インマヌエル -天-
常時貧血の「自称死神」吸血鬼と、神隠し寸前の記憶喪失の少年。
本当は生きているだけで大変な彼らが、それぞれの天国を見出していくスローな物語。
update:2023.4.9 インマヌエルシリーズ前座
※直観探偵シリーズをご存知なら理解が深まりますが単独で読めます
File.H
天国良いとこ 一度はおいで
-spin a tale-
人は死んだら、何処にいくのだろうか。
何処にもいかない。ただ消えるだけだ、と「彼」は思っていた。
天国や地獄、よしんば生まれ変わりがあったとしても、特に意味はないと思った。何故なら普通、誰もその時間を覚えていないからだ。
自分が自分だった理由。自分が関わったはずの何もかも。
覚えていなければ、無かったことと同じに思えた。
今もずっと、彼の内で可憐にこだまする、見知らぬ誰かの声のように。
――……待ってる、から……。
ごめん、と。いつも苦く笑うことしか、彼にはできない。
帰りたいか、ときかれたら、きっと帰りたかった。
それでもとっくに、彼は全てを諦めたのだ。
薄汚れた彼には望むべくもない、温かな赤い空の夢を。
その夢はいつのことだったのだろう。夕焼けに映える、肩までの短い赤い髪の娘。
閉じた目に焼き付く姿が、誰のことかも今はわからない。その頃から彼は、こうなることはわかっていた。
――また、何処かに出かけるの?
――うん。いつ帰るかは、わからない。
おぼろげではあったが、自分はもう長くない、とその時彼は感じていた。
家族だけがそれを知っていて、彼を助けようと必死だった。けれど当の彼は、生きることに執着する気はなかった。
――だって、俺は……――だから……。
最早何も、覚えてはいない。家族のことも、咎人らしき彼の事情も。
これで良かったのだ、と、安堵している自分しか、彼にはもうわからない。
このまま消えていけばいい。こうして何かを思う自分すら、その内無くなっていくのだろう。
自然とそう思うほど、全てが曖昧だった。今まで彼を突き動かしていた、よくわからない常なる焦りがなくなっている。
それは初めて感じた、安らぎというものかもしれなかった。
もしもそこで、気ままな誰かの、有り得ない邪魔が入らなければ――
†1.鳥無き里
高き空を往く獣を、人は鳥と言う。自由の象徴と言われる獣に、拙い羨望を込めて。
翼を与えられたものだけが、そうして天に往ける。天とは元来、神の坐す場で、現し世のものには手が届かない高みなのだ。
しかし中には、あえて空への切符を渡されたものがいた。
夢うつつの瞼をふっと上げた瞬間、彼の目に映った、天上の鳥と呼ばれるヒトのように。
「――あ、起きた? オレの相方くん」
「……――……は?」
にやにやと、端整な顔立ちが勿体ないあくどさの笑顔。月光だけを頼りに、青みのある黒髪が短く揺れる秀麗な青年が、彼を斜め上から覗き込んでいる。
部分的に長い硬質な髪が、鋭い蒼の視線を和らげるように、無造作に切れ長の目にかかる青年。よく見れば長い睫毛や、輪郭の柔らかさがとても女性的だ。
何故そんな綺麗な誰かが、仰向けに転がる彼を見下ろしているのか、さっぱりわからないことが痛い。
誰かは彼の横にあぐらをかいて座り、膝に腕を立てて頬杖をつきながら、皮肉げとしか言えない顔で再び微笑んだ。
「天国へようこそ。良かったら、ゆっくりしていきなよ」
彼にはそれは、死の宣告よりも重い、気軽過ぎる一言だった。
がばっと起き上がった彼を、謎の青年が不思議そうに見つめた。
軽装で華奢な青年の背後に、夜空が広がっているのがまず見えた。
「って……え……!?」
黒ずくめの自分――黒い無袖のインナーにズボン、黒いバンダナを巻く腕を起点に、温かみのない全身が痛む。胸元には蝶型のペンダントが揺れ、こんな服装をしていたことすら、彼はほとんど記憶になかった。
「ここ――どこ!?」
「どこって。だから、天国だって」
意地悪そうに笑う相手の声に、誠実さの欠片もみられはしない。
繰り返し天国と言っているが、それはこんな、月明かりだけの森と石畳が広がる謎の場所ではないはずだった。
見渡す限り、木、林、深い草叢。そのわりに彼らのいる場所は、綺麗に舗装された石の道だ。何処かとても広い庭園の一角かもしれない。
しかしあまりに、地味に過ぎる。そしてそれ以上に、納得のできないことがあった。
「俺が天国なんて……いくわけ、ないだろ……!」
何の罪かは全くわからないが、自分は確か咎人だった。その意識だけが彼には残っている。
あー。と、彼の動揺を納得したように、青年が近くの大きな木にもたれかかり、両腕を組んで彼を見つめた。
「それは、仕方ないね」
透き通るタイプの声で、ゆったりと言う。そのわりに、何が仕方ないのか、彼に問わせる暇もなかった。
「オレがお前を連れ込んだから。オレ、死神だから」
ただ二言で青年は、全てを解説してしまった。というより、説明した気になったらしい。
呆ける彼を前にして、後は何も喋らずに、含みのある顔で微笑んでいる。
暗くてよく見えないが、自称死神の青年は、黒のハイネックに明るいシャツを重ねる白黒の姿をしている。
死神と言われても、全く納得がいかない。銀の腕輪と透明なレンズ状の珠をペンダントにしていること以外、鎌などの武器らしき物も何もない。
「ここが天国――アンタが死神だって?」
きょろきょろと辺りを見回して立ち尽くす彼に、自称死神が、そうだよ、と笑う。
「こんな所が、天国? 天国って、あの天国だよな?」
「どんな所が、どの天国かは知らないよ。お前は何のことを言っているの?」
おかしいのはまるで、疑問を持つ彼だと言わんばかりだ。呆れたような顔の死神が彼を訝しげに見据える。
彼の言う、天国とは何か。それを真面目に問われたら、彼も考え込んでしまう。
ここが違うと思うのは確かだ。しかしそれは、何と比べて違うのだろうか。
「天国っていうのは……」
大分考え込んでから、ためらいがちに、何とか彼は切り出していた。
「……俺も全然、よくわからないけど」
何故今、この答が出たかは、彼自身にも不明だった。それでもやっと思い付いたことを、面白そうな顔をして聞いている死神に続けた。
「天国って……酒がうまくて、ねーちゃんが綺麗なところだって、俺の中で何かが言ってるんだけど」
馬鹿にされるだろう、と言いながら思った。口にした瞬間に下らなさを後悔した。しかし自称死神は、思いの外真剣に、彼の言葉に考え込む様子をそこで見せていた。
ちょっと待て、と彼は改めて思った。
天国について、内実を聞き返されたこともそうだ。よくわからないまま喚いた彼に、そんなに真剣に悩まれると彼も戸惑う。
十秒程して顔を上げた自称死神は、理解できないという表情ながら、彼をわりと真面目に見つめて言った。
「酒が飲みたいなら、買ってくるけど?」
「いらない。って、売ってるのかよ」
この何もない森の何処に、と即座に思ったが、次の答にさらに腰が抜けそうになった。
「女が欲しいなら、さらってくる?」
「――やめてくれ。そういうんじゃない」
違うの? と自称死神が、最初のようににやり、とあくどい顔付きで首を傾げた。
それにしても、天国の定義をここで争ったところで、本当に何の意味もない。
ここが何処であれ、彼は目前の青年に連れ込まれたのだ。最早すっかり、どうして良いか、状況がわからなくなった。
混乱して黙り込んだ彼を憐れむように、死神がやっと、核心をつく話を始めた。
「お前、自分の記憶はもうないくせに、変な常識は残ってるんだねぇ」
「――え」
彼は自分が何者か、全くわかっていない。
それを最初から、この意地悪な青年はわかっていたらしい。
「言葉も喋れるし、体も動かせてるみたいだし。これならまあ、及第点かな」
何やら一人で、ぶつぶつ言いながら納得している。その姿には嫌な予感しかしない。
何か悪いことを言われる前に、喋らなければいけない。彼は空しい抵抗に出た。
「……アンタは何で、俺をここに?」
ここがあくまで、天の国だと仮定した場合、目前の青年はきっと聖なる生き物だ。その気高き天上の鳥の気配は、無きにしもあらず、と彼には感じられた。
気配とは何だっただろう。聖なる鳥とはこれいかに。自分で思いながら、彼は頭をひねる。
自称死神が言った通り、これまでの記憶がないわりに、彼の中には妙な知性だけがある。
本当に何も覚えていなければ、会話もできないし、生まれたての赤子のようになるはずだろう。それを指して自称死神も、及第点だの何だのと言っているのだ。
だから何故、彼はそんなことがわかるのだろう。今この思考は、何処から生まれているのだろう。
彼の質問の後に、自称死神がふむ、としばらく答を考えているので、そうした余計なことを思わずにはいられなかった。
沈黙が一分以上続いた後に、無表情だった死神が、顔を上げて平和そうに彼の目を見た。
「――うん。お前、オレと一緒に、天国を守らない?」
彼はおよそ、脊髄反射と思える早さで答を返していた。
「嫌だ。こんな何もないところ」
何がそんなに拒否感をもたらしたのかも、今は全く断言できない。
即答した彼に、自称死神は意外そうに、じわりと形容しがたい笑みを浮かべた。
初対面の彼を、相方くんと呼んだ自称死神。
その目的は先の言葉通り、彼にここを守らせることらしい。死神は何も、嘘をついていない。そこまで彼には不思議と感じ取れる。
「……悪いけど、他を当たってくれ。俺は……」
「俺は、何? 何か不都合でもあるの?」
「……いや、わからないけど。でも……」
死神があざとく笑うのも当然だった。彼にこれまでの記憶がない以上、断る理由もないはずなのだ。
まず、断れる立場だろうか。この場所が何かはわからないが、自称死神にはどれほど権力があるかも知れない。
黄昏時の闇が、段々と深くなってくる。森には鳥の声一つせず、彼と死神の間に深い沈黙の時が流れる。
ここに彼らの他に、何かがいるとは思えなかった。それほど辺り一帯は静寂に支配され、天国と言われたことが、やっと少し納得がいってきた。
そもそも彼は今、生きているのだろうか。
腕をつねってみても、あまり痛みを感じない。けれどないわけでもない。
呼吸をしなければ体がだるくなるが、なくても何とか動けそうだ。
そこまで自覚したところで、不意に――
もしも自分が、死んでいないなら。その状況は彼の背に、刺すような冷感をもたらしていた。
ひょっとして、まだ自分は、消えていないのか。
消えなければいけなかった――……やっと消えることができた、そのはずだったのに、と。
思わず一人で動揺した彼を見透かすように、死神が冷たい声色で話し始めた。
「オレの話を断るなら、お前はこれから、一人でどうするの?」
彼に全く、生きていく当てはない。ヒト気の全く感じられないこの謎の地を動き回ったところで、目前の相手以外に話せる者もなさそうだった。
「自分が誰か、ここが何処かもわからないで……お前は何をしたいのさ?」
彼は何も、答えられない。死神は最初から、わかって尋ねているとしか思えなかった。
「それともお前は――帰りたいの?」
帰りたいかときかれれば、帰りたかった。それも誘導尋問に思えて、頷くことができなかった。
まずもって、何処に帰りたいかもわからないのに、帰れるわけもない。
何を答えても、この死神の思うつぼだと何となくわかった。おそらくここに連れてこられた時点で、彼の運命は決まっているのだ。
白く細い三日月の下で、自称死神がにたりと微笑む。その背に一瞬、悪魔のような黒い羽が何枚もはためいて見えた。
それだけで彼は、直観していた。この天国にはもう、天上の鳥など存在しないと。
ただこの死神――青闇の髪で蒼い目の悪魔が、聖なる鳥達の夢の跡地に、とり憑いているだけなのだと……。
†2.虎穴に入らず
とりあえず彼は、闇雲にそれを決めた。死神の提案には、決して頷かないと。
思い出せないだけで、きっと拒否感の理由が何かあるのだ。それがわからないまま、なし崩しに流されたくはなかった。
死神は幸い、強引な性格ではないようで、そうした気力もないタイプに見えた。
あれから彼がだんまりを決め込むと、何やら彼に背を向けて歩き出した。ついていってみると、無人の人家がいくつも存在する里が現れ、その内の一つで、死神は何も言わずに寝付いてしまった。
それからずっと、死んだように眠り続けている死神を、宵闇に汚染された目で彼は観察してみる。
「……無防備過ぎるだろ、これ」
石の床の上、死神は横向きに丸まって薄い毛布をかぶり、青白い顔色には全く表情が浮かんでいなかった。呼吸をしているかも怪しいくらいに静かに寝ていて、およそ生活感がない。
じめじめとした家屋には、暖炉が備え付けられている。薪がくべられた形跡はなく、家内は夜の空気でひんやりとしている。
壁に穴を開けただけのような窓は風通しが良い。この湿気でカビが生えていないのはその効果だろう。石は通気性が悪く、揺れにも弱く、住む場所にはあまり適さないと誰かが教えてくれた気がした。
することがないので、寝ている死神を放って人家を出てみた。
森の出口すぐにあったこの集落は、石造りの四角い人家が多かった。地震にでも襲われたかのように、壁が崩れたり屋根が落ちたりしている所だらけだ。
「これが……天国、って……」
どう見てもそこは、何かの惨事で人が住めなくなった廃墟だった。
死神が休んでいるのは、辛うじて原型を保っているだけの、大した家具もない集会所のように見えた。
段々と、洒落にならないほどに、頭が痛くなってきていた。
謎の居住区のことに思いを巡らせていたが、不意に、何て時代錯誤な。と思ってしまった。そこから更に頭痛が酷くなった。
時代って何だ。何と比べて何がおかしいと、自分は思っているのだろう。
記憶はないが、彼の住んでいた所とは違うのかもしれない。この石の里に違和感を持つくらいなら、少しは記憶が戻ってほしかった。
街灯もなく、影絵のようにしか見えない里を、これ以上散策するのは諦めるしかない。
目の奥が締め付けられるようで、頭がふらふらとした。陽が昇るまでは休む方が良さそうだった。
そうした気持ち悪さを自覚した途端、背中の奥に、鋭い何かが刺さるような冷たい感覚が走った。
「……、え……?」
思わず首の裏に手をやると、指先にはどろりと、赤黒い何か――一目で吐き気を催すような、気持ちの悪いものが見えた。
それが何か納得する前に、その場で彼の意識は遠くなった。
誰もいない里の、ヒビだらけの石の道に、膝をついて両肩を抱える。
今まで気付かなかったのが不思議なくらいに、全身から血の気が失われていた。
それもそのはず、彼の薄く脆い背中は、彼が天国へ来た理由……その黒い翼に、とっくに突き破られていたのだから。
そのまま俯せに倒れ込む前に、くすりと誰かの、あどけない笑い声が聞こえた。
――ここが……天国って……?
暗い闇に呑み込まれた、石の廃墟を縁取る森で。
真っ黒な影を持つ誰かが、無様な彼を見て笑っていた気がした。
この世の天国。そんな台詞を、彼は二度ほど口にしたことがある。
冷たい路上に倒れている、誰だかわからない者が見る夢が、もしも彼の過去であるなら。
「うわ、やっべー! スーファミからVRまで何でも遊べるって、何だよこの天国!?」
まるで意味がわからなかった。謎の歓声をあげたのは、確かに彼と同じ声であるのに。
はしゃぐ声の彼に、白衣の何者かの黒一色の眼差しが、呆れたように向けられていた。
「おまえが帰ってきた時のために、アヤが一々揃えたんだ。あいつ完璧主義だから、ウィンドウズまで98から全部揃ってるぞ」
その部屋にはうねうねと黒いコードが大量に這い、壁という壁を縦型の棚が埋め尽くしている。
様々な機器がその棚に詰め込まれ、棚と棚の間には絶妙な配置で、机や椅子が所狭しといくつも置いてあった。
「うわああ、何個モニターあるんだよ、この部屋ー! とりあえずテレビ、見れんのどれ!?」
「ほざけ、誰が使わせると言った。その前にさっさと、アヤを迎えに行ってこい」
えー、と心から困った声を出す、それでも軽い口調のままの彼。その彼には、迎えに行けと言われた少女に会えない事情があった。
それが何だったのか、思い出せない。そもそもこの妙に陽気な彼は、本当に「彼」だっただろうか。
その同じ少女を巡って、他の時にも天国という言葉を、彼は確か口走っていた。
「うわあ、鴉夜さん、美人過ぎっス! 一緒に芝居できるなん天国っス!」
今度の内容は今の彼も理解できた。しかしどちらも、大きな意味があるとは思えなかった。
混乱が増すだけの天国の夢は、朝日の眩しさで早々に振り切られた。
見知らぬ道端で目が覚めた彼は、改めて現実を噛みしめるしかなかった。
「この『天国』は……夢じゃ、ないのか……」
一つだけ、夢のおかげで気が付いたこともあった。
天国というのは、人によって定義が変わるものなのだ。夢に出てきた者達の「天国」は、あくまで彼らに居心地がいい場所を指して言っていた。
当たり前のようだが、彼にはわからなかった。彼にとって、居心地がいい場所……そんなものは全く思い付かないからかもしれない。
鈍く褪せた白い石の廃墟と、周縁を取り巻く雑草だらけの薄暗い森。
石の道は森の中もずっと続いていたので、昔はもっと手入れをされていたのだろう。道から外れたら何があるかわからないが、おどろおどろしさは全くといってない。
緑をあえて多く散りばめた、人工物の国。そんな風に今の、何もわからない彼の目には観て取れていた。
ここを天国と言ったあの死神には、これで居心地が良いのだろうか。
少し気になって、特に行く当てもないので、死神が眠る人家に戻ってみることにした。
もういなくなっているかもしれないと、何故か少し、期待してしまったのだが……。
「……まだ、寝てるのか」
昨夜から寸分違わぬ寝顔で、相変わらず丸くなっている青年がいた。違うのは朝の明るさで、はっきりと姿が見えていることで――
思わずため息をついてしまうほど、眉目と体型に隙のない麗人がいる。
昨夜も綺麗だとは思った。拙い弓張り月の淡い光は、この儚げな青年によく似合っていた。
死神がぴくりとも動かないので、彼は黙って壁際に座る。起きるのを待ってみようと思い、目の離せないほど整った容姿を改めて見つめる。
身長は彼と大きく変わらず、男にしては華奢な体と、小さく薄い唇が中性的だ。色気という意味ではない方で、飄々とした雰囲気が童顔さを隠している。
昨日のように歪んだ笑顔を見せられると、嫌味な男にしか見えない。けれどもし、柔らかな微笑みを浮かべられたら、天女と呼べる神聖さが漂いそうに思えた。勿論彼には、天女が何かもわかっていないが。
死神の微かに開いた悩ましい口元に、真っ白な牙がのぞくことに、ふっと彼は気が付いていた。
「……毒でもあるのかな、あれ」
蛇を彷彿とさせるほどに、それは鋭かった。
それにしても、蛇が牙から毒を注入するなど、誰が今の彼に教えたのだろう。
飽きるほどに死神を観ていたら、徐々にぽかぽかと空気が温まってきた。
彼は日の出の時刻に起きたはずなのに、早くも太陽が南中している。昨夜倒れたのも日の入りからそう遠くない頃なので、その前から寝ていた死神はもう半日以上眠りこけていた。
「……ここを守ってるんじゃ、なかったのか」
いつまでたっても、目覚める気配が見られない。まずもって、起きようという意志が皆無に思えた。
ごくたまに寝返りをうつだけで、体が痛くならないのかが心配になる。
かくいう彼は、昨日ほどの理不尽な脱力感はないものの、座り続けていると得体の知れない悪心が込み上げてきていた。
これ以上特に、待つ理由もないので、陽が落ちる前にもう行こうと彼は決めた。
「……とりあえず、この『天国』から出よう」
誘いを断った彼に、死神が執着しているようにも見えない。
何処に行けばいいかはわからないが、それも探す心づもりで行くしかないだろう。
「とにかく何か――何か、しないと」
いつも彼は、よくわからない焦燥感に駆り立てられる。
じっとしていると、落ち着かなくなる。今までは死神の観察で、辛うじて間が持っていただけだ。
いつもとはいつのことだったか、とまた考え込みかけたが、頭を振って重い腰を上げた。
彼が出て行こうとしても、死神は何の反応も見せない。昨日はあれほど喋っていたのが嘘のようだった。
全く所在のない彼に比べて、安らかとも穏やかとも言えない、ひどく無機質な寝顔の青年。
昨夜はまだしも、楽しそうだった。少なくとも生き物だったが、ここで眠り出してからは、凄く精巧な人形でないかと思うほど、その身は静寂に包まれていた。
石の家を後に歩き出してからも、彼の心中は、死神とは対照的な喧噪で満たされていた。
――俺はここに、いるべきじゃない。
方角がわからないので、太陽を追う方向に行く。普通なら西であるはずだろう。
集落を囲む森に入ってすぐ、また、体が重くなった。
「……?」
こんなに僅かに歩いただけで、全身が死体になったようだった。首にかかる蝶型のペンダントが重く、腕に巻かれた黒いバンダナまでがきつく感じる。
それでもとにかく、進んでみるしかない。ひたすら続く暗い森に、気持ちだけが焦る。
まるで何かから、逃げようとしている。今の自身の状態を、彼はそう感じ始めた。
――俺は……何を、したんだっけ……?
この居た堪れなさは、結局、咎人のそれだ。追われているかはわからないが、落ち着くことができない――落ち着いてはいけないと、自らの何かがずっと囁いている。
死神は彼に、ここを守ってほしい「相方くん」と言った。その理由だけでも聞こうかと、先刻までは目覚めるのを待っていた。
けれど耐えられなくった。起こすことすらも思いよらず、体は逃げることだけを望んでいた。
あまりに何もなく、誰一人いないので、己の内のそうした胸騒ぎがとてもきつかった。紛らわすものがない不安は、大きくなる一方だった。
森にも鳥一羽すらいない。獣の息遣いは皆無で、ここに在るのはただただ、理由もわからず逸る彼の心だけだ。
この静か過ぎる「天国」において、目障りに動く物体は彼の身一つだけ。
何があれば、胸の悪さが止まるだろうか。吐いてしまいたいほど不快な体で、うまく動かない足を引きずり、とにかく歩き続けた先で――
そこで出会った、ある答に、彼はひどく納得することになった。
陽を閉ざす深い森でありながら、山のような傾斜がほとんどなく、石の道が各所に敷かれた人工的な自然。
理由は単純なのだろう。集落から森の果てには、行ってはいけなかったのだ。この森は天国から出ようとする者を止めるために、天国を囲んで造られたものなのだとわかった。
「……本当に天国、か……これ……」
彼はもう、嗤うしかなかった。
やっと光が見えてきた森の出口で、彼を待っていたものは、巨大な石柱の柵ごしに見える大空。
海を臨む崖っぷちのように、「天国」を載せる地面の終わりがそこにはあった。
「ここ……空に、浮いてる……?」
最果ての縁らしい石柱の間から、下を見ると雲海が広がっていた。
地面一つ見えない、その真っ白な海を見た途端に――
彼の脳裏を、おそらく記憶の欠片といえる光景が、唐突によぎっていった。
――……ごめん、なさい……。
急に両手と、両の目頭が熱くなった。
じわりと溢れる涙のせいか、視界もおかしくなってしまった。夕陽を受ける彼の両手が真っ赤になって、そこから拭えない咎が広がっていく。
これと同じことが、つい最近にあった。
彼は重い全身を引きずりながら、今と同様に雲を見下ろして、抑え続けた最期の言葉を絞り出したのだ。
――俺は……ヒト殺し、だから……――
そこで断末の摩は途切れ、気が付けば、真っ白になった彼がここにいた。
それ以前のことは結局思い出せないが、彼がどうしたかったかは、理解できた気がした。
呼吸を止める彼は、赦されることのない咎人。両手を真っ赤な血に染めたヒト殺しだ。
だから空に還ろうとした。そうなるように、どこかで身を投げたはずだったのに。
呆然と空を見つめる彼に、聞こえてきたのは、愕然としたある少女の声だった。
――……アナタは……殺して、しまうの……?
この少女の名前だけはわかった。今朝方の天国の夢で出てきて、彼もその名を口にした「アヤ」だ。
全身の力が抜けたように、熱を失っている少女の声色。
それは当然のことなのだろう。何故ならそれが、「アヤ」の最後の言葉だった。
黒ずくめの姿をする少女の柔らかな腹背を、ヒト殺しの彼が無情に貫いた。そこで彼の物語も、終わりを告げるはずだったのだ。
「……何で、俺……ここに、いるんだ……」
怒涛のように思い起こされた、とても限定的な記憶。
けれどそれで十分だった。彼がここにいるべきではない――消えなくてはいけない理由は、痛いほどわかった。
どうせ最初から、「天国を出る」ことが目的だったのだ。
何も迷うことはなかった。少し前もそうしたように、彼は、天空を往く何かの境界線をあっさりと踏み越えた。
もう一度、今度こそ、消えることができたらいい。広い空の片隅で、塵にでもなればいい。
それがヒト殺しにふさわしい末路だろう。そこには疑う余地など何もなかった。
石柱の間に昇った彼は、光を失った両目を硬く閉じて、夕陽に赤く染まる雲へと遠慮なく飛び立ったのだった。
†3.郷にいりては
天国とは何か。直接そうきかれたら、その死神は単純に、「天にある国」と答えただろう。
余分な煩悩のない機械的な死神に、「居心地のいい場所」など思うべくもない。
そんな渇いた内面を映すように、味気ない空に浮かぶ小さな国を、じりじりと侵そうとする黒い雲煙。
真っ白な雲海に身を投じたはずの彼に、真っ先に届いたのは、天国の空に嘴を挟む黒い鳥達の姿だった。
――……え?
まるで透明なリンゴが、黒煙に齧られているかのようだった。
白い大地を囲む球形の空を、そこかしこで黒い雲が侵蝕している。
彼が飛んだ方向にあるのは、真っ白く見える天空の果て。汚れた彼を受け止めたせいか、その軌道の雲は黒く穢れてしまった。
「……っ!?」
汚してしまった雲に混じった瞬間、流れ込んできたもの。
天国全体が蝕まれる光景は、おそらくは、眠り続ける死神の見ている夢だった。
何故それがわかるのか、今の彼にはわからない。それでも、その薄気味悪い悪夢を見た途端、ひどく納得するものがあった。
死神がああして、一人で蹲っている理由。
天国を守ると言ったのは、この黒い悪意の侵入を指していたのだと。
遠目に見れば、暗雲がかかっただけのような映像。しかし彼には、その黒い雲を象るのが無数の黒い鳥だとわかり、瞬時に吐き気を催していた。
うごめく黒い鳥の群れは、天国の空に穴を開けようとしている。ただの鳥なら地味な光景なのに、その一羽一羽は、頭部だけがヒトのようで醜悪だった。
地獄があるとすれば、そこに住むのはきっとこんな鳥だろう。まるで激痛を味わっているような顔で、歪んだ叫喚をどれもが放っていた。
彼が空の一部を黒くしたことで、そこに気付いた大量の害鳥が、彼を目がけて迫って来ていた。
どうやら彼は、とても傍迷惑なことをしたらしい。このままでは彼が染めた黒墨から、この鳥達が天国に押し入ってしまう。
それが何を意味するかはわからないが、彼のせいであることだけは間違いがなかった。
――アイ、ツ……!?
正確には、彼をここに連れ込んだという死神の責任かもしれない。
けれどその些細な記憶にも思い至らず、彼はただ、それだけを願った。
この黒い穴を、何としても塞ぐ――
再びこの天国に、鍵をかけなければいけないのだと。
そう思った瞬間、何処にいるかもわからない彼の背中に、激しい痛みが冷たく走った。
真っ白な空を黒く染めて、何処までも堕ちていく彼に、それはある永い約束の痛みを突き立て始め――
気が付けば彼は、昨夕と同じように、白い石の地面に倒れ込んでいたのだった。
無我夢中だった瞼を上げると、映ったのは最初とまた同じ、儚く綺麗な天上の鳥。
悪夢の黒い鳥とは比べるべくもない、自称死神の不思議そうな白い顔だった。
「――あ、起きた。お前、戻ってきたの?」
「……――」
眠り続けていた死神が、彼の倒れている広場に出て来ていた。長い睫毛で隠していた蒼い目を開け、彼の横にちょこんとしゃがみ込んでいる。
眠そうではあるが、昨日より素直に笑う顔はやはり、かぼそい月の光にとてもよく映えていた。
黙って起き上がった彼が、辺りを見回すと、空は何の変哲もなく夕暮れが訪れている。
黒い雲の侵入は一応見当たらなかった。ただの夢だったのかもしれないが、彼はひとまずほっとしていた。
座り込む彼が何か言う前に、死神は二たび、余計な爆弾発言をいきなり口にした。
「ま、そう簡単には出られないか。何せお前、オレの羽を植えつけてるし」
「……へ?」
「ここはオレを閉じ込める檻。オレの羽を生やすお前も、条件は同じってことみたいだね」
「……は……?」
彼は一言、何それ。としか、言うことができなかった。
「植えつけてるって……何で……」
どうやら彼の背に、ちょくちょく痛みを与えるものが、その「羽」だろうとわかった。
何で勝手に、そんなことを。
よくわからないまま、それだけ尋ねるしかできなかった。
死神がしゃがむ膝の上で頬杖をつき、彼を見たまま無表情に黙っているので、彼は仕方なく質問を追加していた。
「何で俺を、ここに連れてきたんだ、あんたは」
羽を植えつけた、のくだりといい、彼を相方くんと呼んだ意味といい、死神は無闇に協力者を求めているわけではなさそうだった。
どうでもいい相手に、普通そこまではしないだろう。そのわりには彼が協力を拒んでも、がっかりした様子もない。
彼が初めて、死神の目をまっすぐに見て、真剣に尋ねたからかもしれない。
死神がにこり、と柔和に笑った。彼は一寸遅れて、可愛い……と、その端整な表情に思ってしまった。
思うと同時に、いや待て、と自らを押し留める。そういう場面じゃない、何故そう思ったんだ、とすぐに疑問が浮かぶ。
くすくす、と妖艶な擬音のつきそうな顔で、死神は改めて彼に微笑みかけた。
「お前、女たらしだね。ていうか、随分女たらしの、仲良しこよしの妖に憑かれてるね」
「……え?」
死神に魅入っていたことに、まるで気付いているような勘の良さ。
死神はそのまま、彼が現在彼であることの一つの答を、そこで教えてくれたのだった。
「お前が今、喋れてるのは、半分以上はそのペンダントの妖の思考だよ」
彼がずっと身に着けている、蝶型のペンダント。
それを差して死神は、彼に憑依する妖魔の存在をはっきりと伝えていた。
自らの記憶が全くないのに、常識や知性が残されている彼。死神はそれを、憑依されやすい体質による他者からの借り物だという。
説明されたわけでも、断言されたわけでもないのに、死神がそう言おうとしていると、彼には手に取るようにわかった。
その状態も不思議だった。思えば先程の悪夢も、死神が見ているものだと思ったのは、死神のそばにいた時に同様の空気を感じていたからだった。
「そうそう。お前はそうやって周囲のことがわかるから、同じように妖の思考も読み取って、無意識に真似してるんだよ」
よっこらせ、と死神が彼の前にあぐらをかいて座る。
眉をひそめても否定はしない彼に、今夜は話し合いの余地があると思ったらしい。
「オレを手伝いたくないのは、多分妖の意向だと思うけどね。ここにこうして、お前が戻ってきた以上はね」
簡単に天国を出れはしないと言ったくせに、彼がここにいることも死神は不可解のようだった。
だからわざわざ目を覚まして、出戻った彼に会いにきたのだ。
本当はまだまだ眠っていたいと、気怠さをおしても、彼と話をしにきた死神なのだ。
彼自身、天国から飛び立ったはずの自分がここにいることに、考え込まずにはいられなかった。
この場所にまだ、いたいというわけではない。むしろ早く、出て行きたいのに、今は駄目だと自身の何かが訴えていた。
そんな彼の本音を見通すように、死神が軽く嘲りを浮かべた。
「本当のお前自身の意思は、ついさっき、ここから消えようとしたことくらいじゃない?」
「――……」
「お前は何かしなきゃって、焦って戻って来たみたいだけど。お前はそうやって、いつも何かに駆り立てられてるみたいだけど」
彼を先程、「周囲のことがわかる」と評した死神だが、死神の方こそ大概だった。
彼が自分自身でもよくわかっていなかった心を、死神は易々と――ずけずけと踏み込んでくる。
「それでもお前は……本当に、何かしたいの?」
「……――……」
何一つ私情を挟まずに、彼をじっと見据える深い蒼の目。
この死神はおそらく、彼に何も期待していない。もしも彼が望むなら、協力してもらおうという程度に過ぎない。
だからなのだろうか。暗い辺りに溶け込むような死神に、彼はその、おそらくは本当の答……消えそうな自らの心から拾い上げた、弱音を吐き出していた。
「……しなくていいなら……もう、何もしたくない」
死神は他意なく笑うと、だろ? と、彼が死神を拒絶した真の理由をあっさり受け入れる。
昨夜からわかっていたのだろう。だから無理強いしなかった相手に、彼は俯きながら先を続けた。
「でも……しなきゃ、いけないと思う」
震える彼に、どうして? と尋ねる。
彼は正直に、わからない、と答えるしかなかった。
ここにいても、彼には何もすることはない。死神が改めてそうして、現実を伝える。
「ここを守るのは嫌なんだろ? ここにはお前の言う通り、ヒトも動物も、文明も文化も、ホントに何もないからね」
「……」
彼自身、どうして、何もないのが嫌なのかはわからない。それでも今も、こんな廃墟のために動くのは嫌だった。ここにずっといなければならないなら、今度こそ飛び立ってしまいたいほどだった。
退屈という概念にも近いかもしれない。何もないなら呼吸をする意味がない。目を覚ましているなら理由が必要だ、と体の奥が軋んでいるのだ。
そもそも彼にできることもなかった。死神がこの地をどう守っているかは知らないが、彼には死神に協力できる心当たりが、全くといってない。
「ここを守るっていうのは……俺に何を、どうしろってことなんだ」
無力な彼の自覚を裏付けるように、死神がこてんと首を傾げた。
「いんや? お前は特に、何もしなくていいんだけど」
やはりそうだった。だから彼は、何もない――何もしないだろうここでの暮らしが、耐え難いものだと最初からわかっていた。それが何故わかるのかは、「周囲のことがわかる」と死神に言われても、未だによくわからないが。
しかし死神はここで、意外な内容を先に続ける。
「ただお前が、生きてるだけでいいよ。生きてるなら別に、ここにいなくてもいい」
「……へ?」
「生きるための力は、オレが分ける。オレの羽を、生やしてるだけでいい」
詐欺だとしか思えなかった。そんなことをして死神に、いったい何の得があるのだろうか。
「俺が生きるための力を……アンタから、もらう?」
背骨の髄を鈍い嫌悪がせり上がる。昨夜から何度も感じた背中の痛みに、思い当たることができてしまった。
「今、こうして話してるのも……ひょっとしてアンタの力?」
自分自身が生き物であると、彼はどうしても思えなかった。天国などに来る前に、確かに彼の意識は一度閉じたはずだ。以前のことを思い出せないのも、おそらくその影響だろう。
それなのにこうして、蝶の妖魔から借りたらしき知性で喋り、今現在を観る意識があること。
そこからして不可解であること……彼を生かしているものがあることに、やっとそこで気が付いていた。
死神はにやりと笑うと、黙って彼の目を斜めに見つめる。それは肯定の意を示して余りあった。
彼は既に死神の力で、死神の意向で生かされている――死神の羽を植え付けられた死者なのだと。
気が遠くなりそうだった。何故そんなことになったのかはわからないが、彼は即座に異議を申し立てた。
「いらない、返す。アンタの力なんて、分けていらない」
「残念でした。オレにもどうやって止めればいいか、よくわからなくてさ」
「そんな……無責任な」
死神は嘘をついていない。話していないことはあるが、あえて話す理由がないだけのように観える。
「俺、ひょっとして……アンタが生きてる限り、死なないのか?」
行き当たった結論をすぐに尋ねると、死神は笑って両腕を組んでいた。
「そうかもしれないね。羽をひっこぬければいいけど、羽の出し方すら、お前はわからないだろ?」
背中の内で、ちくちくと痛む何か。何てことだ、と彼は、体中から力が抜ける気がした。
眠たそうにあくびをする死神は、全く何も考えていない。こうなった理由もどうでも良いらしく、解決する気は微塵も見られなかった。
「お前がいいなら、更にオレの血も分けるんだけど。もしくはお前の血をもらうんだけど」
最早何が言いたいかもさっぱりわからない。感情の機微というものがこの死神にはほとんどなく、言葉の内で何処が重要なのかよく掴めないのだ。
「帰りたいなら地上に送るけど、そこから先は知らないよ。オレもそろそろ、塔に帰らないとだし」
「…………」
すっかり暗くなった空の下で、死神がよっと立ち上がった。
昨日から寝ていた場所には帰らず、違う所に向かうらしい。しかしその行く先でも、結局眠りこけるだけなのだと、ほどなく彼は知ることになる。
記憶がないまま、帰るかどうかも決められず、彼はとにかく死神の後に続いたのだった。
†4.遠きにありて
空に浮かぶその国の、中央部分という「塔」に来ると、冷たい床で死神はまた寝付いてしまった。
色褪せた金箔がところどころ剥がれ、非対称に凹凸のある四角錐の細長い建物。そこまでの道中で何とか、「塔」や「天国」については色々と聞いたが、それでもわからないことだらけだった。
「塔は塔だよ。オレの『力』が一番効率良く、全体に回る所」
「『力』が、全体に?」
「天国にはオレが『錠』を下ろしてるの。お前はオレの羽のせいでフリーパスだけど、ここに生き物がいないのは、それで入れないからだよ」
何もないように見える空も、どこかに透明の仕切りがあるらしい。悪夢で見た空と黒い鳥の境界は、そうして死神が作っているのだという。
「何でそんな『錠』、下ろしてるんだ?」
「ここに何も入れないために。それをするためにオレは造られたから」
「……?」
坦々と話す声色にはずっと情味がない。彼が聞くから答えているだけで、意図の含まれない説明に彼はどう反応していいかわからなかった。
それらを話したところで、死神は彼に何も期待していない。その目的の無さがずっと落ち着かないままだ。
期待されるような何かを、彼が持っているわけではない。そういうことなのだろう、と嫌でも感じてしまう。
それならこの地に彼がいる意味もないのに、他に行くべき場所もとんとわからない。
死神の力で彼の意識がまだしばらく続いてしまうなら、この存在の無意味さが胸苦しかった。
何かやりたいわけではない。けれど、何もしないのは辛い。
空を突く金色の塔の内で、眠る死神のそばにいても、何人も天国に入れないならその意味もなかった。
「眠ってるところ……守る必要すら、ないってことだよな」
無防備な姿は相変わらず秀麗だった。一度眠ってしまうと、無機質な寝顔には人形じみた美観がたたえられる。
性格はまだ全く掴めない。にやにやとした表情の通りのあくどさも、彼がここにいることに疑問を持たない寛容さも、「力」を分けているらしい甘さも、全てが並列に混在している。
それでいて、内心がほとんどよくわからない。隠しているわけでもなく、何も感じていないように思える。ずっと焦りだらけの彼とは真逆の平坦さだ。
それこそ感情の起伏で言えば、彼より死神の方がよほど死者じみていた。
「――」
一瞬何か、思い浮かびそうになった。胸元の蝶のペンダントも熱を持った気がする。
死神はこれを妖魔と言ったが、確かに何かの感情を持っている。「魔」らしきものであるせいなのか、聖なる天国ではこれ以上存在感を主張できないらしい。
ペンダントに意識を集中してみると、彼を心配している思いが一番大きく、何とか一言、汲み取ることができた。
――鴉夜さんに負けちゃだめですよ、師匠!
これはきっと、天国の夢で、芝居がどうのと言っていた声だ。さらに言えば、酒も女もなくて何が天国か、と叫ぶ声でもあった。
それなら彼の記憶に関わりそうな、もう一つの夢――
スーファミだのVRだのと謎の言葉を言っていたのは、誰だったのだろう。
あまりにすることがないので、塔の壁にもたれて座り、記憶探しだけを彼は思う。
そんな所に、その少女の声は、天国の秩序を汚す不穏さで唐突に響いていた。
――私は貴方に……その人に、殺されたのよ……?
ぞくり、と全身に寒気が走った。
対して胸の上では、ペンダントが警戒するように熱を増している。先程汲み取った感情を繰り返し繰り返し、彼に訴えてきている。
「……え?」
扉のないくり抜き型の塔の入り口を、彼は悪い予感と共に見やる。
白い石の壁の中で、ぽっかり黒い闇が差すそこには、影を持たないおかしな何かが隠れて立っていた。
「……!」
彼と死神以外、何もいないはずの天国で、彼らを見ている黒い何か。
気付かれたとわかったのか、何かはさっと身をひるがえし、足音も立てずに逃げ出していく。
「って……!」
そうして侵入物があるのに、死神は呑気に眠ったままだ。彼はとにかく立ち上がると、不審な何かを追いかけるために塔を駆け出ていった。
追いかけたところで、彼に何ができるのだろう。
たった数秒走っただけで、すぐに息切れが始まる脆い体に彼は舌打ちする。
塔を遠巻きに取り巻くように林が敷かれたこの辺りは、彼が最初に目覚めた場所より、何故か空気が薄く感じられた。
浅い林に逃げ込んだ何かの後から、道のない木々の中に入る。
塔のある中心地と、他の集落を分ける境界のような林地だ。どの方角に向かっているかわからないが、しばらく行くと先程まであれほど辛かった呼吸が、突然楽になった。
「……?」
ひらりひらりと、暗闇を舞うように逃げる何かに、それで追いつくことができた。
着いた先は、彼が今日、塔に行くまでに通ったはずの場所だ。つまり彼は、元の場所に戻る方向に走っていたらしい。
一つぽつんと、明るい星が夜空に見えるので、北に向かっていたのだとわかる。
その妙な知識も、出所はペンダントなのか。
それとも、林を抜けてから、廃墟の路地裏に追い詰められた者の考えたことなのか、今回はわからなかった。
袋小路に入った黒い何かは、石の壁を背にする、黒い上着とスカートの少女だった。
「あんた……『アヤ』……?」
「…………」
鎖骨までのまっすぐな髪も、鋭い端正な目も、どちらも鴉のように真っ黒だ。その姿は天国の夢に出てきたイメージと同じで、そして彼が、天国を飛び立とうとした時に思い出したこと……彼に無情に殺されたはずの、黒ずくめの少女だった。
黒ずくめの少女は無表情に黙りこくり、彼を物であるようかのように見つめている。
彼は彼で、黒ずくめの少女がいる理由を思って体が固まる。
ここはやはり、天国なのか――だから、殺したはずの少女がいるのだろうか、と。
白い壁を背にして黙って立ち尽くす、黒ずくめの少女を見ていると、僅かな記憶が浮かび上がってきた。
それはおそらく、少女が思っていることだった。少女の姿は見えず、銃を持つ彼の姿が見えているので、少女の視点の光景だろう。
今と同じ涼しげな服で、彼は少女に銃を向けていた。「アヤ」に会えば、こうなることはわかっていた、と痛ましげな苦い顔をしながら。
蝶のペンダントと、左腕に黒いバンダナも巻いており、ほぼ同じ姿である鬱金の髪の彼。
けれど青白い目色と、その身中の心は違った。銃を構える彼はそれを、撃つ気は持っていなかった。
――帰ろうぜ、鴉夜。心配しなくても、コイツの体はちゃんとコイツに返すから。
軽い声色で、重い決意を少女に伝える。どうやらペンダントの妖魔のように、彼に憑依している何者からしい。
けれどその憑依者は、少女が長年探している相手だった。つまり少女は、探し人が既に死んでいる現実を突きつけられていた。
彼が憑依されやすい体質であるばかりに、その事実は覆い隠されていたのだ。
――……アナタは……殺して、しまうの……?
彼の体の主とも、少女は友人だった。そこに憑依している、探していた大事な相手。
彼のことも心配なのだが、憑依が解かれれば、大事な相手が体を失う。本当に死んでしまうことになる、と。その怖れが少女を激しく混乱させた。
それが少女の内の闇を呼び起こすと、知っていて会いに行けなかった相手の、切なる悪い予感の通りに。
何故そんなことになるのかはわからない。しかしその後すぐ、少女は悪魔のような存在に変貌してしまった。
撃てない銃を彼から奪い、むしろ彼を殺そうと、倒れた彼に馬乗りになって額に銃を突きつけてきたのだ。
探し人がこの世から消えてしまう。それなら自らが相手の命を奪い、己の持つ黒い翼に取り込めばいい。少女はそんな歪んだ悪意に染まってしまった。
――これならずっと……一緒に、いられるから……――
妖しく微笑む両眼が金色に光る。白くて細い人差し指が、無骨な引き金を引こうとしたところで――そこで、少女の視力は途切れ、その記憶は終わっていた。
「……俺が……あんたを、殺したのか……」
「…………」
憑依された自らの体を守るため、なのだろうか。そこからおそらく、彼は隠し持っていた短刀で少女を貫いた。銃を撃てなかった、憑依していた者の代わりに。
自身の咎をそうしてはっきり、見せつけられた彼に、少女はふわりと嬉しそうに笑った。悪魔のようになってしまった時と同じ、金色の眼が闇の内で光った。
「……ヒト殺し……」
凛とした声は、ただ魅惑的だった。自分が咎人と知っていた彼には、驚く内容ではない。
けれどこれ以上、この少女に関わってはいけない。本能が警鐘を鳴らしているのに、魅入られた彼は一歩も動けなかった。
「あの死神さんも……殺してしまえば?」
少女をここまで追い詰めたはずの彼を、むしろ誘い込んだとわかる、黒ずくめの少女の甘いささやき。
この場所を、出たいんでしょう? 少女は可憐な声色で続けた。
「そうしたら、汚れたヒト殺しは消えられる。殺す『力』は、私が貸してあげる、から」
少女を殺した後に、自身のことも終わらせたはずの彼。それを生かしてしまった、想定外の死神の力。
頼んだわけでは全くなかった。むしろ解放してほしい、と確かに彼は心から思っている。
「……今更、何をためらうの……? 私のことも、殺したくせに……」
彼がこの後、安らぎを得るためには、それが一番妥当な手段であると。死神のあの無防備さなら、たやすいことかもしれない。
そうして少女を侵していた闇が、少女の命を奪った彼にじわりと忍び寄る。
「命を奪う」とは、そういうことだった。少女が持て余していた心の闇を、少女を殺した彼が引き受けたのだ――
その少女が持っていた禁断の翼は、翼を引き受けた者を暗闇に誘う、悪しき神意の永い黒闇。
悪魔のささやきに近いかもしれない。ささやくだけの悪魔の方が、まだ可愛げがあった。
黒い翼は外から体の殻を破り、心の奥までを侵す。彼の意思などまるで無視して、それなのに彼の望みとばかりに、彼のふりをして彼を動かす。
少女もずっとそうだったのだ。自分の望みで大事な相手を探していたのに、それは黒い翼の思うつぼで、心の動揺から黒い翼に主導権を握られてしまった。
いくら消えたくても、死神を殺してまでとは思いもしなかった彼に、黒い翼はするりと入り込んでくる。
何も応えられなくなった彼に、黒ずくめの少女がゆっくりと近づく。彼の肩に白い両手を回し、つぶらな金色の目が間近で彼を見つめ、彼の目を惹き寄せようと細腕に強く力を入れてくる。
抵抗しなければいけないことは、本当はわかっていた。
これは神前での誓いと全く同じ意味を持つ、永遠の束縛の口付けだった。
「っ、ん……っ」
流されるまま重ねられた少女の唇から、少女が抑え続けてきた闇――黒い翼が彼の臓腑に潜り、心臓を掴むようにその根を張っていく。
少女の命を奪っただけでは、黒い翼は彼に遷り切らなかったらしい。
それはおそらく、彼の中に違う命が既にあること。この天国に来て繋がれたものが、黒い翼から彼を守っていた。
浸食してくる少女の闇に、崩れ落ちることしかできなかった彼から、不意に少女の気配がすっと離れた。
「悪いけどさ。一応、不純同性交遊禁止だから、ここ」
心から眠たく億劫そうな声が、呑気に彼の背後から響く。
その死神が現れた直後に、今度こそ少女は闇に還るように、彼の目前で霧散してしまった。
消える寸前に、彼とよく似た少年――黒ずくめの服装をしている、黒い翼の姿に変わりながら。
「それはお前自身の闇だよ。お前はとっくに、その闇に隠されちゃったんだよ」
座り込んでしまった彼は、口移しされた悪意を吐き出すように激しく咳き込む。
後ろではそんな彼を憐れむように、死神が大きく溜め息をついて両腕を組んでいた。
「それでもお前は……そいつのことを、助けたかったの?」
かすかな残滓のような少女の闇ですら、彼は拒むことができなかった。
彼が少女を手にかけた理由は、たった一つだった。その黒い翼を、彼が引き受けるため……永い闇から少女を解放するには、それしかないことを彼は知っていた。
それでも彼が、ヒト殺しであることには変わりがない。そんな選択を取れてしまうのは、彼が元々多くのヒトの命を奪ってきた咎人だからだ。
最後だけは少女のために、手を汚そうと思った。それだけのことに過ぎない。
黒い翼に侵されれば、彼自身も消えてしまうことは、その時にもわかっていたのだから。
だから死神は彼を憐れみ、無表情に彼を見下ろしていた。この死神が、気まぐれに彼を生かすことがなければ、彼はとっくに消えられていたのだ。
少女にそそのかされたからか、彼自身の恨みなのか。
膝をついていた彼は、吐き出しきれない激情のまま背後の死神の服を掴み、振り向きながら死神を引きずり倒した。
「アンタが、いるから……!」
ずっと無防備にして、隙だらけだった死神は、あっさり彼に乗りかかられた。
道端に押し倒されながら、動揺の欠片もなく無表情に見上げる蒼い目に、彼は青白い月を背にして黒い怨嗟を吐き出していた。
「俺は……アンタを、殺したい……」
黒い襟に覆われた死神の首を、強張る両手が勝手に絞めにいった。
この憎悪は何処から来るのかわからないほど、悪心で震える手に力が入った。
窒息よりも前に、細い首の骨が折れそうなほど、彼の全霊が込められた穢れた指先。
黒く歪む彼を前に、死神はふっと、見たことのあるような顔で微笑んでいた――
†5.極楽願う
心の闇とは、誰にもあるものなのだ、と、黒ずくめの少女はかつて話した。
それが溢れ出し、世の秩序を乱すようになれば、自分が狩らなくてはいけないのだと。
――神隠しって、この業界では言うの。闇に呑まれて見失ってしまえば、ヒトは自分を忘れてしまうの。
何のことかはさっぱりわからなかった。思ったのは、そんな闇を狩って回り、少女自身は大丈夫なのだろうかということだけだった。
案の定、少女が引き受け続けた闇は、いつしか少女の内にも強く根を張っていた。
それ以外は何も思い出せない。その闇を引き受けた彼も、自分を忘れてしまったのだ。
だから今、こんな風に情けなく座り込んでいる。
浸食してきた悪意のままに、死神を殺そうとしてしまったが、細い指の出る手袋をはめた黒い手のわずか一突きで、彼は死神の上から吹っ飛ばされた。意識を失った所を抱えられて、その後はすぐに塔に戻ったらしい。
「北の地にいるとお前はダメだね。元気が戻り過ぎるから、しばらくここで反省してなよ」
胸を強打されたせいか息苦しく、気持ちもしゅんと萎えており、先刻の憎悪は消えてしまった。
死神曰く、この天国は東西南北と中央の場所によって、彼が元気になる所と不調になる所があるというのだ。
「風の領域に入った時も、すぐに倒れたみたいだしね。ここはプラスマイナス零だろうから、なるべく北の地――水の領域には行かないこと」
坦々と忠告する死神は、怒った様子もなく、相変わらず人情味は皆無だった。
仮にも死神を殺そうとした彼は、膝を抱えて俯きながら、力無く尋ねるしかなかった。
「俺みたいなの……放置しといて、アンタはいいのか」
天国を守るという死神が、その命を狙った彼という病魔を、何の気もなく内包している。
殺意が無かったとしても、死神の力で生かされているだけで同じだった。それは何がしかの負担を必ず、死神にかけているはずなのだ。
「何でアンタは……俺にアンタの羽なんて、与えたんだよ」
死神はそこで、落ち込む彼をさらに凹ませる事実を、けろりとした無表情で伝えた。
「何だ、それも忘れてたんだ。お前がオレを殺したから、オレの羽はお前に奪われたんだけど?」
開きっ放しの窓に、自分でかけたらしいカーテンを開き、月の光を入れながら坦々と続ける。
「命を奪うって、そういうことだよ。奪った責任、命を背負う、みたいなものかな」
そう言えば確かに、黒い翼が彼に遷ったのも同じ理屈のはずだった。
言葉を失う彼に、死神は窓の外の遠くを見ながら、窓枠に頬杖をついた。
「オレとお前は、その時から命を共有してる。でもお前が羽を使ってなかったから、繋がりは一旦途切れてたんだけど」
振り返ると、今度は窓枠に座り、月を背にしてにやりと笑った。
「オレのことなんて忘れてるのに、お前はわざわざここに来たんだよね。その理由は、オレこそ聞きたかったよ」
死神は彼に、自分が彼を連れ込んだ、と言った。それはあくまで、死神の羽が彼をここに誘ったという意味だったらしい。
その羽の存在など、彼は知りもしなかった。記憶を失う前は知っていた可能性もあるが、ここに来たのは真っ白になってからだ。
自分が消えられないのは、死神に力を分けられているから。それすら自業自得だったのだと、彼はもう嗤うしかなかった。
「俺は何で――アンタを殺したんだ?」
生き物らしさがほとんどない死神にも、ようやく納得がいく。彼に命――羽を奪われ、その後は命を共有して生き繋いだなら、色々と足りない心もあったのだろう。
自嘲するような彼に、死神は至って平静に、予想以上の答を返してきていた。
「そりゃ、オレ達悪魔が、お前の妹をこき使ってたから。正確には使われてたんだけど、まあそれはどっちでもいいかな」
「……は?」
「お前はそうやって、人のためなら躊躇なく手を汚すみたいだね。お前自身は、何もしたくない――殺したくはない奴に見えるのにね」
思ったよりもずっと、死神は彼の素性を知っている。彼が何も聞かなかったから、教えなかった。その一言に尽きるようだった。
「何もしたくないなら、しなくていいよ。ここはそういう所だから。お前にとって余計なものを、捨てていくことができる場所だよ」
繰り返しそれを言う死神に、彼は唐突に、何故か胸が痛くなった。
「……アンタはそれだけ、俺のことを知ってるのに」
思い至ったのは、死神がただただ、彼の都合に添って話している現状で。
「俺に何も教えなかったのは……俺がそれを、望んでないから?」
死神を殺し、羽を奪ったという彼に、死神は恨みも憎悪も抱いていない。それどころか、彼にとって良いように、何も意識せずに自然に動いている。
相対する者にとって、何と都合の良い存在だろう。
するべきことを常に求める彼が、誰かのために都合良くなろうとした存在なら、死神は元々その生を体現している。無様な彼にはおそらく、永遠に届かない姿だった。
青白い月の下で、彼はただ、無気力に項垂れるしかなかった。
「俺は元々……自分が誰かなんて、どうでも良かったんだ」
ぺたんと座り込む前で、塔の窓枠に死神が億劫そうに座っている。
無表情に彼を見下げる死神は、どうやら彼の戯言には興味があるようだった。
「最初から、目的だけを知ってた。誰かを助けなきゃいけなかった。それができたら、役目は終わりで……だからもう、消えて良かったのに」
彼が彼であることに価値があるとしたら――誰かを助けること、そのために生きている間だけだった。
彼にはそうとしか思えなかった。だから何もしないのは、彼には耐え難い無価値の時間。
そんな彼の命を留める死神は、何故か不意に邪まさを浮かべて笑った。
「お前の望みは、間違ってるよ」
彼の心など、死神はどうでもいいのだろう。死神にとって必要なことだけを、嘲るように聞き返してくる。
「お前はそのまま……消えたいの?」
何がどう、間違っているのだろう。どうして消えてはいけないのだろう。
天国に来るなど、彼は決して望んでいなかった。
それでもこの、虚ろな生活こそが、彼に与えられた罰なのだろうか。彼は自身の、あるがままを答えるしかない。
「いらないものは……早く、消えてほしい」
どうしようもなく、目障りだった。
何もできず、何にもならず、呼吸をしているだけの自分が。
死神はふと、無表情に戻ると、淡々とまた尋ねてきていた。
「いる奴って、何さ?」
その蒼い目が、彼を見透かすように、青白い月の下で光る。
「オレにはお前は、使える奴なんだけど」
この答はずっと、彼に告げられていたものだ。
死神の羽を奪い、「力」を横流しにされて、今の彼は意識を保っている。そこに何の利点があるのか、未だに彼はわからないでいた。
「……俺には、アンタの望みが、何一つわからないんだ」
それが死神の誘いに頷けない、彼の一番大きな理由になる。
「俺にアンタは……助けられないと思う」
この天国を守っている、と死神は言った。
誰もいない空ろな楽園を守る死神が、窓を離れて彼の前に立った。
「助けにならないなら、いらないって?」
彼に相変わらず、何も期待していない死神は、純粋に不思議そうだった。
「人に人は、救えないよ。お前の望みには、無理があるよ」
もう一度窓の方に戻り、夜空を見上げながら、死神が綺麗に微笑んでいた。
「お前はホントに、余計なものだらけだね」
ここを守るため――「錠」を下ろすために造られたという死神には、天国を守る役目以外に、確かに事情はなさそうだった。
その後ろ姿があまりに孤高で、彼はつい、余分なことを尋ねる気になってしまった。
「アンタは何で、一人でここを守ってるんだ?」
ここは余計なものを捨てる場所、と死神は先程口にした。それには大きな意味があると珍しく感じられ、そこに言及した彼に、死神の表情がすっと消えていった。
特に反応したのは、「一人で」というところだ。彼が生きているなら、天国にいなくてもいいと言った死神が、ヒトの存在に拘っているようには見えなかったのだが……。
「……ここは、世界中の『力』が還って、また世界に出ていく場所でさ」
ぽつりと、先程までより拙い声で、背中を向けたままの死神が話を続ける。
「色んな余計なものが、混ざりまくったものが還って、本来の形に戻る。たとえば特に、五大要素の『地水火風空』は五つの領域にそれぞれ分かれて、純粋な五行の元素に戻っていく」
何やら先刻、北の地――水の領域に行くなと言っていたのを、そう言えば彼も思い出した。
「そこに何か、良くないものが混ざったら、世界にも良くないものが出ていくわけで――」
だからこの地に、良くないものを侵入させるわけにはいかない。
それが天国を守る意味だと言いながら、死神自身にはどうでもよいことのようだった。
「オレは悪魔だけど、天国を守る『守護者』として造られて、それしかすることがない。他の『守護者』はそうじゃないから、みんな大体、地上で生きてる」
天国を守る者。それは本来、一人だけではなさそうだった。
だから彼が「一人で」と言った時に、死神は反応を見せていたのだ。
「他の奴らは、余分がいっぱいだから。空に来るには、あれじゃ重いと思うから」
高き空を往く獣を、人は鳥と言う。自由の象徴と言われる獣に、大いなる羨望を込めて。
自由とはそうして、余分を持つことのない孤独。そう天上の鳥は言いたいようだった。
自らを悪魔と言いつつ、隠すべくもない天上の気配。悪魔はそもそも、天上の鳥が堕ちる者がほとんどなのだと、彼は知る由もなかったのだが……。
「アンタは俺に……アンタの余分を、分けたかったのか」
あえて空への切符――翼を渡されている悪魔。
その望みは、この天国に束縛されていながら、身軽でいること。
死神はここを、「自分を閉じ込める檻」だと評した。そこに侵入した彼、その檻を開けた「鍵」。そんな存在自体を求めているのだと、ようやく彼は感じ取った。
ただ、彼という可能性がそこに在る。鍵が開いたことだけで死神は十分なのだろう。どうせ元より、外に出る気はないのだ。
「檻」という余計なココロを、選択肢という自由で、自身の意識の中から捨てられればいい。
彼が呟いたことを、死神自らも気が付いたように、これまでで一番平和な笑顔を見せていた。
変な奴だね、と。死神が改めて、彼を見て不思議そうに笑った。
「オレを殺した奴も、オレの『力』を貸した奴も、別にお前だけじゃないんだけどさ」
彼に殺されたのが初めての死ではない、と物騒なことをあっさりと言う。
その度に死神の内で、感情や煩悩といった何かが失われてきたらしい。そうして今の身軽さに至るのだと、暗に真情が伝わってきた。
「それでもオレの前に戻って来た奴は……そうそういないんだよね」
死神自ら、関わった相手は沢山いるようだった。しかし死神に関わってくる相手は、もれなく利用者ばかりだったとそこで語った。
「オレの『力』が欲しい奴しか、オレの前には来なかったけど。オレの『力』が必要なくせに、本気でいらないと思ってる奴は、お前が多分初めてだよ」
それで死神はずっと、無防備でいるらしい。
本当は彼を殺せば、彼に奪われた羽も取り返せるのだろうが、それは発想すらしないようだった。
「だからお前になら、羽を預けられる。放置してても、何も問題はない」
彼に首を絞められたというのに、この余裕ぶりは何とも凄まじい。「力」の差が為せる業だろうが、死神はそれで良くても、彼には何も良くなかった。
彼はさっさと、死神に羽を返したい。ここまで来たのも、もしやそれが理由ではないのか。
それなら彼も他の者のように、死神を利用すればいい。
そうして信頼を失えばいい。答が出てみれば簡単な話だった。
「それじゃ……アンタの『力』、全部俺にくれよ」
彼は後に、この時のことを、「詐欺だ」と何度も思い返す。
「力」を全部くれと言われ、青白い月光を背に、死神はきょとんと蒼い目を丸くした。
彼は半ば、本気だった。死神に勝てない以上は、「力」を騙し取って死神を殺すか、死神に警戒されて見捨てられないと、消えることができないからだ。
その思い自体は変わっていない。あくまで羽を取り返そうとしないなら、悪いのは死神だとも言える。死神の都合で「力」を分けられる彼はたまったものではない。
死神の首を絞めた時にも似た、そんな逆恨みが目を覚ましていたところで――
彼の心など知りもしないかのように、死神が無邪気に心から笑った。
「いいよ。お前はオレの、『鍵』だから」
ちょっと待て、ここは拒絶するところのはずだ。彼がそう焦った時には既に遅かった。
あまりにヒトに都合良く造られた、利用される一方の悪魔。その右背に突然、コウモリのような羽が四枚現れていた。
「ただし――吸血鬼になっても知らないよ?」
天上の鳥の翼を持つものが、「悪魔」となってしまった理由。それこそがその、鳥とは程遠い黒爪の羽と、きらりと光る牙の存在だった。
――お前がいいなら、オレの血も分けるけど。もしくはお前の血をもらうけど。
吸血鬼として造りかえられた過去を持つ、「守護者」。遠い昔に汚された心血。
この日彼は、うっかりそれを受け取り、その悪魔の従者たる道を歩むこととなる。
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とりあえずは全て、あくどい詐欺だ、と彼は思った。
今更言っても仕方のないことなので、わりとすぐに今の体を、受け入れはしたのだが……。
やわな首元に突然牙を立てられ、中途半端な吸血鬼にされた二年前を思い出すだに、彼は納得のいかない思いに襲われる。
「噛みつかれたのに、何で、アンタの血が俺の中に入ってるの?」
蛇と同じで、そこから彼に、死神の血の毒が分けられたらしい。
吸血鬼のくせに天国にいて、死神と名乗る相手がまず不可解だ。
それでも彼が聖なる天国にいる限り、完全な吸血鬼にはならないらしいことも、全てが不思議で納得いかなかった。
常時は塔で寝るばかりの死神が、にやにやと意地悪な顔で笑った。
「そりゃ、あの時のお前に、まず血なんてほとんどなかったし」
彼の血を奪えば、それを通じて死神は彼を掌握し、コントロールできるようになるという。
彼に血を分ければ、彼が吸血鬼になり、死神の「力」を更に分けることができるという。
どちらもするという選択も有り得る中で、ヒトを吸血鬼――死者の仲間にできる青年は、自らを死神と位置付けて長いようだった。
血を奪われた場合、彼は死体と化して、安定した奴隷のような存在になる。血を分けられた場合は、体が徐々に侵されて変質する。
血を分けられただけで、奪われていない彼の体は不安定だが、自由意思が残る方を優先したと死神は微笑むのだった。
「『神隠し』よりは良心的でしょ。それでお前の記憶、大分戻って来たわけだし」
彼が記憶を失っていたのは、黒い翼の侵蝕によるものだという。
翼とは基本、「神」から与えられるもので、その持つ「力」に潰されてしまう――己の意思を隠される場合、ヒトは「神明」を失ってしまうとのことだった。
「『神明』は、精神とか『神』とか、ヒトの意識の別名でもあってね。『真名』にも通じて、お前が奪われたのは、お前の本当の名前なんだよ」
名前とは存在の本質、存在そのものだと、死神はそこで強調した。
聖者が祈りを唱える時に、「神の名を求めよ」と言うのはそのためで、名前を奪われたものは己の本質――心を見失ってしまうそうだった。
「血は心を宿して、心は記憶の入れ物だから。オレが血を分ける限りは、お前は記憶を戻していけるから」
彼にかつて殺されたという死神は、彼の真の名前までは知らなかったが、彼が体現した本質を知っていた。
それで彼に、彼の本質をなるべく引き出せる、新たな名前を与えてくれた死神だった。
「お前は元々、自分と他人が混ざりやすい水属性の、『雨』の化生だね。翼も黒いし、だから『燕雨』で、通称は妥当だと思うよ」
死神から奪った羽も、黒い鳥の翼も、形は全然違うがとにかく黒かった。
この二年の修行で彼は、死神の羽を使うことができるようになった。黒い鳥の翼も、余計なものを削ぐという天国の影響で何とか白くすることができたが、気を抜けば闇の侵蝕が戻る可能性は大いに残っていた。
死神の血を分けられてから、彼の記憶が戻った決定打は、左腕にずっと巻く黒いバンダナだった。
そのバンダナはとても長く、彼と共にあったらしい。彼の軌跡を見てきたそれを、死神が戯れで彼の頭に巻いた時から、まるで過去の己に憑依されるように、彼は自らを取り戻し始めていた。
「お前はとにかく、余計なものを観過ぎだから。目を半分隠してるくらいが、多分ちょうどいいよ」
するりとしなやかな材質のバンダナは、すぐにずれて彼の目を隠してしまう。やたらに目が熱く赤くなるせいか、彼の常時低いテンションまでが異常に上がる。
人懐っこい顔立ちである彼の、人相が妙に悪くなるのも難点だが、それくらいの方がヒトに使われずに済むなどと死神は言う。
今の彼は、死神の従者である立場なので、言うことを聞きながら過ごしていると天国では早くも二年がたっていた。
何もない天国は、死神の「力」を本格的に分けられ始めると、それを使いこなすための地獄の修行場に変わった。こんなに重い「力」を持っていたなら、それを誰かに分けたいと死神が思ったのも、無理はないと感じたほどだった。
そうして彼を鍛える時を除いて、死神は相変わらず、日がな寝てばかりいる。
と思いきや、それは天国に継続して「錠」を下ろすためで、重い「力」を制御するのに必死で、他のことをする余裕がなかったらしい。
彼に「力」を分けてからは身軽になり、目を覚ましていられる時間が死神にも増えた。荷物はいくら有用なものでも、持ち過ぎていては駄目だと語る姿は説得力があった。
彼という「鍵」ができたことで、天国に「錠」を下ろしたまま、死神は地上に降りることもできるようになった。
閉じ込められるか、開け放ってしまうか。今まではそのどちらかしかなく、引きこもっていたということだった。
この二年は本当に、阿鼻叫喚の毎日だった。
「力」の行使ですぐにぶっ壊れる彼の体を、その都度死神が修復していく。
完全な吸血鬼になりそうになる――人の血が欲しいと飢え渇きながら、死神の血以外はもらわずに過ごすと決めた。太陽の光が痛くて怖いのも、慣れるまでに随分時間がかかった。
純粋な吸血鬼なはずの死神は、地上に降りる時以外、誰かの血を奪う機会はない。大体常に貧血で、彼が死神の血そのものを分けてもらえる機会は少ない。
聞けば再会した他の「守護者」の協力で、なるべく穏便な形で僅かな血を供給されているらしい。彼も死神の「力」に適応できたら、いずれはそこに世話になれ、と当初からずっと言われていた。
そうして彼がすっかり、己の体と天国の生活に慣れた頃に――
その想いは本当に自然に、余計なものが払われてから浮かんだ、彼の唯一の望みだった。
――……待ってる、から……。
夕焼けに映える、肩までの短い赤い髪の娘。閉じた目に焼き付いている誰かの姿。
今はその名前も思い出せた。彼女に会いたいと願ってしまった時に、天国が嫌だと感じた一番の理由を、彼は自覚することになった。
「ここには、何もない……鶫がいないから、俺は嫌なんだ」
何気なくこぼすと、じゃあ地上に帰れば? と、あまりにあっさり言う死神だった。
何処にいても死神の「力」は、彼に分けられ続ける。彼が生きてさえいれば死神はいいと、変わらない血の契約を再び告げた。
「お前はオレの『鍵』で、天国を閉ざす『錠』を開く者。だから全然、それでいいよ」
自分一人で天国を守ることに、死神は相変わらず疑問がないらしい。
以前はそれを、痛ましいと思った。しかし死神が、何度か地上に降りる姿を見る内に、その思いもいつしか変質していた。
「ここは確かに――アンタにとっては、天国なんだな」
地上に降りられるようになり、他の「守護者」達と会ってきた時、いつも死神には、それまでにない感情が生まれていた。
血を補充してくるからか、元気になっているのもあるが、明らかに嬉しそうな顔をして帰ってくる。
他の「守護者」が、地上で平穏に暮らしているのが嬉しいらしい。つくづく都合の良い存在だ、とそのたび思い知らされる。
余計なものを、何も持っていない死神。その在り方を映すような天国には何もない、と言った彼に死神も頷く。
それでも死神を、一人残して地上に降りると決めた頃には、彼は色々と思い直していた。
「ここにも、アンタにも……何もないことは、なかったよな」
一人の番人。死者のように感情が平坦で、雑多な心が並列に存在している吸血鬼。
それはただ、何もかもが「余計でない」者の在り方。全てが大事で優先という、果てしない無茶な甘さなのだ。
誰より余分だらけの相手。青闇の髪で蒼い目をした孤高な悪魔。
夜明けの天国の端で、階段状の縁石の段差に足をかけて、去りゆく彼は振り返りながら笑いかけた。
「他の守護者がもしもいなければ――それでもアンタは、ここを守るのか?」
飛び立つ彼を見送りにきた死神は、ぽかんとした顔で問いかけを聞いていた。
けれどすぐに、その意を汲み取ったように微笑みを見せた。
「……オレはここを、守るためだけにいる――誰かに都合良く造られた、人形みたいな存在に過ぎないんだけど」
本当にただの人形なら、こうして楽しそうには笑わないだろう。
ここにいること、天国を守る仕事が、死神には心地のよいことなのだ。
「でもそれが――オレがここにいるのが、アイツらのためになるからなら……確かにその方が、オレにもいいかもね」
だからここは、死神にとっては天国だった。
複数の守護者やその身内を含め、大事なものが沢山有り過ぎる死神には、いるだけで世界を守れるこの場所が良いのだ。その方がまとめて、大事なもののためになることができる。
世界そのものの秩序や和には、死神は興味を持っていない。
「力」も「命」も、余計なものを純粋に戻すという天に、悪いものを混ぜないでおくこと。その役目しか考えていない。
それがどれだけ必要なことかはわからないが、誰かがしなければいけないことなら、自分がすればいい。他の者は好きにしていろ、とそう思っている。
何と甘いこと、この上ないのだろう。危なっかしくて仕方ないので、何かあれば力になってやらないといけないだろう。
そうして彼は、死神の従者であることを受け入れた。それは彼にもおそらく、ひどく幸いな生き筋だった。
何もできることがない――生きる理由がなくなることが、未だに彼は受け入れられない。
赤い髪の娘に会いにいくという、大事な望みは一つ見つけた。それでも今も、彼が咎人であることは変わらないのだ。
死神が彼に生きていろというなら、その約束のために生きる。
そんな面倒な契約をさせられて、それでもいいと思える相手はそうそういない。この死神でなければ彼は、その契約を交わそうとは思わなかった。
いつまで続くのかもわからない幻想。死神の気が変われば、彼の存在などあっさり無に還る。
それで彼は全くかまわなかった。戯れに繋がった縁は、その翼がいつかもがれる日まで、戯れに羽ばたいていればいい――
今もずっと、血が欲しいと渇き続けて、陽の光を痛がる体に喝を入れる。
以前にも来た、天国と空の境にある円柱の間で、所狭しと彼は全ての翼を大きく広げた。
左側の背には、死神から奪ったという三枚の黒い羽。右側には黒い鳥や、拾い物の白の翼が光る。
その姿を見た死神が、あ。と思い出したように、最後の忠告を彼に伝える。
「ところでお前。今度は簡単に隠されないように、自分の真の名前は、誰にも教えちゃ駄目だからね?」
今の彼を「燕雨」と呼ぶ死神は、あくまでそれは通称だと言った。
いつも大体、「ツバメ」と軽いニュアンスで呼びかけてくる。しかしそれこそ、彼の真名であるのだと、彼らだけの永い約束がその名の内にあった。
「オレの名前は、ホントのところは、『ツバサ』だよ。お前はだから、本当は翼雨」
珍しく煩く言う死神にはいくつも、別の通称が存在している。しかしこの名前を教えたのは、本当に彼一人だけらしい。
「オレもいつか、退屈になったらオマエに会いにいくよ。今はまだ眠た過ぎて、それどころじゃないけどさ」
……可愛い。と彼は、振り向きながらうっかり思ってしまった。
本当に眠たげな子供の笑顔で、死神は彼を見送りにきている。こうして見ると明らかに童顔で、どんな気ままさも許される気がした。
そのために彼の眠りは当分妨げられそうだが、彼はとっくに、全てを諦めていた。
天国や地獄、どこであろうと、彼が望む場所でなければ意味はない。
彼はこれから、この空を飛び立って探しにいくのだ。
彼だけが知る天国――温かな赤い空の夢を。
File.H 了
オマケ。
過去の遺物。
◆謝辞◆
ここまでご覧下さった方に感謝をこめて。
インマヌエル -天-
ここまで読んで下さりありがとうございました。
この話は『インマヌエル』本編の前座になります。本編は4/1にUP済みです。
あえて描写を伏せましたが、元々地球と繋がりのある異世界ファンタジーで、この回は完全に異世界での話です。
4月下旬に関連閑話『青炎』と、5月に最終話『インマヌエル -神-』を掲載予定です。
本編、『天』、『神』で「日常」という天の恵みに触れる化け物達の天国三部作、お気が向けばご覧下さい。
初稿:2018.4.5-5.31 Atlas' -I-