贖罪

1.
 私と富士津西燭の出会いは30年前にまで遡る。
 私の実家に彼の描いた絵が飾られていたのである。
 その絵は、富士津が美大在学中に描いた作品だ。何のことはない、ただのシロツメクサの絵である。しかし、在学時から既に稀代の天才と囃されていた彼の筆力を以てすれば、8才の少年に画家を志させるに足る尤物となる。
 富士津の絵は写実的である。だが、見た物をそのまま写すのならカメラの方が余程上手くやる。彼の絵は、写実で以て現実を凌駕しているのだ。儚さと可憐さ、そこに魅惑を加えた艶美と、自然の中淘汰されまいと懸命に、それでいてどこか傲慢に咲き誇る雄大な美とを併せ持つ。それが彼のシロツメクサである。私はきっと、シロツメクサの実物を見ても彼の絵を見た時以上の感動は覚えないだろう。彼のシロツメクサはその額縁の中にのみ存在する。まさに芸術の本懐とでも言うべき傑作を、富士津西燭という男は弱冠22才で描き上げていた。
 私が画家になりたいと打ち明けた時、母は決していい顔をしなかった。私を女手1つで育て、かつ自らも作家という不安定な職であったから、私には安定した職に就いて欲しかったのだろう。
 結果、私に根負けする形で、母は私の画家になるという夢を認めてくれた。以降は精力的に協力してくれた。夢を打ち明けたその週末に、私は画材屋へ連れて行かれた。母も心なしか嬉しそうに見えた。
 私には幸運にも幾許か才能があったようで、小学生の内から何度か賞を獲った。
 勢いそのままに、私は数々の著名な画家を輩出した名門美大への入学を決めた。そこは富士津西燭の母校でもあった。更に、私は特待生の枠を勝ち取ったのである。
 合格通知を受けた日の夜、私は母の部屋へ呼ばれた。
「まずは、合格おめでとう」
 母はフッ、と微笑んだ。しかし、その目は私を捉えてはいなかった。確かに私の方を向いているのだが、私と何かを重ね透かすような様子で、私を見ながら見ていなかった。
「正直、驚いているわ」
 不思議に無機質な声色だった。
「……血は争えないようね」
 その口吻はやや沈鬱を帯びていた。母はどうやら自身と私を重ねているらしい。作家という大別すれば同種の職で食っている自分の血が息子にも継がれていることを、呆れながらもしみじみと吟味しているようだった。
「1つ、約束してくれる?」
 母の視線は俄然私を射竦めた。精悍な顔付であった。
「あなたにはきっと才能がある。だからこの先、色々な人から、あなたの画家としてのルーツを問われる機会が何度も訪れると思う。でもその時に、決してあのシロツメクサや富士津西燭のことを話さないで欲しいの」
 この時、私は気付いた。母が富士津西燭という名を口にするのは明確に2度目である。1度目は、幼少時にシロツメクサの作者を私が尋ねた時であった。思えば、あの絵が家にある理由を私は知らなかった。
「約束できる?」
 柔らかな口調の裏にある静かな気迫は、首肯以外の選択肢や考える余地を与えなかった。私はただ、うん、と頷いた。
 母の言う通り、私は在学中から何度も取材を受けた。偏に私の作品が評価されたからである。初めて絵を描こうと思ったきっかけ、尊敬している画家、その種の質問も幾度となくされた。その際、私は家にあった画集を見た、尊敬しているのはそこに載っていた者だと答えていた。
 私は取材を全く気に掛けていなかった。絵が描ければそれでよかったのだが、とある雑誌が、大学生にして優作を連発する私を富士津西燭に重ねた時は、内心高揚した。富士津西燭の再来、それはいつしか私を指す言葉になっていた。
 大学4年、周りの者から「卒業制作」という単語をよく聞くようになった。しかし、そんなものはとうに私の眼中になかった。
 「冬明展」という賞、その審査員に富士津西燭が選出されたのを知ったのだ。元々、冬明展は若手の登竜門としても名高かったため、いずれは応募せねばならないと思っていた私にとって、これは好機であった。
 私はまず、卒業制作として提出する用の絵を半月弱で完成させた。新しい試みなど何もない、焼き増しのような凡作だった。
 冬明展の締切は11月中旬、半年近く余裕がある。私は着想から形にするまでが早い。半年という期間は、十二分であった。
 それに、私には既に1つ、モチーフの見当がついていた。私の原点とも言える、富士津西燭のシロツメクサである。
 私は富士津西燭のことを誰かに話したくて堪らなかった。私をここまで連れて来たのは彼だ。面識はなくとも、彼は私の師と言って過言でない。だが、私には母との約束がある。ならば、絵によって語るより外ない。
 白状するが、この時の私は、画家になりたいという夢や、他の誰もが表現し得ない何かを自らの筆で表現したいという野心よりも、富士津西燭に認められたいという下心によって絵を描いていた。
 だが、そういった邪な願望は時に純粋な熱情をも超越する。否、混じり気のないという意味から言えば、私のこの邪心も心底から湧き出た純粋なものである。ともかく、富士津西燭のシロツメクサというモチーフに自らの全心血を注いだその絵は、少なくとも当時の私の作品中では紛うことなき最高傑作となった。
 果たして私は冬明展にて、富士津西燭特別賞、つまり富士津西燭が最も気に入った作品に贈られる賞を受賞した。半ば呆気なく、私の望みは1つ叶ったのだ。
 私の幸運はこれだけに留まらない。授賞式後、富士津邸に招かれたのである。私はとうとう、富士津西燭その人に見えた。14年追い続けた影をようやく捉えたのである。
 富士津西燭は、郊外の山中に居を構えていた。一目で財を成したことの察せる、豪奢な洋館であった。
「単刀直入に言おう」
 卓に着き、使用人を下げさせた富士津は言った。44才の彼だが、声の張りといい、ツヤのある肌といい、私とそう変わらない年に見えた。
「君の作品、「再考・シロツメクサ」……、あれは私のオマージュだね?」
 富士津は穏やかな笑みを湛えていた。私は少しはにかんだ。
「ええ、授賞式の場ではああ言いましたが、実はそうなんです」
 授賞式にて別の経緯を話したのは、無論母との約束を反故しないためであったが、富士津本人を前にして私の口は緩んだ。些かの罪悪感を覚えながらも、私は私の過去、ここに至るまでの発端と道程を語った。
 聞き終えた富士津は、暫く呆然としたかと思うと、徐ろに俯き、両の目頭を指で抓んだ。彼の頬を涙が伝った。
「巡り合わせだな」
 震える声で彼は呟いた。
 この日より、私は正式に富士津西燭に師事することとなった。

2.
 富士津西燭は、(画家に対してこの表現を使うのは憚られるが)絵に描いたような芸術家の性向を持つ人物であった。
 1日中アトリエに籠もる日もあれば、示し合わせもなく朝から私を叩き起こして遠くへ連れ出したり、かと思えば予てよりの用事を当日に取り止めたりと、とにかく気儘で奔放である。そのくせ、自らの美学に反するとなれば梃子でも動かない。彼の縦横無尽、飄逸自在振りにやや辟易することも屡々であったが、何より退屈とは縁遠い日々だった。
 そんな生活を送りながらも、富士津は画家としての衰えを知らなかった。着想、発想の斬新奇抜に、経年により洗練された技術を加えた彼の筆力は、次々と傑作を生み出した。彼が50になる頃には、世界においても、押しも押されもせぬ画家としての地位は盤石であった。
 対して、私は富士津の下で活動を始めてから全く伸び悩んでいた。生まれて初めての感覚であった。
 実力が落ちた訳ではないから、それなりに評価はされる。何度か個展も開いた。しかし、どうにも突き抜けないのである。
 その一因は間違いなく富士津にあった。勿論、彼に様々に連れ回されることによる体力的な疲弊もあったが、深刻なのは寧ろ精神的な憔悴であった。
 「再考・シロツメクサ」が彼に評価されたことで、物理的には言わずもがな、画家としても私は彼に近付いたと思っていた。そしてそれは思い上がりではないように感じる。彼の背中は見えている。だが、それ以上距離が縮まらない。私と彼の間には明確な隔たりがある。
 富士津は私の絵を1度たりとも貶したことはなかった。しかし、彼は正直な男である。私の絵が琴線に触れていないのはその反応からも明白であった。畢竟、最も彼の胸を打ったのは「再考・シロツメクサ」である。
 私の自信は徐々に減衰していた。剰え、富士津への憧憬も薄れていた。彼の絵と私の絵とを見比べる度に、その差をまざまざと思い知らされるのだ。この時期の私には、既に「再考・シロツメクサ」を描いた時のような気持ちはなかった。単純に画家として大成したかった。しかし、画家としての矜持を抱いて描き上げた絵よりも、富士津に認められたいと、いわば奇を衒って描いた絵の方が讃辞を浴びている。富士津に限った話ではない。世間にとっても、私の代表作というのは未だに「再考・シロツメクサ」なのだから。
 燻ったまま、気付けば私は30になっていた。私はその日もキャンバスに向かって腐心していた。当時の私にとって絵を描くこととは、私と富士津を隔てる深淵に絵の具を投げ捨てる行為そのものであった。だが、私はまだ希望を持っていた。深淵に底がありさえすれば、いずれはそこに投げ込んだ屍が橋を架けると信じていた。私は何か着想の兆しにならないかと、アトリエ中に死屍累々と散らばる過去の作品や、没にした原案を見返し始めた。
 部屋の隅、それも重なる没案の1番下に「再考・シロツメクサ」が横たわっていた。富士津のシロツメクサが私の原点だとすれば、これは第2の原点のようなものである。そんな思いから、私はこの絵を手元に置いていたのを思い出した。埃を被ってくすんで見えた。
 たまに実家へ帰っても、私は富士津のシロツメクサが飾られている部屋へは立ち入らなかった。それでも詳細に脳裏へ浮かぶそれと、「再考・シロツメクサ」を並べてみた。
 差は歴然である。類稀なる傑作と、毛と蛇足の生えた凡作である。自らの最も優れた作品がこれなのか、と私は打ちひしがれた。そうして意気消沈し、絵を描く気力も失せ、寝室へ向かった。
 夢中にて、私は富士津を追い掛けていた。私が幾ら懸命に足を繰っても、彼はどんどん離れていく。彼はいつも通り飄々と歩いている。私は息も絶え絶えに追い縋る。
 突如私は何かに足を取られて転び、地面に伏した。足首にツタのようなものが絡んでいた。
 ひび割れた地面から生えたそれは、見る見る内に生い茂る。私を取り込まんばかりの、苛烈な繁茂である。私は磔のように掲げられた。そこで初めて、私はそれが巨大なシロツメクサであると気付いた。しかもただのシロツメクサではない。富士津の筆致そのままのシロツメクサであった。
 頭上に咲く花はやがて稲穂のように垂れ下がり、私の眼前で止まった。存在しない筈の双眸から、嘲るような視線を感じた。その不快な膠着状態は目覚めるまで続いた。
 この夢を見て後、絶望は私に付き纏った。絡みつくシロツメクサのようである。私の作品は暗い作風のものが増えた。妄執や拘泥をまず前提に据えてモチーフを練るようになった。世間からの評価は変わらないどころか、却って少し高まった。だが、依然として富士津にはつゆも及ばない。
 この辺りから、私は富士津の域へ踏み入ることを半ば諦めていた。私は私の埒の限りを知った。また、その内で好きに絵の具を塗りたくる方が余程楽だと悟った。
 35になる時分には、私にとって絵は完全に飯を食う手段へと成り果てていた。30半ばまでずるずると続けてしまったが最後、最早他の食い扶持を探す訳にもいかなくなっていた。芸術などという靄と取っ組み合うより、金のために思考する方が遥かに容易く答えを出せるので、以前のように題材や構図に悩むことはなくなった。とはいえ気力は必要である。死後残る芸術、それが一体何者だ、今食えなくては困るのだ。そうやって消極的に自分を奮い立たせなければ、今にもキャンバスを破いてしまいそうであった。
 富士津はといえば、齢57にして尚、現人神としての神格を保っていた。それどころか、新たな題材や画風にも嬉々として挑戦する気概は、年を重ねて寧ろ色濃くなるばかりである。髪に白いものが混じり始め、外見は老いても、作品から溢れる生気は留まるところを知らない。彼の中で1、2を争う代表作「色彩の祭壇」が描かれたのもこの年である。
 更に3年が過ぎ、私は38、富士津は漸う還暦を迎えた。還暦の祝宴は国内に留まらず各国より著名人を招き、盛大に行なわれた。その日の深夜、人で溢れ返った分、後の森閑が際立つ余韻の中である。
「……話とはなんでしょうか」
 私は富士津のアトリエに呼び出された。絵の具の匂いと数多のキャンバスで埋め尽くされた部屋の中央には丸椅子が2つ置かれており、内1つに富士津が腰掛けている。彼は私をもう1つの椅子へ促した。彼にこのような形で呼ばれるのは初めてだった。私は慎重に腰を下ろした。すると彼は入れ替わるように立ち上がった。彼の向かう先には、布を掛けられた3つのイーゼルがあった。
「まずはこれを見てもらいたい」
 言うや否や彼はイーゼルを覆う布を剥がした。布の下から現れたのは、一目で連作と分かる3枚の絵であった。
「お前から見て右から「孤独」、「自悟」、「贖罪」とそれぞれ名を付けた」
 彼は指で示しながら説明した。それらの作品はいずれも、富士津西燭の作風とは性質を全く異にする、おどろおどろしい3枚であった。
 薄暗い荒野、その地面に転がる無数の骸。死の叢を1人、返り血で黒ずんだ甲冑と、まだ血の滴る剣を携え歩く兵士。血の滲む地面の質感といい、生の最期を石膏で固めたが如き死骸の生々しい表情といい、狂気と寂寞の同居する兵士の姿態や覚束ない足取りといい、描かれた全てが暗澹としている。見る者を鬱屈の檻に閉じ込める。それが連作の1枚目、「孤独」である。
 「孤独」に次ぐ2枚目、「自悟」では、黒い靄が兵士に絡みつき、苛んでいる。また、靄の影は所々、「孤独」にて地面に転がる死体の顔を象っている。「孤独」を檻だとするならば、この「自悟」は沼である。見れば見る程、不安や得体の知れない恐怖、粘性のある憂鬱に沈んでいく。
 そして、連作を締め括る「贖罪」は、兵士の自害する寸前を描いている。兵士は血に膝を突き、自らの首に剣を当てている。首筋に触れた刃は少し皮膚に食い込み、その表面に血を滑らせている。この絵の奇妙なのは、悲惨な絵でありながら、どこかカタルシスを感じさせる点である。見る者は、感受において自ずと自身を兵士に置換する。すると、「孤独」及び「自悟」にて陰鬱な感情が沈殿、充満し、行き場を失ったそれは「贖罪」へ流れ、浄化されるのだ。他の2枚に比べ、「贖罪」の空がやや明るいのも、このある種の爽快を助長している。
 3枚が3枚とも、連作であることにより意味の深長さを増している。かつて見たことのない画風でありながら、写実で以て現実を上回る富士津西燭の本領は確と盤踞している。
 私は息を呑んで見惚れた。「孤独」「自悟」「贖罪」、その流れに身を委ね、何度も自ら命を絶った。首を搔き切る度に、恍惚の奔流が迸った。やはり私は富士津の絵が好きなのだ。
「……さて」
 富士津の声が、私に時間の概念を思い出させた。
「これを見せることは前置きでしかない。本題は他にあるんだ」
 富士津は椅子へ座った。私も次いで座った。
「私はこの3枚をメインに据えた個展を開き、それを最期に引退するつもりだ」
「え?」
 死角から射られたような衝撃が胸を突いた。
「どういうことですか」
「どうもこうもない。言葉通りの意味だ。私はもう、これ以上描かない」
 私は魚のように口をパクパクと開閉した。何か言わなければという気持ちだけが先行した結果である。
「……この兵士は、私だ」
 還暦の傑物は静かに告白した。
「そして、「孤独」の中転がる骸の1つ、「自悟」の中で私を苛む靄、それらはお前だ」
 富士津の奥底に渦巻く葛藤や懊悩が垣間見えた気がした。
「お前の絵を初めて見た時、紛れもなく逸材だと思った。私を超えるのはお前しかいないと思った。だから近くに置いた。だが、お前は不振に陥った。そしてそこから抜け出す気配はない。最近は抜け出そうともしていない。そうだろう、絵を見れば分かる。私は悟ったよ、お前を飼い殺していたと。私は1人の優秀な画家を殺してしまったと。悪いのは私だ。ただ傍に置くだけで、師としての務めを果たさなかった私だ。私はその罪悪感に耐えられなくなったのだ。哀れな弟子をもう見ていられないのだ」
 私の心中は全く混沌としていた。
「この3枚を書き終えた時点で、富士津西燭は死んだ。もうお前を縛るものはない。絵を描き続けるのなら、このアトリエを自由に使っていい。そうでなくとも、この先の人生は保証しよう」
 再び萌芽しかけた師への尊敬、憧憬、その師の突然の引退宣言、並びにきっかけが他でもない私であるということへの驚愕……自分でも把握しきれない感情が激しくうねり、複雑な様相を呈していた。あらゆる感情が蠱毒のように互いを淘汰し合う。そうして最終的に生存し、私の胸中で昂ったのは──
 怒りであった。
 この男は、いつからそう思っていたのだろう。私がこの男に近付くべく苦心していた時か、絶望し作風が暗く変容した時か、とうとう諦め駄作を量産し始めた時か……いずれにせよ、身勝手が過ぎやしないか。お前は何もしなかったのだ。師としての義務を放擲し、有望な弟子の凋落していく様に気付いていながら、なすがままに眺めていたのだ。そして挙げ句の果てに、それを見ていられないからと去ろうというのか。確かに、私はお前に師事しなければ何か大功を成し得たかもしれない。だが、今更、今更、今更──
「今更、遅いんだよ!」
 私は椅子を振り上げ、富士津の頭を打ち据えた。富士津は人形のようにごろり、と転げ落ちた。私は馬乗りになり、何度も、何度も、富士津──自分勝手で偽善に満ちた老人を殴った。

3.
 牢に入って暫く経った頃である。看守が手に封筒を携えてやって来た。
「篠田良隆、という人からだ」
 私が封筒を受け取ると看守は直ぐに去った。
 篠田良隆、富士津西燭の本名である。私は封筒を破り開けた。便箋が数枚入っていた。
『 「再考・シロツメクサ」、お前の絵を初めて見た時、かなり驚いたのを覚えている。私が大学生の時に描いた絵とそっくり、というより明らかにあれを意識して描いたものだったからな。正直、私の絵を評価する目はあまり良くないと思う。審査員だって、勝手に押し付けられたようなものだったから乗り気じゃなかったし、何より正当な審査ができるか不安だった。でも、お前の絵を見て、これだ、と思った。勘違いしないでもらいたいのは、私は決して私の作品を題材にしていたからお前に賞をあげたんじゃない。自分に見る目がないと書いた手前説得力はないかもしれないが、「再考・シロツメクサ」は純然たる傑作だった。玉石の混在する中で一際輝いて見えた。1度もお前にこれを伝えられなかったのは申し訳ない。
 だけど、私にはもう1つ、お前に言えなかったことがある。
 冬明展の審査員をやっていた頃、既に私は発表していないものも含め数百枚の絵を描いていた。無論、見れば私の絵だと分かるが、描いた絵全てを諳んじるのは無理だ。でも、あのシロツメクサだけは、どこにも発表していない絵でありながらも、1番に挙げられる。忘れられるわけがない絵なんだ。
 あの絵は、当時の恋人に、お前の母さんに贈った絵だ。
 私は、お前の父親だ。血の繋がった実父だ。
 シロツメクサには、「約束」という花言葉がある。あの絵は言うなれば誓いのようなものだ。でも、私はその誓いを果たせなかった。
 あの絵は、私がパリに渡る前に描いて贈った。武者修行というか、国内じゃ刺激がない、と思ってね。1流になるまでは戻らないけど、どこにいても君を想う。だから戻って来たら結婚しよう、そういう約束だった。あと、シロツメクサには「私を思って」という花言葉もある。絵を見れば私を思い出せる、だから安心してくれ、そういう想いを込めたあの絵を残して、私は日本を発った。
 だけど、私は薄情だった。彼女と距離を取り、芸術へ一心不乱に熱中する内に、私は彼女を失念していた。やがて彼女も彼女で私のことなど忘れているだろう、などと都合のいい思い込みをするようになった。でも、お前の年齢を考えると、私が絵を贈った頃、既に彼女はお前を身篭っていたんだろうな。
 「再考・シロツメクサ」を見て、お前の名を見て、授賞式でお前の顔を見て、得心いったよ。お前は彼女と私の子だ。
 私は身勝手な人間だ。お前が息子と分かった途端、お前を近くに置きたくなったんだから。お前を色々連れ回したのも、それが理由だ。お前と父子の時間を過ごしたかった。それに、お前はいつか私を超えてくれると信じていた。引導を渡されるならお前に、そう思ってた。
 結果として、それは失敗だったな。お前は伸び悩んだ。「再考・シロツメクサ」を超える絵をお前は描かなかった。私は長らく気付いていなかった。お前にとって、私という存在がどれだけ大きいものだったのか。お前が私に囚われていたように、私もお前への罪悪感に苛まれ始めた。
 この手紙がお前に届いているということは、私はもう死んでいるだろう。何事もなければ自殺だ。芸術家っぽいかな。後悔は山程あるけど、どうせ死ぬなら……
 私はお前に殺されたかった。
 シロツメクサの花言葉、実はまだある。「復讐」だ。お前から、家に私のシロツメクサが飾られていて、しかもそれが画家を志すきっかけになった、と聞いた時に思った。こいつはもしかしたら、私を殺すために、復讐を遂げるためにやって来たのかなって。まあその時は、本当に殺されたいというよりは、画家として殺されたい願望の方が強かった。レオナルドの絵を見て筆を折ったヴェロッキオよろしく、筆を折らされたかった。それが無理そうだ、と分かった今では、自殺を決意した今では、本当に殺されたいけどな。
 ともかく、全ての責任や発端は私にある。私がシロツメクサを描いて贈ったのが悪い。そうしなければお前は画家を志さなかった。そうしなければ「再考・シロツメクサ」も生まれなかった。
 お前に対しての責任は取るつもりでいる。
 私は、最期の個展が終わったら死ぬつもりでいる。そして、私の絵は全てお前の自由にしていい。売れば結構な額、多分死ぬまで食うに困らないくらいにはなるだろう。私が死んだなら尚更だ。
 あんまり長く続けても仕方ないからそろそろ終わろうと思う。お母さんによろしくな。
 ごめん。
                 篠田良隆』
 私は読み返すことなく、泣き喚きながら便箋を引き裂いた。狂乱していた。宙を舞う紙片は、シロツメクサの花に似ていた。

贖罪

贖罪

稀代の天才画家、富士津西燭に憧れ、画家を志した男の話。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-04-13

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