
「珍しくもないだろう。まぁなんだ。お前と話をしたかった。」
「僕は椿さんの暇つぶしの相手じゃないんだけどな。」
椿は学年一の才女で、大きな瞳と揃えた前髪が印象的だった。太めの眉毛とブレザーの制服もあって、実際よりも幼く見える。
「大丈夫だ。今日は暇つぶしではなく、お前に話したいことがある。」
彼女の言葉に反して、僕は「うーん、僕には話すことがないんだけどなぁ。」と言う。
「また、そんなことを言って。今回は重要な話だ。」
僕は一瞬だけ拗ねたような表情を浮かべた彼女の様子を見逃さなかった。いつも偉そうにしているくせに、すぐに感情が顔に出る。
「また、何か企んでる?」
「企んでるわけじゃない。お前、この部活の活気のなさ、嫌じゃないのか?」
「嫌じゃないってか、この活気のなさがいいんだよ。」
入学当初、僕はあまり部活に入る気はなかった。しかし、全員が部活に入るという校風のせいであまり活発でない天文部を選んだ。学校の売りの天体観測室もあってイメージもいいし、こうやって部室でダラダラ話もできる。
「ふふふ、素直じゃないな。観望会にはいつも参加してるじゃないか。」
「まあ、せっかくだからね。」
全く活動をしないのも嫌なので将棋部や化学部ではなく天文部に入った。年数回のイベントなら僕もそんなに嫌じゃない。
もともと、天文に興味のある椿には聞かせられないなと思う。
「そこでだ。部活活性化と部員勧誘のため、クリスマスに大きな観望会をやる。」
椿は大きな教壇の前に立ち、自信に満ちた表情で話し始めた。
「はぁ?クリスマスにそんな地味なイベントをやっても誰も来ないでしょ。」
「そんなことないぞ。クリスマスに星を眺めるイベントだぞ。ロマンチックじゃないか。」
椿は成功を確信しているかのような口調だったが、僕は失敗の予感しか感じなかった。
「でかい展望鏡で星をのぞくだけでしょ?」
天文部の部室の上には小さなドーム型の天体観測室がついており、学校も売りとしている。しかし、学校側が夜間活動に積極的になれないこともあり、実態としてはほとんど使われていなかった。
そのせいか天文部のくせに随分なことを言ってしまった。椿はどう思っただろうか。
「そのでかい展望鏡で星をじっくり観察して、二人でその感想を言い合うんだ。しかも、年に一回のことだぞ。こんな体験をできる日はない。わたしはすごく興奮するぞ。」
椿は長い髪を揺らしながら軽やかに歩き、楽しげに空想を膨らませていた。彼女の瞳には、星の輝きや大きさについて熱く語り合う二人の姿が映っているようだった。
僕はとりあえず椿が不機嫌でないことにほっとした。しかし、面倒なことになりそうだ。牽制でもしてみるか?
「顧問が許さないんじゃない?」
クリスマスの夜の活動なんて顧問も敬遠しそうだ。
「それは、大丈夫だ。既に打診して仮の許可は得てある。お前、知っているか?あの顧問、娘が中学生で絶賛反抗期中だ。そこで中学生に見えるわたしが目を潤わせて頼んだらいちころだった。まぁ、単純に家に居場所がないのかも知れないが。」
彼女は展望鏡の使用許可書を見せながら自信たっぷりに答えた。彼女の無駄な情報網と自身の無駄な強みを利用した作戦には、ある種のセンスがあった。
「ホント、どんなやり方してるんですか。」
「ふふふ、これも、わたしの魅力がなせる技だ。まぁ、別に脅しているわけでもないし、顧問も嬉しかったんじゃないか?」
彼女の微妙な優しさに僕は笑いそうになった。まぁ、実態は顧問の点数稼ぎに過ぎないだろう。彼女もそれを自覚しているはずだ。ただ、顧問の性格を考えると二十パーセントほどは彼女の主張が正しいとも思える。
しかし、このイベントは成功しそうにもない。僕は失敗して落ち込む椿の姿を想像し、もし自分がこのイベントが成功させるならどうするか考えた。
「それよりも、学校の近にある港で恋愛にまつわる星座の話をして、その後に近くの山手の神社で星をみる方がロマンチックだと思うけどな。」
近隣の港は明治時代に賑わった歴史ある港で、今はレトロな雰囲気が残る観光地になっている。クリスマスシーズンにはイルミネーションで美しくライトアップされる。近くの丘の神社には、海峡先の神社とともに別れてもなお思い続ける男女の伝説が残っている。僕はなかなかいいアイデアだと思った。
椿は僕の方をみて一瞬ニヤリと笑った。
「だめだな。港は人が多すぎるし山手の神社は海峡の橋が明るすぎる。顧問の手前、高校のアピールも必要だ。まぁ、星座にまつわる恋愛の話はいいかもしれないな。」
確かに一理ある。しかし、僕はこんな安易な内容でうまく行くのか心配だった。前回の観望会に来たのも、椿に無理やり連れてこられた気の弱い一年生だけだったからだ。僕がそんなことを考えていると椿が勢いよく喋りだした。
「よし、準備をしよう。まず広報としてチラシを作る。担当はお前だ。」
「えっ?僕もやるの?」と僕は尋ねた。
「そうだ。お前は副部長だろう?それに観望会の改善案まで考えてくれたんだから、参加させないわけにはいかない。」
僕は椿がニヤリと笑った理由を理解し軽率に発言した自分を後悔した。
してやられたと思い、彼女の方に目をやると彼女の瞳には何かを決意したような輝きが宿っていた。
「そ、それにな。どうせお前はクリスマス暇だろう?
寂しく過ごすくらいなら、みんなで何かやったほうが楽しいと思わないか?」
確かに今年のクリスマスは暇だ。いや、去年もそうか。僕は去年のクリスマスの出来事を思い出し、自分がまだ立ち直れていないと気づいた。
「いやまぁ、暇だけどさ。」と僕は答えた。
「よ、よし決まりだな。わたしはもう一度顧問と話をしてくる。また、明日部室で会おう。」
そう言って、椿は今日一番の嬉しそうな顔で部室を後にした。
クリスマスまで残り1ヶ月。僕は急な企画にも関わらず準備が整っていることに疑問を感じながら、いつも椿に付き合っている自分に呆れていた。
不意に窓の外に目をやると、木々が風を受け、ざわざわと揺れる様子が見えた。
僕はレトロ通りを帰りながら、天文部での思い出を振り返っていた。
椿とは同じタイミングで入部した仲だ。入部当初、先輩からの説明に熱心に耳を傾けている姿が印象的だった。彼女は率先して先輩たちに質問しては、時に彼らを困らせていた。
彼女は学力的にはもっと優れた高校へ進学できたが、天文部があるこの学校を選んだと聞いていたことがある。それなのに、ここの部活の体はかなり堪えたに違いない。
椿は情熱的に天文部を改善しようと奮闘した。不定期だった活動を週一の定期活動に切り替えたり、観望会や展望鏡の講習会などのイベントを開催したりと精力的に活動した。しかし、僕と同じ理由で入部した同級生たちは、改革に不満を感じたのか、徐々に姿を見せなくなっていった。彼女は自分の情熱が伝わらないことにいつも苦悩していた。
天文部のことを思い出しながら家にたどり着くと、周りはすっかり暗くなっていた。
今日の椿とのやり取りを後悔しながら、僕はクリスマスの観望会のチラシについて考えることにした。
デザインが重要だと考えて悩んでみたものの、美術に疎い僕にはアイデアが浮かばなかった。ふと、後輩が美術部に知り合いがいると言っていたことを思い出し、彼に連絡をすることにした。
揺れない前髪
翌日、部室でのんびりと過ごしていると椿が姿を現した。「今日は部活がないのに珍しいね」と冗談を言うと、「お前は頭脳明晰な鳥のようだな」と椿が返す。
「こちらは、ちゃんと顧問の承諾を得てきた。まぁ、事前の根回しもあって楽勝だな。それでお前の方はどうだ?」
椿はいつも通り自信に満ちた様子だったが、顔には楽しげな表情を浮かべていた。
「デザインは後輩が美術部の知り合いに頼んでる。文言はまだ考え中だけど、その辺のチラシと似たような感じでいけるでしょ。まず大事なのはデザインだからね。」
かなりいい加減な回答である。しかし、僕は何事もなかったかのように余裕綽々で応えた。
「流石だな。行動が早い。文言は次の部活で皆の意見を聞くのがいいだろうから、現時点ではその程度がちょうどいいな。お前はなかなかできる男だ。」
予想外に椿に褒められ、僕は少し居心地が悪かった。
「よし、目処はついた。いつもありがとうな。」
「お、おう。」
僕は突然の感謝に驚いたが慣れた言葉で答えた。椿は偉そうに振舞っているがいつもこうして感謝してくれる。僕は上手く利用されていると思いつつ、この言葉がいつも嬉しかった。
「そ、それでだな。お前に、ちょっと質問がある。」
少し間を置いて、いい淀みながら椿が口を開いた。かすかに彼女の手が震えているように見えた。
僕は、椿がまた何かを企んでいるなと思いながら「何か用?」と尋ねると、彼女は少し恥ずかしそうな表情を浮かべつつ真剣な目つきで言葉を続けた。
「お、お前はどういう人間だ?どんなことに興味がある。」
その質問は不躾だった。
椿の大きな瞳からは何かを探ろうとしているように感じたが、僕は先に言葉を発してしまった。
「急に聞かれても困るなぁ。僕は椿さんみたいに優秀じゃなくて普通の人間だね。興味はこれってのはなくて色々。椿さんはホントにスゴいよね。頭も良いいし天文部の活動だっていつも情熱的で、学年一の才女ってもっぱらの噂だよ。」
彼女の質問に対して、自分の劣等感が顔を出すのを隠せなかった。どんな人間?優秀なわたしに対してお前はどんな人間なのか?
僕は、質問に急いで答えてしまったことを後悔しながらも、いつもの彼女なら気にも留めないだろうと思っていた。しかし、彼女の反応は予想とは違った。
「お、お前の興味はそんなものか!本当につまらない男だな。お前には情熱ってものがないんだ。」
僕は意外な反応に戸惑った。
「そんなことないよ。僕も情熱を持って生きてるって。急にどうしたの?」
「本当にそうか?そうだといいな。だが、わたしにはお前の情熱が伝わってこない。」
彼女が言葉を発した瞬間、僕は内心で疑問を感じた。
なぜ、僕の生き方に関して彼女に説明しなければならないのか。
「えっ、そうかな?どうすれば伝わると思う?」と僕は尋ねた。
「どうすればいいかだって?!」
椿は興奮しながら、そう言った。
「そんなこと自分で考えるべきだ。お前が情熱を持っていることがわかったら、わたしに教えるんだな。それで、これから話を続けられるかどうか決める。」
彼女の頬は、さらに赤く染まっていた。果たして、僕はそこまで気に触るようなことを言ってしまったのだろうか?
「は、はい、わかりましたよ。情熱を持っていることがわかったら教えますよ。」
僕は彼女の様子に戸惑いつつも、彼女の『続けられるか』という言葉に悪い予感を覚えた。
「ふん。それじゃあ、今日はこれで切り上げる。また今度、時間があるときにでも話をしよう。」彼女はそう言うと、簡単には揺れない前髪を揺らして振り返り颯爽と歩き去っていった。
窓の外に目をやると、冬の冷たさに耐えるように木々が立ち並んでいた。
その夜、僕は椿の言葉に思いを巡らせていた。いつもは皮肉や嫌味に動じない椿が、今回ばかりは違った。自分がどうして情熱を伝えなければならないのか、彼女が何を期待しているのか真剣に考えた。
僕は彼女との思い出を振り返った。椿と親しくなったのは、いつだろう。去年の今ごろだったかもしれない。
悲しみの眉
「これが、小惑星探査計画の概要だ。それで小型探査機を近くの工業大学で実験するとかなんとか聞いたぞ。あそこも航空宇宙をやってるからな。なにか、一緒にできないだろうか?おい、聞いているか?」
部室の教壇と黒板に、椿がまとめた資料と小惑星探査イメージ図が描かれている。椿は、いつもの調子で情熱に頬を赤くして話をしていた。僕は椅子に座り、いつも通り微妙な態度で参加をしていた。
「ん?あぁ、ぼちぼち聞いてるよ。小惑星に行くって簡単そうだけど、難しいんだね。なかなかドラマチックな感じ?うまく行くかな?」
僕は部活に出席しては、やる気のない感じで椿の話を聞いていた。
「お前は、いつも聞いてないフリして意外と話を聞いているな。本当は天文に少しは興味があるんじゃないか?」と椿は嬉しそうに言い返した。
椿は相変わらず精力的に活動していた。ただ、彼女の話に耳を傾けているのは僕だけだった。
「そうかな?まぁ、いつも、ちょっと面白い話だと思ってるよ。全部は理解できないけど。」実際に、小惑星探査の話はそれほど退屈ではなく、少し興味を持った。彼女の熱意が伝わってきたのかもしれない。
「お前が天文部の活動に毎回参加しているのはそれが理由なのか?」
椿はそう僕に問いかけた。椿の頬を見ると、情熱の色は薄れ、薄白いベージュ色に変わっていた。
椿が改革を行った結果、同級生で天文部に来るのは今や僕たちだけになっていた。もともと、先輩たちは来ていなかったので部室にはいつも僕たち二人だけがいた。
椿は、僕が辞めないかいつも気にしていた。
「ん~、まぁ暇だからね。」僕は本当の理由を隠し、いつもの調子でそう答えた。
「お前は、いつも『暇だ』と言っているが本当にそうなのか?お前には中学生から付き合っている彼女がいると聞いたことがある。彼女との付き合いもあるんじゃないのか?」
しばらくの間、沈黙が続いた。彼女の感の鋭さに僕は黙り込むしかなかった。
「いや、詮索してしまった。悪かった。」
椿を見ると非常に申し訳なさそうな表情をしていた。「椿さんが謝ることないよ。」僕は、まるで自分が悪いことでもしたような気分になり、椿に彼女のことを話すことにした。
でも、本当は自分の気持ちを誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
「そうだね。春頃は彼女とよく出かけて、連絡も取り合っていた。高校が違うからその違いが新鮮で面白かったしね。でも、そのうちに共通の話題がなくなって、話が合わなくなってきたんだ。それに、彼女も高校の活動が多くなって来たとかなんとか言って、最近はあまり会ってないんだよね。ははは、まぁ、それが暇な理由ってわけ。」
僕は弱みを見せないよう努めて明るく答えた。僕は普段からいい加減なフリをして人に弱みを見せないようにしていた。ましてや、そこまで親しくない女性に弱い自分を見せて嫌われたくはなかった。
ふと、椿に目を向けると、まるで自分のことのように悲しげな表情を浮かべていた。その不揃いの眉が悲しみの色を帯びているようだった。
「お前はすごいな。そんな辛い思いを抱えながら、いつも冷静に振る舞えるなんて。私はそんなこと到底できないそうにない。そんなことも知らずに、いつも付き合わせて悪かった。天文部が嫌だったら辞めてもいいんだぞ。」と椿は言った。
彼女は少し前から自分の部活での行動について自問自答していたのかもしれない。彼女は偉そうにしているけれど、実はとても繊細なのだと僕は思った。
僕は彼女に気をつかい軽口を叩くことにした。
「別に嫌ってことないよ。彼女とは天文部の話はしてたし、椿さんの変なキャラクターは、面白くてネタにしてたしね。」
「お前は、私をそういう風に見てたのか?」
「ははは、椿さんは変わってるでしょ?椿さん自身もそう思ってるんじゃない?僕はそういうの好きだよ。僕は普通の人間でそんな風に振る舞える強さもないからさ。」
僕は笑いながら言う。
「そ、そんなものか?ま、まぁそうかもしれないな。」
彼女の表情を確認するため、僕は彼女に目を向けた。すると、彼女の頬がほんのり赤く染まっているのが見えた。
あの頃から、僕と椿は次第に親しくなっていった。彼女はその後も僕に積極的に話しかけてくれて、今では天文学に関する知識も少し増えた気がする。椿の情熱は、当時のやる気のない僕には刺激的で良かったのかも知れない。
僕は彼女との日々を思い出し、彼女が僕に何を期待しているのか理解できた気がした。
星に願いを
翌日、天文部の週一回の定例会が開かれた。僕は、椿と話ができると期待していたが、彼女は姿を見せなかった。彼女が部活を休んだのはいつ以来だろうか?僕は彼女が部活を休むほど傷つけてしまったのか?
そんなことを考えていると、後輩が心配そうに話しかけてきた。
「先輩、今日の定例会で観望会の話をする予定でしたが、椿先輩がいないのでどうしましょうか?」
観望会の話は急に決まったため、開催まで時間がなかった。僕は彼女が計画した観望会を壊すわけにはいかないと思い、後輩に準備を進めるように伝えた。
準備には二つの問題があった。一つは、僕が提案した恋愛に関する星座の話と星座を映すプラネタリウム機材の準備で、もう一つはビラのキャッチフレーズの決定だった。
プラネタリウム機材は、後輩から聞いたところ、椿が準備していることが分かった。残りの問題は台本の作成だったが、後輩の一人が天文に詳しく、すぐに内容を決めることができた。しかし、全員が素人だったため、脚本とアナウンスには悩んだ。最終的に、僕は知り合いの放送部の友達に頼み込んで助けてもらうことになった。
次にビラ用のキャッチフレーズの選定が必要だった。椿はいつも、無駄にセンスのある案を出してくれたが、今回はすぐに印刷しなければならなかった。僕たちは無い知恵を絞り、話し合いの末、「星に願いを。星空からの贈り物お届けします。」というフレーズを決めた。椿に比べたら稚拙だが、悪くない案だと思った。すぐに後輩に美術部の知り合いに連絡し、最終案を椿を含めて確認することになった。問題がなければ、その日に印刷してしまうことにした。
僕たちはたかだか二時間で疲労困憊なり、いつもの椿の情熱には頭が下がる思いだった。
僕は観望会を無事に開催できそうなことに安堵し、翌日には椿に部室で展望会の準備と僕の情熱について話ができると期待していた。しかし、翌日も、その翌日も椿は部室に現れることはなかった。
頬色の情熱
数日後、僕は月曜日の補習が休講になり、いつもより早く帰宅することになった。黄昏時にレトロ通りを歩いていると、椿が店から出てくるのが目に入った。彼女の通学路はレトロ通りとは逆方向で、彼女がなぜここにいるのか疑問に思ったが、とにかく急いで駆け寄り声をかけた。
遠くの海で汽笛が鳴り響くのが聞こえた。
「椿さん。前回、僕が情熱を持ってることが分かったら教えるって約束したよね。」
椿は立ち止まり、しばらく考えた後ゆっくりと振り返った。
「そう...だったな。お前は約束を守る側の人間だったようだ。」
僕は、また、ずいぶんと酷い言われようだなと思った。
「ははは、厳しいね。もちろん守りますよ。守れる約束ならね。」
椿は何かを思い出したような表情を浮かべ、僕に話しかけた。
「そうか…、そうだな。あの時のお前は必死に約束を守ろうとしていた。
わかった。それで、お前の情熱とはなんだ?」
僕は椿の顔を見て、約束のこととは一年前のあの出来事だと思った。ただ、自分にとって非常に印象深い出来事ではあったけれど彼女が約束という言葉だけでそれを連想するとは思わなかった。自分自身も約束という言葉でそのことを思い出すことはなかったのに。
ああ、そうか、彼女は僕が"あの日"をどう過ごすかを気にしているのか。あの観望会のイベントだって。あの時、彼女が僕の興味を聞いた理由は…。と、妙に納得しながら会話を続けた。
「あの日、君に『情熱がない』と言われたとき、なぜそんなことを言ったのか、考えたんだ。君はいつも偉そうなことを言うけど、実は誰にでも優しく接することを僕は知ってる。」
僕は彼女との想い出を辿りながら話を進める。
「一年前のクリスマスイブ、僕は叶わぬ彼女との約束を守り、海峡公園で待ち続けていた。そんな僕を君は迎えに来てくれた。星を見に来たなんて下手な嘘をついて。それ以来、いつも君と話すことが楽しくて、君をからかいながら話をすることが楽しみだったんだ。でも、あの日までそんな気持ちに気づかなかった。」
「それで、何がいいたいんだ?」
「君は、きっと僕の気持ちに気づいていたんだと思う。だから、あの日、君が僕に『情熱がない』と言ったのは、僕が君に対して持つ情熱に気づいて欲しい、もっと目を向けて欲しいということだったんだろう?」
レトロ通りにガス燈が灯り始める。それと同時に彼女の表情も明るくなったように見えた。
「そ、そうだ。お前の表情から、お前の好意には気がついてた。」
椿は顔を赤らめながら恥ずかしそうに話し始めた。
「そうなんだ。椿さんのことだから、もっと確信があると思ってた。」
僕は自分が愚かだと思った。彼女がそう思うのも当然だ。わざわざ偉そうな態度を取る女性と話すのは僕だけだったのだから。女性は表情を読み取るのが得意とされている。洞察力の優れた彼女なら、なおさらだろう。
「わたしも、お前と話すといつも胸が熱くなる。いつもこんな偉そうな私の話を聞いてくれるのは、お前だけだ。それなのに…。」
椿の表情が曇り始める。暮れゆく街並みに彼女が消えていくようだった。
「それなのに、お前に『情熱がない』などと、なんて酷い言葉を…。
私は…、私は人の感情も理解できない本当に最低な女なんだ!お前に好かれる価値なんてない。」
彼女は言葉とは裏腹に震えていた。まるで、自ら嫌われることで、弱い自分を守ろうとしているかのようだった。
椿は傷つくことを極端に怖がる性格をしている。常に偉そうな態度をとることで、自分自身と相手を守っていた。僕は彼女のそんな心情をいつも気にかけていた。
「そんなことないって。そのおかげで僕は自分の気持ちに気づいたんだから。」
「違う!私は、勝手にお前が私に好意があると思い込んで、プレッシャーをかけた。お前はそれに負けて、あんなことをただ言っただけだ。好意に気づいたなんて嘘だ。確信なんてなかったんだ。私はバカだ。いつもそうだ。素直になればよかったのに、自分を守るために偉そうにして。」
周囲は暗闇に包まれ、ガス燈の微かな光だけが頼りになっていた。
僕は、彼女は本当に馬鹿だと思った。どうして自分を守るために、自分を傷つける必要があるのか。僕の気持ちも分かってるくせに。このままだと、彼女は自分をもっと嫌いになってしまう。早く僕から告白しないと。彼女が彼女を嫌いになる前に。
「椿さん、僕は君のこと……。」
「だ、だめだ。最後は私が言う。素直になれない私なんてもう要らない!」
僕が言い始めた途端、彼女は声を震わせて話を始めた。
「私は、知ってる。私は、その辺の男には惹かれないんだ。お前には、私が本気で惚れるくらいの価値がある。でもな!私にはお前と付き合うだけの価値も資格もない。素直になれないせいでお前まで傷付けて。結局、私は可愛げなんてひとつもない。偉そうなだけの女なんだ!お前だって、こんな面倒くさいバカな女と付き合いたいと思わないだろ?!」
彼女が最後の言葉を言い放った瞬間、周囲に張り詰めていた緊張が一気に解け、沈黙が広がった。
「ん?」
僕は、彼女が何を言っているかわからなかった。ただ、彼女の素直になれない気持ちは理解できた。僕は少し笑いながら椿に話しかけた。
「つまり、一緒にいたいってこと??」
「ち、違う…。」
「でも、そんな言い方されたら、『そんなことないよ』って返すしかないよ。情熱については言わされたかもしれないけど、一緒にいて楽しいという僕の気持ちは本物だよ?そう言ったでしょ?」
ガス燈が次々と灯り、少しずつ明るくなっていくのが見える。
「椿さん、こんな時、普通なら素直に付き合って欲しいとか、他に好きになってくれる人がいるかもしれないとか、そんなこと言うんだよ。」
「そ、そんなこと。」
はぁ、嫌われたくないから相手を褒めたり、振られたくないから質問風に告白したり、他の女に取られたくないから何も言わなかったり……、
素直になるといってどんだけ素直じゃないんだ。
「あぁ、もう!わかったよ。気持ちはよくわかった。付き合いますよ、椿さん!」
僕は笑いながら力強く言う。どうやら彼女は、本当は素直になれない自分自身を好きなのかもしれない。
「なっ!?私は真剣に悩んだんだぞ。こんなんだから『情熱がない』とか言われるんだ。バカ。」彼女はそう答えた。
「ごめんごめん。椿さんのそんな素直じゃないところが、本当に可愛いんだ。」
時計の鐘が鳴り響く。その音と共に、夜の街のイルミネーションが一斉に輝き始めた。椿は、まるで生まれて初めて誉められたかのような表情を浮かべ、その瞳を見開いていた。
「僕も知ってる。プライドがバカ高いところとか、そのくせ優しくて純粋なところとか。ずっと見てきたんだから。」
"ずっと見てきた"そう言いながら、僕は入部当初から彼女をずっと見守ってきたことに気づいた。本当の想いを隠し続けていたのは僕の方だった。そんな僕を支え待ち続けた彼女の気持ちに気づく。
「だから!僕は全部、全部受け入れますよ。そんな君のことが好きでたまらないんだから!」
僕が言い終わると、椿は恥ずかしそうに顔を伏せ僕の方をチラリと見た。木々の間に織りなすイルミネーションが彼女を幻想的に照らしていた。
しばらくの静寂の後、彼女は顔を伏せたまま僕に近寄った。
「椿さ…」
僕が話しかけようとすると、彼女は不意に抱きつき、悔しそうに僕にキスをした。桟橋から駅へと続くイルミネーションが彼女の涙を照らすのが見えた気がした。
頬色の情熱と青