ドッペルゲンガー
エレベーターが開くと、地下鉄が発車するところだった。俺はドアが閉まるギリギリのところで電車に飛び込み、優先席で眠っている男の前でつり革に掴まった。車内は混み合っていて、乗客のほとんどは仕事帰りのサラリーマンだった。彼らは一様にうつむいたまま沈黙している。電車が動き出すと、車窓に映る電灯が右から左に流れ、徐々にスピードを上げていく。俺は目を閉じ、車内の沈黙の中に溶け込もうとした。その時、車窓に人影が見えたような気がしたが、俺はそのまますぐ眠りに落ちてしまった。
改札を出ると、外はずいぶんと蒸し暑かった。九月の生温かい風が、宝くじ売り場の前に並んたのぼりをはためかせている。路面が少し濡れていたが、雨は降っていない。
ガード下の飲み屋横丁は、この日はじめてサラリーマンたちが呼吸をするかのごとく賑わっていた。俺は人混みを避け路地裏にある小さな酒場の暖簾をくぐった。すると、客たちが一斉にどよめいた。カウンターの脇にあるテレビの野球中継が、ホームランを打った選手を映し出している。俺はできるだけ人の少ない隅の席に座って、ハイボールを飲みながらテレビという虚構について考える。人間というものはたいてい目の前の現実には耐えられないものだ。だがそれが人間の人間たる所以なのだろう。自らが造りだした地獄の景色は別のものに塗り替えられなければならない。その世界を眺めるのは良い、だが決してその中には入らぬことだ。
やがてハイボールがなくなると、俺はまた店内の騒がしいノイズに巻き込まれ始めていた。すぐにまたハイボールを頼もうとしたそのとき、空になったボトルのラベルが黒い影に染まっていた。人の横顔にも見える。すると客たちがまたどっとどよめいた。俺はたまらず酒場を飛び出した。そして、タバコ屋の角を曲がって裏路地を抜けると、スーツを脱ぎ捨て夜の川に飛び込んだ。
あたりは真っ暗で川の水は温かくもなく冷たくもない。見上げてみると水面に赤や緑のネオンの光が揺らめいているのが見えた。私は頭を沈ませ、両手で水をかき分けながら川の底へと潜っていく。川は思ったより深かった。魚はどこにも泳いでいない。プランクトンのような微生物さえも見当たらない。闇がだんだん深まって視界が閉ざされていくだけだ。やがて、川の底の方がぼんやり明るくなっているのが見えてきた。川底に行きつくと、無数の小石が転がっていた。どれも研磨されたような綺麗な石だった。こぶしくらいの大きさのものもあれば、漬物石くらいの大きさのものもある。それらの石が蛍のように淡い光を放っている。まるで見えない星のようだ。俺はしばらくその光景に目を奪われていた。すると、どこからか時計の振り子の音が聞えてきた。すごく懐かしい響きがする。その時突然、小石の一つが眩い光を放った。光が強烈すぎて目を開くことができない。俺は思わず背を向けて両手で顔を覆った。それでも光は顔を覆う両手を貫いて目を刺激した。どれくらいの時間そうしていたのか分からない。このまま光の中に身体が溶けてしまうのではないかと思われた。しかし光は突然収まった。どこからか女の声が聞こえてくる。
「お父さま、どうか助けて下さい」
おそるおそる目を開けてみると、若い娘が逆さに吊るされているのが見えた。筆のように長い髪が垂れ下がり、薄汚れたコンクリートの床に触れていた。側の洗い場からは水道の水が溢れ出ていて、床の上を臓物やゴミなどが流れていった。
「私が生きていた折は、お父さまもお母さまも共に可愛がって下さりました。いつも好きなようにさせて下さいましたので、私はお許しも得ずに家の物を勝手に使い、また人にも与えたりしていました」
娘は紫色に染まった顔を店主に向け声を振り絞った。
「この野郎、静かにしねえか。お客様がいるだろうが」
店主は壁に掛けてある棒を握りしめると、娘は体を揺すって店主に哀願の眼を向けた。
「決して盗んだわけではありません。願わくば、どうかお助け下さい」
「今日の羊はやけにやかましく鳴きやがる」
どうやら店主には、その娘が羊にしか見えていないようだった。店主は棒で娘を激しく殴打すると、娘は目玉を剥き出しそれきり何も言わなくなった。店主は包丁で娘をさばくと、鍋の中にその肉を放り込んだ。客たちは酒をあおる度に、鼻と耳から白い煙を吹き出していた。
煙で満たされた視界が開けてくると、俺は川底の闇を漂っていた。するとまた別の石が言った。
「わしは今はこの寺の軒下に棲む三尺ばかりの鯰であるが、どこへ行くこともできぬ。ここは水も少ない。狭くて暗いところで、実に情けなくも苦しい目にあっておる。息子よ、明日大風が吹いてこの寺が倒れるであろう。わしは庭へ這い上がりおまえの前へ行くゆえ、加茂川へ放してくれ。そうすればわしは広々と生きることができる」
目を覚ました和尚は、たった今見た夢のことを小僧に話した。すると、他の小僧たちもみな同じ夢を見たと言う。
翌日の昼過ぎになると、にわかに曇りだし、空が破れてしまったかような風が吹き始めた。人々は慌てて家屋などを修繕し始めるが、風はいよいよ強く吹いて村の家々はみな吹き倒された。そしてとうとう寺も吹き倒された。そのとき、雨水が溜まったところに、三尺もある鯰が庭へと這い出してきた。ところが、和尚は草刈りの鎌で鯰のあごの辺りから掻き切って、桶に入れてしまった。小僧の一人が「この鯰は、前に夢で見た魚ではありませんか。どうして殺してしまったのですか」と言う。和尚はしまったと思ったが「どのみち殺されるのも同じことだ。むしろ他人を交えず、息子が喰えば故人も悦ぶだろう」と言いながら、ぶつぶつと切り身にして煮て喰ってしまった。
「不思議だ、どうしたことか。他の鯰より味が良いのは。これが故人の肉だからか。この汁をすすれ」
そうしてあっという間に皆で鯰の汁を平らげてしまった。
和尚の笑い声が消えてなくなると、俺はまた川底の闇にいた。どこかで汽笛がけたたましく鳴った。遠くに見える小さな光は徐々に大きくなり、電車が近づいてくるのが分かった。目の前を過ぎてゆく電車にはのっぺらぼうの乗客が詰め込まれていて、その中に俺がいるのを見た。そのとき、ふいに何かが俺の傍を通り過ぎ、そのただならぬ沈黙に悪寒を覚えた。その影はすぐに川底の闇に溶け込んでしまった。
ドッペルゲンガー