傾斜率
ここはこういう場だ、というのではなく、ここは何とかに傾いている場だ、といおう。そのほうが寛容だと思うから。絶対的に寛容というのではなく、前者よりいくぶんか寛容、という判断のもとで。それなら地に垂直に聳え立つ壁は、崖は不寛容なのか。そうだと断定するわたしがいる一方で、必ずしもそうではない、そうであってほしくはないと希望するわたしもいる。何をもって断定するのか。何をもって希望するのか。断崖の上で寛容でなどいられるのか。不寛容を示せるのか。そもそも寛容と不寛容は背中合わせというより一つの観念の二面性ではないのか。一つの観念とは何だ?相反する定義を併せ持つ、あるいはあるゆる定義を嘲笑する観念とは何だ?自問に次ぐ自問、絶えざる自問、絶えざる不毛な自問、自分の意思に反して継続されてしまう自問。とどまることができない、とどまることができないという罰、移り気な自分に下される罰、無機質な罰、謂れのない罪に下される謂れのない罰。ここがどういう場だろうがどうでもいい、そんなことはどうだっていい。人称?どうでもいい。わたしはそれをすべてと呼ぶ、どうでもいいこともどうでもよくはないことも一緒くたにしてすべてと呼ぶ、すべては不意に始まり不意に終わる、その繰り返し、不毛な繰り返し、不毛で不愉快な繰り返し。不毛でも不愉快でもない繰り返しなどない。一回性の哀しき奴隷、哀しき傀儡、哀しき刹那主義者。もう何も問いたくはない、問いがあると答えを探してしまいたくなるから、もう問いにも答えにもうんざりだ。何もかも放っておけ、と終いに吐き捨て、わたしは、すべては、死に傾斜していく。
傾斜率