四月、雨の夜にはじまる
一 「レイン」という名の店
「人を雇おうかと思ってんだよね」
龍村久はグラスに残った氷を揺らしながら、バーテンダーの大鳥に話しかけた。
「みんなも賛成はしてくれてるんだけど、大の大人をまとまった時間雇うほどの仕事量でもないのが難しいんだな。給料もそんなに出せないし。まあ、一部屋あいてるから住み込み可ってのがある意味好条件かな。狭いけど」
龍村は友人たちと一緒に小さな事務所を立ち上げている。最初に入った会社が倒産したのをきっかけに、同僚や取引先といった面々、合わせて四人で仕事を始めてもう二年目だ。
彼はライター。他にグラフィックデザイナー、カメラマンにウェブデザイナーという構成だが、開業当初最もヒマだったという理由で代表にされて、今日までやってきた。
代表という貧乏くじを引いた代わりに、事務所の古いマンションに住んでいるので家賃は浮くが、次々と雑用が途切れない。二十代も後半になり、自分も少しまとまった仕事をしたいという気持ちも出てきて、誰かに少し肩代わりしてほしいというのが彼の希望だった。
「なるほど、アルバイトね」
大鳥はうなずいてしばらく黙っていた。
彼は「レイン」という名前のこの小さなバーを、引退した先輩から引き継いで一人で切り盛りしている。年は三十半ばほどで少し影のある印象だが、暗いというわけではなく、ただ余計なことを言わないだけだ。
だからこの日も話はそこで終わるかと思われたが、大鳥は再び口を開いた。
「だったら紹介したい子がいるんですけど」
「え?」
「母方の遠縁で、一年ほど前から預かってる子がいるんですよ。高校生ですが、頭の回転はいい方で、何より気立てがいいです」
「はあ、高校生」
「といっても通信制なんで、時間の融通はききますから。先月まで中華料理屋でバイトしてたんですけど、そこが閉店になったんでちょうど仕事を探してたんです。それとね、うちでこんど子供が生まれるんで、さすがに四人は手狭だし、住ませてもらえるなら好都合だと」
「大鳥さん結婚してたの?指輪してないから全然気づかなかった」
「いや、一緒に住んでたんですけど、これを機に入籍しました」
「授かり婚って奴ね」
「デキ婚でいいですよ。本当にうかつだったんだから」
「ふーん、いやおめでとう。で、その高校生なんだけど、本気で考えていいわけ?」
「もちろん。ただ一つだけ了解してほしいんですけど、その子、男でも女でもないんです」
「は?」
「それを除けば至って普通。要するにまだ子供なんです。男か女かはそのうち決まると思うんで、とりあえず男扱いしといてもらえば大丈夫ですから。あと、他の人にはその点は内緒にしといてほしいんです」
「いやいやいやそれはしかし?」
「うちの母親の田舎では、こういう子供がたまに生まれるらしいんですけど、やっぱり駄目ですかね」
妙な展開に龍村は固まってしまった。
ここで駄目というのも変な話だ。自分はアルバイトを探しているのであって、性別不明だか未定だかがそこで大きな障害になるのは、筋が通らない気がする。
「まあ・・・他ならぬ大鳥さんの紹介なら信用できるから、とりあえず一度会ってみようかな?」
それが四月一日の話で、店を後にしてからふと、男女云々の話はエイプリルフールの冗談だったかと思いもしたが、二日後に店でその子を面接することになってしまった。
当日は春らしく暖かい夜で、柔らかな絹糸のような雨が音もなく街を包み込んでいた。約束の時間に店へ行くと、雨のせいか他に誰も客はおらず、大鳥が一人でグラスを磨いていた。
「面接にはちょうどいいね」
挨拶代わりにそう言って、龍村はカウンターに腰掛けるとジンジャーエールを頼んだ。曲りなりにもアルバイトの面接で相手は高校生となると、さすがにアルコールは飲めない。
「もうすぐ来ると思いますから」
大鳥のその言葉を待っていたかのようにドアが開いて、ほっそりとした子が入ってきた。「よう」という大鳥の声で、それが件の高校生だと判ったが、傘を持たずに来たらしく、髪がうっすらと濡れていて、青いチェックのシャツも肩のあたりの色が変わっていた。足元はジーンズにスニーカーという格好で、ぱっと見は男の子にしか見えない。
「傘はどうした」
「見つからないから走ってきた」
そう言って、高校生はたすきがけにしていたショルダーバッグからタオルを取り出し、無造作に髪をぬぐった。そして自分を見ている龍村に気がつくと、にこりと笑った。
男にしちゃアレだが、女にしちゃ何だな。というのが龍村の率直な感想だった。
よく見るとかなり整った顔立ちをしていて、色のうすい大きな瞳が印象的なので、髪を整えて化粧でもすれば女の子に見えなくもない。だが顔の輪郭が丸みを帯びているせいで、あどけなさがより強く伝わってくる。しかしそれと同じぐらいに目を引くのは、左の眉尻からこめかみにかけて残っている大きな傷跡で、軽く十針は数えそうだった。
高校生はそんな龍村の視線など意に介さない様子で、ショルダーバッグにタオルをしまうと、今度は封筒を取り出した。
「カナワキヨシコです。初めまして」
どうやら大鳥に言われて履歴書を書いてきたらしい。しかし今の名前、どこまでが苗字だ?悩みながら差し出された封筒を受け取ると、龍村も自己紹介をして名刺を渡した。
「まあ大体は大鳥さんから聞いてると思うけど」
そこまで言ったところで、店のドアが開いた。
「こんばんは。あら」
入ってきたのは友人の涼子だった。昔はよく二人で来ていたし、今もしょっちゅう現れるとは聞いていたが、よりによって今ここで鉢合わせするとは。
「お久しぶり、といっても先週ニアミスしたわね。何?ジンジャーエールなんか飲んじゃって」
バッグをネイルの光る指に引っ掛け、胸元の開いたタイトなパンツスーツで大股に歩いてくる。そんな彼女を龍村の連れだと勘違いしたのか、高校生は涼子にも「カナワキヨシコです」と自己紹介した。
「え?あら初めまして。私は向井涼子っていうんだけど、龍村くんのお友達?」
彼女はそう言いながら高校生の顔を覗き込んだ。
「可愛い顔した男の子ね。あれ?女の子?」
「どっちでもないです」という返事と、龍村が「あーっと!」と叫んだのはほぼ同時だった。
「涼子、あんた口だけは堅いよな?」
「私は、口も、堅いです。でも好奇心は人一倍」
そう言うと彼女は、呆気にとられた表情で大人たちを交互に見ている高校生の肩に手をかけた。
「カナワなんとかさん?あなた男?女?」
「言わなくていいよ。この人関係ないからね。とりあえず座って」龍村はそう言うと大鳥の方をちらりと見たが、彼はしょうがない、といった顔つきで首を振った。たしかに、涼子が本気になったら逃げられる人間はほぼいない。
「ちょっとうちでアルバイトしてもらうつもりで、面接してたの。大鳥さんの遠縁なんだ」
仕方なく龍村はそれだけ言うと、受け取った封筒から履歴書を取り出した。
「鉄輪清呼か。なんだか不思議な趣がある名だなあ」
「キヨシコっていうのが名前なのね?」涼子は平気で会話に入ってくる。
「でもまだ中学生じゃないの?高校?」
「高校二年です。通信制ですけど」
「ふーん、で、性別は?」
「言わなくていいからね」
視線は履歴書に向けたまま、龍村はそっけなく言い放つ。
性別には男女どちらにも印がついていなかった。免許資格は当然「なし」、趣味・特技の欄には「読書」。まあ形式だけ整えたってことでいいか、と思ったが、大小の揃った丁寧な文字が気に入った。
「仕事は基本的に月曜から金曜で、時間帯はその都度変わるし、内容も色々。まあそっちも学校の都合があるだろうから、少しずつ様子を見て調整って事でいいかな」
「はい」
「別に難しい事はないし、一から教えるから心配することはないと思うよ。中華料理屋では何やってたの?」
「仕込みの手伝いと洗い場とホール係です」
「体力的にはそれよりずっと楽だと思うけどね。残念ながら賄いは出ないから自分で適当にやってね。あと何か聞きたいことある?」
「ありません」
間髪を入れずに返事をしたので、この子はもううちで働くつもりでいるのだろうと察しがついた。あれこれ探しても、却って迷いそうな自分の性分を考えると、ここで手を打つのがよさそうだ。
「じゃあさ、来週の月曜から来てみてよ。一週間ほど通って、いけそうだったら引っ越して来ればいいから」
「はい、そうします」そういって清呼は軽く頭を下げた。
「じゃ、もう帰らせていいですか?」
ほっとした様子で大鳥が声をかける。
「うん、夜なのに来てもらってごめんね。じゃあよろしく」
「ありがとうございました。失礼します」
清呼は椅子から降りると、龍村と涼子に頭を下げた。
「お疲れさま。また今度ゆっくりお話きかせてね」
その声に小さな笑顔でこたえて清呼が出て行くのを見送ると、涼子は再び龍村に向き直った。
「さてと、なんだか興味深いこと聞いちゃった。大鳥さん、ジンライムお願いします。龍村くんの分もおごらせてもらうわ」
「別に感謝しないからね」
「結構よ。ねえ、その履歴書見ていい?」
「個人情報だから絶対駄目」
龍村は急いで履歴書を封筒に戻すと、ショルダーバッグに入れた
「お宅のタコ部屋に引っ越してくるみたいだけど、あの年で一人でこっちにきてるの?」
「まあそれは村の決まりみたいなもんで」
大鳥は涼子の前にグラスを置いた。
「うちの母親の田舎では、何十年かに一人はああいう子供が生まれるらしくて、どう扱うかってのが決められてるんですよ。まず数えの七つになったら実家から神社の養子に出して、次は十五ぐらいでよそにやる。そして名前は必ず清呼」
「じゃああの子、七つで親元を離れたんだ」
涼子はジンライムを一気に半分ほど飲んで、溜息をついた。
「まあ同じ村の中だから、しょっちゅう行き来はしてたらしいですが」
「でも嫌だとか言わないわけ?私なら逃げちゃうわ」
「小さい頃からそう言われてると、納得するみたいですね。さすがに去年こっちに出てきた時は、毎日泣いてましたけど」
「そりゃ当然だろうな」
龍村もつい涼子の質問攻めに乗ってしまう。
「ま、それも十日ぐらいしたら落ち着きましたけどね。龍村さん、あの子やたらとよく泣きますけど、気にしないでいいですから」
「そうなの?」
「日に軽く三回ぐらいはテレビやなんか見て泣きますから。まあ、面倒な事があれば連絡してください」
「だと安心だけど。高校生ってけっこう難しい年頃だし」
「でもどうして通信制なの?」
またしても涼子が口をはさむ。
「全寮制の学校に入れるって話もあったんですけど、本人が嫌がってね。戸籍は一応女なんで、女子で入学したとして、卒業する時に男じゃ格好がつかないとか。まあ明らかに同年代に比べると育ちが遅いのもあって」
「そうね、周りと違うってのが一番こたえる年頃だもんね。うーん、本人がどんな感じなのか、詳しくきいてみたいわ」
そんな事を言っている涼子は出版社の営業をしている。
元は龍村と同じ職場で、涼子が三年先輩。龍村が入社して半年ほどでつきあい始めた。当時は姐御に新卒が食われたと噂されたが、話はそれほど単純でもない。ともあれ二人は気が合ったし、時には喧嘩もしながら互いの気持ちを深めていったが、龍村が入社して三年目の倒産騒動が微妙な影を落とした。涼子はそれをチャンスととらえて転職し、龍村は独立して仲間と事務所を立ち上げたが、同時に二人の間で結婚話が出たのだ。
涼子は自分の給料で二人食べていくことも可能なので、まずは結婚して龍村はゆっくり足元を固めればいいと言ったが、龍村は結婚するなら自分の仕事がある程度順調に回るようになってからと思っていたし、他にも気になる事があって前向きになれずにいた。その辺りから少しずつ互いの考えが噛み合わなくなり、結婚話が出たせいで別れるという結末を迎えた。
それでも共通の友人や知人がいるために縁が切れる事もなく、気がつけば二人は古い友人のようになってしまった。今はそれぞれ別の恋人がいるし、他人が聞けば少し慌てるようなきつい冗談ばかり交わしているが、実のところこれは、互いの心が再び寄り添わないように張り巡らせた有刺鉄線のようなものだった。
「ねえ、今度あの子に会いに行くから、居留守とか使わないでね」
涼子はそう言うと手洗いに立った。ドアが閉まるのを見届けて、大鳥はいきなり身を乗り出してきた。
「龍村さん、あと一つだけ言っておきたいことがあるんですけど」
「え、まだ何か?」
「あの子にはちょっと変わった特技みたいなものがあって、何というか・・・周りの女性がやたら妊娠しちゃうんですよね」
「に、妊娠?どういう事?」
「別に何をどうするってわけじゃなくて、近くにいるだけで、です。だもんで田舎じゃ子供に恵まれない家に呼ばれることが多くて」
「何?スピリチュアル系?」
「いや俺も迷信だと思ってたんですけど、実際自分のところに子供ができてみると・・・本当にこんなタイミングでできるはずなかったんですけど」
「なんでそんな大事なこと今まで黙ってたの!」
「だって龍村さん独身じゃないですか」
「だから余計に注意しないと、でしょ?」
「いやまあ、とにかく女性とは外で会って下さい。用心はするにこしたことないです」
突然のことに龍村は混乱した。アルバイトを雇う、男女不明である、しかも子宝祈願の信仰対象?
「何を盛り上がってるのかしら?」
トイレから出てきた涼子が、妖しく目を光らせて近づいてくる。彼女にこんな話を聞かせたが最後、周囲の高齢出産予備軍を巻き込んで懐妊ビジネスを始めかねない。
「いや、大鳥さん子供できたから入籍したって」
「ホント?大鳥さんって彼女が五人ぐらいいると思ってたけど、いきなり入籍かあ。ファンが泣くわよ」
涼子は自分のグラスが空なので、龍村の分を一口飲んだ。
「予定日はいつなの?立会い出産とかするの?」
うまく話がそれたと思ったところへ、ドアが開いてスーツ姿の男性客が三人入ってきた。
「じゃ、俺、これで失礼するわ。ごちそうさん」
立ち上がり、大鳥に軽く目配せすると龍村は店を後にした。
たぶん涼子は清呼の身の上と大鳥の結婚ネタについて、この後しばらくねばつもりだろうが、龍村はこれ以上何も付け加えてほしくなかった。
全くこの話、本当に大丈夫なんだろうか?少々不安に思いながら外に出ると、雨はまだ音もなく降り続いていた。
春先のこんな雨の後は草や木がよく育つ。
何の脈絡もなくそんな考えが浮かび、彼は手にしていた傘をささずに歩きはじめた
二 傷痕と思い出
いくつかの不安要素はあったものの、清呼は龍村の事務所でアルバイトとして働き始めた。
ファックスを裏返しに送信、封筒に何も入れずに投函といった、お約束の失敗は一通りやってのけたが、採用取り消しという程の大惨事はなく、事務所のメンバーも全員が顔合わせを済ませた。
そして十日ばかり通った後で、清呼はわずかな荷物と、ポンキチというひしゃげたウサギのぬいぐるみを持って、事務所に引っ越してきた。
この事務所は、隣室で痴話喧嘩から殺人事件が起こったといういわくつきの物件で、築二十年ということもあって、2LDKだが家賃はかなり安めだ。周囲は雑居ビルやマンションが建ち並び、八階建ての六階とはいえ、ベランダからの眺めは別に楽しいものではない。
リビングダイニングが事務所の共用スペースで、メンバー全員が座れるテーブルと椅子を中央に置き、壁に沿って作業用のデスクやキャビネットにテレビ、拾ってきたソファなどが並んでいる。
他に二つある個室のうち、六畳を龍村が寝室兼仕事場にしている。四畳半は友人知人の宿泊用にもなる空き部屋で、安物のベッドにこれも拾ってきたデスクと椅子だけという簡潔さ。ここが清呼の住まいというわけだった。
いざ一緒に暮らしてみると、清呼はかなり口数の多い子だった。
最初のうちは敬語を使っていたせいか遠慮がちだったが、敬語は必要ないと言われてからは、何かと話しかけてくる。
どうして龍村一人で住んでいたのに炊飯器が六合炊きなのか?となりのビルの通気口にスズメがいっぱい住んでいる。昨日エレベータで一緒だったおばさんは駅前の宝くじ売り場で働いている、等等。
本当に「それがどうした」という話ばかりだったが、龍村にとっては自分から話題を見つけなくていいだけ楽だった。適当に答えておけば「そうなんだ」と納得しているし、こちらの下らない冗談にもいちいち大笑いしてくれる。
そして大鳥が言っていた通り、清呼はやたらと泣いた。仕事の失敗を注意されてもうなだれているだけなのに、テレビのお涙頂戴シーンですぐに泣く。ニュースの「行楽帰り一家四人交通事故死」で泣のは仕方ないとして、「カルガモ親子行方不明、犯人は野犬か?」あたりになると、もういいんじゃないですか、という気持ちになった。
そうやって新しい生活が落ち着き始めたある土曜の朝、龍村がキッチンを掃除していると、事務所のメンバーの一人、カメラマンのデボラが訪ねてきた。
デボラと呼ばれているが、彼女は別に外国人というわけではなく、葉山幸江という名の日本人だった。学生時代、性格があまりに大雑把だというので「ズボラ」という綽名をつけられ、それも可哀想だという事で「デボラ」に差し替えられて今日に至っている。
年は三十代半ばだが、結婚したのが早かったので三人の子持ちだ。メイクは眉と口紅だけ、真っ黒なストレートの髪を後ろで束ね、洗いざらしのシャツにジーンズといった服装が定番だった。
夫が大学の非常勤講師なので、彼女はこの事務所の他にもアルバイトを掛け持ちしている。穏やかな性格だが、恐ろしく頑固なところもあって、たぶん彼女が穏やかに見えるのは、世間一般のゴタゴタに無関心なだけで、自分にとって大切な事には決して妥協しないのだろうと龍村はふんでいた。
「おはよう。土曜だから、龍村くんまだ寝てるのかと思ってた」
元気よく入ってくると、デボラはカメラバッグをテーブルに置いてあたりを見回した。
「清呼は?」
「部屋にいるよ。なんか用事?」
「写真とらせてもらう約束してたの。清呼、起きてる?」
「起きてまーす」
デボラのよく通る声をききつけて、清呼が部屋から出てきた。
「よかった。この部屋朝しか日が射さないじゃない?だから今日はチャンスだと思ったわけ」
確かに天気は快晴で、ベランダに面した窓からレースのカーテンごしに、春の明るい光が射し込んでいる。
「でもなんで清呼の写真をとるの?」
そう龍村がたずねると、デボラは少しだけ口角をあげた。
「あれよ、個展やりたくてずっと撮りためてる奴。あなたの傷痕撮らせて下さい、ってね」
「そういや何かそんな話してたっけ、ごめん、もう一度教えてくれる?」
「うん、きっかけは自分なんだけどさ。私、三人目の信生だけ帝王切開で産んだのよね」と、デボラは一眼レフのカメラをバッグから取り出しながら話した。
「最初のうちは、親からもらった身体に傷つけちゃったな、なんて思ったのよ。でもよく考えたら、この傷がなければ信生も生まれてないし、むしろ私にとっては前向きな傷痕だという気がしたわけ」
「なるほど」
「もちろん傷痕なんて、なければいいと思ってる人の方が多いだろうけど、すでに傷痕も自分の一部になったと感じている人がいたら、それを撮らせてほしいというわけ。でもなかなか被写体に巡り会えないのよね。傷跡って、見えてても簡単に話題にできなかったりするし」
「なんだ、俺だって傷痕ぐらいあるよ、ほら」
ふと思いついて、龍村は左手の甲にある火傷の痕を示した。長さは煙草より少し短いぐらい、一直線のケロイド状に盛り上がっている。
「あら、知らなかった。じゃあ龍村くんも撮ってあげる。でもまずは清呼ね。さてさて、どこで撮るかな」
デボラは部屋を歩き回って日の当たり方を色々と見ていたが、やがて窓際に椅子を一つ運ぶと、清呼に座ってみるよう促した。清呼は神妙な顔つきで背筋を正し、両手を膝にのせてかしこまっている。
「学生証の写真じゃないんだから、そんなに硬くならないでよ。ちょっと待ってね」
デボラはカメラを置くと、もう一つのバッグをごそごそやって、中からブラシを取り出した。
「寝癖つけちゃって」と笑う声は母親のそれで、清呼の髪を手早くとかす。それからブラシを胸のポケットに突っ込み、デボラは再びカメラを構えた。
あとは突然真剣な様子になり、顔を右に向けろだの、目だけ壁のカレンダーを見ろだのと指示を出しながらシャッターを切っていく。龍村はテーブルの一角に座り、それを黙って眺めていた。
明るい場所だと清呼の瞳は鳶色に見える。ふだん何かにつけ浮かべている笑顔はどこかに隠し、かといって緊張しているようにも見えず、ただ何か不思議なものを覗き込むような表情でカメラに視線を向ける。そして左の眉尻にある白い傷痕は、今日の主役として大胆に自己主張していた。
「はい、じゃあ終了ね。ありがとう。ついでに龍村くん、いこうか」
「え、マジで撮るの」デボラの声に我に返る。
「うん、数が足りなかった時の補欠。あなたはそこに座ったままでいいわ。手の甲が見えるように頬杖ついてみて」
言われるままに姿勢を変えると、いつの間にか清呼がデボラの背後に回り、にこにこしながら見ている。撮影に要した時間は清呼の半分にもならなかった。
一仕事終えた、という笑みを浮かべ、カメラを片付けようとしたデボラに清呼が話しかけた。
「ねえ、二人で撮ってほしいんだけど」
「ん?龍村くんと?」
「そう。だって写真って誰かと一緒にとるもんでしょ?」
デボラは「そうね、いいかもしれない」と言うと、二人に壁の前に立つよう促した。
「逮捕された犯罪者みたいにしちゃおうか。二人でコンビニ強盗に入って失敗したって想像してみてね。ちょっと目つき悪い感じで。龍村くんが金を出せっていう係で、清呼は見張り役なのね。でも、いざお金をとろうと思ったら、奥から空手八段の店長が出てきてやられちゃったの」
デボラは即興でそんな話をつくりながら、カメラをこちらに向ける。隣に並んでいる清呼は声をあげて笑った。
「駄目よ、楽しそうにしちゃ。清呼は龍村くんを置いて逃げようとしたけど、つかまったんだから」
「え、逃げちゃったりしないよ。ピンチになっても絶対見捨てたりしないからね」
そう言って嬉しそうにこちらを見上げるので、「そっちこそ足手まといだよ」と言ってやる。
デボラは数枚撮影した後でしばらく考えていたが、続いて場所を移動するよう指示してきた。
「せっかくだから、二人とも傷痕が見える写真とらせて。清呼はさっきの椅子に座って、龍村くんは後ろに立ってみて。で、左手で清呼の髪をかき上げて、傷が見えるようにしてね」
「どういうポーズだ?これ」
「いいの、これは私の作品ですから」
こうなるとデボラの命令は絶対だ。言われたとおり清呼の後ろに立ち、その頭に手を触れたが、見た目よりずっと華奢な感じがした。
「頭に手を載せるんじゃなくって、ちゃんと掌を広げて指で髪をかき上げるの。そう。右手は肩を包むようにね。清呼は少し右向いて、でもカメラを見て」
つかの間緊張した空気が部屋全体を包み、そして消えていった。
「今のが一番面白かったかもね、ありがと」
満足げな表情で液晶画面をチェックしているデボラの横から、清呼が覗いている。デボラは角度を変えて何点か見せてやった。
「今度プリントしてあげるね。龍村くんも欲しい?」
「俺は自分の写真はいらないよ」
「何よ、照れちゃって」
デボラはカメラをしまうと、バッグからクリアファイルを取り出した。
「さてさて、あとはこちらにお答え下さい」と言ってA4の紙を二人に配る。清呼がペン立てからボールペンを二本とってきて、一本を龍村の前に置いた。それはアンケートで、名前、年齢、性別、職業そして傷痕についての質問がいくつかあった。
「簡単に書いてくれればいいわ。あとは私が話をきいて書き足すから」
二人が答えを書く間、デボラはキッチンで紅茶を入れていた。あちこちから持ち寄られた色も大きさも不揃いのカップに注ぎ、トレイに乗せて運んでくる。
「書けた」
清呼はいち早く紙をデボラに差し出した。自分もほぼ書き終えた龍村は、こっそり清呼の回答を覗き込んだが、性別欄にはちゃんと男と答えてあった。
「じゃ、質問しますから答えてくださいね。まず、鉄輪清呼さん。個人的な話だからね、龍村くんは席はずしてもらおっか」
言われて龍村は立ち上がろうとしたが、清呼は「大丈夫だよ」と言った。
「あらそう?じゃあ聞きますね。その怪我をしたのは六年生の時だそうですが、何をしていましたか?」
「坂道で自転車のハンドルを切りそこなってガードレールにぶつかりました」
「傷ができた時の感想に、「ラッキー」と答えてますが、どうしてですか?」
「もう少しズレてたら失明してたかも、と言われたからです」
「なるほど、本当によかったわね。そしてこの傷痕を一言で表すなら「思い出」だと書かれていますが、もう少し詳しく教えてもらえますか?」
「顔にあるからふだんは見えないけれど、鏡で見ると忘れたくない事をたくさん思い出すからです」
「例えばどういう事か教えてもらえますか?」
「大好きな人の事とかです」
「わかりました、ではこれで質問を終わります、ありがとうございました」
デボラはまだまだ聞きたいことがありそうだったが、そこで打ち切ると最後に少し何か書き込んでアンケートをファイルにしまった。
「じゃあ次、龍村久さん。清呼さんが同席してもよろしいですか?」
「結構です」と、龍村も神妙に答えてみる。
「ケガは四年生のとき。不注意からストーブに手を触れた、その後自傷とありますが、もう少し詳しく教えてください」
「最初はただの火傷でしたが、その後ずっとカサブタができるたびにはがしていたので痕になりました」
「なぜカサブタをはがしたんですか?」
「当時両親の離婚話で家庭内の雰囲気が悪く、そのストレスを発散していたものと思われます」
「傷ができたときの感想は「ついてない」。清呼さんと反対ですね」
「はい、清呼さんはおめでたい人だと思いました」
「そして一言でこの傷痕を表すなら「大人の都合」。もう少し説明してもらっていいですか?」
「当時ずっと大人の都合に振り回されていたのでそう書きました」
「わかりました。では終わります、ありがとうございました」
デボラはそしてアンケート用紙をしまうと、紅茶を一口飲んで口を開いた。
「龍村くん、あの、ご両親の離婚の話だけど、差し支えない程度にもう少し話をきいていいかしら」
「どうぞ」
龍村には全て過去の話だ。デボラにしてみれば自分が親世代なので、聞いておきたいのかもしれない。
「離婚の原因は性格の不一致とか、そういうこと?」
「父親が愛人との間に子供つくっちゃったから。それで色々もめたけど、離婚が成立して、引越しと転校。母方の婆さんと同居だよ。親父はそれからすぐに再婚した。決着がついたのが六年生の春だったんで、修学旅行は転校先のクラスに馴染んでなくて嫌だったな。
それで、中学で今度は母親の再婚騒動ってのが起きてさ。そりゃ女手一つで男二人も育ててたら大変なのは判るけど、「男の子には父親が必要」ってのを持ち出してきてさ。男が必要なのはあんただろ!って、さすがにこの時は俺もグレる決意をして」
「んで不良になったの?」
清呼は興味津々といった顔で聞いている。
「ちょっと危ない連中とつきあったら、兄貴に延々と説教くらって挫折。うちの兄貴は自分が親父の代わりになったつもりらしくて、異常なほど優等生なの。で、うちの母親は結局、俺が大学に入ったところで、その相手と再婚したんだけどね」
「で、別れたお父さんと新しい奥さんの間の子は?」
「それも男の子。大学のときに爺さんの葬式で見かけたきり。でもやっぱり似てるからすぐにわかるんだ。弟か・・・って思ったけど、あの子のおかげで大迷惑という気もして、ちょっと複雑だったね。今ならまた違うけど」
「十歳ぐらい離れてるのね。あら、ちょうど清呼と同い年くらい?」
「言われてみればそうかもね。弟のことなんかすっかり忘れてたけど」
「清呼はきょうだいはいるのかしら?」
「うん、兄ちゃんが一回り上で、姉ちゃんが十歳年上。それで久々に僕が生まれてさ、いわゆる恥かきっ子って奴?」
「そんなひどい言葉使っちゃ駄目!」
デボラはむきになったが、清呼は平然として「だって高木のおばさんが言ってたもん」と言った。
「どこの町内にもいる、おしゃべりババアかよ」
「でもさ、高木のおばさんっていい人だよ。他の大人が教えてくれないことでもちゃんと答えてくれるし」
「たとえばどんな?」
「隣町のガソリンスタンドの奥さんがいなくなったのは入院したんじゃなくて、トラックの運転手と駆け落ちしたから」
「もう、最低!」
デボラは真剣に、見知らぬ高木のおばさんに腹を立てていた。
「とにかく清呼、そんな言葉絶対に使っちゃ駄目よ。大事な子供が自分のことそんな風に言ってるなんて、お母さんが悲しむわよ」
「判りました」
「あらやだ、もうこんな時間。葵たちのピアノ教室が終わっちゃう」
デボラはそう言って、あたふたとテーブルのカップを片付け始めた。
「僕がやっとくから大丈夫だよ。デボラさんとこの子供はいくつなの?」
清呼は立ち上がってデボラの手からトレイを引き取った。
「うちは上から小三、小一、保育所の年少組よ。女、女、男ね」
「また今度会わせてね」
「だったら今日、晩ごはん食べに来ない?ホットプレートで焼肉するのよ。写真とらせてもらったお礼。いいよね、龍村くん」
「どうぞご自由に。でもデボラの子供は手ごわいぞ」
「そうなんだ?」
「口は達者よね。清呼、負けちゃうかもよ。じゃあ夕方買出しに行く時に合流してね。電話するから」
それだけ言うとデボラは来た時と同じように、勢いよくドアを開けて去っていった。
「焼肉だって!」と浮かれてキッチンに向かった清呼の背中に、龍村は「手ぶらで行くなよ」と声をかけた。
「え?どういう事?」
「人の家に食事に呼ばれたら、何か手土産持ってくのが礼儀ってもんだよ」
被写体を務めた謝礼とはいえ、やり取りを聞いていた大人としては、一言注意したくなる。こういうのが年寄りのいる家で育った人間の細かさで、我ながら嫌なのだが。
「手土産ってどんなもの?」
洗い物を流しに置いたまま、清呼は急いで戻ってきた。
「普通はみんなで食べられるお菓子とかかな?要するにただ食いは失礼って事」
「なるほど。知らなかった。村で人んちに行く時って、何も持っていったことないし」
「まあ都会と田舎じゃ違うけど。それにその時は大人と一緒だろ?」
「ううん、一人で行くんだよ。本当は神様つれていくから一人じゃないけど」
「神様?」
「そう。神様つれて行って、子供が生まれますようにって、お願いきいてもらうわけ」
どうやらこれが大鳥の言っていた、清呼の特技って奴らしい。
「お前、神様見えるの?」
「見えないよ。ただみんな信じてるだけ。僕を呼べば神様が一緒に来るし、僕においしいもの食べさせれば神様が喜ぶって。だからさ、チョコレートが好きだってみんな知ってて、用意してくれてさ、嬉しかったな。あとお酒も飲ませてくれた。僕けっこうお酒強いんだよ」
「とんでもない村だな。それで何、お前が神様に子供お願いしますって頼むのか」
「何もしないよ。鉄輪パパが、って神社のお父さんだけどね、説明してくれたのは、僕は神様と連絡するケータイみたいなもんだから、ちゃんと充電できてたらいいんだ。そうするとみんなのお願いが伝わるんだってよ」
「ふーん。それっていつもやってたの?」
「まあ大体月に一、二回。村の人とか、その親戚とか知り合いで、子供ほしいけどできないなんて人がいたら、まず鉄輪パパに連絡するんだよね。そしたらパパが神様に都合のいい日を聞いて、んで僕はその日の夕方になったら迎えに来てもらって、ごちそう食べて泊まって帰ってくる。それだけ」
「泊まるって、ご夫婦と一緒に?」
「そう。でもやらしい事は何もしないからね。普通に寝るだけだから」
「そりゃ当然だろう!何かしてたら犯罪だって!」
あまりに清呼が平然としているので、却って龍村の方が焦ってしまった。
「で、まあ無事子供ができたとして、お礼とかはどうするの?」
「知らない。実際その後で子供できたかどうかも知らない。ケータイは通話内容に関係ないから。でもって大人になったら引退するんだ」
それだけ言うと、清呼はふと口をつぐんでキッチンに戻ってしまった。龍村は水の流れる音を聞きながら、真偽のほどはさておいて、デボラや涼子はほっておいて大丈夫なんだろうかと考えていた。
その日の午後、龍村は恋人の琴美と会った。
ゴールデンウイークに帰省するので、その時に着る服を選びたいという彼女の希望で、行きつけのセレクトショップを回り、試着室から出てきた彼女を見ては、「いいんじゃない?」などと、当たり障りのないコメントをした。
明るい栗色に染めたセミロングの髪、少し眠そうで優しげな目元、形のいい唇。身長はそんなに高くないので、正直いってパンツよりスカートが似合ったが、本人もそれはよく判っているようで、いつも上品な印象の服を身に着けていた。
三軒目の店でようやくワンピースを一着買って、二人は近くのカフェで一休みした。土曜の午後なので人通りは多いが、店は少し路地を入ったところにあって、客の入りはまばらだった。
「龍村さんって女の子の服の好みとかないの?」
泡の上にハートを描いたカプチーノを飲みながら、琴美がたずねた。
「別にないかな。本人が好きなもの着ればいいと思うよ」
龍村は少し喉が渇いたので、ストレートのアイスティーを飲んでいた。
「しかし、なんで帰省するのにわざわざ服買うの?いっぱい持ってるのに」
「だって向こうで友達に会ったりするのに、一人だけ通勤服みたいな感じだったら嫌だもん。女の子ってほめ合ってるみたいで、相手のこと色々チェックしてるから」
「なるほど」
正直いってその心理は理解できなかったが、少なくとも耳を傾けることはできた。そこでふと会話が途切れてしまったので、龍村は今朝の写真の話をした。
「傷痕がテーマなの?珍しいわね。ちょっと怖いっていうか」
「まあ俺のは没だと思うけどね、インパクト小さいから」
「でもそのアルバイトの子、そんなに目立つ顔の傷でも平気なの?」
「うん。男、だし、まだ子供だし」
「私なら考えられない。そういえばお友達でね、手術して傷痕を消した人がいたわ。彼女は子供の頃に病気して、お腹に小さな手術の痕があったのね。まあ、ビキニでも着ないかぎり判らないぐらいの。で、去年結婚したんだけど、その時に、きれいな身体でお嫁に行きたいから、って手術したのよ」
「でも、旦那もその傷は知ってるんだろ?そんな小さなことを気にする男と思われるのも、情けないような」
「まあやっぱり、自分の気持ちかしらね」
なるほど、だからやっぱりデボラは被写体探しに苦労するのかな、と龍村は思った。傷痕なんてたいていの人にとっては、できれば消してしまいたいものだろう。しかし自分の手の甲にあるこの傷痕が消えたところで、起きてしまった事は変わらない。
二人はその後、琴美の友達が教えてくれたという、豆腐料理の店で夕食をとった。あとは送りがてら彼女のマンションに行き、一晩を過ごす。
龍村の週末はいつもこんな感じだった。
三 タケルと真奈美
長いような短いような、数週間が過ぎた。清呼はカレンダーを見て、自分がこの事務所に引っ越して、もう一月近くなるのだと改めて思った。
去年の四月に神社を離れて、大鳥さんと澄香さんのところに住ませてもらって、通信制の高校に入学して、バイトして。学校はサボりがちだけど、桃花園でのバイトは真面目に働いた。忙しくしていると寂しいことや悲しいことを考えている暇がないので、こんな感じでちょうどいいかと思って毎日過ごしていた。
大鳥さんはバーを経営していて、昼過ぎに出かけて夜中に帰ってくる。澄香さんはエステサロンで働いていて、シフト次第で朝出かけたり、午後からだったり。そして清呼は昼前に出て夜十時すぎに帰ってくるという具合で、一緒に住んでいるのに三人揃うのは珍しかった。
桃花園は中華料理の店で、五十代の大将と奥さんで切り盛りしていた。昼は奥さんがホール係で、清呼は洗い場と雑用。夜は厨房に善ちゃんというバイトの学生さんが来て、奥さんはお休みで清呼がホール係だった。
メニューはそんなに多くなくて、ラーメン、チャーシュー麺、炒飯と餃子と中華丼と天津飯、鶏の唐揚げ、八宝菜あたりが定番で、あとは日替わり定食の料理が何種類かあった。
もともと大鳥さんと大将が知り合いなので紹介してもらった仕事だけれど、人一倍よく食べる清呼には、賄いが出るのが嬉しかった。
大将も奥さんも、清呼が男女どっちでもないことは知っていて、別に気にしてもいなかった。だからどうか知らないけれど、ホール係は女の子の方がお客さんが喜ぶから、という理由で、夜はチャイナドレスみたいな赤いワンピースの制服で、ナデシコという名の女の子として働くように頼まれた。清呼も、酔っ払ったお客さんは女の子により優しいと気づいていたから、そういう風に働くことは別に構わなかった。
毎日けっこう忙しくて、このまま働いてたら中華の料理人になれるかなと思ったり、そんな風に過ごしていたけれど、突然終わりが来た。長野で一人暮らししていた大将のお父さんが、脳梗塞で倒れてしまったのだ。
大将は三日ほど寝ないで考えて、真っ赤な目で「店を閉める」と宣言した。善ちゃんも清呼も、どうしよう、と思ったけれど、やっぱり一番大事なのは大将のお父さんだ。
大将は、落ち着いたらまた長野で店を開くから、よかったらおいでと言ってくれたけれど、清呼は大鳥さんのいないところには住みたくないので辞退した。
そして桃花園は三月半ばに閉店した。早く次のバイトを見つけなければと思っていたら、こんどはまた別の困ったことが起きた。本当は嬉しいことだけれど、澄香さんに赤ちゃんができたのだ。清呼は、あ、やっちゃったかな、と思った。何故だか清呼のそばにいると、女の人はやたらと妊娠してしまうのだ。
大鳥さんも澄香さんも、ずっといればいいよ、と言ってくれたけれど、さすがに四人で今のアパートに住むのは狭い。清呼はどうにかして次に住む場所と仕事を探そうと思った。
できたら住み込みがいいけど、最大の問題は、自分がまだ男でも女でもない事だった。あんまり人に知られたくないし、そのためには他の人とずっと一緒に過ごしたりしない方がいいし。
色々考えて、答えが出ないで、ゲームばっかりして時間を潰す毎日。もう四月になってしまった頃、大鳥さんが「仕事と住むところがまとめて見つかりそうだよ」と言った。
もうそれしかない!と思って、清呼は大鳥さんの店で面接を受けた。といっても簡単な話をしただけだ。
雇ってくれるのは龍村さんという、大鳥さんよりも少し年下の男の人だった。清呼の好きなジンジャーエールを飲んでいたので、あ、この人も仲間だ、と思った。そして面接がうまくいったのか、大鳥さんがちゃんと頼んでくれたからなのか、清呼は龍村さんの事務所に住み込みで働くことになった。
龍村さんは事務所の代表で、ライターをしている。雑誌やネットなんかに文章を書く仕事だ。
事務所にはあと三人いて、まずカメラマンのデボラさん。彼女は優しくて明るい感じの人で、葵ちゃん、楓ちゃん、信生くんという子供がいる。近所に住んでいるので何度か遊びにいったけれど、子供たちともすぐに仲良しになれて、今ではみんな時々事務所に遊びに来てくれる。
次にグラフィックデザイナーの佐野さん。彼はとても頭がよくて、専門学校の先生もしているのだ。穏やかで親切で、勉強のわからないところなんか質問すると、判りやすく説明してくれる。見た目もすごくかっこいいのに彼女とかはいなくて、マセラティとかいう外車を彼女みたいに大事にしている。
最後の一人は赤井さんで、彼はウェブデザイナーだ。昔は龍村さんや涼子さんと同じ会社にいたけれど、倒産したので一緒に仕事を始めたらしい。「遊び人」という雰囲気のある人で、一度ケータイを見せてもらったら凄い人数が登録してあった。
口が悪くて人が怒りそうなことばっかり言うけれど、それをうまく冗談にしてしまうので喧嘩にはならない。赤井さんは清呼の顔を見るとよく、「こんな貧乏くさい所で働くより、いいお店紹介するよ」と言ったりして、どうも女の子になりたい男の子だと思っているみたいだった。
この他に、事務所のサポートメンバーとも言えるのがフルーチェさんだ。この男の人はプログラマーで、事務所にあるパソコンの調子が悪かったりすると呼び出されてやってくる。そんなに背は高くないけれど太っていて、色が白くてプルプルしているから、という理由で「フルーチェ」と呼ばれている。
本当の名前を聞いても「名前はフルーチェっす」と言うだけで、いまだに本名は謎のまま。とても無口な人で、しゃべるときは小声で早口だ。でもいったんキーボードに触るとすごい勢いで、あっという間に変なところを直してしまう。
清呼はこの人に、パソコンの使い方を色々と教えてもらった。ネット検索の裏技とか、エッチ系サイトを見た後の履歴の消し方も教わった。一度履歴を消していなくて、龍村さんに「俺が見たと思われるだろうが!」と叱られたのだ。
そんな事をしながらしゃべっていたら、フルーチェさんも清呼と同じように動物が好きだという事がわかった。可愛い動物の動画サイトなんか紹介してもらったけれど、せっかくだから一緒に動物園に行こうと誘ってみた。
フルーチェさんはけっこうあっさりとOKしてくれて、ゴールデンウイークの合間に二人で出かけた。帰ってから龍村さんに「今日、フルーチェさんと動物園に行った」と話したら、のけぞって驚いていた。
「お前は奴を行楽地に連れ出した最初の人間かも知れんな。いやいやいや、半分とはいえ女だから、フルーチェ初デート?」と感心して、「何か奢ってもらった?」ときいた。
「かけそばとコーラ」と答えたら、さらに感心して「またどっか付き合ってやれよ、あんまり日にあたるとコーヒーフルーチェになるけど」と言った。
もう次は水族館に行く約束をしたし、来年あたり北海道の動物園に行くと言ったら、「よしわかった。北海道の時は交通費一万円を支給する」と約束してくれた。
とはいえ、そばにいて一番楽しいのは龍村さんだ。
一緒に過ごす時間が長いから慣れているという理由はあるけれど、下らない話でもいちいち聞いてくれるし、面白い話もしてくれる。もちろん仕事で失敗すると注意されるし、馬鹿なことをして叱られるとかなり怖い。でもすぐ普段どおりに戻って後々まで引っ張らないし、筋が通らないことは言わなかった。
赤井さんによると、龍村さんは昔、涼子さんと付き合っていたらしい。「結婚話も出てたんだよ」というけれど、二人の喧嘩みたいな会話を聞いているとちょっと信じられなかった。
今は琴美さんという彼女がいるけれど、この人は一度も事務所に来たことがない。
「俺がセッティングした飲み会で知り合ったんだから、龍村は俺に恩があるんだ」と赤井さんは言っていて、ケータイで写真も見せてくれた。涼子さんよりおとなしそうな感じの人で、何だか胸が大きい。ふーん、今はこういう人がタイプなんだあ、と強く心に残った。
「タケルって誰?」
ある日パソコンでネット銀行での振り込み方法を教わっていたら、龍村さんは不意にそんな質問をした。
「なんでタケルのこと知ってるの?」
「いや、知らないから聞いてんだけど」
振込みを受け付けました、という表示を確認してクリックしたらログアウト。清呼はその手順をいつも使っているリングノートにメモした。
「子供の頃からずっと一緒の、兄弟みたいな友達」
「なるほど。昨日の夜さ、お前すごい大声だしてたんだよ。タケルちょっと待って!とか何とか。誰か来てるのかと思って、つい部屋から出たけど、真っ暗だし。なんだ寝言かって、拍子抜けしたよ」
「そっか、なんで憶えてないんだろ、すごく会いたいのに」
「夢なんてそんなもんさ。会いたくない奴に限って出てくる」
龍村さんはそう言うと、こんどはワープロの画面を出した。
「これをプリントして、D4ていうファイルの宛先全部に送ってくれってさ」
Dはデボラの略で、これはデボラさんが頼んでいった仕事だ。龍村さんは指示の書かれたポストイットを清呼のノートの表紙に貼り付けた。
「会いたいなら、行けばいいのに」
「タケルのこと?」
龍村さんは当然、といった感じでうなずく。
「お前ゴールデンウィークも帰省しなかっただろ?お盆には帰れば?」
「帰らないよ。そういう約束になってるから」
「約束?」
「うん、僕みたいな子供はもう帰れない決まりなんだ。」
「一度も?」
「そうだよ」
「じゃ、そのタケルって奴に、早く遊びに来いって言ってやれ」
龍村さんは怒ったようにそう言うと、ノートパソコンの入ったバッグを肩にかけた。
「今日は打ち合わせと取材でずっと出てるから。夜も遅いと思うよ」
「わかった、行ってらっしゃい」
外は曇り空で、天気予報は夕方から雨だった。時間はもうすぐ十二時。先に昼ごはんを食べることにして、文書だけ先にプリントアウトした。
ごはんは昨日炊いたのが冷蔵庫にあるし、おかずになるのは納豆ぐらいだけれど、あとはたらこふりかけと朝の残りのわかめの味噌汁で大丈夫だと思った。
桃花園と違って、ここでは食事は全部自分でどうにかしなくてはならない。村からは大鳥さんのところにお米を沢山送ってくるので、清呼はそれをもらっている。
龍村さんはほとんど外食で、朝ごはんはトーストとコーヒーぐらい。時には朝抜きだ。
清呼はたいがい自炊なので、よかったら一緒に作るということにして、その場合は朝三百円、昼と夜は各五百円もらうことになった。
村にいた頃から鉄輪ママが家事は一通り教えてくれていたので、簡単な料理をするのは全然苦にならないし、揚げ物なんかの面倒くさそうな料理は、外で食べるか買ってくることにしている。
龍村さんは清呼の料理を「普通にうまい」と言って食べてくれる。でも一度、味噌汁にキウイを入れたら怒った。自分的にはいける味だったので「サツマイモとそんなに変わらないよ?」と言ったら、「金返せ」と言われてしまった。
そうして一人で昼ごはんを食べながらテレビを見ていたら、今夜はサッカーの日本代表が試合をするという話題をやっていた。サッカーといえばどうしてもまた、タケルのことを思い出してしまう。
タケルは清呼と同じ村の子だ。小さい頃から一緒に遊んでいたので、兄弟みたいなものだった。でも清呼は三月生まれで、何をやっても人より遅く、四月生まれでほとんど一つ年上のタケルは、人一倍頭がよくて運動神経も抜群だった。
小学校に上がって清呼が神社に住むようになると、タケルは毎朝誘いにやってきた。自分ではあまり憶えていないけれど、眠いだの、ごはんがまだ終わらないだの言って、ごまかそうとする清呼の手を引っ張って、タケルは学校へ連れて行ってくれた。
実のところ、清呼は子供の頃の記憶が人に比べて、かなりぼんやりしている。それでも、いくらやっても九九が全部言えなくて居残りだったり、授業中勝手に教室を抜け出して、河原で遊んでいて見つかったり、そんな事は憶えている。そして色々な記憶の中に、いつも一緒にいるのがタケルだ。
楽しかったのは、お地蔵様を連れ出して、まだ田植えしていない田んぼに飛び込みさせる遊び。一人だと重くて運べないお地蔵様も、タケルとだったら協力して祠から連れ出すことができた。
いらないダンボールを拾ってきて、お地蔵様をのせて田んぼまで引きずっていって、あぜ道に立たせると、後ろから押してあげる。お地蔵様は身体が石だからしょうがないけれど、腹打ちで華々しく泥を撒き散らして田んぼに飛び込む。それが面白くて、清呼とタケルは何度もお地蔵様にチャレンジさせた。
「飛び込み、下手だねー」と言うと、お地蔵様は、「てへっ」て感じで笑って、それでもまだやりたいという顔をした。そして最後は用水路できれいに洗ってあげて、またダンボールに乗せて、祠に戻してあげるのだ。
ところがある日、教頭先生が車で通りがかって、清呼たちはどえらく叱られた。それで結局、お地蔵様と遊ぶのは諦めたけれど、その後も祠の近くを通るたびに、お地蔵様は「今日、やる?」と連れていってほしそうな顔をするので、清呼もタケルも残念で仕方なかった。
一方、好きじゃない遊びもあった。村の男の子は何故かみんな、蛙の口に爆竹を突っ込んで火をつける、という遊びが大好きだった。タケルもいつの間にか年上の男の子から遊び方を教わってきて、他の子たちとやるようになったけれど、清呼はこれが大嫌いだった。
いくら男の子の遊びが一緒にできても、これだけは無理。気持ち悪いのは勿論だけれど、何より蛙がかわいそうだった。だからせめてタケルにだけは、止めてほしいと頼んだ。
タケルは「なんで?面白いのに」と平気な顔をしていたけれど、清呼が、「タケルは清呼の口に爆竹入れて火をつけられる?だったらもうしょうがないけど」と言ったら、それきり止めてくれた。それだけじゃない、他の子や、年下の子みんなに、もうこの遊びをしないように命令してしまった。
タケルは清呼にとって遊び相手だけではなかった。学校では遊びよりも、助けてもらったことの方がずっと多い。縦笛が吹けなければ辛抱強く教えてくれる。逆上がりが何とかできるようになったのも、自転車に乗れるようになったのも、みんなタケルが助けてくれたからだ。
遠足でバスに乗って、車酔いで吐いてもタケルが背中をさすってくれたし、マラソン大会で最後になっても、先にゴールしたタケルが戻ってきて一緒に走ってくれた。とにかく、同じ学年が全部で九人しかいない学校で、タケルは清呼専門の世話係みたいな感じだったのだ。
そしてタケルは、助けるだけじゃなくて、清呼の代わりもしてくれた。二人で神社の境内で遊んでいると、たまに全然知らない大人が来ることがあった。
この人たちはどこかで清呼の噂を聞いたらしくて、「ねえ、この神社に、赤ちゃんができるようにお祈りしてくれる子がいるって本当?」なんて聞いてくる。するとタケルは「うん、それ、俺だから」、っていきなりアピールすると、鉄輪パパの真似をして、お祈りくさいことをやってのける。
当の清呼はというと、鼻をほじりながらそれをボーっと見ていたりするのだった。で、タケルは適当なところでお祈りを終わると「はい三百円」って料金を請求して、二人でアイスクリームを買って食べたりした。
そうやって二人で色んな場所で遊んでいると、時々村の人たちが通りがかった。たいていの人は笑って見てたけれど、高木のおばさんだけは「あんたら、そのうちすぐお別れなんだから、仲良くするのもほどほどにしときなさいよ」と言うのだった。
おばさんが行ってしまうと、タケルは必ず「うるせーババア」と、怒ったように言ったけれど、清呼はいつも鉄輪パパから「お前は中学を出たら一人で遠くに行くんだよ」と言い聞かされていたので、胸の中に石でも詰め込まれたような気持ちになった。
小学校の高学年になると、タケルは急に背が伸びはじめた。その頃からサッカーをやりだして、町の少年チームで練習するようになった。
「清呼もやれよ」と誘ってくれたけれど、清呼はまだ背も低くて、おまけに運動もそう得意ではないので、もっぱらタケルが練習するのを眺めるだけだった。
そして同じ中学に上がると、清呼はタケルが女の子たちから「かっこいい」と言われていることに気がついた。一学年三クラスもある中学で、かなり広い範囲から生徒が通学していたけれど、タケルはその中でも背が高い方で、運動も勉強もできるし、何より顔がいいらしかった。清呼はタケルの顔は大好きだったけれど、それが「かっこいい」という種類だとは知らずにいたので、かなり驚いた。
眉が一本につながりそうなほど濃くて、睫毛が女の子みたいに長い。そして目は大晦日の夜みたいに真っ黒。一本だけ八重歯ギリギリセーフ、という感じの糸切り歯があって、喋るときにそれがよく見えると機嫌のいい証拠。
一方の清呼は、中学では女子ということになっていた。小学校でも女子だったけれど、どちらかというと男子みたいな格好で過ごしていた。しかし中学は制服があるので、セーラー服にスカートという服装で通学しなくてはならない。
入学式の日に制服を着た清呼を見て、タケルは「なんか女子みたい」と言って笑った。清呼自身も何だか妙な感じだと思いながら通学したけれど、そのうち困ったことになった。タケルと仲が良すぎるといって、タケルのことを好きな一部の女子から、こっそりいじめられるようになったのだ。
タケルと一緒のバスに乗って登校しただけで、廊下ですれ違いざまに舌打ちされたりした。それは段々とひどくなって、ノートや教科書を隠されたり、上履きをゴミ箱に捨てられたりしたし、それどころではない嫌な事まで起こった。
ただでさえ「男か女からわからない変な子」と陰口を言われるのに、これではもう学校に行きたくない。今日は一体何が起こるのかと思って、朝は学校の門を見ただけで暗い気持ちになった。
そしてある朝とうとう、清呼はバスを降りたところで足がすくんで歩けなくなった。タケルは少し先で立ち止まって、「何やってんだよ」と不思議そうにしていた。仕方がないので思い切って、「ちょっと意地悪な子がいて、怖いんだよ」と打ち明けた。
あんまり詳しいことを言うと、タケルは怒りまくっていじめっ子を半殺しにするかもしれないし、そんな事をされた自分が惨めなので、黙っておいた。
タケルは一言、「女子やめれば」と言った。それもそうだと思って、清呼は次の日から体操服のジャージで登校して、担任の先生に女子を辞めると言った。すると先生から鉄輪パパに連絡がいったらしく、その夜、鉄輪パパは清呼にどうして男子になりたいのかと訊ねた。いじめられた事は絶対に言いたくないので、「つまらないから」と言い張っていたけれど、案外すんなりとその要求は通って、清呼は男子の制服で通学できるようになった。
清呼が「男子」になった途端に、いじめていた女子たちは安心したみたいで、何もなかったように、「これタケルに渡して」と手紙を預けたりするのでびっくりした。
しかし男子の格好をしているからといって、清呼は本当に男子になったわけではない。ただ誰も迷惑しないだけで、相変わらず「男か女かわからない変な子」のままだった。
何よりも困ったのは、神様のことでからかわれる時だった。
ちょっとぶつかったりしただけで「あっ、ヤバイ、妊娠しちゃうかも」なんて言われるし、色々とあり得ない事も言われた。清呼が神様を連れて行くのは、別に赤ちゃんが欲しい人のところだけじゃなくて、新しく始めた仕事が成功するようにお願いしたい人もいれば新しい品種の稲がよく育つようにお願いする人もいる。でもそんな事を説明しても誰も聞こうとしなかった。
だから清呼は、もう神様を連れて行くのは辞めにしようと思って、鉄輪パパから、「明日、誰々さんちに呼ばれてるよ」と言われても、「頭が痛いから行かない」と答えるようになった。そんな嘘をついても、鉄輪パパは「清呼が行きたくないというのは、神様が行きたくないという事だからね」と言ってそっとしておいてくれた。
ところがしばらくすると、本当の母さんが神社まで訪ねてきて、清呼に大説教をした。
「みんな同じように真剣に神様にお願いしたいのに、どうしてこの人のときは行って、この人は断る、なんて勝手を言うの。いいかげんにしなさい!」
清呼にとって母さんの言うことは絶対だ。だからもう仕方なく、自分に神様がついて来る限りは、誰のお願いでも聞こうと思った。その代わり、学校ではもうどんなにからかわれても気にしないで、逆にそれを冗談でごまかすことにした。
「妊娠しちゃうかも」と言われれば、「男か女かどっちがいい?」とか、「する事しないと妊娠しないもんね。カナコ誰とやったの?」とか、キツい事を言ってやり返す。するとみんな面白がって、段々と清呼をからかうのを忘れて、笑わせてもらうことを期待するようになっていった。こうなると清呼も必死だから、とにかく何でもいいから適当な冗談を言う。特に下ネタはウケるから、いつも連発していた。
けれど清呼は時々すごく疲れた気分になった。
別に自分はまだ子供だし、下ネタなんて、口にはしてるけど、実はどういう事かあんまりよく判らない。そんな風にぼんやりした気分になると、清呼は教室をそっと抜け出して、グランドの隅に行くのだった。休み時間にはたいがいタケルとサッカー部の仲間がボールを蹴っていて、そのうち清呼に気づいたタケルがこちらに走ってくるのだ。
「見てないでやれよ」
笑いながらボールを蹴ってくるので、蹴り返す。そのまま少し一緒に遊ぶこともあったし、壊れかけのベンチに座って眺めていることも多かった。
色々あるけど、決定的にいじめられずに何とかなっているのは、タケルのおかげだった。清呼に何かしたらタケルが黙ってはいない。小学校からの仲間たちは、その事をいつの間にか学校中に広めてくれていた。
タケルを見ていると、自分がタケルになってどんどん駆けて、蹴って、また走っているような気分になる。タケルみたいに何でもできて、一年からサッカー部のレギュラーで、自分をごまかさずにまっすぐ前を向いて、本当に思ってることだけを言う。そうだったらどんなにいいだろう。でも清呼は女子を辞めることはできても、自分を辞めることはできないのだった。
そんなこんなで清呼は中学がとても苦手だった。勉強は小学校のころからできなかったし、中学はそれに輪をかけて難しい。そして何より、クラスで浮いてしまわないように冗談を言うだけで、全力を使い果たしている感じだったので、クラブに入ろうなんて気は全然起きず、とにかく一刻も早く学校から逃げたかった。
だから清呼は、授業が終わるとすぐに飛び出して、六限めの終わりに合わせて走ってくるバスに乗ることにしていた。バスの一人がけのシートに座って、ドアが閉まる音を聞いた瞬間に、いつも全身の力が抜けてほっとした。
後になって、一人で東京に出てきてから、随分寂しくて泣いたりもしたけれど、街の人は誰も自分のことを知らないし、誰にもからかわれる心配をしなくていいのだけは、少なくともマシだと思った。
そんな風に嫌々通って、しょっちゅう早退したり保健室で昼寝したりの中学生活だったけれど、二年の夏休み前に真奈美という女の子が転校してきた。何でもお爺さんが有名な県会議員で、お父さんが選挙でその後を継ぐことになったからこっちに帰ってきたとかで、東京育ちのお嬢様だという噂だけが先走っていた。
実際の彼女は普通の可愛い子で、清呼は一目見て何となく好きになった。でもクラスの女の子は「ちょっとお高い感じ」だと言ったし、男子は「生意気だ」と言って、最初の頃は皆が遠巻きにしていた。でも夏休みが終わって文化祭の準備をしている内に、清呼は真奈美とかなり仲良くなった。
家に遊びにいって、色々と面白い漫画や本を見せてもらったし、彼女が神社に来て、いつまでも下らない話をしたりした。休みの日にはバスで町に出て、買い物をしたり、映画館に行ったり、ファストフードの店で食事をしたりした。
真奈美が他の女の子と違うといわれるのは多分、自分の意見をはっきり言い過ぎるからだと清呼は思った。嫌いなものの事をわざわざ、「好きじゃないかも」なんて言わず、「嫌い」と、一言で終わってしまうから、みんなビビるのだ。しかしそれは逆に言えば「好きかも」じゃなくて「好き」だった。だから彼女は清呼に「好きよ」と言った。
もちろん真奈美は、清呼がまだ男でも女でもない事は知っていたけれど、「将来男の子になったら彼氏にしたいから予約させて」と言った。
清呼も彼女の事は好きだし、すぐにOKして、二人は晴れて「付き合っている」ということになった。他の子たちは「変わった人どうしでいいんじゃない」という感じで無関心だったし、清呼たちもその方がありがたかった。
タケルも清呼と真奈美のことは知っていて、「彼女できたんだって?」と何気なく訊ねてきたので、「うん」と答えると、「よかったな」と言ってくれた。「タケルは彼女作らないの?」と聞くと「面倒くさい」と笑った。
付き合いだしたとはいえ、清呼と真奈美の関係はそれまでと大して変わりなかった。ただやはり真奈美の方が何だか大人で、家に遊びに行くと時々、冗談めかしてキスしてきた。
自分の唇に彼女の柔らかい唇が触れると、清呼は何かとても不思議な感じがして、自分からもそっと同じようにキスしてみた。時にはそのまま彼女のベッドに抱き合って横になって、彼女の長い髪を撫でたり、暖かい身体や、胸の柔らかさを自分の肌で感じてみることもあった。でも二人がするのはそこまでで、真奈美もそれで十分だと感じているみたいだった。
清呼が村を離れる日が決まったとき、真奈美はけっこう落ち着いていた。彼女によれば、自分は高校を出たら東京の大学に進むつもりだから、またすぐに会えるよ、という事で、これには清呼も元気づけられた。
一方、タケルは清呼が思っていたよりずっと寂しそうだったし、とても不機嫌になった。「絶対行かなきゃ駄目なのかよ」と何度も聞いてきたけれど、清呼はただうつむくしかなかった。
それでも出発する前の晩には、もう最後だと思ってタケルの家まで行った。
タケルは玄関まで出てきたけれど、怒ったような顔をして、何だかとてもぶっきらぼうで、タケルの母さんが気を遣って部屋に上がるように言ってくれなかったら、清呼はそのまま帰っていたかもしれない。
部屋に入っても、タケルはベッドにもたれて胡坐をかいたままで、壁を睨んでじっと黙っていた。清呼はとにかく、ずっと思っていたことだけは話すつもりだったので、小さい頃から今日まで、いつも助けてくれてありがとうと言った。するとタケルは、「お礼なんかいらない」と一言、つっけんどんにいった。思わず「ごめん」と謝ったら、こんどはぴしゃりと「謝るな」と言われた。
何も言えなくなった清呼の顔を、ようやくその黒い瞳で見つめて、タケルは「やっぱり男になるのかな」と呟いた。どういう意味だろう。「タケルが言うなら、男でも女でも、何にだってなる!」と叫びそうになったけれど、じゃあ男子として真奈美と付き合ってる自分は一体何だろう。タケルはそんな自分を見て、いつもどう思っていたんだろう。
「タケル」と口を開くと、そっと手が伸びてきて、長い指が清呼の唇を押さえた。
「もう何も言うな。元気でな」
それだけ言うと、タケルはベッドに上がり、清呼に背を向けて横になってしまった。清呼はしばらくそこにいたけれど、タケルが黙ったままなので、仕方なく「じゃあ、行くね」とだけ声をかけて部屋を後にした。
翌日の早朝、清呼は散々大泣きした後でようやく車に乗って神社を後にした。車は鉄輪パパが運転して、助手席にはママが座っていた。清呼の両親は自分たちの車で一足先に空港に向かったはずだ。
本当にもうこの場所に戻れないんだろうか、いまひとつ実感が湧かない気持ちで、見慣れた外の景色を眺めていたけれど、半分は泣き疲れてどうでもいい気分だった。
車が村と国道をつなぐ橋のところまでさしかかると、堤防に誰かが立っているのが見えた。犬の散歩かな、そう思って何となく目を向けると、それは誰よりも親しみのある姿で、こちらに向かって両手を振っていた。
「タケル!」
慌てて車の窓を開くと、外の冷気が一気に吹き込んでくる。ウインドブレーカーを着て、ランニングの途中みたいに見えるけれど、ついでじゃない事は清呼には痛いほどよく判った。またしても涙が出てきて、タケルの姿もぼやけそうになる中で、清呼は彼が笑っているのをはっきりと見た。
「タケル!ありがとう!元気でね!」
結局お互いに願うことはそれしかなかった。タケルが元気でいてくれれば清呼は幸せだ。そうでなければ生きていられない。
昨日タケルが夢に出てきたという事は、やはりずっと清呼のことを支えてくれているという証拠だ。清呼は、ワイドショーに変わってしまったテレビの画面を見ながらそう考えた。
では自分はどうにかして、タケルのことを支えているだろうか。村の人との連絡を禁じられているので、タケルとはメールも電話もしていない。でもこうして心の中でつながっているなら、自分も時にはタケルの夢の中に入っていけるかもしれない。そんな時、タケルは大声で清呼と呼んでくれるだろうか。
四 金魚より長生き
全く、ジューンブライドなんて言葉は梅雨前線のない世界だけにしてほしい。
外は雨が降ったり止んだり、おまけに風がなくて蒸し暑い。こんな季節に結婚するのは勝手だが、まだあと一日仕事があるという木曜の夜に、パーティーに招待されても面倒なだけだ。
涼子はそんな不機嫌をファンデーションの下に塗り固めるべく、鏡の前で化粧直しに余念がなかった。
半分は自分の嫉妬。あとは単純に面倒くさいだけ。それが判っているので、コントロールはできる。ルージュを引き、脂とり紙で押さえ、少しファンデーションをのせてマットな感じに仕上げる。
よしこれで完了。ポーチをバッグにしまい、髪を軽く整える。久々にタイトスカートのスーツを着たら、効きすぎた冷房のせいで足元が寒い。これもまた不機嫌の種になりそうだった。
化粧室を出て、パーティー会場に向かう。ここはさして大きくないホテルで、料理の評判はよかったが、どこであろうとウェディングパーティーの料理に満足したことなど今までに一度もない。ま、どうせダイエット中だからいいけれど。
「こんばんは、向井涼子です」
受付の女の子に名前を告げて招待状を渡し、さあ会費八千円で何が出てくるか見届けてやろうじゃないの、という気持ちで中に入った。仕事仲間であり、友達でもあるカップルのパーティーなので、知った顔がちらほらいて、向こうも「元気?」という感じで手にしたグラスを挙げている。
「あれだけ文句言ってたのに、ちゃんと来てるじゃないの」
前の職場で世話になった先輩、マダム美雪が近づいてきた。
「世の中やっぱり、つきあいって事ですかね」
言いながら涼子は目の端でテーブルの上の料理をチェックしていた。あそこにあるのはピラフか炒飯か?
「確かにあんた、口は悪いけど義理堅いから。そういえばさっき、龍村君を見かけたんだけどね」
マダム美雪はそう言うと周囲を見回した。
「あの人も少しは大人の付き合いがわかってきたのかしら」と、涼子は切り返す。
そんな話をする内、少しずつ来客の数は増えてゆき、やがて司会者がパーティーの開始を告げた。
友人のスピーチ、二人の出会いを紹介するスライドショー、有志によるカラオケ、バイオリン演奏まであり、時間が経つにつれて涼子の中の「どうでもいい感」は膨張していった。
私はこんなパーティーもつまらん披露宴もしない、でも絶対かっこいい結婚はする。
龍村との結婚話が浮上して、それ故に別れてから、涼子はしばらく既婚男性と付き合っていた。どうせ結婚しないなら不倫でも何でも構わない、お金を持っていて楽しい気持ちにさせてくれればそれで十分。
しかしある日、彼女のマンションに男が来ている時に少し大きい地震があり、その直後に男が自宅へ電話をかけたのにショックを受けた。そして何だか急に馬鹿らしくなって、さっさと別れてしまった。
その後は仕事ばかりして気楽に過ごしていたが、半年ほど前から知り合いの紹介で銀行員の森本と付き合うことになった。彼は都内の小さな会社の跡取り息子で、ゆくゆくは社長を継ぐという話だが、三十歳という年齢を考えると、涼子とのつきあいは結婚前提のようだった。
友人たちは口を揃えて「絶対逃がしちゃ駄目よ」と言う。
確かに社長夫人という言葉の響きは魅力的だ。しかし涼子は所謂セレブ妻というものに自分が向いているとは思えなかった。
実家は埼玉のサラリーマン家庭で、留学経験もない。社会人になってからはひたすら働いていたので、茶道華道はおろか、これといった趣味もない。こんな女が突然セレブを名乗ったところで、毎日する事がなくてどうにかなるに違いなかった。
しかし本当に涼子の心に引っかかるのは、森本がそんなに気の合う相手ではない、という事だった。
頭はいいし話題も豊富、高級レストランなどに行っても立ち居振る舞いが板についていて、容姿もそこそこ。しかし時折がっくりする事がある。コントの落ちが理解できなかっただとか、明らかにお世辞と思われることを真に受けただとか、些細な事だ。
何かとても大きなプラス点があれば無視できるだろうに、残念ながらそれがない。そしてそれは自分の責任でもあった。
そんな事を考えているうちにも、パーティーはどんどん進行していった。はずれなし、というビンゴゲームを最後に持ってきて盛り上げた後、ではしばらくご自由にご歓談下さい。となって、会場からは少しずつ人が去り始めた。
森本が迎えに来る約束になっているので、涼子はパーティー終了、と携帯で打って近くの椅子に座り、酔い覚ましに烏龍茶を飲んだ。そしてふと横を見ると、龍村が先に帰る知人に挨拶しているのが目に入った。珍しく今夜はスーツ着用だ。
「こんばんは。来てたのね」
声をかけると、向こうはすぐに気がついてそばにきた。
「まだしばらくいるの?」
「もうすぐ迎えの車が来ます」
「じゃ、それまで付き合うよ」と言って、龍村は隣に腰を下ろした。
「結婚パーティーって、それなりに仲良しの友達のでも、祝うのと同じぐらい、ケッ!て気持ちになるわ。そう思う自分がまた嫌で、もひとつ楽しめないんだけどさ」
「ま、そんなもんじゃないの」
「あんたも大人になったわね。昔はこういうのが嫌いで逃げ回ってたのに」
「今でも得意じゃないよ。仕事の義理とかがあるから、仕方なく来てるだけ」
「それ、ビンゴで当てたの?」
龍村が片手に持っている、ワインボトルらしき包みを指差してみる。
「そ、ワインだな、コートドプロヴァンス?」
そう言いながら開けて見せた中身は、女性的な曲線を描いたボトルのロゼワインだった。
「いいじゃない、私はこれ、チョコレートよ。でも確か最近神戸から東京に進出したばっかりって噂だから、案外レアものかも」
藤色のペーパーバッグから、同じ色の小さな包みを取り出す。見た目より重い感じがして、中身充実、という嬉しい予感があった。龍村は涼子の戦利品を手にとってしばらく眺めていたが、「あのさ、ワインとこれ、交換してもらえない?」と聞いた。
「交換?ああ、清呼にあげるのね」
「うん。結婚パーティーに行くって話したら、じゃあバウムクーヘンもらえるね、って。田舎じゃ定番なのかな。代わりにワインってわけにもいかないし」
「いいわ。今日のところは貸しをつくっとく」
涼子はそう言ってワインボトルを引き取った。
「あんた、私にはそういう思いやりってロクに示してくれなかったけど、清呼にはずいぶん親切ね」
「そりゃ他人だもの、けっこう気を遣うよ」
「じゃ、私は他人じゃないって事?」
「まあね、ちょっと違うね」
龍村は口元にかすかな笑いを浮かべた。涼子はふと懐かしいものを感じたが、すぐにそれを切り捨てた。
「あら、あんたネクタイ結ぶの苦手だったけど、今日はいやに決まってるじゃない」
「ああこれ、清呼が結んでくれたの。なんか、お父さんのネクタイ結ぶ係だったとかってさ。びっくりしたよ」
「可愛いところあるじゃない。いい人材に恵まれたわね」
「まあいつもそういう、いい意味での驚きならいいんだけどさ、こないだはまったく逆で」
そして龍村は数日前に起きた事件の話をした。
その日、龍村が外から戻ってくると、ミーティングテーブルの上に水槽がのっていた。といっても昆虫ケース兼用、みたいな安物だ。中には縁日ですくいたて、といった大きさの金魚が五、六匹泳いでいる。
「清呼、ちょっと来い」
何か問題があっての説教タイムは、必ずこの一言から始まる。それをわかっている清呼は、うつむき加減にキッチンから出てきた。
「何だよこれは」
「金魚です」
「見りゃわかるわ。なんでこんなもんがここにあるの」
「もらって来た」
「どこから」
「下のクリーニング屋さん。こないだの商店街ハッピー祭の金魚すくいでとりすぎたっていうから」
呆れて腕を組んでいる龍村に、清呼は必死で説明した。
「水槽に沢山すぎて、どうせ何匹かは死ぬかもって言うからさ、かわいそうなんで貰ってきたんだよ。あとここに白い石と水草入れたら綺麗でしょ?別にあの、ブクブク空気入れたりしなくても丈夫だから心配ないって」
「仕事をする場所に金魚はいらん」
「じゃ僕の部屋で飼うから」
「生き物飼育禁止」
「僕だって生き物じゃない」
「お前は雇われてんの。飼ってんじゃないよ。それに生き物飼ってもさ、けっこう寿命短いだろ」
龍村はつい本音を漏らしてしまった。
実際のところ動物は嫌いではないし、清呼の寂しさを紛らわせるのに金魚ぐらい飼っても別に差し支えない。ただ、思いがけずあっけない死に方をしたりするのが嫌なのだ。
「でも僕の方が金魚より先に死ぬかもしれないよ。車にひかれたり、工事現場から落ちてきた鉄骨に当たったりしてさ」
「お前みたいなおめでたい奴は長生きするよ」
「でも高木のおばさんが、あんたみたいな子供は早死にするよって言ったもの」
「またそのババアかよ。本当にロクでもない事ばっかり言うんだな」
「そうかな。言ってもらった方がいいと思うけど」
「なんで」
「だって同じ食事を食べるのに、制限時間五分と三十分じゃ食べる順番が違うじゃない。残りあと三十秒ってところで、実は制限時間五分でした!って言われたら困るよ」
「なるほど」
「だから僕は大人になったら、したい事から先にするんだ」
清呼はそう言いながら、指先を水面につけて金魚たちが寄ってくるのを見ていたが、ふと顔を上げた。
「ねえ龍村さん、僕が大人になって一番にしたい事って何かわかる?」
「大人になって一番にしたい事?」
「ヒントはね、せ、で始まる四文字の言葉です」
「せ?」
「でね、一つだけ小さい字です」
「せ、で始まって?せっ?いや待てよ」
少々慌てる龍村を見ながら、清呼は満面の笑みで言い放った。
「答えは選挙!でした。龍村さん何だと思った?顔赤いよ」
「それを言うなら投票だろ!このアホガキ」
「アッヒャッヒャッヒャ!」
酒が入っているせいか、下らないネタでも大笑いできる。涼子はネイルの光る指先でにじんだ涙を押さえた。
「それで金魚はどうなったのよ」
「結局デボラが引き取ってくれた。いい迷惑だよな、全く」
「あの子見た目が子供っぽいからつい油断しちゃうけど、けっこう過激なこと言うわよね。高二だから、年相応って事だろうけど」
「普通に興味あるんだろうね。でも俺があの年頃のときには逆に、興味ありって悟られないように必死だったけど」
「うん。平気で言うってのが、まさに子供なのよね」
「まあ、いまだにウサギのぬいぐるみ抱いて寝てるし。それに対人距離が近すぎるっての?パソコンの使い方なんか説明してると、鼻息がかかるぐらい顔を近づけてくるんだよな。喉に魚の骨がひっかかったから見てくれって、大口開けてきたり。ねえ、ちょっと静かにして、って言うから何かと思ったら、いきなり屁をこいたり。本当にアホガキだよ」
「あらあら」
「こないだは、コブラツイストってどんな技?ってきくから、実際にかけたら泣かれちゃって。エビフライ定食で示談にしてもらったよ。なんか結局、自分が兄貴にされたのと、同じような事をしてしまうな」
「あんたら、同じレベルの馬鹿ね。呆れるわ。でもまあ、大人相手に際どい冗談はいただけないわね」
「そうなんだよ。誰かれかまわずああいう事を言ってると、付け入ってくる奴もいるだろ?乗ったように見せかけて少しずつ罠にはめていくっていうか」
「ああ、いるわね」
「清呼なんて、まさにいいカモだという気がするんだよね。だからまあ、その内ちゃんと注意しようと思ってるんだけど」
涼子は自分の知らない龍村を見た気がした。
「子供は人を大人にさせるわね」
「俺のこと?」
「うん。保護者っぽいわ。それとも若い彼女と付き合ってるからかしらね」
ついつい余計な毒を加えてしまう。そこへ携帯が一度鳴って切れた。
「迎えの車が参りましたわ、ではごきげんよう」
立ち上がろうとすると、ヒールが絨毯にめり込んで少しバランスを崩した。龍村がとっさに手を伸ばして支えてくれたが、「そろそろ介護が必要な年だな」と言われたので払いのける。足早に歩き始めた涼子を、龍村は小走りに追ってきた。
「これ、ありがと」チョコレートの入ったペーパーバッグを少し持ち上げて見せて、そのまま彼女を追い越してゆく。そうだ、化粧直ししなきゃ。そう思って涼子はワインを抱えたまま、再び化粧室に向かった。
五 健介おじさん
素敵な写真だ。
清呼はベッドに寝転んだまま、デボラさんが四月にとってくれた写真を眺めていた。夕方に葵ちゃんがおつかいで持ってきてくれたのだ。
「これ、お母さんから。遅くなってごめんねって言ってた」
まだ梅雨の真っ最中で、雨なのに長靴を履いてわざわざ来てくれた。
葵ちゃんは三年生だけどとてもしっかりしていて、色々とデボラさんのお手伝いをする。清呼が同い年の頃は、毎日ただ遊んでいたのですごい違いだ。
もらった写真は全部で六枚あった。二枚が清呼を一人で写したもので、あとは龍村さんと一緒にとったのが二枚ずつ二種類、どれも白黒。
自分ひとりで写った写真は、まるで誰か別の人間みたいだった。椅子に座って、こっちを見ているのと、上半身だけで、少し右を向いた顔。
いつも鏡で見ている顔と反対だから別人みたいな感じがするんだろうけど、やっぱり男か女かどっちつかずで変な顔だ。
龍村さんと壁の前に並んでいる写真は、コンビニ強盗をして捕まったつもりで撮った。もう一枚は清呼が椅子に座っていて、龍村さんがその後ろに立って、左手で清呼の髪をかき上げて、目元の傷痕が見えるようにしている。
龍村さんは何か我慢しているみたいな表情で、清呼は「文句あんのかよ」という目つきをしている。どうしてこんな風になったのか思い出せないけれど、何だか二人の感じが素敵に思えて、この写真が一番気に入った。
デボラさんは二人の写真をちゃんと二枚ずつくれたけれど、「いらない」と断言していた龍村さんに渡していいかどうか迷ってしまう。渡してすぐに捨てられたら悲しいし、かといって自分がずっと持っていたらデボラさんに悪い。
まあ、見たら気に入ってくれるかもしれないので、その内タイミングを見計らって渡すことにして、また、一番好きな写真を眺める。
この写真が清呼の傷痕を一番はっきりと写している。ほぼ五年たっても少しも薄れない傷痕。できれば死ぬまでずっと消えずにいてほしい。そうすれば自分は健介おじさんのことをずっと忘れずにいられるから。
健介おじさんは名前こそおじさんだったけれど、実際は清呼の爺ちゃんと同じくらいの年だった。
白髪と黒い髪が半々ぐらいで、ちょっと癖毛。よく日に焼けていて、銀縁の丸い眼鏡をかけて、笑うと顔中が皺だらけになった。声が大きくて歌が上手でギターも弾けて、面白い話を沢山知っていた。昔は中学校の先生をしていたらしくて、退職してからは村の子供を相手に学習塾を開いていた。
清呼は小学校に上がってもぼんやりしてばっかりなので、母さんが心配して、二年生からここの塾に週二日通うことになった。といっても最初の頃のことはほとんど憶えていない。
塾に来ているのは、小学校の授業についていくのがちょっと大変な子ばっかりで、清呼はその中でも特別駄目な方。今日学校で何を教わったか聞かれても、「知らない」とか言っていたらしい。それでもずっと通っていたのは、健介おじさんが好きだったからだ。
「清呼はスロースターターだな」というのが健介おじさんの口癖だった。要するに始めるのが遅いって事だけれど、そう言ってもらうとなんだか「それでOK」という気がして安心するのだ。そしてたいがい、勉強というよりは色々な話をしたり、摘んできた花を見せたり、一緒に図鑑を見たりして過ごした。
そんな清呼も、四年生ぐらいからようやく、学校で何をしているのか判ってきた。そしてタケルの助けも借りて、頭が悪いなりにも授業についていけるようになってきた。でも正直なところ、学校の授業よりもおじさんの塾の方が楽しかった。
そして六年生になった夏休み、おじさんは塾をしばらく休みにすると言った。病気になったので町の病院で手術してもらうためだ。清呼はなんだか心配な気持ちで塾のない夏休みを過ごした。
ちょうどその頃、或るお客さんが神社を訪ねてきた。海辺の町に住んでいるお鈴婆さんという人で、物凄く年をとっていて、とても小柄なお婆さんだ。
お鈴婆さんにはシンゾさんという、真っ黒に日に焼けた、坊主頭でちょっとがに股のおじさんが荷物を持って付き添っていて、二人は毎年お盆の頃になると訪ねてくる。
鉄輪パパによると、お鈴婆さんはもっと山奥の集落に用事があるのだけれど、そこは遠いから神社で三日ほど休んでいくらしい。ママはお鈴婆さんが来るという知らせがあると、清呼に手伝わせて一番上等な客間を掃除する。客間に泊まるのはお鈴婆さんだけで、シンゾさんは神社を手伝っている光三おじさんの家に泊まることになっていた。
お鈴婆さんにお茶や食事を運んだりするのは、全部清呼の役目だった。婆さんは見かけによらず、足腰がとてもしっかりしていて、頭の回転も速く、清呼のこともちゃんと憶えていた。
「あんた、いくつになったの」
お鈴婆さんは、清呼に会うと毎回こう聞く。去年は「十歳です」と答えたら「そうかい」で終わったのに、今年は「十一歳です」と答えたら「ではそろそろ教えた方がいいかもな」と言った。
「何を教えるの?」とたずねたら、「ま、慌てなさんな」と呟いて昼寝してしまう。お鈴婆さんとの会話はいつもこんな感じで、とても不思議な人だった。
明日には山奥の集落に出発するという夜、お鈴婆さんは食後のお茶を運んできた清呼に、座って話を聞くように言った。
「お前も少しは大きくなったし、もういいだろうからね」
婆さんはそう言うと、枯れ木のような手で清呼の手をとった。見た目よりもずっと温かい手だった。
「私が毎年、何をしに来るか知ってるかい」
「知らない」
「ここから山二つ越えたところにある村にな、病気の娘さんがいるんだよ。婆さんはその子を治しに来てるんだわ」
「お医者さんなの?」
「世間一般でいう医者ではないな。医者は薬や道具で人を治すけれど、婆さんは婆さんの命で人を治す」
「そんな事、できるんだ」
「もちろん簡単なことではないし、治せる病もあれば治せない病もある。時間のかかるものもあるし、すぐに治せるものもある。私は、お前にもそれができると見たよ」
「清呼にも?」
婆さんはニッと笑うと頷いた。
「少し早い気もするが、お前にもその要領を教えておこうと思うんだ」
「どうすんのどうすんの?」
「まあ落ち着け。そして目を閉じてごらん」
清呼は言われたとおり目を閉じた。それからお鈴婆さんが清呼に伝えたのは、言葉だったのか、それ以外の方法だったのか、どうしてもはっきり思い出せない。ただ、判ったのは、自分の中に大きな暖かいものがあって、それを誰かに向かって注ぎ込むという感じ。
でもその手加減は、ストローにバケツから水を流し込むような難しさ。よくよく気持ちを研ぎ澄まして、そっと行わなければならなかった。
「ただ、これをやりすぎると寿命が縮むからな、やる時は自分でよく考えてみることだな」
「寿命が縮むって?」
「まあ、身体がえらいってことよ。若いうちはそれでも早く持ち直すけれどな」
お鈴婆さんはそういって、清呼の頭を撫でた。
「あんたはいい子だな。婆さんにはよくわかるよ。だから大勢の人を助けたくなるだろうが、全部は無理ってことだ。それもよく考えるんだな」
そして翌朝、婆さんは山奥の集落に旅立ったけれど、それから三日して、亡くなったという知らせが届いた。
「朝起きてこないと思ったら、布団の中で亡くなってたんですって」
電話をとった鉄輪ママがそう話していた。
お鈴婆さんとシンゾさんを乗せた黒い車は、その日の夕方に清呼たちの村を通って、海辺の町に戻っていった。清呼は神社の鳥居の前に立って、車が見えなくなるまで見送った。
清呼はそれから、神社の森でひとり遊んでいる時に、弱っている小鳥や虫を見つけたりすると、お鈴婆さんに教わったことを練習するようになった。
小鳥たちは元気になって羽ばたいていくこともあれば、さして反応がないときもあったけれど、清呼自身は必ず頭がふらふらするような感じになった。座敷に寝転んでいたりすると「熱中症じゃないの?」と鉄輪ママが心配したりした。
一方、夏休みが終わっても健介おじさんは病院から戻らず、「かわいそうに、あれはきっとガンだよ」と、届け物をしに来た高木のおばさんが鉄輪ママに話していた。でも清呼はママがずっと前に乳ガンの手術をして、今はすっかり元気なのを知っているので、健介おじさんも大丈夫だろうと思っていた。
そしてしばらくすると、健介おじさんはもう少し近くの小さな病院に移った。ここなら清呼も自転車で行けるので、学校が終わるとしょっちゅうお見舞いに行った。
久しぶりに会う健介おじさんは一回り細くなった感じで、すこし疲れたような顔をしていた。それでも清呼が行くとベッドの上に起き上がって、色々な話をしてくれた。
でも健介おじさんは段々と元気がなくなっていった。清呼と話をしていても途中で横になってしまったり、最初から起き上がれない時もあった。時には眠っていて何も話せなくて、奥さんが「清呼ちゃんごめんね、おじさん今日は疲れてるみたいだね」と言うのだった。
「おじさん十月までに良くなるの?」
娘さんのエリちゃんは十月に神社で結婚式をする予定だったので、清呼が心配になってそう聞くと、奥さんは困ったような顔になった。
「良くなるといいんだけどね、清呼ちゃんも神様にお願いしといてくれる?」
「わかった」
その次の日、学校から帰ってきた清呼は珍しく真剣に本殿に参拝した。いつもは何も考えずに適当にやっているんだけれど、ちゃんと鉄輪パパに教わった手順をふんで、健介おじさんがエリちゃんの結婚式に出られるようにお願いした。それから自転車に乗って、またお見舞いに出かけた。
病院に入っていくと、もう顔なじみになった看護婦さんが「あら、いらっしゃい」と清呼に声をかけてくれた。奥さんはどこかに行っているらしく、病室にはおじさんだけが目を閉じて横になっていた。
「健介おじさん」
そっと声をかけてみたけれど、眠っているみたい。清呼は廊下をのぞいて、奥さんがまだ戻っていないのを確かめると、おじさんの胸に顔を伏せた。お鈴婆さんに教わったあの力を使うのなら今しかない。
気持ちを鋭くして、そう、細い細い橋を上手に渡るみたいに。
どれだけの時間が経ったのか、我に返って顔を上げると、健介おじさんはまだ眠っていた。廊下を誰かが歩いてくる気配がして、あわてて立ち上がったところに奥さんが入ってきた。
「あら、清呼ちゃん来てたの。おばさん梨もらったんだけど、食べてく?」
「ううん、遅くなるから帰る」
いつもなら梨を食べて帰るけれど、その日は何だか変な感じがしたので、急いで病室を後にした。
涼しい秋風の中を自転車で走り始める。来るときは登りが多くてちょっと大変だけれど、帰りはその反対でずいぶん楽だ。
健介おじさん、早く元気になればいいな。そう思って村に入る最後の坂道のカーブにさしかかったところで、突然鼻血が出た。それも半端な量じゃない。あっと思ったらハンドルを切るのが遅れ、次の瞬間思いっきり頭を何かにぶつけた。
あとで聞いたら、清呼はガードレールにぶつかって気を失っているところを、通りがかった石屋のおじさんに助けられて、診療所に運ばれたらしい。おじいちゃん先生に縫ってもらった、目元の大きな傷痕を見た母さんは「せめて健介さんの病院に運んでもらってればねえ」と溜息をついたけれど、清呼にはどうでもいい事だった。
その傷の抜糸がすんだ頃、健介おじさんはぐんぐんよくなりだして、ついに退院することができた。新しい薬が効いたのかしら、と奥さんは大喜びしていたし、エリちゃんも嬉しそうだった。清呼は早速おじさんに会いにいったけれど、入院する前の感じにずいぶん近づいていたのでほっとした。
そして十月、健介おじさんはエリちゃんの結婚式に出た。けれどその後、塾をもう一度始めることはできなかった。
結婚式がすぎて半月ほどすると、また少しずつ元気がなくなって、こんどはまた、町の病院に入ることになった。清呼はもう一度健介おじさんを元気にしようと思って、バスでお見舞いに行こうとしたけれど、何故だか鉄輪パパが行かせてくれなかった。こっそり行こうとしたら見つかってしまって、結局パパの運転する車で一緒に出かけた。
健介おじさんはベッドに横になったままで、今までで一番細くなった感じがした。清呼がそばに行くと、点滴の針を刺してある手を伸ばして、清呼の手を握った。
「清呼、ありがとうな」
「ゆっくり休んだら、また塾やってね」
「わかったよ」
清呼はどうにかして健介おじさんと二人きりになりたいと思っていたけれど、鉄輪パパは清呼のそばから離れなかった。仕方ない、また今度こっそり来よう。そう思ってその日は帰ったけれど、その二日後におじさんは亡くなった。
結局、清呼は健介おじさんの病気を治せなかった。
じゃあこんな力、なくても一緒だな。清呼はあんまり悲しいので、そう思ってもう力を使うのは辞めることにした。でもやっぱり、また使ってしまったのだけれど。
気がつくと涙が溢れて傷痕を伝っていた。
健介おじさんのことを思い出すといつもこうだ。楽しいことが沢山あって、最後は悲しい思い出で終わってしまう。でも少しずつ、少しずつだけれど、楽しいことを思い出す時間の方が増えているような気がする。
溜息をついて手にしていた写真を封筒に戻すと、ドアが開く音が聞こえた。
友達の結婚パーティーに出かけていた龍村さんが帰ってきたのだ。清呼は慌てて、お腹にのせていたウサギのポンキチをおろし、起き上がるとTシャツの裾で涙を拭った。
枕元に置いている鏡を手に取ってのぞいてみると、まだ目が赤い。「また泣いてんのかよ」と馬鹿にされるに違いなかったけれど、たぶんバウムクーヘンを貰ってくるはずなので、やっぱりすぐ行ってみようと思って、部屋のドアを開けた。
六 彼氏に予約中
「こんどの土日に真奈美と遊ぶんだ。夏休みで東京に来るんだよ」
清呼はそう言って、無料配布のタウンペーパーをテーブルに広げた。
「真奈美って?」
校正用の原稿を印刷していた龍村は、プリンタの調子を見ながら訊ねる。
「彼女」
「お前の?彼女?」
「そう。正確には予約中だけどね。もし僕が将来男になったら、正式に彼女にするんだ。ご飯とか食べるのに、なんかいい割引クーポンとかないかな」
全くこいつは、子供かと思えば年相応にませた事も言い出すし、油断がならん。龍村はそう思いながら印刷された紙をまとめた。
「それって田舎の同級生か何か?」
「そう、ちゃんとつきあってたんだよ」
自分に初めて彼女ができたのは大学に入ってからだ。こんなところで清呼に遅れをとるとは。しかし一体、どんな物好きの女の子だろう。
「よかったら、一緒に食事でもしないか?おごるからさ」
「そう?嬉しいな」
「どんなところに行きたい?」
「この近所がいい。僕がどんなとこに住んでるか見たいんだってさ。だから土曜はこの辺をぶらぶらして、日曜に買い物とかするんだ」
「泊まるところは?」
清呼の部屋に泊まると言われたらどうしよう、と一瞬思ったが「大学生のお姉さんのところ」との返事にほっとする。
「じゃあ、土曜の六時頃、ここで集合な」
「わかった」まだクーポン探しに余念のない清呼を残して、龍村は自室に戻った。
「こんにちは、お邪魔します」
そう言って清呼の後から入ってきた真奈美は、きりっとした眉が印象的な少女だった。
前髪をバレッタで止めて、白い額をすっきりと出している。正直なところ、清呼には勿体ない優等生タイプだ。
「龍村です、よろしく」
約束の時間にはまだ早くて、二人はどうやら近所で買ったケーキを食べるために戻ってきたようだった。
「龍村さんの分もあるけど、今食べる?」
「昼が遅かったからいいよ、二人で分けて食べて。仕事してるからまた後でね」
それだけ言うと、龍村は自室に戻った。
リビングからは時折笑い声や食器の触れ合う音が聞こえてきて、そういえば清呼と同世代の友達が来るなんて初めてだな、と思った。
それからしばらく集中して仕事をし、喉が渇いたので水でも飲もうと部屋を出た。リビングではなんと、清呼と真奈美が抱き合ってソファに寝転がり、自分たちのキスシーンをケータイに収めようと四苦八苦している。
「おおっと!」
驚きのあまり大声が出てしまい、二人もそれにびっくりして跳ね起きた。
「あ、お、驚かせてごめん」
それだけ言うと、何故出ていったかも忘れて部屋に戻った。
全く何やってんだ、あの二人は!
しかし、よく考えたら高校生ならあの程度はするだろう。うろたえた自分の方がみっともないというか、「撮ってやろうか?」ぐらい言えたほうが、大人の余裕が出せたのに。
そう思ってもすでに遅く、胸の動悸だけが後をひいた。しばらくすると二人が出て行く気配がして、約束の時間にまた戻ってきた。
先ほどの騒ぎはなかったことにして、龍村は二人を連れて食事に出かけた。
清呼のリクエスト通り近所の店で、メニューの種類が多いので真奈美に好き嫌いがあっても大丈夫だろうということで、「蓮蓮」という中華の店を選んだ。
ここは庶民的な店で、予約するほどではないがいつもそれなりに混んでいる。料理を清呼に選ばせると、たまにとんでもない組み合わせになるので、二人の希望を聞いて龍村が注文を決めた。
真奈美はこの年頃によくある「何でもいい」を言わない子で、「卵春巻きっていうのを食べてみたいです」と選び、清呼はエビのチリソースを選んだ。それに前菜の盛り合わせと、野菜と厚揚げの炒め物、トマトと卵のスープに鳥の唐揚げを加え、あとは白ご飯。
食事をしながら世間話をしただけで、真奈美の聡明さはよくわかった。とにかく頭の回転が速くて、質問には何でもはきはきと答えるし、ごまかすだとか、はぐらかすといった事をしない。そして相手の話を真剣に聞いた。
話題はもっぱら、清呼が中学時代にどうだったとか、現在の清呼の馬鹿エピソードとかだったが、真奈美自身の高校生活についても話は及んだ。
料理をきれいに食べつくし、デザートをとるか、別の店でお茶でも飲むかという話になった頃、いきなり清呼に声をかけてきた客がいた。
「おう、ナデシコちゃん、久しぶりだねえ」
醤油で煮しめたような顔色の中年男性で、なんとか電工と社名の入った作業服を着ている。手洗いに立ったところで清呼に気づいたらしいが、「ナデシコ」と呼ばれた清呼も「あ、酒井さんだ」と普通に答えている。
「あそこの店急に閉めちゃったんで、どうしてんのか心配してたんだよ。ちょっとこっち来て座りなよ」
自分が一人で座っていた席へと清呼を連れていこうとするが、瓶ビールとグラスが置いてあり、少し酔っているらしい。状況が飲み込めない龍村を尻目に、清呼は「ちょっとごめんね」と席を立っていった。
「たぶん、桃花園のお客さんですね」
真奈美は振り返って二人の様子を見ていたが、驚くようでもなくそう言った。
「あいつが前に働いてた、中華の店?」
「そうです。女の子の格好してたほうがお客さんにウケるからって、夜はナデシコって名前でホール係してたんです。写真見ます?」
そう言って、さきほど自分たちのキスシーンを収めようとしていたケータイを取り出し、しばらく操作してから画面を龍村に見せた。
そこにはチャイナドレスもどきの制服を着た清呼が笑顔で写っている。背景から察するに、店内で撮影したようだった。普段より女っぽく見えるのは若干化粧をしているせいか?
視線を上げると、何やら楽しそうに話しながら男のグラスにビールを注いでいる清呼が目に入った。
「ナデシコ・・・」
「そう」
「真奈美ちゃんは、ああいうの見て怒ったりはしないの?その、清子は一応彼氏だろ?なのに女の子みたいに振舞うってのは」
「まあ、あれは仕事の一部だし、中学でも女子ではあったから」
「じゃあ、学校で女子の格好してたんだ」
「いつもは男子です。でも始業式と終業式と創立記念日は女子の制服」
「なんだそりゃ」
「清呼って、けっこう相手次第でどうにでもなれちゃうんですよね。もう子供の頃からの癖みたい。だから私といれば男の子らしくしてるんですけど、タケルなんかと一緒だとずっと女の子っぽくて」
「ああ、幼馴染の」
「そう。もうタケルタケルーって、犬みたいにくっついてくの」
「でもタケルと清呼は兄弟みたいなもんだろ?」
「そう言ってましたけど、ちょっと違うと思います。だから私、清呼とつきあうことになった時、一応タケルにも断っておいたんです」
「そしたら何て?」
「俺は清呼があんたのこと好きなら別に問題ないし、だって」
話しながら、龍村は清呼がビールを飲みはしないかと注意していた。相変わらず笑顔で何か喋りながら、テーブルの餃子を頬張っている。
「私ね、今回は清呼にお別れを言おうと思って来たんです」
真奈美はふいにそう言った。
「え、別れるって、こんなに仲いいのに?」
言われて真奈美はこくんと頷いた。
「私、秋からアメリカに留学することにしたんです。二年高校に通って、それから大学に進みます」
「東京に来るのをやめて、アメリカか」
「はい。そうしたらもうずっと会えなくなるし、予約したからって互いのこと縛るのも嫌だし、それに・・・」
「清呼が男になるとも限らない」
真奈美は再び頷いた。
「なるほどね。まあ、お互いのために一番いい選択だと思うよ。でもまだ言ってないんだよね」
「はい、明日、帰る前に言うつもりです。あの、龍村さん、たぶん清呼すごく落ち込むと思うんですけど、フォローしてもらえませんか?」
「できる限りはね」
「嫌いになって別れるならいっそ楽だと思うんですけど、今でも大好きだし、そのことをどう話せばいいか、すごく難しくて」
「うーん、下手にまだ好きとか言うと、判ってもらえないかもしれないしな」
「私ね、今の高校に全然馴染めないんです。まあ、中学からなんですけど。
東京育ちの転校生で県会議員の孫っていう評判ばっかり先に立って、誰も私自身がどんな子なのか知ろうとしてくれない。何を言っても、ああ、都会育ちのお嬢様だもんね、って。それで流されちゃう。
でも清呼だけは、真奈美の考えてることは面白いねって言ってくれた。清呼がいなかったら、中学なんて全然楽しくなかったと思います。だからもう高校なんか、毎日息が詰まりそう。みんな適当に喋って、仲のいいふりして、遊んで、でも本当の話はしない」
いつの間にか真奈美の声は震えていた。
今ここで泣かれたら困るな、と龍村は心配になった。幸い清呼はまだ餃子を食べているが、いつ戻ってくるかも知れない。
「タケルも、同じ高校なんです」
自分の高ぶった気持ちを落ち着かせるためか、真奈美は少し話題を変えた。
「サッカー部のレギュラーでね、背が高くて、学年でかなり人気がある方」
「彼女いるの?」
「いないみたい。サッカーひと筋かも。でもね、タケルも多分私と同じ気持ちだってよく判るんです。昼休みによくボール蹴って仲間と遊んでるんですけど、ときどきぼんやりとして、清呼がどこかで見てないか、探してるみたいな感じ。そんなときに通りがかると、私はタケルに手を振るの。そしたらタケルは苦笑いして、また走っていくんです」
真奈美はそれだけ言うと、少し悲しそうに笑った。龍村は何と言えばいいかわからずにいたが、ちょうどその時、グラスでビールを飲んでいる清呼が目に入った。
「あのボケ」
立ち上がろうとすると、気づいた清呼は慌てて戻ってきた。
翌日も暑いのに朝早くから、清呼は真奈美に会うべく出かけていった。龍村はずっと部屋で仕事をしていたが、清呼がどんな様子で帰ってくるかを考えると気が重くて仕方なかった。
仕事は夕方にとりあえず完了し、気分転換に近所の定食屋で食事をとり、コンビニでミネラルウォーターなどを買って部屋に戻ると、清呼が帰っていた。
「真奈美ちゃん、もう帰ったのか」
何があったのか知っているのに白々しい。龍村は自分の演技に内心で苦笑した。清呼はテーブルにショルダーバッグを投げ出し、ぼんやりと座っている。
「龍村さん、ちょっと話していい?まだ仕事ある?」
「仕事はもう終わったよ。これ飲む?」
ちょうど缶入りのジンジャーエールを買ってきていたので、それを一つ差し出すと、清呼は「ありがと」と受け取った。喉が渇いていたらしく、すぐに缶を開けてごくごくと飲み、はあ、と一息ついた。
「なんかね、真奈美にふられたみたい」
とりあえずそれは判ったか。龍村は正直ほっとした。修復可能などという希望を持っている方が却って困る。
「ふられた?」
「うん。秋からアメリカに留学するんだって。それで、お互いに束縛したくないから、予約取り消すんだって」
「留学じゃ仕方ないんじゃない?予約取り消しは、彼女の思いやりだろ」
「でも別にずっと予約しててくれてもいいと思わない?僕これでも中学出てから背が伸びて、今は真奈美と同じぐらいあるんだけど」
「身長が全てというわけじゃないだろう」
「それはそうだけど。なんか、嫌いになったんじゃないっていうんだよね。でもずっと会えないし、それに清呼は必ず男の子になるわけじゃないでしょ?って。でもそれは自分でもどうしようもないのに」
清呼はまたジンジャーエールを飲んだ。泣くか?と思ったけれど意外にも口を引き結んでいるだけだった。
「予約取り消しても、また会ってくれる?って聞いたんだよね。そしたら、次に会うことがあるとしたら、二人とも大人になった時だよって」
真奈美の方が十分大人だな、と龍村は思った。悲しいかな清呼は、まだ子供のまま置いていかれたのだ。
「こういう想像してみれば?お前が真奈美ちゃんで、アメリカに行って、向こうですごく気の合う男の子に出会う。はっきり言って清呼よりも仲良くなれそうだ。でも自分には予約があるから彼とつきあえない。清呼は遠く離れた日本にいるし、まだ男になると決まったわけじゃない。こうしている間にも彼は真奈美ちゃんに気がないと誤解して、他の女の子と付き合ってしまうかもしれない。たった一人で外国に来て、とても寂しいところにようやく出会ったのに、諦めるしかないみたいだ」
「それは嫌だ」
「だから予約は解消した方がいいんだよ。お前だってもしかしたら、真奈美ちゃんより好きな子ができるかもしれないんだから」
「そんなのないよ」
「わからないって」
少し清呼の様子が落ち着いてきたので、後は自分で考えてください、と口に出さずに呟くと龍村は立ち上がった。
七 最高の夏休み
今年の夏休みは今までで最高だ。雨の中を歩きながら、葵はそう考えた。
博物館の資料を撮影する仕事が入ったので、お母さんは八月の間、お盆と土日を除いて毎日忙しい。弟の信生は保育所があるからいいけれど、まだ三年生の葵と一年生の楓だけで昼間の留守番はちょっと無理、おばあちゃんも週に二日ぐらいしか預かれないって話で、なんと残りの日はお母さんの事務所に行くことになった。
そこには龍村さんという男の人が仕事をしながら住んでいるけれど、葵たちを預かってくれるのは清呼という男の子だ。
清呼もそこに住んでいて、高校生だけれど仕事を手伝っている。ちょっと女の子っぽくてヘナヘナしているけど、葵も楓も清呼のことが大好きだ。
二人が事務所に遊びに行くといつも大歓迎で、何をしても一緒に遊んでくれる。大人みたいに忙しそうにしないで、真剣に話をきいてくれるし、いつもお母さんに「もういい加減にして」と言われるトランプのゲームを何度でもやってくれる。
事務所へ行く日、葵と楓は十時になると、研究室に行くお父さんと一緒に家を出る。お父さんは今、勝負論文というのを書いていて、お母さんに負けないぐらい大変なのだ。
そして葵たちは途中で地下鉄に乗るお父さんと別れる。それからしばらく歩いて事務所に着くと、お母さんに「着いたよ」と連絡をして、まずは大きなテーブルで勉強をする。
本当はこんなところまで来て勉強なんかしたくないんだけれど、お母さんが「そうじゃなかったら絶対に行かせない」と言ったので、二人ともリュックサックには夏の宿題ドリルを入れている。でも葵はドリルなんか大して難しくないので、毎日ページ数を決めてさっさと終わらせて、あとは清呼のお手伝いをしてあげるのだ。
お昼になったら清呼が料理して、三人でご飯を食べる。大体はご飯と卵焼きとか野菜炒めとお味噌汁とか、そんな感じで、時々ネタに困ると近所のお店で唐揚げやコロッケを買ってくる。たまに龍村さんも一緒に食べたりもする。
食事が終わったら、あとは遊ぶだけだ。
家から持ってきた折り紙やビーズなんかで遊ぶときもあれば、公園で探検隊ごっこをするときもあった。虫取りもしたし、バドミントンもしたし、図書館で静かに本を読むのも楽しい。あとは一緒にお菓子をつくったりもした。
葵の夢は、バケツに入ったプリンを食べることなんだけれど、その話をしたら清呼は「バケツは無理だけど洗面器ならできるかも」といって、百均で買った小さな洗面器でプリンを作ってくれた。さすがにひっくり返すお皿がないので、上からシロップをかけて、三人でそこから直接スプーンで食べる。これはすごく楽しかった。
なので洗面器シリーズって事で、杏仁豆腐とかコーヒーゼリーなんかも作った。これをやると妹の楓は必ず「清呼、食べさせて」と甘えて、清呼も「はい、楓ちゃん口あけて」なんてやっている。本当は葵も同じようにしたいんだけど、絶対に妹の真似だけはできないので我慢しているのだ。
この洗面器は他にも使い道があって、めちゃくちゃ暑い日にそうめんを食べるのにも使える。あとはスイカの切ったのとサイダーとアイスを混ぜるってのもやった。
食べ物以外に、大きなシャボン玉を作るのにも使えた。針金のハンガーを曲げて大きな枠を作って、洗面器に入れた石鹸水につけてからふわっと振れば、とても大きなシャボン玉ができるのだ。いろんな大きさの枠をつくって、三人で公園まで行ってシャボン玉をいくつも飛ばした。
ところが帰ってきたところを龍村さんが目撃して、「いくら何でもその洗面器をあれこれ使い回すな」と清呼に文句を言った。でもそのすぐ後で龍村さんは、洗面器と同じぐらい大きい、オレンジ色で透明なボウルを買ってきてくれた。
「リサイクルショップで安かったから」と言ってたけれど、それでも百円じゃないだろう。「なんか優しいと思わない?」と清呼はすごく喜んでいた。で、プラスチックの洗面器は遊び専用になった。
外で遊んで帰ってきて、冷たいものを食べて一休みしていると、清呼はそのまま昼寝したりする。葵や楓は一緒に寝るときもあれば、そばで絵を描いたりして遊んでいるときもある。
一度寝ると、清呼は何をしてもしばらく起きてこない。鼻をつまんでも平気だし、無理やり目をあけてみたら白目しか見えなかったりする。
そして葵と楓はよく、清呼の顔にある傷痕にさわってみた。それは他の場所にくらべると色が白くて、ギザギザに縫ったようになっている。数えてみたら全部で十三の縫い目があった。
このケガをしたときはすごく痛かったんじゃないかと思って、きいたことがあるけれど、「気絶してたから憶えてない」ってことだった。
そして夕方の五時ごろになると、清呼は葵と楓を連れて事務所を出る。途中にあるスーパーで、葵がお母さんから預かった財布に入ってるメモの通りに買い物をして、家まで送ってくれるのだ。
スーパーで売ってるもので、清呼にはどうしても触れないものがあって、それはこんにゃく。小さい頃に喉に詰めて死にそうになったらしくて、今でもすごく怖いのだ。
だから大体、豆腐売り場あたりからあんまり棚を見ないようにする。で、こんにゃくの近くまでくると「葵ちゃん、代わりに取って」と怖そうに頼む。
本当かなと思って一度、手に持ったこんにゃくをくっつけてみようとしたら、走って野菜売り場まで逃げてしまった。葵も楓もゲラゲラ笑ったけれど、かわいそうなので、それからはもうやらないことにした。
そうやって毎日楽しくすごしていたけれど、おととい、弟の信生が保育所で夏風邪をもらって熱を出した。昨日の夜に楓も同じように熱を出したので、今日はお父さんが家で二人の面倒を見ている。でも葵は全然平気なので、一人で清呼のところに行くことにした。
沖縄のあたりまで台風が来ているらしくて、朝からずっと雨が降っていたけれど、そんなのは気にならない。お父さんは「こんな日に行ったら迷惑じゃないか?」と困っていたけれど、清呼に電話したら「待ってるよ」と言ってくれたので大丈夫だ。実のところ、葵はずっとこんなチャンスが来ないかと思っていたのだ。
いつも楓と二人で事務所に行ってるけれど、楓はすごく甘えんぼで、すぐに「清呼、おんぶして」とか「清呼、これやって」とか言う。それがたいてい、葵が「こうだったらいいな」と思うことなのだ。
こないだなんか「清呼、大きくなったら楓と結婚してね」と言ってしまって、しかも清呼は「そんなの言われたの初めて!」なんて大喜びしていた。葵なんか楓が言うよりもっと前から同じことを思っていたのに、言うタイミングを考えていただけで先を越されてしまった。
楓の馬鹿!でも黙っているのも悔しいので「葵はさ、もし清呼が公務員か一流企業のサラリーマンになったら結婚してあげてもいいよ」と言っておいた。
清呼は「それちょっと難しいかも」と困っていたけれど、本当は、葵は相手が清呼だったらレスキュー隊でも魚屋でも弁護士でも構わない。毎日すんごい楽しいだろうなと思うから。
だから今日は葵が清呼を独り占めするのだ。
張り切って事務所についたら、清呼は「雨なのによく来たね。大丈夫だった?」と言ってくれた。午前中はちゃんと勉強して、昼ごはんは前の日に清呼が作ったカレーを食べた。二人きりだといっぱい喋れると思ったのに、何故だかかえって葵は少し大人しくなってしまった。
よく考えたら、いつも楓がやりたい事ばっかりしていたので、自分が何をしたいか判らない。困ったな。仕方ないので葵は絵でも描こうと思ってスケッチブックを取り出した。
まだ使っていないページをさがして紙をめくっていたら、急にピリッとした痛みが走って、見ると人差し指の先から血が出ていた。急いでテーブルの上にあったティッシュペーパーで押さえる。
「ここにバンドエイドある?」
葵が聞くと、清呼は「置いてないかも」と答えた。それからすこし考えて、「葵ちゃん、目を閉じて」と言った。
言われたとおりに目を閉じると、清呼はしばらく黙って葵の手を握っていた。なんだか熱があるくらい暖かい手だな、と思っていると「もういいよ」と言われた。
指先を見ると、少し赤くなっているけれど傷は消えていた。
「すごい、どうやって治したの?」
「ちょっとしたおまじない。でも誰にも言っちゃ駄目だよ」
「わかった」
葵はそう返事すると、唇でそっと傷のあとに触れてみた。清呼は黙ってそれを見ていたけれど、「ごめんね、ちょっと昼寝するね」と言ってベッドに横になってしまった。
清呼はかっきり一時間ぐらい眠って、いきなり目を覚ますと「なんかお腹すいた」と呟いた。外は相変わらず雨。だけど清呼は「葵ちゃん、喫茶店行かない?」ときいた。葵はもちろん、清呼と一緒ならどこでも行く。
「本当はずっと、葵ちゃんと楓ちゃんと三人で行けたらいいなと思ってたんだけどさ、あんまりお金ないから。でも葵ちゃん一人ならおごってあげられるからね」
楓になんかおごらなくていいから。そう思いながら、葵は清呼と一緒に近くの喫茶店に行った。レンガの壁がきれいな小さな店で、中に入るとお客は他に誰もいなかった。
「雨だから貸切だね」
清呼はそう言うと、窓際のテーブルに葵を連れて行った。お店が貸切なら清呼も貸切だ。
「ここのチョコパフェがおいしいんだよ。でも好きなの選んでいいからね」
最初からチョコパフェを食べるつもりの清呼は、葵に写真の入ったメニューを渡した。バナナクレープとかブルーベリーワッフルとか、色々とおいしそうな写真が並んでいて迷ったけれど、葵はプリンパフェを食べることにした。
窓の外は暗くて灰色で、時々車が水を跳ねとばす音しか聞こえないけれど、葵はそんなの全然気にならなかった。店の中は静かな音楽が流れていて、目の前にはプリンパフェがあって、これは清呼が葵にごちそうしてくれたのだ。
お互いのパフェを交換して食べてみたりすると、チョコパフェも確かにおいしかった。そして二人でじっと向かい合って座っていると、デートするってこんな感じかな、と思えてきたので、葵はふだん一番気になっている事を清呼に聞いてみることにした。
「ねえ清呼、一重まぶたって可愛くないのかな」
「一重まぶた?」
「そう。清呼も楓も二重だけど、葵は一重でしょ?」
お母さんに言わせると、葵はお父さん似で楓はお母さん似らしい。楓はくりっと大きな目をしているのに、葵の目は細くて少しつり上がっているのだ。
「このごろ学校でモナミちゃんって子がさあ、わざと葵に聞こえるように、一重って全然可愛くないよねって言うんだよ」
「そうなんだ?」
「たしかにモナミちゃんは二重で目も大きいし、いつもオシャレな服着てるけどさ、人のこと言わなくてもいいじゃん。おまけに葵が何もしてないのに、今にらんでたでしょ、目つき悪いよ、とか言うんだ。葵さあ、清呼みたいな目になりたいんだよ。ぱっちり二重でまつ毛が長くて、でもって黒目の真ん中と外側の色がはっきり違うでしょ?」
「そんなの、自分じゃ気にしてないなあ」
「だって男の子だもん。葵は女の子だから気になるんだよ。だから将来、整形手術受けようと思うんだ。美容院の雑誌の後ろにいっぱい広告出てるけどさ、すんごい変わるみたいだよ。もうお年玉で二万八千円も貯めたから、大学生になるまでには何とかなると思うんだよね」
「ていうか、葵ちゃん整形する必要なんかないと思うよ」
清呼は困った顔をしていた。葵は何故だかもっと言ってやれ、という気持ちになってきた。
「じゃあ清呼、葵と楓とどっちが可愛いと思う?」
この質問がどれだけ相手を困らせるか、葵はちゃんとわかっている。だって答えははっきりしているのに、葵が質問してるせいで正解を言えないからだ。
「両方おんなじぐらい」
「嘘だ。だってみんな楓には「可愛い子ね」とか「お人形みたいね」とか言うのに、葵には「いい子ね」「すごく賢いね」とかしか言わないもん」
「いい子も賢いもほめてるんだよ?」
「大したことないよ。だっていい子にしてるのは、葵がお姉さんで、そうしないとお母さんが困るからだし、学校の勉強なんか簡単にできちゃうもん。でも誰も葵のこと可愛いって言わないんだよ」
すると清呼は、じっと葵の顔を見てこう言った。
「それは当たり前だからじゃない?」
「当たり前?」
「ほら、いつも息してるのって当たり前で何とも思わないでしょ?それと同じで、葵ちゃんが可愛いのも当たり前すぎて、言う必要ないとみんな思ってるんだ」
「でも・・・言われたいんだよ」
自分で言っちゃった。こんなこと口に出すの恥ずかしいと思っていたのに。
「ごめんね」
清呼は急に謝った。
「僕も当たり前だと思って言ってなかったみたい。でもこれからちゃんと言います、可愛い葵ちゃん」
うわー!清呼が葵のこと可愛いって言ってくれた!
葵はついつい顔が笑ってしまうのを我慢できなかった。
「でさ、可愛い葵ちゃんは、本当に学校の勉強って簡単にできちゃうの?」
「あんなの何でもないよ。先生の話なんか一回きいたら憶えちゃう」
「信じられない。可愛い葵ちゃんは天才かも。僕なんか小さい頃って毎日学校でぼんやりしてたもん」
二人はその後また雨の中を事務所に戻って、五時まで金曜推理劇場の再放送を見た。その間も清呼がずっと「可愛い葵ちゃん」を連発したので、さすがに葵もくすぐったくなって「もう一ヶ月分ぐらい聞いたからいい」ってやめてもらった。
学校の宿題で、夏休みは三日分だけ絵日記をつけなくてはいけない。
一日はこないだお父さんと映画を見にいった時につけたし、もう一日はお盆に福島のおじいちゃんのところに行く時のためにとってある。だから最後の一日分は今日のことを書こうと葵は思った。
清呼が指の傷を治してくれたことは秘密だし、喫茶店で話したことも秘密だ。だから簡単に、一日何をしたかだけ書いておこうと思うんだけど、清呼がおごってくれたプリンパフェの絵は、色鉛筆で丁寧に描くことにした。
八 公園の黒い猫
珍しく清呼が朝から出かける準備をしている。夏休みが終わったので高校に課題を提出に行くらしい。
「本当に真面目にやってんのかよ」
龍村が訊ねると、「かなりサボってるけど、あんまり適当だと大鳥さんに連絡が行くから」と言って、ショルダーバッグにファイルやら何やら放り込んでいる。
「お前中学は女子だったらしいけど、高校も女子なの?」
「そうだよ。学生証見る?」
「いやいいけど。でも学校行ったら驚かれない?」
今日の清呼の格好は普段と変わらず、Tシャツの上に綿の半袖シャツ、下はジーンズで、どう見ても男子だ。
「そうだな」
清呼はしばらく考えていたが、「じゃ、今日は女子にしよう」と言って部屋に入り、コンビニ袋をガサガサ言わせて戻ってきた。
「何それ」
「女子グッズ」
そう言って取り出したのは、いかにも安っぽい感じの化粧品だった。
「それ自分で買ったの?」
「去年の夏休みに真奈美が来たとき、一緒に百均で買った。桃花園で働くのに、女の子っぽく見える方法を二人で色々研究したんだけどさ」
プラスチックの鏡を折り返して立て、ブラシで髪をとかす。
「まずワックスで髪のバサバサ感をなくして、毛先をまとめて少しカールさせるんだよね。眉は本当はカットした方がいいんだけど、時間がないからやめて、ちょっとだけ形をはっきりさせる。で、アイラインをここんとこに入れて、まつげはカールさせるより、このまま透明なマスカラつけちゃって、下まつげにも少しつけて、あとはリップグロスつける」
まるで電車の中の女子高生みたいに手馴れた感じで、清呼は一連の作業をこなした。そして鏡を手にとって少し左右を向いてみてから。小さなアクリルケースに入っていた、ピンクの石がついた指輪を取り出して左手の小指にはめた。
「これで完成」
そう言って龍村の方に向き直ると、そこにいるのは真奈美が携帯で見せてくれた「ナデシコ」だった。呆気にとられたが、たしかに違和感はない。
「化粧するのはわかるけどさ、なんで指輪までするわけ?」
「これ?指輪しておくと思い出すのね、今日は女子だったなって。そうしたら普通に私のこと女の子だと思ったりしない?」
「あ、お、思うかも」
「月面経済新聞、ちゃんと読んでるみたいな感じでしょ?」
「何それ」
「略して?」
「げっけ・・・」かろうじて最後の一文字は飲み込んだ。
「私、今日はナンパされて外泊したりするかもよ」
そう言うとまたコンビニ袋をガサガサいわせて化粧道具をまとめ、部屋に放り込むと「じゃあ行って来ます」と出て行ってしまった。
何かありえないものを見たような気がして、龍村はぼんやりと椅子に腰掛けたままでいた。確かに清呼は男の子にしては立ち居振る舞いが格段に静かだし、嵩高い感じもしない。しかし言うことなす事全て子供っぽいので、ちょっと化粧しただけであんなに雰囲気が変わるとは思ってもみなかった。
そこへドアホンが鳴り、ややあって赤井が入ってきた。そもそも龍村は、赤井に渡す資料があるので出かけずに待っていたのだ。
「お早うさん。エレベーターんところで清呼ちゃんに会ったよ。化粧なんかして、ついにカミングアウト?」
赤井はどうも清呼をゲイの男の子だと思っているようで、普段からそれとなく探りを入れてくる。
「さあ、何かの罰ゲームじゃないの?あの年ごろは馬鹿なことばっかりするから。これ、預かってた資料、中身確かめてくれよ」
龍村は話をそらすように封筒を赤井の前に置き、「俺もう行くからさ、出る時は鍵かけていって」とだけ告げて事務所を後にした。
午前と午後に打ち合わせと取材を一件ずつこなして、書店で何冊か本を買い、喫茶店でしばらく読書をしてから帰るともう夕方だった。
面白い本だったので、リビングのソファに寝転がって続きを読んでいると、清呼が帰ってきたらしく、ドアを開ける音が聞こえた。今日はずいぶん荒っぽい、そう思って顔を上げた龍村は、入ってきた清呼の姿に驚いて立ち上がった。
右の頬に明らかに殴られた痕があり、髪は乱れ、シャツは泥だらけで、どこか怪我をしたのか血がついていた。咄嗟に、「ナンパされちゃったりするかも」と出かけていったことを思い出して胃のあたりがひやりとした。
「どうしたんだよ」
「喧嘩した」
清呼は怒っているのか痛みをこらえているのか、憮然とした表情でショルダーバッグをテーブルの上に投げ出した。
「ちょっと見せてみろ」と、顔の怪我を確かめる。
どうやら殴られた拍子に口の中も切ったらしく、口元に血がついていた。顎のあたりに擦り傷があって、他に肘と手首にも傷があるのは、転んだときにできたのか。
「他に痛いところとかないか?吐き気とかは?」
「ない」と言って清呼が上に着ていた半袖シャツを脱ぐと、あたりに砂が散った。
「とにかく傷は消毒した方がいいけど、ここには胃薬と風邪薬ぐらいしかないし。ちょっと買ってくるから、その間に水道できれいに洗っとけ」
それだけ言うと龍村は慌てて近所のドラッグストアに走った。人の傷の手当などした事がないのでよく判らないが、消毒薬と脱大きめの絆創膏をつかみ取ってレジに向かう。
戻ってみると清呼は別のTシャツに着替えてリビングに座り、腕をねじって肘の傷を眺めていた。
「一体どうしたんだよ、喧嘩なんて」
まず最初に顎の傷を消毒する。
「猫に火をつけてた」
「は?」
「近道だから公園を通って帰ってきたんだけど、同い年ぐらいの男子が二人、黒い野良猫をつかまえて尻尾に火をつけてた」
「嫌なことするな」
顎に絆創膏を貼って、次は肘の傷だ。
「で、止めさせようとしたら、何だよこいつって突き飛ばされて、それでものすごく腹が立ったから、喧嘩した」
「男子二人相手に」
「こっちも男子を百二十パーセント出したよ。少なくとも頭突きは一発入ったし」
肘の傷はかなり大きかったが、なんとか絆創膏でカバーできた。手首は傷口よりも内出血がひどい。
「なのにこんなに怪我してるのは、負けたからだろ?」
「まあね」
手首にも絆創膏を貼って完了。心配したより傷が大したことなくてほっとする。
「その指輪、外せば?」
言われて清呼は小指の指輪を外したが、いきなり大声を出した。
「石がとれてる!ローズクォーツとかいって、けっこう高かったのに!」
「そんなもん、また買ってやるから捨てとけよ」
そう言うと龍村は絆創膏や消毒薬を片付ける。朝の女子メイクもすっかりとれて、清呼はまた男の子に戻っていた。
「お前さ、サシの喧嘩でも男子相手に勝ち目なさそうなのに、いきなり二人と喧嘩なんて無謀すぎるよ」
聞いているのかいないのか、清呼は立ち上がるとキャビネットをのぞいて何か探している。
「ねえ、懐中電灯ってこの辺にあったよね?」
「懐中電灯?何すんだ」
「あった」
探し出した懐中電灯を片手に、清呼は「じゃ、ちょっと行ってくるね」と出ていこうとする。
「行くって、どこに」
「公園。猫を探して怪我を治す」
「まだ同じ連中がうろついてたらどうすんだよ。危ないからやめとけって」
「でもあのまま放っておいたら火傷からばい菌が入って死ぬかも。そうでなくてもすごく痛いのに、かわいそうだよ。僕が助けなかったら、誰が助けるの?」
見る間に清呼の両目に涙があふれてきて、腫れ上がった頬を流れ落ちた。
「かわいそうって、そりゃお前だよ。女の子の格好して出かけてんのに、喧嘩でボコられてさ」
「自分の事なんか我慢すればすむよ、でも猫は僕が治さないと」
そう言って清呼はティッシュで涙を押さえた。
「だいたい、治すって、医者でもないのに無理だろ」
「それは・・・獣医さんに連れてく。とにかく行く」
普段の清呼からは想像もできないほど、断固とした態度で出て行こうとするので、仕方なく龍村は一緒についていくことにした。
公園に着いた頃には日はすっかり暮れていて、秋を感じさせる涼しい風が気持ちよかった。清呼は懐中電灯であちこちの繁みを照らしながら長いこと探し回っていたが、猫の姿はどこにもなかった。
「怯えてるだろうから、出てこないと思うよ」
龍村はその様子を後ろで眺めながら、早く諦めてくれないかと待ちわびていた。辺りは虫の声でにぎやかだが、薮蚊の数も半端ではない。
「自分が大した怪我をしなかっただけでも、ラッキーだったと思わないと。猫に火をつけるなんて、マトモな人間のすることじゃないぞ」
すると清呼は懐中電灯を下ろして龍村に向き直った。
「義を見て為さざるは勇無き也」
「は?」
「これは僕がいつも心に決めてることなの」
「論語ですか」
有名なフレーズなので鉄輪パパあたりに教わったんだろう。間違っても高木のババアではあるまい。
「俺はむしろ、君子危うきに近寄らずって言葉の方が、現代社会にふさわしいと思うな」
「でも龍村さんだって、目の前で僕が尻尾に火をつけられたら放っておかないでしょう?」
「そりゃそうだけど、第一お前には尻尾ないし。あのさ、せっかくの気持ちに水を差すようだけど、孔子は別のコメントも残している。
ある日孔子が出かけてる間に、馬小屋が火事になったんだよな。で、孔子は帰ってきて、人が無事だったかどうか訊ねたけれど、馬のことは何も言わなかった。だからね、猫のこともそんなに必死になれとは言わないと思うよ」
いつぞや適当に代打で書いた「暮らしの中の論語」というコラムの付け焼刃が今ここで役立つとは。
「ちょっと今、僕の中の孔子のイメージ崩れた」
「お前の中の孔子って、どんな人なんだよ」
「水戸黄門みたいな人でしょ?」
「それはちょっと」
どうやら猫から少し注意がそらせたので、龍村はそのまま公園を抜けて帰るコースをとろうとした。しばらく何も言わず並んで歩いていくと、先のほうにある街灯の下に人影が見えた。
「あそこに猫いない?」
言うが早いか、清呼はそちらへ駆けていった。追いついてみるとウォーキングの途中といった感じの中年女性が一人、野良猫にキャットフードを与えていて、清呼は彼女に話をきいていた。
「そうなのよ、ここの猫は人に慣れてるから、そうやっていじめる人もいたりするのよね」
「怪我した猫、見たりしますか」
「ええ時々。そんなときはお医者さんに連れて行ったり、薬飲ませたりするわね」
龍村が近寄ると、女性は軽く会釈をしたのでこちらも頭を下げる。清呼はしゃがみこんで、ゆっくりと餌を食べている雉、トラ、三毛の三匹の猫をじっと見ていた。今日帰ってきてから初めての穏やかな表情をしている。
「あの、ここでいつも餌やってられるんですか?」
世間で言うところの「猫おばさん」かと思い、質問してみた。
「ええ、色々言う人もいますけど、野良がいる限りは可哀相なんで。新しい猫を見つけたらお医者さんで手術してもらって、殖えないように頑張ってはいるけれど」
「失礼ですけど、その費用とかはどうされてるんですか?」
「仲間がいるんで、みんなで持ち寄りですね。猫好き連中のヒマな道楽って思われてますけど」
正直、物好きな人もいるものだと思ったが、こうして清呼につきあって公園まで来ている自分も十分物好きだった。
「あの」
清呼は立ち上がって、尻のポケットから財布を出し、中から千円札を全部取り出して差し出した。全部、といっても三枚しかない。
「もし尻尾に火傷した黒い猫を見つけたら、このお金で獣医さんに連れて行ってもらえませんか?」
「いらないわよ、私たちが出すから」
「いいんです、僕が助けられなかったから」
また清呼が泣きそうになったので、女性は困った顔でそれを受け取った。
「じゃあ、預っておくわね」
そして龍村の方を向くと、「弟さん?優しいのね」といって笑った。
次の週末、龍村が琴美に会いに出かけようと準備していると、清呼が嬉しそうな顔で寄ってきた。
「こないだ、指輪買ってくれるって言ったよね?」
「憶えてなくもないけど」
全く、勢いで口にした言葉ほど、真に受ける奴だ。
「じゃあ一緒に買いに行ってほしいな」
「冗談じゃない。ほしけりゃ自分で買って、レシート持ってくればいいから。あんまり高いの買うなよ」
翌日の午後、琴美のところから戻ってリビングで本を読んでいると、出かけていた清呼が帰ってきたが、なんとまた化粧をして女子仕様になっている。
「ほらほら、指輪買ってきちゃった」
はしゃいだ感じでそう言って、銀色の指輪を小指にはめた左手を龍村の目の前に出した。こんどのは乳白色の小さな石があしらわれている。
「なんでわざわざ女子なの?」
「だって、男の人に指輪買ってもらうんだったらやっぱり女の子だもの。はい、こちらレシートです」
レシートには税込み千六百円也とあって、その値段にやや拍子抜け。仕方なく部屋から財布をとってきたが小銭がない。
「ほら、お釣りはいいから」と二千円を差し出すと、清呼は「じゃあお釣りはカラダで払っていい?」とふざけた。
「はいはい、まずそういう事は冗談でも言わないように。あと、これから事務所では女子は止めてね。風紀が乱れるから」
何だか妙に落ち着かず、龍村はわざとそっけなく言うと、読書に集中しようとした。
清呼は急に大人しくなったが、「わかりました。でも本当にありがとう」と頭を下げると自分の部屋へ戻っていった。
九 今なんて言った?
「二人とも、元気にしてる?」
ドアホンが鳴ってまもなく佐野が入ってきた。今日はこれから月一度のミーティング。デボラは保護者会があるとかでパスしているが、赤井とフルーチェもすぐに来るはずだった。
「佐野さん、十日ぶり?こないだお願いした本持って来てくれた?もっといつも顔出してよ」
清呼は佐野が来ると本当に嬉しそうだ。時々ついでに勉強を教えてもらえるというのもあるだろうが、とにかく頭がよくてかっこいい憧れの人、という気持ちだろう。
佐野は本当に卒がないというか、龍村から見ると嫌味なぐらいに人当たりがよく、女性には年齢容姿に関係なく親切。デボラの娘など「葵姫、楓姫」と呼ばれていて、これまた佐野に会うとそばから離れない。
「僕にとって女の子は全てお姫様なんだ」とほざいているが、それが似合うほどに整った顔をしているのがまた腹立たしい。しかも男性相手にも敵を作らず、意見がぶつかることがあっても決して感情的にはならない。
とはいえ三十代も半ばに近いのに、つきあっている女性はいないようだし、さりとて男性が恋愛対象というわけでもなさそうで、案外、踏み込んだ人付き合いが苦手なのかもしれない。
そうこうする内にフルーチェが涼しいのに汗をかきながら登場し、ややあって赤井が現れた。
「みんないつも通り、コーヒーでいい?」
清呼はバイトだからミーティングには無関係だが、せっかくいるのだからとお茶汲みをしている。赤井は椅子に座ると早速煙草に火をつけた。
「なあ清呼ちゃんよ、あんた合コンに参加してみる気ない?」
「え?合コン?」
コーヒーメーカーをセットした清呼は、興味津津といった顔つきで赤井のそばへ行った。
「そうよ、金曜に一件予定してんだけど、女の子が一人足りなくってさ。たしか先月だっけ、あんた女の子みたいな化粧してお出かけしてたじゃん」
「ああ、あれ・・・」
「で、俺は閃いたのよ、清呼ちゃんが女の格好で参加してくれれば助かるなって」
「なんか楽しそうかも。僕で大丈夫なの?」
「勿論。すぐに酒が入るし、適当に盛り上げてくれればいいから」
このやりとりが龍村にはひっかかる。ミーティングの雰囲気を悪くしたくはないが、放ってはおけない。
「ちょっと、こいつを監督してる俺の立場も考えてくれる?酒が入るなんて、トラブったら困るよ」
「俺が一緒なんだから大丈夫だよ。何をそう心配してるわけ?」
「アレかな、オカマ掘られちゃうとか」
清呼が悪戯っぽくそう言った瞬間、龍村はもう我慢ならんと思った。
「ちょっと来い」
地雷踏んだ、という顔の清呼をキッチンに連行する。背後から赤井の「出たよ、いつもの一言が」という声が聞こえた。
「お前な」
胸倉つかんで壁に押し付け、リビングに聞こえないように低い声で話した。
「そうやって自分をチャラチャラ軽く見せる冗談だけはやめろ。俺は別にお前がどういう趣味でどういう目に遭いたいか全然興味ないし、どこかで馬鹿な真似して痛い思いしても気にもならないよ。でも少なくとも今は大鳥さんから預かってるんだから、何かあったらそれは俺の責任だって事をよく憶えとけ」
清呼は目を大きく見開いて龍村の言葉を聞いていたが、小さな声で「わかりました」と返事した。
「じゃあいいよ、コーヒー出したらもう部屋に入ってな」
そう言って釈放し、リビングに戻ると、赤井たちは先週出たゲームのグラフィックがすごい、という話で盛り上がっていた。清呼は大人しくコーヒーを出し、いったん部屋に戻ったが、しばらくして出かけていった。
最近の売り上げだとか今ある仕事だとか、今後の課題だとかを話し合って、二時間ばかりでミーティングは終了した。いつもそのまま飲み屋へ流れていくので、そのつもりで龍村は「さて、今日はどこの店にする?」と訊ねたが、三人は返事せずにニヤニヤしている。
「何よ」
「実はもう、店は決まってるんだよね」
赤井がそう言いながら煙草とライターをポケットにしまう。
「龍村久くん、二十七回目のお誕生日おめでとう!Xデーは琴美ちゃんのためにとっておいて、今日は一足早いサプライズパーティーです!」
佐野が芝居がかった声で宣言し、フルーチェまでもみじのような手で拍手していた。
「一体誰がそんな事を・・・」
「そんな事考える人間は一人しかいないよ。さ、行こ行こ、七時集合だからね。他にもサプライズゲストが来てるらしいから」
悪夢。男にとってサプライズと名のつくものは全て悪夢である。
「それで先生から、葵ちゃんはもっと皆と仲良くできるといいんですけどね、なんて言われてさ」
保護者会帰りだというデボラの話を聞きながら、涼子はふんふんと頷いていた。
龍村のサプライズ誕生パーティーなどというものを清呼が企画し、こりゃ面白そうだと喜んで参加したが、現役彼女の琴美まで来ているとは予想外だった。
場所は龍村たちの事務所の近くにある居酒屋。男どもはミーティングが終わり次第こちらへ流れてくるはずだった。先に揃ったメンバーで挨拶を交わし、涼子は久々に会うデボラと世間話、清呼は初めて会う琴美と嬉しそうに話をしていた。
涼子とデボラは反発しあうタイプと見られがちだ。かたや独身キャリアウーマン、かたや三人の子をもつワーキングマザー。しかし涼子にとってデボラは尊敬こそすれ反発する相手ではない。
彼女は自分と同じように、出力の限界近くまで力を出し切っている女性を認めていた。デボラはそれこそ毎日フル回転だったし、涼子もまた、時には深夜残業も厭わず、必要とあらばどこへでも出かけ、どんなに馬鹿げたことでもやった。
彼女が最も軽蔑するのは、出し惜しみする女だ。
「えー、そんなのやりたくないですぅ」と周囲の様子を伺い、誰かに自分の下働きをさせようと画策する。しかもその自覚も持たず「見かねてやってくれました」などと平気でぬかす連中。
金、労力、知恵、何であろうと出し惜しみ、少しでも楽をしようと目をぎらつかせ、他人がおいしい思いをしたと聞けば、我も我もと後に続きたがる、そんな女を涼子は軽蔑した。
果たして、琴美とは一体どんな女だろう。
貧乏な龍村と付き合うくらいだから、少なくとも物欲の深いタイプではなさそうだ。別れた男が誰と付き合っていようと関係ないが、目の前をウロウロされるとやはり多少は気になるのだった。
「なんか葵って、女の子とつるむのが苦手らしいの。私に似たのかな」
デボラのそんな話を聞いていると、ようやくミーティングを終えた男たちが到着した。
「遅くなっちゃってすまんね。皆さんお変わりなく?」
赤井が先頭にたって入ってくる。本日の犠牲者、龍村は涼子と琴美が同席しているのを見て明らかに狼狽し、その場に固まっていた。
「清呼、ちょっと来い」
呼ばれた清呼はヤバっ、という表情で龍村の方へ行く。二人は通路で何やら話しこんでいて、その間に佐野とフルーチェも入ってきた。
「あら、佐野くんと会うのはさすがに久しぶりね」
やはりいい男がいると空気がすがすがしい。涼子はいち早く、佐野に自分の隣へ来るよう手招きし、後はどうにでも座りやがれ、と思いながらメニューを開いた。
ややあって龍村が琴美と赤井の間に座り、清呼は何故か佐野と赤井の間という危険地帯に着席した。あんな場所に座ったら赤井におちょくられるのがオチだ。せめて琴美の隣にでも座っておけばいいのに。そしてデボラの隣にはフルーチェが「ご苦労さんっす」と言いながら太った胴体を押し込んだ。
みんな思い思いの料理と飲み物を注文し、清呼が音頭をとって乾杯した。
龍村は不機嫌な顔つきで「完全に羞恥プレイだよな」とぼやいていたが、皆口々に「だからこそ、いたぶりに来たのよ」だの「このいたたまれない感じがいいんだよね」だの、傷口に塩をすりこむ言葉ばかりを送った。
こんな事で龍村が喜ぶと本気で思っているのは清呼だけだろうが、まあこれを機に大人の微妙な心理を学べといったところか。
誕生パーティーとはいうものの、最初の一時が過ぎてしまえば後はいつもの飲み会だ。近況報告に知人の消息、失敗談やら目撃談を披露しあっている内に時間は過ぎてゆく。
涼子はもっぱら佐野やデボラ、清呼と話をし、フルーチェはほとんど人の話を聞いているだけで、あとはひたすら食べていた。赤井は元々琴美と知り合いで龍村に紹介した関係か、このカップルとずっと話をしている。
「だから近頃は、クラスでも女子の方がやたら勢いがあるんだよね」
専門学校で教えている佐野が今時の学生について話し、デボラは興味深そうにきいている。本当は酒好きなのにジンジャーエールを飲まされている清呼は二人の会話に耳を傾けていたが、ふと自分の手元に目を落とすと、うわあ!と絶叫して飛び上がった。勢いで前にあったグラスが倒れる。
「わ、びっくりした」
その声に驚きながらも、佐野がすぐにグラスを戻す。清呼はというと、すでに彼の背後へ潜り込んでいた。
「何してんのよあんた」
呆れて覗き込むと、清呼は「こんにゃく」と荒い息をしている。見ればたしかに、清呼の取り皿に涼子が注文したはずのこんにゃくステーキが一切れのっていて、その様子を見て赤井がにやついていた。
「こんにゃくが大嫌いって言うからさ、どんなもんか試してみようと思ったんだけど」
どうやら、奴の悪戯らしい。
「ちょっと、人のダイエットフードで勝手に遊ばないでよ」
涼子は騒ぎの元凶であるこんにゃくを回収してさっさと食べた。横では佐野がこぼれたジンジャーエールを拭きながら「清呼、息は吐かないと吸えないよ」と現実的なアドバイスをしている。
龍村は一連の騒ぎに唖然としていたが、ややあって赤井に向かって口を開いた。
「あんたさ、そういう風に人がうろたえるのを見て喜ぶのって趣味悪いよ」
口調はそう厳しくないが、涼子には彼が怒っていることが判った。
「いや、何ての?可愛いからいじめたくなるってあるじゃん」
それは詭弁だ。ペットだろうが子供だろうが、驚き慌てる様を見て「可愛い」とほざくのは、己の残虐さをごまかすための言い訳にすぎない。涼子は自分にもその性向があるのを知っているから、赤井の言葉に嫌悪感を覚えた。
「やられる方の身にもなれっての。おもちゃじゃないんだからさ」
龍村よく言った。涼子は腹の底で拍手した。琴美の前でいい格好したいだけかもしれないが、この男のこういうところだけは評価したい。
「清呼、あんたそもそも赤井くんの隣なんかに座るから悪いのよ、こっちいらっしゃい。肩もんで」
まだ隠れている清呼を引っ張り出し、佐野を追いやって座る場所を作る。
「出た、女王のマッサージタイム」
赤井は龍村の言葉を全く気にしていない様子だ。
「だってこの子の手、すごく暖かいんだもん、ぜったい病みつきになるよ」と言うと、横からデボラが同意した。向いに座っている龍村は何やら複雑な顔つきでこちらを見ている。
涼子は背中に清呼の長い溜息を感じた。駄目じゃない、酒席でのダメージはすぐネタにして立ち直らなきゃ。そう思ったけれど、この子はジンジャーエールしか飲んでいない。
振り返り、うつむき加減な清呼の頬を人差し指でつつくと、恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
その後また何事もなかったかのように飲んで食べて、デボラがそろそろ帰らなきゃと言い出したので、パーティーはお開きになった。外に出ると雨が降り出していて、傘を持っていない涼子を清呼が地下鉄の駅まで送ってくれることになった。
「あら、こんなところにもベレーザが」
近頃あちこちに進出しているベレーザカフェが、知らない間にまた一つ増えている。それを見た途端、涼子はコーヒーを飲みたくなって立ち止まった。
「清呼、ちょっと入ろうよ。酔い覚まししたいの」
店内に入ると、雨のせいか客はまばらだ。
「私はエスプレッソ。あんた何にする?おごってあげるわ」
「じゃあホットチョコレート」
注文の品を受け取り、窓際にある四人がけのテーブルに座る。
「ねえ、さっきのパーティー、龍村さん喜んでたと思う?」
清呼はホットチョコレートを一口飲んでからそう尋ねた。
「喜ぶわけないじゃない」
「え」
「大人はね、あーいう事されると困るの」
「でも、パーティーするって言ったら涼子さんノリノリだったじゃない」
「だって龍村くんが困るの見てるの面白いもん。でも私には絶対にやらないでね」
「なんで?嬉しくないの?」
「大人になったらさ、年齢重ねても喜びって別にないのよね。ただ年くっただけだなーって感じ。そこをわざわざ大勢にお祝いされちゃうと、非常に居心地が悪いの」
「そうなんだ」
「まあそれは寄ってたかってお祝いされる場合であって、一対一とかだと話はまた別なのよね」
「じゃあ龍村さん僕のこと怒ってると思う?」
「怒っちゃないでしょ。ただし照れるのよ。ある意味で針の筵。まあそのうち大人になれば判るから」
涼子はエスプレッソを一気に飲み干した。
「ねえ、清呼は大人になったら男か女のどっちになりたいと思ってるわけ?」
「うーん、しばらく前までは男になるつもりだったけど、最近は女がいいかな」
「どうして?」
「夏に失恋したから」
初めて聞く話だ。涼子の好奇心が首をもたげる。
「誰に失恋したのよ」
「中学の時からの彼女。男になったら彼氏にするって予約してくれてたのに、留学するからってキャンセルされちゃった」
「要するにふられたってことね。それで、今は女になりたいというのはどうして?」
「龍村さんのこと好きだから」
今なんて言った?あ、声に出してないわ。
「今なんて言った?」
「龍村さんのこと好きだから」
「女の子にふられて、次はあいつのこと好きになったの?」
「前から好きだけど、好きの意味がこのごろ少しずつ変わってきた」
「そもそも、なんで好きなの?」
「なんでって、優しいもの。でもって頼れるし」
軽いめまいに襲われたような気がして、涼子は額に手をあてた。
「それは一時の気の迷いだと思うわ。頼れるってのは子供から見た場合で、確かに優しいけど・・・」
その裏返しで相当に優柔不断なんだわ。さすがにそこまでは言えなかった。
「でも琴美さんと普通に付き合ってるじゃない。あの人も大人でしょ?」
「そりゃまそうだけど。でもさ、琴美さんがいるのに、あんたが女になってどうしようっての」
「その方が気に入ってもらえるかなと思って。それに、もしかしたら僕が大人になった頃に、琴美さんと別れてるかもしれないでしょ?」
思わず溜息が出た。
「じゃ、客観的に見て言うね。あんた髪の毛は千円カットでしょ?でもって眉毛なんか全然手入れしてないし、顔は産毛だらけだし、唇ちょっと荒れてるし、爪なんかすごく短く切って、手の甲にマジックでメモ書きして、大股かっぴろげて座ってるし。そんなんで女になりたいって言うんだったら最初から止めといたほうがいいわよ」
清呼はもじもじと居住まいを正した。
「ねえ、デボラんとこの女の子の事考えてみなさいよ」
「葵ちゃんと楓ちゃん?」
「特に下の、楓。あんたいつもあの子の言うなりでしょ。あれやって、これやってって」
「だってすごい可愛いから」
「そこそこ。女ってのはね、あの年頃からすでに完成されてるの。あの子が七つ?あんた今何歳?」
「十六」
「何歳で女にデビューするか知らないけど、そこから同年代の女の子に追いつこうったって無理よ。完全に周回遅れ。しかも何周も。」
答えに困ったらしく、清呼は口をへの字にして涼子の顔を見ていた。
「たしかに葵はまた別のタイプだけど、あれ位頭がよければどうにだってなるわ。でもあんたは人並みって感じだし、そんなんで女になっても絶対にロクな男はつかめないわね。適当なところと結婚して一生愚痴って暮らすか、誰にも養ってもらえずに馬車馬のように働いて朽ち果てるか、そんなところよ」
「じゃあどうしたらいいの?」
「女はやめて、男のおばさんを目指すってのが無難な線じゃない?」
「男のおばさん?」
「まずはとりあえず男になって、四大卒業して堅実な職について真面目に働く。あんた気立ては悪くないんだから、好いてくれる女はけっこういると思うのよ。で、釣り合いそうなのと結婚して子供つくって、できたら中古のマンションでも買って、そろそろ中年になったなと思ったら徐々におばさん化するの。男のおじさんは頑固で扱いにくい上に手がかかって鬱陶しいだけだけど、男のおばさんは聞き上手だし気働きはできるし、同世代の女性に大人気。定年退職しても遊び友達には困らずに楽しく過ごせるわよ」
「僕たぶん早死にするから、あんまり先のことはいいんだけど」
「何言ってるのよ、フラフラしてたらあっという間に三十になるから。それから路線変更なんかできないわよ。とにかく、今の状態で女を目指すなんて無理もいいとこ」
「じゃあ今からでも女の子らしくすれば、少しは追いつくってこと?」
「まったく頑固ね。じゃあ更にキツい事言いますけど、あんた龍村くんの前で色々と馬鹿さらしてるでしょ。魚の骨がささったって大口あけて見せたり、ラーメン食べながら喋ろうとして、むせて鼻の穴から麺を出したり、朝はトイレと洗顔と各三十秒でできるって自慢したり」
「な、な、なんでなんで」
あっという間に清呼の顔が真っ赤になった。悪いけどちょと愉快な気持ちになってくる。
「なんで私がこんな事知ってるか判る?」
「涼子さんと龍村さんが友達だから?」
「馬鹿。あの人があんたの事をただの子供としか見てないからよ」
「そうなんだ?」
「ちょっとでもムラっと来るような事があったら、誰にも言わずに頭の中で牛みたいに一日中反芻してるのが男ってもんよ。私なんかにベラベラ喋るのは完全にネタ扱いよね」
「もうこれからはそういう事しない。気をつけます」
「でも結局、どれだけ努力したところで、男になるか女になるかって自分じゃ決められないんでしょ?」
「そう、それに・・・」
清呼は長話の間に冷めてしまったチョコレートを飲んだ。
「よく考えたら龍村さんから、事務所で女の子はやめてって言われてるんだった」
「どうして?」
「風紀が乱れるから、だって」
「はあーん」
すると龍村め、少しはこの子に何か感じているのではないかしら。
「ねえ、プレゼントするのぐらいいいよね」
「は?龍村くんに?」
「そう。誕生日のプレゼント買ったの、渡すの忘れてたから、帰ってからあげたい」
「何買ったのよ」
「ハンカチ。予算の都合でそれだけ」
「いいんじゃないの。でもきっと他の女の涙拭くのに使われたりしちゃうよ」
「それはしょうがないかな」と、清呼は諦めたように笑った。
そんなんじゃ駄目よ。
もし本当に将来女になったとして、薔薇色の戦場で勝ち抜くだけのしたたかさがこの子にあるだろうか。押しのけられて隅に追いやられるだけなら、いっそ女になんてならない方がいい。その戦いに時として虚しさを感じる涼子はそう思う。さっきデボラに聞いた話が甦った。
私は涼子ちゃんと違って、女の子どうしでうまくやるのが苦手だったのよね。男兄弟にはさまれて育ったせいかしら、女の子なら当然こうでしょ、っていうのが判らないの。
だから若い頃なんかさ、男の子に親しくしすぎて、他の女の子に「抜け駆けした」とか噂たてられたり、ひどい時には「片思いの相手に馴れ馴れしくした」って泣かれちゃったり。
傍からは天然ズボラって言われてたけど、本人としちゃ悩みの種でね、色々考えて出した結論が、女の階段をもう一つ上ってみよう、って事。つまりね、さっさと女の子を卒業して、奥さんになって、お母さんになっちゃえと思ったの。
まだ学校出てすぐの頃に結婚して、周りからはもっと遊びたくないの?とか言われたけどさ、生活に追われる方が私にはずっと楽なのよね。まあ、お母さんどうしで色々あるにはあるけど、家族優先だから大して気にならないし。
涼子は思う。デボラに比べると私って往生際が悪い。満身創痍に近い状態で未だ転戦中。でもたぶん、私は妻になろうと母になろうと、やっぱり戦場に立つ女かもしれない。
十 まだ帰りたくない
「ねえねえ、これはちょっと、って感じだよね?」
清呼がそう言いながら部屋から出てきた。龍村はパソコンの不要なメールを削除していた手を止めて振り向く。
「去年は何とか着れたんだけどさ、さすがにきついや」
紺色のダッフルコートを着ているが、明らかに袖が短く、かなり窮屈そうだ。
「そりゃ毎日あれだけ食べれば、育ちもするよ」
「困るな、今週いきなり寒くなったじゃない」
「だよなあ。そうだ、ちょっと待ってな」
龍村は着ていないハーフコートがあったのを思い出し、自室のクローゼットを探した。色はカーキで、少し薄手ではあるが、じゅうぶん使えるだろう。
「よかったらこれ着なよ。前に旅先ですごく寒かったから買ったんだけど、俺にはちょっと小さいんだ」
そう言って手渡すと、清呼は「本当にいいの?」と驚きながら早速ダッフルコートを脱いで試着した。やはりかなり大きくて普通のコートぐらいの丈があり、袖は指先が隠れてしまう。
「これくらい大きかったら、中にいっぱい着れるからいいや。袖なんか折り返しておけば大丈夫」
「まあ、気に入ったならどうぞ。ただしクリーニングしてないからね」
「そんなの平気。ありがとう」と頭を下げながら、清呼はいくつかあるポケットを探った。
「五百円玉出てきた」
「それもやるよ」
「キャバクラのメンバーズカード」
「回収します」
たしか男だけの馬鹿旅行だったので、社会見学と称してキャバクラに入った記憶はあった。会員だと割引になるから、カード作っちゃうね、などと調子のいい事を言われた気がする。また清呼に「楽しかった?」とか聞かれるかと身構えたが、意外にも反応がない。というか、別の事を考えていたようだ。
「龍村さん、ちょっとお願い。僕の身長測ってみて」
「身長?じゃあ、そこの壁に立って」
いつぞやデボラに写真をとられた壁の前に清呼を立たせ、そばのコルクボードから黄色いピンを抜くと、頭のてっぺんと同じぐらいの高さに刺した。
言われてみれば、あの時よりも少し大きくなったような気がする。
そして清呼は龍村の腕の下をくぐりぬけると、工具箱にしているプラスチックのケースからメジャーを取ってきて手渡した。
「うーん、ジャスト百六十ってとこかね」
測ってみればそんなところだった。
「そしたら、中学出てから五センチぐらい伸びたかな?」
「その勢いならまだ伸びるんじゃないの?そのコートも、すぐにちょうどいいぐらいになるかもね」
「そうかなあ」
清呼は何だか複雑な表情でメジャーを受け取り、壁からピンを抜いて元の場所に戻した。そしてハーフコートと小さくなったダッフルコートを両脇に抱えると、部屋に戻っていった。
静かになったリビングで、龍村は再びパソコンに向かった。不要なメールを削除し、仕事の連絡はメンバーそれぞれに転送する、そんな作業をしながら、ちかごろ清呼はちょっと変わったなと考えていた。
まず髪型。今までは千円カットだったのが、大枚をはたいて美容室へ行ったとかで、大人びた印象になったのだ。眉もすっきりしたように見えるし、やたらとリップクリームを塗っているのが目に付いたりして、明らかに外見を気にしている。
この間は頬を真っ赤にしていると思ったら、産毛を剃ってかみそり負けしたらしく、邪魔にもならない毛をいちいち剃るな、と説教した憶えがある。
おおかた涼子あたりが入れ智恵をしているに違いないが、学校で気になる相手でもできたんじゃないだろうか。まあ、少しは大人になったって事か。もっと大きくなったら、さすがに男二人住まいは狭苦しいだろう。
ふと時計を見ると、もう六時を回っていた。龍村は最後のメールを処理するとパソコンの電源を切り、ドアの開いていた清呼の部屋をのぞいて声をかけた。
「ちょっとこれから出かけるから」
こちらに背を向け、ベッドに横になって何かを読んでいた清呼は、そのまま顔を仰向けに反らせてこちらを向いた。白くて細い首筋に思わずドキリとする。清呼はすぐに起き上がるとベッドの端に腰掛けた。
「今日、琴美さんの誕生日だからでしょ」
「なんで知ってんの」
「こないだ、龍村さんのパーティーした時に教えてもらった」
忘れもしない、あのサプライズパーティー。
渋々参加したらそこには涼子だけでなく琴美まで列席していて、しかも清呼が彼女と嬉しそうに話し込んでいるので血の気が引いた。慌てて離れて座るように言ったが、それでも例の懐妊ご利益が怖くてしばらく琴美と会うのを控えていたぐらいなのだ。
「まあね。何故だか女性は誕生日だとか記念日にこだわるから、仕方ないね」
これでけっこう面倒なんです、という空気を匂わせておく。
「男の人って、そういう事はどうでもいいの?」
清呼は不思議そうにたずねた。
「誕生日はともかく、なんとか記念日とかいちいち憶えてられないし。そういう頭の構造になってないんだよ。じゃあ、今日は遅くなるから」
龍村は洗面所で鏡をのぞき、自室に戻ってジャケットを羽織るとすぐに出かけた。
補足説明する時間があったなら、こう付け加えただろう。自分に関わる大小さまざま全ての物事に意味を見出し、特別なものだと考えるのが女性という生き物で、それに付き合う忍耐力と記憶力があるかどうかで男は値打ちを決められる。
時計はまだ七時を少し回ったところ。
清呼はさっきから読んでいたパンフレットを閉じて、ベッドに仰向けに寝転んだ。高校からもらった来年のカリキュラムの説明と進路選択のアンケート。正確には読まずに眺めていただけ。
もう来年は三年生で、その後は就職するか進学するかちゃんと考えなくてはいけないのに、自分は未だにはっきりと気持ちが決まらない。大鳥さんも心配してるみたいだけれど、男か女か決まってもいないのに、先のことなんか考えられない。
第一、大学なんてきっと入れないだろうし、専門学校も就職も、したいことが決まらなくては選べない。本当はアンケートを今日までに提出しなければいけなかったのに、結局書けなくてメールで注意されてしまったし、同じメールが大鳥さんのとこにも行ってるはずだ。
しかし今、清呼がぼんやりした気分でいるのは進路だけが原因じゃない。もっと大きな理由は、琴美さんの誕生日をお祝いするために龍村さんが出かけたことだ。
きっと今頃どこかのレストランで会ってるんだろう。龍村さんがどんな風に「誕生日おめでとう」と言って、どんな風にプレゼントを渡すのか、清呼はそればっかり考えていた。
龍村さんがいないだけで、マンション全体がいやに広くて冷え切った感じがする。
今日は時間があるんだから、アンケートをちゃんと書いて月曜には提出しなければ。頭では十分わかっているのに、少しもやる気が起きない。晩ごはん食べたらちょっと気分が変わるかも?そう考えていたら、リビングの電話が鳴った。これは仕事関係だ。清呼は起き上がって受話器をとりに行った。
「ああ、清呼ちゃん?龍村いるかな。ちょっと仕事の件で聞きたいことがあって」
赤井さんだ。
「出かけてるよ。遅くなるって」
「そっか。じゃあもう月曜にすっかな」
赤井さんはそう言ったけれど、まだ電話は切らなかった。
「で、清呼ちゃんは留守番なの?金曜の夜だってのに」
「うん」
「そんじゃこれから一緒にメシ食わない?うちの方まで出てこれるかな」
「うん、すぐ行ける!」
そして清呼は待ち合わせの場所を聞くと電話を切り、龍村さんにもらったばかりのコートを着て出かけた。なんていいタイミングだろう。これで一人でじっとしていなくてすむ。
待ち合わせ場所のコンビニはすぐに見つかった。グルメ雑誌を立ち読みしていると赤井さんがやって来たので、二人で近くにある豚カツ屋に入った。
赤井さんはロース百二十グラム定食、清呼はミックス定食を選んだ。これだと豚カツ以外に海老フライとコロッケがついてくる。そして赤井さんはビールを注文して、グラスを二つ持ってくるように頼んだ。
「へえ、琴美ちゃんは今日が誕生日だったか」
「赤井さんは何かプレゼントあげるの?」
「まさか。彼氏のいる女の子にそんな無駄な事」
そこへビールの中瓶が運ばれてきた。赤井さんは全く普通な感じで清呼の分まで注ごうとするので、あわてて断った。
「なんで?酒、好きでしょ?」
「でも一応、外だし」
「ふーん」
つまらなそうに言うと、赤井さんは自分だけグラスにビールを注ぎ、半分ほど一気に飲んだ。
「は、金曜の夜のビールは特にうまいね。勤め人だったころに比べると解放感はイマイチだけどな」
清呼は「そうなんだ」と言いながら、赤井さんのグラスにビールを注ぎ足した。
「気がきくね、全く。あのさ、真剣に言うけど、うちみたいな事務所で小銭稼ぐより、ちゃんとした店紹介するから水商売でやってみたほうがいいよ、本当に」
赤井さんはいつもこういう事を言うので困ってしまう。
「向いてないよ」
「やってみりゃ気が変わる思うけどね。化粧の仕方だって教えてもらって、顔の傷痕も上手に隠せるよ。そしたら今よりずっと綺麗になれるって」
「化粧なんかしたくないもの」
「でも、してたじゃん。こないだ」
困ったな。こんなとき龍村さんがいたら、何かうまいこと言ってごまかしてくれるのに。そこへ赤井さんのケータイが鳴ったので、清呼はほっとした。
「おーどうしたの、うん、そうよ。いや、全然よくないって」
友達からの電話らしくて、楽しそうに喋っている。清呼はその間、他のテーブルの人たちを見ていた。
恋人同士らしいカップル、両親と子供の家族連れ、大学の友達どうしみたいな女の子、仕事帰りのサラリーマンぽい人たち。みんな楽しそうだった。なのになぜだか自分だけそんなに楽しくない感じがする。
一人で来ているわけじゃないのにどうしてだろう。そう考えているうちに、料理が運ばれてきた。赤井さんが「先に食べて」という身振りをしたので、清呼はそれに従った。豚カツ、コロッケ、海老フライ、どれから食べるのが正しいか?普段コロッケを食べる回数が一番多いので、やはりここから先に行くべきだろう。決心がついたところで赤井さんが電話を切った。
「悪い悪い。こいつ、いつも最悪のタイミングでかけて来るんだよな」
ケータイをポケットにしまって、赤井さんは割り箸を手にとった。
「赤井さんて友達いっぱいいるよね」
「まあね。人間関係は俺の最大の娯楽だから」
ソースをかけて、芥子もたっぷりつけて、赤井さんは豚カツを食べ始める。
「下手なゲームなんかよりよっぽど面白いよな。あいつとこいつひっつけて、喧嘩させて、仲直りさせて、浮気させて」
「そんな事できるの?」
「できるさ。ただしちょっとコツがいる」
「コツ?」
「なんだかんだ言って、人はしたい事しかしない。そしてしたい事をしてない時でも、きっかけを待っているだけだったりする。だからさ、相手が何をやりたいのかをよく見て、きっかけさえ作ってやれば、あとは勝手に動いてくれるってわけだ。俺はそれを眺めて楽しむのさ」
「きっかけだけ作る?」
「そう。つまり相手の本心を代わりに言ってあげるわけだな。あんた本当はあいつの事、好きなんじゃないの?なんてね」
「そしたらどうなるの?」
「なんで判るの?なんて話になって、だったら俺が話つけてやるからって、いい人を演じるわけだね。で、うまく行ってしばらくしたら今度は、あの子があんたの事、ちょっと退屈って言ってたよ、なんて親切顔で忠告してあげる」
そう言って赤井さんは千切りキャベツをバリバリと食べた。清呼には赤井さんが何を考えているのか段々わからなくなってきた。
「いい人になったり、意地悪な人になったりするの?」
「それはあくまで表層的な話。おれは心の底から意地悪な男さ。誰のことも信じてなくて、世の中の人間がみんな不幸になればいいと思ってる」
「どうして?」
「理由なんてないな。生まれつきのへそ曲がり」
そう言って清呼に向かってウインクしてみせた。冗談か本気かわからない。清呼は少し怖いような気分で、最後までとっておいたエビフライを食べた。
「仲のいい奴らを見れば喧嘩させたくなるし、可愛い子はいじめたくなる。だからさ、俺には本当の友達なんていないよ」
「でも龍村さんたちとは友達でしょ?」
「ありゃ単なる仕事仲間。まあ佐野は俺より頭がよくてこっちの思惑にのらないし、デボラは俺のことなんか信用してないし、龍村とフルーチェぐらいかねえ、遊んでて面白いのは。特に龍村は単純だから楽しいね」
赤井さんはそう言うと、自分のグラスにビールを注ぎかけてこちらを見た。
「どうよ、本当に飲まない?」
清呼はとっさにこの後のことを考えた。もう食事は済んだし、今また断ったら、赤井さんは「つまんねーの」とか言いながら残りを自分で飲んで、「そんじゃお休み」って解散するだろう。そうしたら清呼は帰ってまた一人でじっとしていなければならない。今日はどうしてもそれが嫌だった。
「いいかな、一杯ぐらい」
「そうそう、やっぱりそれくらいノリがよくないと」
そしてグラス一杯のビールを飲むと、清呼はあっという間に楽しい気持ちになってきた。「ふわ、久しぶりだけど気分いい」
勝手に笑いたくなってくる。赤井さんもそんな清呼を見て嬉しそうで「よし、せっかくのってきたんだから、もっと面白いところに行こうよ」なんて言っている。清呼は、それはいいや、と思った。とにかく今はまだ帰りたくないのだ。
何だか散々な誕生祝いだった。エレベータの白々とした明かりに照らされて、龍村は軽く溜息をついた。
琴美が前から一度行きたいと言っていた、庶民的なフレンチレストランを予約しておいたものの、いざ店に着いたところで「ごめんなさい、遅れます」というメッセージが入ってきた。
仕方ないので途中で買った本を読んで過ごしたが、結局一時間半ほど待たされることになった。そしてようやく現れた琴美は「遅くなってごめんね」と一応謝りはしたが、何やら怒っているのは明らかだった。
「急な残業だったの?」
「だったらまだ諦めもつくけど、サプライズパーティーなんかされちゃって、それを企画したのが神田さんってお局様。もう三十八なのにまだ独身で、仕事以外に趣味なしって感じの人なの。張り切って、琴美ちゃん今日お誕生日でしょ?ちゃんと憶えてるんだからね!なんて、他の皆も巻き込んでケーキなんかも準備しちゃって。もう帰るに帰れなかったの」
「ありがた迷惑って奴か」
「ありがたくも何ともないわ。迷惑なだけ。あの人、今まで彼氏いたことがないから、誕生日でしかも金曜だと、普通どう過ごすかって想像もできないのよ。おまけに、ケーキがおいしくないの。安物のクリーム使ってるからすごくもたれて、もう食欲なくなっちゃった。あの人スイーツ好きなんて自慢してるけど、あの程度のものしか食べたことないなんてお気の毒」
こんなに不機嫌な琴美を見るのは初めてなので、正直なところ龍村はかなり当惑した。
いっそ、あのババアぶっ殺す!と言いながらフルコースを平らげて高いワインでも飲んでくれる方が気楽なのだが、それはたぶん涼子の場合であって、琴美の不機嫌にはどう接していいかわからない。
「じゃあとりあえず、アラカルトで軽いものでも頼もうか?」と提案してみたが、「適当に選んでくれれればいいわ」と、にべもない。内心冷や汗もので、前菜の盛り合わせに温野菜のサラダとサーモンのグリル、それに自家製のパンをつけてもらった。飲み物はハウスワインの白にする。
とりあえず料理に駄目出しはなかったものの、会話も弾まず、琴美は明るい笑顔を見せてはくれなかった。
「本当にうちの職場って疲れる人が多いのよね。毎日つくり笑顔でつきあってると、もう金曜にはぐったりしちゃう」
「勤め人は辛いね」
龍村も会社員だった頃を思い出してみた。どこの部署にも一癖ある人物がいたし、琴美の気持ちはわからないでもない。しかし自分には気の合う相手もそれなりにいたし、つきあっている女性も社内にいたので、はるかに楽しく過ごしていたのかもしれない。
「仕事は同じことの繰り返し。忙しければ残業なのに、どれだけヒマでも定時まではいなければならないし」
「転職とか、考えたりする?」
「今より条件がよければね。正社員で、社会保険がちゃんとしてて、住宅手当が出て、残業代もちゃんとついて、完全土日休みで、ボーナスは夏冬それぞれ最低二か月分ぐらいは出て」
今までまともにきいたことがなかったが、琴美の職場はかなり待遇が良さそうだ。
「いっそ龍村さんのところで働いた方が、ずっといいかもしれないわ」
「うちは完全に自転車操業だよ」
「でもあのアルバイトの、清呼くんだっけ、すごく楽しいみたいに話してたわよ」
「あいつは半分遊んでるようなもんだから」
「だったら私も毎日気楽に、半分遊んで過ごしたいな」
これはもしや、遠まわしな専業主婦願望って奴ですか?龍村は「確かにね」とか何とか言ってごまかすしかなかった。
そして二人は少ない料理をあっさりと食べ終えた。
プレゼントは日を改めて、一緒に買いに行く約束をしていたことだけが救いだ。本来ならこの後琴美のマンションへ行き、楽しい一時を過ごせるところだが、今日はその可能性は皆無。
レストランを出て、「少し頭が痛い」という彼女を地下鉄の駅まで見送ると、龍村はひとり夜の街角に取り残された。
ま、こんな日もあるさ。
とりあえず自分にそう言い聞かせてみたが、どう見ても自分に落ち度があっての結果とは思えなかった。まあ、彼女の機嫌を直せる程の力がなかったという点では、そうかもしれない。
仕方がないので中途半端な空腹感を押さえるために通りすがりのラーメン屋に入ったが、これが大してうまくもなく、徒労感は却って増大した。
あまり早く帰宅して清呼と顔を合わせるのも何だか気まずいので、途中でコーヒーを飲み、しばらく読書してからようやく帰ることにした。
このマンションのエレベータは、止まるといつも微妙に段差が出る。今夜はそんな事すら気が滅入った。
龍村は切れかけた蛍光灯に照らされた廊下を歩き、部屋の鍵を開けて入ったが、中はしんとして人の気配がない。もう日付も変わろうかという時間なのに、清呼は一体どこへ行ったのだろう。
ジャケットを脱いで椅子の背に掛け、冷蔵庫から出したミネラルウォーターを少し飲んでテーブルに置く。どこかでニュースでもやっていないかとテレビをザッピングしていると、玄関のドアに何かがぶつかる鈍い音が響いた。そしてしばらく間をおいてドアが開いた。
さて何が一体起こっているのか?いつぞやの喧嘩事件を思い出し、龍村は身を硬くして待った。
「あっ、龍村さんの方が早かったあ」
清呼は夕方与えたばかりのハーフコートを肩にかけ、ふらふらと入ってきたが、ほぼ泥酔状態で目の焦点が合っていない。
「お前本当に・・・」
怒りのあまり言葉が出ない龍村を尻目に、清呼は「トイレトイレトイレ、ずっと我慢してたから限界」と、手洗いに消えていった。
一気に酒臭くなった部屋の空気が怒りを倍増させる。ややあって晴れやかな顔で戻ってきた清呼は「じゃあ寝ますね、おやすみ」と言って床に丸くなった。
「こんなところで寝るなボケ!」
風邪でも引かれたら更に面倒なことになる。仕方なく龍村は清呼を引きずり起こしたが、その首筋を見てぎょっとした。夕方にはなかった赤紫の斑点。それは明らかにキスマークだった。
「お前、一体誰と酒飲んでたんだよ!」
これだけは聞き出さなくてはと思い耳元で怒鳴ると、清呼はうっすら目を開き、でへっと笑うと「赤井さーん。でも、好きなのは龍村さんでーす」と答え、また目を閉じた。
「ふざけんな!」
両脇を抱えて床をひきずり部屋へ連行する。抱き上げた方が楽にも思えたが、今の清呼にそんな丁重な扱いをする気は全くない。
ベッドの上に投げ出すと足が枕にのっていたが、かまわず布団を上から投げつけ、リビングに落ちていたハーフコートも拾ってきて更に投げつけると思い切りドアを閉めた。そしてすぐにケータイを取り出して赤井の番号にかけたが、向こうもこうなることは予想していたらしく、つながらない。
どいつもこいつも全く。
この怒りをどこに向けていいか判らず、龍村は再びリビングの椅子に腰を下ろした。
テレビでは以前見たことのあるVシネマが流れている。酒でも飲まないと眠れない気がしたが、それではあまりにどうしようもないので、ただ明滅する画面を眺め、少しずつ気が静まるのを待つしかなかった。
十一 嬉しいと苦しい
準備中の札がかかっているけれど、明かりはついている。静かに店のドアを押すと大鳥さんがカウンターの中に立っているのが見えた。
「よう、来たのか」
清呼はその声にほっとして中に入った。大鳥さんはレモンを切っていたらしくて、店の中には甘酸っぱい香りが漂っている。カウンターの奥から三つ目の席、清呼はいつもここに腰掛ける。
「ジンジャーエールでいいの?」
「うん」
「あれだろ、学校の進路アンケート」
「それは今日ちゃんと出してきた。一応進学しますって書いたけど、本当は全然決めてない」
「ま、あんなものは形だけ整えておけば学校も安心するんだよ。でもまあ来年は三年だし、せめて年が明けたらもう一回ちゃんと考えないと」
「大鳥さんは高校卒業して、すぐ就職したんでしょ?」
「まあ単なる進学放棄で、あとは流れ流れてここにいる。人には全く勧めない進路だな。まだやりたいことが決まらないなら、進学した方がいいぞ」
「考えとく」
今日話したいのはそんな事じゃない。でもどう切り出していいか判らなかった。
じっとしていたら開店の時間になるし、帰る時間にも間に合わない。色々考えながらジンジャーエールを飲んでいたけれど、やっぱり先にこれだと思った。
「大鳥さん、お願いがあるんだけど」
「何だ」
「頭、撫でて」
予想通り、大鳥さんは「おやおや」という顔になった。
東京に来てすぐの頃、清呼は何かにつけて頭を撫でてくれとお願いしていた。別に誉めてほしいわけではなくて、ただ何となく落ち着いて、不安な感じが消えていくからだけれど、澄香さんがやってくれるより大鳥さんの方が効果があった。
三ヶ月もしたらそれも必要なくなって、あれは何だったんだろうねと笑い話にまでなっていたのに、今またこんなことを言い出すのはかなり変だ。でも、どうしても我慢できない。
「ま、しょうがないな」
大鳥さんはもったいぶって背筋を正すと、腕を伸ばして大きな掌を清呼の頭にのせた。それから一度、二度、三度、ゆっくりと頭を撫でてくれた。そしてまだ軽く頭に掌をのせたまま、少しかがんで正面から清呼の顔を覗き込むと「何かあったか?」とたずねた。清呼は思わず目を伏せて「色々」とだけ返事した。
「色々とは大変だな。まず何だ?」
大鳥さんが頭から手を離すと、清呼はようやく話す決心がついた。
「この前の金曜日、事務所の赤井さんと晩ごはん食べにいって、そこでビール飲んだ。それで調子にのって次の店に飲みにいって、めちゃくちゃに酔っ払って帰った」
「あーあ。龍村さんは?」
「僕が出かける時はいなかったけど、先に帰ってた。」
「それで?」
「次の日起きたら二日酔いで、龍村さんにものすごく怒られた」
「そりゃそうだろ」
「どこで何してきたのか、取調べ受けてさあ。でも次の店のこととか、どうやって帰ったとか、ほとんど憶えてないんだよね。おまけに最悪なのが、そのせいで龍村さんと赤井さんが喧嘩みたいになった事。聞こえないようにドア閉めて電話してるんだけど、やっぱり大体わかるじゃない。僕がもっとちゃんと謝ったら仲直りしてくれると思う?」
「それは二人の問題だな」
「そうなんだ・・・で、土曜日はもう二日酔いで死んでたんだけど、昨日の日曜日はデボラさんたちにハイキングに誘われてたんだよね。でもそんなの行っていいわけないだろって、謹慎させられてた。
ハイキングは前から約束してたから、葵ちゃんも楓ちゃんも楽しみにしてくれてたのにドタキャンでしょ。さすがに葵ちゃんたちには謹慎のことは内緒で、デボラさんに急病って嘘ついてもらったけど、これまた最低だよね。もうあれもこれも、全部自分で台無しにしちゃった」
思わず大きな溜息が出た。
「それで、今日はようやく謹慎がとけたのか」
「うん。でもまだ今週いっぱいは門限六時」
大鳥さんはちらっと腕時計を見た。
「清呼はどうして駄目だとわかってるのに外で酒を飲んだんだ?まず最初はそこだろ?」
「それは・・・帰って一人になりたくなかったから」
「でも龍村さんが出かけてるときは、いつも一人で留守番してるんだろ?」
「それはそうだけど」
ああ駄目だ、やっぱり言ってしまおう。
「変なこと言うけど笑わないでね」
大鳥さんは黙ってうなずいた。
「今まで一番好きな大人の男の人って、大鳥さんだったんだよ。かっこいいし頼りがいあるし、何でも知ってるし。でもそれは何ていうか、自分が男の人になるんだったら、そうなりたいっていう感じの好きで、それは今も変わらない。でもこのごろ龍村さんのことがもっともっと好きになってしまって、しかも何ていうか、そうなりたいとかじゃなくて、自分がそのままでずっと一緒にいたい感じの好き、なんだよね」
実際に感じていることの半分も言えてないけれど、とにかくそうなのだ。
「龍村さんはそのこと知ってるのか?」
清呼は慌てて首を振った。
「絶対言わない。ちゃんと彼女がいる人にそんな事言わないよ。でも時々すごく苦しい。金曜日も、龍村さんは琴美さんの誕生日で出かけてて、一人でいるのが我慢できなくて」
そこまで言ったら、どうしてあそこで出かけてしまったのかと思って涙が溢れた。泣いたってもう元に戻せない事がたくさんあるのに。
「どうしたらいいと思う?龍村さんといると嬉しいと苦しいが同じぐらい、ううん、苦しいの方が多い。それが毎日で、土曜日からはずっと苦しい。そして馬鹿なことした自分が大嫌いだ」
大鳥さんは腕組みをして考えていた。清呼はショルダーバッグからハンカチを出して涙を拭いたけれど、泣き止むことができなかった。
「仕事、辞めさせてもらうか?」
「それは絶対嫌。ずっとあそこにいたい」
「でも清呼が今のままじゃ龍村さんも困るだろう。アルバイトで雇って預かってるだけなのに、片思いで辛いからってまだ子供のくせに酒飲んで酔っ払って帰ってくるなんて。それでこんどは学校の勉強も手につかないとか言い出して、自分のせいにされたらすごく迷惑だ」
「もうあんな事しないって約束する。学校ももっと真面目にいく。だからずっとあそこで働きたい」
思いがけないことを言われて清呼の涙も止まってしまった。仕事を辞めて龍村さんといられなくなるぐらいなら死んだほうがマシだ。
「いいか清呼、自分が酒を飲ませる店をやってるのに矛盾した事を言うかもしれないけどな、酒の力で何かを解決しようとすれば、その問題は必ず倍になって自分に返ってくるぞ。酒は毎日を楽しくしてくれる、ちょっとしたオマケに過ぎないんだ」
清呼は黙ってうなずいた。
「それで、お前は本当に今言ったことを実行できるのか?」
「するよ」
「龍村さんに迷惑かけないでいられる?」
「絶対大丈夫」
「しかし自分が大嫌いってのはいただけないな。後ろ向きすぎるよ」
大鳥さんはしばらく何か考えていたので、清呼はすっかり気の抜けてしまったジンジャーエールの残りを飲んだ。今の自分もこんな感じだ。ぬるくて中途半端で、何これって感じ。
「なあ、次の土曜は空いてるか?」
「え?うん。空いてる」
「じゃあ海に行かないか」
「行く行く行く!でも澄香さんは?」
よく考えたら澄香さんはもうすぐ赤ちゃんが生まれるのに、大鳥さんは清呼と遊んでて大丈夫なんだろうか。
「ああ、昨日から実家に帰ってるんだよ。さ、そろそろ帰らないと門限破りになるだろ。龍村さんも毎日六時までに帰ってくるのか?」
「そういうわけじゃないけど、事務所に電話してくるらしいよ」
清呼はジンジャーエールのグラスを大鳥さんに返すと、ごちそうさまと言った。
海から吹きつけてくる風はかなり冷たかった。けれど空はどこまでも青くて、太陽は春みたいに暖かく輝いている。
目の前いっぱいに広がる海は光をきらきらと反射して、絶えず微妙に違う色に変化しながら次々と波を運んでくる。そして清呼と大鳥さんは並んで砂浜を歩いていた
二人は朝早くに出発して、電車を乗り継いで海辺の街まで来た。朝ごはんはこっちに着いてから、車が沢山とまっている店に入って食べた。
そこは朝からすごく混雑していて、しかもお昼時みたいに料理の種類と量が多い。メニューは魚料理が基本で、お盆を持って好きな料理を選んでいって、最後にお金を払う仕組みになっている。
清呼はまずアジの干物を選んで、サバの竜田揚げもとった。それからもずくと卵焼きと、豆腐とわかめの味噌汁、ごはんは大盛りにしてもらう。大鳥さんは煮魚をとって、あとは冷奴とほうれん草のおひたしと味噌汁にごはん大盛り。二人とも朝から食欲全開だった。
その後大鳥さんの希望で近くの喫茶店でコーヒーを飲んで、それからずっと海辺を散歩してきたのだ。
波打ち際にはサーフィンをする人たちがいて、砂浜には清呼たちと同じように散歩する人もいれば、犬を遊ばせている人もいた。海からは低く波の音が聞こえてきて、空に舞っているトンビの声も時々風に混じって聞こえた。
「少し座ろうか」
道路沿いに海を見晴らすように建てられたレストランがあって、その下には緩やかな段差のある広いテラスがある。二人はその一番下に並んで腰掛けた。太陽はまぶしいけれど、気持ちよく身体を暖めてくれる。
「きのう鉄輪さんから電話があったよ。元気にしてるかって」
鉄輪パパは時々大鳥さんのところに連絡してくる。清呼とは直接話せないからだ。
「なんて返事したの?」
「元気って言っておいたよ。あとは学校の話を少し。酔っ払いの話はなしでね」
「ありがとう」
パパには余計な心配かけたくないのだ。大鳥さんのはからいに清呼は感謝した。
「まあ、鉄輪さんも進学した方がいいって考えだし、俺もやっぱり同じ意見だな」
「どうして大鳥さんは高卒でちゃんとした仕事してるのにそう思うの?」
「昔、色々な仕事をしていた頃には、高卒だからって大卒の連中よりも低い扱いを受けることが時々あったんだよ。同じ仕事をしてるのに、そんなの悔しいだろ」
「そうなんだ」
清呼は両膝の上に顎をのせて考えた。今から頑張ったとして、どうにかなるもんだろうか。
「そういえば、もう門限は解除されたのか?」
「うん、今日から自由」
「怒られたって言っても、真面目にやらせるために厳しくしてくれてるんだから、感謝しないと」
「わかってる」
大鳥さんは少し笑うと煙草を出してライターで火をつけた。風があっという間に煙をさらってゆく。
「お前さ、龍村さんのことが好きでも、この先もし男になったらどうするつもり?」
「さあ、諦めるしかないかもね。それとも、男どうしだから好きじゃなくなる?」
「どうだろうな。清呼、お前自分の名前について考えたことはあるか?」
「名前?前半が男で後半が女?」
意味なんてあまり考えたことなかった。
「それはどうか知らないけれど、俺はさ、清呼って名前は清らかな子という意味だと思うんだ。それは身体の次元での話じゃなくて、魂とかそういうものの事じゃないかな。だからもし清呼が本当に好きな人に出会ったら、ちゃんとつきあえばいいと思うよ。けれど今はまだ子供だ。子供の身体ってのは大人のようなことはできないし、傷つくこともある。言ってる意味はわかるよな?」
清呼は黙ってうなずいた。
「そして傷つくのは身体だけではなくて魂もだ。大人に混じって酔っ払ってうろちょろしていたら、しなくていい経験までする事がある。龍村さんも俺も、お前がそんな事で傷ついてほしくないと思ってるんだよ」
大鳥さんはポケットからアルミの携帯灰皿を出すと、煙草の火を消して吸殻をそこに入れた。
「ちょっと首見せてみな」
「首?」
「こないだ店に来たときに痣があっただろ?」
「ああ、何か虫さされみたいなの。でも痛くもかゆくもないんだよね」
清呼は大鳥さんに首筋がよく見えるように上を向いた。太陽がまぶしくて、わけもなく溢れてきた涙が一筋だけ流れた。
「もう消えてるな」
まだ少し煙草の匂いがする。大鳥さんが身体を離してまた海の方を向くと、清呼はなんだか寒いような気がしてコートの襟を合わせた。
「大鳥さんは誰かに頭を撫でてほしくなることってないの?」
「いや、あるよ」
「大人なのに?」
「たぶん年には関係ないだろう」
こんなにかっこいい大人の大鳥さんがそんな事言うなんてびっくりだ。だとしたら自分はまだまだ頭を撫でてもらいに行かなくてはならない。
「そんな時はどうするの?澄香さんにやってもらうの?」
「いや、さすがにそれはないね」
「じゃあじっと我慢するの?」
「だからそんな時はこうやって海に来るんだよ」
そう言って大鳥さんが笑うと、強い風が吹いてきて前髪を乱した。清呼の髪もくしゃくしゃになる。
そうか、きっとこれは神様が大きな強い手で自分たちの頭を撫でてくれているんだ。そう考えると清呼は少し安心して、明日からちゃんとやっていけるかもしれないと思った。
十二 清呼の夜
「荷物、リュック一つなの?」
じゃあそろそろ出かけるから、そう声をかけた龍村の姿を見て清呼(きよしこ)は驚いていた。
「だって実家に三泊するだけだし」
「でも、お土産とかは?」
「んなもん駅で買うんだよ。うちの実家と兄貴夫婦の分だけ」
「それだけ?うちの村じゃ帰省してくる人ってみんなお土産いっぱい持ってくるのに。そいで近所中に配るの」
「おれの実家のある場所は、お前の田舎みたいな地縁血縁共同体じゃないの」
「そうなんだ」
「お前本当に一人で大丈夫なんだな?」
「もう何度も言ったでしょ?心配しないでいいから」
今日は大晦日、龍村はこれから昼過ぎの新幹線で帰省するところだ。
何故だか帰省を禁じられている清呼を、年末年始どう過ごさせるのかが最大の懸案だったが、本人がどうしても事務所に一人で残ると言い張るので、結局それを容認することになった。
つい先日娘に恵まれた大鳥は、妻の実家で年末年始を過ごす。デボラ一家は夫の実家のある福島に帰省するし、佐野の実家は北海道。フルーチェと赤井は戦力外で、最後の頼みの綱である涼子は独身女軍団で温泉旅行だという。
それぞれから誘いはあったのだが、何故だか清呼は全てを断り、事務所に留まるという決意を崩さなかった。
龍村はさすがに心配になった。秋に祖父の法事で日帰りの帰省はしていたので、年末はもういいかと思って、それとなく清呼に話をした。するといきなり「なんでお母さんやお婆ちゃんに会いに帰ってあげないの?」と涙目になられたので、その案も撤回せざるをえなかった。
では一緒に連れて帰るかといえば、やはり抵抗がある。
実家には母親とその再婚相手である義父、そして母方の祖母が住んでいるが、龍村はどうもこの義父になじめないのだ。
別に嫌な人間ではないし、会えばそれなりに世間話もする。しかし互いに気を遣うあまりどうも寛げない。そこへまた他人の清呼を連れていくとなると、どう過ごしていいのかわからない。
結局、龍村が大晦日までこちらに残り、新年は涼子が二日の午後に戻るのを頼りにして、清呼を一人で残すことになった。
実際のところ、例の泥酔事件からこちら、清呼の生活態度は驚くほど持ち直していた。
仕事はまあ以前から真面目にしていたが、最近は学校へ行く回数が増えた。そして夜は遅くまでネットを見ていたのが早目に切り上げるようになり、部屋で何やら勉強している気配がある。
泥酔事件のときは確かに厳罰に処したが、学校だの勉強だの話は全くしなかったので、これは大鳥から何か言われたに違いない。清呼にとって一番影響力があるのは誰か、という事を改めて実感した。
さらにもう一つ、変化のきっかけと思えることが、あるにはあった。
それはつい最近の事。デボラからの紹介で、今時の保育所事情というテーマで月刊誌の連載が入ってきた。自分には全く接点のない分野なので辞退するつもりでいたが、だからこそ第三者的な視点に立てるだろうというデボラの勧めもあり、受けることにした。
そしてまずは基本情報を得るため、彼女が息子の信生を預けている保育所を見学させてもらったのだ。その時に、なんか面白そう、と清呼もついてきた。
園児が少なくなる延長保育の時間帯を選び、龍村は向こうで待っていたデボラと一緒に職員の話を聞いた。清呼は単に保育所を見てみたかっただけらしく、話が始まると信生や他の子供たちのところに遊びにいってしまった。
一時間余りの後、礼を言って帰りがてらに教室を覗くと、幼児に混じってひときわ図体の大きい子供が積み木遊びをしている、そう思ったら清呼だった。
「お前を預ける相談をしに来たみたいな感じだな」と呆れてしまったが、清呼は「楽しかったあ」とまだ遊び足りない様子だった。
なんでも清呼は幼い頃あまりにぼんやりしていたので、村の保育所から受け入れを拒否され、母親が仕事に出ている間は祖母に預けられていたらしい。その分を取り戻したいのか何か知らないが、いたく保育所が気に入った様子で、保育士たちからも「またいつでも遊びにきてね」と言われていた。
「そんなに気に入ったなら、将来保育士にでもなったら?」
ほんの軽い気持ちでそう言ったのだが、清呼は目を輝かせて「頑張れば何とかなるかも?」と前向きで、それは半年以上つきあって初めて聞く、具体的な将来への希望だった。
「言っとくけど、子供と遊ぶのが得意ってのと、子供の世話が得意ってのは違うからね」
そう釘を刺してはみたものの、実際この職業はなかなか清呼に合っているのではないかと思えた。男女どちらでもいけるし、何より子供好きだ。
新幹線で新大阪に着いてから地下鉄を乗り継ぎ、奈良の実家に着いたのはもう夕方だった。
大体これくらいの時間に着くと連絡はしておいたので、台所でごまめを炒っていた母親は「あらお帰り」というあっさりとした一言のみ。義父は替えの蛍光灯を買いに、近所のホームセンターに出かけていて留守だった。
いきなり手持ち無沙汰になってしまったので祖母の部屋を覗くと、こちらは座布団を枕に、横になってテレビを見ていた。龍村の顔を見ると喜んでゆるゆると起き上がり、年末いっぱいまで仕事して忙しいんだねえ、と、去年と同じことを言った。
実のところ祖母ともそんなに話すことはないのだが、年寄りは子供の話が好きだなと思いたち、清呼の話をした。
性別未定というややこしいところは端折り、能天気な男子高校生のアルバイトが居候、という事にしておいて、金魚をもらってきたり、猫を救おうと喧嘩したり、味噌汁にキウイを入れたり、洗面器でプリンを作ったり、サプライズ誕生パーティーを企画したり、そんな話をしていると、つくづくおかしな子供だと思った。案の定、祖母には大ウケで、お盆には連れてきて頂戴と言われた。
そんな事をしているうちに時間が経ち、帰宅した義父にも挨拶をして四人で夕食をとった。大晦日だから年越しそばね、と母親の言うことはほぼ毎年決まっていて、近所のスーパーで買ってきたそばに、これまた買ってきた海老天を投入して完成。あとは前の日の残り物などで適当に済ませる。母親にとって本番はやはり元旦で、それは何より兄夫婦が遊びに来るからだ。
食事の片付けが済むと祖母は部屋に引き上げ、母親と義父は出かける準備をした。
「これから陽一さんと初詣行ってくるから」
毎年こんな感じなので、はいはい気をつけて、と送り出す。祖母が先に風呂をすませて声をかけてきたので、龍村は自分もさっさと入浴し、こちらに置いてあるスウェットに着替えた。
あとは他にする事もないので、居間のこたつで寝転がってテレビを見ながら、新幹線で読みかけていた文庫本を開く。こうしていると東京での暮らしが嘘のように遠い。けれどここは、帰る家というにはあまりにもよそよそしかった。
小六の春に両親が離婚して、龍村はそれまで住んでいた神戸から母親の実家がある奈良に移った。母親がフルタイムで働くようになったので、龍村と兄の世話をしてくれたのは主に祖母だった。
母親は元々気性の激しい方だったが、父親役も兼ねるようになってから更にその度合いを増し、龍村たちを叱るときは怒鳴るだけでなく手が出るのは当たり前、時には蹴りも入ったし凶器も持ち出された。
四つ年上の兄はそれでも優等生で、滅多に母親の機嫌を損ねることはなかったが、龍村は下らないことでしょっちゅう母親の怒りをかった。そして、ただ怒られるならまだしも、母親には最終兵器ともいえる一言があった。
「あんたはそういうところがお父さんにそっくり」
これを言われると、龍村は怒りを通り越して殺意すら覚えた。
息子が父親に似るのは当たり前。なのに母親はそれを責める。
確かに父親は愛人との間に子供を作って妻子を捨てた最低男だが、それを言われると自分まで同じ過ちを犯すという呪いをかけられたようで忌まわしい。「うるせーくそババア!」とやりあっていると見かねた祖母が間に入って「違うよ、久は婆ちゃんに似たんだよね」と、とりなそうとする。
しかし祖母はいくらなんでも模擬テストの受験料をくすねてカラオケに行った後で友人の家に乗り込み、親父秘蔵の焼酎を飲みながら、これまた親父秘蔵のエロDVDを見たりはしなかっただろう。そう思うと己が情けなかった。
そして龍村は高校を卒業すると逃げるように東京の大学へ進学した。もうその頃には母親は義父と交際していて、龍村が大学に入ったら結婚すると宣言していたからだ。
幸いにも授業料と下宿代は義父が負担してくれたが、これはもう男同士の暗黙の了解と言ってよく、龍村は新婚夫婦の邪魔をしない代償として新生活を手に入れたようなものだった。
大人になった今、たぶん龍村の顔は以前よりもっと父親に似ているだろう。兄はというと、これはまた判で押したように母親そっくりだったが、その辺りがこの二人の仲がよい理由だろうと龍村は分析していた。
今、自分が毎年帰省するのは祖母に会うためだけだ。兄は年に数回は出張で上京してくるので会う機会もあるし、母親は正直なところ、自分の顔を見ても不愉快な記憶を呼び覚まされるだけだろう。
確かに最近では、母親の苦労も少しはわかる。全く反抗的でない清呼の生活指導だけでもけっこう振り回されるのだ、反抗期真っ盛りの馬鹿息子を女手一つで育てるのは生半可なことではなかっただろう。とはいうものの、十年近く放置してきた互いの間の溝をどうやって埋めればいいのか、龍村には見当がつかなかった。
テレビではすでに紅白が流れているが、あちこちチャンネルを回してみる。格闘技、お笑い、どれもいつか見たような内容で、とりたてて何の興味も引かない。
ふと思いついて琴美に電話してみようかという気になったが、大晦日は友達と集まって飲み会をすると言っていたので、そんなところに退屈を持て余した自分が電話するのも無粋に思えてやめた。
それからよっこらせと起き上がり、こたつの上の菓子鉢に盛られていたみかんを一つ食べた。そして何となくケータイを手にとり、かけなれた番号を選んだ。
五回コールが鳴り、夜の向こうから答えが返って来る。
「もしもし?」誰だか訝しんでいる声だ。
「ああ、清呼?俺だけど」
「なんだ!どしたの?」一気に声が弾む。
「いや、どうしてるかと思ってさ」
「真面目にやってるかチェックしてるの?全然大丈夫だからね」
「お前いちにち何してたの?」
「台所の掃除。ゴキブリの死体が五つも出てきたよ。それから年越しそば食べに行った。三軒回ってみたけど、全部違う味がした」
「それで今は?」
「チョコチップクッキー食べながら紅白見てた。龍村さんは何してんの?」
「こたつに入ってみかん食べてテレビをザッピング」
「いいなー!やっぱり冬はこたつだよね。ねえ、家の人みんな元気にしてた?」
「うん。婆さんがお前に会いたいってさ」
「本当?じゃまた遊びに行くね。ていうか東京に遊びに来ればいいのに」
実を言うと祖母からは清呼に、とお年玉まで持たされてしまったのだが、それを言うと舞い上がるので黙っておく。
「それでお前、明日とかどういう予定にしてるの?」
「うーん、初詣に行くでしょ?あとは涼子さんに借りたDVD見て、本読んで、お餅焼いて食べる。あ、まずお雑煮だね」
「お前んとこは何味の雑煮なの」
「カレー味?」電話の向こうでギャハハと笑う声が聞こえ、そしてしばらく、しんと間があいた。
「あのさ、出る前にバタバタして言えなかったけど」
龍村は少しあらたまった気持ちになった。
「今年は、って言っても四月からだけど、色々とありがとうな」
たった一人の部屋で、小さく息を吸い込む気配がある。
「なんかあれこれ怒ったりしたけど、それなりに感謝してるんだよ。給料安いし、年末には金一封さえ出せなかったけど、まあ、また来年もよろしく」
「こ、こちらこそ色々とありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします」
なぜだかぎくしゃくと敬語が返ってきた。
「あ、もうバッテリーがないわ、そいじゃ、戸締りちゃんとして寝ろよ」
「わかった」
そそくさと電話を切ったが、ディスプレイには十分な電池の残量が示されている。
何となくあのまま延々としゃべり続けてしまいそうだったが、その時間が長ければ長いほど、その後の孤独感が強くなるような気がして、適当なところで切り上げた方が向こうのためだと思えた。
清呼はテーブルに突っ伏していた。
しばらくしてゆっくりと顔を左に向けると、電話が目に入る。
電話してもらえるなんて思ってもいなかった。でもって、ありがとうと言ってもらえるなんて嬉しすぎる。自分からもたくさんお礼が言いたかったのに、胸がいっぱいになってしまって、お芝居みたいな変な言葉しか出てこなかった。
でもいい。龍村さんがほんの数時間でとても遠くに行ってしまったような感じがしていたのに、自分のことを思い出して電話してくれただけで十分だ。頬が熱いので、テーブルにくっつけているとひんやりして気持ちがよかった。
実は先月の酔っ払い事件からこっち、清呼の気持ちが百パーセント晴れた事はない。たとえアハハと笑っていても、心の隅にはいつも小さな棘のようなものが刺さっていて、時々ふいに痛むのだった。
それを感じると清呼は龍村さんを怒らせたり、大鳥さんを心配させたり、葵ちゃんと楓ちゃんをがっかりさせた事を思い出して溜息をつくのだった。おまけに毎年十二月はどうしてもテンションが下がってしまう。それはクリスマスのせい、というかあの歌のせいだった。
清しこの夜
最初この歌を聞いたときは、なんで自分のことが?と驚いたけれど、そうではなくてクリスマスをお祝いする歌なのだった。村の小学校の子供たちはみんな、この歌よりも先に清呼のことを知っていたから大した問題にはならなかったけれど、中学に進んでからが大変だった。
清呼の名前を聞くとまず誰もが「キヨシコ?清しこの夜のキヨシコ?」と反応するのだ。そして十二月に入ってそろそろクリスマスという時期になると、周りで大合唱してからかわれるというのが毎年続いて、清呼はすっかりクリスマスが嫌いになってしまった。
そんなわけで今年のクリスマスはデボラさんから遊びに来ないかと誘われたのに、学校の用事があるからと嘘をついて断ってしまった。葵ちゃんからは「つまんない」と言われるし、龍村さんからは「自分が主催してパーティーやりたがると思ってた」と驚かれた。
まあとにかく、そうやって最悪の時期をやり過ごすと、あとはお正月の準備になる。すると清呼は俄然元気になって、村にいた頃は神社の仕事をたくさん手伝っていた。
そろそろ今頃は神社にも人が集まって来てるだろうか。
さっきテレビで見た天気予報では、村のあたりは雪らしかった。東京では今年はまだ雪が降っていないけれど、あっちはもう何度か降っているらしい。新年の雪は縁起がいいとパパが言っていたから、みんなきっと喜んでいるだろう。
清呼はようやく身体を起こした。そして立ち上がると窓を開けてベランダに出た。
外の空気は刺すように冷たいけれど、雪が降る前のような寒さではない。
素足からベランダのコンクリートがどんどん熱を奪っていく。風が少し吹いていて、街からは色々な音が混ざり合った大きなうねりのような響きが絶え間なく聞こえてくる。神社で過ごす夜はいつもしんと静かで、小さな動物が木の枝を揺らす音さえ聞こえそうだったけれど、東京の夜はいつもこんな音に包まれている。でも清呼はこの音が嫌いではなかった。
よく耳を澄ますと、その大きな響きは幾つもの小さな音に分かれていく。流れ続ける車の音、人の足音、自転車のブレーキ、救急車のサイレン、誰かが聞いている音楽。その中に懐かしい人の声を聞いたと思う瞬間もある。
今年は色々ありがとう。
耳の底に今も残る龍村さんの言葉。それは清呼が一番言いたかったことだ。そして龍村さんだけでなく、今年出会った人たち、今年会えなかった人たち、もうこの世では会うことが叶わない人たち、みんなにその言葉を伝えたいと思いながら、清呼は裸足でずっとベランダに立っていた。
十三 病院なんか行かない
水色の封筒をポストに入れると、一瞬間があってカサっという音がした。
これでようやく任務完了。龍村さんがお婆ちゃんから預かってきたお年玉をもらってからもう一週間、ずっとお礼の手紙を書こうとしていたのに、いざ机に向かうとどう書いていいか判らない。
まずはお年玉をどうもありがとうございました、でいいんだけれど、問題はその後だ。
実のところ、書きたいことは山ほどある。清呼はとにかくどれだけ龍村さんに親切にしてもらって、どれだけ龍村さんのことを好きかを書き連ねたいのだけれど、あんまり気合を入れすぎるのも変だ。
毎日少し書いてはやり直し、全部書いて読み直してはまた破って、いい加減にしないと返事が遅すぎる、と決心して、昨日の夜ようやく便箋二枚にまとめたのだった。はっきり言って学校の進路アンケートよりもずっと真剣に書いた。
「ねえ清呼、あとはどこ行くの?」
ポストの前でほっと一息ついていたら、葵ちゃんが腕を引っ張った。
今日はデボラさんと一緒に事務所まで来たけれど、デボラさんは龍村さんと話があるという事で、葵ちゃんだけ清呼と出てきたのだ。
「えーと、あとは百均とドラッグストアで完了」
清呼はメモ帳を見ながら確認した。葵ちゃんならこれくらい、暗記してすいすいやっちゃうだろうな。
天気のいい午後で、事務所の近所の商店街は買い物の人で賑わっていた。いつも行く百均でB4の封筒とガムテープを買って、その近くのドラッグストアに入る。
「何の薬買うの?」
「えーと、風邪薬と胃薬」
清呼はコートのポケットからもう一度メモ帳を取り出した。ちゃんと銘柄指定されているから間違えちゃ駄目だ。
「龍村さんの?」
「うん、風邪ひいたんだって。でもって胃が痛いらしくて」
「お医者さん行かないの?」
「忙しいから無理なんだって。すごい心配なんだけど」
「うちのお父さんもそんなだよ。医者なんか行っても早く治るわけじゃないし、だって」
「うわ、龍村さんと同じこと言ってる。なのに夜遅くまで仕事してたりするでしょ?」
「うん。わけわかんない」
頼まれていた薬は二つともすぐに見つかった。レジでお金を払って完了。それから事務所に戻るつもりだったけれど、清呼は少し気が変わった。
「ねえ、そこでケーキ食べていかない?お年玉もらったところだからおごっちゃう」
葵ちゃんがすごく嬉しそうにうなずいたので、二人でケーキ屋さんに入った。入り口にあるショーケースでじっくりと何を食べるか選ぶ。
ここのケーキは一つ一つが小さくて値段も安いから、大体三つぐらい選ぶとちょうどいい感じで、その分どういう組み合わせにするかが難しいのだ。
清呼は散々迷って、結局チョコレートケーキとカシスのムースとオレンジ風味のベイクドチーズケーキにした。葵ちゃんはリンゴのタルトとモンブランと苺のロールケーキ。二人とも飲み物は紅茶だ。
ケーキが三つもあると、食べる順番も難しい。でも選んだ通りにチョコレートケーキから食べていると、葵ちゃんがちょっと真剣な顔で言った。
「ねえ清呼、今日お母さんが何の用事で龍村さんに会いに来たか知ってる?」
「ん、知らないけど、大事な話?」
「あのさ、お母さん、また赤ちゃん生まれるんだよ」
「本当?」
思わず大声で叫んでしまった。
「それって四人目だよね?い、いつ生まれるの?」
「五月の終わりぐらいだってさ」
そういえば去年の夏、清呼は葵ちゃんたちを預かっていたのでデボラさんにはしょっちゅう会っていたけれど、やっぱり関係あるんだろうか?
「四人きょうだいかあ。楽しくなるね。おめでとう!」
ところが、葵ちゃんは口をとがらせている。
「おめでたくなんかないよ。お父さんは四月から広島の大学で先生になるから、一人だけ向こうでアパート借りるんだよ。単身赴任っていうんだ。でも、お母さん一人で赤ちゃん産んで育てるなんて大変すぎる。そりゃ葵だってお手伝いはするけどさ、楓も信生も頼りになんないし」
「それは大変かも」
「それにね、信生が生まれた時は、お母さんのお腹を切る手術したんだよ。帝王切開っていうんだ。今度もまた同じことになったら、お母さん可哀相じゃない」
清呼はすっかり自分が責められているような気持ちで、葵ちゃんの話を聞いていた。
「でも葵が一番思うのは、どうしてもう一人生まれるのかって事かな。上が女の子二人で、やっぱり男の子がほしいから信生が生まれたのは判るんだけど、さすがに四人は多すぎない?うちはそんなに広くないし、お金もあんまりないと思うんだけど」
「うーん、でもきっと男の子も二人ほしかったんじゃない?お父さんが留守で大変なら、僕も手伝いに行くからさ、何とかなるよ」
葵ちゃんはそれでもまだ納得いかない感じで、眉間に皺を寄せたまま紅茶を飲んでいた。
事務所に帰ると、龍村さんとデボラさんはもう話を終わっていて、何となく気まずい雰囲気がただよっていた。そしてデボラさんは葵ちゃんとすぐに帰ってしまって、後には龍村さんと清呼が残された。
薬代は事務所の経費とは別なので、清呼は預かっていたお金のお釣りとレシートを添えてドラッグストアの袋をテーブルに置いた。龍村さんは「ありがと」と少しかすれた鼻声で言ったけれど、すごくぼんやりした感じだったので、清呼は思い切って訊ねてみた。
「デボラさん赤ちゃん生まれるって本当?」
「葵に聞いたのかよ」
「うん」
「全くなあ・・・」
龍村さんは困っているみたいだった。
「このご時世に四人も産むのは立派だとは思うけど、仕事の方はどうフォローするかなあ」
清呼は心配していることを聞いてみる。
「僕のせいだと思う?」
「さあねえ。それは自分の方がよく判ってんじゃないの?」
それだけ言うと、龍村さんは薬を飲みにキッチンへ行ってしまった。
清呼は忘れないうちに小口経費のノートをつけようと思ったものの、頭の中はデボラさんの赤ちゃんのことでいっぱいだった。
葵ちゃんも龍村さんも心配ばっかりしているし、デボラさん本人もあんまり嬉しそうな顔はしていなかった。けれど清呼はその赤ちゃんに一日も早く会いたい。どうしてそう思うのか、自分でもよくわからない。もしかしたらそんな事を考えるから、神様が赤ちゃんを連れてくるのかも知れないけれど、それはやっぱり何か素晴しいことに思えるのだ。
胃が痛い。頭が痛い。喉も痛いし体中が痛い。
帰省から戻る新幹線でもらった風邪が一向に治らず、市販の風邪薬を飲んだら今度は胃をやられた。もともと龍村はストレスや身体の疲れが胃を直撃するたちなのだが、そうやって辛い思いをしているうちに別の衝撃が来た。デボラが五月の末に第四子を出産予定だという。
たしかに既婚女性がいつ妊娠して出産してもおかしくはないのだが、すでに三人の子持ち、自身が本職のほかにバイトを掛け持ちしているという状況で、こういう決断があるとは想像していなかった。
それともやはりこれは清呼というか、清呼についている神様の為せる業だろうか。
とにかく時が満ちれば子供は生まれる。そのあいだデボラの抜けた穴をどう埋めるか?たとえピンチヒッターが見つかったとしても、その後の復職はすんなり行くのだろうか。
デボラによれば、ずっと非常勤だった夫が広島の大学で准教授のポストを得て、四月から単身赴任でやってみようと話し合った矢先の妊娠発覚だったらしい。そのうち一家で夫の赴任先に同行するかもしれないし、先は全く不透明だ。
そういう事を考えていると、風邪もさることながら、胃がしくしくと痛んだ。どちらも十分に休養をとれば二三日で治るのだが、仕事がたてこんで休む暇がない。しかもデボラの話を聞いてからは、売上が少ない自分が頑張らねば、というプレッシャーで焦るのだった。
例の保育所がらみの連載の初回締め切りは月末に控えていて、その準備は待ったなし。
まず最初に取材を予定しているのが、元厚労省の官僚で、三十代で退職してNPOの「待機児童ゼロの会」を立ち上げているという人物だった。彼は非常に多忙で、おまけに名古屋在住なので取材は一日がかりだ。アポはもう明日にせまっているし、人づてに紹介してもらったのをこちらの都合で変更などありえない。
胃は薬を飲んで二、三時間もすると再び痛み始めるし、鼻は詰まりっ放しで頭が果てしなく重い。おまけに昨夜から喉が痛くて食事もままならず、これは扁桃腺に来たかなと思っていたら今日はとうとう四十度近い高熱が出た。
清呼はそばにまとわりついては、「お願いだから病院に行ってよ」と涙目で繰り返すがそれも煩わしく、スポーツドリンクと解熱剤を買って来させてまとめて飲み、明日はとにかく這ってでも名古屋へ行く、来られた相手が困惑しようが何だろうが、取材だけはすると決意して早々にベッドへ倒れこんだ。
高熱の数少ない長所は、やたらと眠りが心地よいことだ。そして立て続けに夢を見る。
もう忘れかけていた幼い頃の友達。クラスで一番小柄で色黒の坊主頭。学校ではほとんど口を開かないのに、ある日突然古びた木造アパートの自宅に龍村を連れて行って、ベランダの水槽に銭亀を五匹も飼っていたのを一匹わけてくれた。
それから自分の飼い犬、茶色い雑種のモコ。
母親の実家に引っ越して、初めてできた友達の家で生まれた子犬だ。暖かくて柔らかくてまるでぬいぐるみのようで、一度抱き上げたらもう離したくなくなった。連れて帰ったら母親がぶち切れて、こちらはハンスト。結局祖母が飼うという名目で育てていた。
そばにしゃがむと必ず顔中を舐め回して、腹の立つことも悲しいことも、みんな自分が引き受けようとしてくれているみたいだった。
それから大学時代の下宿に現れた黒猫。
たぶんどこかの飼い猫だろうが、ひとり黙々と食事をしているといつの間にかベランダに現れ、ちくわの切れ端など投げてやるとおいしそうに食べた。寒い季節にはちゃっかりとヒーターのまん前に居座り、満足すると気まぐれな恋人みたいにぷいと出ていった。
そんな切れ切れの夢を見て、合間にふっと目が覚めた。
夜中に水を飲みたくなった時のために、ベッドサイドのスタンドを小さくつけたままにしていたが、その明かりにうっすらと照らされて、清呼が自分の顔をのぞきこんでいる。
ここ数日の心配そうな様子でもなく、かといっていつもの笑顔でもない。なにかを真剣に考えているような、痛みをこらえているような顔をしていた。
お前一体ここで何してんの?
そう言おうとしたが、声が出ない。清呼はすっと手を伸ばすと、龍村の瞼を軽く押さえた。
「起きちゃだめ。眠ってて」
相変わらず暖かい手だ。こっちだって熱があるというのに、それに負けないぐらいの。そして何故だか同時にとても涼やかだった。まるで全身の熱をその手が集めて取り払ってしまうような、そんな感じを味わいながら龍村は再び、こんどは夢のない眠りに落ちていった。
翌朝目覚めると、数日来の不快感が嘘のように消えていた。
計らなくても熱が下がった事は明らかで、胃は痛むどころか空腹を訴えている。昨夜のあれが峠で、まとめて飲んだ薬が一気に効いたのだろうか?
とやかく考えている暇もないので、急いでシャワーを浴びて服を着替えると荷物を持つ。清呼はまだ寝ている様子だったので、頼みたい仕事をテーブルに残して家を出た。
名古屋には昼前に着き、午後一番のアポだったので軽く食事をしながら資料に目を通してから、相手の事務所を訪れて取材に入った。
噂ではなかなか気難しい人物と言われていたが、会ってみるとたしかに眼光鋭く少々皮肉屋という印象はあるものの、いい加減なことをしないと自分に約束しているのは言葉の端々から伝わってきた。途中で何度か不意の来客や電話で中断したが、結局予定の時間を一時間もオーバーして色々と話を聞かせてくれた。
その後で他のスタッフが、直接運営しているという保育所を案内してくれた。そこでも職員に話をきき、写真など撮らせてもらう頃にはもう保護者が子供たちを迎えにくる時間になっていた。
せっかく名古屋まで来たのだからと、清呼のために駅で手羽先を買い、日帰り出張の乗客で混み合う新幹線で東京に戻った。
行きつけの定食屋で夕食をすませてから事務所のマンションに帰ると、リビングは真っ暗だった。
清呼は出かけているのだろうか?テーブルの上には朝残していった仕事が手付かずで置いてある。仕事をすっぽかして外出など今までにはなかったことだ。
奇妙に思いながらもまず洗面所で手を洗い、薬を入れて真剣にうがいをした。普段なら気にもしないが、今ここで風邪の再発だけは絶対に避けたい。そしてうがい薬のキャップを閉めようとしたら、手が滑って落としてしまった。
ああもう面倒くさい。そう思いながら四つんばいになって洗面台の下を探す、ふとそこにあるゴミ箱を覗き込んで息を呑んだ。
べったりと血がついたティッシュペーパーが、無造作に何枚も捨ててある。
血はすでに乾いて色が変わっていたが、半端な量ではないと思えた。よく見ると床にも血痕を拭いた痕が点々と残っている。慌てて立ち上がろうとして洗面台でしたたか頭を打ったが、とにかくそのまま清呼の部屋のドアを叩いた。
「清呼?入るぞ」
そう断ってから中に入り、明かりのスイッチを入れた。清呼はベッドで丸くなって眠っている。腕を軽く叩いて起こすと、清呼はぼんやりと目を開き「もう朝?」と言いながら身体を起こした。
「朝は通り越して夜。お前ケガでもしたの?洗面所に血のついたティッシュが捨ててあったけど」
以前の清呼なら「月面経済新聞」とか言いそうなところだが、寝起きで頭も働かないのか「ちょっと鼻血が出ただけ」と答えた。
あらためて顔をよく見るとまだ少し血がついているし、着ているTシャツにも血痕がある。
「ちょっとどころじゃないだろ。それにお前、顔色真っ青だぞ。昼間もずっと寝てたのか?」
「そうかも。何か仕事あった?」
「別に急ぎじゃないからいいけどさ」
気になってそばにあったゴミ箱を覗き込むと、悪い予感は当たって、そこにも大量に血染めのティッシュが捨ててあった。
「そんなにいっぱい鼻血が出るなんて普通じゃないよ。どっか悪いんじゃないの?」
「大丈夫、全然平気」
そう言いながらもベッドから出てこないところを見ると、自分が立ち去ったら即座に横になるつもりらしい。
大量の鼻血といわれて、思い当たるのはどれも予後のよくない病気ばかりだ。毎日元気で食欲も旺盛なので健康状態にはほとんど気を配っていなかったが、知らない間に病気が進行していたとしたら取り返しがつかない。
「龍村さんは、風邪治った?」
きかれてはっと自分の事を思い出した。昨夜はこっちが死にかけていたのに、今は立場が逆転、しかも自分の病気は刃物で切り落としたようにすっきりと治っていた。
「お前さ、何か隠してることない?」
そう言ってベッドに腰を下ろす。
「ないよ」
「昨日の晩、俺の部屋に来てただろ?」
「すごい苦しそうだったから様子見に行ったんだよ。でもちゃんと寝てた」
「それじゃ聞くけど、なんで俺がいきなり治ってて、お前が急にぐったりしてるわけ?」
「そんなの関係ないでしょ。龍村さんは自分で薬飲んで治ったんだし、僕は別にぐったりなんかしてないから」
確かに、そこに因果関係をみるには飛躍があるのだが、無関係と片付けるのも納得がいかない。
「とにかく、明日朝イチで病院に行こう。みてもらって何ともなければそれでいいだろ?」
「嫌だ、絶対行かない。何ともないのに行く必要ない」
「馬鹿、何ともないわけないだろう」
「じゃあなんで龍村さんは病院に行かなかったの?僕があれだけお願いしたのに」
「そりゃお前、風邪なんて寝てりゃ治るんだよ」
「だったら僕も行かないから」
全くこいつは変なところで強情だ。龍村は腕組みをした。
「行かないと言い張っても、それなりにイエスと言わせる方法はある。たとえばそいつを誘拐するとか」
言われた途端に清呼は、ウサギのポンキチを布団の中に隠し、上目遣いにこちらの出方をうかがう。
「でなければ、お前を椅子に座らせて、それから縛り上げて動けなくする」
「そのくらい平気」
「どうだか。それから板こんにゃくをお前の頭の上にのせるんだ。しかし俺も鬼ではない。まず最初は袋に入れたままのをのせる」
清呼はじっと黙っていた。
「それでもイエスと言わなければ仕方ない。こんどは袋から出して、濡れてるのを直接頭にのせる。それでも駄目ならもう背中に入れるしかないな」
「やめてやめて!気持ち悪くなってきた。なんで人が具合悪いのにそういう意地悪なこと言うの?」
「ほら、やっぱりしんどいんだろ」
あっさり体調不良を白状した清呼は、しまった、という顔でこちらをにらんでいる。
「ただ、ちょっとだるくて眠いだけだから。あと少し寝たらまた元気になるんだよ」
「放っておいたらどんどん悪化するかもしれないだろ」
「かまわないで。とにかく病院には絶対行かない。判ってるんだよ、どうせみんな僕の身体がどうなってるのか不思議でしょうがないんだから。病院なんか行ったら何この人って言われて、色々きかれて、検査されて。そんなの絶対に嫌だ。もしどうしても病院に連れて行くって言うなら、そこの窓から飛び降りて死ぬ。それに失敗したら道路で車にひかれるか、地下鉄に飛び込んでとにかく死ぬ。死ぬのなんか全然怖くないから」
一気にそうまくし立てられ、龍村の方が返す言葉を失った。
「でもそれじゃ死体が残っちゃって、またそれを調べられたら嫌だからさあ、死ぬときは白骨死体がいいんだよね。青木ヶ原の樹海で男女不明の白骨を発見、なんて感じが理想だな」
「馬鹿なこと言うな」
とりあえずそうは言ってみたものの、思いがけず熱湯に手を突っ込んでしまったようなショックが消えない。清呼はふてくされて膝を抱えたままじっとしていた。
「とにかく熱はないんだよな」
額に手をあててみるが、むしろ冷たいぐらいだ。それから両手を頬にあてて下の瞼を引っ張ってみる。
「かなり貧血なんじゃないの?」
清呼は不思議そうにされるがままになって「お医者さんみたいなこと言うね」と呟いた。
「いや別に。犬飼ってたからかな?」
「犬?」
「そう。獣医さんに予防注射に連れてったらさ、時々こんな感じで健康チェックしてやると、長生きするって言われたんだよな」
「あとは何するの?」
「蚤がいないかこうやってみて」
髪の毛に指をつっこんでかき分けてみる。
「それから耳もポイントだな。金の貯まらなさそうな耳をしてる」
小さな両耳を軽く引っ張る。
「あとは歯並びか、これも問題なしだね」
軽く上唇を持ち上げてやると、清呼はようやく少しだけ笑みを浮かべた。
「でしょ?だからやっぱり大丈夫だって」
「駄目だね、鼻が乾いてるから」
そう言って鼻をつまんでやったら、ケラケラと笑った。これだけ笑える余裕があるなら、まだ元気なんだろうか。
「そんなに言うなら仕方ないけど、もし意識不明になったりしたら強制的に病院に送り込むから、その時は恨むなよ」
「絶対に意識不明なんかならないから」
「それを祈ってるけどな」
そして龍村は立ち上がり、おやすみと一声だけかけて部屋の明かりを消した。ドアを閉めようと振り返ると、清呼はもう布団にもぐってしまっていた。
とにかくこの事は大鳥に相談すべきだが、とりあえず近々焼肉屋にでも連れて行って、レバーでも食べさせようと思った。
十四 悲しいチャンス
最近楽しみなのは、大鳥さんの赤ちゃんとバレンタインのチョコレート。
清呼は少し時間ができると、大鳥さんの家に赤ちゃんを見に行く。名前は玲奈ちゃん。クリスマスの少し前に生まれて、もうすぐ二ヶ月。ただ遊びにいくのでは迷惑なので、行く前にお母さんの澄香さんに連絡して、買い物を手伝うようにしていた。
会いに行くと、赤ちゃんは眠っていたり泣いていたり。抱かせてもらうと暖かくていい匂いがした。黒く濡れた瞳は清呼のことをじっと見つめて、時々ふんわり笑ったりしてくれる。
「清呼は本当に赤ちゃんが好きね」
澄香さんはいつもそう言って笑う。
そしてバレンタインのチョコレートの方は、まず自分が食べる分。
予算に限りがあるので、デパートのチラシや雑誌の特集なんかをよく調べて、一番よさそうなのを二種類買おうと思っている。
それからもちろん、大鳥さんと龍村さんにプレゼントする分。しかし龍村さんの分は注意が必要というか、あんまり気合を入れすぎると不自然なので難しい。
涼子さんに相談したら、「お金の無駄」と一言で却下だったけれど、いくら自己満足だといわれても、気持ちとして受け取ってもらいたいのだ。
ところがこの前、涼子さんから電話がかかってきて、ちょっと話があるからと、土曜のランチに誘われた。
何でもホテルのバイキングらしくて、涼子さんの行くところだから相当おしゃれな場所に違いない。となると清呼も日頃の努力の成果を発揮せねばという気持ちになって、特別女子仕様で出かけることにした。
メイクをちゃんとして、髪もきれいにブラシしてワックスをつけて、フリーマーケットで買ったピンクのセーターにチャコールグレーの膝上スカート、その下は黒いスパッツで足元はスニーカー。首には赤いチェックのマフラーを巻いて、最後はいつも着ている龍村さんにもらったコートだ。そしてこれまた龍村さんに無理やり買ってもらった指輪をはめて完成。
「うーん、まあ六十五点ってとこかしらね」
ホテルのロビーで清呼の姿を見るなり、涼子さんは辛口ファッションチェックに入った。
「どこ行くにもそのコート着てくるんだから。客観的に見てアンバランス。まあ要するにあんたの心がアンバランスって事だけど。あとはそのスニーカーね。それ男の子の時に履いてるの、そのまま使いまわしでしょ?」
「もっと可愛いの買わないと駄目かな」
「どうせ買うならブーツの方が似合うわよ。またはバレエシューズとか。セーターの色はチェリーっぽくて可愛いけど、ちょっとくたびれててフリマの貧乏感が拭えない。スカート丈はもう少し短くてもいいんじゃない?男はね、案外見てるよ、脚を」
涼子さん自身はいつものパンツスーツじゃなくて、黒いタートルネックのセーターにタイトスカートとブーツ。胸元には真珠をあしらったペンダントが光り、腕に掛けているグレーのコートはカシミヤらしい。
そして二人はランチバイキングの行われているカフェレストランに入った。中央のテーブルには、様々な料理が並んでいる。
前菜やサラダの隣にはピザやパスタ、その向こうには一口カツやローストビーフといった肉料理。更に色とりどりのフルーツやケーキも目に入る。清呼は見ているだけでわくわくしてきた。
「まあ大食いのあんたには関係ないだろうけど、山盛りに料理をとって食べ残しなんてのはもう来る資格ないわよ」
涼子さんはまず前菜として海老とホタテのテリーヌとスモークサーモン、セロリとイカのマリネに生ハムとパパイヤといった料理からとってゆく。清呼もだいたいその真似をして、量だけはたくさんとった。
そして一通りの料理を全て食べ終え、あとはデザートを楽しみましょうという時になって、涼子さんはいきなり「胸元が寂しすぎるわ」といった。
「何かアクセサリーつけた方がよかった?」
「それもあるけど、平らすぎるわね。ニットだと身体のラインが出るから余計にね。嘘でもブラつけてみたら?」
「それはちょっと・・・」
「ずいぶん印象変わると思うんだけどね。女でもほとんど平坦な人って、けっこういるのよ。でもそんなのは厚手のパッド入れたブラで何とかなるし。他にもいろいろ、優れものもあるからね」
からかっているのかと思ったけれど、涼子さんはいたって真剣だ。
そういえば今日はそもそも何の話で呼び出されたのか、ランチバイキングに夢中でまだ聞いていなかった。
「ああ、それね」と、涼子さんは更に真顔になる。
「こないだ、人に誘われて、日本酒を楽しむ会ってイベントに行ったの。そしたら琴美さんが来てたのよ。それも男の人と。といっても龍村くんじゃないわよ。金曜の夜だったし、仕事の流れって感じでもなかったわ。お連れの人は龍村くんよりオシャレで、もっとお金持ってそうで、おまけにやたらとボディタッチ。琴美さんもなんか楽しそうでさあ。私、思わずトイレまで後つけてって、偶然なふりして、あら、今日は龍村くんとは一緒じゃないの?って、言ってやったわ。彼女、かなり慌てた顔してたけどね」
「それって、どういう事?」
レモンのムースにとりかかっていた清呼は、今ひとつ納得がいかなかった。
「まあ要するに、浮気の可能性よ」
涼子さんはブラックコーヒーを飲むと、スプーンでクリームブリュレの表面をぱりぱりと割った。
「でもそのことと僕、じゃない、私を呼び出したことと、どういう関係があるの?」
「馬鹿、これってチャンスじゃないの」
「チャンス?」
「あの二人は近いうちに別れるかもね。下手したらもう別れてるかも。そしたら清呼にも出番が回ってくるかもしれないじゃない」
「でもそれって、龍村さんがふられちゃうって事でしょ?かわいそうじゃない?」
「あんた本当におめでたいわね。椅子取りゲームしたことないの?今このチャンスに乗じて早いとこ椅子を確保するのよ。適当にごまかして、女の子になっちゃったって宣言しちゃえばいいじゃない。実際どうなるかは出たとこ勝負で。ただし、椅子のとり方には十分気をつけて。くれぐれもさりげなく、別にそんなつもりじゃなかったけど、気がついたら座ってた、ううん、無理やり座らされた、ぐらいの上手なやり方でね」
清呼もスプーンを持って、クリームブリュレの表面にぱりんとぶつける。ガラスのような砂糖の板だけをすくって口に入れると、甘くて苦い味がした。
龍村さんには琴美さんという彼女がいるから、今までずっと秘密にしてきた自分の気持ち。二人が別れるからってそれをいきなり大声で叫べるかというと、そうではなくて、むしろもっと隠してしまいたいような気がする。
お互いが好きだった二人が別れるのは悲しいことなのに、それをチャンスって思うのは何だか複雑だ。
「ぼやぼやしてたら駄目だからね。龍村くんあれでけっこう女好きだから、案外さっさと新しい彼女作ったりするかもしれないわよ」
清呼はバニラの香りがする甘いカスタードを食べながら、黙って小さくうなずいた。涼子さんはちょっと呆れた様子で清呼の頭を軽くたたく。
「何よ、気後れしちゃってるのね。私だって、子供相手にわざわざこんな事を報告するのは馬鹿みたいって思ってるのよ。でも本当のところ、自分にとって大事な人に出会うその時がいつなのかは人それぞれだもんね。それが十歳でも五十歳でも全然おかしくないわ。だからまだ何歳?十六の清呼にとって、今この時が人生最大の踏ん張りどころかもしれないし、一応話しておこうと思ったの。ま、ただの甘酸っぱい十代の思い出って奴に終わるとは思うけどね」
「涼子さんは自分の、その時、ってのはわかったの?」
「わかってたら今ごろもう結婚して、子供産んでるわ」
「じゃあ、まだその時じゃないの?」
「さあね。見送りツーストライクぐらいじゃない?つぎ逃したらおしまい」
涼子さんって口は悪くても清呼にはけっこう優しいのに、どうして自分についてはこんな風に突き放した言い方をするんだろう。
「そうだ、大鳥さんの赤ちゃんの写真見る?」
あまりにもびっくりする話だったので、もう少しで忘れるところだった。清呼はショルダーバッグからケータイを出して、涼子さんに玲奈ちゃんの写真を見せた。でも「はーん」と、まるでそっけない。
「あんまりわくわくしない?」
「私ね、多分自分の産んだ子供しか興味ないから」
「え、そうなの?!」
「女失格とか母性本能壊れてるとか言われてもね、他人の赤ちゃんなんかどうでもいいのよ。そら目の前に実物持ってこられたら、社交辞令で可愛いとか言うけどね。本音はどうでもいい。多分、赤ちゃんよりも、その母親が苦手なのかもね。ほら私の赤ちゃんすごいでしょ、可愛いでしょ、って、傍から見たら全部タダの赤ん坊だし。おまけに、ママになってから環境問題に敏感になりました、とか、それまでが鈍感すぎたのに己が最先端みたいな勘違いしてる奴らは本当に苛立つわ」
涼子さんのぼやきスイッチが入りかけたので、清呼はあわててケータイをしまった。でも、そう簡単には止まらない。
「年賀状にデカデカとガキの写真が入ってる奴も全然喜べないしね。清呼こそ、なんで他人の子供にそこまで盛り上がるわけ?」
「うーん、単純に、可愛いから?」
そんなに真剣に考えたことなかった、自分が赤ちゃんを好きな理由。
それは何ていうか、別の世界からやって来たからかもしれない。清呼から見ると赤ちゃんはみんな別の世界のことをまだ憶えてるみたいで、一番知りたい秘密を知っているように思えるのだ。
誰が自分をこの世界に連れてきて、こんな風に生きることを決めたのか?でも赤ちゃんはまだ人間の言葉を話さないから、秘密は謎のまま。清呼はそれでもやっぱり赤ちゃんがいると、じっと見つめずにはいられない。
ホテルを出て、涼子さんと別れてから、清呼はチョコレートを買いにデパートへ行った。バレンタイン前最後の週末なせいか、特設売り場はもう満員。生チョコなんか溶けてしまいそうなすごい熱気だった。それでも何とかお目当てのチョコを買って、帰った頃にはすっかり疲れ果てていた。
龍村さんは出かけていて、すでに夕暮れのマンションは薄暗くてがらんとしていた。
やっぱり今日も琴美さんに会ってるんじゃないのかな。そう思いながらチョコの入った紙袋をテーブルに置いて、清呼はまず最初に冷蔵庫を見にいった。
また鶏肝煮が入ってる。
先月、龍村さんが風邪ですごい熱を出してるのに、次の日どうしても名古屋に行かなくてはならなかったので、清呼はお鈴婆さんに習った方法を使ってこっそり病気を治してあげた。ところがどうも頑張りすぎてしまったのか、盛大に鼻血が出てなかなか止まらず、使ったティッシュペーパーをちゃんと片付ける前にうっかり眠ってしまったので、龍村さんに気づかれてしまったのだ。
なんとか病院行きはごまかしたけれど、その何日か後に焼肉屋に連れて行かれて、焼きレバーを食べさせられた。そんなもの初めてだったので、ゲッ、何じゃこりゃ!と思ったけれど、食べてみたら案外おいしかった。
で、それからというもの龍村さんは時々清呼をつかまえて、あっかんべーと下瞼を引っ張ると、「まだ駄目だな」と渋い顔になって、商店街の惣菜屋さんで鶏肝煮を買ってくる。
それは今も続いていて、何日かおきに冷蔵庫には鶏肝煮が補充されていて、それは清呼に食べろという意味なのだ。
龍村さんにつかまって、あっかんべーとされていると、清呼は嬉しいような切ないような気持ちになる。ずっとこんな風に心配してもらえればいい、でもそんなに気にかけなくていいのに。
実のところ、あの鼻血事件以来なんだかずっと身体がだるくて調子が出ない。
今日だっていくら人が多いからって、デパートでチョコ買ったぐらいでここまで疲れなくてもいいのに、しばらく横になって眠りたい。これがお鈴婆さんの言ってた「寿命が縮む」って奴だろうか。でもまあ、龍村さんのピンチを救うためなら、寿命ぐらいいくら縮んでもどうってことないのだ。
十五 眠すぎる春
三月も半ばを過ぎ、風はまだ冷たいとは言え、日差しは随分と暖かみを増した。
昼休みのオフィス街はブラウスにカーディガンといったOLがちらほら歩いていたりして、一足先に本格的な春を迎えたような雰囲気がある。しかしそんな辺りの様子とはうらはらに、龍村の気持ちは重く沈んでいた。
この一月ほどの間に、自分とその周囲で立て続けに起きたトラブル。
きっかけはやはり琴美の事だろう。それは二月、赤井からの電話が発端だった。
「こないだミーティングでも言っといたけど、俺、しばらく旅行に出るから。アメリカの友達に会いに行ってくるわ。仕事は全部片付けてあるけど、メールとか全部転送しといて。オープンチケットなんで、戻りの予定はまた連絡するわ」
事務所ではお互いの仕事に支障を来さない限り、仕事のスケジュール取りは各自に任せている。だからいつ休んでどこへ旅に出ようと別にかまわない。
龍村は了解と答えて、確認の必要な用件を幾つか伝え、出発までに連絡するよう言った。
「大丈夫、たぶん明日には返事できるよ。それはそうとさ、こないだ涼子様から気になる話を聞いたよ。日本酒の試飲会みたいなイベントに行ったらさ、そこに琴(こと)美(み)ちゃんが男連れで来てたって」
「へえ」
「何だ、驚かないの。夜だよ、酒飲む場所だよ」
「そりゃ少しは驚いてるけど、どういう経緯かわからないし、何とも」
「いい雰囲気だったらしいけどね。龍村くん、ぼんやりしてたら捨てられるよ」
からかうようにそれだけ言って電話は切れたが、情報源は涼子ではなく琴美本人であることは明らかだ。
涼子はうわべこそ赤井とくだけた口をきいているが、本心ではかなり嫌っていた。あの人って、揉め事起こして楽しむところあるでしょ?というのが、以前からの一貫した見解だった。
そうは言っても、赤井の仕事の腕は速くて確実。揉め事云々はプライベートでの問題だと割り切ってこれまでやってきた。そこへついに自分の番が回ってきたのか、というのが実感だ。
たぶん琴美は実際に別の男と出かけて、そこで涼子に出会ったのだろう。それを相談された赤井が自分に探りを入れている。今まで赤井の周囲で起きた小さな揉め事を思い出せば、大体のからくりは見当がついた。
奇妙なことだが、赤井に対して腹も立たず、苛立ちもせず、虚しさだけを感じた。
去年の秋に清呼を連れ出して泥酔させた時には相当な怒りを感じたし、文句も言ったが、彼はどんなトラブルを起こしても平然として謝りもせず、適当にかわし続けて全てをうやむやにしてしまう。
他の人間がそうやってあしらわれるのを見ていた時には、みんな手ぬるいもんだと思っていたが、自分も結局彼のペースに巻き込まれ、己の感じている怒りや不快感を理解させること自体、不可能だと納得せざるをえなかった。
ある意味で赤井はとても無邪気だし、また悪魔のようでもあるが、とにかく同じ感情を共有できない相手には怒りも憎しみも抱く意味がないというのが、無力感とともに得られた結論だった。
その電話の翌日、琴美から会いたいと連絡があった。赤井から、自分がどのような態度をとったか聞いたのだろう。確かに彼女とは赤井の持っている人脈がきっかけで知り合ったが、もう一年以上付き合っているのに、まだ彼を介して自分の気持ちを探ろうとした事に軽く失望した。
たしかに自分は年末から新しい仕事のことで頭がいっぱいになっていて、年が明けてからも会う予定を何度かキャンセルしたり、連絡がおろそかになったりしていた。それが不満なら率直に言ってほしかったのだが、彼女は口を閉ざす方を選んだ。そして、自分をもっとその価値にふさわしく扱ってくれる男に出会ったのだ。
その点では非があるのは琴美ではなく、龍村だった。
琴美の職場に近いベレーザカフェで、二人は待ち合わせた。
いざ向き合うと話すことはそんなになく、なんだか最近私たちうまくいってないみたいね、と一人が言えば、ちょっと距離をおいた方がいいかもね、ともう一人が答え、そうして無期限の冷却期間を宣言して別れた。
結局、琴美と龍村は違う世界の住人だった。
琴美は常に「真ん中」にいる種類の人間だったが、龍村はいつも「端っこ」にいて、互いの目に映る世界は異なっていた。
たぶん人は生まれた時には皆「真ん中」にいるのが、年齢を重ねるにつれて、己が「端っこ」移ってしまったことに気づくのだろう。龍村は比較的早い時期に「端っこ」へ行った人間で、琴美はこのまま、もっと長い時間を「真ん中」で過ごすタイプだった。
もちろん世間にはそんなカップルは大勢いる。しかし龍村と琴美は互いに、相手の目で世界を見てみようとはしなかった。そうするために必要な何かが、決定的に欠けていたのだ。
そして琴美と別れた後の静けさを破るようにして、三月に入ると奇妙な事件が起きた。
全く覚えのない会社から、総額百万を超す請求書が送られてきたのだ。内容はノートパソコンとグラフィック系のソフトウェアとあった。何かの間違いではないかと確認したところ、赤井が発注したもので、彼の住所へ納品済。請求書だけ事務所へ送るように指示されたという。あわてて旅先の赤井へメールを出したが、一向に返事が来ない。
そうこうする内に三つの取引先から、赤井が担当する仕事への督促が入った。何とか締め切りを延ばしてもらい、ピンチヒッターで二件は切り抜けたが、かなり割高な報酬を出したので赤字だ。
そして残る一件はどうにも解決のしようがなく、今日はそれを謝罪しに客先の担当者に会っていたのだ。相手は怒りを通り越して呆れ顔で、依頼した仕事を期限内に完納できなかった取引先には、社内規定で違約金を課しているのでよろしく、と請求書を渡された。
昼時だというのに食欲が全くない。というか、今朝事務所を出る頃からずっと胃が痛み続けていて、そろそろ薬を飲まないと限界だった。とりあえずセルフの讃岐うどんでも食べよう。
ここへきてようやく判ってきたのは、もう赤井には二度と連絡がつかないかもしれないという事だった。本当のところ、実際に旅行中かどうかすら判らない。実家の母親も連絡先は知らないと答えたし、共通の知人友人に連絡をとってもらってもつかまらない。
一体どういう理由で赤井はこういう事をするのか?いくら考えても答えは出ず、さらに深い迷路に迷い込むだけだった。とりあえず弁護士に相談してみたら?というのが佐野の提案で、彼が知り合いの法律事務所を紹介してくれる予定なのが唯一の希望だった。
しかしその佐野の身にもトラブルが発生していた。
先週末に季節はずれの集中豪雨が都心を襲ったのだが、彼はその時に愛車のマセラティを運転していた。滝のような雨の中を信号待ちしていたところ、交差する車線からスリップした軽自動車が突っ込んできた。幸い自分は軽い打撲傷ですんだものの、マセラティは無残な姿になり、おまけに相手は保険に加入していなかった。
そして同じ集中豪雨は、別の場所でも被害を出していた。
大鳥のバー、レインの近くでは、側溝につまったゴミが流れを塞ぎ、あふれた水は付近一帯を水浸しにした。レインも難を逃れることはできず、一時は膝のあたりまで浸水したとかで、壁のクロスを全て張り替える羽目になった。
涼子は集中豪雨のあった日は幸いにも関西へ出張だったが、三日後に帰宅してみると、空き巣被害にあっていた。貴金属を中心に持っていかれたらしいが、最低なのは、お気に入りのタオルで犯人が汗をふいて放置していった事だと怒りまくっていた。
フルーチェに至っては、最近自宅周辺に出没している、幼女を狙う変質者と間違われて逮捕され、三日後にようやく釈放された。
それだけではない、デボラのところでは、弟の結婚披露宴のために家族揃って出かけたホテルで、はしゃいで駆け回っていた信生が中年女性にぶつかり、転倒させてしまった。彼女はホテルで開かれていた陶芸家の展示即売会を訪れた帰りで、転んだ拍子に買ったばかりの器にひびが入ったと難癖をつけられ、かなりの金額を弁償する羽目になった。
そんな中で、ただ一人清呼だけが、周囲をあれこれ心配してはいたものの、とりあえず元気にしていた。大鳥によると、例の鼻血は前からそういう体質らしく、ひとまず安心はした。しかし今ひとつ顔色が冴えないし、やたらと寝ている時間が長いようで気になるのだった。
食事を終え、胃薬を飲んで少し落ち着いたところで、龍村は次の約束先に向かった。デボラが産休に入る間の、ピンチヒッター候補に会うのだ。とはいえ、赤井の離脱がはっきりとしてきた今、このような形で事務所の存続を図ること自体が無駄な努力にも思えた。
佐野は本来フリーで十分にやっていけるし、デボラも夫の赴任先についていくという展開になったら、残るのは自分ひとりだ。ならば多少の苦労は覚悟で、一人になる潮時かもしれない。今ならまだ二十代だし、軌道修正をするにも時間の余裕はある。
そんな龍村の煮え切らない心中を察したか、ピンチヒッター候補の反応は芳しくなかった。たぶんまた別の候補を探すことになるだろう。
話を終えたころには午後も遅くなっていたが、龍村はそれからまだ図書館で資料を調べなくてはならなかった。連載の締め切りは先週すんだところだが、今の状態では少しでも時間があるうちに仕事を進めておかないと、後で悲惨な状態になるのは目に見えている。
地下鉄で移動し、また胃がざわつき始めたので、目についたファストフード店に入ってハンバーガーとコーラを頼んだ。
店内は近くにある私立高校の生徒で賑わっていた。椅子からずり落ちそうな格好で気だるそうに座っている少年たち。これからまだどこかへ行くらしく、互いの化粧道具をあれこれ試しながら鏡をのぞいている女の子。少しは真面目にノートを開いて何やら勉強しているグループもいた。
清呼がこの中に混じっていても少しも不思議はないんだな、と龍村はぼんやり考えていたが、それでふと明日の予定を思い出した。清呼の養父、鉄輪(かなわ)氏が上京してくるので、是非会ってほしいと大鳥から頼まれていたのだ。
それを聞いてまず疑問に思ったのは、なぜ清呼本人に会わないのか?という事だった。
中学を出たばかりの子供を東京に一人送り出し、その上一切帰省することを許さず、直接連絡もとってやらないというのは一体どういう考えなのか。
清呼の話を聞く限りでは、とても優しい好人物らしかったが、現実とのギャップにどうも得心が行かず、全く乗り気になれなかった。おまけに大鳥は同席できないらしくて、一対一。仕事だと割り切れば、初対面の相手でもそれなりに話はできるのだが、半分プライベートのようでもあり、その辺りもまた気が重い。
結局、図書館には閉館近くまでいて、途中で夕食も済ませたので、マンションに戻った頃には十時近くになっていた。リビングに煌々と明かりをつけたまま、清呼はソファに丸くなり、スーピーと鼻を鳴らして眠りこけていた。
「こら、風邪ひいても知らんぞ」
ソファの脚を軽く蹴ると、もぞもぞと起き上がる。
「お帰りなさい。このごろ本当に、気づいたら寝てるんだよね。あれかな、春眠暁を覚えずって」
気持ちよさそう欠伸をする清呼を見ていると、自分は何故ここまで消耗しているのかと、馬鹿らしくなってくる。
「まったく、呑気でいいよな。周りはあれこれ大変なのに一人だけ気楽で。本当はお前がみんなにトラブルを運んできた疫病神じゃないの?」
軽い皮肉を言うつもりが、思いがけずきつい言葉が出てしまった。
何かフォローしなければ、そう思って清呼の様子をうかがうと、さっきまでのとろんとした表情は消えて、頭から水でもかけられたような顔をしている
「本当だ。なんで気がつかなかったんだろう」。
それだけ呟くと、まるで目隠しされたように不確かな足取りで自室へと戻っていく。その背中に「ちょっと、真剣にとるなよ!」と声をかけたものの、龍村の心は一気に暗い色に染まった。
子供相手に八つ当たり、最低ではないか。謝ろうと、しばらくリビングで待ってみたが、清呼は再び眠ってしまったのか、もう戻ってはこなかった。
翌朝は寝坊をして、ゆっくり話をする時間がなかった。龍村があたふたと身支度をしている頃には、清呼はもうリビングに座っていたが、テーブルにはカップに入った牛乳がのっているだけで、いつも食べている山盛りのご飯も味噌汁もない。
「今日はちょっと人と会ったりして、帰りは昨日より早いかな」
ジャケットに腕を通しながら、大体の予定を告げる。ちらりと表情をうかがうと、やはりまだ伏し目がちで、翳りがある。
「悪いけど、それとってくれる?」
テーブルの上に置き忘れていたキーホルダーを指差すと、清呼はすぐに手渡してくれた。一瞬その指先に触れたが、いつも暖かい手が氷のように冷たかった。
一晩たてばまたいつもの調子に戻ってくれるかと、密かに期待していたのに。やっぱり今日戻ったらちゃんと謝ろう。そう思いながら荷物を持ち、「それじゃ」と声をかけると、張りのない声が「行ってらっしゃい」と答えた。
浮かない気持ちで龍村は地下鉄に乗り、取材先へ向かった。社内に託児所を設けたことで、キャリアを積んだ女性社員の退職に歯止めをかけたことで有名なメーカーだったが、郊外にあるので移動に時間がかかった。それからとんぼ返りで都心に戻り、喫茶店ですぐに先程の取材内容をまとめた。一段落した頃にはもう鉄輪氏との約束の時間が迫っていたので、あわてて指定されたホテルのカフェテラスに向かった。
大鳥から鉄輪氏の大体の風貌はきいていたし、テーブルについている客のほとんどが女性だったので、龍村はすぐに相手を見つけることができた。窓際にある四人がけのテーブルに座り、何か物思いにふけりながら和風にしつらえられた中庭を眺めている。近づいて声をかけると、向こうはすぐに立ち上がった。
「初めまして、鉄輪明義です」
以前は電機メーカーで開発職をしていたという話は聞いていたが、たしかに神職というよりも技術者といった雰囲気で、白髪の方が多い髪を後ろになでつけ、スーツにネクタイといういでたちだった。小柄ではあるが六十代という年齢を感じさせないほど姿勢がよく、声もよく通った。
「どうも初めまして」
龍村は気後れを感じながら腰を下ろした。何故よりによって、清呼に向かって暴言を吐いてしまった翌日にこの人に会わねばならないのか。ウエイターがすぐに来たので、コーヒーを頼む。
「お忙しいところ、お時間をとって頂いて申し訳ありません」
いきなり頭を下げられ、いえいえとんでもない、と恐縮する。彼はたしかに清呼の言う通り、親切そうな常識人に見えた。
「清呼が色々とお世話になり、本当に感謝しております。龍村さんにしてみれば、どうして私があの子を東京くんだりに一人で送り込んでほったらかしにしているのかと、ご不審に思われているでしょうが」
いきなりの図星で、またしてもいえいえそんな、と言葉尻を濁した返事しかできない。
「我々夫婦にしてみれば、息子たちが手元を離れてから預かった子供で、孫のように可愛がって参りました。正直なところ、今もってあの子のいない生活になじめないと申しますか、どうも静か過ぎるといいますか」
そう言ってコーヒーカップを手にした鉄輪氏の左手は、病気の後遺症なのか、怪我でもしたのか、少し不自由だった。そのネクタイの結び目が少し歪んでいるのを見て、龍村はいつだったか清呼が、自分は鉄輪パパのネクタイ係だと嬉しそうに話していたのを思い出した。
「しかし龍村さんは私のことを、なんと情の薄い養い親かとお思いでしょうな」
「いえ、何かその、事情でもおありなんですか?」
聞かずにいるのも不自然な気がして、龍村は率直に訊ねてみることにした。
「大鳥さんからは、清呼には何というか、変わった力があると聞いてますけど、それと関係あるんですか?」
「あります」
そう言うと、鉄輪氏はコーヒーを飲んだ。
「どの程度聞いておられるのか判りませんので一から説明しますが、清呼のような、男でも女でもない子供は、我々の村においては古くから、何十年かおきに生まれていたという記録があります。子供の名前は必ず清呼と決められておりますが、正しくはこのような字を使います」
鉄輪氏はテーブルのペーパーナプキンをとると、胸ポケットのボールペンで「岐誉志呼」と書いた。
「このような子供は、村にとっては神が遣わした豊饒の証でした。神がこの子供を通じて自分たちの願いを聞きいれ、作物の恵みや子宝を授けてくれるのです。この子供がいる限り、村人たちの幸福は約束されています。しかし成長しない子供もまた存在しない。彼らが育って大人になるその頃に、神は子供を通じて己が与えたものの代償を取り立てるのです。物事はすべてプラスマイナスゼロ、理屈は合っていますな。
それは時として洪水や旱魃といった天災であったり、子供に近しい人たちの病や怪我、といった不幸であったようです。そして村の人々は、この災いを避ける方法を色々と探りました。時にはこの子供を殺し、その命を天に返すことで代償としたようです。
しかしやはり、自分たちが慈しんで育てた子供です、己の手で命を奪うのには耐えられなかったのでしょう、やがては大人になる年頃を見計らって村から外へ立ち去らせ、二度と戻ることを許さないというきまりが定着したようです。そして子供の墓を建て、表向きは子供がすでにこの世を去ってしまったかのように振舞うのです。これは神を欺くためのトリックのようなものでしょう。
とはいえ、村を出た子供は早くに亡くなる者が多かったようです。これが神の仕業なのかそれとも別の理由なのか、その辺りは判然としません」
龍村は身を硬くして、鉄輪氏の話を一言も聞き漏らすまいとしていた。
「大鳥君から聞いておられるかもしれませんが、私は今でこそ村に住んでおりますが、親の仕事の関係で余所で育ちました。若い頃は理系の仕事をしておりましたので、村に伝わるこのような物語は、ただの昔話だろうと思い込んでいました。ところが定年後に神職を勤めていた父が病気で引退したため、中途退職して後を継いで数年した頃、実際に清呼が生まれました。それ以来ずっと、神社に残された古文書の類を調べて真偽のほどを考えてきました。
神が存在するのかしないのか、それを証明する手立てはありません。しかし現実に清呼を通じてもたらされる神の恵みを目の当たりにしていると、少なくともそれを信じないわけには行きませんでした」
「清呼自身にはその、神様の力をコントロールする事はできないんですか?」
「あの子は仲介役に過ぎません。ただし、あの子には自分の意志で使える別の力があります。それは何といいますか、病気や怪我を治療するといった類の力ですが、この力を使ったときには必ず、清呼自身がその代償を、身を以って天に返すことになります。たとえばあの、目元に残っている大きな傷痕。あの子は自分では決して語りませんでしたが、何があったかは大体わかっています。先日も随分と鼻血を出したという事ですが、たぶんまた、誰かの怪我か病気を治そうとしたのでしょう」
龍村は膝の上に置いた両手が震えるのを止めようと強く握り締めた。
「ともあれ、清呼は村にとって幸福をもたらす子供なのです。代々続く神社を預かる者として、私は村の人々が清呼を通じて神に恵みを希うことを止めることはできませんでした。しかしそれは同時に、いつかはその代償を返さねばならないことを意味します。
清呼を村から出してしまったとしても、神は清呼の行く先で、与えたものを取り返そうとするのではないか、私はそう考えました。さもなければ清呼自身がその代償を背負うしかない。私は何としてもそれだけは避けたいのです。そのために村の主な人々とも話し合い、いつか返す代償を残してきました。まあ要するに、清呼を通じて神の恩恵を受けた人たちに、それぞれがふさわしいと考える金額を納めてもらったのです。そして頃合を見計らい、その金品で神への返礼を行うつもりでした。
しかし私が年明け早々に腰を痛めてしまいまして、しばらく身動きもままならなかったのですが、先日大鳥くんから、龍村さんを始め、清呼の周囲の方々に起こった災難についての話を聞きまして、時すでに遅しという事を知りました。全くもって申し訳ありません」
鉄輪氏は深々と頭を下げた。
「いくら何でも、それは考え過ぎでしょう」
龍村は慌ててそれを否定した。確かに周囲は災難続きだが、本当に清呼と関係あるかどうかまでは判らない。
「いいえ、決して無関係ではないでしょう。それで、ですが」と鉄輪氏は傍らに置いていたショルダーバッグを手に取り、中から何かを取り出した。
「今更こんなもので皆さんが受けられた損害を償えるとは思いませんが、このままでは村の者たちをはじめ、私の気がすみませんので、是非ともお受け取りいただき、皆さんへのお見舞としていただきたいのです」
そういって差し出されたのは大手銀行の通帳だった。開かれたそのページに示された残高は、贅沢をしなければ数年は遊んで暮らせるほどの金額を示していた。
「名義は私にしてありますが、とりあえず龍村さんにお預かりいただけるでしょうか。キャッシュカードと印鑑も持参しておりますので、是非とも」
「いや、そんな、しかし、絶対に受け取れません」
やっとの思いでそういうと、龍村は通帳を閉じて鉄輪氏の方へ押し戻した。
「そんな事よりも、清呼を村に帰らせてやることはできないんですか?いくらずっと住めなくても、一度ぐらい家族や友達に会わせてもいいでしょう」
「おっしゃるとおり、私は非常に残酷なことをしているとわかっています。しかし私には村を守る神社を預かる者としての立場もあります。災いが起こる可能性がある限りは、情にほだされて清呼を呼び戻すこともままならないのです。この点について最も苦しい思いをしたのは清呼の両親でしょう。清呼は彼らの子供であってそうではなく、村に捧げられた供物のような存在なのです。
あの子には小さい頃から、十五になれば一人で村を離れるのだと言い聞かせ続けてきました。それなりに納得しているようには見えたのですが、いざその日が来てみると、やはりこの世の終わりのように泣いて嫌がりました。龍村さんもご存知でしょうが、気立てが優しい上に泣き虫で甘えてばかり、嫌なことからは逃げ出すし、厳しいことを言われるとすぐにめげてしまう子供です。このまま無理に村から連れ出しても、じきに一人で戻ってきてしまうのではないかと、私は恐れました。そこで隠さず正直に、このまま村に残っていては、近しい人たちに不幸が訪れるかもしれないと諭したのです。
あの子は不思議な子です。あんなに弱虫なようでいて、自分の大切な人のためならとても強くなれるし、どんなことでも辛抱します。私はそこに賭けました。そして多分それは正解だった。あの子が今日まで一人で頑張ることができたのは、もちろん龍村さんや大鳥くんのおかげではありますが、あの子自身が村の人々の無事を願う気持ちも大きいのです」
鉄輪氏はそこまで一気に話すと、グラスに入った水を飲んで一息ついた。
「清呼も明日で十七の誕生日を迎えます。たぶん大人になるのもそう先のことではないでしょう。ですから龍村さん、今しばらく貴方の周囲で起こった災難をこらえていただきたいのです。そしてどうか清呼には、自分は無関係だと思わせてやってください。あの子がこの事に気づいてしまったら、自分ひとりで災いを引き受けようとするかもしれません」
もう遅い。
お前がみんなにトラブルを運んできた疫病神じゃないの?
自分は昨夜、清呼に向かってはっきりとそう言った。
「す、すいません、ちょっと急用といいますか、時間が迫ってるもので」
龍村は立ち上がると、震える手で伝票を取り上げた。
「ああ、これはとんだ長話で失礼しました、しかしこれだけは」
言いながら鉄輪氏は、先程の預金通帳を龍村に差し出そうとした。
「いえ、それはどうか清呼のために使って下さい」
そういって頭を下げ、龍村は慌ててその場を離れた。レジで釣銭を待たずに走り出し、隣接するコンベンションセンターとの連絡通路まで来たところでスマホを取り出し、清呼にも使わせている、事務所名義の携帯にかけてみる。圏外あるいは電源オフ。
続けてかけた事務所は留守電。
あとはもう手当たり次第に清呼の行きそうなところへ電話をしたが、誰もその所在を知らなかった。
十六 さきいかとチーズ鱈
龍村が事務所に戻っても、そこには誰もいなかった。
清呼を知る全ての友人知人に電話を入れたし、大鳥からは学校にも連絡をしてもらった。何かあればすぐに電話があるはずだが、一度の着信もないまま時間だけが過ぎてゆく。
そしてどれほど待ったただろう、いきなり鳴り出したケータイに、龍村は飛び上がりそうになった。時刻は七時過ぎ、デボラからだった。
「もしもし?清呼もう帰ってきた?」
「いや、まだ全然つかまらない」
「私、さっき家に戻ったばっかりなんだけど、葵が清呼に会ったって言うのよ」
なんだ、案外近所でうろうろしてるのか。全身の力が緩むような気がした。受話器の向こうで何か話す声が聞こえ、ややあって葵が電話にでた。
「龍村さん?葵さあ、お友達の家から帰る途中に、公園で清呼に会ったよ」
「それは何時ごろ?公園のどこで何してた?」
「五時過ぎぐらいかな。噴水の近くにベンチがあるでしょ?あそこに座ってぼんやりしてた。泣いた目をしてたよ」
「泣いた目?」
「うん。だから龍村さんに怒られたの?ってきいたら、怒ってるのは自分で、怒られてるのも自分だってさ。こういうの、自己嫌悪って言うんだよね」
「ああ、そうだね」
「何で怒ってるのかきいたら、葵がそれを知ったら、たぶん清呼のこと嫌いになるよって、そう言った。でも葵は清呼のことは絶対嫌いになんかならないもんね。それでさ、早く帰らないとお母さん心配するよって言うから、清呼が帰るなら葵も帰るって言った。そしたら、あと少ししたら帰るから、先に行ってってさ。そのとき葵に、元気でね、って言ったよ。変だよね、またすぐ会うのに。ねえ、清呼が帰るの遅くなっても、怒っちゃだめだよ。そんな事したら葵が龍村さんのこと怒るよ。明日は清呼の誕生日だからさ、楓と一緒にプレゼント持っていくからね」
「わかった、怒らないって約束するよ。話してくれてありがとう」
電話を切ると、龍村はすぐに公園へ走った。
すでに辺りは暗くなり、公園は人影もまばらだった。そして葵の言っていたベンチには誰もいなかった。そこはいつだったか、尻尾に火をつけられた猫を探してうろついた場所だ。またあの時みたいに、どこかで猫を眺めたりしていないかと思ったが、その姿はどこにもなかった。
一時間近くあたりを探し回り、結局何の成果もなくマンションへと引き返した。
静けさをごまかすためにテレビだけはつけて、電話を待ち続ける。そして思い出したように清呼のケータイに電話かける事を繰り返した。
天気予報は強い寒気を伴った前線が通過すると告げていて、外では風が強まり、雨音も混じり始めた。
やがて夜が更けるにつれ、外の風はまるで嵐のように勢いを増し、断続的に降る雨は激しい音で窓ガラスを叩いた。
その頃になってようやく、龍村は清呼の部屋に入る決心をした。いつも用があってのぞく時は、脱いだ服や雑誌で散らかっていたりするのに、今日は綺麗に片付いていた。ベッドの上ではひしゃげたウサギのポンキチが、小首をかしげてこちらをじっと見ている。それだけでも十分に嫌な感じだが、パソコンデスクの上に預金通帳が置かれているのに目が留まると、胸がざわついた。
通帳には一万円札が八枚、二つ折りにしてはさんであった。中を確かめると八万四千三百二十円が今日付けで全て引き出され、残高ゼロになっていた。
この八万円はどういうつもりだ。今月の給料はまだ払っていないし、清呼の所持金は一万円を切るだろう。それだけの金で、こんな雨の夜をどこで過ごしているのか?食事はしたのか?どこへ行こうとしているのか?
清呼はガラス越しに、駅の構内を流れてゆく人たちを眺めていた。
仕事を片付けたり、部屋を掃除したり、公園の猫を見に行ったり、色々していたら出発するのが遅くなった。電車には乗ったものの、強風で電線が切れたとかで、途中で止まってしまった。仕方ないので電車をおりて、駅にあったコーヒーショップに入り、ココア一杯でかれこれ一時間ちかくぼんやりとしている。
龍村さん、困った顔してたな。
昨日の夜、清呼に向かって「実はお前こそが疫病神なんじゃないの」と言った後、龍村さんは「言うんじゃなかった」って表情になった。
その言葉はショックだった。龍村さんがそう言ったから、ではなく、その事に自分がずっと気づかずにいたから。
だから今朝、全然怒ってないことを判ってもらうために、いつも通りちゃんと起きてはみたものの、龍村さんは寝坊するし、自分は少しも言葉が出てこないし、結局ぎくしゃくしたままだった。
向こうが黙っているのに「気にしてないからね」って言えば、「ひどいこと言われたよ」という意味になってしまう。清呼は自分も同じような事をしてしまったことがあるので、龍村さんの気持ちはよくわかった。
もう二年も前、中学を卒業して、村を離れる日が近づいてきた冬の終わり頃、清呼は毎日、雪が降る前の空みたいに暗くて重たい気持ちで過ごしていた。
なのに母さんは顔を見れば、「じき一人で村を出るんだからもっとしっかりしなきゃ。人に迷惑かけちゃ駄目だよ」ってそればっかり言っていた。ただでさえ「人に迷惑かけるな」って言われ続けているのに、村を出る事を考えたくなかった清呼は、何だかとてもむしゃくしゃして、ある日とうとう大声で言い返してしまった。
「もういい加減にして!母さんなんか大嫌い!」
言った瞬間、しまった、怒られる、と思った。ところが母さんはすごく冷静な顔つきでまっすぐ清呼を見ると「わかった」と言った。まだ怒ってくれれば「ごめんなさい、そんな事いうつもりじゃなかった」と謝ることができたのに、そんな風に受け流されてしまったらどうしていいか判らない。
その後ずっと、清呼は母さんに謝るきっかけが見つけられずにいた。毎日毎日、明日は会いに行ってちゃんと謝ろうと思うのに、何となくそれができなくて、逆に母さんが用事で神社に来たりすると、例によってあれこれ小言ばっかりなので「はいはい」って面倒くさそうに返事するだけ。結局ずっとその繰り返しで、村を離れる日になってしまった。
父さと母さんは空港まで見送りに来てくれた。清呼を東京まで送ってくれるのは鉄輪パパだけで、二人とはここでお別れだった。ふだんから優しいけど無口な父さんは、最後も「じゃあな、気をつけてな」とだけ言った。そして母さんはというと、やっぱり「大鳥さんに迷惑かけちゃ駄目だよ」と言ったけれど、清呼のことをぎゅっと抱きしめてくれた。
もうずっと長いことそんな風にされた事がなかったので、清呼は驚いたのと嬉しいのとで胸がつまって何も言えなくなった。謝るなら今、今しかないのに。でもその時、母さんの暖かい胸からはっきりと、清呼のことが大好きだよ、という気持ちが伝わってきた。
清呼は心の底から母さんごめんね、と思った。自分はちゃんと謝っていないのに、母さんは清呼のことを許してくれていたのだ。
でも龍村さんとの事は、全然違う。
清呼が母さんに大嫌いと言ったのは本心じゃなくて、勢いみたいなものだ。でも龍村さんは本当の事を言い当てていた。だから許すとか許さないとかの問題ではないのだ。龍村さんは悪くない。悪いのは、鉄輪パパから注意されていた事をちゃんとわかっていなかった清呼だ。
清呼が大人になる頃に、周りの人たちに良くない事が起きるかもしれない。それは村の人だけじゃなかったのだ。清呼がいればどこでも、良くない事が起きるのだ。
もうこれ以上誰にも迷惑をかけるわけにはいかない。だから自分はこの世から出ていかなくてはならない。
やっぱり死体が見つかるのは嫌だから、青木が原の樹海で白骨死体になりたい。ではそのためにどうやって死ぬかだけれど、今の季節なら樹海の夜はまだ寒いだろうから、一晩で凍死できるだろう。
しかし問題は清呼の弱虫な性格だった。樹海に入っても、暗いし怖いし、寒いのも我慢できなく挫折してしまうかもしれない。でもたぶん睡眠薬とかお酒で眠ってしまったら、その間に凍死してしまうんじゃないだろうか。とはいえ睡眠薬はどうやって手に入れるか判らないし、お酒も未成年の清呼には買えない。もう万引きするしかないだろうか。
「ちょっとあんた」
万引きを考えているところへ声をかけられたので、清呼は飛び上がった。
見上げると、そばに大柄な女の人が立っていた。まず目に付くのが金色に染めた長い髪。それを頭のてっぺんで束ねて逆毛を立てている。化粧は濃いけど目は小さいほうで、口が大きい。胸元のあいた豹柄でミニのワンピースに金色のスニーカー。そして黒いベンチコートを羽織っていて、左の腕には赤ちゃんを抱くというか、抱えて腰にのせている。
「悪いけど、しばらくこの子みててくんない?」
「え?」
清呼は何がなんだかわからなかった。
「そこの店でビール一杯やる間だけだから。十分かそこらで戻ってくるよ」
女の人はそういって、通路の向こうにある店を指差した。ビアレストラン、と書いてあるけど、仕事帰りの人がお酒を飲んだりする店なんだろう。
「いいですけど」
十分なら別にいいか、そう思って返事すると、女の人はにかっと笑った。八重歯が二本もある。
「ありがと。じゃ、よろしく。あと、この荷物もたのむわ」と言われて足元を見ると、大きなスポーツバッグが床においてある。一体何?と思う間もなく赤ちゃんが腕の中に押し込まれてきた。ぎっしりつまったお米の袋みたいに重たい。
女の人はあっという間に店を出て、少しすると大股でレストランに入るのが見えた。
とりあえず何かあったらあそこに行けばいいか。そう思って清呼は膝にのせた赤ちゃんをあらためてよく見た。
黒くて大きな目が可愛くて、赤ちゃんにしては大きな口はお母さん譲りだ。人見知りするでもなく、清呼の方を不思議そうに見つめている。
男の子らしく、黒いドクロ柄のシャツに同じくドクロマークついたの赤いジャンパーだった。もしかしてあの人、ヤンママってやつかな?そう思いながら、清呼は赤ちゃんを抱きなおした。うまく膝にのせておかないと、本当にずっしりくる。
外を通る人が自分のことを赤ちゃんのお母さんだ、なんて思ったら面白い。夏に真奈美が来たとき、中学で同じクラスだった小雪がデキ婚で退学しちゃったと教えてくれたけど、自分だって明日でようやく十七。十七歳って半分大人みたいな年なのだ。
そんな事をぼんやり考えていたら、さっきの女の人が戻ってきた。
「いやありがと、助かったわ。もうアルコールとニコチン切れでアタマ切れかけてたんだけどさ」
ちょっとお酒臭い息を吐きながらそう言うけれど、赤ちゃんは清呼に抱かせたままだ。
「お礼に何かおごるよ。好きなもん言えよ、買ってくるから」
「いいです、そんな」
「遠慮すんなって、どうせ晩メシまだなんだろ?」
確かにお腹は空いている。そこで清呼は一番安いホットドッグをお願いした。飲み物はジンジャーエールで。
「いいのかよそんなんで。あたしはローストビーフサンドいくけど」
そうして彼女はカウンターへ行き、しばらくするとトレイを持って戻ってきた。清呼はお礼を言ってトレイを受け取ると、まずジンジャーエールを一口飲んだ。
「赤ちゃん、名前なんていうんですか?」
「ん?ゴウトってんだよ。豪快の豪に北斗の斗。でもってあたしは春美ね。あんたは?」
「ナデシコです」
ちょっと迷ったけど、女の子のふりをしておいた。
「あの、赤ちゃんと二人で旅行ですか?」ときくと、春美さんは、は?という顔になった。
「冗談じゃねえ、そんな呑気な。クソ亭主から逃げてきたんだよ」
「逃げてきた?」
「そうよ。一日中寝てるかゲームしてるかケータイいじってるかで、一円も稼いで来やがらねえの。今日はケータイの機種変更に出かけやがったから、その隙に。ところが慌ててたもんでベビーカー忘れてさ、ガキは重いから大変だったっつうの」
言われた豪斗くんは春美さんを目で追ってばかりいる。そしてとうとうむずかり始めた。
「あーもう、こいつ人がもの食ってるとうるさいんだよね」
春美さんは面倒くさそうにそう言うと、床に投げ出したスポーツバッグからビスケットの袋を取り出し、一枚を豪斗くんに渡した。
「ほら、これ食っとけ」
そしていきなり清呼に「あんた田舎者だろ?」と言った。
「えーと、そうです」
「だよな。そんな顔してるもん」と、二枚目のビスケットを豪斗くんに渡す。
「なじんでないんだよな、都会に。あたしも同類だから判るんだよ。実家が農家だったりしない?」
「農家ではないですけど、農村地帯?」
「やっぱりな。うちらの辺も見渡す限り畑で、あとは山だよ」
自分ひとりで納得して、春美さんはコーラをごくごく飲んだ。なんだか悪い人じゃないみたい。二人で何となく田舎の話なんかして、その間も豪斗くんはどんどんビスケットを食べて、哺乳瓶に入ったお茶を飲んだ。そして食事も終わる頃になって、清呼は春美さんにお願いをしてみようと思った。
「春美さん、お願いがあるんですけど」
「ん?何?」口紅を塗り直すために鏡をのぞきこんだままで返事する。
「このお金で私の代わりにお酒を買ってほしいんですけど」
清呼は春美さんに二千円を差し出した。お酒の値段はよく判らないけれど、これだけあれば焼酎とか、かなり強いのが買えるだろう。それを青木ヶ原の樹海で一気飲みすれば、すぐに酔っ払って眠ってしまって、そして凍死するに違いない。
「酒?」と春美さんはびっくりした顔をしていたけれど、すぐに八重歯を見せてニヤッと笑うとうなずいた。
「あんた気が利くねえ!よっしゃ、二人で酒盛りしようぜ。ちょうど駅前のビジネスホテルが改装中で特別料金って看板出してたからさ、一緒にあそこに泊まろう。どうせ電車も止まってるしな」
そう言ってテーブルの上のゴミをまとめると、掃除のために通りかかったスタッフにちゃっかり押し付けて立ち上がった。
「んじゃ、まずコンビニで酒を調達だな」
いや、そんなつもりじゃないんですけど。喉までそう出かかったけれど、清呼には無理だった。
春美さんはスポーツバッグを肩にかけてどんどん歩いていくし、自分の腕には豪斗くんが預けられたままだ。仕方なく後をついていって、駅の外側にあるコンビニに入った。
「缶チューハイがいいよな」
春美さんはそういいながらカゴに色々な缶チューハイをどんどん入れた。それからおつまみのコーナーへ移動する。
「ちょっとナデシコ、あんたさきいかとチーズ鱈とどっちが好き?」
「・・・チーズ鱈」
清呼はビジネスホテルという場所は初めてだったけれど、なかなか快適なところだった。
寝るだけなら十分に広いし、何でも一通り揃っている。もう後は酒飲んで寝るだけって状態にしようぜ、という春美さんの提案に従って、二人はまずシャワーを浴びて、部屋に備えてあったパジャマに着替えることにした。清呼がシャワーを使っている間に、春美さんは豪斗くんに離乳食を食べさせていた。
「あーあ、生き返るぜ全く」
気持ちよさそうにそう言いながら、春美さんはユニットバスから出てきた。濡れた髪はタオルで包んだままで、化粧を落としたその顔はずいぶんと子供っぽく見えた。
清呼と春美さんはベッドの上に座って缶チューハイを開け、乾杯した。大人になるまでお酒は飲まないって龍村さんと大鳥さんに約束したのに。清呼は自分で自分に呆れていた。
しかし半分ほど缶チューハイを飲むと、そんな事もどうでもよくなってきた。どうせ死ぬんだから、約束だってもう守る意味がないのだ。
春美さんはチーズ鱈の袋を開けてベッドの上に置く。
「しっかしあんたはどうして一人でウロウロしてんだよ。家出?」
「んーまーそういう所かな?家じゃなくてアルバイト先から出てきたの」
酔っ払ってきた清呼はいつの間にか敬語を使うのも忘れていたけれど、春美さんは気にかけてなさそうだ。
「仕事放り出して逃げてきたのかよ。ははあ、アレね、人間関係、つうか男関係だろ?」
「そんなわけじゃ」
「いやいやいや、わかるって」
チーズ鱈を齧りながら春美さんは意味ありげに笑った。
「で、黙って飛び出してきた?」
「まあそんなところ」
清呼もチーズ鱈を口にくわえた。これは外側と真ん中の食べた感じが違ってるところがおいしいんだな。
「しっかし、世話んなったところから黙って逃げる、つうのはよくないね。あたしはこう見えて礼儀にはうるさいんだよ。向こうも心配するだろうし、せめて手紙でも書いて謝っとけよ」
この事にはもう触れてほしくないので、清呼はちょっと話題を変えようと思った。
「ねえ、赤ちゃん育てるのって大変?」
すでに缶チューハイ二本目に突入している春美さんは、酔ったそぶりも見せていない。
「そりゃもう、はっきり言って子供産むより育てる方がずっとハード。二十四時間休みなしで毎日毎日続くんだぜ。いつも機嫌がいいわけじゃないし、病気になったり夜泣きしたり。そこへまた働かない旦那ってのがついてくるんだからな。マジ発狂しそうになるし」
「そんなに大変なんだ?」
「まあ一日の中で、もうガキ捨てて独身時代に戻りてえ、ってのが十回あったとしたら、でもやっぱり可愛いんだよな、と思うのが十一回ぐらいで、その一回分だけでどーにかこーにかやる気出してる状態さ。でも今日は本当に十五対七ぐらいで独身時代に戻りたかったんだけど、あんたのおかげで何とかなったよ」
そこで清呼も二本目の缶チューハイを開けた。春美さんはまたチーズ鱈をかじっている。
「あんた今いくつ?」
「明日で十七」
「へえ。あたしは十九だよ」
「え、まだ十九?」
「あたし、中高ずっとレスリングしててさあ、県の強化選手で国体にも出たんだよ。けっこう対戦成績もいいし、大学からの誘いもあって」
「すごいじゃない!」
「すごくねっつうの。高三の時に肩いためちゃってよ。コーチなんかは気長に治せばいいって言ってくれたのに、なんかそこで気合が途切れたっつうか、なんでレスリングしてんのか判らなくなってさ。辞めちまったのよ」
「そうなんだ」
「で、それまで練習一筋だったところへ、酒とか男とかが出てきてよ、あっちゅう間にハマッちまったわけよ。その時に出会ったのが今の旦那なんだけど、一体何がよくてつきあったのか思い出せないぐらいだし。まあ、頭がどうかしてたんだよな。それでズルズルつきあって、高校卒業して旦那にくっついて東京に出てきてさ、しばらくしたらこいつが腹の中にいるって判って」
そう言って春美さんは豪斗くんの背中をぽんぽん叩いたけれど、いつの間にか寝てしまっていて、起きる気配もない。
「まあガキに責任はないしさ、人生計画五年ぐらい前倒しで結婚したんだよ。なのに、こいつが産まれたら旦那は頑張るどころか、家の中で俺が一番じゃない、ってゴネやがって、全然仕事しなくなるし。お前なんか死んでこいって喧嘩になったら、素手であたしに勝てないもんだから凶器持ち出しやがって、見ろよここ、フライパンで殴りやがったんだぜ」
春美さんはパジャマの襟を開いて、まだ傷痕の残っている右肩を見せた。
「ま、そーいう最低野郎でよ、逃げてきたってわけ」
「で、春美さんはこれからどうするの?」
「実家に帰る。家出同然だったから説教くらうと思ってたのに、電話したら妙に歓迎ムードで、親父なんか駅まで車で迎えにくるとか言いやがって。たぶん孫めあてだな」
「よかったじゃない」
「まあな。そいでもって真面目にやり直すぜ。トラクター運転してよ、農業するぜ」
三本目の缶チューハイを開けながら、春美さんはそう言った。
「あーしかし、周りの同級生はみんなまだ大学とか専門学校とかだぜ。それ考えるとちょっと凹むんだけどよ、こればっかりは自分が馬鹿だったから仕方ないぜ。ナデシコはどーすんだよ。行く場所ないなら一緒に来いよ。春先はどこも人手が足りないし、うちで一人ぐらい増えてもどうって事ないしよ」
「ありがと。でも予定は決めてるんで大丈夫」
「そうかよ。変なナンパに引っかかるなよ。あんた人の言いなりになりそうだから心配するぜ」
自分で強引に赤ちゃんあずけといてよく言うなあ、と思ったけれど、清呼は少し嬉しかった。
「ああ駄目だ、煙草吸いたくなってきた」
春美さんは缶チューハイをテレビの横に置くと、ショルダーバッグから煙草とライターを取り出した。そして机の上にあったプラスチックの灰皿を持ってユニットバスにこもった。
急にしんとした部屋に座って、清呼は缶チューハイ二本目の半分ぐらいでギブアップした。
聞こえてくるのはユニットバスの換気扇の音。外はまだかなり天気が悪いみたいで、激しい風の音に混じって時々、窓ガラスに雨がざあっと吹き付ける。
いつになくお酒がまわるのが早いのは、たぶん昨日の夜ほとんど眠らずにいたせいだろう。
ぼんやりした頭で横になると、目の前では豪斗くんが小さな寝息をたてて眠っている。一晩だけ一緒にいる赤ちゃん。清呼のこと、少しでも憶えていてくれる?龍村さん、清呼のこと、少しでも憶えていてくれる?
十七 海を歩く
目が覚めるともう明るくなっていた。どこからか、雀がチュンチュン鳴く声が聞こえてくる。
昨日ベッドの上でちょっと横になっただけだと思ったのに、清呼は何故かちゃんと毛布にくるまって寝ていた。光の射し込む方を見ると、窓辺に人が立っている。それは豪斗くんを抱いた春美さんだった。
清呼は起き上がると「おはよう」と声をかけた。
「おう、起きたのかよ」
「何してるの?」と、そばに寄ってみる。春美さんはもうすっかりメイク完了していて、髪も逆毛が立っている。
「電車見てんだよ。こいつ馬鹿みたいに好きだから」
並んで窓をのぞくと、ちょうど駅に入ってくる電車が見えた。豪斗くんは声をあげて笑っている。
「こんなガキの頃から、男って本当に乗り物が好きだな。参るわ全く」
文句言ってる割に、春美さんは何だか幸せそうだった。
「冷蔵庫にスポーツドリンク入ってるから飲めよ。さっき下で買ってきたし」
「ありがとう」
清呼はさっそく冷蔵庫を開けた。暖房が効いてるせいか、喉がすごく渇いていたのだ。
「ナデシコはこの後どうすんの?あたしらはもう行くけどさ」
「じゃあ駅まで送ってく。五分で準備しちゃうから待ってて」
昨日の夜はまるで嵐だったのに、今朝は快晴だ。でも冬に逆戻りしたみたいに寒かった。ホテルの前の植え込みには椿の木があって、昨夜の風のせいなのか、傷のないきれいな花がたくさん落ちていた。
「じゃあな、くれぐれもナンパには気をつけろよ」
駅でチケットを買うと、春美さんは右肩にスポーツバッグとショルダー、左手に豪斗くんを抱えてそう言った。
「大丈夫。春美さんも元気でね」
清呼が挨拶代わりにほっぺたをつつくと、豪斗くんはにっこり笑った。そして二人は改札を抜けると、すぐに行き交う人に紛れて、見えなくなってしまった。
そうしてまた一人になると、清呼は急にお腹が空いたと感じた。そういえば朝ごはんまだだった。
コンビニで何か買おうと思って、財布を確かめてびっくりした。小銭しか入ってない。
昨日、春美さんにお酒を買ってもらおうと思って二千円渡して、あとはホテルが特別料金とはいえ四千円。計算は合っている、というか、単に自分がうっかり使ってしまっただけだった。
青木ヶ原の樹海まで、余裕でいけるはずだったのに、どうしよう。焦ってもう一度財布をのぞいたら、事務所のキャッシュカードが入っていた。しまった、返すの忘れていた。
このカードは小口経費と家賃振込の口座ので、残高は少ないけど、あるには、ある。このお金を使ったら、それは泥棒。でもお金がないと動けない。
清呼はカードを握りしめてじっと考えた。
月末に貰う予定だったお給料。もういらないけど、少しだけ先に借りるのは駄目だろうか。あとでちゃんと手紙を書いてキャッシュカードと一緒に送って、使った分はお給料から穴埋めしてもらうのだ。
明け方少しまどろんだだけで、朝を迎えてしまった。
清呼からの連絡も、新しい情報も、何もない。
龍村は服のまま横になっていたベッドを降りると、部屋を出て、つけっぱなしだったリビングの明かりを消した。
時間は八時過ぎ。キッチンで水を飲んだが、何も食べる気にならず、リビングに戻ると昨日からテーブルに置いてある、清呼が片付けた仕事を手にとってみた。
一つは簡単な校正の束、もう一つは客先あての請求書リストで、すべて発送済みとなっている。立ち上がってキャビネットからレターケースを取り出し、リストを放り込む。預金通帳とキャッシュカードもそこにまとめて入れてあるので、小さいものが底に隠れてしまわないよう、順番を並べ直そうとしたが、そこでふと気がついた。
キャッシュカードが一枚足りない。
客先からの入金用の口座は通帳もカードもあったが、小口経費口座のカードだけが見当たらない。もう一度レターケースの中身を全て出してみたが、やはりない。最後にこのカードを使ったのはたぶん清呼だ。通帳を確認すると、最後の出金は十日前。残高わずか一六五七円だった。
だからどうだというのだ。
それでも何故か気になって、龍村は近くのATMへ走った。
低い唸りと共に、機械は通帳を吐き出した。ひったくるようにして印字を確かめる。二日前、利息二円の入金に続き、今日付けで千円が出金されていた。
今朝、どこかで、清呼がこの口座から金を引き出した。
店番二一三、このATMか支店の近くに清呼がいるのだ。すぐに調べようと思ったが、その前にする事がある。
龍村はポケットから財布を取り出し、一体いくら入れるべきかと考えた。あいつはやたらとよく食べるから食費は多め。変な場所で夜を過ごされても困るので宿泊費もいる。だがあまり入れて高飛びされても困るので、とりあえず八千円で様子を見ることにした。
そしてスマホで店番二一三を検索する。何故か神奈川方面だ。
事務所に戻ると、すぐ大鳥に電話を入れた。
「神奈川か」
話をきいて大鳥は考えている様子だったが、ややあってこう答えた。
「去年の秋に、清呼が酔って帰って、龍村さんに随分叱られたことがありましたよね」
「うん。大鳥さんにも話したっけ」
「あのとき、かなり落ち込んでたから、気分転換に神奈川の方の、海に連れてったんですよ。もしかしたらまた、その辺に行く気なのかも知れない」
なるほど、大鳥は清呼にとって最も頼りになる大人だ。その彼に連れられて行った場所で、気持ちを立て直そうとしているのだろうか。龍村はすぐにそこへ向かうことにして、大体の場所を聞くと電話を切った。
しかし、出発前にまだすることがある。次に電話をかけた相手はフルーチェだった。用件を告げるとすぐに来てくれるという。
こうして少しずつでも動けるのは、ひたすら待つだけだった昨夜に比べれば随分マシだ。そして今日の午後のアポを来週にしてもらう連絡を入れた直後、デボラから電話がかかってきた。
「どう?電話がないとこ見ると清呼は帰らなかったのね?」
「うん。ただ、どうも神奈川方面にいるらしくて、今から探しに行く」
「葵と楓が、今日は清呼の誕生日だからプレゼント渡しに行くって張り切ってるんだけど、どう言っておけばいいかしら」
「悪いけど、嘘ついてくれる?昨日一度帰ってきたけど、今日は事務所の急用で朝から出かけてるって」
「それで、今日中には帰るって事でいいかしら?」
「何とか帰らせる」
「お願いね」
電話を切ると溜息が出た。気がつくとまた胃がおかしくなっていて、薬を飲んだ。そして一息ついた頃に、フルーチェが現れた。
「おはようっす。遅くなったっす」と、寒いのにやっぱり汗をかいている。
「すまんね、忙しいのに無理言って」
「かまわないっす」
「これがその通帳なんだけどさ、三十分おきぐらいにATMで記帳してほしいんだ。で、何か動きがあったらすぐに店番から場所を調べて、連絡してほしい」
「わかったっす」
実際のところ、そう頻繁にATMへ記帳に現れる男など、振り込め詐欺のメンバーと間違われても仕方ないのだが、今はそれをフルーチェに頼むしかなかった。
他の口座はネットで使えるように登録してあったが、この口座は金額も少なければ使う頻度も低いのでそのままにしていたのが悔やまれた。
海は同じだけれど、海岸は少し違う。
清呼は一人で砂浜を歩きながら、ぼんやり考えていた。前に大鳥さんに連れてきてもらった時によく見ていなかったせいだろう、どうやら降りる駅を間違えたみたいだった。
でもまあ、海は海だし、砂浜も前に来た場所とつながっているんだから、全然違うというわけでもない。今日もやっぱりサーフィンをしている人がちらほらいるし、散歩している人もいる。
いま一度だけ海が見たくて来たけれど、気持ちは前みたいにすっきりと晴れない。
空はあの時と同じように真っ青で、海も変わらずこんなに果てしなく続いているのに、清呼にはもう未来を考える必要がない。それはとても寂しいことで、一方ではすごく落ち着くことにも思えた。だってもう誰にも迷惑をかけずにすむんだから。
そこまで考えると不意に春美さんの言葉が甦ってきた。
せめて手紙ぐらい書いて謝っとけよ。
そうだ、お金のこともあるし、龍村さんに手紙を書かなければ。
どこかに座る場所はないかとあたりを見回すと、すこし先の方に、大きな土管がいくつか置いてあるのが目に入った。清呼はすぐにそこへ走ってゆくと、一番手前に転がっている土管に入り、日に当たっている方に背中をつけて腰をおろした。予想通り、とても暖かくてしかも風があたらない。
早速ショルダーバッグの中からいつも仕事に使っているリングノートを取り出し、手紙を書き始めた。最初に一枚書きかけてやっぱり違うなと破り捨て、それからもう一度、こんどはゆっくりと考えてからとりかかった。
かなり長い時間をかけて清呼は手紙を書き上げた。途中で何箇所か字を間違えたりして、完璧にきれいとは言えないけれど、伝えたい事は全部書いたと思った。そうしてほっと一息ついたらなんだかまた眠くなってきた。
まだ昨日のお酒が抜けてないんだろうか。それとも、単に暖かくて気持ちいいから?清呼はとにかくしばらく眠ろうと思った。どうせ青木ヶ原の樹海には夜までに着けばいいのだ。
姿勢を変えて眠ろうとしていたら、龍村さんからもらったコートのポケットの中で、何かがカサコソと動いた。何だろう、もらった時に全部チェックしたのに。不思議に思って起き上がって調べてみたら、なんと内ポケットがあって、音はその中からしていたのだ。手をつっこんで取り出すと、それは龍村さんがいつも飲んでる胃薬の空箱だった。
胃薬か。清呼はつくづく龍村さんのことが心配になった。
昨日の夜、もしかしたら自分のせいで胃が痛くなっていたかもしれない。でも、この手紙が着いたらそれもおしまい。しばらくは何だよ、って思うかもしれないけれど、きっとまた元気になってくれるに違いない。そう自分に言い聞かせて、清呼は薬の空き箱をポケットにしまうと、ショルダーバッグを枕にして丸くなった。
海も広いが海岸も広すぎる。
大鳥に聞いた駅で降りて海岸に来てはみたものの、この広い空間で清呼を発見するのは至難の業に思えた。
龍村はとりあえず海沿いの歩道をずっと歩きながら、それらしき人影はないかとあちこちに視線を向けてみた。すでに時間は昼を過ぎ、春の日差しが柔らかに海面に反射している。
ここの海岸にはつきもののサーファーたちの他にも、散歩を楽しむ人や、運動部らしいランニング中の高校生たちの姿がちらほら見える。
フルーチェからは連絡がないままで、その事が余計にここを広く感じさせる。そのまましばらく歩いてから龍村は砂浜へと降り、まだ閉まっている海の家の前に置かれたベンチに腰を下ろした。
海に来て気持ちを立て直す。それがもし清呼の考えていることだとしたら、次は一体何をしに、どこへ行くだろう。龍村には、清呼が前向きな気持ちで海を目指したとはどうも思えなかった。あれほどのことを自分に言われて、海を見たから機嫌が直った、というほどにおめでたい性格でないことはもう十分に判っている。
自分は清呼に、お前は死ぬべきだ、という意味にとれる言葉を吐いた。
もしそれを素直に受け止めていれば、清呼は本気で死のうとするだろう。
考えたくない事だが、それを突き詰めないと答えが出ない。背中を丸め、膝に両肘をのせて頬杖をつく。遠くにかすむ水平線は春の大気に彩られて陽炎のようにゆらめいていた。
死ぬのなんか全然怖くないから。
清呼は何故だかすぐに死を口にする。あれはいつのことだったか、そう、大量に鼻血を出して寝込んでいた時だ。死ぬのなんか全然怖くないから。確かにそう言った。しかし何故そんな話になったのだったか。
もしどうしても病院に連れて行くって言うなら、そこの窓から飛び降りて死ぬ。
そうだ、病院に行くのを嫌がったのだ。そしてとにかくその前に死ぬと言い張って、それから最後にこう宣言した。
死ぬときは白骨死体がいいんだよね。青木ヶ原の樹海で男女不明の白骨を発見、なんてそんな感じが理想だな。
急に冷たい汗が背中を流れて、龍村は両手で顔を覆った。まさかとは思うが、その可能性を否定してはいけない。しばらくじっとそう自分に言い聞かせるようにして座っていたが、ようやく決心してフルーチェに電話をした。
「ちょっと調べてほしいことがあるんだけど。返事はメールで。ここから青木ヶ原の樹海までどういうルートがあるか」
今の自分が慌ててあれこれ検索するより、第三者に調べてもらった方が、まともな答えにたどり着けそうだ。そして電話を切ると、もう一度だけ清呼のケータイにかけてみた。
どうせまた電源オフだろう、そう思っていたのに、こんどは呼び出し音が鳴った。それに負けないほどの勢いで心臓が激しく打つ。
清呼、電話に出ろ!一言でいいから話をさせてくれ!
どのくらいの時間、そうやって呼び出し音を聞いていただろうか。それは一瞬つながったかと思えて、すぐに切れてしまった。そしてその後何度かけても、また元のように電源オフのメッセージが流れるだけだった。
少し寒くてお腹も空いてきて、清呼は目を覚ました。
朝、事務所のカードで千円借りて、コンビニでおにぎり二個とドーナツを買って食べたけれど、そんなものとっくに消えてしまった感じだ。しかしこれから死のうというのに、なんでまだ食べたがるのか、自分の胃袋が腹立たしい。ケータイで時間を見るともう三時近くになっていて、ずいぶん眠ったなと思った。
そして清呼は土管から出ると、大きく伸びをしてまた歩き始めた。電車の線路は海岸と平行に通っているから、そのうち次の駅につく。それからまた電車に乗ればいい。樹海で死ぬ方法については、昼寝したせいか、いいアイデアが浮かんでいた。
樹海に入り込んだら、清呼は自分の力を思い切り使う。周りには木が沢山生えているし、動物もいっぱいいるだろうから、多分みんなで清呼が差し出すものを受け取ってくれるだろう。中には病気や怪我をしている動物がいて、少しは元気になってくれるかもしれない。そうしたら自分はまた鼻血がたくさん出て、多分それで眠ってしまうから、あとは凍死するだけだ。
でも次の駅から青木ヶ原の樹海までは、どうやって行けばいいだろう?
とりあえずネットで検索しようと思って、久しぶりにケータイの電源を入たら、すごい勢いで電話の着信履歴が出てきた。ほとんど龍村さんで、あとは大鳥さんと事務所の人たち。それを見ているうちに清呼はまた落ち込んできた。
大鳥さん、三年から進学コースに編入するからって、高い方の授業料を振り込んでもらったのに一日も行かないで無駄にします。デボラさん、赤ちゃん生まれるまで待てませんでした。葵ちゃん、楓ちゃん、信生くん、さよならもちゃんと言いませんでした。涼子さん、あんなに色々アドバイスしてもらったのに、うまくその通りにできませんでした。佐野さん、親切に勉強教えてもらったのに、成績上がったところ見せられませんでした。フルーチェさん、北海道の動物園にいく約束、実行できませんでした。
清呼はその場にしゃがみこんで着信履歴が全部出るのを待った。それからようやく青木ヶ原までのルートを検索して、それをリングノートに書き写した。
よし、これなら何とか夜までに到着できそう。そう思って自分を励まして、ケータイの電源をまたオフにしようとしたら、いきなり着信が入った。画面には龍村久と出ている。
どどどどうしよう。
今電話に出たら、もう一回龍村さんと話ができる。でも何を話す?ごめんなさいで済むこと?
あれこれ迷っている間も、ずっとケータイは鳴り続けている。龍村さんはきっと、清呼がこうしてケータイを握ったまま固まってるのを判っている。お願いだからもうやめて。そう思って通話をオンにしてすぐに切ってしまうと、そのまま電源を切った。
もう駄目。絶対に電源は入れない。
十八 僕と私と清呼と
ケータイの電源を切ったのと同時に全身の力も抜けてしまった感じで、清呼(きよしこ)はとぼとぼと海沿いの道を歩いた。車が次々と追い越す度に、冷たい風が頬を打つ。
もしさっき電話に出ていたら?
言ってほしい言葉と、言われたくない言葉を考えるだけで胸が苦しくなった。
やがて次の駅を示す標識が見えてきて、交差点を曲がる。小さな雑貨屋さんの前を通ったときに、清呼は大事なことを思い出した。さっき書いた手紙を送らなければ。店に入ると、奥の方に絵葉書とカードのコーナーがあった。
封筒だけは売ってないみたいなので、一番安いバースデーカードを買うことにした。ついている封筒で手紙を出して、余ったカードは自分にあげる。
お金を払って財布に残った分を確かめると、やっぱり樹海にたどり着くには足りない感じだった。小銭と一緒に入れていた事務所の口座の取引残高は、六百六十円。
仕方ない、やっぱりこのお金も借りよう。
そう決めて外に出ると、駅の方に銀行の看板が見えた。走って行くと、ATMコーナーで端末にカードを入れた。
まずは財布に残っていた三百四十円を入金して、それから千円札を引き出すのだ。ところが入金をすませた後の残高は九千円に増えていた。
今朝自分が千円引き出した後に、誰かが八千円を振り込んだ?でもお客さんはこの口座に振り込みなんかしない。という事は、通帳で入金?
清呼はまたしても固まった。それをできるのは事務所にいる龍村さんだけだ。たぶん清呼がカードを持ってると判った上で。
でも、なぜ?
とにかく、今このお金があれば、確実に青木ヶ原の樹海まで行って、白骨死体になれる。
清呼は決心すると、もう一度カードを端末に入れた。
海岸から青木ヶ原へ行くにはどの経路を使うか?
フルーチェがメールで送ってきた候補のどれを選んでも、ほぼ間違いなくこの駅を経由することになる。
龍村は海岸から乗ってきた電車を降りると、そのまま人の流れについて歩いてみた。そうすると、勝手に乗り換え先路線の改札にたどり着く。たぶん清呼は自分と同じようにこの通路を歩いてくるに違いない。
まだ仕事帰りの時間には早く、行き来しているのは春休み中の学生たち、買い物帰りの女性や、外回り中の会社員といった人々だった。
人目につかないように柱のかげに立つ。先を越されている可能性もあったが、とにかく待ってみるしかない。少し前に薬を飲んだので、胃の痛みはなかったが、龍村はそこを鎮めるように掌をあてていた。と、ケータイへの着信を示す軽い振動が伝わった。慌てて開いてみると、フルーチェからの連絡だった。
「口座に動きあり。三百四十円の入金と九千円の出金。残高ゼロ」
そして銀行の支店番号と支店名の下にURLが貼り付けてあり、ウェブにジャンプすると地図が表示された。
しめた、清呼はまだここまで来ていない。読みが外れていなければ、あいつはこれから電車でこちらへ来るだろう。清呼、俺を甘くみるなよ。いくら逃げてもお前はまだ子供だ。ここで大人の実力を見せてやる。
胃に手をあてて、柱のかげに立ったまま、龍村はこの後のことを考えていた。
まず何をおいても最初に、自分の暴言を詫びること。そして自分や周囲に発生した一連のトラブルは、清呼と何の関係もないと言い聞かせること。それから一緒に帰ること。
もし自分といたくないのなら、それは仕方ない。顔も見たくないと言われても、おかしくないのだ。しばらく大鳥に預かってもらって、あとは清呼の好きにさせよう。
今まで考えていなかった別れが、突然はっきりと意識された。
それは仕方ない。
龍村は繰り返し自分に言い聞かせた。
そして何度目かにその言葉を胸の内で呟いた時、見慣れた姿がこちらへと歩いてくるのに気づいた。
自分のお下がりのコートを着て、ショルダーバッグをたすきがけに、少し不安げに辺りを見回しながら歩いてくる。たった一日姿を見なかっただけなのに、何年も会っていないような気がして、胸の動悸が早まった。
見つからないように少しだけ移動して、すぐに手が届く距離に来るまで、ひたすら待つ。意識を集中し、細心の注意を払って。
腕をつかんだその瞬間、清呼は反射的に逃れようと身をそらせた。それから振り向いて、自分をつかまえたのが誰かに気がつくと、ありえないものを見たという顔になって身を硬くした。
「心配したぞ」
言った途端に、龍村は後悔した。
何故こんな非難がましい言い方しかできないのか?別の言葉を探して迷うさなか、互いの視線だけが交差した。清呼の瞳の底には少しだけ安堵したような光がある。やはり本当は迎えに来てほしかったんじゃないか?その問いかけに反応したかのように、つかんでいた腕から力がふっと抜けた感じがあったので、龍村も少し手を緩めた。
その一瞬を縫って、清呼は力いっぱい彼の腕を振り払うと、ものすごい勢いで今きた方へと駆け出した。
慌てて後を追ったが、その姿はすでに駅の構内から外へ出て、ためらうことなく赤信号を無視して走ってゆく。
「馬鹿!危ない!」
そう思ったのか声に出して叫んだのか。ほぼ同時に派手なブレーキ音と、何かがぶつかる鈍い音が聞こえた。
飼い犬のモコは雑種で、茶色で和風な顔立ちなのに、妙にふさふさとした洋犬らしい毛並みだ。けっこう頭のいい奴で、自分が玄関で靴をはく気配ひとつで散歩かそうでないかを聞き分け、散歩の時は大喜びで跳ね回り、早く連れ出せと全身で呼びかけてくる。
今日は散歩だから、モコは大喜び。薄暗い玄関を出ると、庭で放し飼いになっているモコの首輪に散歩用のリードをつないで門の閂を抜く。そこでふと、漫画を買うつもりだったのを思い出し、財布をとりに自室へ上がる。そして階段を下りてくる途中、車のブレーキの不吉な響きを耳にする。慌てて玄関から飛び出すと門は細く開いていて、その向こうに白い軽自動車が停まっているのが目に入る。
モコ、ごめん、俺のせいだ。
震える足で近づいてゆくと、車の前には少年とも少女ともつかない子供が倒れている。身体の下には血溜りができていて、それは見る間に広がると、周囲のもの全てを赤く染めた。
はっと気がつくと、胃が鈍く痛み、全身に汗をかいている。シャワーでも浴びたいと思いながら起き上がると、誰かが声をかけた。
「何だかうなされてたみたいね」
「・・・涼子」
龍村はようやく、自分がどこで何をしているのか思い出していた。
ここは病院のロビーで、すでに深夜の時間帯。
自分に追われて道に飛び出した清呼は車にはねられ、数メートル飛んだ。その先は歩道にはみ出す商品陳列が名物のドラッグストアだったが、清呼はずらりと並んだレモン、マンゴー、マスカット味のこんにゃくゼリーの山に突っ込んで一命を取り留めたのだった。
とはいえ、龍村は警察で事情聴取を受ける羽目になった。
清呼の公的な身分は女子高校生だ。龍村から逃げようと全力疾走していたとなると、犯罪を疑われて当然だろう。
幸い住民票は大鳥の住所に残したままになっていたが、実は龍村と同じマンションで寝起きしていたことがばれたら更に面倒なことになっていたはずだ。それでも同じことを何度も質問され、大鳥だけでなく鉄輪氏にまで電話で身元を確認され、警察を後にして病院に着いた頃にはすっかり夜になっていた。
病院では大部屋に空きがなく、清呼は個室にいた。本来なら面会時間は過ぎているが、救急の患者ということで、ナースステーションで一声かけると通してくれた。
入り口の名札を確かめてドアを引くと、暗い室内に枕元の明かりだけがついていた。中へ入ってベッドを覗き込む。清呼は深く眠っているようで、額と頬の傷にガーゼを貼られているものの、苦しそうな様子がないのに少し安心した。
先に病院に駆け付けた大鳥からの電話によると、主な傷は左肩脱臼と腕の打撲および裂傷。その他あちこちの打撲と擦過傷。そして幸いなことに、CTの結果、頭の方は無事らしかった。
「清呼」と小さく声に出してみたが、何の反応もない。
毛布の上にのった左腕には、掌まで包帯が巻かれていたし、右手首には点滴の針がテープで留められたままになっていた。その指先にはコードのついたクリップが留められ、モニターに脈拍などの数値を映し出している。
ふと視線を落とすと、毛布の下から伸びている導尿カテーテルが目に入り、龍村は果てしなく申し訳ない気持ちになった。
清呼が何よりも病院を嫌がったその理由。性別について詮索されること。その気持ちを踏みにじるように病院送りにしてしまったのは自分だ。
これからすべき事を考えながら、龍村は清子の寝顔に「また来るから」と声をかけて部屋を出た。ナースステーションに再び顔を出すと、よく日に焼けた中年の看護士が奥から小走りに出てきた。
「これ、お預かりしていたお荷物です」
そう言いながら、清呼のショルダーバッグとデパートの大きな紙バッグを差し出す。
「手違いで、先に来られたご家族の方に渡せてなくて。受取にサインが必要ですが、お渡しして大丈夫ですか?」
「あ、はい」
「患者さまのお洋服は全部こちらに入れてます。それと、これなんですけど」
少し申し訳なさそうに、ファスナーのついた小さなビニール袋を差し出した。
「打撲のせいで指が腫れていましたので、申し訳ありませんがこちらで切らせていただきました」
手渡されたものをよく見ると、それはいつぞや無理やり買わされた指輪だった。一箇所を切って大きく広げてあるので、もう使い物にはならないが、その歪んだ形と傷ついた清呼の姿がだぶって見えた。
「大丈夫?」
涼子はスプリングコートを着て向かい側の長椅子に腰掛けていた。膝には水色のパジャマが広げてある。
「ああ、変な体勢で寝ると悪い夢見るから」
龍村は身体を起こして座りなおした。
「でも、なんでここにいるの」
「必要とあらば、私はいつでもどこにでも現れる」
涼子はそう言って、手にしていた小さな爪切りで、パジャマについている値札の紐を切った。
「大鳥さんが、ここの病院だって教えてくれたから、着替えとかいるだろうと思って」
「さすが気が利くね。俺、何も思いつかなかった」
「あんたにそんな心の余裕は期待してないわよ。ねえ、私ちょっとお腹がすいたんだけど、ここの向かいのファミレス、つきあってくれる?」
ファミリーレストランは深夜なのに結構な客の入りで、そのうちの何組かは病院のスタッフらしかった。涼子はチーズトーストとコーヒーを注文し、龍村は卵のホットサンドと紅茶にした。
「これが着替え類だから、ナースステーションに預けておいて」
注文をすませると、涼子は先程のパジャマを入れた紙バッグをテーブルに置いた。
「そっちのは私が預かっていくわ」と、龍村の手元にある紙バッグを指さす
「え?これは清呼が着てた服だけど?」
「だから私が持って帰って洗濯しとくのよ。あんたが持ってても仕方ないでしょ」
それもそうだと思って、言われた通りに差し出す。
「まあ、もう着られる状態じゃないかもね」
涼子はそう言うと、闇の向こうに浮かぶ病院に視線を投げた。無表情なウエイトレスがやってきて、乱暴に注文の品を並べると「ゴユックリドーゾ」と呪文のように唱えて去っていく。
「文句つける気にもならないわね」
「疲れてるんだろうな」
二人はしばらく黙々と飲んで、食べた。
「ねえ、何があったか知らないけど、多分あなたが悪いんだろうから、ちゃんと謝りなさいよ」
涼子はぽつりとそう言った。
「判ってる」
「それにしても、どうやって清呼のこと見つけたの?」
「運のいい偶然かな」
「多分あなたたち、相性がいいのよ」
皮肉かとも思ったが、涼子は真剣そのものといった顔つきだ。
「相性がよければこんな事になってないよ。そう言うあんたこそ、何だって清呼にそんなに親身なの?」
「さあ、あの子は私が失くしたものを思い出させてくれるから、かな」
涼子は少し寂しげな顔つきで眼を伏せ、コーヒーを飲んだ。
龍村から見れば、彼女はそれを失くしたわけではない。ただ容易に他人に見せないだけで、一生大切に守り続けるはずだ。
二人はまた黙って病院を眺めていたが、龍村は涼子に言うべき事を思い出した。
「あの、ちょっとお願いがあるんだけどさ。俺は清呼が目を覚ましたら、病院から連れ出して逃げるかもしれない」
涼子は少し考えて、「何故?」とたずねた。
「あいつすごく病院嫌いなんだよ。要するに自分の性別について、あれこれ調べられたくないからなんだけど。だからさ、そんな事になる前に逃げようと思って。もちろん怪我はちゃんと治すように別の病院を探すつもりだけど。それで、こっちは先に失礼するから、後始末をうまくやってほしいんだ」
涼子は頬杖をついて、龍村の顔をまじまじと見た。
「いつからそんなに度胸のいい男になったのよ」
「度胸がよくないから、手伝ってほしいんだけど」
「やるとしてもあんたのためじゃないわよ」
「それは十分承知してる」
「わかった」
病院の玄関で客待ちのタクシーに乗った涼子と別れ、龍村は再びロビーへ戻った。
急患の家族なのか、初老の女性と息子らしい男性が、不安そうな顔つきで長椅子に座っている。彼らの邪魔にならないよう、龍村は少し離れた場所に腰を下ろした。
少し眠ろうかと思ったが、さっき飲んだ紅茶のせいか、眠気はすっかり消えてしまった。朝まではずいぶん時間があるけれど、慌てて家を出たせいで、読んでおきたい仕事の資料も何もない。
まあとりあえず、横になっておこうかと、身体の向きを変えると、涼子に預けていなかった清呼のショルダーバッグが目に入った。
あいつ一体、何を持って出て行ったんだろう。
そんな事を思ってキャンバス地のバッグを手に取る。他人の持ち物を覗き見するなんて、という気持ちと、少しでも清呼の考えを知りたいという気持ちが半々で、結局後者が勝った。
まず財布、カラオケの広告が入ったティッシュが三個、ケータイと、いつも涙を拭くのに手放せないハンドタオル、コンビニ袋に入れられたゴミ、そして使い込んだリングノートにボールペン、使っていないバースデーカード。持ち物はそれだけだった。
ノートの中身は、清呼が初めてバイトに来た頃からの色々な覚書きだ。電話の取り方、郵便の出し方、よく電話をかけてくる取引先の名前、道に迷わないための方法。先へ進むとそれはタスクリストに変わってゆく。そして時々、失敗の反省。最後に書き込まれていたのは樹海へのアクセス方法だった。
思わず溜息が出る。フルーチェが留守を引き受けてくれたのは幸運だった。清呼にとって彼はパソコン関連の師匠だ。だから二人はたぶん同じサイトで経路を検索し、同じ結果を得たのだろう。でなければ今頃一体どうなっていたか。
やれやれと思いながらノートを閉じようとしたが、後ろの方に何かはさんである。開いてみるとそれは白い封筒だった。表には事務所の住所と龍村の名前が書かれている。
自分宛ての手紙。
正直なところ読むのが怖いが、なかったことにもできない。封を切ろうとして、手が震えているのに気がついた。
龍村さんへ
まず最初に、最近起きた色々な悪いことについてあやまらせてください。くわしいことは書けませんが、みんな清呼のせいです。もっと早く気づいていたら、龍村さんや他の人にもこんなに迷惑をかけずにすんだのに、と思うと後悔でいっぱいです。だから責任をとるために、死ぬことにしました。
自分のことを清呼と書くのは子供みたいで変ですが、僕でも私でも本当の気持ちを伝えるにはぴったりしないので、がまんして下さい。
お金はちゃんと持っていたつもりでしたが、色々あって足りなくなってしまったので、口座から黙って借りました。すみません。このお金は今月分のお給料から引いてください。ていうか、もうお給料はいりません。キャッシュカードも一緒に送ります。
希望としては、誰にも見つからないか、せめて白骨化してから発見されたいのですが、こればっかりはどうなるかわかりません。葵ちゃん、楓ちゃん、信生くんには、清呼は村に帰ったって事にしておいてほしいです。他の人たちにも、清呼があやまっていたと伝えてもらえるとうれしいです。事務所に置いてきた荷物をどうするかは、大鳥さんに相談してもらえばいいけれど、ポンキチは信生くんにあげてください。
実は今日は清呼の十七才のバースデーです。十七才ちょうどってことで、もしかしたら最初からこういう運命だったのかな?でも心配しないで下さい。死ぬことは少しもこわくないです。
それよりも今日、これまでのことをふり返って、清呼は幸せだったと感じました。人とはちがう風に生まれて、もしみんなと同じだったら?と考えてばかりでしたが、龍村さんのところに来てはじめて、こんな風に生まれてよかった、と思いました。でなければ龍村さんに出会えなかったからです。
もちろん大鳥さんや、涼子さん、デボラさん、佐野さんやフルーチェさん、みんなのことも大好きですが、龍村さんは清呼にとって特別な人でした。毎日一緒で本当に楽しかった。色々とバカなことをしてたくさん叱られましたが、清呼には龍村さんがとてもやさしい人だということがよくわかってました。だから龍村さんのことが大好きでした。龍村さんのためなら死んでしまっても平気なぐらい。こんな風に大人のひとを好きになったことがないので、どう書いたらいいのかとてもむつかしいんですけど。
でも、清呼がいま死のうと思っていることと、龍村さんのために死ねるということは全然別ですから、ぜったい気にしないで下さい。この一年があっただけで、清呼は十分に生きたと感じています。たぶん百年生きたのと同じぐらい満足です。
ただ一つだけお願いがあります。デボラさんがとってくれた二人の写真を、清呼はあずかったままです。いらないって言っていたから何となくわたせずにいましたが、やっぱりどうしても龍村さんに持っていてほしいのです。ベッドの下の箱に入れてあるので、かざったりしなくていいから、ただ持っていてください。
では、清呼はいつまでも龍村さんの幸せを祈っています。
ありがとう。さようなら。
鉄輪清呼
翌日も、そのまた翌日も、清呼は眠り続けた。脳に損傷がないことは判っていたし、強い呼びかけには反応を示すので、医師からは事故へのストレス反応かもしれないと言われた。
病院に詰めていても何の役にも立てないので、龍村は強制的に日常を再開させた。病院とのやり取りは大鳥が窓口になっていたが、日に何度か入るメールは、状況は変わらないと繰り返すだけだった。
時間の経つのがおそろしく遅く、それでいて一日何をしていたか思い出せないほど、心はあらぬ所をさまよっていて、何を食べても味がしなかった。
そして四日め、状況はいきなり変わった。
朝のニュースを見ているところへ、大鳥から清呼の意識が戻ったらしい。という電話がきた。詳しい事はまた連絡すると言われたが、龍村は電話を切った五分後にはもう出発していた。
それからずっと考え続けていたのは、最初に何と言うべきかだった。
人込みを歩き、駅のホームに並び、電車の窓に流れる景色を見ながら、一つ思いついては考え直し、また一つ思い浮かべて却下する。結局、顔を見ないことには始まらないと諦めがついた時には、もう病院に着いていた。
前に来た時は夜だったし、半端ない気持ちの落ち込みのせいもあって、病棟には陰鬱な印象しかなかったのだが、今日はまったく違って見えた。本来ならまだ面会時間ではないのだが、ナースステーションに行ってみると、個室なのもあって通してもらえた。
軽くノックしてから病室のドアを引くと、清呼はなんとベッドの背を起こして、つまらなそうにテレビを見ていた。涼子が持ってきた水色のパジャマ姿で、ドアが開いたのに反応して気配にこちらへ顔を向けたが、誰が来たのか判ると、困ったような表情で下を向いてテレビのスイッチを切った。
龍村はそのまま歩を進め、ベッドのそばに立った。
自分は今どんな顔をしているのだろう、不機嫌そうに見えなければいいけれど。そして軽く深呼吸して、傍にあった丸椅子に腰を下ろすと、清呼と目の高さを合わせた。
「おはよう」
出るに任せたら、こんな言葉だ。
「気分どう?」
清呼はまだ伏し目がちに「元気」と答え、「なんとか自分で顔洗って歯磨きできたよ」と続けた。
思わずベッドの足元へ視線を走らせたが、カテーテルからも解放されたらしい。あらためてその姿を確かめたが、左腕の包帯はあいかわらずだ。その下からのぞく指先の腫れは引いたようだし、額と頬の傷も小さくなっていたが、顔の輪郭が随分と鋭くなっている。
「龍村さん、痩せたね」
清呼は初めて龍村をまっすぐに見た。
「俺も今、お前の顔見て同じこと思ったよ」
「ずっと寝てたんだもの。四日もだって。でも、龍村さんは自分で食べなかったんでしょ?」
「ちゃんと食べてたよ」
「ごめんね。謝ってすむことじゃないけど、それでも、ごめんね」
清呼はそう言って俯くと、パジャマの袖で目を拭った。
「謝るのはこっちだ。清呼、俺はあの時すぐにでも謝るべきだったのに、そうしなかった。自分勝手な八つ当たりで、どんなにお前が嫌な思いをしたか、判ってたのに。すごく後悔したし、もう会えないんじゃないかと本当に怖かった。あんなひどい事言ってごめんよ。そしてこんな目に遭わせて。許してもらえないとは思うけど、謝らせてほしいんだ。それと、生きててくれてありがとう」
清呼は何も答えず、ただ俯いてパジャマの袖で目元を覆ったままだ。その辺にティッシュの箱でも置いていないかと思ったが、見当たらない。仕方ないので上着のポケットをさぐるとハンカチが出てきた。それは去年の秋、清呼が誕生日のプレゼントにくれたものだった。
「これ使った方がいいと思うよ」
そう言って差し出すと、清呼は黙って受け取ってまた目を拭った。袖口の涙の痕がひときわ青い。そして病室には沈黙が訪れ、しばらくは清呼が鼻水をすすり上げる音ばかりが続いた。
どれくらいの時間そうしていたのか、ようやく気持ちが落ち着いたらしい清呼は、やっと顔を上げると、まだ涙のにじんだ目元に少しだけ、恥ずかしそうな笑みを浮かべた。そして枕元に置いてあった、ミネラルウォーターのペットボトルを手に取った。
「蓋あけてもらっていい?両手うまく使えないから」
龍村はうなずくと、蓋をあけて清呼に返した。そして飲み終わったところでまた受け取ると、蓋をして元の場所に戻す。
自分にはまだ言う事がある。ここからの脱走計画だ。
「あの」
彼が口を開いたのとほぼ同時に、清呼も声を出していた。思わず顔を見合わせ、一瞬どうしようかと思ったが、先を譲ることにした。
「そっちからどうぞ。俺の話はちょっとややこしいから」
「そうなんだ?」
清呼は少しためらうようなそぶりを見せたが、ややあって口を開いた。
「びっくりすること教えてあげる。目が覚めたらさ、女の子になってたよ」
「えっ!」
思わず大声をあげ、椅子から立ち上がりそうになった。いや自分が動揺してどうする。「そ、そうか」とかろうじて答え、座りなおした。
なんでわかった、とは聞くだけ野暮だ。しかしここは何と言葉をかけるべきなのだろう。
「よ、よかったね」
「やっと他の人に追いついた感じ」
清呼は笑顔を見せたが、それは一瞬のことで、すぐにとても不安そうな表情を浮かべた。
「でも大人になるのが、何だか凄く怖い。まるで大きな川を流されているみたい」
震える声でそう言って眉根を寄せる。
たしかに清呼は今、怪我のせいでベッドにいる。しかし龍村の目にはむしろ、内側から湧き上がる、成長しようとする力に圧倒されて身動きがとれないように見えた。
「大丈夫、みんな別に何も考えないで大人になってるんだから」
少し落ち着かせようと、怪我していない右手をとった。よかった、またいつもの暖かい手をしている。そう思って安心すると同時に、今までこらえていたものが一気に押し寄せてきた。
そう、ずっと逃げていたのは自分で、あの夜、あの手紙で捕まってしまったのだ。
龍村は身体を寄せると、清呼と唇を重ねた。はじめは軽く、柔らかな温もりを十分に感じて。頭の片隅で、いま誰か入ってきたらどうしようなどと臆する気持ちがちらりと浮かび、そして思うのだ、誰がここに現れて何を言われようと、自分たちはこういう関係なのだと認めるしかない。
少し強引に舌を割り込ませると、清呼は一瞬全身を硬くした。そして徐々に力を抜いてゆくと、後はされるままに身を委ねた。
しばらくしてようやく身体を離すと、清呼はまた泣いていた。涙は目尻の白い傷痕を伝い、龍村は再び顔を寄せるとそこに唇をつけた。濡れた傷痕は海の味がした。
(二)に続く
四月、雨の夜にはじまる