混迷
友人の死は私の下へ1番に知らされた。彼には身寄りがなかったのである。
遺品整理を頼まれた私は彼の借りていたアパートへ来た。寂れた2階建てだった。彼は売れない物書きだった。
外観に違わず、部屋の中も辛気臭かった。どことなくじめじめしていて、黴の臭いが満ちていた。何も面白味のない簡素な部屋だったが、ただ1つ、異様な存在感を放つものがあった。
机上の花瓶に、枯れた花が1輪挿されていた。花瓶の形と、萎れてだらりと下がるシルエットが相まって、老婆が衣服を乱しながら踊っているように見えた。ひどく奇怪であった。
近付いて見ると、花瓶に1葉の紙片が留められていた。そこには以下の通り書かれてあった。
『カンナの花が燃えたあと
灰はマーガレットの肥料になる
私と彼女の邂逅を
祝うはムスカリとキンセンカ
再会を笑うのはザクロの実
畸形のアジサイが私を見つめる
カトレアやバーベナから逃れた先で
マンサクの花弁に犯される
オトギリソウの訪れも
白いキクは知っている
友よ 私はこの言葉を
ミヤコワスレの花瓶に活ける』
次から次へと出てくる花の名は、おそらく花言葉と対応しているのであろうが、私はそれらを逐一調べるつもりはなかった。更に興味を惹くものを発見したからである。
花瓶の下に紙束が置かれていた。花瓶が丁度重石になる形である。
その紙束は、果たして彼の小説であった。「雪と花の女」と題されたその小説は、あまりに不気味な内容だった。しかし、私は読了してすぐ、それが彼の遺書であると悟った。彼は自らが死に至るまでの経緯を、「雪と花の女」において表現したのである。彼の死は決して、世を儚み、あるいは悲観したことで齎されたのではない。再度になるが、不気味な内容である。だが、それは彼の生きた感情、経験に裏打ちされたものであろう。
以下より、「雪と花の女」を掲載する。
雪と花の女
私は三文文士である。謙遜などではない。なんとか業界にしがみつき、それでやっと廃屋同然の借間で腹を五、六分満たせる程度の飯を食っているのだから、そう自称するより外ない。
そんな私であるが、若い頃は才能があると将来を嘱望されていた。私自身、自らの才能を厚く信じていた。私の作品が、私の名を冠した「何々文学」などと呼ばれるのを夢想し、意気軒昂としていた。
ならば何故、私は現在のような体たらくなのかといえば、偏に自らの筆力に絶望したからである。私などが文章において何かを表現しようというのはただの愚考である。そう思うに足る事象に遭遇したのだ。
今から約20年前、冬の夜だった。私は居酒屋からの帰路を、酔いによる上気でどうにか体を動かしながら歩んでいた。近所の店だからと薄着で家を出たのがいけなかった。その日は稀に見る冷え込みであった。酔いはすぐに醒め始め、1歩足を繰り出す毎に凍てつくアスファルトへ足裏から体温が逃げていった。そこへ雪まで降ってきた。傘を持たぬ私は一身に雪を受けた。服の表面で溶けた雪は体まで沁み、一層私を凍えさせた。
段々と気が遠くなっていた。発熱しているのだろうか。歩幅は段々と狭くなる。物と物の境界が曖昧になり、至近で見る油絵のようになっていく。
やがて私は民家の塀にもたれ座り込んだ。アスファルトの冷気が体を刺す。自重を任される尻が痛い。しかしその苦痛も束の間である。皮膚の表面に膜が張ったような感じがして、感覚が徐々に薄れていく。私は最早思考する肉塊と相違ない。誰かが凍死した私を発見して驚く様を想った。想像の中で、私は滑稽な表情の死骸であった。朦朧とする意識の中で、倦怠感だけが腹の底に溜まっていた。
夜が明けたと錯覚して、私は目覚めた。瞼の裏に光が透けてきたのだ。だが辺りは暗かった。等間隔に並ぶ街灯の中間点に私は座っている。ならば何が光ったというのだろう。
結論から言えば、私の前に女が立っていた。即ち、何かが光った、というのもまた錯覚だったのである。
その女は光源と見紛わんばかりの白であった。肌も、服も。ただ、化粧で白いのではなかった。雪の静けさ、その中に白磁器の滑らかさと艶の同居する、冷たく危うい白さを皮膚に馴染ませていた。全く文字通りの氷肌である。その肢体を包む着物もまた、帯までが純白だった。帯には同色で蝶の刺繍がしてあり、ただ刺繍糸が帯と違い光沢のある素材であるために、光の反射で水面を揺蕩うように見え隠れする。女の艶冶と魔性そのものであった。それらの白とは対照的に、女は夜の藍闇の中で尚映える黒い長髪を靡かせていた。風に流れはためく髪束は、宙に墨汁を撒いたようである。垂れ下がる漆黒は目元を覆い、薄い唇だけが見えていた。
女は俄然こちらへ体を向けた。顔は見えないままである。私の体はだらりと弛緩して動かない。力が入らないのだ。辛うじて動く首で、仕方なく私は女を見上げた。女は一文字に結ばれた唇をふっと綻ばせた。
手を伸ばせば触れられる距離まで女は歩み寄って来た。しかしそれ以上は近付いて来ない。 途端女は屈んだ。私と目線の高さを合わせたのである。
雪女だ。
私はそう思った。
女は既に全身を視界に収められない距離まで近付いていた。
顎に嫋やかな花弁が触れた。女の指であった。
「いずれ、また」
透明な声の後、温度のない果肉が耳を撫でた。
突然私の瞼は鉛の如く重量を増した。
私は夢を見た。
私は花畑にいた。実に多種多様、それどころか季節の概念すらそこにはなく、その証拠に開花時期の全く異なる花々が共に満開であった。「何をなさっているのですか」
快活な声がした。振り向くと、いつの間にか女が立っていた。ミレーの「落ち穂拾い」のような、素朴な農民の格好をしていた。目深に被った帽子が顔を隠している。私は言葉を返す代わりに微笑んだ。
ふと、女の持っている袋が気になった。口から赤い花弁が覗いていたのだ。
「それは何の花ですか」
尋ねると女は気恥ずかしそうに袋を後ろ手に持った。
「……カンナです」
私は女が何故そんな態度を取るのか分からなかった。
「飾るんですか」
女は目を伏せた。そして、私に背を向けた。「ご覧になりたければ、ついて来てください」
早足で離れていく女を私は慌てて追いかけた。
女は花畑からは出なかった。別の区画に来ただけである。そういえば、花畑の外はどうなっているのだろうと思った。その区画の柵の外には、焼却炉があった。
女は袋からカンナを取り出すと、一抹の躊躇もなく焼却炉へ放り込んだ。私が呆気にとられている内に、女は慣れた手付きでマッチに火を点け、カンナを焚べた。数分の内にカンナは燃え尽きた。
「何をしようとしているんですか」
女は黙って手袋を着け、焼却炉へ手を入れた。焼却炉から引き抜かれた女の掌には灰が掬われていた。
「肥料にするんです」
言いながら女は柵の中へ灰をばら撒いた。その先にはマーガレットが咲いていた。カンナの残滓が舞う中で笑う女の顔には、残酷な美しさがあった。他の花の美を糧に咲くマーガレット達も同様であった。私は暫し見惚れた。
気付くと女は消えていた。先程まで女のいた場所には、奇妙な花がぽつねんと咲いていた。 キンセンカの花、その中央からムスカリの花が生えているのだ。橙と紫の色彩がいやに毒々しい。
眺めていると、胸が痛み始めた。体の奥から皮膚を押し上げられているような、気味の悪い痛みだった。
存外に爽快な目覚めに私は驚いた。随分と長く眠った気でいたが、夜は明けていなかった。 路面は濡れている。尻や脚の裏側、塀に預けた背中も湿っていて不快だった。何より寒かった。
私は立ち上がった。体は重かった。しかし、私は即刻帰らねばならないと感じていた。このままでは死ぬ、そういうことではない。
私は作家である。
雪女、花の女、これらを題材に書かねばならぬ。それも、ただの作品ではない。傑作に仕上げなければならない。書き上げるまでは死ねない、その使命感が血液に乗って体を巡り、私を駆り立てるのだった。
アパートへ着いた私は、とにかく自分の部屋へ飛び込んだ。早々と着替え、暖房をつけた。体を平常通り動かせるようになるまでかなりの時間を要した。どんな退屈よりも長かった。
ようやく指の悴みが治まってきたのを確認し、私は机に向かった。まず紙に書かねば何も浮かばぬ性質なのである。
だが、私の手は一向に動く気配がなかった。言葉が上手く出て来ないのだ。
いかなる語彙、いかなる修辞、いかなる比喩…‥そのどれもが、雪女の美を表すには足りない。花の女の残酷を描き得ない。自らの筆力を尽くせば尽くす程、文章は表層を掠るだけである。却って筆力の無さが浮き彫りになっていくのである。雪女の指の感触、声、耳に触れた唇、花の女のカンナを隠す仕草、焼却炉へ放る手際、迷わず火を焚べる残忍さ、全てがありありと、まざまざと脳裏に、この身に甦る。どこまでが夢でどこからが現実なのか、見当がつかない。否、少なくとも私にとっては全て現実である。だというのに、言葉で以て語ろうとすると途端に妄想の埒内で燻るのである。
ポタリ
白紙に雫が垂れ、爆ぜるように広がった。飛沫の行方を逐一鮮明に目で辿った。私は泣いていた。
以降、私は文学を辞めた。大根役者の三文芝居のような駄文しか書かなくなった。収入は目に見えて減った。そのくせ酒量は増し、素面の私を知る者は少なくなった。私の生活は荒んでいった。
雪女も、花の女も、私の前には現れない。だが、私の思考は彼女らに占有されていた。妄執といって差し支えない想念が、不快な存在感を湛えつつ渦巻いていた。
私の人生はそのまま冗長に続いた。
それから20年程経った頃、ある冬の夜である。
私は同棲していた恋人に愛想を尽かされ、家を追い出されたところであった。雪が降っていた。
私は酩酊していた。千鳥足で彷徨していると、足が縺れて倒れ込んだ。
アスファルトの冷たさで私はやや冷静になった。そして思い出した。
あの夜と同じだ。私は静かに高揚した。
あの夜と違って私の体は全然動いたが、わざと脱力し、徐ろに目を閉じた。
サア、という音で目が覚めた。雪が雨に変わり、路面を叩く音であった。少しは期待し、かつ確かに落胆している自身に思わず苦笑した。謝って家に入れてもらおう、そう決心し、立ち上がろうと顔を上げた。そうして私は慄然とした。
枯れ枝のような老婆が、黄色く濁った眼を剥いて私を見下ろしていた。
髪、肌、服、全てが灰色で、老婆の周りまでくすんで見えた。着物ははだけ、くっきりと浮いた肋骨が露わになっている。首筋や鎖骨の溝は病的に深く、老婆の醜怪さを際立たせた。
老婆は身を屈め、私と目線の高さを合わせた。骸骨に目玉を嵌めたような顔だった。
老婆は手を伸ばし、私の喉元を掴んだ。鉛筆のような指の濡れた感触は、腐肉が触れているようだった。老婆は顔を近付けてくる。私は目を下へ背け、帯に刺繍された蝶を見ていた。「ああ……あ……」
下手なバイオリンのような嗄れ声がしたかと思うと、老婆の手に力が込もった。私は老婆の手を掴んだ。しかし、その細さとは裏腹に、両手でも振り解けない強さで、寧ろ力は増していくばかりである。
喉に指が喰い込むのを感じた辺りで、私は振り解くのを諦め、老婆の首へ手を掛けた。満身の力で握ると、老婆は呻いた。
互いに首を絞め合いながら、私達は踊るように回っていた。胸元にまで血が滴っていた。この場には私達しかいない。ならば、私達2人の意志が即ち理である。
薄れゆく意識、閉じてゆく瞼、その瞼の裏で―
私は夢を見た。
私はあの花畑にいた。
あの時とは随分と様子が違っている。最早同じ箇所の方が少ない。だが私は、ここはあの花畑だと信じて疑わなかった。
割れたザクロの実がそこら中に転がり、種を零している。以前は多種多様、色彩に富んだ花園も、今では全てがカトレアとバーベナになっている。どうにも長く見ていられない。心がざわついて平生でいられなくなるよいな、あるいは何かに魅入られそうな気持になるのだ。私は俯いた。所狭しと地面に散らばったザクロの種全てと目が合っている気がした。私は歩みを速めた。無意識に焼却炉へと向かっていた。
焼却炉まで来ると、私は吐き気を催した。花の女が消えた後に残った、キンセンカの中央からムスカリの生えた花が、アジサイの如く1朶を作っているのである。堪らず口を開けたが、空えずくばかりであった。
不意を衝くように胸が痛んだ。これも以前と同じで、体の奥から押し上げられるような痛みだが、あの時の比ではない激痛である。
ブチ、と左胸で何かが破ける音がした。同時に一際強い痛みが走った。紫の触覚が体内から皮膚を突き破って蠢いている。イソギンチャクにも見える赤紫のそれは、マンサクの花弁であった。
体の至る所から、ブチ、ブチ、とマンサクが生え始めた。あっという間に私の体はマンサクで埋め尽くされていく。
痛みと気味悪さに耐え兼ねて私は蹲った。体のどこに触っても、皮膚に直接触れることはない。蚯蚓が這うように蠢く花弁の感触を押し付けるだけである。
ざっ、という音と共に視界に靴が現れた。 花の女が私を見下ろしている。地面に擦れる程長いスカートには、オトギリソウの刺繍があった。 花の女は帽子を外した。
骸骨のような老婆が笑っていた。
老婆は私を組み伏せ、嗄れ声で喚きながら私の首を絞るように握り締めた。
老婆の醜い顔越しに空が見えた。
太陽の代わりにこの世界を照らしていたのは白いキクであった。
了
以上が、彼の遺作、ないしは遺書、「雪と花の女」である。
読み終えた私は、警察から聞いた彼の死の詳細を思い出していた。
彼の死骸は浜に打ち上げられていたそうだ。
醜い老婆と赤い糸で互いの小指が繋がれた状態で。
混迷