僕の虫歯と銀色のセーラー服

 僕は子供のころから虫歯が多く、毎日放課後には歯医者へ通っていたような気がする。一年は三六五日で、幼時から中学に入るまで位と考えて二千数百日ほども治療に行かなくてはならないほど沢山の虫歯があったなんて常識外れで変だと思うし、実際はそんな事実は無かったんだろうけど、僕の記憶の中の僕は膝に絆創膏を貼った半袖半ズボンで、毎日毎日泣きべそをかきながら地獄の緑色の診察台に荒縄で縛り付けられていた。
 だから僕は歯医者が嫌いで、大学生になって適当なごまかしや予約キャンセルを繰り返し、歯医者の検診の蜘蛛の巣から逃れると、自分や周囲から口腔環境を欺き隠すようになった。自分からも隠すというのが奇天烈だが、歯茎の腫れや奥歯の疼痛も、閻魔面の歯医者から直接審判を下されなければ虫歯ではないのである。口の中のシュレディンガーの虫歯が、ぞろっぺえ文学部の僕の真っ白な脳内エナメル質を蝕む。歯間ブラシも使って一日三回も歯を磨いているのに、しょっちゅうキシリトール入りのガムを噛んでいるのに、けっして虫歯は無くならない。虫歯は自分で見たり触ったり出来ないのにどこかにいて、僕のことを苦しめる(あまり虫歯にならない人には分からないかもしれないが、実は自分が虫歯だと思い込んでいた歯の隣や、下や、反対側の歯が本物の虫歯だったということや、抜歯の恐怖に耐えつつ嫌嫌診てもらったらそもそも虫歯になっている歯なんて一本も無かった、という椿事が往々にして起こるのだ)、神仏や妖怪変化に似ていて、僕にできるのは痛みや虫歯が無くなるようお祈りするか、現代のシャーマンたる歯医者に行くことだけだというのが最悪の存在である。急急如律令。
 しかしいよいよ我慢できないくらい痛くなることがあり、そういう時は小便犬の歯医者に行かなくてはならない。歯医者も色々あるもので、僕がびくびくしながら電話をかけると、親切に応対してくれたり、誰かの紹介でないと治療出来ないと断られたり、普通そんなこと電話で聞いたりしないんですよ! と怒鳴られて(たしか治療にかかる時間か、金額についての質問だったと思うが)ガチャリと切られることもある。歯というものは物質よりも精神に近いもので、そうやって歯医者の痛棒にぶっ叩かれるような問答により削り取られた僕の心はすっかり臆病になり、しぶしぶ治療しに行っては定期健診をすっぽかし、また痛みがぶり返しては別の歯医者に行って治療、そして仮詰めのまま治療から逃げ出して、また激痛が顕現して尻から火が噴出するまで我慢するという生き無間地獄なのである。
 だから僕は常に歯が痛いような、むず痒いような、ひょっとしたら虫歯なのかもしれないし、虫歯じゃないかもしれない、宙づり状態の日々を過ごすようになる。歯医者に行けばはっきりするのだが出来るだけ辛抱したいのであり、無二無三につま先立ちで駆け込み通院する事態が出来するまでは目を閉じて沈思黙考しておきたい。そういう歯痛や掻痒感に一番効くのは眠ることで、まどろんでいるうちにひととき苦痛から解放される。朝起きる時間が十分、三十分、一時間と遅くなる。電車で駅を乗り過ごす回数が増える。授業中に自分のいびきで飛び起きることがある。しまいに歩きながら一日中ほとんど寝ているということになる。眠りは死のいとこらしく、まぶたのトンネルを抜けるとそこは魔界か霊界なのか、夢とうつつの境界線上で反復横跳びの激しさに絶倒していると、電車とイルカが空を飛び、大学が童話中のお菓子の屋敷みたいにチョコレートや飴細工で出来ていたり、鳴上教授夫人が銀色のセーラー服を着てバレエを踊ることになるのであった。

 鳴上教授の部屋は本だらけで、玄関の外にまで本がはみ出している。単行本文庫新書問わずほとんどの本、ほとんどのページには山ほど付箋が貼り付けられており、その厚みで本が膨らみ、ページが自然に開いて、バラかダリアかヒマワリか、そちこちに色とりどりの花が咲いているみたいだった。その部屋が大学のものか、自宅マンションか、教授の倉庫代わりに借りてある木造アパートだったか意識の世界が凸凹で、自我は風呂場の石鹸みたいに半覚半睡の脳のタイルの表面を滑ってゆく。
「山田君には、妻に本の読み方を教えて欲しいんだよね」
 部屋に平積みしてある本は豪州の蟻塚みたいに乱立していて、教授の姿がとらえられない。後ろに居ると思ったら前方のドアが開く音がしたり、地面から声がすると思ったら頭の上で本をめくる気配がする。窓から風が吹いているのか、教授が何か喋る度に、目の前の付箋だらけの本が唇みたいに開閉する。もしかしたら文学部教授というのは仮の姿で、その本性は本に憑依した化け物なのかもしれない。熱気にうでられた古い紙の匂い、かそけく白い空中を風鈴の音が漂う。
「時給三千円ではいかが?」
「はあ。それはありがたいんですけど、教授が自分で教えてあげればいいんじゃないですか」
「僕は忙しいんだよね」
「本の読み方って、別に、普通に読めば良いんじゃないでしょうか」
「妻は漢字とかあんまり知らないし、文章の意味が良く分からない時があるんだってさ」
「あるんだってさ、て」
「小説とかで良いんじゃない? 読みやすいだろうし。そんな難しいこと頼んでるわけじゃないんだよね。妻は勉強っぽいことがしたいだけなんだから」
 熟れた果実みたいにポトポトと本棚や卓上から本が床に落ちる。岩波の国語辞典、三省堂の例解新国語辞典、芥川龍之介の短編集、梶井基次郎の檸檬、東野圭吾、宮部みゆき、伊坂幸太郎、三浦しをん、恩田陸、ハリーポッターと賢者の石、リアル鬼ごっこ、学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話。
「本はこの部屋のを使っても良いよ。妻が読めそうな柔らかい本ならなんでもいい」
「分かりました。しかし」
「たぶん読めないよ。いや、僕には良く分からない。勉強が出来ない人間の気持ちは良く分からないんだ。僕のかわりに君が色々考えてやってくれ」
 床に落ちた分だけでなく、奥歯が疼くと、部屋中の本のページが勝手にめくれ始めた。付箋だけでなく本に挟まっていた栞や栞代わりの名刺、チラシ広告、レシート、手紙、お守り、ティッシュ、押し花などが吹雪いて宙を舞う。
「妻は中卒だからね」
 吐き捨てるように言うと、天金革張りの重たい本が閉じるような音がした。パリ・オペラ座のエトワールに輝いたこともある日本人の元バレリーナを、そんな風に表現するのは鳴上教授ぐらいのものだろう。

 学生会館のテラス前には芝のグランドがあり、簡素な青ベンチに服を着た雪白肌の白鳥が佇んでいた。鳴上教授夫人は立ち上がる時よろめいたが、水面へ口づけするように優雅なおじぎをした。
「はじめまして、山田と申します。よろしくお願いします。教授に言われてご本を持って参りましたが、ここでお読みになられますか?」
 グランドでは半裸のラグビー部員たちが犇めきあっており、見ているだけでむさ苦しい場面だった。体がぶつかる度度にうっし、うっしと唸り声をあげて、大気中の水分を彼らが全部吸い込んだかのごとく汗みずくになっている。僕が油照りの酷い顔をしていたのか、教授夫人は弓なりの蛾眉を上げると、日陰にある学内カフェへ向けて片腕を広げた。
『本が好きなんですか? いま何を読んでます?』
『うへへ、鳴上教授にはお世話になりっぱなしで』
『あとで図書館に行きましょうか。何冊か借りましょうか』
『生協の本もわりと良いチョイスしてますよねえ』
『カミュがナンチョカ、カフカがカンチョカ、村上春樹がベラベーラ』
 しかし石仏よりはましだが、いくら話しかけても教授夫人はニコニコと笑うばかりなのであった。彼女は少し右足をひこずっていて、いきおいこちらも歩幅を緩めることになる。
 黒いノースリーブのマキシワンピースに足元はコンバースで、三十代と聞いたが学生にも教授夫人にも見える年齢不詳の顔立ちだ。きつい化粧をすれば変わるんだろうが、くっきりせず二重になり切らないような薄ぼんやりした二重瞼で、まん丸く大きいのに夢を見ているような寝ぼけた眼差しの不思議な目をしている。それを眺めているうちにこちらもトロンとしてきて、今自分が夢を見ているのか、それとも自分が夫人に夢見られた幻の生物なのか分からなくなってくる。
 冷房の効いた店内には最近のヒット曲が電子音にアレンジされたBGMが流れており、アイス・コーヒーがしみたのか、シンセサイザーの鍵盤みたいに二十八本の歯がキンキンと鳴り響いた。

 地面に落っこちたアイスクリームのようにうらうらとした日差しに脳を溶かしていると、二足歩行のウリ坊がドスンと肩へぶつかって日本語で吠えた。
「おいパパ活だ、金払え。飯ぐらいなら付き合ってやるよ」通りがかりの学生たちも、何事かと目の端でこちらを覗う。
「山田。聞いてんのか。コラ」
「んああ?」
 人間語を操る害獣かと思いきや立花さんだった。
「トホンとしやがって。またアンタは寝ぼけてるみたいだね」
「なんで僕が同級生と飯食うために金を払わにゃならんのだ」
 イッ!?
 返事代わりに膝の外側をしたたかに蹴られる。
「俺は女子大生様だぞ」ちびすけの立花さんはシャツインに野球帽の運動靴という少年じみた外貌、李朝白磁の茶碗くらい小さな頭で、そこにくっついた目から生まれたみたいな大目玉をギョロつかせている。「このかあいい手を握るためだけに、ウン万円払う哀れなオヤジもいる」
「きみ、そんなことしてるのか。親が泣くよ」
「乳母日傘のお坊ちゃま。うちの親が良く言ってるよ、たいてい二代目、三代目は蝶よ花よのうんてれがんで、ろくに修行もせず学校出たらそのまま家業を継いで身上潰すんだってさ。ハアもっともだもっともだ」
「なにを、僕だって最近はバイトもしてる」
「鳴上先生の奥さんとママ活か? 不潔だね」
「家庭教師だよ!」
 立花さんの父親はバナナ貿易商で、フィリピンの農園で一番の美女と結婚した。彼女が五歳の時に日本へ移り住み、爾来母親の開いた同郷人ばかりのカラオケ・スナックから高校卒業まで学校に通うことになった。
 立花さんはいかにも混血らしい陰影の濃い顔つきをしていて、朝ぼらけの空みたいなオレンジ色の肌が眩しくて思わず目をつむると、瞼の裏に薔薇色の光が溜まってゆく。その雀色時の向こう側に、ルソオの「夢」のようなフィリピンのジャングルの花間を、三日月みたいなバナナにまたがって飛んで行く少女時代の立花さんの姿が幻視されるのであった。
「ねえ山田この、ちょっぴり鼻毛を生やしたお馬鹿さん。俺にアンタの××××をちょうだい、赤ちゃんを作るんだ」
「イッ!?」
 また肩のあたりを殴られた。
 立花さんは一事が万事、こんな上滑りの上っ調子なのである。竹を割ったというか、割った勢いで地面まで両断するほどのおきゃんで、見た目通りの元気さというか、見た目を超越した過激さで突拍子もないことを言って、翌日にはケロリと何も知らないような顔をする滅茶苦茶な性格をしている。
 僕も忘年忘日文学世界を開扉したばかりの新入生の時分、こういう猟奇的な人物との付き合いこそが己の文学的生活を豊かに彫琢するのだと錯誤し、なしくずし的に現在まで呪われた悪縁奇縁が続いている。今では立花さんのまともな友達は僕くらいしかいなくなったが、鬼も二十歳で、老若男女学内学外問わず彼女の旧約聖書中の神のごとく筋の通らない支離滅裂なキャラクターに帰依する信者は多いようである(南無)。傍から見たら何処が良いのか分からない、コレコレを見てそうなマイナーなメンヘラのアイドルに熱狂的なファンがいるのと似ている。もしかしたら自分で気付いていないだけで、僕自身も立花さんの妖気に吸い寄せられた変人の一人だったらと思うとぞっとしない心地こそするのであった。変人とは少し違うが、気が付くと子供や老人も立花さんの顔をじっと見ていることがある。「立花さ~ん!」声のした方を見ると丸坊主で腕時計のみ巻いたふんどし一丁の変質者然とした男が両手を振り回していて、すぐ大学の警備員に拘束された。そうこうしているうちに、ホラ、角刈りのお婆ちゃんが、立花さんの顔写真が貼られた大きい団扇を天にかざす。
「や、やめなよ。ぼ、僕の赤ちゃんを生むなんて。お腹で発生したガスを、お尻の穴からひり出すようなものさ」
「ハア? 俺のママがさ、早く結婚しろって。それが女の幸せだってよ」呵呵大笑と、僕の腹を指でつつくと、波しぶきが沸騰するみたいに立花さんの白い歯がちらつく。「結婚したら、どんな馬鹿男でも一人前になれるんだって」
「へっ! そりゃどうも、ありがた山のホトトギス」
「ねえいいじゃんか、アンタは馬鹿だから彼女なんかいないだろう?」
「あのね、もちろん僕は天才じゃないけど、馬鹿っていうのは酷くないですか? 断定するね?」
「だから鳴上教授の奥さんなんか、やめちゃいなよ」
「君には関係ないね。それに、僕はただの家庭教師なんですから」
「あの人、赤ちゃんが生めないんだって?」
 いきなり蝉時雨が耳から溢れ出して、めまいがした。
 僕が鳴上夫人のために何も言い返してあげられず黙っていると、立花さんは目を泳がせて唇を噛んだ。

 本の読み方を教える風変わりなバイトを始めてしばらく経ち、鳴上夫人が銀色のセーラー服を見せてくれた。それは銀色というより白と極く薄いグレーの制服だったが、会者定離の魔法がシャツやスカートのひだ、リボンに照射して、万華鏡のような銀の光を放っていた。コンクールで受賞し、バレエ団に入団しなければ通うはずだった日本の高校の制服なのだという。セーラー服は利口な犬みたいに大人しく、鳴上夫人の膝の上で上品にたたまれていた。
 本の読み方を教えるといっても、特別なことをしていた訳ではない。本を読む鳴上夫人の隣で、ただ黙って座るだけである。たまに彼女がページの上を指差すと、僕は出来るだけ梅干しをしゃぶるがごとき六ずかしい顔になってうなずき、漢字の読み方や作品が書かれた背景、作者の意図などについて、もっともらしい蘊蓄を垂れる。そうすると、うろ覚えを適当にでっち上げた駄法螺でも、鳴上夫人は神妙な顔をして、鉛筆で、ページの余白なぞに何事かを、金冬心風の岩石みたいな字で丁寧に書き込むのであった。
 鳴上夫人は目が悪いのか、彼女の人生からバレエを奪った大事故の後遺症か、それとも海外生活が長かったせいか分からないが、気が付くと肩がくっついたり、時には唇同士が触れそうなほど顔が近くにあることがある。硬いブラジャーの先端が軽く触れているのに過ぎないだろうが、全身が緊張する腕自体になってしまったかのように固まった。バイトからの帰り道が、彼女の柔軟剤の移り香で薔薇色に染まっていた。あの匂いが脳髄の金的を打つと、目まいがして頭の中にベルが鳴り響く。時間の一転瞬がシャッターで細切れにされて、世界から切り離された、あの時あの場所に存在した自分と鳴上夫人が、アルバムの中から一葉ぴらりと落ちて、神様の部屋のタンスの下へ滑り込む。神様は鉛筆や定規で掻き出そうとするが、しまいに諦めて、読書や食事や散歩をするうちに、世界の空隙に入り込んだ僕らの写真の存在を永遠に忘却してしまう。
 「痛い」聞こえた気がして目を開くと、あの時あの場所で、鳴上夫人が紙で指先を切ってしまったようだった。変な、ありえないことに思うが、どう頑張ってみても、夫人の声で後から思い出せるのはこの痛い、というつまらない一言だけだった。そうだとすると、僕は一年弱の間で、彼女が喋るのはこの言葉しか聞いたことがないことになる。こんな馬鹿馬鹿しいことはない。切れた指を薄い唇で咥える鳴上夫人。
 あの時あの場所で、赤くにじませた指先を天に向けて、銀色のセーラー服を着た鳴上夫人はカフェのテーブルの上に飛び乗り、右足の艶艶したローファーのつま先を軸にくるくる回転していた。

 昔は歯医者ではなく歯抜き、という、詐欺師や殺し屋、人さらいのようなおぞましい呼び方だったらしい。内田百閒の随筆に「引き出しがいくつもある箱をさげた歯抜きのおやじさん」という一文が出てくる。
 この世に歯科医院の待合室ほど非人道的な場所は無い。そこでは死刑囚と同じく本を読んだり音楽を聴いたりすることも出来るが、絶えず歯と共に人間の誇りや魂を削り取るドリルの音と、患者の気死する叫喚が聞こえてくる。受付の女看守の顔面には冷たい粘土でこねられたような薄笑いがへばりついており、幽鬼のごとき青白い患者たちは蚊の鳴き声みたいなクラシックが流れる中、消毒液のにおいを嗅いで、友達や家族や恋人のことを考えながら処刑の合図を待つ。熱心な同性愛者のように肌へしがみつく冷暖房。壁にはモネやシャガールなぞの複製画が飾られていて、陳腐さの感覚が人の心をさらに暗く沈ませる。
 診察台に荒縄で手足をきつく縛り付けられると、今まで様々な歯医者にいじくりまわされた自分の歯の、見るも無残なレントゲン写真が目の前のモニターに映し出される。歯医者と助手がはっきりとした声で全く意味不明な歯科用語の呪文を唱和すると、死みたいに音もなく背もたれが倒れて、いよいよ口の中の廃墟を舞台にした魂の強姦が始まるのであった。
「山田君、君はとんでもないことをしてくれたようだね」
 目が潰れそうなほど強烈なハロゲンランプを当てられて、歯医者の顔が真っ黒な影になって見えない。しかしありえないことのように思うのだが、その声は鳴上教授のものだった。
「ただのアルバイトのつもりだったのにねえ。自分が何をしたか、心当たりがあるだろう」
「そ、そんな。奥さんは。夫人はこれから、どうなるんですか?」
「山田君には関係の無いことだよ。ホラ、もう少し口を開けなさい」
 鳴上教授の影は僕の意識の真ん中に開口器と数枚の紙幣をねじ込み、口腔の数か所へ腰を振るみたいに何度も麻酔の針を突き刺した。「痛かったら手をあげてくださいねえ」と耳元で怒鳴られたが、荒縄で縛り付けられているのでそもそも体が少しも動かせない。頭が動かないように、ピンクの制服を着た歯科助手が両手で僕の髪の毛を鷲づかみにする。歯茎や舌や顎の感覚が無くなったところを、自分の見ることが出来ない自分の真ん中で、ドリルでキャアツクされたり、ペンチで引っこ抜かれたり、トンカチでぶっ叩かれたりして、泣きたくなるような大工事が始まっているようだった。薄れていく意識の中で、横目に映った窓の外で、銀色のスカートの裾がひらめいた。

 五年ほどのち、LINEの名前が変わったと思っていたら、立花さんとお茶を飲むことになった。彼女の思わず指でつつきたくなる桃みたいな頬がより丸みをおびて、さらに見ているこちらがヒヤヒヤするほどお腹が大きくなっていた。ご主人と住み替えの為、市内のマンション戸建てをいくつか内見した帰りなのだという。立花という苗字と一緒に、以前の個性や物言いの棘が抜けた、話が好きな普通の女の人になった。最後に彼女のお喋りを付け加える。
 へえ、それじゃあ鳴上先生の奥さんとは、本当に何も無かったんだ。山田君もいきなり大学やめちゃって、私はてっきり駆け落ちしたのだと思ってた。教授はすぐに再婚して、それから別れた奥さんがどうなったのか、ただの一学生が知る由も無し。噂の風に舞い上げられたあと、羽化登仙して桃源郷入りしたという話。だけどあの奥さん、あんなにたくさん本を読んで、いったい何になりたかったのかな? バレエが踊れなくても、ドレスを着てじっとしていたら、本当のお人形さんみたいに可愛らしいのに。学校に行ってないことを恥じていたみたいだけど、そんなの、結婚して、子供を作れば……いや今なんて、別に子供なんかいなくても、いくらでも幸せになれるって。そうじゃなきゃ、あんな綺麗な人が、あんまり可哀想じゃない。銀色のセーラー服を見たって? あはは、ネットか何かで流行ってるの? 映画か動画のタイトル? 白や黒やグレーじゃなくて? 銀色のセーラー服なんて、そんなのあるわけないじゃない。

僕の虫歯と銀色のセーラー服

僕の虫歯と銀色のセーラー服

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-04-10

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