インマヌエル

インマヌエル

✛収録:
File.K;ツバメの駅前バイト編
File.I;汐音の教会接近編
人間よりもダメな化け物達が、何とか日本の片隅に潜伏を試みる日常ファンタジーです。
update:2023.4.1 インマヌエルシリーズ本編
※直観探偵シリーズをご存知なら別の意味で楽しめますが単独で読めます

✛Imanu'el✛

 
 
 神は我らと共に在られる。
 神は我らの内に居られる。

 悪魔はヒトの内に棲みつく。
 悪魔はヒトと共に息づく。

 畏れるべきは、神。
 忌むべきは、悪魔。
 ヒトはその暗闇から、逃れられはしない。



 神はヒトを戒め、救う。
 悪魔はヒトを堕落させる。
 神の救いは天上に在り、悪魔の蜜は地上に溢れる。

 人の国とは、一時の夢。天の光が映す幻。
 けれどその夢幻こそ、ヒトが人たる場所であるなら――

 それではいったい、どちらが「人」の、真の味方なのだろうか?



「インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる」

――『イザヤ書』,8章8節

File.K †寂

File.K †寂

 
 人に、人は救えない。
 彼は、そう言った。


 -spin a tale-


 駄目人間、という言葉を、山科燕雨(やましなつばめ)はこの町に来て初めて知った。
 使えない者、役立たず。そのニュアンスを感じて、彼はすぐに気に入った。
 ちょうどそれは、ツバメ自身と、この春からの同居人にぴったりだと思ったのだ。
「俺と汐音(しおん)は、駄目人間?」
「ぶー。オレ達は人間じゃないから、その言い回しは不適切だねー」

 山に面する郊外の、安アパートの一室で。寝間着の同居人――汐音の休日は、連れ込んだ野良猫と日がな惰眠を(むさぼ)って終わる。
 お世辞にも有用といえない体勢の汐音は、人間にはない青銀色の短髪を横向きに枕に押し付けて、そのまま楽しげに反論してきた。
「そもそもオレは、オマエの役には立ってるだろ? だったら駄目じゃないね」
「そうなのか。俺なんていても無意味だし、それを存在させるのも無駄かと思った」

 あくまで素直に、ツバメはありのままを口にする。彼にはそれは、悪意ではない。自らが無価値と信じているのは昔からだ。
 雇い主の汐音もわかっているのか、いつも通りに軽い口調で返す。
「オレみたいなヒトは、ただの廃人って言うの。そしてオマエみたく、可愛いお嫁さんがいるくせに自虐な奴は、リア充の陰キャラって言うの」
 それはどうやら、長年独り身の汐音には褒め言葉らしい。
 この町で一人暮らしは無理という汐音のために、単身でここに来ざるを得なかったツバメは、溜め息をつくしかない。

 汐音の言う通り、人間ではないツバメは、自身が何歳なのかもよくわからない。
 無造作な短い金髪に、平坦な漆黒の目。左腕にいつも巻く黒いバンダナと、首に揺れる蝶のペンダント。
 鍛えてはいるが細い体は、山科家に養子に行った頃に成長が止まり、無袖の軽装が似合う外見は十代後半に見えると言われる。人外生物とは言っても名も無い弱小な雑種で、幼い頃に攫われた妹を助けることに酷く長い時間がかかった。
 汐音に出会い、養子に行ってからは至って平和に暮らしており、この町に来るまでは雀鬼と呼ばれていた。友人の雀荘を手伝っていたのだが、ツバメには生来の勘の良さ――「直観」があり、大概の相手には負け知らずだった。相手の様子を少し見聞きしただけで、まるで心を読んでいるようだと、友人には言われたことがある。
 その友人達と、バンドを組んでいた時期もある。「七色の声」と呼ばれたツバメはかなり重宝されていた。そんなものが役に立つのは、平穏で退屈な時代くらいだ。
 他に特別能の無いツバメは、養家で守られて暮らし、普通に働く苦労を知らない。ここに来てからは、自立した日常生活がいかに難しいかを感じる毎日だった。

 汐音の連れ込んだ猫に餌を用意すると、これが買い置きの最後の缶詰だと、少し気分が重くなった。
 それなのでつい、無表情にツバメは尋ねる。
「駄目人間じゃないなら、俺は、廃人でもないのか?」
「のんのん~。どうしても蔑称がほしいなら、オマエはオレの『ツバメ』だね。意味は後で、誰かにきくといいよ」
 いつも無駄に明るい汐音に、別に腹が立ったことはない。
 ただひたすら、不思議だった。何もしなければ、状況はどんどん悪くなっていく。猫缶も買えないし、猫を連れ込む部屋の家賃も払えなくなるのに、どうしてずっと気楽に眠っていられるのかと。
 働くのはツバメの役目。その契約を催促すらせず、いつ破綻しかねない生活の中、猫缶の数も気にせず安寧に眠れる汐音の精神構造は常に謎だった。

 例えばの話、野良猫という奴は、とても気まぐれだ。大概は餌がないと、早々に何処かに去ってしまう。
 汐音の一番の幸せは、猫とぬくぬく寝ている時だと言い、逃げられてしまうとしょんぼりと涙目で枕を抱えている。
 今は土曜日の夕方で、ツバメの都合で学生をする汐音の休みは、明日いっぱい続く。汐音の安らかな眠りを守るためには、明日の分の猫缶が必要だろう。
 ツバメと汐音は、人間ではないので食費は必要ない。人間ほどに汗もかかないため、服の替えは最低限で、入浴する日も少なくしている。それで何とか、この八畳ワンルームの生活は成り立っていた。

「――あれ? ツバメ、また外出るの?」
「仕事、探してくる」
 昼も夜も、平日も休みも関係なくツバメが自主的に働くことに、心から不思議そうな汐音が、逆に不可解だった。
 猫がいないとぐずるわりに、いなくなる可能性を心配しない汐音は、本当に気楽としか言えない。
 元々女性的な顔立ちは、泣き顔など特に可憐で、とても居た堪れない気持ちになってしまう。できれば見たくないものの一つだ。
 そうしてまた今日も、慣れない夜の町へと、一人で出たツバメだった。

 上着無しに出た薄暗い郊外は、意外にまだ、ヒヤリとする季節だった。左腕に巻く黒いバンダナ、彼のトレードマークは、防寒具にはならなさそうだ。
 梅雨が近いので、湿気もあるのだろう。こうした気候は、元々いた所と近く、とりあえずツバメは駅前商店街を目指して足を進める。

 人間でないツバメには、戸籍がない。そのため、仕事につきにくい。
 汐音は違法に入手しているようで、それで今の部屋も借りられたのだが、働く気はゼロらしい。
 対してツバメは、働く場所さえ安定すれば、できることなら何でもする気だ。しかしこの日本という国では、不法滞在者として取り締まられる可能性も強くあるらしい。


 春からツバメの単身赴任が決まった時には、元々世話になっていた家の娘に、いくつも注意事項を伝えられたものだった。

――いい? 怪しい人の斡旋する仕事、お酒を飲む仕事、体を売る仕事は、絶対にしちゃ駄目だからね?

 汐音は嫁というが、ツバメが養子になっただけだ。それでもツバメを心配し、日本でも換金できるはずという金貨まで、彼女は初期費用に持たせてくれた。

――アナタはすぐに騙されて、何でもしちゃうヒトだから。誰相手にも、気を許したら駄目よ?

 特に強い注意は「体を売るな」というもので、それはツバメの体質をよく理解した忠告でもある。
 本当にできたヒトだ、と、こんな肌寒い夜には、温かな彼女の顔が見たくなった。

 戸籍もビザもない異邦者のツバメは、駅前商店街で、密かな有名人となっている。
 個人経営の商店で、人の好さそうな店主を直観的に探し、日雇いで働かせてもらう。それがようやく、最近は軌道に乗ってきていた。
 怪し過ぎる身上のツバメを信用してもらうため、向こうの言い値と時間で働く。決して無理に自分を売り込みはしない。
 その働きぶりは好評で、容姿も人好きがするものらしく、日増しにツバメの評判は上がっていたのだが……。

「やっぱり……もう、開いてないよな」
 もっと都会なら違うというが、この辺りでは週末になると、店が閉まるのが早い。
 白けたシャッター通りの前で、ぶるりと薄着で立ち尽くすしかない。
「食べ物屋は……苦手、だしな……」

 忠告されたこと以外、仕事を選ぶつもりはないツバメだが、致命的にできないことがあった。
 この時間、開いているのは飲食店や居酒屋くらいだ。しかし食事の不要なツバメは、何かを食べることができない。
 その手の店はほぼ必ず、ツバメに店の物を食べさせようとする。そうした(まかな)いを持って帰るのは良くないらしく、それだと猫にも与えられない。猫にはそもそも、人間の食事は適さないという。
 部屋では寝っ放しの汐音は、稀に何かを食べるが、それもとても元気な時に限られている。
 ツバメが痩身のこともあるのだろう。善意の賄い攻勢を断るのは大変で、どうしても二の足を踏んでしまう。

 このままでは、猫缶のみならず、月末の家賃の支払いも危なくなってくる。
 日中にやっと、初めての光熱水費を大家に手渡してきたばかりだ。冷水が平気なツバメは水のシャワーしか使わないが、汐音が温水を好むせいか、前情報よりも高くついた。今、ツバメの所持金はゼロに近い。
 仕事を選んでいる場合ではない。しかし酷い時には、匂いだけで吐き気を催してしまうほど、ツバメは文字通り食べ物に弱い。
 飲食店で、従業員が嘔吐している姿は、何となくだが良くない気がする。
 今日は昼間の働きで疲れたこともあり、その心配が拭えなかったツバメは、しばらく悩んで立ち止まっていた。

 そんなところに、不意に、数メートル先の八百屋の裏から出てきた人影があった。
「ツバメくんじゃなーい? あー、やっぱりぃ!」
「……あ」
 少し前に、手伝いをさせてもらった時に一緒だった、正式なバイト店員の女性がそこにいる。
 店が終わった後も、残って何かをしていたらしい。使い込まれた小さな鞄を肩に下げて、今からちょうど帰るところに見えた。
「今日も仕事探し? いつも大変だよねぇ。でもうちの店長、ツバメくんのこと、イイって言ってたわよーう!」
「はあ……まあ……」

 ツバメは一応外国人という建前なので、必要な事以外あまり喋らない――喋れないということにしており、無難な相槌をいつも通りに打つ。
 化粧が濃い目で、空元気のような明るさを感じる女性には、少し苦手意識があった。作り笑顔の価値がよくわからないからかもしれない。
「今日は今から、また仕事? もう何か見つかったのぉー?」
「いや……まだ……」
「そーなのぉ? じゃあじゃあ、ワタシに雇われない? ダメぇ?」

 苦手意識はあるが、降ってわいたような仕事の誘い。
 食べ物よりはマシだ、と即座にツバメは頷いていた。
「ヘンなことでなければ。何をすれば、いいんだ?」
「わー、やったぁー。ツバメくん、ゲットだぜー!」
 身軽な服装で、きゃあきゃあと喜ぶ、くるくるとした茶髪の女性。そのノリにはやはり、ついていけそうにない。
 落ち着いて尋ねたツバメに、キカリさんという名字だけ知っている女性は、ツバメを激しく動揺させる答を返したのだった。
「じゃあねぇ、ワタシと一緒に、このお店に付き合ってほしいのぉ!」

 迂闊だった。キカリさんが色褪せた鞄から取り出してばんと掲げた、スマホというらしい四角い道具の中に、明らかに食べ物屋の看板が映っていた。
「あ……」
 瞬時にツバメは、硬直する。受けると頷いておいて、今更断れはしない。
 そんなことをすれば、今後の仕事探しに支障が出かねない。
「お給料は、ワタシが奢るご飯代っていうことで、どーだぁ!? ここ、とてもいいお店なのよーう!」
 飲食店での賄いよりも、更に断り難い、溢れる期待と善意。ツバメの全身を冷汗が襲う。

 断りはできないまでも、すぐ頷けなかったツバメに、キカリさんは一転して申し訳なさそうな顔になっていった。
「あれれ、ひょっとして、何かまずいかなぁ? ツバメくんもしかして、束縛強い彼女持ちとか?」
 違う女と、ゴハンはダメ? と、キカリさんなりに、とても気を遣って尋ねてくれている。

 誤解してはいるが、その心遣いは純粋なものだと直観できて、ツバメは少しほっとした。
 これなら少々、話の方向を変えれば、何とかなると思えてきた。
「……うん。俺、オクサンいるから」
「えぇぇー! うわぁ、それ、大ショックぅー! 可愛い顔してツバメくん、既婚者ぁー!?」
 この場にいない彼女を、悪いが利用させてもらう。誰にも気を許すなと言っていたし、それくらいは良いだろう。

「がちょーん。じゃあもう、仕方ないなぁ。今日は帰るかぁー」
「…………」
 すぐに引き下がった女性は、一見積極的だが、見た目よりは控え目らしい。
 困ったように笑い、所々がほつれた鞄の紐を握りながら、キカリさんがぽつりとぼやいていた。
「気晴らし……したかったんだけど、なぁ」
 その妙に残念そうな姿は、不意に、ツバメの何かに引っかかった。

「他に何か……俺にできること、ない?」
 別に、何もいらないから、と。女性の心遣いへの感謝も含めて、ツバメは尋ねる。
 そこでキカリさんは、虚をつかれたように、ぽかんとした顔を見せたのだった。
「何も、いらない……かぁ……」
 どうしてか、少しの間、キカリさんの目が眩しいものを見るように細められていて……。

 それじゃ、奥さんに誤解のない範囲で、と。
 キカリさんはそれを向こうから考えてくれ、からっとした外見よりはずっと相手を気遣うタイプらしい。
「じゃあねぇ、ワタシを家まで送ってくれるかなぁ? 交通費くらいしか、出してはあげれないけどー」
「いいのか? それ」
 交通費とは確か、少額なものとはわかっていたが、明朝の猫缶一つが買えれば、今夜の目的は果たされる。
 仕事内容も単純で、願ってもない話だった。
 思わず明るい顔をしたツバメに、キカリさんも嬉しそうにうん、と笑った。

 ツバメは昔から、勘が良いと言われる。五感で観える周囲の様子から、普通の者より多くの情報を得ているという。そのためどこに行っても、難しくないことなら、仕事の飲み込みは早い方だった。
 ツバメの働く姿を、多少なりと見ているキカリさんは、それを感じていたらしい。突発の仕事、家に送り届ける道すがら、羨ましい。と、小さな愚痴を話し始めた。
「ツバメくんは、色んな仕事ができていいねぇ。ワタシはねぇ、バカだから、なかなか転職できないんだぁ。本当はもっと、都会に出ていきたいんだけどねー」
「いや……俺、何もできないけど」

 八百屋の仕事なら難しくないと言うが、店主の采配を見ているとそうは思えなかった。ツバメは「外国人にも見よう見真似でわかるような」簡単なことをさせてもらっているだけだ。
 野菜のことなどほとんど知らない。ただ、持ち前の直観で新鮮さや、店主の意図が何となくわかるのは、おそらく役に立っていた。

 だからキカリさんには、ツバメは仕事ができると映っているようで――
「ワタシなんて、愛嬌しか武器がないんだからぁ。でもそれも、最近は怪しくなってきちゃったなぁー」
 でもそれは、今こうして、目前のキカリさんが落ち込んでいるのが強くわかるだけだ。
 五感に依存するツバメの直観には、目に映る相手の様子が一番よく引っかかる。ツバメはとかく、空気を読み過ぎだ、と友人達に言われたこともある。

 キカリさんが、何にそんなに落ち込んでいるかは、わからなかったが。
「キカリは、いい奴だから。それでいいんじゃないのか?」
 今夜の件でも感じた思いを、ツバメはそのまま口にする。

 そもそもツバメは、この町に来る前の忠告通り、怪しい者からの仕事の斡旋は受けない。いい奴だと感じなければ、まず話をしようとも思わない。
 言葉を飾るのが苦手なツバメの直球に、キカリさんが少し目を丸くする。
「……あははー。ツバメくん、やっさしー。でも、ねぇ……」
 悪い気はしない様子に見えた。けれど何故か、キカリさんの顔は更に曇ってしまった。
「いい奴なんて、大して報われないんだよぉ。ツバメくんも、気を付けた方がいーよー?」

 段々と街灯が減り、その分、家々の灯りが目立ち始める住宅街を歩く。
 まるで、その薄暗さが、キカリさんに忍び寄ったかのようだった。
「駄目な人間は、いい奴だってダメなんだよぉ。いいように使われて、それでも使えなければ、見捨てられるだけなんだからぁ」

 ――思い出した。
 駄目人間という言葉を、最初に教えてくれたのは、この女性だった。

「頑張ったって駄目なんだよぉ。誰も好きで、駄目に生まれてくるわけじゃないのにさー」

 その時には、それが女性自身を表すものだと、ツバメは全く思わなかった。この女性は少なくとも、八百屋の店主には大いに必要とされているのだ。
 なのにキカリさんは、どうやら自分のこととして、その単語を口にしていたらしい。

 色々と思うところはあったものの、特に何も言えないまま、キカリさんの家についてしまった。
 それじゃ、と笑ったキカリさんは、既に以前通りのキカリさんに戻っていた。
「気を付けて帰ってねぇ、ツバメくん!」
 がしっとツバメの手をとると、大きなコインを一枚握らせてくる。
 思っていたより高額で、これだとコンビニでも猫缶が二つは買える。
 ありがとうと笑うと、何故か妙に嬉しそうに、二階建てのコーポの二階へ上がって行ったキカリさんだった。

 思わぬ安易な労働の対価を、ツバメはじーんと握りしめた。
「これ……明日、朝一で店が開くまで待てば、三缶パックも買えるよな……」
 朝ご飯を買って戻る、その少しの時間を野良猫が待ってくれるか、首を傾げて真剣に悩む。

 とりあえず、ほとんど知らない土地で迷うことのないよう、来た道を正確に駅前へと引き返す。
 暗いので目印も少しあやふやだったが、見慣れた商店街が見えてくると、今夜のノルマ達成も手伝って大きくほっとした。

 この町に来てから、外出時に気を抜いたことは、今まではほとんどなかった。
 ここは――この日本自体が、ツバメが住んでいた場所とはあまりに違う。ごく一部、雰囲気が近い地域もあるらしいが、まだ行ったことはない。
 その違いに慣れつつ、右も左もわからないまま働くことに必死で、それに比べれば今夜のような仕事はあまりに容易かった。

 だからつい、そんな幸運があったことへの、温かな気の緩みに――
 その黒い不穏は、容赦なく彼を襲ったのだろう。

 駅を後にし、安アパートへの帰路につく。
 何度も通った道のために、更に油断が増していた。
 夜にはいつも、交通量の少ない十字路だったというのに……。
「――……え?」

 有り得ない気配に、胸がざわついた時には、既に遅かった。
 ツバメの直観を支える五感、その最たる視覚が、突然暗く閉ざされていった。
「……――!」

 まるで、真っ黒い大きな翼に、目隠しをされたかのように。
 横断歩道の白線が、急に見えなくなった。
 自分が何処にいるかもわからなくなり、立ち尽くすしかない異邦者を――

 信号の無い交差点の中、迂闊に立ち止まった彼を、夜を駆ける大型バイクが撥ね飛ばしていった。

――いい? 誰相手にも、気を許したら駄目よ?

 とても朴訥(ぼくとつ)で、誰かに利用されやすい彼に、心配性な彼女は何度も念を押した。
 本当はついていきたいほどだと言った。まず、彼がこれから同居する相手自体、油断ならない者だと知っていたのだろう。

「あーあー……オレの猟犬くんはホント、よく『仕事』を見つけてくるねぇ?」

 誰相手にも。特にこの相手こそ、気を許しては駄目だと言われていた。
 黒い道路に佇む、夜より(くら)い暗影の持ち主。
 冷たい地に臥す彼と、そばでうろたえる人間の男に、それはあまりに気軽な警鐘を発する。

「お前、それで……ひょっとして、逃げるつもり?」
「ち……ちが、そんな……!」

 人影は、土曜の夜には不釣り合いな、白黒の学生服を着ている。両手に指の出る黒い手袋をはめ、右手首に銀の腕輪が光る。
 すらりと適度な身長は、暗夜の街灯を背に、長くて真っ暗な影を落とす。そうして人影は十字路の奥から、中心にいる彼と人間の男を、細い両腕を組んで見下げる。

 倒れ伏す彼と、バイクから降りた人間の男は、今やどちらも微動だにできない状態だった。
 すぐ横に鎮座するバイクには、まだ鍵がささっている。人間の男はいつでも、ここから離れていける。
 もしもお金が沢山あれば、アレを買ってみたい。人影が以前そう言っていたので、バイクという乗り物については、彼も少しは知っていた。

 撥ねた彼に声をかけたものの、大きく動揺している人間の男は、辺りを見回して人目を確かめていた。
 そんな男が捉えたのが、とても不自然なその人影だった。数秒前までは決して、場にそんな気配は微塵もなかった。

 人影は楽しげに、彼らの観察を呑気に続ける。
 バイクの人間が、果たして逃げようとしたのか、助けを呼ぼうとしたのか。どちらとも判別のつかない男を、それはやがて、根拠もなく断罪する。
「駄目だよ、そんな悪魔の(ささや)きに乗っちゃ? そんなことすれば、お前も悪魔になっちゃうんだから」
「な……は……!?」

 人影の足元から伸びる暗闇が、彼と人間の男の足元で、急激に左右に広がる。
 月明かりもない朔夜、街灯だけで、そこまで暗く――大きくなるはずのない影。
 影の形だけを見れば、まるで、大きな翼を広げたかのようだった。

「悪魔になんて、なっちゃったなら……もれなくオレに、狩られちゃうから?」
 彼のことも、人間の男も、自身の影で呑み込むそれがくすりと笑う。 
 その微笑みだけで、時が凍った。

 この世の人の常識を超えた、人ならぬものとの邂逅。
 ぴくりとも動けず、震えあがる人間の男に、それは引き裂かれた笑みをたたえる。
 そうしてやがて、闇黒の影はゆらりと踏み出し、彼らの方に近寄り始めた――

 見知らぬ異邦者を撥ねた、バイクの男が大きく動揺していた通りに。アスファルトに倒れ伏す金髪の青年は、間違うことなく死んでいた。
 体は冷たく、呼吸をしていない。見るものが診れば、脈も皆無で、心臓が動いていないとすぐにわかっただろう。
「いっ……て、ぇ……」

 それは彼にも、とてもよろしくない事態だった。
 食事一つも摂れない、人間ではない体。全身に血が通っていないのは、元々の話だった。
 しかしそれでも、皮膚は裂けず、骨も折れていない方がいい。生きていない体とは、一度損傷してしまうと、その後の修復が面倒なのだ。
「あー。やっと起きたー? ツバメ~」

 動けない間に運ばれた安アパートで、朝の鳥の声もとっくに止んだところに、呑気な相手の呼びかけが響いた。
 うつぶせのツバメは寝かされた布団のシーツを、まず必死に掴んでみた。
「起き、ては……ずっと、いた、って――……」
 とにかく、呻くことができるようになった。両手も何とか、指まで動かせている。
 そんな姿を、けらけら笑って見ている同居人は、心配どころか明らかに面白がっていた。
 それはわりと、いつものことなのだが……。

「汐音……手、抜いてる……?」
 ツバメの存在――体を維持する約束の汐音が、今日は何故か、昨日の怪我を治し切ってくれていない。
 オマエの役には立ってるだろ? と豪語したばかりなのに、本当にお気楽だ、とつい思いかけた。

 のー! と子供のような声で、休みなのに学生服の汐音が不服げにする。
「最初に言ったろ? ここではオレ達の『力』は、五分の一に制限されるんだって」
「あ……あれ、か……」
 すぐに納得がいく。人間ではない彼らは、出身からしてこことは違う世界の存在だ。この人間界に出ると能力に制限がかかることは、来た当初に教えられていた。

「って、ことは……」
 汐音が大きく回復できるのは、契約相手のツバメだけだ。それも現状では、これが限界らしい。
 そうなると、しばらくこの状態で動かなければいけない。それを思い、ツバメの眼前が一瞬で暗くなった。
「このカラダで……働け、と……」
 とにかく動ける程度には、神経も骨も繋がっている。
 五感に依る直観を維持するために、ツバメの身体構築は感覚の再現を重視して力を配分している。そのために痛みもしっかりと感じる。
 つまり、何とか動けはするが、全身がとても痛い。
 せっかく商店街での求職に慣れてきた矢先に、この有り様だった。

「ま、油断の代償だと思って、今後は気を付けるんだねー。ホントにオマエ、放っといたらすぐに死んじゃうなぁ」
 体の損傷自体は、確かにツバメ自身の責任だ。反論できる言葉もなく、ツバメは世間話だけを返す。
「……昨日の奴は、その後、どうした?」
「え? そんなの当然、オレが美味しく頂きました」
 あくまで予想通りの返答。彼らの本業を思わされ、小さな溜め息がそこで零れた。

「駄目……過ぎる……」
 ツバメからちゃっかり昨日の五百円を徴収し、汐音は既に猫缶を買っている。
 汐音の普段着、学生服のままなのは、この後も外に出る気があるのだろう。それに対してツバメは、少なくとも今日だけは、一歩も動きたくなかった。
「稼がないと……なのに……」
 自業自得の事態でその甘えは、ツバメ自身が許容できない。しかし体は頑なに、動くな危険、と悲鳴をあげている。

 何をしてでも、今日も働く。とにかくもう少し、動けるようにならないといけない。
 家賃の支払いが迫っているのだ。汐音の生活を成立させる、それがここでの契約なのだから。

 手段を選ぶ余裕は、今のツバメにはなかった。
「汐音……お腹、すいた……」
「――ほえ?」

 何とか上体を起こして、手をついたままで正座の体勢をとる。
 それだけで荒れる呼吸を整えていると、不思議そうに汐音が覗き込んできた。
 無防備な顔に申し訳なく思いつつ、手っ取り早い回復手段を、ツバメは決意する。

「……血、くれ」

 そのまま、汐音が何か答える前に、華奢な胸倉を掴んで布団に組み伏せたツバメだった。

 ほぼ一瞬で事が終わると、後に残ったのは、しくしくとわざとらしく顔を覆う汐音の姿だった。
「ヒドイ、無理矢理だなんて」
 布団の上に、わざわざ女の子座りをしてまで、憐れみを演出している。その体の柔軟さに、逆に感心する。
 ツバメがはだけた学生服からのぞく、細い鎖骨の白さとあいまって、妙に悩ましい光景が展開していた。

 ツバメはもう、慣れてしまったので、至って冷静に返答していた。
「昨日食べたなら、汐音はまだ余裕あるだろ」
「だからって、心臓からガンガン巻き上げるー? ツバメのヘンタイ吸血鬼ぃー」
 今の仕草のみならず、顔だけなら女にしか見えない汐音に言われることでもない。
 汐音の薄い胸壁を掴み、唯一の食事を搾取した左手の指を曲げ伸ばししながら、ツバメ自身は、首に噛みつくよりはマシだと割り切っていた。

 黒いバンダナを巻く左腕の指先に、鬼火と言われる虚熱を集め、相手の体表に当てて気血を奪う。
 虚というマイナスが、相手のエネルギーを奪って平衡するのだと、難しいことを汐音などは言う。
 あまり知られていない、鬼種全般の食事法だが、ツバメは完全な吸血鬼ではない。

「……そうなるって、わかってたくせに」
 羽織っただけの学生服や寝間着の下に、汐音はいつも前開きの黒いハイネックを着ている。
 今日はそのファスナーが半分以上開いていた。要するに、肌に触れさせる――血を奪いやすくするためだろう。

 全身の痛みはまだあるものの、ひとまず動きがスムーズになった。立ち上がってストレッチをするツバメを、あぐらをかいて座り直した汐音が、むうと恨めし気に見上げる。
「ツバメって結構、手慣れてるってか強引だよねー。さすが、リア充は違うよねー」
 普段は汐音が、圧倒的に優位な立場にいる。昨日は猟犬と言われていたが、実際問題、本当に吸血鬼なのは汐音の方だった。
「オレなんて未だに、悪魔狩りしかしてないのにさぁ。ツバメの方がよっぽど吸血鬼らしいってか、絶対女ったらしだよね、オマエ」
「……俺は、汐音と(つぐみ)以外、血をもらったことはないけど」

 うわー。と、横目で見える汐音の顔が歪み、さすがにツバメもバツが悪くなった。
「やっぱり、鶫ちゃんから血、もらってるんだー。鶫ちゃん、健気ー。カワイソー」
「……鶫からくれたんだ。汐音にだけ、支配されないようにって」

 吸血鬼である汐音の血を体内に入れることで、ツバメは汐音から「力」を分けられ、汐音の従者としての命を手に入れた。そのため既に、体の半ば以上は吸血鬼化している。食事を摂れないのも、この中途半端な身体構成のためだ。
 それ以前は、死者だったと言って差し支えない。雀鬼などと呼ばれていたが、まさに「鬼」という言葉は本来死した者を言い、ある死体にとり憑いた(いにしえ)の鬼。
 ややこしい部分として、体自体はどちらかといえば、聖なる生き物に属する問題もあったのだが……。

「それでまだまだ、完全に吸血鬼化してくんないわけかー。鶫ちゃんなんてもう、これ以上ないくらいに聖女だもんなー」
「……山科家にいろって言ったのは、汐音の方だろ」
 ツバメの吸血鬼化を、願っているのかいないのか。
 当初汐音は、「吸血鬼になっても知らないよ?」と、血を分けるツバメに念を押した。
 それは汐音なりに、心配しているように見えた。しかし今では、先のような台詞が頻繁に出る始末だ。
「俺が養子に行ってから……汐音、何か変わった?」

 主従の契約を交わしてから、ツバメは二年ほど汐音の元にいた。従者として鍛えられていただけで、汐音がツバメに何かの感情移入を見せることはほとんどなかった。
 その後に現在世話になる家の養子になり、汐音とは離れて生活していた。五年以上の時間の中で、汐音には何か、心境の変化があったのかもしれない。

 それでいえば、汐音はそもそも、汐音という名前ではなかった。
 ここに来た初日に突然、今後は汐音と呼ぶように言われて、その時から違和感はずっとあったのだ。
 元々汐音は、ツバメ以上に出自がややこしい。この世界でも二つの姿を使い分けて、それぞれ名前を変えているくらいだ。

 直観のツバメとは、また違う鋭さを持つ汐音は、心変わりを問うツバメに斜め上の反応を返してきた。
「オレに一貫性なんて元々ないけど? オレは誰かの穴を埋めるだけの、都合良く造られた悪魔なのに」
 珍しく笑わずに、冷たい視線を向けてくる。それだけツバメが、土足で踏み込んでしまったのだろう。

 汐音もツバメも、別種の勘の良さを持つ者同士だ。一見にこやかな汐音の方が、実は壁が厚い。
 内心を見せず、いつも真意の分かり難い汐音は、そもそもあまり考えない性分だが、こんな風に感情を出すことは以前にはなかった。
「ふーんだ。ツバメが反抗期になるなら、オレは猫羽(ねこは)ちゃんでも堕としに行くんだもんねー」
 そして少しでも分が悪くなると、こうしてツバメの妹を引き合いに出してくる。
 それはツバメの最大の弱点で、現在彼らが人間界にいる理由でもあった。

「いや……それは、やめてくれ」
 何が汐音の気に(さわ)ったのか、そこまではわからない。だから下手なことは言えず、当初の契約を確認するしかない。
「汐音の『剣』は俺だ。それは誰にも、譲る気はない」
 余程意識して演技しなければ、口先だけのことをツバメは言えない。汐音の力を借りて汐音を守る従者であるツバメには、これは紛れもない本心だった。

 ちょうどその辺りで、空気を読める野良猫が汐音の膝に乗ってきたこともあるのだろう。
 猫を抱き上げ、柔らかいお腹に顔を押し付ける汐音は、やっと少し表情を和らげていた。

「……オマエは誤解してるよ、ツバメ」
 目で見て、耳で聴こえるようなことから、一足飛びに現状を紐解く直観のツバメ。それは汐音にとって、小賢しく映る性質でもあるようだった。
「オマエはオレの――『鍵』なんだから」
 ツバメを見ずに言った黒い瞳の奥に、何が映っているか、今は誰も知る由もない。

 昼からいつも通り、仕事探しに出ようとしたツバメは、気になっていたことをようやく口に出した。
「ところで汐音……何で、着替えてる?」
 枕だけ出してごろごろとし、胸の上に寝る野良猫をあやしているものの、汐音はずっと学生服のままだった。
 いつもの手袋と腕輪は外しているので、近い時間に外に出る気もなさそうに見えた。
「そりゃーねぇ。今夜も多分、『仕事』がある気がするからさ」
「…………」
「ツバメ、何か嗅ぎ付けたんだろ? 日中はどうやら、様子を見たいようだけど」

 汐音のこうしたところを、ツバメは恐れ入ってしまう。ツバメが出会ってきたものを、何一つ説明もしていないのに、既に感じ取っているのだ。
 ツバメとは違う間接的な勘の良さ。視覚や聴覚情報など、ほとんど何の根拠もなしに、汐音は三足飛びくらいに現状把握をしてしまう。
 ツバメは直観、汐音は直感というのだと、よくわからない違いを説明してくれたことがあった。

 とりあえずそれは、ツバメのように意識しての観察ではないらしい。「何となく」のレベルなので、深くはつっこんでこないのだ。
「嗅ぎ付けたっていうか……まだ、何か気になるだけだけど」
 なのでひとまず、わかっていることだけ話しておく。
「何でなのか……妙に、引っかかって……」
 現在あるのは、その胸騒ぎ一つだけ。
 しかしそれこそ大きな兆しであるのを、彼らは経験で知っていた。

 人間界に来て初めて知ったが、汐音はここで、「悪魔狩り」をしているという。
 昔は追い払うだけだったらしい。それも雇われの身でだが、現在は完全にフリーで、好きに「悪魔」を狩っているとのことだった。
「汐音の言う『悪魔』かどうかは、さっぱりだけど」
 悪魔といえば、世間的には怪物だったり、堕天使だったりするものだ。
 汐音のような「吸血鬼」も近い部類だというが、それでも汐音は、怪物や堕天使には全く興味がないと言っていた。
 猟犬と呼ばれたツバメは、拙い基準でそれを見つける。
「昨日のバイクの奴みたいなのなら……一人、商店街にいる」
 やっぱり? と、汐音はそこで、本来のあくどい笑みを見せた。

 汐音曰く、別に悪魔討伐がしたいわけではないらしい。
 不秩序の禁に反し、人間界に現れた人外生物がいるとして、その制裁は天使の仕事だ。しかもそれで言えば、ツバメや汐音も討伐対象だろう。
 人間界にいて良いのは、人間だけなのだ。鬼や妖怪、時に神とされる数多の化生は、定められた神域にのみ祀られる。そして唯一神たる(しゅ)は、本来天上に坐す。
 ツバメにはその違いは、正直よくわからない。
 何一つ「力」のない「人間」と、それ以外の「力」ある「ヒト」が別物ということ。人と人外、その最低限くらいしか認識できない。
 そしてこの人間界は、「力」――神の神秘など、とうに否定された絶地なのだ。

 汐音の仕事を、手伝えと言われた時には手伝う。しかしツバメに、今差し迫った問題は、よくわからない「悪魔」より月末の家賃だ。
 汐音がこれ以上説明を求めなかったので、ツバメの引っかかりも今は保留する。

――日中はどうやら、様子を見たいようだけど。

 どうしたものかとモヤモヤしていた自身より、よほど的確に、勝手に方針を定められた。
 それでいい、様子を見よう。汐音にこうして誘導されるのは、ツバメはもう慣れっ子だった。

 何も観ずとも、アバウトに言葉が出てくる汐音と違い、ツバメは感じたことを言葉にするのが苦手だ。言わずもがな、言葉を飾ることなど、ほとんどできない。
 自然、誰かと話す時は直球になる。もしくは、七色と言われた声にもできないままで、漠然とした感情を呑み込む。
 唯一の例外――誰かに合わせて、「体を売る」時を除いて。

 昨夜の肌寒さを思い、今日は腰に黒い上着を巻いて出ようとしたツバメの背に、不意に汐音の声がかかった。
「多分だけどさ。オマエが気になってる奴は、オトコに苦労してると思うよ」
 ツバメに浮かんでいた人間が、女性だとも言っていないのに、この有り様だ。
 汐音に嘘はつけそうにない、と振り返ってツバメは苦く笑う。
「何せ、オマエに関わってくるなんて大概、世話焼きタイプの女だろーし」
 当たり過ぎていて、何も言えなかった。そのまま出ていくツバメに、いってらー。と、猫と(たわむ)れながら手を振る汐音だった。


 今夜も多分、「仕事」がある。汐音はそう言っていた。
 部屋に帰る時間があるかわからないので、上着と共に、ツバメはあるチョーカーを持って部屋を出ていた。
「とりあえず……しまっておこう……」
 金属製の細い輪が黒い合皮に留められ、付着部から銀の棘が二つ垂れ下がるそれは、下手に着けると肌を突き刺す。
 今日は何の仕事にありつけるかわからないが、よく動く仕事なら尚更危険だ。
 まだまだ痛む体からも、できれば穏やかな仕事がいいが、選択肢があるかは行ってみないとわからなかった。
「できれば今夜は、勘弁してほしいけど……」

 左腕の黒いバンダナに、首元の蝶のペンダント、そしてこのチョーカー。ツバメは軽装のわりには、色々と小物を持っている。
 バンドを組んでいた時代は、もっと多かった。その道具の力を借りて、見たこともない楽器を自在に叩けた。
 汐音に生かされている現実を含め、自分自身には能が無くとも他力に恵まれたツバメにとって、そうした小物の一つ一つが固有の意味を持つ大切なものだった。


 「仕事」があるとすれば、昼間はなるべく、体力を温存しておきたい。
 実際問題、月末までに、一日最低どれだけ稼ぐべきなのだろう。

――いい? 数字と計算の仕方だけは覚えないと、絶対に何処かで騙されるからね。

 全く無学だったツバメは、山科家の養子になってから、世間を渡るための基礎知識を叩き込まれた。
 元々は、麻雀の点数計算に始まったわけだが、買い物の時や、商店街の仕事でもとても役に立っている。やはり彼女には、今後も頭が上がらなさそうだ。

「一日四千円、か……結構、きついな……」
 支払日までの日数を考え、一日分を計算した結果、ノルマはそうなった。
 これでは、「いい奴からだけ仕事を受ける」では、間に合わないかもしれない。

 商店街には様々な人間がいる。ツバメの安価な助けを、本当に有難がる者もいれば、親心のような温かさで雇ってくれる者、遊び半分で声をかける者もいる。
 同時に声がかかった時は、今までは有難がってくれる者を優先していた。しかしもし、それ以外の方が賃金の高い場合、そちらを選ばなければいけない日も今後はあるだろう。

「人間って……わりと、嘘つきが多いよな」
 元の場所にいたときは、そこまで強く感じなかったのだが、この国に来てからツバメは何度となく驚いていた。
 人々が言っていることや、浮かべている表情と、内心の感情が違うことが多いのだ。口にされない心の方が往々にして強いので、ツバメはなるべくそちらに沿おうと頭を回す。
 誰もがそれを、わかっていてやっているのかと思いきや、バカ正直な者もわりと見かけた。しかしそうした者が、誰かの言葉にそのまま反応すると、不興を買う場面の方が多く観えた。

 上手く言葉にはできずとも、人の感情そのものは強く感じ取って動くツバメに、その嘘は困る。行動はともかく、言葉で何を返せばいいのかがわからなくなる。
 この国では特に酷いが、人間自体、状況に応じてころころと変わる柔弱な生き物だ。けれど、だからこそ汐音は、この嘘だらけの人間世界で「悪魔を狩る」のかもしれない。

 体調のせいか、重い気分を引きずりながら、今日もツバメは商店街に入っていった。

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 昨日の事もあり、何となくまず八百屋に向かうと、店主の老人が嬉しそうにツバメを出迎えてくれた。
「お、待ってたぜ、にーちゃん! 今日はハナちゃんが遅番だから、それまで手伝ってくんねぇか?」
 八百屋というより、魚屋にいそうな雰囲気の店主だ。
 ここまでの道で、他にも一人声をかけられたが、そちらは珍しい夜の仕事だった。
 仕事の合間が少し空くが、重なるよりはありがたい。二つ返事で引き受けて、この商店街では高齢な店主の店に入る。

 エプロンを着ながら、ツバメは目当ての人間のことを尋ねてみた。
「キカリは、今日は遅いのか?」
「ハナちゃんは店じまいまで一人でやってくれるからなぁ。ついつい、遅番ばかり頼んじまってなぁ」
 何やらチラシを作っている店主は、いつもとても、朝が早いという。
 野菜の仕入れは早朝に済ませ、陳列も午前中に終わっている。昼前に来たツバメには、チラシ配りをしてほしいらしい。

 腰の曲がった店主には、路上で立ちっ放しはきついだろう。快く引き受けて、三十枚ほどコピーされたチラシを受け取る。
「『THE・DASH! 今なら新鮮・スーパー3割引!』……これで、お客さん、わかるのか?」
 DASHとは、この店の通称らしいが、ツバメは初めて知った。あまりにも勢いしかないチラシに、少し茫然とする。
 首を傾げて尋ねたツバメに、がははと笑う、妙齢ながら豪快な老人だった。

 ツバメが汲み取ったチラシの意味は、「このチラシを持参すれば、八百屋で三割引きで買い物ができます」ということだった。
 それなら道行く人々に、要点をわかりやすいようにアピールする。
「野菜、新鮮野菜、ほしい人! これ、三割引き!」
 日曜の昼の、そう多くない人通りの商店街で、チラシを掲げて声を上げるとかなり目立つ。
 人目をひくのは、バンド時代の経験で慣れている。最初は買い物中の奥様方が嬉しそうに寄ってきたが、そこから口コミが広がったらしい。たった今商店街に来たという者まで、チラシをもらいにくる状態になった。

 人間世界の情報伝達は、どうしてこんなに速いのだろう。思ったよりもずっと早くなくなったチラシについて、集まるおばさん達に謝ることになった。
「えぇー、ツバメくん、もう帰っちゃうのー?」
「いや……もうちょっとだけ、手伝ってるから」
 実際には、店まで来てくれる人はどれだけいるのだろう。高齢の店主が営む古い店には、同じような高齢の客が多い。
 昨今は野菜が高いらしく、三割引きにしてもそれなりで、若者には敬遠されやすいと店主は言っていた。
 それでもうちは、良い野菜を売るんじゃ! と、言い切る店主の姿は清々しい。
 二人以上の固定バイトは、雇う余裕がないようだ。そんな店には、ツバメのような存在は重宝されており、この商店街にはそういう店がちらほらとあった。

 店に戻ると、その早さに驚いた店主が、今日はレジの打ち方を教えてくれると言い出していた。
「ハナちゃんは二時からだから、ちょっとだけ、やってみろや」
「……これ、俺なんかがさわっていいのか?」
 お金が沢山入ったその機械は、とても大事な物だろうとツバメは思っていた。
 店の奥とはいえ、こんなに無防備に置いてあるのが信じられないくらいだ。
「簡単簡単。にーちゃんにはひょっとしたら、今後店員になってもらうかもだしなぁー」

 ふっと、店主が何気なく口にした言葉に、ツバメは即座に引っかかっていた。
「店員……キカリは、やめるのか?」
 バイトを一人しか雇う余裕がない。それがツバメに回るとなると、経緯はそうなるはずだろう。
「さぁなー。ハナちゃんはいい子だから、できれば続けてほしいんだがなぁ」
 店主とあの女性――キカリさんは、いつも楽しくやっているように見えた。だから店主も、やめてほしいわけではないようだった。
「若い子はみんな、その内出ていっちまうよ。ハナちゃんとは高校の時からの付き合いだけど、あの子は押しが弱ぇから、心配なんだがなぁ」
 最近は店主もさすがに年なのか、夕方以後の片付けなどは、キカリさんに任せることが多いという。それだけ信頼されているはずだが、確か昨夜キカリさんは、「都会に行きたい」と言っていた。
 けれどそれは、よくある人間の嘘。言葉だけであるように、ツバメには聞こえていた。

 もう少し人の多い町に行けば、もっと良い仕事も、探せばあるのかもしれない。
 しかしそれは、自分を本当に必要としてくれている所とは限らない。
 商店街の中でも感じていたが、この八百屋のようにツバメが実際に役に立てて、だから丁重に扱おうと思ってくれる所は、そう多くはなかった。
「キカリは多分……ここのこと、良いって思ってるけど」
「ほんとかい? それならいいんだがなぁー。ハナちゃん、いい子だからなぁ」
 駒にするだけなら、雇ってくれる所は多くある。それはそれで、切実なのだと想像できるが……もしも選べるのなら、なるべく自分を大切にしてくれる仕事場に、誰しもが行きたいだろう。
 難しいのは、その見分けが、人間にはなかなかできなさそうなことだ。
 ツバメはその意味では、店主の人の好さがわかるだけで、相当難を逃れているはずだった。

 そして、キカリさんもおそらく、この店が自分を大事にしてくれているのはわかっていた。
 だから、転職できない……――したくないと、昨日は言っていたのだろうから。

 遅番ばかりというのも、キカリさんは、朝が強くないらしい。この店が終わった後に、違うバイトに何度か行ってはやめている、と店主が話してくれた。
「あんな若い子に、夜更かしばっかさせちゃいけねーよ。彼氏がもっと、しっかりしなきゃなあ」
 その時の店主の渋い顔は、これまでにない影をたたえていた。

 ツバメがレジ打ちに苦戦している間に、キカリさんが冴えない鞄で出勤してきた。
 その顔は大分沈んでおり、いつも明るいキカリさんらしくなく――
「ハナちゃん、大丈夫か? しんどいなら今日は休んでもいいんだぜ」
 ツバメがいるので、店主もそう勧めたのだが、かえってキカリさんに無理をさせることになった。
「ごめんなさぁい! 大丈夫でーっす!」
 必死に笑顔を作り、とても焦っている。ツバメと同じように、稼がなければいけない額があるのかもしれない。
 それなら仕事を奪うわけにもいかず、最初の約束通り、入れ替わりにツバメは八百屋を後にしたのだった。


 もう一つの仕事は九時からで、何でも「店卸(たなおろ)し」というらしい。早ければ今日の内に終わるが、日付が変わることもあるとの話だった。
「それなら一旦……帰って、寝るか……」
 たった数時間、簡単な仕事をしただけで、体は酷く動きが悪くなった。
 人のいる所では気が張っていたのか、裏路地に入ってから突然辛くなった。思わず建物の間に隠れ、膝をついてしまう。
「……うわ。帰るのすらきついな、これ」
 体調の悪さに、倒れてから気付くのは、ツバメにはいつものことだった。
 ツバメ自身のことよりも、常に周囲に気を向けなければいけない。
 異邦者であり、人間でないツバメは、下手を打てば何かに討伐されてしまう。人間の警察であれ、世界の秩序を守る天使などであれ。

 それにしても、汐音からの「力」の供給が以前の五分の一だと、これほどすぐに体力が落ちるとは思いもしなかった。
 人間界に来てから、まだ二か月もたっていない。汐音の「悪魔狩り」も数回あった程度で、その時は昨夜同様、ツバメはほとんど動いていない。
「まいった……これは、想定外……」
 両手と膝をついて、呼吸を乱していると、段々と目の前が暗くなってきた。
 現在の不調の原因……昨夜にバイクに撥ねられた時と同じく、視界が奇妙に閉ざされていく。
「……!?」

 意識ははっきりしているのに、裏路地が黒に染まった。自分がどこにいるのか、またわからなくなってしまった。
 何で……――と。昨夜から繰り返す、これまでにない状況に小さく呻く。

 しかし今日は、昨夜とは違う。黒闇(こくあん)の中でポケットからチョーカーを取り出して、すぐさま首に巻く。
 これには、ツバメの視力――「直観」も含めた眼力を底上げする力がある。ツバメが身に着ける小物には、そうして必ず意味があった。

 たとえば蝶のペンダントには、それが本来の用途ではないが、異邦者のツバメと周囲の言葉が通じるようにする付加効果がある。
 元々、周囲の事を五感で得た情報から「直観」できるツバメには、人間が喋る言葉はわかる。しかし自身の言葉までは、相手に伝わるように翻訳はできない。
 汐音はできるらしいが、ツバメには無理なので、いつもペンダントの力を借りている。

 この黒闇は、いったい何なのか。人間の業とは到底思えなかった。
 辺りは黒一色で、一寸先も見えていない。自身のように、人外存在の何かに捕まった――何処かで目を付けられてしまったのだろうか。慣れない人間界では見当もつかない。
 人外の者の仕業であるなら、眼を凝らせば見えるはずだ。ツバメ自身の黒い目でなく、「力」を追う眼――チョーカーを付けてから変色した、灰青の心眼の効果があれば。

 そんなツバメに、不意に「ソレ」は、思わぬ質問を投げかけてきた。

「……何で……そんなに、無様なんだ?」

 はっ、と顔を上げる。声のした場所では、辛うじて黒闇の揺らぎが見える程度だ。
 けれどこの感覚は、忘れもしない古傷……ツバメ自身が持つ闇の具現だと、その時点で悟る。


 黒闇に融け込むソレが、ツバメを嘲笑うように、ゆっくりと先を続ける。
「動きたいなら……いくらでも、方法はあるだろ?」
 ばさり、とソレは黒闇の中で、ツバメを捕えるように大きな何かを広げた。
「汐音と鶫だけなんて、選り好みはせずに……人間を、喰えばいい」

 真っ黒なソレの昏い(ささや)きに、冷たい体が包まれていく。
 人間でない鬼に、きっとそれは妥当な解決策で……それでもツバメが捨ててきた、迷うべくもない選択肢だった。
「……いらない。俺が狩るのは、悪魔――……汐音の敵だけだ」
 だから何故、今更ソレは現れたのだろう。それだけがツバメは不可解だった。

 人を糧としてまで、生きる意味が自身にあるのか。
 けれど、汐音の手を取った時に、ツバメは覚悟を決めたつもりだ。
 汐音が望むことを、汐音の力を使って手伝う。この人間界で、悪魔狩りも手伝えというなら、そうするだけだった。

「悪魔狩り、か……それならこの先、猫羽はどうなると思う?」
 ツバメがこの人間界にいる理由。人間である妹は、人間として、人間の学校に通うことになった。
 しかし妹も本来、ツバメと同じ異世界に住んでいた。身を守るために様々な悪魔と契約を交わした妹は、人間としては危うく、いつ悪魔に堕ちてもおかしくない状態なのだ。
「本当に汐音を、信頼してるのか? 猫羽をただ、見守るなんて約束……猫羽はアイツには、極上の獲物だろ?」

 危なっかしい妹の、人間界での新生活が心配だった。
 それで、人間界慣れしている汐音に、妹と同じ高校に行ってもらうことにしたのだ。

 学生でいる時の汐音は凛として、名前も違い、今より背が低い。鋭い切れ長の目は灰色で、髪の色も青みのある黒になる。
 それはツバメも見知った姿で、逆に、部屋にいる時の汐音……ツバメと同じ年頃の背格好で、青銀の髪と蒼い目は、今までほとんど見なかったものだ。

 そうして、昔よりよく喋り、更にはだらしなくなっている。
 その違和感の中身が、全くわからないこと。それは確かに、ツバメに影を落とし始めていた。

 黒闇の中で話す相手が、段々と輪郭まで見えてきたので、ツバメは少し呼吸を落ち着けていけた。
「別に……猫羽のことは、俺の過保護だし」
 ツバメは実際、妹にこの助けが必要だと、本気で思ってはいない。自分も人間界で生活してみて、ここが彼らの故郷より安全と、わかり始めていることもある。

 何だかんだで前向きな妹は、ただ、とても淋しがりだ。人に気を許さない汐音なら、つかず離れずを保ってくれそうに思えた。
 要するに、悪い虫がつかないようにしているだけだ。そう簡単に騙される妹ではないが、淋しさに負けることはあるかもしれない。
「オマエだって――猫羽を守る気なんて、ないくせに」

 だからそれは、何もかもが今更だった。
 昔であれば、ソレが言うように、妹を守るためなら何でもしただろう。
 けれど今は、ツバメが存在するのは汐音の都合だ。
 そしてツバメの帰る場所は、山科家になったのだから。

 そうか――と。
 やっと、全貌の見えはじめてきたソレが、黒闇の淵で冷たく微笑む。その顔には紛れもなく、ツバメと全く同じ、直観の眼差しと七色の声がたたえられる。
 ソレが本来、彼の辿るべき末路だった。彼はソレを見捨てて、ツバメという新たな名前を得ることになった。
 それは全て、汐音という悪魔がもたらした、有り得ない運命の悪戯で……。

「でも今は……オレの方が、アンタより強いよ?」

 やがて、座り込んだままのツバメに、黒い呪怨を背負ってソレが近付く。
 ソレを置き去りにして、変わってしまった彼に、決して消えない殺意をそっと突き立ててきた――

 ……胸が、痛かった。
 ヒトは、体が弱っただけで、心もこんなに弱るものかと。

――それなら、アイツを喰えばいい。

 耳元で囁き、掴まれた肩から侵入する悪意。どうして今頃、こんな声に呑まれるのだろう。
 数年ぶりに、制御の効かない、止めどのない不安が溢れる。

 暗闇で俯くツバメに、不意に、至って呑気な声がかかった。
「――何、遊んでんの? ツバメ」
 はっと目を開ける。気が付けばそこには、不思議そうな汐音が、しゃがんでツバメを覗き込んでいた。
「いいなー。オレも混ぜてよ、ねぇ」

 眼前は夕暮れで、先ほどの黒の欠片も、裏路地には全く残っていない。
 ただ、汐音の影が、いつも通り他の影より暗いだけだった。
「そんなんじゃ、まるで、悪魔にでも誘われてたみたいだけど?」
 笑う汐音に図星を突かれて、ツバメの背筋に悪寒が走る。

 黒い手袋でにこにこと頬杖をつく汐音に、ツバメはため息をついた。
「……汐音は俺も、悪魔になったら狩る気なのか?」
 このタイミングでは、そうとしか思えなかった。
 今夜「仕事」があると言っていたのは、こんなツバメに対する警告なのかと。

 悪魔は何からでも成る。汐音は常々そう言っており、人間から成った悪魔が一番美味しいらしい。
 そもそも汐音自体が、吸血鬼から悪魔となった人格破綻者なのだ。
「失礼なー。オレの猟犬は、悪魔になっても猟犬だよ?」

 悪魔とはひたすらに、概念だけの存在。ヒトが悪魔を体現する時だけ、そこに現れる迷妄だという。悪魔も神もヒトの中にいる、と汐音がいつか言っていたはずだ。
 ツバメの場合は、完全に吸血鬼になれば悪魔と呼べるらしい。しかし普通の吸血鬼は、別に悪魔ではないと言う。
 汐音に至っては、悪魔である方が便利だからやっているだけ、なのだそうだ。

 汐音はいったい何を基準に、標的を定めているのだろうか。
 一つ言えるのは、その「悪魔狩り」とは、完全に汐音だけの趣味であることだった。
「……汐音はいつまで悪魔狩り、やるんだ?」
「そりゃ、お腹が減る限りねー。今日は今日の、明日は明日の風に吹かれるのさー」
 答だけ聞けば、単純なものだ。そこには華々しい神秘も、誰かの需要も何もない。人間程切実ではないにしても、食べなければ彼らも生きていけないのだ。

 概念である相手をどう食べるのか、それも最初はわけがわからなかった。心を食べるんだよ、と笑いながら言っていた。
 よくわからない謎かけを振り切るように、ツバメはふう、とやっと立ち上がる。

 足取りが重たく、体中が苦しい。そんな状態は、本来いつものことだった。
 山科家にいた時間が、それを覆い隠すくらいに幸せ過ぎたのだろう。
 そして今日までも、新しい生活に慣れるのに必死で、忘れていただけの話だ。

「ほんじゃ、ひと狩り行こっか、ツバメ」
 裏路地でへたれていたのは、一瞬のようで、もう数時間がたっていた。
 それでもまだ日暮れ前で、ツバメにしたらタイミングが早いような気がしたのだが……。

「あ、ちょっとタンマ! 本屋開いてる、新刊チェックチェック!」
「……」

「あ、このクッション、もふもふー! いつかこれ買って、ツバメー!」
「…………」

 商店街を歩くと、あちこちに気を引かれて、汐音の行動は一貫しない。
 わざとやっているわけではなさそうで、休日に久々に街に出た引きこもりは、何を見ても楽しいようだった。

 傍目から二人は、金髪の外国人の青年と、黒髪の学生服の少年に見えている。ツバメの直観ではそのように、周囲の視界が直接伝わってくる。
 人間ならぬ髪や目の色を持つ者が人間界に来る時には、可能なら変化(へんげ)の力などで偽装を勧められる。汐音の姿は、ツバメにはいつも通りに見えているが、外にいる時には妹と同学年の人間仕様であるはずだった。

 それでも、周囲の人間に見えている汐音の顔自体は変わってない。可愛いというより鋭さを持つ美形で、かなり女性的だ。あどけなく透き通る声も高く、声変わりはきていないらしい。
 そんな美少年の汐音を連れ歩いていると、ツバメの存在までさらに目立つ。何あれ、微笑ましい、どこのアイドル、などと無用に人目につき出していた。

 先刻とは違う裏路地に汐音を引っ張り込む。人通りが減るのを待とうといさめると、汐音はくしゃっと顔を崩してしまった。
「ツバメのいじわるー! たまにはいいじゃん、これくらいー!」
 だから、買い物を邪魔された女の子みたいな涙目で言わないでほしい。
 昔は無かった種類の我が侭に、改めてがっくりしたツバメだった。

 不機嫌な汐音を連れて、裏道を通って八百屋に向かう。
 日も暮れ始め、もうすぐ店が閉まる頃だが、それから片付けと掃除が始まる。だから、汐音に見せたい相手は、まだ店内にいると思っていたのだが――

「……ごめぇん。今日はちょっと、もう帰りたい、かな……」
 店員用の裏口が見えてきたところで、ツバメは慌てて汐音と物陰に引っ込む。
 裏口のすぐ傍、表通りに続く建物の間の道から、思わぬキカリさんの声が聞こえてきたのだ。

 顔色が悪そうだったので、店主はキカリさんを早めに上がらせたのだろう。それを迎えに来たらしき誰かが、キカリさんを穏やかに諭しているようだった。
「大丈夫だよ、顔色も朝より良いし、せっかくこっちが早く終わったんだし。今日は挨拶だけだから、そんなに緊張することないよ」
 僕もついていってあげるから、と声は優しげだが、ツバメは一瞬で胸が悪くなった。
 せっかく帰れるようにした店主の厚意を、声の主は無駄にするどころか、内心にはキカリさんへの異様な怒りしかない。ツバメの直観――五感にはそうして、相手の感情も我が事のように伝わってくる。

 陰に隠れて姿が見えないが、その男の声と、内心のギャップは何なのだろう。そして現状で、怒るべきはキカリさんの方だろう。
 うずまく怒りの理不尽さに顔を歪めているツバメに、先程までふてくされていた汐音が、一転してにやりと微笑んでいた。
「あー……あの人は確かに、美味しそうだねぇ」

 帰りたがっているキカリさんを、男はどうしても、何処かに連れていきたいようだった。
「もう採用で、話もついているんだから、すっぽかすのは失礼だろう?」
「……、でも……」
 怒りを抑えた男は、よしよし、とキカリさんの頭を撫でてまでいる。
 キカリさんと言えば、胸中には昨夜よりも濃い、強い落ち込みの念があった。
「駄目だよ、約束を守らないのは……もう、いい大人なんだからさ」

 あくまで穏やかな男の声に、キカリさんの暗闇が一気に深まっていった。
 どうして、自分は、こうなんだろう。
 これぐらいのこと、できなければ。どうせ他に何の能も無い、駄目な人間であるのだから。
 でも、どうしても、それは……――

 男の秘められた怒りと、キカリさんの自責に、思わずツバメは壁に手をついて呼吸を整える。
 体調が悪いと、この程度の浸蝕でこうなるのか、と先行きが思いやられた。

「――あ、らっきー。あっちに行ってくれるんだ」
 ツバメと違って、汐音の「直感」はそうした影響は受けないらしい。移動を始めた二人の人間に、顔を(ほころ)ばせていた。
 それはおそらく、二人がもう少し、広い裏道に出てくれたからだろう。

 そうして、夕暮れにしては暗過ぎる道に出てしまった人間達に、その悪魔――
 「処刑人」の名を冠する吸血鬼は、あくまで私的都合による、断罪の刻を告げたのだった。
「――こんばんは! 死神ちゃんでっす!」
 いつもながらに、無駄に明るい声色。二人を追った汐音に続くツバメは、小さく溜息をついた。


 汐音の影を起点に、十メートル四方が暗く染まった路上で。
 その緊張感とは全く相容れない、無邪気な汐音の呼びかけに、キカリさんと男がぽかんとして振り返っていた。
「……は?」
「え――……」
 その人間の、当然の反応には構わず、汐音は同じノリで続ける。
「おねーさん、これからどこに行くの? 駄目だよ、そんな悪魔の道に入っちゃ」
「……!」
 その一言だけで、キカリさんの顔が一瞬で青ざめる。
 同時にキカリさんは、汐音の後ろにいるツバメに気が付き、更に混乱したようだった。
「え……ツバメ、くん……!?」
 無表情のツバメに、キカリさんは何故か、今の自分を見られたくなかったらしい。
 激しい自己嫌悪が込み上げ、思わず泣き出しそうになったのが、ツバメにもすぐに伝わってきた。

「華……知り合いか?」
 隣の男が(いぶか)しそうに、立ち尽くしてしまったキカリさんの視線の先を追う。
 それで男と目が合ったツバメは、伝わった胸の悪さで瞬時にえづきそうになった。

 さてさて、と。いつもは人間と、食事前のやり取りを楽しむ汐音は、キカリさんをこれ以上揺さぶる必要はないと思ったようだった。
「『錠』は下ろしたし……あんまり力の余裕も無いし――」
 ツバメが朝方に血を強奪したので、汐音の体調も良くないのだろう。
 食事は早く、終わらせるに限る。その思惑がわかった直後、汐音はすぐに行動に出た。

 ……ごめん、と。ツバメは一度だけ、心の中でキカリさんに謝った。
 それで許されるべきことではない。けれど、相手が知り合いにせよ、ツバメには汐音を手伝うことが最優先なのだ。

 キカリさんの真下、不自然に暗い道より明るいその影に、真っ暗な亀裂が突然入った。
「え――あ、や、何これぇ!?」
 キカリさんの影を突き破るように、そこから暗い泥が噴き上がる。
 同時に足元が沼のようにぬかるみ、バランスを崩して腰をついたキカリさんを、噴き出した暗い泥が一瞬で取り込んでいった。
「な……え、華、華!?」
 小さな(かばん)だけを残し、底無し沼に沈むように、キカリさんは泥の中に消えてしまった。それが汐音の「食事」で、昨夜のバイクの男も同じ運命を辿ったはずだった。
「はーい、ごっそーさん。結構なお手前でございました」
 最早本来の「吸血鬼」とはかけ離れた、「悪魔」である汐音。それが好むのは、キカリさんのように、悪魔になりかけた人間だという。

「そんな――お前ら、華に何したんだ!?」
 人間にはまず、理解不能な光景だろう、男の質問は当然のことだった。ツバメにも、汐音が何故キカリさんを悪魔とみなしたか、わかるようでわかっていない。
 ツバメにわかったのは、ただ――
 キカリさんも、昨夜のバイクの男も、「選択の狭間で酷く揺らいでいる」者同士なことだけだ。

「誰か、誰か助けてくれ!! 変な奴らがいるんだ!!」
 人通りの無い暗い路上で、突然連れが消えた男が大声で叫ぶ。それは「悪魔狩り」ではいつものことだった。
 汐音は慣れたもので、うろたえる男を冷酷に見据える。
「無駄無駄ー。オレの食卓には、普通の人間は入れないよ」
 四方に広がり、今も道を暗く染めている汐音の可変の影。その正体は、先程キカリさんを取り込んだ泥――汐音の「力」を受けて変容した「土」の元素に他ならない。
 この影は人払いもかねており、内にいれば誰かに目撃される心配もないらしい。こうした自らの影の領域を、汐音は「錠」と呼んでいた。
「多分、ツバメくらいじゃないかな、ここを開けられるのは」
 これでも五分の一以下の出力といい、汐音がどれだけ強力な悪魔か、ツバメはいつも思い知らされる。

 その汐音が、自らの助手として選んだ者。汐音の血を分けられなければ消えるだけだったツバメは、怯える人間の男に何の感傷も持たずに、成り行きを見守る。
「そんな……華を返せよ! 華をどうしたんだよ!!」
 この奇妙な状況で、一目散に逃げようとしないだけでも、男は度胸がある方かもしれない。

 しかしそれだけ、キカリさんの存在が、男にとっては重大問題なのだと――
 汐音はそこで、これまでの無邪気さを消すと、あくどいばかりの笑みをたたえた。
「……そんなにも、あのおねーさんがいないと、おまえは困るの?」
 汐音の蒼い目に霜が降りた。それはキカリさんにも、昨夜のバイクの男にも向けなかった、強い(あざけ)りだった。

 人間の男の目には、黒髪の高校生にしか映っていない汐音。
 けれどこれこそ、ツバメがよく知る姿だ。
 青白い月夜にツバメと契約を交わした、あの青闇の吸血鬼の――

――お前はそのまま……消えたいの?

 男の視界がわかるように、周囲にあるものと感覚を共有してしまうのが、ツバメの生まれついての「直観」だった。
 自他の区別が曖昧なツバメには、自分を守ることは、人を守ることだった。
 人が痛ければ、自分も痛い。実際に、同じ痛みを感じさせる「直観」なのだ。

――人に人は、救えないよ。お前の望みには、無理があるよ。

 人は、誰もが穴だらけと感じ、ツバメはそれを埋めたくて生きてきた。何しろ人が嬉しければ、そのまま自分も嬉しいのだから。
 それが唯一、自身にできる「仕事」――生きる糧である気がしていた。
 けれど、ツバメは無力で駄目な奴だった。自分の力一つでは、妹一人守れなかった。そうして己に愛想が尽きていたのだが……。

――オレにはお前は、使える奴なんだけど。

 「誰かの都合で造られた」汐音は、出会った頃には情が乏しく、純粋に利害の一致でツバメを選んだ。それはできることの少ないツバメに与えられた、確かな居場所だった。
 しかし再会してから、汐音は妙に感情豊かになっている。それだけでどうして、こんなに不安が湧き起こるのだろう。

 ふと、背中を刺すような冷感に襲われたツバメは、汐音の後ろ姿をじっと見つめていた。

 キカリさんを取り込み、食事は終わったはずなのに、汐音がまだ人払いの影を収めようとしない。
 不思議に思っていると、おののく連れの男を嘲笑するように、冷たい声色で喋り出した。
「そんなに困るかなー。借金してても死にゃしないのに、自分の彼女を売りに出すほど?」
 え。とツバメが様子を見ていると、驚く男を前に、汐音は更に続ける。
「オレは別に、風俗が悪いとは思わないけど。嫌がってる彼女を、ムリムリ連れていくものかな、普通?」
 男は唖然とすると、当初の雰囲気が嘘のように、突然口汚くなっていった。
「な……何でてめぇに、どうこう言われなきゃならねーんだ!」
 見も知らぬカップルのことに、わざわざ物申す汐音の意図が、ツバメもさっぱり理解できない。

 キカリさんの事情がそういう事だったのか、と納得はできた。
「おれと華は、二人でここを出るって決めてんだよ! 金がいるんだよ! 華みたいなグズは、おれがいなきゃ駄目なんだよ!」
 都会に行きたいのは、この男の方なのだろう。キカリさんはそれを、叶えたかったのだ。けれどおそらく、限界を感じていたのだろう。

 うわー。とやたらにニヤニヤしている汐音が、男は気に(さわ)ったようだった。
「他人が口出しすんなよ! ってーか、華を返せよ、糞ガキ!」
 キカリさんの前では、最初のように穏やかなのかもしれないが、どちらにせよ身勝手なのは同じだった。

 この町は、特別田舎ではなく、ツバメの妹が通う高校のある都市の郊外だ。
 何が悪いのか、ツバメにはさっぱりわからない。そしてこんな男のどこがいいのか、それも不可解だった。
「それじゃ、ツバメ……あのおねーさんの『声』、聴かせてあげれば?」
 ここで何故か、ご指名が来てしまった。
 汐音はツバメに、「体を売れ」と言っているのだ。
「…………」
 それはするな、と言われてきている。しかしツバメも、自称「駄目人間」のキカリさんの心情は、気になってしまい……。

 キカリさんが暗い道に残した、傷んだ鞄をツバメは拾う。古いがお気に入りのようで、その鞄で出勤する姿を何度も見かけた。
 それで汐音は最初から、これを媒介……「キカリさん」とみなして、場に残したのだろう。
 思い入れのある物には、魂が宿る。人の魂をも奪うという悪魔の汐音は、常々そう言っていた。

 そしてツバメは、本来なら消えていた(いにしえ)の死者……この体に憑りつく、人ではない鬼なのだから――

『……』

 生まれ持った直観が織りなすツバメの「七色の声」。キカリさんの鞄を抱きしめ、俯いて陰になった口元から、その通称以上の特技が零れ出てきた。

『……、やだあ……』

 顔を伏せたツバメから、拙く発せられた声は、彼氏の男が驚いてツバメを見た通りに――まぎれもなく、キカリさんと全く同じものだった。

 震える手で握り締められる、鞄の紐が最初に見えた。
 ツバメの胸の中で、溢れる思い入れを発する小さな鞄。その想いに体を明け渡したために、観えているキカリさんの視界。五感以上の強さで流れ込む意識に、そのままツバメは身を任せる。

『ワタシ、がんばるよ……がんばるけど……ヒロユキの夢、ワタシじゃ叶えられないよう……』

 キカリさんの嘆きの声に呆然として、男がツバメを凝視してくる。
 この鞄は元々、男がプレゼントした物らしい。付き合いは長く、キカリさんが苛められていた学生時代に、知り合った彼氏のようだった。

『ごめんねごめんね、お金稼げなくてごめんね……でもワタシ、親に言えないようなこと、したくないよぉう……!』

 自分が喋るキカリさんの声に、ツバメはぐっと、胸が痛くなった。この痛みはきっと、ツバメ自身の痛みだ。
 何故ならキカリさんは、本当はこう思っていても、彼氏と約束してしまったのだ。今日は、彼氏が契約してきた店に挨拶にいく……そこで、自らの心に反する仕事をするのだと。

 それらをおそらく、大まかに察していた汐音が、意地の悪い顔で微笑む。
「ツバメに似てるねぇ。やっちゃいけないようなことを、無理矢理しようとするところとかさ」
 誰かの穴を埋めようとしても、無力だった過去。それは思えば、当然の帰結だった。
「やるなって言われてるのに、結局、ツバメもカラダを売ってるしね」

 極端な話、自分が感じている誰かになれる、とツバメは勘違いをしていた。
 自身には自身の形――「やりたくないこと」があることを、わかっていなかった。それで他者の穴を埋めようとして、巧く填まるはずもないのだと。
 キカリさんが結局、自分の意に沿わない新たな仕事を、受け入れ難かったのと同じように。

 こうして、「体を売る」……キカリさんを感じ、その思いに自らを明け渡せても、ツバメはキカリさんではない。キカリさんから声や想いを借りられても、キカリさんの力には何もなれない。
 簡単な話なのに、以前はそれがわからないほど、ツバメは自他の境界が曖昧だった。
 だからこそ得た、この「ツバメ」としての生……直観を因として己以外に憑りつき、己以外からも憑りつかれる、筋金入りの憑依体質がツバメの本質なのだ。

 憑依の媒介となった、思い入れの鞄をもう一度地面に置くと、流れ出していた涙がやっと止まった。
 感情の乏しい汐音と共にいた二年は、ツバメが自身の形を知る良い時間だった。そういった相手でなければ、ツバメはこうやってすぐ、誰かの心に呑まれてしまう。
「……」
 彼氏の男は、ツバメを難しい顔で見ていたが……そこに在る感情は、キカリさんのことを思うような心ではない。それは汐音も、わかっているのだろう。
「ま、おまえには元々、期待してないよ。だっておまえは、ずっとそういう奴だから」
 都合のいい女。男にとってキカリさんは、それだけでしかない。でもキカリさんは、辛い過去に優しくしてくれた相手を信じたく、そして役に立ちたかったのだ。
 利用されているのだと、薄々わかり始めていても。

「聖書に曰く――やっちゃいけない、悪いと思っていることを、そう思いながらもするのは全て罪、らしくてさ?」
 へ、と。
 とても唐突に、汐音が話し始めたことに、ツバメは思わず目を見開いた。
「おまえみたく、悪いとは思いもしない奴が、罪ではないってわけでもないんだけどさ」

 何の話を、しているのだろう。ツバメはまず、そう思った。
 そもそも、とうに日は暮れ、食事も終わっているのに、彼らは何故まだここにいるのだろう。
 ツバメの中で、数刻前のあの不安が、再びどんどんと膨らんでいく。

「自分が悪魔だって――自分で知ってる悪魔って、どれだけいると思う?」
 焦りながらも、は? と呆ける男は、ずっと汐音に睨みをきかされ、その場から動くこともできない。
 冷たい顔付きに軽蔑を隠さない、汐音のこんな感情は、ツバメはほとんど目にしたことがなかった。
「どっぷり悪魔なんて、美味しさの欠片もない。やっぱり美味しいのは、キレイなところを残した人間なんだよね」
 だから――と。最早声も出せずに固まる男を、汐音の禍々(まがまが)しい視線が射抜く。
「オレは、成り立てほやほやの、人間くさい悪魔が大好きでさぁ?」

 それはツバメも、何となく知っていた。汐音はいつも、悪魔になりそうに揺らぐ、葛藤中の人間しか喰わないのだと。
 本当は人間が欲しいのだろう。しかしそれでは、不秩序の禁に大きく引っかかる。討伐対象として槍玉に上げられてしまう。
 喰らう相手が悪魔の定義を何とか満たせば、糾弾されにくいだけの話だ。

 でも、と汐音はやっと、男と話し続ける意図を明らかにした。
「たまにはオレも、『処刑人』らしいこと、しようかなーって」
 最近、暇だから。そう言わんばかりの、汐音の久々の臨戦態勢を、ツバメはすぐに感じ取った。

 汐音は吸血鬼だが、悪魔としては、「悪魔を殺す処刑人(Alastor)」の名を冠する。つまり、悪魔を殺せばこそ、悪魔としての定義を満たすらしい。
「おまえはまあ、わりとよくある、普通の悪魔だから」
「……!?」
「おまえがどんなに醜いか――見せてやるよ」

 男だけでなく、ツバメも唖然とする前で、汐音の背中に大きな「力」が具現する。
 透明の珠を核とする白い翼と、双角錐の黒い石を核とする(くろ)い翼。
 全く違う形で、対になったそれらは、この人間界で目にするとは思わなかった――汐音ならではの、強大な「力」だった。

「汐音、何……!?」
 驚くツバメにかまわず、汐音が黙って虚空に左手を掲げる。左側の白い翼が、それに呼応するように、暗闇の中で煌めき始める。
 翼の発する光で、汐音の開いた左手が落とす影は、へたり込んだ男の影にちょうど重なり――

『父と子と、聖霊の御名において』

 ぞくりと、ツバメの背筋を、突き刺すような寒気が駆け抜ける。
 汐音はまるで、自身の手の影で人間の男の影を掴むように、ぐっと強く左手を握る。

『主は常に、汝らと共に』

 これはいったい、何の悪い冗談だろう。ツバメの体からみるみる力が抜けていく。
 そして汐音の影が掴んだ男の影から――汐音はそれを、引きずり出したのだった。

『汝の犯した罪を認めよ――我が兄弟よ』

 怒涛のごとく、地中からそこに現れたのは、いかにも悪魔といった怪物状の泥塊だった。

「はっ……はああああ!?」
 叫びながら、人間の男が失神した。目前の光景がついに、許容量を超えたらしい。
「って……えええええ!?」
 ツバメも思わず、叫んでしまう。この人間界では初めて目にした、異形の怪物。
 泥でできたそれは、「錠」と同じで汐音の「力」によるとはわかるが、わざわざそんなものを造った汐音の意味がわからなかった。

「うわー! ほんとにできた、やるじゃん、オレー!」
 無邪気に喜んでいる汐音の後ろで、ツバメはぺたん、とへたり込んでしまった。
 状況が全くわからないこともあるが、それ以上に、ダメージの大きい緊急事態があった。
「待って、汐音……なに、それ」

 へ? と振り返った汐音が、這いつくばっているツバメにようやく気が付く。
「あれ? 何してんの、ツバメ?」
「それ、俺の、台詞……なに、さっきの……」
 顔を上げることもできないほど、体に力が入らない。その異変は、汐音がこの怪物を引きずり出すために唱えた、謎の詠唱の効果だった。
「それ、聞いてない……ってか、俺にも、効いてる……」

 汐音のそんな「力」は、ツバメは初めて目にしたものだ。そもそも汐音は「力」を使う時に、滅多に詠唱などしないのだ。
 あ――と。やっとわけがわかったように、汐音が明るく笑っていた。
「そっか。オマエも一応、吸血鬼だもんねぇ?」

 汐音の食卓の内とはいえ、人目につかないか心配になるほど、巨大な泥土の怪物が重く咆哮する。
 それを前にしてへたっているツバメに、白玄の翼を背後に浮かべる汐音が、あちゃー。と気軽に頬をかいた。
「さすがに、『祈りの(ことば)』はまずかったかぁ。そりゃまあ、吸血鬼に十字架つきつけてるようなもんだしねぇ、これ」
 何やらとても、聖なるものらしき単語を口にしている。
 ツバメには一応、聖水といった類の物質的な祓いは効かないのだが、その「言」は事情が違ったらしい。

「せっかくの新技なのにー! ヒドイ!」
 酷いのは、どっちだ。その程度すら言えないほどへたり込んでしまった。
 そしてやっと、汐音に感じていた不安の正体がわかった。
 それはまさに、この「新技」の存在……ツバメを(おびや)かす汐音の新たな「力」だった。

 汐音は様々な「力」を使う。背後ではためく、白玄の翼然り。「力」の種類が多過ぎて、扱い切れずにツバメを雇った――その「力」を分けた経緯がある。
 しかしまさか、こんなに強力な「聖」を持つとは思わなかった。
 吸血鬼として出会い、更には悪魔である相手なのだから、想定外にもほどがあった。

 そして、汐音とツバメを見下ろす怪物を前に、汐音は気が付いたようにポンと手を打った。 
「それじゃ、退魔用の祈りも、使うと駄目っぽい?」
 当たり前だ! と……それだけは必死に、即答したツバメだった。

 汐音とツバメは、ハンターと猟犬といえば、イメージはわりと合っている。
 汐音はいつも、前衛をツバメに任せて、後ろから敵に致命傷を与える。
 だから今回も、ツバメに先鋒を任せるつもりで、謎の怪物を引きずり出したのだろうが……。
「ちゃんと倒せるようにカタチにしたのにー! この方が『悪魔狩り』っぽいし!?」
「いや……いらないから、そういう演出……」
 わりと派手好きな汐音は、後先を考えずに、享楽でこの「悪魔」を具現したのだろう。まずもって、特に美味しそうでない男は、食べたくなかったと見える。
 しかし、汐音が構成しただけあって、かなり強大な怪物がそこには鎮座していた。
「武器も無しに……どうやって倒すんだ、これ……」
 ツバメの本来の武器は剣だ。けれどこの国では、銃刀法違反になるというので、蝶のペンダントの芯部分として普段は封印している。
 その封印を解くことと、剣を使うこと自体が、今のツバメの体力では不可能なのだ。

 立ち上がりすらできないツバメをかばってか、怪物の前に汐音がざっと立つ。
 それはあまりに、ツバメにとっては許せない光景だった。

 廃人を自称する汐音は、持久力がさっぱりない。ツバメもない方だが、それ以上にない。
 人払いに加えて、この怪物を具現したことで、既に相当疲れている。つまり二人共、戦える状態にない。
 あまりに自業自得な危機が、そこには展開していたのだった。

 人ならぬ化け物には、「不秩序の禁」がある。救いも危害も、「人ならぬ力」で与えてはいけないのだと汐音は言っていた。それが化け物という幻想の(わきま)える分であると。
 他の世界の生き物は、人間を侵してはならない。違反者は勿論いるが、それでもツバメの故郷よりは安全だった。

 安全なはずの場所を、自ら危険にした汐音は、反省など皆無のように見えた。
 しかしツバメを守る気はある。だから、切り札らしき「祈り」を使わないのだろう。
「あーもー! 服が汚れるだろ、これー!」
 泥土の怪物から噴出する泥流が、彼ら二人をめがけてどぼどぼと襲い来る。創造主の汐音に遠慮する気配は全く見られない。
 汐音が咄嗟に、銀の腕輪をはめた右手を泥流に向かってかざす。それは汐音の武器の封印形なのだが、その形でも魔除けの効果があるのだという。

 汐音の右手を中心に、その後ろのツバメまで守る壁があるように、泥流が周囲にはじかれていく。
 防御だけならそうして何とかなるが、怪物を倒す算段は何もなさそうだった。
「もー! 『錠』も外して、オレ達だけ逃げよっかー?」
 無責任な汐音は、人払いをやめ、怪物も放置しようと言わんばかりだ。

 けれどツバメは、それに頷くわけにはいかなかった。
「ダメだ……商店街がなくなったら、仕事がなくなる」
 この裏道――商店街の間近で怪物が暴れ回れば、その結末は想像に難くない。

 それでなくとも、怪物創造の責任者として、汐音が何かから狙われる気がする。
 雇い主の汐音には無事でいてもらわないと、ツバメは「仕事」をなくして困る。汐音の日常を守ることこそ、ツバメが請け負った全てなのだ。

 こうなれば、手段を選んでいる余裕はない。
 ツバメ自身に戦う「力」が残らないなら、誰かの「力」を借りる――ツバメ以外に、この体を売るだけのことだった。
 今夜のために、一応持って出ていたチョーカー。そして常に腕に巻くバンダナを、ツバメはどちらも、本来在るべき場所へぎゅうっと巻きつけた。

 大きな黒いバンダナはいつも、ツバメの目を半ばほど隠してしまう。
 一瞬、視界が赤く染まる。黒い目が赤い焔に包まれて熱くなっていく。
 これがこのバンダナの持つ「意味」だが、視力を上げるチョーカーを同時につけると、ツバメの目は青光りする黒に戻っていった。

 永い約束を違えたことのない、呪われた誰かがツバメに降りる。

「……――さぁ、ShowTimeといこうか、汐音?」

 まだ片膝をついたまま、俯くツバメから、無駄に気障な台詞が飛び出る。
 にやりと勝手に笑う口元は、それに見合った軽率な声を紡ぐ。
 これはバンダナとチョーカーの相互作用で、だからあまり揃って着けないのだが、この状態になると汐音はいつも喜んでいた。

「おっけー、ツバメ! Calling!」
 立ち上がったツバメを横目で見て、本来は荒事好きな汐音が、蒼い両目を輝かせている。
 ツバメの内には、ある不穏な決意がよぎっているとも知らずに。

――それなら、アイツを喰えばいい。

 ツバメをある種、別人にするバンダナとチョーカーだけでは、現状以上の特別な「力」はない。
 ここから戦うためには、後一つ、手札が必要だった。

 迷い一つすらも、することはなかった。
 目前にある汐音の背に向かって、ツバメは問答無用に、その最終手段を鷲掴みにした。
「って――ツバメ、オマエねええ!?」
 うぎゃああと汐音が、電撃が走ったかのように身をよじって体を竦ませる。
 それもそのはず、汐音の右背に浮かぶ玄い翼を、ツバメが容赦なく引き千切ったからだ。
「借りるぜ。汐音は後ろで、引っ込んでな」

 今の汐音の翼は、背から直接生えているわけではない。肩甲骨の後ろ辺りで、どちらの翼も硬い鉱物を起点に、宙に浮いている。
 それでも汐音に繋がる翼であることに変わりはない。それを分離できるのは、汐音と契約するツバメならではの荒業だった。

 無闇に千切りとった玄い翼は、一見はコウモリのような羽の集まりだ。四つの大小とりどりの羽が、個別に黒い石にくっついている。
「……!」
 「力」の塊である核の石を、無理に掴んだツバメの右手は、その時点でどろりと溶け出していた。
 そのまま互いにくっつき、まるで羽の一つ一つが大きな指のように、玄い翼がツバメの右手と化する。

「このバカ、それなら退魔の方がマシだってーの!」
 翼をもがれた右肩を押さえ、珍しく膝をついた汐音が、前に出たツバメの背中を怒り顔で見上げていた。
 ツバメは全くそれに構わず、先程までの微笑みも消し、再び泥流を放とうとする怪物を無機質に見据える。

 身も蓋もないことを言えば、汐音は甘い。ツメも性格も、「処刑人」としての対象の見切りも。
「……あれなら、一回で殺せる」
 呪われたバンダナを手放さないツバメこそが、真のヒト殺しだ。何かを殺すことにおいては、相手の状態を感じ取れるツバメの直観ほど、的確に導いてくれるものはない。
 そして更に、棘つきの黒いチョーカーは、ツバメの視力を上げる形で直観に寄与してくれるのだ。

 あまり長く、動くことはできない。そもそも今はテンションを上げて、不調を誤魔化しているだけだ。
 冷静に、泥の怪物を構成する「力」の流れを観て、それを断つための核心を探る。

 己の意思以外は、ほとんどの「力」が借り物である(いにしえ)の鬼――
 敵に踏み込む隙を見てとった瞬間、もう一度だけ、今度はツバメ本来の笑みがこぼれた。
「俺は……――殺したい」
 楽しくて仕方がない。これだからツバメは、汐音の下での「仕事」がやめられない。
 平和な人間界に来て(くすぶ)っていたのは、どうやら汐音だけではなかったらしい。

 ツバメの特技は、殺すこと――命に触れること。人にとり憑き、またとり憑かれること。
 その結果など、もうどうでも良かった。いちいち考えない汐音が妥当だ。
 有りふれた日常を越えて、ヒトがやり甲斐を感じられるのは、己の特性を活かせている時。生まれてきた意味を「仕事」で発揮できるなら、それは願ってもない幸運だろう。
 日々の秩序を壊したその先に、どんな結末が待っていたとしても。

 次の泥流が放たれる直前、ツバメは地面を蹴った。
 絶えない泥の噴出口が、この怪物の「力」の源。
 巨大な爪のごとき黒羽の右手で、ぽかりと口を開けた怪物を、上段から地面まで引き裂いてやった。
「ただの空想に戻れよ――薄汚い、糞虫」
 その一閃だけで、怪物はざああっと、あえなく崩れ始めた。まるで灰になるように、暗い虚空に泥が撒き散らされていく。
 それでもべったりと、ツバメが浴びた泥が消えない。不快さで顔を拭いながら、怪物の最後を無情に見届ける。

 汐音が具現したものは、恋人を売るような者はこれぐらい醜い。という、空想上の悪魔の毒だ。
 こうして空に葬ったところで、その源はなくならない。彼氏を直接殺せば別だろうが、そこまではツバメの役目ではない。

 やがて、怪物と共に塵に還るように、暗い路上を覆う影も共に消えていった。
 これで、今夜の悪魔狩りは、本当に終わったのだと示すように。


 バンダナとチョーカーを外すと、はあ……と、一瞬で酷い疲労が込み上げてきた。
 座り込んでしまう前に、右手と同化した玄い翼を、思い切って一息に引きはがした。
「っ――……て、ぇ……」 
 この痛みに耐える気力は、今しかないだろう。こんな巨大な右手を持って、人目につくわけにはいかないのだ。
 ツバメから離れた玄い翼は、すぐさま主を思い出したように、黙って立っていた汐音の背に戻る。
 そうして、形も色も違う白い翼と共に、汐音の内に消えていった。 

 気絶している男は放置して、ぐったりと倒れかけたツバメを、汐音が抱えて元の裏路地に運び込んだ。
 古い建物の外階段に、ツバメは座らされる。ぐだぐだになってしまった右手を、膝立ち状態の汐音が黙って診てくる。
 右手の痛みもさることながら、元々の不調のせいなのだろうか。テンションが元に戻ったツバメは、それからずっと、酷い吐き気に襲われていた。

 いかにも不機嫌そうな汐音が、よくわからないことを、ツバメの全身を見つめて問いかけてきた。
「……最近、誰かと会った? ツバメ」
「……?」
 別に、と答えると、納得がいかなさそうに首を傾げている。
 そして、翼を千切ったツバメを怒る前に、意外なことを難しい顔で口にしていた。
「あのさ。今――体、悪くない?」
「……へ?」
 言い回しは違うが、要するに汐音は、ツバメの吐き気に気が付いている。そして何故か、強く懸念している。
 それが何を示しているのか、この時のツバメは、ほとんどわかっていなかった。

「さっきのアレは、あの人間の血から造ったんだけど……『(しん)(けつ)に宿る』って言ってね、不味そうな奴らの血なんて、触れないにこしたことはないんだけどさ」
 それを聞いてやっと、汐音があの怪物を造った意味がわかった。
 悪魔狩りの一つとして、相手の血を奪いはしたが、食べずに始末する方法を実験したかったのだろう。
 だから汐音は、その怪物の泥――血を間近で浴びたツバメに何か影響がないか、気になっているのだ。
「とりあえず、見た目だけは治しとくけど……当分右手、動かないよ」
 玄い翼を借りたツバメの暴挙を、とても怒っているものの、汐音は何も言わなかった。
 ツバメに怒っているというより、状況に怒っている。何でこうなるの、と、様々な想定外の事態が不服らしい。

 全く――と。本日一番の不満を、汐音はその後に口に出した。
「何でオマエに、祈りが効くの? オマエ、神様なんて信じてないだろ?」
「……?」
「信じてないなら、神の奇跡は無意味なんだよ、ツバメ。この世界の吸血鬼に十字架が効くのは、そいつらが元々、神の下にあったからさ」
 よくわからないが、それで汐音は新技とやらの、ツバメへの影響を想定していなかった。
 それがなければもっと簡単に、あの怪物も処理できていた。あくどいくせに甘い汐音は、不調のツバメを戦わせるつもりはなかったのだ。

 やはり汐音は、出会った頃のドライさに比べて、相当変わってしまっている。
 ツバメはそんな汐音に対して、苦く笑いかけるしかない。
「確かに俺は……信じては、ないと思うけど」
 その汐音の甘さ自体は、ツバメに手を差し出してきた時からわかっていた。
「神がいるのは、それは、知ってるし」

 汐音にあまり情が移ってしまうと、何故か良くない気がする。
 ツバメはすぐに、目前の相手の感情に引っ張られる。汐音がドライでいてくれればこそ、ツバメも淡々と関われるのだ。
 きっとその関係が居心地良かったので、僅かな不安が消えないのだろう。
「汐音こそ、いつからそんな『力』、手を出したんだよ?」
 ツバメを覗き込む蒼い目を見ると、そこに浮かぶのは、困ったように笑うツバメの姿だった。
 汐音自身の感情は、何かが芽生えているのはわかるが、結局掴めそうにない。

 軽く溜息をついた汐音に、ツバメは違和感をそのまま尋ねる。
「何でそもそも……汐音が、『祈り』?」
「ふーん。吸血鬼が神を信じてちゃ、おかしい?」
 あっさり返す汐音は、ツバメの質問の意味……「神の奇跡」は、信じていなければ使えないと言った汐音そのものへの疑問を、無駄なく汲み取っていた。

 ツバメには、どう見ても汐音に、「神の威」を借りられる信仰があるようには思えなかった。
 それをわかっているように、汐音はそこで、いつになく儚げに笑った。
「……オレも、オマエと同じかな。神様はいるって、思ってるよ」

 ふっと、今までツバメを鋭く見ていた蒼の目が、柔らかに淡く細まっていく。
 無邪気さも警戒も抜け、その拙い笑顔に、思わずツバメは息を呑んだ。
 こんな表情は、この人間界に来てからも、今まで見たことのなかったもので――
「でもオレは……神様に、救ってはいらないんだ」

 まるで、今にも消えてしまいそうに、素朴な声で言っている無防備な汐音。
 その言葉はきっと、紛れもなく、何も飾らない本心だった。

 それは最早、ツバメには全く追いつけない、汐音の何かの変質だった。
 仕方ないので、理解できる範囲に何とか落とし込む。
「神をも利用する、悪魔……そんな感じか?」
 その言い草を聞くと、汐音もいつもの顔に戻って笑った。
「そっ。どうせ『力』があるなら、使いこなせるにこしたことはないしね」
 多様な「力」を背負う汐音は、敵も多いという。そこに初めて、助手として認めた相手が、ツバメという猟犬なのだ。

 汐音が大分、無理に「力」を分けたのだろう。思ったよりも回復してきたツバメに、汐音はそもそもの疑問を、そこで投げかけてきた。
「悪魔って――何だと思う? オマエは本当に、悪魔と戦っていたの?」
 悪魔狩りをしている汐音。それにこれからも従うのか、とその蒼い目は問いかけてくる。

 ツバメは特に迷うことなく、さらりと答える。
「さあ? 汐音が悪魔だと言う奴を、俺は倒すだけだし」
 ツバメにとっては、その「仕事」があるだけでいい。内実はどうでも良いツバメを、表情を消した汐音が見据える。 
「それは思考放棄だよ、ツバメ。それこそが悪魔の――……オマエみたいな奴をこそ、悪魔は好むんだからね」
「ふーん……汐音みたいに?」

 何気なく適当に返したら、何故かツバメをじっと見ながら、汐音は不服そうに黙り込んでしまった。
 どうやらそれは、ツバメが思っているより、ずっと真面目な質問だったらしい。

 それでもようやく、気力の戻ってきたツバメには、今気になっていることは一つだった。
「まいったな……これで俺、九時から、仕事やるのか……」
 昼間に商店街の人間と約束した、店卸しと言う仕事。それは果たして、泥に汚れた状態で、右手が動かなくてもできることだろうか。

 時間はちょうど、もうすぐ約束の頃合いになる。汐音が頑張って回復してくれた分、ツバメも何とか踏ん張りたかった。
 でなければ汐音の日常を守れない。契約を守るためなら、できることは全部する――それがツバメの日常なのだから。

 その後は先に帰るまで、汐音は裏路地で黙り込んでいたのだった。

 それは何となく、ツバメにはわかっていたことだった。
 日曜の夜、不要な手間の増えた悪魔狩りで、そのツケは誰が支払うのかという現実は。

「……あれぇ? ツバメくぅん?」
 一度送っていたので、難なく着けたキカリさんの家で呼び鈴を鳴らすと、寝間着姿のキカリさんが出てきた。
 かなり青い顔をしていて、相当ひどい貧血だとわかった。
「キカリ、ずっと休んでるから。これ、マスターから」
 あれから六日、ツバメは八百屋で、朝から晩までがっつり雇ってもらえた。
 店主はやはり、キカリさんの復帰を今か今かと待っている。本日はお駄賃を出すから、と差し入れを頼まれたツバメだった。
「うちの旬野菜食ったら、すぐに元気出るってさ、マスター」

 キカリさんの血色を失わせた張本人、汐音はいつも、人を殺すまではしない。ツバメが汐音に家を教えたので、キカリさんはあれから泥に運ばれて、自分の部屋の前で目が覚めたはずだ。
 しかしあの日は無駄に大事になってしまったので、キカリさんから多めの血を奪わないと、汐音はツバメを回復できなかったのだ。
 なので、キカリさんが長く休んでいるのは、ツバメの責任に他ならないだろう。

 そんなこととは露知らず、思わぬツバメの訪問にとても驚いているキカリさんは、思い出したように顔を赤くしていた。
「……やだぁ。ワタシ、すっぴんだったぁ」
 そう言いながら、差し入れを嬉しそうに受け取ったキカリさんだった。

 キカリさんはツバメに、お茶を飲んで一休みしていくように勧めた。
「ツバメくんは真面目だから、ちょっとはさぼらなきゃダメだよう!」
 店主から聴いた話、何でも同棲していた彼氏が急に入院し、キカリさんは一人で心細いだろうということだった。
 彼氏の入院自体は数日で済んだが、費用が支払えない上に常時の看護も必要だと、実家に戻ったという。その時キカリさんは彼氏の家族から責め立てられて、別れろと言われたといい、彼氏の荷物をまとめて相手先に送ったばかりらしい。

 結局お茶は遠慮して、玄関での立ち話になったが、キカリさんはずっと嬉しそうにしていた。
「……別れたのに、キカリ、落ち込んでないのか?」
「あー、みんなそう思ってるんだぁー。だからこんな差し入れするんでしょー」
 それで休んでるわけじゃないよう! と、青い顔色で大きく主張し、ツバメもそうだな、と納得して頷く。
 キカリさんは清々しい顔で、最後に寂しげに笑った。
「自分から別れるのは、嫌だったよぉ。だって、私みたいな駄目人間に、人を振れる資格なんてないんだもぉん」
 この調子だと、復縁を迫られたら頷いてしまうかもしれない。それはさすがに止めよう、とツバメはコーポを後にしながら思う。

 差し入れの後は、少し用事があると店主に伝えているので、商店街とは違う方向に歩く。キカリさんの家は意外に、ツバメの目的地から遠くない所にあると、昨夜に汐音が教えてくれた。
 初めての道を慎重に行っていると、思わぬ相手に出会うことになった。
「あ! この間のにーちゃんじゃんか!」

 振り向くと、路傍にバイクを止めた人間の男が、ツバメに向かって駆けてきていた。
「にーちゃん、大丈夫だったのか!? 元気そうだな!?」
「あ」
 先日ツバメを撥ねた男が、バカ正直に、見かけたツバメに寄ってきている。
 騒ぎにしていないのだから、無視していれば良いのに、無事の理由をどう言い訳しようか逆に悩んでしまう。

「本当ごめんな! ちょっとの間でも、逃げようって思っちまった自分が恥ずかしいわ!」
「いや……それ……きっと、悪い夢だから」
 苦し紛れにそう言うと、男がぽかんとする。少し後に、確かになあ! と、朗らかに笑い出した。
「そういやおれ、気が付けば泥んこで道端で寝てて、大変だったわー。体調もわりいし、お互い気ぃ付けんとなあ!」

 キカリさんも先程、ツバメが出てくる不思議な夢を見たと言っていた。あの日のことはそれぐらい、記憶が朧気のようだった。
 寝間着姿も、風俗店に向かう自分も、ツバメには見られたくなかったらしい。そこまで口にはしないが、夢の話なのに大きく苦笑っていた。

 人間でないツバメと汐音は、人間界で大きな事をするわけにはいかない。人間ではないと、人間に知られるのもまずい。
 この世界では、そんなものは無いことになっている。幻想になど頼らない、それが「駄目でない」人間の誇りかもしれない。その秩序を乱せば、それこそ「神」の使徒にでも裁かれてしまう。
 バイクの男を何とかやり過ごして、まだ本調子ではない体で、ツバメは汐音に言われた場所に向かう。

 今日は土曜日なので、汐音は午前中、高校にいる。終わったら自分も行くから、と必ずそこに向かうようにツバメに念を押した。
 仕事中の休憩を長くもらうのは心苦しかったが、店主は快諾してくれ、どうやらツバメが病院に行くと思っているらしい。

 それもそのはず、ツバメが行けと言われたのは、ある住宅街の一角――「橘診療所」という施設を内包する、大きなお屋敷だった。
 そこはそもそも、ツバメをこの人間界に来させた、始まりの場所とも言える。

 塀に囲まれた屋敷で、正門から最初に続く診療所までは、誰でも出入りができる。
 ドアを開けると、右手の受付にいつも座る黒い髪と目の少女が、嬉しそうにツバメを出迎えてくれた。
「あー、ツバメくんだ! 一か月ぶりだね!」
 この診療所には、外来室と処置室と、医師の居室がある。待合はなく、外来室に沢山あるドアの外側で、来訪者は大体待たされるのだが……。
「ツバメくん、さっきからずっとツグミさんが待ってるよ! カイ先生の部屋、使っていいって言われてるから、今日は奥の方にどうぞ!」
「……へ?」

 玄関と反対にあるドアからは、外来室のドアの前に続く。しかし少女は受付の中の、職員専用ドアを開けてくれた。
「ありがとう、菜奈(ナナ)
「どういたしまして! 気を付けてね、ツバメくん!」 
 それが破格の待遇であり、また、下手な事をすれば危ない何かが起こるというのも、ツバメは少女の声から有難く汲み取る。

 ここは、一見は大きな屋敷の一部である、こじんまりとした珍しい診療所だ。
 ところが、外来室に沢山あるドアの一つからは、ツバメの故郷に行ける。他のドアもそうして、色んな場所に繋がっているのだ。

 そうして人間界と多様な異世界をつなぐ、摩訶不思議な中継地点。
 数多の場所で存在する「橘診療所」の客は、ツバメのように、人間でない者も多く――
「……あ」
「――!」
 それでも、珍しい赤い髪以外はほとんど人間である、その着物姿の女性客。
 鴇色の小袖を凛と着て、滅多に入れない医師の居室で所在なげにしている、懐かしい黒い目の人がいた。
「……(つぐみ)……」

 肩につくかつかないかの、さらりと短い赤い髪。
 端整な顔立ちが鋭く見えて、実際はお人好しな優しい娘。
「燕雨……」
 少し前まで、広い御所の一角で、一緒に暮らしていたというのが信じられない。
 それくらいに、入ってきたツバメをじっと見つめる大きな目は、不安げな親愛で潤んでいた。

 座っていた長椅子から立ち上がった鶫は、何も喋れずにツバメを見ている。
 いつも何でもソツなくこなすのに、たまにこうして、突然不器用になるのだ。
 そんなところが不思議で、また、愛おしかった。
「――久しぶり、鶫。元気してた?」
 会えて嬉しい気持ちのままにツバメが笑うと、鶫も、うん。と……少し顔を赤くしながら、小さく頷いたのだった。

 コホン、と、鶫がドアの前にいるツバメの方にやってくる。
 改めてツバメを見直すと、少し怒ったようないつもの顔で、ツバメの胸にそっと細い指を当てた。
翼槞(よくる)君に、呼ばれてきたの。燕雨が悪いものを食べたから、みてやってくれって」
「――へ?」
 翼槞というのは、汐音の人間版、黒髪の学生姿の方の名前だ。本来はそちらがツバメも知っていた名前で、古い知り合いは汐音をそう呼ぶ。
「……約束したでしょ? アナタの体は、もう売らないって」
「…………」

 あの悪魔狩り以来、ツバメはずっと、絶えない吐き気に悩まされていた。
 昔はよくあることだったが、結局のところ、無茶な憑依の副作用であるらしい。

「……ごめん。今度から、気を付ける」
 胸に当てられた小さな手から、心配する鶫の温かさが直に伝わってくる。
 その温もりは、ツバメが先日浴びた泥を、少しずつ拭っていくかのような気がした。

 周囲にあるものに、どんなものでも自身を重ね、共に感じ合ってしまうツバメ。
 自身に合うものも、合わないものも関係ない。その無防備な直観による憑依体質を、鶫はいつも案じていた。

 橘診療所に行け、と汐音がしつこく言ったのは、とにかく鶫に会わせるためだったらしい。
 鶫の心配を、こうして間近で感じてしまうと、ツバメも自然に初心に戻る。
 それと同時に、胸の吐き気も、少しずつ薄れていくようだった。

 ツバメには、一か月と少しぶりの鶫だったが、鶫からは半年ぶりになるらしい。
 この人間界では、彼らの力が制限されると同時に、時間の流れも違うというのだ。
「やっぱり……三か月くらい大丈夫だったら、帰ろうかな……」
 ツバメの妹は人間界で一年、高校に通うことになっている。それが終わるまでここにいると、故郷では五年もたってしまう。
 あまり長く鶫の顔を見ていると、帰りたくなってしまうので、早めに診療所を出たツバメは一人で苦笑う。

猫羽(ねこは)も危ないけど……鶫なんて、もっと危ないよな……」
 悪い虫が、つかないように。鶫は父親の見張りが厳しく、あんなに可愛いのに独り身だが、狙っている者は沢山いるはずだった。

 鶫のことばかり考えながら、診療所のある屋敷を出たせいだろう。
 いつもは警戒し、なるべく顔を合わさないようにしている相手と、ツバメはそこでばったり出くわすことになった。
 後で思えば、それも汐音の、あざとい罠だったのだろうが……。

「えっ――……兄、さん……?」
「――あ」

 自分と同じく、この診療所を通って、人間界に留学に出された妹。
 ツバメとは違い、屋敷の主に援助を受けている妹が、その仕送りを受け取る日が今日だったらしい。
「……久しぶり、猫羽」
 ツバメは妹に内緒で、人間界に来ていた。だから住む場所も少し離れた郊外にしたのに、見つかってしまうと世話がなかった。

 淋しがりの妹は、ツバメを見つけた途端に飛ぶように駆けてきて、ひしっとしがみついてきた。
「何で、ここにいるの……? 兄さん……」
 遠い故郷にいるはずが、人間界にいるツバメに、妹は当然驚いていた。
「いや……ちょっと色々、仕事があって」
 ツバメはツバメで、妹の見慣れない恰好……髪に揺れる明るいリボンと、可愛い制服姿に心が和んだ。
 今日は本当に、色んな相手に会うことができた、面白い良い日だ。

 人間にはない紫苑色の髪を、ここでは妹はツインテールにしている。それでも妹は人間で、髪の色がこうなったのは、契約した悪魔の影響といって良かった。
 周囲からは何度となく、もう悪魔との契約はやめろと言われている。それでも悪魔を手放さないのは、ひとえに、淋しがりだからだ。
「俺はもう、帰るから。猫羽は早く、挨拶しに行けよ」
 この人間界での一人暮らしで、少しだけでも、妹が自立できるといい。それを願ってやまないツバメは、あえて妹を突き放すしかない。

 思った通り妹は、久しぶりに会えたツバメに駄々をこねてきた。
「やだ。兄さん、帰っちゃやだ」
 本当ならもっと、甘やかしてやりたい。その方がどれだけツバメ自身、楽だったことだろう。
 それでも、ツバメにできるのは、妹を見守ってくれる汐音の生活を維持することだけなのだ。
「頑張れ。猫羽なら、大丈夫だから」
 まるで自身に、言い聞かせるように。精一杯の顔で、ツバメは笑った。


 鶫と同様、妹のことも早々に振り切って出てきたツバメを、屋敷の外で汐音が待ち構えていた。
「あーもー。オマエって本当、ストイックだねぇ」
 塀にもたれかかる汐音は、呆れたように両腕を組んでツバメを見ている。わざわざ懐かしい者に会える時間を作ってくれた汐音に、ツバメは苦笑うしかない。
 こうしたことは、ツバメは決して、自らそうしようとは思わないのだから。
「ありがとう。でも仕事があるから、駅に戻るよ」
 八百屋の店主をこれ以上、待たせっ放しにはできない。その意味でも、ここでゆっくりしているわけにはいかなかった。

 そんなツバメに、汐音は、間違えた。ワーカホリックだ、と言い直していた。
「そーいうとこ、全然成長しないね、お前は」

 自称廃人の汐音から、まさかの成長という単語が出たので、思わずツバメは顔を綻ばせた。
「うんまあ。駄目な奴、だし」

 汐音はいつも、何も否定しない。人を悪魔と裁きはするが、悪魔になるなとは思っていない。
 そうしてツバメのことも、あくまでそのままで使ってくれているのだ。

「お前がそうしたいなら、仕方ないけどさ」
 だから汐音は、成長しろとは言っていない。思ってもいないと、以前からわかっていた。
「こんな暇人な、悪魔狩りとか。オレ達みたいなのでないとやんないしねぇ」
 それはどうやら、長年独り身の汐音には、感謝の言葉らしい。この罪だらけの世の中に悪魔狩りは必要ない、と汐音はよく言っていた。

 悪魔が多数派であるのは、この世界での処世術なのだろう。悪魔でないもの――汐音曰く血がキレイで美味しい者は、キレイであってもおそらく得をしない。汐音のような手合いに目をつけられるだけで、生き残るには不利な要素に思える。
 それをわざわざ、一時しのぎでもキレイに留める「仕事」。いくらでもいる他の獲物を無視し、そんな食道楽に付き合う者は、ツバメのような駄目な奴くらいだ。

 始めて間もない二人暮らしに、思った以上に苦戦しているツバメは――
 その汐音の笑顔だけで、この人間界での生活をもう少し頑張れる気がした。


(サビ) 了

File.I †謡

File.I †謡

 
 この世界は、貪欲過ぎるね。


 -spin a tale-


 何の変哲もない生活臭が漂う、家々がひしめく住宅街の、ある奥まった一角。
 細長い煉瓦の花壇に囲まれて、鐘つき屋根に十字架が立つ古い建物……神の拠点とは全く思えない素朴で小さな教会に、その有翼の悪魔は出会った。
 そこを訪れたのは、よく顔を合わせる野良猫がそちらに向かっていったからで、そうでもなければ、神にとっくに牙をむいた悪魔に、縁がある場所のわけはなかった。
「……へぇ。しょぼいわりには、中身は立派じゃん?」

 傍目からは、黒いハイネックに学生服を羽織る美形の青少年。十代後半にも見えるかどうか怪しい童顔の悪魔の、不遜な呟き。
 夕暮れに溶け込む青闇の黒い髪が、日本人らしからぬ鋭い灰色の目に硬くかかる。
 その目に映る、十字架を掲げる古い建物……悪魔がそこに興味を持ったのは、ひとえに中から、脅威の気配を感じたからだった。
「いるもんだねぇ……人間にも、やばい奴が」

 知り合いの都合で、この春から高校に通うことになった悪魔は、生まれも育ちも人間の範疇を大きく超えている。
 悪魔自身、自らがここに在る経緯を、最早正確には覚えていない。二百に近いはずの年齢も、とっくに数えるのはやめていた。
 自身を人間に見せるために、化けることを続けている体は、どの姿が本来かも忘れつつある。

「さて……どうしよっか、ね」
 人間ではない悪魔が、高校通学のため、潜入できそうな人家があるか。この辺りには、それを探して来てみただけだった。
 しかしこの上品そうな町には、思ったよりも人が少ない。可能な限り、不自然でない形で住み着かないと、長居にはリスクが高いことがわかる。
「こんな教会があるなら、余計――何かあれば、悪魔祓いをされちゃいそうだ」

 悪魔や妖怪といった人外生物を、取り締まるものにも様々な派閥がある。
 更には稀に、「力」などないはずの人間にも、本物のエクソシストがいる。この教会から感じるのは、そうした類の困った気配だった。

 暇な悪魔は、高校に行けという、知り合いの頼みをきくのはやぶさかでない。
 様々な経緯で、戸籍もこの町で二年前に入手している。後の問題は、単純に衣食住だ。
 一つの町に、滅多に長居しない悪魔は、人間界そのものがそう安易な場所ではないこと……人間にも人外生物にも厳しい世界だと、本能的に感じていた。

 くすりと釣り上がる口元は、人間世界の倫理など忘れ、ありのままの気持ちを呟く。
「やられる前に……やっちゃおうかな?」
 人間界に在る限り、異世界の化生な悪魔の「力」は、大半を制限される。
 それでも悪魔は、ここにいなければいけない。そのためなら工夫を凝らし、ヒト知れず障害を排除した方がいい。
 陽さえ落ちれば、悪魔の時間だ。
 自分の身を守るためのことなら、その「翼の悪魔」には何のためらいもない。

 夕日を背に、教会の入り口を不穏な目で眺めながら日没を待つ。
 翼の悪魔――「翼槞(よくる)」を名乗る悪魔は元々、数多の翼を生やす自身の体を、ただ維持するためだけに創られた意識の一人だ。
 悪魔の意識の裏で眠る、体の本来の主は殺生など望まない心を持つが、だからこそ、その甘さを排した「悪魔」が必要なのだ。

 そうした悪魔の背後をすっと……あまりに唐突な邂逅が、すぐ間近を通っていった。
「……――」

 それはとても、悪魔には想定外に過ぎた。
 今日はただ、これから住もうとする町の下見に来ただけだ。
 知り合いの頼みで滞在するだけの場所に、そんな運命の悪戯を、悪魔は欠片も求めてはいなかった。
「って……は……?」

 後頭部を刺すように、僅かに一瞬触れた気配。呆然と小さく振り返った。
 視線の先には、特に何もない。何処にでもいる人間の女が、教会に歩いてきているだけだ。
 ただ、高校生として不自然でない悪魔の背丈で、目線の高さが合わなかったものがあり……――

 悪魔の脳裏を貫いた、その拙い気配の持ち主は、悪魔の斜め前で小さな両手を振り上げていた。
「かーさーん! はやく、はやくー!」
 悪魔の横をすり抜けて、低い背を精一杯に伸ばし、母らしき女に構わず教会の前まで駆けていく少年。
 その気配はただ、有り得ないもの。
 元気に己の存在をアピールする、幼い黒髪の少年を目の当たりにしても、悪魔はまだ、何がそんなに衝撃なのかが自覚できなかった。

 立ち尽くす悪魔の横を通り抜けて、人間の女が、息子らしき少年の肩を掴むようにかがんで視線を合わせていた。
「こら、夕烏(ゆう)。おかーさんのこと、置いてっちゃダメでしょー?」
 こちらはただの、何の特記もない人間の女。癖毛の短い茶髪はとても色が薄く、OLとは思えない露出度の服装で、化粧の濃さからも水商売の匂いがしていた。
 特徴はただ、それだけだ。これからどうして、あの少年が生まれたのだろう。
 そんな風に、まず思ってしまうくらい、少年から発する気配は悪魔の知覚を捉えて離さなかった。

 母にたしなめられた幼い少年は、とても慣れたように、明るい笑顔で母親を見返している。
「なんだよー、どーせオレのこと、ここにおいてくくせにー! かーさんなんか、しごとがんばってくればいいんだ、オレのことなんてほっとけばいいんだー!」
「あーもー。夕烏ってば、いじわるなんだからー。そんなこと言ったら、おかーさん、さみしいでしょー?」
「しらなーい! オレはここで、よいこでおるすばんだもんー!」
 きっとこれは、この母子なりの、日常会話で激励なのだろう。
 黒髪の少年は、わしゃわしゃと頭を撫でられて、最後にぎゅっと母に抱き締められている。
 まるでそれを見計らったように、教会の中から出てきた人影があった。

 黒髪の少年の出現に、あまりに驚いてしまったので、夜討ちを企む悪魔は存在を隠すことを全く忘れていた。
 目前に出てきた、教会にいた者。それこそ悪魔が、「やばい奴」と感じた張本人で、排除したい対象……人外生物の悪魔を、おいそれと見られて良い相手ではない。

 しかしその事に気付く前に、人影は悪魔の存在を見つけてしまった。
 母から離れて、人影の方に飛んでいった少年を抱き留めながら、それは不審な顔を悪魔に向ける。
「……? 陽子さん……そのヒト、知り合い?」
「――え? って、あ、この学生さんのことー?」

 ただの人間らしき母の方は、悪魔にやっと気が付いた体で、知らないよー。と、不思議そうに首を傾げる。
 教会から出てきた人影――細い眼鏡の下の目を、怪訝に歪めた同年代の女性は、長い一つ括りの茶髪を揺らして黒髪の少年を抱き上げた。
「……それじゃ、いつも通り、ユウくんは預かるから。陽子さん――お仕事気を付けてね」
「はーい。いつも本当ありがとねー、詩乃ちゃん」

 悪魔を警戒し、幼い少年を自らの元に確保しながら、詩乃というらしい眼鏡の女性はすぐに平静に戻っている。
 悪魔の存在の違和感に気付きながら、それだけで済ませているのは、彼女が呑気であるだけなのか……もしくは、悪魔を脅威にみなさないほど大物であるのか、判断に悩む。

 母の女が行ってしまうと、教会から出てきた女性は改めて、少年を抱っこしながら悪魔をじっと見据えてきた。
「……貴方は、どちらさまでしょうか? この教会に、何かご用が?」
 眼鏡の奥の冷静な瞳は、おそらく悪魔の殺意に気付きながら、普通の対応を試みてくる。
 人間程度にそんな余裕を見せられるのは、聖なる場の門前という不利もおそらく関係している。真面目そうな顔の女性を前に、本来圧倒的に強いはずの悪魔は、あえて意地悪く笑った。
「用なんてないけど。それとも、あるように見える?」
 
 女性の首元では、抱き上げられた黒髪の少年が、あからさまに警戒する目つきで悪魔を見やっている。
 女性が沈黙したこともあり、少年のまっすぐな表情に、悪魔は不意に溜息をついてしまった。
「……あるとしたら、そうだね。そこのソイツを……渡してほしいかもね?」
 すっと口をついて出た、明らかに怪しい者の台詞。
 女性が瞬時に険しい顔をし、しがみつく少年を強く抱き返す。

 悪魔自身、何故そんなことを言ったか自覚できなかった。排除すべき相手は女性の方だろう。
 幼いながら、必死の虚勢で悪魔を見返す、黒髪の少年の灰色の目。
 日本人には珍しいその色合いは、どこかで見かけた、見慣れた組み合わせで……。

 そこにやっと思い至った時に、女性の方から、悪魔のここまでの感慨を言葉にしたのだった。
「貴方、どうして……ユウくんに、よく似ているの?」
 教会に備え付けられた、夕刻を告げる鐘の音が、女性の声と同時に辺りに響き渡った。
 何処か物悲しい、安っぽい音色。この国の濁った黄昏の空には、よく似合っている。

「…………」
 守るように少年を抱きしめながら、悪魔をまっすぐに見る勇敢な女性に、悪魔はふと、どうでもいいことが気になってきた。
 女性が出てきた時から、教会のドアはずっと開いたままだ。まだ肌寒いこの季節、それでは建物の内部が冷えてしまうだろう。明かりもつけられておらず、中には他に誰もいないのか、とそんなことを不思議に思った。
 普通なら牧師か神父がいるはずだが、この女性より強い気配は何処にも感じられない。

「とりあえず……悪いもんが入る前に、帰ったら?」
 両腕を組んで、無表情に言った悪魔に、女性は首を傾げながらも、金彩を宿す褐色の目を向け続ける。
「悪いもの……それは、貴方みたいな?」
 尋ねる女性の、真意はよくわからなかった。悪魔を警戒しながら、自らの縄張り――その聖域に逃げない女性は、どうして悪魔と話を続けるのだろう。
 悪魔は既に、少し面倒くさくなってきていた。
 色々と気になることは、目前に展開されているが……そんなことを追及するのは、悪魔の目的ではなかった。

 ここで女性を殺すために、牙をむくのかどうか。
 教会の外で、陽が落ちるこの時なら、それはそこまで困難ではない。

 物騒なことを考えながらも、今日はもう、億劫さの方が勝ってしまった。女性には何も答えずに、悪魔はくるりと、教会に背中を向ける。
 あまり遅くなると、今泊まっている場所の主も文句を言う。そうした諸々が、ただ面倒なだけだった。
 エクソシストと言っても良さそうな、妙な気配を感じるこの女性と、有り得ないはずの少年の存在。
 そのどちらも、今日は保留にすることにした。暇な悪魔には、どうせ機会は腐るほどあるのだから。

「――待って。もしかして、貴方……」
 だから呼び止められようが、排除対象に返事をする気はなかった。
 もしもそれが、その悪魔の核心をつく、銀の弾丸の一言でなければ。
「貴方、もしかして……わたしの天使を、知っているの?」

 ……一瞬、何を言われたのか、それすらもわからなかった。
 珍しい翼の悪魔は、人間にも、人外生物にも滅多にない、奇妙な勘の良さを持っている。
 意識して扱えるものではないが、理解力も洞察力も、人外生物にしては鋭い方だと自覚している。

 その悪魔が今日は全く、そこにいる人間の事をわからないでいる。
 完全に初対面で、教会などという、悪魔とは無縁の場所にいる聖なる人間。その目が何を見て、何を言おうとしているか、どうしてなのか露ほどにもわからなかった。

 しかしそれは、あくまで……「悪魔」だけの混乱だったらしい。

「――うん。知ってる、よ」

 振り返った自らが、気軽な声色で発した言葉。
 それに驚いたのは、「悪魔」だけではなかった。

「え……貴方――」

 人間の女性が目を丸くして、突然人懐っこく笑った相手を凝視する。
 その暗がりにいたのは、今までの黒髪の高校生ではなかった。

「だってオレは――そのために今まで、ここにいたんだ」

 驚く女性に答える、青銀の短い髪の青年。人間には有り得ない色素を持つ仮初めの生き物。
 その蒼い目に映るのは、答えた相手の女性ではなく、女性が抱える黒髪の幼い少年だった。

「……久しぶり、だね……『オレ』……」

 今はまだ、「悪魔」には理解できない、ある運命の始まりの予兆。
 すっかり長寿の毒に穢れて、暗闇に身を置く「悪魔」に、それは破滅の足音でしかない。

 ただ一人、全てを悟った者の声を覆うように、今も黄昏の鐘が鳴り響いていた。

 数日間の約束で、既に一週間泊まる部屋では、長椅子に寝転ぶ悪魔を鬱陶しげに見つめる黒い医者がいた。
「オイ。おまえはいつまで、俺の安眠を妨害する気だ。この一文無しの居候悪魔が」
 中途半端に長い黒髪を首の後ろで括り、上下とも真っ黒な室内着で、煙草をくわえた黒い目の医者。端整な顔に浮かぶ不機嫌さを隠しもせずに、斜め向かいの椅子に、足を組んで座っている。
 普通は入れないこの居室に悪魔を迎え入れている時点で、医者が本気で拒んでいないのは明らかなのだが……。
「その顔で無防備に眠るな。寝起きに見ると心臓に悪い」

 夜型の悪魔が、明け方にやっと寝付いてから、まだ数時間しかたっていない。
 安眠を妨害したのは医者の方で、その内容たるや、いちゃもんの領域を軽く超えていた。
「少しは自覚しろ。さもなくばガキに戻れ。これだから吸血鬼は、美形揃いでタチが悪い」
「んえ……はい……?」
 さすがの悪魔も、体を起こして瞼の上がらない目をこすりながら、不当な糾弾に答えるしかない。
「何それ……ひょっとしてオレ、襲われるって言ってる?」
 この医者と知り合った頃、吸血鬼である悪魔は子供の姿だった。といっても、中学生から高校生になった程度の変化でもある。

 ただこの医者には、少し前から伴侶ができている。様々な事情で、その伴侶は悪魔と同じ顔をしている。
 互いに頻繁には会えないらしい。つまり悪魔の容姿が医者の好みなのは、言わずとも知れていた。

 しかしまがりなりにも医者の相手は、悪魔の体も何度も診たことがある。
 それが今更、伴侶と同じ寝顔程度でおかしな気になるものかと、気楽な悪魔は首を傾げる。

 たまにきらりと、金色に光る黒い目は、「神眼」と呼ばれる人外の観察能力を備えている。
 それに何が視えているかは知らないが、その眼の通り神の類の医者は、灰皿に煙草を押し付けながらため息をついた。
「おまえな。やっぱり何も、気付いてないな」
「?」
「まあいい。とりあえず昨日から特に、おまえは別人だ。意識して以前に戻れ、以上だ」

 人外生物をよく診る医者。その言葉には当然意味があるので、聞き流すわけにもいかなかった。
「よくわかんないけど……戻らなかったらそれ、どうなるのさ」
「これから同居人ができるんだろう。十中八九、ソイツが変な気を起こす」
「ないない。アイツ女ったらしだけど、女しか好きじゃないよ」

 そこで医者は、ますます苦い顔をして、にやにや笑う悪魔を神妙に見た。
「その顔ができれば、まあ大丈夫だろうがな。前から言ってるが、おまえは男だが、体は女型だ。それを自覚しろ」
 あー、と。あくどい笑みのまま、悪魔はぽんと手を打つ。
「あんどろげんフオウ症……だっけ? 人間で言うと」
 医者曰く、遺伝子という生物上の型は男性でも、外見はほぼ女性になる場合があるという。確かに悪魔には声変わりもなく、いつまでも雰囲気が子供っぽい。
 この悪魔のように、その体型でも自身を男と知っていた状態は珍しいらしい。男として望まれた悪魔の出自故のことだが、それを言われてから、これ以上体が女性寄りにならないように、何度か診察を受けていた悪魔だった。

 昨日の夕方、あの教会の女性に会ってから、悪魔はあっさり潜伏生活を諦めていた。
 余計な手間は増えるものの、堂々と戸籍を使い、人間として暮らす方が安全だろう。そのために、悪魔に高校に通うよう頼んだ知り合いに、生活を助けてくれと連絡したばかりだった。
 その結果、どこかで部屋を借りて、二人暮らしをすることになった。
 大分前には、二年ほど共に生活したこともあり、わりとすんなり話は決まっていた。
 しかし当時とは状況が違う、と医者は懸念しているらしい。
「どうせずっと化けてるんだ。男に化けることもできるだろう?」
「知らないし。オレにはこの体が当たり前だから、知らないもんは化けられないし」

 太陽光を嫌う化け物、吸血鬼である悪魔。日中に外に出られるのは、光との付き合い方を調整できるレベルに達しているからだ。
 そのため、光の具合で相手の目に届く映像を操作する――身長を多少変えたり、髪や目の色を変えることくらいは簡単にできる。省エネ型であるコウモリに化けること以外、吸血鬼の変化とは、自己の密度と光への干渉能力を基盤とする。
 それは実際、悪魔の本体は何も変わっていない。化けるのをやめれば、一からまた調整し直さなければならない。男と女の違いといった人体の構造の研究は、滅多に他者に肌を見せない悪魔には、全く興味がないものだった。

「大体、オレに万一何かあったところで、アンタがどう困るっていうのさ?」
「…………」
 そこで医者は、とても難しい顔付きで黙り込んでしまった。
 まず、今の悪魔の返答自体が、予想を超えたものだったらしい。

 悪魔自身、頭をかきながらふっと、あれ? と思った。
 その発想は、全くもって、この翼の悪魔らしくない。
 悪魔は元々、精神年齢がいつまでも子供という自覚があり、また、そうありたい望みを持っていたのだから。
「……うん。確かにオレ、何かおかしいね」
 頷く悪魔に、ようやく気付いたかと言わんばかりに、黒い神眼の医者は肘掛に頬杖をついて悪魔を見つめた。
「あまり本来のおまえから離れ過ぎるな。今後本気で、戻らなくなるぞ」
「……まじで。オレまだ、何か……違う奴いたの?」

 無表情に頷く医者に、悪魔はようやく、自分が昨日までの「悪魔」でないことに思い至る。
 後ろの方には、壁掛けの大きな鏡がある。そこに映る悪魔の姿は、「悪魔」である黒髪で灰色の目の学生ではなかった。
「今のおまえは、本来のおまえに最も近く、そして真逆だ」
 化ける行程を変えたつもりは、全くといってなかった。しかし鏡に映るのは、悪魔の変質を物語るように、青みのある銀髪で蒼い目で、更にはシャツ一枚だけの華奢な姿……。
 裾から生える白い両足は、すらりと形が良く、高校生より伸びた背丈のわりに、細さと処々のくびれが増した体。左右非対称に髪も少しだけ伸びており、総合するとそれは完全に、しなやかで女性的な容姿だった。

「……うわー。これは、うん、やばい、ね……」
 この翼の悪魔が自らとして投影する化けの姿は、悪魔の意識を反映すると言っていい。
 元々悪魔は、幾人もの「自分」を持っていた。それらは全て、人間の多重人格と似て、大元の体の主を守るためのものといって差支えない。
 しかし本来の体の主は、ある時を境に、ほとんど顕在化しなくなってしまったのだ。

 記憶を共有しているため、意識が違う者に移り変わっても、悪魔自身気付けない時がある。
 今がまさに、その状態だった。それで医者は、急遽悪魔を叩き起こしたのだろう。
「分かり難いから、新しい名前をやる。それぐらいおまえは、今までとは違う」
「えええー……ちょっと待って、何処にいたのさ、この今のオレ……」
 鏡にかじりつく悪魔や医者が把握していた意識は四つ。大元の体の主――本体と、既にいなくなった二人に、後は昨日までの「翼槞」だけだ。
 それらは全て、体の主が誕生した時からあったものだ。なのに今の悪魔は、全く新しい意識だと言える。
「こんなに簡単にオレが増えんのは、さすがに困るし。どんどん本体、埋もれてっちゃわない?」
「その通りだな。いつまた起きるか保証もできないが、その確率が下がるのは確かだ」

 この医者は悪魔について、悪魔の元上司でもある伴侶から、本体を起こすように頼まれている。だからこれは、医者にも困った事態なのだ。
 悪魔にそんな、いくつもの意識があるのは、悪魔が不安定に過ぎる試験管育ちの化け物……人造の吸血鬼だからでもある。
 しかしこれまで、別の意識が消えることはあれ、新たに生まれることはなかったのだ。

 どの意識も、この体を守るのに都合良く造られた性格なのは同じだ。
 それでも体を守る役割の中心は、これまでの「翼槞」が一番手だ。それが今更(くつがえ)されるのは、何の悪い冗談だろう。

 不本意ながら視線を返し、改めて悪魔はじっと、壁掛けの鏡の前に立つ。
 それでなくてもシャツ一枚だが、いつもは第二ボタンまできちんと掛ける上着は、下の方の三つしか閉じていない。
 首元や鎖骨も露わに、いつになく悩ましい恰好で眠っていたのだと、やっと医者の苦い視線に思い至った。
「本体のオレじゃないのに……この傷も見えてるし?」
 左の首筋には、ほぼ水平に走る、古くて大きな切り傷の痕がある。
 そこには昔、人造の吸血鬼を製造者が操作するための、頸髄に電気信号を送る制御装置が埋め込まれていた。それを無理矢理分離した時、その傷痕が残ったのだ。
 あまり傍目の印象が良くないので、普段はハイネックの服装を好み、化ける際にも映像的に隠している。ところが今の己は、その必要性を感じていないらしい。
「ありのままで、というやつだな。いったいどんな心境の変化があった?」
「知らないし。昨日はもう、眠くて仕方なかったし」

 正確に言えば、とても疲れていたのに、明け方まで珍しく眠れなかった。
 何を考えていたかは覚えていない。夜型が当然の吸血鬼とはいえ、最近は今後の高校生活に合わせるべく、早起きを始めていたところだ。朝から診療所を開く医者の居室で過ごす上でも、それは一応守るべき事だった。
「うええ……やばい、まじで覚えてない……」
 今までの「翼槞」は、だらしない恰好を好まなかった。こんな姿で寝たということは、少なくとも夜中から今の自分だったはずだ。
 けれど記憶は、二人暮らしの話がまとまったところで途絶えていた。

 悪魔のあまりの健忘ぶりに、ふっと医者が、わずかに口の端を上げて笑った。
「そこまで無意識となると――案外、本体の奴が珍しく出てたのかもしれないな」
「え?」
「おまえ達全員が持つ記憶を、一時でも独占できるのは本体くらいだろ。そして何かの必要性を感じて、今のおまえを顕在化させた……『翼槞』をお払い箱にする程度には、真剣にな」

 昨日までの翼槞の名は、実際には過去に消えた意識の一人で、吸血鬼としての心だと言えた。その残滓を取り込み、あくどくなった「悪魔」が、今はこの体を一番上手く動かせる。
 それなのに、何処から現れたかわからない今の悪魔に、「悪魔」――「翼槞」はあっさり、主導権を渡し過ぎだった。
「お払い箱ってぇ……まさかオレ、新参者なのに、これからメインなの?」
翼槞(アイツ)はそもそも廃人だからな。誰もいないから仕方なく動いただけで、おまえがいれば遠慮なく引きこもるだろ」
「ちょ、ま……それはさすがに、人格使い、荒過ぎ……」
 滅多に顕在化しない本体のために、この体が朽ちないよう、悪魔達は本体の代わりに動き続けてきたと言える。
 当初は「吸血鬼の翼槞」が優位だったが、それが破綻して、「悪魔の翼槞」に主導権が移った。そして今また、主導権が新たに、この奇妙な悪魔に移ったらしい。自分ですら不審に思う悪魔に、何故そんな事が起こるのだろう。
「移ったものは仕方がない。おまえはおまえとして、おまえの相方と改めて出会うしかない」
 昨夜に決まった、これからの二人暮らし。相手は医者の言うように、悪魔の相方と呼んで遜色ない存在であり……その関係を作ったのは「翼槞」なのに、これから対応していくのは今の悪魔らしい。
「うわ、やば。そんな言い方されると、ちょっとキンチョーしてくるじゃん」

 悪魔の本職に関わる相方関係ではあるものの、もう既に、五年以上は離れて暮らしている相手。
 以前に共に過ごしたのは「悪魔の翼槞」だ。その時には何ら問題はなかった。
 「翼槞」は必要最低限の事しかせず、互いにほとんど干渉しない。しかし今の悪魔は、それが気になってしまう時点で異質だった。
「オレのこと、ツバメ……絶対変に思うだろーな……」
 数日後に、僅かでも身支度を整えてからこちらに来る、と相方は言っていた。それまでに、今まで通りの「悪魔」に戻れるものだろうか。
 元々悪魔と相方の関係は、薄氷のように基盤が頼りない主従の契約だ。主にあたる悪魔がしっかりしなければ、従者の信頼を無くしかねない。
 それは半分どうでもいいが、拙い繋がりが切れると双方が困る事情があるのだ。
「大体、そもそも……オレは誰?」
 記憶としては、今までの己のことはわかっている。
 しかし現在の自身の嗜好や特性を、これから把握しなければいけないだろう。

 これから仕事ということで、白衣を羽織った黒い医者は、ドアの前で振り返りながら溜め息をついた。
「夜までには、名前を見極めてやる。それまでは好きにしてろ」
「はあ。そりゃ、ありがたいこって」
 この神眼の医者に名前をもらうこと。それは現在の存在の、意味の見定めでもある。
 医者が診察室の方に出ていった後、もう一度長椅子にごろりと寝転び、悪魔は見慣れた天井をぼけっとした頭で見上げた。
「この今の『オレ』が……アイツの意思、だって……?」

 完全に新参者の悪魔は、会った事すらもない本来の体の主。
 容姿は最も近いと言われたが、たとえば服の着こなしなどは真逆に違う。
 いつも一番下に着る黒のハイネックを脱いでいたので、拾って着直し、首元まで閉めると暑苦しくなった。今までそれが当然だったのに、諦めてファスナーを下ろし、上に羽織ったシャツのボタンも全て外す。そうして全身の風通しを良くする。

「アホらし……ツバメが嫌がるなら、それまでだし」
 何となくだが、予感はあった。根拠は特になかったのだが……。
「らしくないっつー。何で気にしてんのさ、オレ」
 今までの「翼槞」なら、従者との契約が切れたところで何も感じないだろう。
 その契約は元々、従者になる相方への助けの手だった。だから基本的に、優位であるのは悪魔のはずなのだ。

 それでもモヤモヤとする謎の性質が今の自分だと、悪魔は最初に思い知ったのだった。

 山科燕雨(やましなつばめ)。性格は朴訥でも、見た目は無造作な金髪で、ロック系の軽装と小洒落た青年。
 何年経っても変わらない相方が、微妙に変わった翼の悪魔の姿に、初見で黒い目を丸くしていた。
「なに面白い顔してんのさ、ツバメ」
 滞在する診療所の外来室で、沢山あるドアの一つを開けて入ってきた相方に、新参者の悪魔は意識して軽く言った。

 昔から妙に勘の良い相方は、悪魔の変化を一目で感じ取っている。それがわかる悪魔にも別種の勘の良さがあるが、相方は悪魔と違い、五感――特に視覚を通すまでは、その勘がしっかり発揮されない。
 二人暮らしが決まった後から、結局「翼槞」に戻らないまま、相方と何度か連絡をとった。その通信時には気取られなかったが、こうして直接会うと、やはりわかってしまうものらしい。

 何がしかの変化はわかるが、内実は相方もわからないと見えた。黙ってきょとんとしている相手に、あえて不敵な笑みを悪魔は浮かべる。
「初めに言っておくけど、こっちの世界ではオレのこと、『汐音(しおん)』って呼ぶこと。おっけー?」
 汐音――悪魔自身、自分に何が起きたかわからないのだから、その話題に触れる気はない。
 口にした名は、外来室を区切るカーテンの向こうにいる医者が、数日前につけてくれたものだった。

「しおん……って?」
 僅かな荷物を片側で背負う相方が、精一杯の不審そうな表情を浮かべて、大きく細い首を傾げていた。

 「翼槞」以来、久々に得た新しい名前の由来は、悪魔も気になっていたのだが……。
「意味は自分で考えろ。前の名付け親ほど、俺は甘くない」
 翼槞の名自体は適切と褒めながらも、名付け直後にばっさりと言い切った、無表情な黒衣の医者だった。

 何らかの「力」ある存在に、名前という定義を与えることには、とても大きな「意味」がある。それがヒトであれモノであれ場所であれ、妥当でない名からは、その真価は発揮されない。
 だから名付けとは、誰にでもできることではないのだ。
「ふーんだ、ケチー。オレがそんなの、マジメに考えると思ってんの?」
「……たまには考えろ。ナギには俺から、改めて伝える」
 医者の伴侶――最近はさっぱり連絡をとっていない元上司は、今も悪魔を心配しているという。
 使い勝手の良い駒が、減っただけだろうと悪魔は思う。悪魔も元上司も、自らのために以外動かない、悪性の魔物であるのだから。

 それで言えば黒い医者も、「神」でありながら魔王のはしくれという、油断のならない存在だった。
「……おまえは今、自分で思う以上に、差し迫ってるぞ」
 煙草を挟む指で口元を隠し、苦いとしか言えない声色の神眼の医者。
 しかしそんな黒の目線は、新しい名前がわりと気に入った悪魔には、オマケの事柄でしかない。
 氷輪(ひわ)汐音。戸籍は得ていない名前だが、その響きは確かに、実体なき今の悪魔にはよく合っていた。


 翼の悪魔はそもそも、人造の吸血鬼だ。職業が悪魔、種族は吸血鬼とも言える。
 相方は悪魔の血を分けられ、半ば吸血鬼化した精霊もどきという、酷くわかり難い存在だ。吸血鬼である悪魔が純血種なら、相方はあまりに雑種過ぎる。

 そんな悪魔も相方も、この人間界の化生ではない。人間界という場所は基本的に、人間以外の存在を許容していない。
 人間界が初めての相方には、まずその辺りを説明しておかなければいけない。
「注意しなよ? ここでは妖怪も悪魔も精霊もいるけど、表立つのはどいつもタブー。人間側ですら、『力』を伝える家系は極秘で異端視されてるからねー」
「……」
「『力』も五分の一になるし、厄介なんだよね。時間も同じで、帰る時には下手したら、向こうでは数年たってるよ」
「…………」

 悪魔達の故郷と人間界を繋ぐ、多重世界に存在する診療所。その中継地点を出てから、相方はずっと真っ青な顔で隣を歩いている。
 今は何を言っても、おそらく上の空だ。住宅街を歩くだけでこの調子なら、市街に出たらどれだけ衝撃を受けるだろうか。

 ひしっと肩掛けの荷物を掴みながら、相方がやっと声を絞り出した。
「なんでこんな……沢山家が、ぎゅうぎゅうしてるんだ……」
 文明未開の故郷から出て、最初の疑問がそれかい。と思いつつ、住宅の密度より気配、人口の多さを言いたいのだと察する。
 元々多感な相方は、あまり人の多い所は苦手なのだ。

 諸注意はとりあえず後に回して、相方の質問から答えることにした。
「日本は土地が狭いのさ。この辺りはまだ、ハイソでゆったりした方なんだけど」
「ゆったりって……こんなに道が硬いのに?」
 そういうことじゃない。と笑いたい気持ちをこらえて、説明を続ける。
「これはアスファルト。大体どこでもこうなってるから、壊しちゃ駄目だよ」
「でもこのひどい匂い……こんな道のせいじゃないのか? これでもここは、まだましな場所だっていうのか?」
「空気はどこでも汚れてるよ。オマエにはきつい環境だろうけど、ま、すぐに慣れるよ」

 自然という系統の「力」である、精霊のようなもの。そんな相方には、まず自然環境の歪みだけでかなりのストレスのはずだ。
 それで言えばこの世界はあまりに、人間も人間以外のものも、手が加えられ過ぎている。

 長く人間界にいると、その便利さが当たり前になってくるが、本来世界は便利になどできていない。ただ生きるだけで闘いなのは何処も同じで、野生の動物を見ればよくわかるだろう。
 それをここまで、「力」なき人間が謳歌できる環境にした人間界は、大したものだと悪魔は思う。たとえそれが、遠からぬ破綻という代償を伴っていても。

 そうは言っても、相方はわけのわからない便利さよりも、安らぎを渇望するだろう。
 住む場所はせめて、自然が多めの郊外にしておこう、と悪魔は何となく心を決める。

 多大なカルチャーショック中の相方は、悪魔の変化への違和感など忘れ去っていた。人間界に慣れるまでは、その余分を考える暇もないだろう。
 駅前に出て、往来する車やスマホを持つ人通り、立ち並ぶビルや路上の巨大テレビは、相方には刺激が強過ぎたらしい。
「魔窟……だ……」

 悪魔達の故郷では、インターネットもマスメディアもない。一部の地域で、ガスや電気がやっと使われ始めたばかりだ。交通手段は自転車や馬車、船舶があれば都会である方なのだ。
 踏切を渡り、線路は電車が通ると教えても、全く理解した様子はない。
「あんなに長い所、でかい蛇でも通るのか?」
「のーのー。トロッコみたいなもんで、金属の箱が沢山繋がって動くの。車だって馬車を金属で作って、馬だけ外したようなもんだろ」
「馬がいないのにどうやって動くんだ。人間にそんな怪力があるのか?」
「あのね。別にあの四角い中で、人間が必死にペダルこいでるわけじゃないからね」
 どこに行っても、何を見ても、始終この調子だ。
 少し前に、相方の妹が先に人間界に来たので同じように案内したが、妹の方は人間界の勉強をしていた。それでもショックを受けていたので、相方はおそらく、今にも倒れそうな心境だろう。

 そもそも、人間界に不慣れな妹と、同じ高校に通ってほしいというのが相方の頼みだ。
 その生活費を稼いでもらう約束で呼んだが、なかなか前途は思いやられた。

 故郷で世話になる家を出た時、相方は多少の路銀の援助を受けたという。
 そうして持ってきた故郷の金貨を、換金してくれる質屋を見つけるまでは、何とか相方も気を張っていた。しかしその後はへたり込んでしまったので、診療所に一度戻ることにしたのだった。

 処置室のベッドを借りて、蒼白な顔で横になった相方が、ひどく申し訳なさそうに悪魔を見上げていた。
「ごめん、情けない……反省、する……」
「ばーか、想定内だよ。それより初期費用、持ってきてくれて有難いし」
 ひとまず一番急ぎの事項は、住む場所を確保することだ。
 いもしない親の同意書と、医者の男という保証人は用意してある。それで高校生に部屋を貸してくれる業者は、既に一応見つけてある。
「後はオレ一人で、十分手続きできるし。オマエはしばらく、休んでなよ」
 相方の妹の住む部屋を、「翼槞」は探す手伝いをした。そちらはきちんとした所だが、その時に契約手順を知った経験が役に立っていた。

 でも、と(うな)る相方にさっさと背を向け、悪魔は一人で再び町に出ていく。
 大昔は浮浪者だった相方は、住む部屋にこだわりなどないだろう。悪魔も似たり寄ったりだが、とりあえず今は、定住する部屋を借りてみるという状況そのものが楽しかった。
「……らしくないね、オレ」
 だから早く、住処を決めてしまいたい。診療所の処置室に泊まるよりも、その不思議な魅力が悪魔をせっつかせていた。

 悪魔の唯一の希望、トイレと浴室が分かれた物件を見つけるには、意外に時間がかかってしまった。
 交通の便が悪く、山沿いの郊外であるため安いワンルームに目星をつけた頃には、既に日が暮れかかっていた。
「――あ。そう、いえば……」
 朝から動き回っているせいで、すっかり眠気を覚える夕暮れだったが。先日の同じ頃合いから放置していた問題を、悪魔はようやく思い出した。
「あの教会、どうっすっかなー。高校の近くにあるしな、やな感じだよなー」
 借りる部屋からは離れているので、相方はそうそう出くわさないだろう。相方は人間にはおおむね無害で、そうあってもらう方が良い。
 この人間界では、悪魔も相方も「力」が弱められる。まともに部屋を借りたことにしても、今回は慎重にいこうと決めているのだ。

 ここではおそらく、自然界の恵みを、精霊もどきの相方はろくに受けられない。そうなると相方の主食は、常に分けている「力」――悪魔の血しかない。
 それを思うと、悪魔も今までのように、気ままな体調管理では心もとない。
「オレの方は、ご飯を食べないわけにはいかないよなー。下手したらいつか、目を付けられそう?」

 悪魔は元々、不摂生な吸血鬼で、いつも貧血状態だ。そのため体にも、人間の食事から活力を得られる消化力がない。
 つまり食事は、人間の血をもらうしかない。それではいつ、天使やエクソシストやらに討伐されるかわかったものではない。

 衣食住の問題とは、大変で、面白い。悪魔はふっと、意味もなく笑っていた。
 衣――高校の制服は、診療所がある大屋敷の息子の、お下がりを譲ってもらった。
 後の食と住は、悪魔も相方も、場所によって食の形式を変えなければいけない。
「ま、いっか。とにかく、行ってから考えよっと」
 吸血鬼である悪魔を、真っ先に討伐せんとする可能性のある、聖なる教会――そこにいた、あの尋常でない「力」を感じる人間の女性。
 自らを脅かす存在に、「翼槞」は迷わず殺意を覚えた。しかし今の悪魔は、好奇心の塊と言っても良かった。
「ツバメのいぬまに何とやら……ってね?」
 これはおそらく、右も左もわからない相方を巻き込まずに、早めに片付けるべき案件だろう。
 なるべく「力」を節約するために、徒歩で向かった教会につく頃には、すっかり夜になっていたのだった。


 人気が少なく、物寂しい道すがら、悪魔の脳裏をよぎったのは黒い医者の言葉だった。

――今のおまえは、本来に最も近く、そして真逆だ。

 近いようで、逆しまなもの。真っ先に思い付くのは、種族としての悪魔と天使だ。
 有力な悪魔のほとんどは、堕天使から成ったものだ。それなら今、この翼の悪魔はどうなるのだろう?
「悪魔の逆なら……まさか、天使?」

 んなアホな、と真っ先に自分自身でつっこむ。
 しかし意外に、それは洒落にならない感慨だったのを、この後に知ることになる。

 まずもって、露骨に変わってしまったのは、神の館の前で立ちすくむ己だった。
「え……なん、で……?」
 先日にはこんな、おかしな気持ちは芽生えなかった。
 「翼槞」はしょぼいとしか感じなかった小さな教会が、悪魔には何故か、とても暖かそうに見えた。
「何で……何か、ほっとするわけ……?」

 以前に来た夕暮れとは違い、教会の内には明かりが灯り、ドアもしっかりと閉められている。
 聖なる光に満たされた場所。これではとても、中を窺うこともできそうにない。夜の闇に包まれていても、悪魔の付け入る隙が見当たらないのだ。
「これは……お手上げ、かなあ……」
 わざわざここまで来ておいて、一目で引き返す気になるなど、本当に悪魔らしくなかった。
 人間界にしては何故か確立された聖域に、恐れをなした……というわけでもない。

 強いて言えば、その安定感が、どうしてなのか嬉しかった。
 だからわざわざ、波風を立てたくないという、おかしな気持ちが先立ってしまい……――

 最早二度と、そこに関わるまいと思った悪魔を、その人間は迂闊に引き止めていた。

「待って……――エンジェル」

 明かりのもれる教会のドアから、不意に静かに、謎の呼び声をかけてきた者。
 先日のあの女性が、立ち去ろうとする悪魔の後ろ姿を、細い眼鏡に小さく映していたのだった。

 悪魔に声をかけてきた、先日の教会の女性。動きやすい軽装にコートと、これから出かける風の女性が、そのまま困ったような顔で笑いかけてきた。
「ごめんなさい。貴方と話したいんだけど、友達の家に行かなきゃいけなくて……良かったら、一緒に来てもらえない?」
「……」
 細い眼鏡が似合う顔は、切れ長の目が鋭く整っている。
 それでも滲み出る人の好さと、紛れもない翼の悪魔をエンジェルと呼んだ不可解さで、悪魔は何も言えずにこくりと頷いてしまった。
「ありがとう。わたしは、音戯詩乃(おとぎしの)というの」
「…………」

 ゆるりと纏められているので、横顔を隠す長い茶髪を、その女性――詩乃がさらりとかき上げる。
 悪魔も名乗るか反射的に迷ったが、詩乃は特にそれを求めていないようだった。
「貴方とはきっと、もう一度会えると思ってた……エンジェル」
「――……」

 薄暗い住宅街を、場所もわからず、詩乃についていく。夜でも明るい駅前と違い、道端の街灯と家の灯りしかない暗い道は、どうしてこう、物寂しいのだろう。
 うっすらと北極星が見えているので、北向きに歩いていることだけはわかった。この世界での悪魔の地理感覚は、そのくらい大雑把だ。

 黙り続けているのも何なので、そろそろ悪魔も、自身の疑問の追及を始める。
「オレは別に……天使じゃないけど?」
 きょとんとした顔で、詩乃が立ち止まった。そうなの? と不思議そうに、悪魔を見つめてくる。
「でも貴方……じゃあ、その翼は?」
「――」
 尋常ならぬ気配を持つ、人間の女性。その眼に映る「翼の悪魔」は確かに、天上の聖火を宿す翼でさえも、身の内に隠し持っていた。

 詩乃の目色は、日本人によくある濃褐色だが、かすかに金彩の眼光を放っている。その威光から察するに、おそらく何か、神がかりの「力」を伝える家系のはずだ。
 あの医者よりは弱い、人間程度の神眼。それでも悪魔の翼は見切られるのか、と僅かに溜め息がこぼれた。
 そんな悪魔を不思議そうに、もう一度歩き出した詩乃が横目に見てくる。
「それじゃ、やっぱり、貴方はもう(そら)を捨てたエンジェルなのね」
「……」
「そんな気はしていたの。だって貴方……凄く、淋しそうなんだもの」

 吸血鬼である悪魔だが、その身に持つ「力」の一部は、堕天使に近くはあった。
 悪魔の脅威になり得る詩乃に、あまり警戒されないために、あえて否定はしないことにする。

 聖域である教会を出て、今の詩乃は隙だらけだ。何の「力」を持つかは知らないが、排除するならこの上ない好機だろう。
 しかしずっと、それを望む「翼槞」が出てこない。何かが結局、悪魔達をおし止めている。

 とっくに人格が破綻したはずの、「翼槞」が躊躇(ためら)う心当たりは、一つしか思いつかなかった。 
「……あのさ。あんたの天使って……誰のこと?」
 それはあの、たった一言。
 初対面のあの時から、翼の悪魔の中で、錆びついた歯車が狂い始めたのだ。

――貴方、わたしの天使を知っているの?

 あれから悪魔は、すぐに場から立ち去ったはずだ。
 けれどその時の記憶も、黄昏の(もや)がかかったように曖昧だった。

 ちょうど話がそこまで来た時、詩乃が小さな一軒家の前に立ち止まり、鞄から合鍵らしきものを取り出していた。
 黙っているので、話の続きはこの中でということだろう。意味もなく全身に力が入っていた悪魔は、何してんだろ、オレ。と、不意に我に返った。

 もう外来も終わる頃で、診療所に帰らないと、来たばかりの相方が心配しているだろう。そして健全に早い時間に寝る医者が、あまり遅くなると、居室に入れてくれなくなる。
 処置室にいくつかある硬い診察台と、居室の長椅子なら断然に、長椅子の方が寝心地がいい。相方は処置室で寝かせても、悪魔の方は是非、居室に入れてもらいたい。

 そんなこんなを考えながら、それでも何故か、知らない家に入る詩乃の後に黙って続く。
 表札には「真羽」と書かれていて、何と読むかわからなかった。けれどそれも、意味もなくチクリと胸を刺すような気がした。
「こっちよ……ごめんなさい、今は静かにしてあげてね?」
 勝手知ったる様子で、友人宅らしき家の居間に入った詩乃を、待っていたのは――
 先日、悪魔が教会に行った時に見た、あの黒髪の幼い少年だった。
「あらら、可哀想に……熱も出てて、心細かったでしょうに……」
 散らかった居間では、冷たい床の上で、小さな毛布をかぶった少年が寝付いている。
 顔は紅潮していて、隣の和室に敷かれた布団より、冷やりとした床の方が気持ち良かったのだろう。

「最近は特に、忙しいと言っていたけど……こんな時まで急な仕事なんて、陽子さんだって、辛いでしょうに」
 眠りこけた少年を抱えて、つながる和室に詩乃が入っていく。
 この少年をよく詩乃に預けて、母親は仕事に行くようだが、今日は教会に連れてくる余裕もなかったらしい。
 詩乃に抱きかかえられて、安心したのか、眠りながら少年がぐずりだした。
「ごめんねユウくん、眠いねぇ。ちゃんと水分はとってるのかな? 冷たいの貼るけど、取っちゃダメだよ?」
 まるで我が子を扱うように、慈愛の眼差しで詩乃はテキパキと、少年を介抱していく。

 和室の布団に改めて寝かせ、そちらの電気を消して障子を閉じると、ふうっと安堵したように、居間の柔らかいソファに座った。
「貴方もどうぞ、座って。陽子さんは大らかな人だから、大丈夫よ」
「……」
 悪魔はちらりと、障子の閉められた和室を見やる。
「アイツのこと……みてなくていいの?」
「今日はずっと、陽子さんが帰るまではここにいるわ。何かあれば、気配でわかるから」
 当たり前のようにさらりと、人間らしからぬ台詞を言う。悪魔にその意味が通じるとわかってのことだろう。
 どうもこの人間の女性には、危機感というものが全くない。悪魔をエンジェルと呼ぶ辺り、とても危うい勘違いをしている気がする。

「……教会の方は、ほっといていいの?」
「あそこは私の義父が牧師をしているの。義母にも陽子さんのことは話してるから、別にわたしがいなくても気にしないわ」
 その話からすると、詩乃が人間ならぬ「力」の持ち主だと、教会の者達は知らなさそうだった。
「あそこの結界は……あんたが張ったんだろ?」
 人間界ではそう多くない、きちんと聖域と化させられた神の館。もっと大規模な所ならわかるが、あんな住宅街の一角に、本格的な結界がある場所は相当珍しい。
 その術者が、気楽に結界から離れていても良いものか、と悪魔は先程尋ねたのだ。

 しかしそんな、命綱であるはずの結界も、詩乃にとっては大きな問題ではないようだった。
「今はわたし、主人が単身赴任で、娘も祖父母に取られてて……仕方ないとはわかってるけど、一人は淋しいから、お世話になってるだけなの」
「……」
「だからユウくんに、娘の姿を重ねちゃうの。ユウくんもしきりに教会に来たがって、陽子さんにちょっと、申し訳ないんだけど……」
 つまり詩乃は、実の母親以上に、あの少年を猫可愛がりしているらしい。
「早く大きくなって、わたしみたいに洗礼を受けたいなんて言うの、ユウくんたら」

 ソファと和室の間で立ちっぱなしの悪魔に、詩乃は黒髪の少年に向けるような柔らかい笑顔を浮かべた。
「あなたはひょっとして、ユウくんの守護天使だったの?」
「……え?」
「あなたとユウくん、何だか似てるから。別に、守護天使だから似るなんてこと、ないとは思うんだけど」
 詩乃には悪魔の姿は、少年と同じ黒髪で灰色の目――「翼槞」のままで見えているらしい。確かにそうでなければ、先日の学生と同一人物とはわからないだろう。「翼槞」もさぼったままではないことを、そこで悟る。

 悪魔の少し前の質問に、やっと答えるように、詩乃が小さな身の上話を始めた。
「わたしはね、自分の守護天使に見捨てられたの。本当ならもっと早く、わたしは死んでいたはずで……でも、貴方も感じてるみたいだけど、この『力』がわたしを地上に縛りつけたの」
 詩乃はまるで、その時に死にたかったというかのように、自棄的な語り方をする。その話は悪魔の質問と関係している、そう直感して、悪魔は黙って話の続きを待つ。
「人は普通、死んだら天使の導きで、主の御許に召されるんでしょう? わたしには、それは許されなくて……でも、あの、(あか)い瞳の天使が、わたしに大切な『死』をくれたのよ」

 ――紅い瞳の天使。
 その一言だけで、悪魔の全身に、ぞわりと戦慄が走っていた。

 とっくに瘢痕と化した、首の大きな傷が、ずきりと酷く痛んだ気がした。
 この傷ができた時に、人ならぬ人造の吸血鬼を、禍々(まがまが)しいものとは知らずに助けてくれた誰か。
 それこそが、知らずに魔性の紅い目をした、規格外の聖なる誰かで……――
「貴方の翼、彼女と似てるから……だから、貴方なら彼女のこと、知ってるかしらって。そう思ったのよ」
 詩乃が悪魔に、声をかけてきた理由。そんな拙い運命の糸が、悪魔を現在、体の奥底から震わせていた。

 流れゆく歳月の中で、気が付けばその紅の目色すら、思い出すことはなかった。
 それでも確かに今、悪魔は、声が出ないほど胸が締め付けられた。
 ここにいる悪魔が新参者の汐音でなければ、膝をついていたかもしれない。

 動揺を必死に抑える悪魔は、詩乃に咄嗟に、冷たく答えることしかできなかった。
「……知らないよ。そんな、紅い目なんて、天使のことは」
 それは半分、嘘ではない。新参者の「汐音」は、その天使に直接会ったことはない。

 たとえ悪魔が、この人間界にいる理由は、そのためだったとしても――
 もうその天使は存在しないと、どうしてわざわざ伝える必要があるだろうか。

 詩乃は不思議そうに、そうなの? と、眉をひそめて息をついていた。
「教会の結界も、彼女が残してくれたものなの。わたしはそれを、維持しているだけ」
 その話で悪魔はようやく、先程の自身が、教会に踏み込めなかった理由がわかった。

 悪魔のような人外生物から、世界の秩序を守るもので、大きな派閥の一つが天使だ。実体なき天使に本来性別はなく、高次元の存在である天使は、数多の世界にその勢力が及ぶ。
 この「力」なき人間界で、聖なる守護があんな世界の片隅に及ぶのは珍しい。あからさまな女の子の姿など、色々と規格外だった、紅い瞳の天使らしい仕事と言えた。

 詩乃はそこで、怪訝そうに首を傾げる。
「それじゃ貴方は、どうしてわたしに、ここまでついてきてくれたの?」
 悪魔が何故、詩乃の存在に興味を持ったか。「力」を有する珍しい人間に、殺意を持って、とはさすがに答えにくい。
「別に……単に、暇だったし」
 今の悪魔に大事なのは、しばらく住むこの町での安全だ。詩乃に悪魔への敵意が無いなら、それでいい。

 詩乃の「力」も、いったい何を考えているかも。紅い瞳の天使との事情も、今となってはどうでも良かった。
 この相手は、排除できない。それなら共存の方途を探さなければいけない。
 紅い瞳を探し求める本体の心は、あの天使が残した結界を維持できる者を、傷付けることを望まないだろう。
「帰る……オレ」
 尋常でない気配を感じるのは、詩乃だけではない。熱を出して寝込んでいる和室の少年も、あの幼さで既に何かの「力」を感じる。
 特に少年の方は、間近で気配を探って段々と、驚くべき事実がわかってきた。
 わかったというより、やっと自覚できたというのが正しいかもしれない。

――貴方、どうしてユウくんに似ているの?

 詩乃の言葉は、顔形の意味だけではなかった。確かに容姿も近いのだが、そもそも少年は幼過ぎて、悪魔と似ているとすぐにはわからないだろう。
 だから同質なのは、悪魔と少年の、その気配だった。
 本質的には、詩乃との出会いより、少年との遭遇の方が運命の悪戯だと言えた。

 それを感じているのか、いないのか。
 居間を出て行こうとした悪魔を、何処か哀しげに見つめる詩乃が、素早く引き止めていた。
「……待って。一つだけ、貴方のことを教えてほしいの」
 立ち上がった詩乃が、ちらりと一度和室を見てから、悪魔の後ろ姿を見つめる。
「貴方はどうして、この町に……人間の世界にいるの?」
 悪魔が人間でないことを、初めからわかっていた者に、それは当然の疑問だった。

 人間界に翼の悪魔がいる理由。その「力」を弱められ、人間程度を脅威に感じてまでも。
 今回は、相方の妹のことを頼まれたからだ。それほど悪魔は何度もここに来て、人間界に慣れているのだ。
「…………」
 けれどここで、本来の理由を話せば、先刻嘘をついたことが無駄になる。
 黙って立ち去ればいい。そう思いながら、口は勝手に、その思いを声にしていた。
「……隣の部屋の、アイツみたいな奴を探して。……それだけ、だよ」

 悪魔と同質の気配を感じる、幼い黒髪の少年。
 その存在だけで、翼の悪魔が人間界を訪れる理由が、強化されたのは確かだった。

 見つめる詩乃は、何も理解していないだろう。人間なりの神眼であっても、それは心を見透かす類ではない。
「やっぱり貴方……ユウくんと、何かあるのね?」
 探していたのは、あの少年ではない。しかし現に、出会ってしまった。
 今は翼の悪魔の事情はどうでもよく、相方とその妹が最優先であるのに。

 これ以上は深追いしない。己にそう言い聞かせ、詩乃を置いて玄関まで出た悪魔だったが。
「ただいまぁ! ごめんね詩乃ちゃん、開店だけ手伝って帰らせてもらった!」
 間が悪く、この家の主が、勢い良くドアを開けて飛び込んできた。
 主は当然、見知らぬ学生服の者がそこにいることに驚き、大きく目を見開いて――
「えっ……勝一(しょういち)!?」
 口にされた謎の名前に、またも悪魔は、足を止められることになったのだった。

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 人外生物である悪魔の棲む異世界と、人間界とは、いびつな鏡合わせと言えた。
 近くて遠い、逆しまな世界。「力」が(ことわり)である故郷と、「力」を否定する人間界。
 地獄と裏表であるのが故郷なら、天に近いのは人間界だ。しかし人間界は、「力」という核……全ての世界の軸に背を向けて近接しており、軸に迷い込み易いが「力」は底にしか流れず、天に近いわりには加護も薄い。

 以前にやっていた仕事柄、世界のそうした薀蓄を、悪魔は元上司から教えられた。
 他にも異世界はあるが、悪魔の故郷と繋がりがないため、天使や「神」など、高次存在でない限りは行けないのだそうだ。

 行き来できる中では最も遠いが、生活形態は似ている人間界。それを鏡合わせというのは、人間界と故郷には、不思議と一人ずつ、対のような存在……右手と左手のように、「違うけど同じ」者が現れることが多々あるからだという。
 立ち尽くす悪魔と同質の気配を持った、あの黒髪の少年のように。


「えっ……勝一!?」
 急いで帰ってきたらしい少年の母は、玄関先で立った学生服の悪魔に、謎の名前を叫んだのだが……その直後に、口元を両手で押さえて、悪魔の姿をまじまじと見直していた。
「あっ……ごめんなさい、全然、違うわよね。この間の教会の、学生さんよね……」
 出てきた詩乃が後ろに立って、少年の母は、悪魔が詩乃の連れとすぐに察したらしいが――
 その声は何故か、涙を堪えるように震えていた。

 きょとんとするしかない悪魔の後ろから、詩乃が間にすっと入った。
「お帰りなさい、陽子さん。ユウくんはまだちょっと熱があるけど、今は静かに眠ってるわ」
「そっか。本当にまた、急にごめんね、詩乃ちゃん」
「この子は洗礼の相談に来てたの。急だったから、一緒に連れてきちゃって……でも、勝一くんって、陽子さんの弟さんのこと?」
 動揺している少年の母――陽子に、詩乃が適当なことを言いながら、さりげなく状況を尋ねている。

 見知らぬ者の存在自体は、全く気にしていなさそうな陽子は、本当に大らかなのだろう。それでも動揺しているのが、詩乃から見ても珍しいことだと見えた。
 その理由はどうやら、悪魔が学生服を着て、玄関にいたのが大きいらしい。
「あはは、びっくりしちゃったわ。もう昔のことなのに、うちに高校生の男の子なんて……勝一がふてくされた顔で、お帰りってよく言ってくれたの、思い出しちゃった」
 陽子の声は、とてもからっとしている。しかし今日は、熱を出した息子への心配もあいまって、元々余裕がなかったのだろう。
 その話をし始めてすぐ、陽子の目から涙が零れていった。
「あの頃はいつも、うっとうしいって思ってたけど……親になったら今なら、勝一も辛かったんだって、わかってやれるのに……」
 泣き笑いをしながら、靴を脱いで家に上がる陽子を見て、その弟は死んだのだと悪魔には何となくわかった。

 涙ぐむ陽子の肩を、詩乃が後ろに回って支える。
「しっかりして、陽子さん。勝一くんのことは陽子さんのせいじゃないし、だから陽子さんも、ずっとここに住んでいるんでしょ?」
 女手一つで息子を育てている母が、親子で住むには珍しいだろう一軒家。
 弟も昔住んでいたということは、実家なのだろう。しかし両親が同居していないのは、何やらわけありの様子だった。
「…………」
 普段は気丈そうな陽子のことが、詩乃は心配になったのだろう。今日は泊まって良いか、と陽子に尋ねていた。
「ありがとう、詩乃ちゃん。本当にいつも、ありがとうね……」
 黒髪の少年の、熱自体は大したことがなさそうだが、親というのはそれくらいでも動揺して弱るらしい。人造の悪魔でも、この翼の悪魔だからこそ、その痛みはよく伝わってきた。

「それじゃ……オレは、これで」
 こんな母や、詩乃のような第二の親に恵まれている少年は、それだけで幸せだろう。
 むしろ大人達の方が危うげで、穴だらけだった。満たされない何かを抱えながら、互いに助け合っているように思えてならなかった。
「…………」

 悪魔の内で、「悪魔」としての触手が、久々に闇に紛れて伸ばされていく。
「これは……食事にありつける、かもね?」
 門を出て、振り返った普通の家は、何の気負いもなくそこに構えているのに――
 内に在る者達の心は、些細な引き金で足場をなくすように、今も揺れ動いていた。


 現在地がよくわからなかったので、主従の契約を結ぶ、相方の気配を探る。
 翼の悪魔が助けた相方は普段、半ば死んでいる状態なので、契約している悪魔でなければとても気配は探れない。
 帰る方向の目印にしようと思ったのに、何故か相方の気配は、おそらく診療所とは全く違う何処かをさまよっていた。
「……何やってんだ、アイツ」
 言いながら、悪魔を探して屋敷を出たのだろう、と見当をつける。
 休んでいろと言ったのに、そもそも悪魔を見つける当てもないのに、何処を探しているのだろうか。
「相っ変わらず、心配性だよなー」
 確かに今日は遅くなったが、そもそもこの翼の悪魔は、夜が本領である吸血鬼だ。慣れない人間界を一人で動く相方の方が、ずっと死にそうな気配だった。

 このまま放っておけば、何処かで不審尋問でもされかねないだろう。それでなくても日本人離れした金髪の相方は、戸籍も身分証明書もないので、警察に見つかると非常にまずい。
 道は気にせず、とにかく相方の気配を辿っていくと、この町を縦断する川原まで出た。
 水辺が好きな相方らしい。橋の影になる堤防の上に潜み、抱える膝の間に頭を埋めて、疲れ切ってへたりこんでいた。

「何遊んでんのさ、ツバメ」
 橋から降り立った悪魔に、げっそりと顔を上げた相方は、徹夜明けのような目つきで呟いたのだった。
「……お腹すいた、汐音」
 膝を抱えて座り込む相方の隣に、悪魔もあぐらをかいて座る。
 川辺という自然の傍にいれば、休んでいるだけでも、相方は少し回復するはずだ。今は別に、相方の主食――翼の悪魔の血をよこせというわけではなさそうだった。

「オレもお腹すいたよ、ホントー。これから食生活、どーしようねぇ?」
「……今まで汐音は、どうしてたんだ」
 怪訝そうな相方と違い、悪魔は根っからの吸血鬼だ。人血以外はほとんど何も、力にはならない。
 以前に相方と過ごしていた時は故郷にいて、また「翼槞」が体を使っていたので、人間を襲うことに躊躇はなかったのだが……。

「こっちは監視が厳しいからねぇ。オレのご飯は、稀に輸血の余りをもらうけど、後はせいぜい悪魔狩りくらいかな」
「……悪魔狩り?」
「そっ。悪魔の囁きに負けた人間から、こっそり血をもらってくわけ。これは今んとこ、誰にも怒られずにやれてるからさ」

 人間界という場所は、人間だけがいるように見えて、実は全くそんなことはない。
 悪魔のように、意識して人間に紛する人外生物もいれば、自身が人外と知らない人間も沢山いる。
 妖怪や鬼の血をひき、身体の一部が人外の者もいるが、それより多いのは精神的な逸脱――人間から成る悪魔という破綻者だった。
「あまりに悪魔が多過ぎて、全人類の罪を引き受けたっていう、凄いのがいるくらいなのにね。自分が悪魔って知ってる奴は、不思議とほとんどいないんだよね」
 それなら、と、相方が不思議そうに顔をしかめた。
「そんなに沢山、ご飯になる奴がいるなら、何で汐音は貧血なんだ?」

 ここ数日の悪魔は、「翼槞」から汐音に変わった余波なのか、不思議と妙に体調が良かった。
 しかしそろそろ、疲れが来ていた。元々持久力は皆無で、こんなに動き回ったのも久しぶりなのだ。
「悪魔そのものは、実際そんなに栄養がないからね。(しん)(けつ)に宿るって言って、心が汚染されれば、血液も汚れちゃうもんなのさ」
 相方も半分は吸血鬼のくせに、全くわからないという顔をしている。相方が血を欲しくなる相手は、翼の悪魔か、現在養子になっている家の娘だけのようだ。その基準はおそらく、好意の有無なのだろう。
 好きな相手ほど襲いたくなるのもどうかと思うが、それだけ選り好みが激しいわけだ。それなら悪魔の食の好みも、わかってほしいものだった。
「オレはなるべく、美味しい血が欲しいんだよ~。自分に取り込むもんなんだから、それはオマエもわかるだろ?」
「不味いのが嫌なのはわかるけど……悪魔の血は、不味いのか?」
「そういうコト。オレにとって、悪魔かそうでないかは、そこなんだからさ」

 だから翼の悪魔は、悪魔に堕ちかけた人間の血を主食としている。悪魔と言える相手というギリギリのラインだ。
 人間界は辺境のわりに、「力」がない場所の分、人外生物が目立ってしまう。人間を襲っても討伐されないためには、工夫が必要なのだ。
「悪魔は多いけど、なりかけの悪魔は逆に貴重でさー。オマエみたくご飯が確定してない分、自分で狩りに出かけなきゃなのさ」
「…………」

 暗い橋の下、相方は黒い横目でじっと悪魔を見つめてくる。悪魔が今、どの程度貧血なのかを見定めているのだろう。
 翼の悪魔の血が主食と言っても、負担が大きい時には相方は無理を言わない。五年以上離れていても平気なのだから、力の源は他にもあるのだ。
「……汐音、今、結構やばいな」
 それでも悪魔の血は、相方にはご馳走らしい。久々に味わうのはまだ無理なのだと、あからさまに残念そうな顔をしていた。

 相方のそうした、留守番中の犬のような目を見ていたせいだろうか。いつの間にか悪魔の、人家での動揺が大きく和らいでいた。
「オマエも大概だよねぇ。オレ以外にも美味しそうな奴、たまには探してみれば?」
「……」
 不服そうな相方に、ますます心が和む。
 何がそんなに気に入ったかは知らないが、この翼の悪魔の存在は、相方の狭い好みの内であるらしい。それはそんなに、簡単には揺らがないようだった。

 相方と出会った「翼槞」は当初、ギブ&テイクしか求めていなかった。必要なのは互いの「力」の共有――主従の契約そのもので、だから相方が離れていても平気だったのだ。
 けれど今の悪魔――汐音は、相方がここにいることを嬉しく感じている。
 それはおそらく、人間界のこの町だからこそ生まれた、新たな感情だった。

 そんな心は、これまでの悪魔――
 ヒトの手によって造られた、欠陥だらけの人外生物には有り得なかったからなのだろうか。
「……――っ」
 突然、胸の奥に、背中に突き抜けるほどの大きな痛みが走った。
 一瞬とはいえ、冷や汗が出るほどの鋭さで、黙り込んだ悪魔を隣で相方が不思議そうに見てくる。

 悪魔の体は、誰かの都合で製造されたせいか、色々とおかしな性質を持っていた。
 人間界では半陰陽などと言うらしいが、素材は男性でありながら、外見の造りは女性だ。また、目覚めた時から四つもの意識があったのも、作り物の体を動かすために与えられた、特別な「力」の影響らしい。
 そうでなければ、人造の人外生物などというものは、ツギハギな肉塊の域を超えない。たとえ動いたとしても、ただの人でしかなく、人外生物が人外たるのは、「力」がその内に在り、それに適合する意識(こころ)が肉体に在ればこそなのだ。

「……そっか。オマエの言う通り、疲れてるみたいだ、オレ」
 結構やばい。と、悪魔の状態を評した相方の見立ては正しかった。
 たとえ住む場所が隔たっていても、悪魔の血を受けた相方には、悪魔の「力」は常に分けて流されている。
 今日は人間界に来たばかりの相方が消耗したせいだろう。「力」がいつもより多く、相方に流れ込んでいる。
 故郷であれば、さほど気にする必要もない量だが、人間界で五分の一となった悪魔の「力」ではなかなかきついものがあった。

 相方に流す「力」をセーブすることもできるが、この人間界では相方も五分の一しか、世界に流れる「力」を受け取れない。そのために、悪魔から知らずに多くを求めているのだろう。
 人外生物の「力」とは基本的に、人間が酸素や食物を必要とするように、世界から与えられるものだ。悪魔と相方のように、ヒト同士でやり取りすることはそう多くはない。
「……帰ろっか、ツバメ」

 無難に生活していくために、働き手になってもらう相方を、早々へたばらせるわけにはいかない。
 そうなると、ここは自分が踏み堪えるしかない。「翼槞」なら考えそうにない結論を出した悪魔は、相方に気取られる前に立ち上がった。
 相方自身、初めての人間界で余裕がないので、悪魔の不調にはあまり気が回らないようだった。

 これはなるべく早い内に、食事を探さなければいけない。
 川辺から歩道に上がる階段に向かいながら、頭を悩ませていた悪魔だったが……その視界の隅に、ふっと、思わぬ人影を捉えることになった。
「…………あれ」

 悪魔と相方がさっきまでいた暗がりを作る、何の変哲もない低い橋。
 その上で一人、夜の川面を見つめている、何の変哲もない人間がいた。
「…………」

 あまりに普通の人間で、気配も拙いために、その女性が真上にいることに気が付かなかった。
 悪魔が後にする暗闇の川を、眠る子供を置いてまで来たらしい陽子が、物憂げに見つめていたのだった。

 あれからずっと、長い針で刺されるように、胸の奥底が鋭く痛み続けた。
 柔らかな長椅子に横たわる胸を、ぐさりと何度も、無意味に貫かれる。そんな奇妙な感覚は、もう長い間忘れていた、あの時と同じ痛みだった。
 詩乃という存在に呼び起こされた、翼の悪魔の最も深い弱み……。

――あの、紅い瞳の天使が、わたしに大切な『死』をくれたのよ。

 天使のような高次存在や、神がかりの「力」を持つ化生には、「死」のないものが多い。ただしそれは、不滅である「力」に満たされた間だけだ。
 「力」はただ一人の適性者を選ぶ。悪魔の相方のように、横から他者の「力」を使うこともできるが、詩乃もそれに近いのだろう。今は詩乃自身の内に、詩乃を不滅にする「力」はない。娘がいると言っていたから、おそらく娘に、その不滅の「力」はもう渡されたのだ。

――貴方の翼、彼女と似てるから。

 神の「力」を受ける翼を纏い、永い時を往くはずの天使。
 けれど翼の悪魔は、それが壊されるのを目の当たりにした。この胸の痛みは、その時初めて感じた何かに、思えばとても似通っていた。

 人造の体である吸血鬼の、欠陥だらけのヒトの心。
 仲間には色々と恵まれてきたが、誰の元にあっても、翼の悪魔にはそこへの執着が生まれなかった。
 たった一人、死にかけた吸血鬼を人間と勘違いして、助けてくれた天使を除いて。


 そもそも吸血鬼とは、純粋な生き物ではない。光を嫌うその存在は、半ば以上、既に「死」に侵されている。
 いつ灰になってもおかしくない体で、無理やり生を受けた昔の悪魔に託された望みは、ただ生き残ることで――

 誰かに都合良く造られた吸血鬼の本体は、その反動なのか、己の意思以外に縛られることを酷く嫌った。造り主が彼を操作するために埋め込んだ装置を、だから無理矢理、首を切断する勢いで取り外した。
 その時に本当は、死んでいたはずだったのだ。ところがあの早とちりの天使は、守護天使が迎えに来ていないのに死にかけている吸血鬼を、まだ死ぬべきではない人間と勘違いして助けたのだ。

 敵対存在と言える吸血鬼を、間違って生かしたバカな天使は、それからしばらく監視のために付き纏った。見た目が同年代だったこともあってか、その内に天使には更に情が移り、吸血鬼の「力」を狙う者との事変に、巻き込まれていってしまい……――


 そんな古い与太話を、うつらうつらと、悪魔は記憶を再生していく。
 悪魔が翼の悪魔と言えるために必要な、今までの記憶。
 しかしその大切な作業に、不意に、有り得ないと言える横槍が入った。

「そうだな……守護天使は普通、人間を守るためのものだしな?」

 ――!? と悪魔は顔を上げようとしたが、そもそもそこには顔がなかった。
 不可解な何者かの嘲笑うような声は、悪魔に確かに届いているのに、この場所には悪魔の形がまずなかったのだ。

 ただ、悪趣味だとしか言えない覗き行為を、謎の声は楽しげに告げる。
「天使に助けられた悪魔なんて、皮肉そのものだな。天使はそもそも、人間が悪魔化しないように、寿命を越えた霊魂を回収してるのに」

 悪魔の過去を覗くことができる特性を、ソレは持っているのだろう。
 「翼槞」なら容赦なく排除しただろう異物を、動くこともできない悪魔は、無抵抗に受け入れるしかない。

 そんな形のない悪魔を、ソレは哀れに思ったらしい。
 わざわざそこに現れた理由を、苦く笑う声色となって不意に言ってきた。

「アンタのその痛みは、同じ予感だよ。もう一度、大切なものを失うかもしれない……だから、注意すれば?」

 覗き行為自体は悪趣味だが、それは一応、忠告であるらしい。
 段々と気配を薄らがせて消えながら、声の主は、最後に重大な事を伝えていった。

「……こっちに来たら、存在が揺らぐよ。『力』が弱まる、山科ツバメは――」

 その内容は少々、聞き捨てならなかった。
 今度こそ悪魔は顔を上げて、声の主を呼び止めるために、ぱちっと重い両目を開けたのだが……。

「おい、おまえ。約束を破って昼まで寝てるかと思えば、人様の部屋に無断でカラスまで連れ込んでるのは、いったいどういう了見なんだ」
 そこにあったのは、痛く不機嫌そうな顔付きの黒い医者。
 それに加えて、横向きに寝ていた悪魔の前にいる、今にも顔をつつきそうな黒い鳥の姿だった。
「……って……ほ、え?」
「ほえ、じゃない。いくらその顔でも、出していい声と悪い声がある」
 悪魔には覚えのない黒い鳥は、黒い医者から逃げるように、ばさばさと部屋を出ていってしまった。
 久しぶりに昼まで惰眠を貪ること自体は、とても気持ちが良かったので、痛く残念だった。おかげでさっぱり、夢の内容など忘れてしまった悪魔だった。

 目が覚めてもまだ胸が痛かったので、昼休み中の医者を捕まえて、体を診てもらうことにした。
 今外来で処置をしているはずの、医者の助手も往診に出かける前なので、暇らしい医者はあっさりと承諾してくれた。
「とりあえずは服を脱げ。翼を全部出せ。話はそれからだ」
「ちょっと待ってよ。別に脱ぐけど、ていうか脱がなくても羽は出せるのに、何で脱がなきゃいけないのさ?」
 診察で服を脱ぐのはわかる。しかし、悪魔の身の内に秘める「力」を出せなどと、唐突に言う医者に眉をひそめる。
 医者はいつもの無表情のまま、煙草を取り出して静かに火をつけた。
「おまえのその反応が見たかっただけだ。俺の趣味だとでも言わせたいのか、おまえは」
「ちょっと待ってよ。それ、服と羽と、どっちのこと言ってる?」

 ひとまず、からかわれているのはよくわかった。「翼槞」なら動じないようなことで、悪魔が引っかかるのが面白いのだろう。
 結局服は脱がずに、ファスナーの開いた部分から、簡単に聴診器を当てられただけだった。
「それじゃ、翼を出せ。十中八九、そいつらが不協和音を起こしてる」
「初めからそう言ってよ……にしたって、何でまた今更……」
 医者は翼、悪魔は羽と言うように、現在悪魔の内には大きく二種類の「力」を封じている。
 そんな様々な「力」を身に持てるのも、「力」に応じた四つの意識があった、「都合良く造られた」悪魔の特殊性だ。

 左の白い翼は、光る透明の羽根の集まり。右の(くろ)い翼は、コウモリのような羽が四つ連なったものを、医者の言う通り、背部に具現させる。
 どちらもあまりに「力」が大きいので、それぞれ透明の珠と双角錐の黒い石を核にして、悪魔の体から僅かに分離させている。その核の石こそ、翼に「力」を流す源でもあった。
「……『黄輝(おうき)』が動き始めてるな。今までうんともすんとも言わなかったのに、これは何の悪夢なんだ」
「え、まじで? オレも結局、封印するくらいしかなかったのに」

 左の光る翼を「黄輝」、右の羽を「黒魔(こくま)」と医者は呼び分けている。コウモリ状の「黒魔」が吸血鬼としての羽で、光る方の翼は、悪魔が相方と契約して得た媒介――
 相方が持っていたが、危険でもあったものを、悪魔が半分預かった翼だった。
「おまえ――『汐音』なら、『黄輝』もいくらか使えるはずだ。翼槞がおまえに体を使わせるのは、そこら辺りが主因なんだろう」
「そうなの? ホントは翼槞の仕事だろ、それ」
「封印の『錠』だけで手一杯ってことだ。おまえは『黒魔』よりの人格だが、どちらの影響も受ける存在だからな」
 神眼の医者はよく、「黄輝」を太陽に、「黒魔」を月に(たと)える。その太陽と月の双方に引きずられ、波打っている存在……だから「汐音」なのだろう、と何となく察する。
 悪魔自身は、使ってみないとわからない「力」なので、医者の言う通りに使い道を考えようと思い始めていた。

 「力」とは全て、「神」の神秘に他ならない。「神」とは全ての世界の軸と言われ、最も高次な存在であるらしい。世界はそもそも、「神」――神が定めた理なくしては成立しないというのが大前提になる。
 医者も「神」のはしくれだが、本来の神の指先にも満たない程度だという。神の細胞の一つと言っていいそうで、強力な人外生物の多くは、そうして「神」を名乗るほどの「力」を持っているのだ。
「多少使えはするだろうが、『黄輝』に呑まれるなよ。フリーなおまえの最も望まない、『神』の制約に縛られることになる」
「何さ、それ。悪魔の次は神ってこと、オレ」
「…………」

 そこで医者は、何故か神妙に、悪魔をしみじみと見つめて言ったのだった。
「……この年になっても、時々わからなくなる。入れ物と中身、本当に大事なのは、いったいどっちなんだろうな」
「――は?」
「おまえみたく、中身に合わせて入れ物を変えるような奴が、稀に存在するからだ。おまえの相方は、よその入れ物の中身を勝手に使う奴だが、おまえは何でも新たな中身を受け入れ過ぎる」

 分かり難い喩えだが、医者は要するに、「力」を中身と言っているらしい。入れ物は多分、その「力」を扱う意識のことでも指しているのだろう。
 悪魔の四つの意識の内で、本体以外の三つはそれぞれ、「吸血鬼」、「黄輝」、「黒魔」の担当だったのだから。

「よくわかんないけど……フツーは、そうじゃないの?」
「たわけが。中身も入れ物も、そうそう変わってたまるものか」
 医者曰く、中身は入れ物を選んで現れる。それも全てがきっちり収まることは珍しく、入れ物――その人外生物に合わせて、中身たる「力」は制限されるらしい。
「それで言うなら、入れ物に合わせて中身は形を変える。人間界という箱の中では、なるべく大人しく暮らさなければいけない、化け物のおまえ達のようにな」
 「力」と人外生物の喩えが、何故か突然場所の事に変わってしまった。しかし逆に、わかりやすくなったとも言えた。

「まあつまり、本来優先されるべきは、入れ物だということだ」
「ふーん、そーなんだ。大事そうなのは、入れ物より中身っぽいのにね」
「その通りなんだがな。おまえがおまえである理由は、入れ物より中身なのに……入れ物を変えてまで、中身を増やすおまえは何者なんだ?」
 それでは既に、元と同じ中身とすらも言えないかもしれない。
 悪魔の本体の出現を待つ医者の懸念は、そこにあるようだった。
「……そんなの、オレがききたいし」

 悪魔も好きで、こうなったわけではない。
 悪魔の故郷と鏡合わせの人間界で、悪魔と対になる者が存在する可能性は知っていた。そして現に、先日に出会った。
 それが「汐音」の出現にどう影響したかはわからない。しかし、関係がないというのは無理があるだろう。

 考えても無駄なことより、悪魔の意識はやがて、目前の事柄に移っていった。
「そう言えば……ツバメの奴は、何してんの?」
 せっかく人間界に来た相方を、寝こけて放置してしまった。
 相方は一度やる事が決まると、妙に勤勉になるところがあるので、一人でも必死に新生活のために動いているのだろう。
「アイツは菜奈ちゃんと、屋敷の不用品あさりに行った。おまえはさっさと、それを持ち込む住所を決めてこい」
「へー、そっか。布団とか色々くれるって言ってたもんね、菜奈ちゃん」
 悪魔もそうだが、相方もこの診療所の受付嬢と、以前から仲が良い。人の好い受付嬢は、悪魔達の新生活を心から応援してくれていた。

 眠り過ぎてしまった程度に、体調は良くないが、悪魔もまたやる気が出てきた。
 今日は色々と、昼間の内にしておいた方が良さそうな事もあった。
「ツバメはまだ当分、帰ってこないの?」
「だろうな。あまりに真っ青なままだから、菜奈ちゃんがついでに花見に連れ出すそうだ」
「えー、ずるいー。オレもそっち行きたいー」
 花見と聞いて、あっさり気が変わった悪魔に、医者は呆れたような顔をしてから背中を向けた。
「おまえはまず、さっさと食事を見つけてこい」
 悪魔の当初の予定を見透かすような、渋い台詞を捨てていく。
 相方達の花見場所も、この屋敷の一角の桜だろうとわかっていた。悪魔も何度か見に行ったことがあるので、今回は渋々と診療所を後にする。

「そっか。もう桜の時期、か」
 歩き始めると確かに、そこかしこから春が匂う、手入れされた庭園の多い高級住宅街だった。

 目的の場所に向かって、丘陵地から降りていく道すがら、先刻の医師の話に少し納得がいった。
「入れ物と中身……確かにここじゃ、入れ物の方が大事そうだね」
 この土地が高級――価値が高い入れ物なのは、金持ちが中にいるからではない。この地域が上流とされているから、金持ちが住みにくるのだ。
 当然、ここに住む者の全てが金持ちではない。しかしそんな中身は、傍からはどうでもいい事だろう。
「ヒヨコが先か、卵が先かって話だろ、結局」

 生まれた場所や現在地で、ヒトの在り方は決まり、変わっていく。
 無難を求め始めた悪魔は、きっと、人間界に何度も訪れ過ぎたのだろう。
「オレ一人なら、別に……どうにでもなる話だけど……」

 これまでずっと悪魔は、吸血鬼らしく、闇に潜むように静かに生きてきた。持てる「力」も戦闘力も出来が良いので、いい運動になる荒事は好きだが、自ら起こそうと思ったことはない。
 「力」が制限される人間界にあれば、尚更の話だ。悪魔単体の生活に限れば、生き残るためだけに生きてきたと言って差し支えない。
「一人なら、別に……やりたいことなんて、なかったのにね……」

 根本的な仕事はこなしながら、ふらふらと人間界や故郷を行き来していた悪魔は、珍しい相方のたっての頼みで、当面の定住を人間界に決めた。
 それならこの「汐音」は、人間界という入れ物の影響によって、増やされた中身かもしれなかった。

 そのまま悪魔は、引き続き生き残るために、約束の地へと向かっていく。
 その場所にいるだけで聖なる恩恵を受けられるはずの、神の館へと。

 詩乃のいる教会に向かう途中で、何とも都合の良いことに、悪魔はその女性に出会ってしまった。
「あれ。詩乃ちゃんところの教会の、学生さんじゃない?」
「……――」
 大きな買い物鞄を肩に、河川敷で休んでいた女性。その姿を見るや否や、悪魔の足はぴたっと止まった。勝手に道を逸れて、日中の太陽を避ける高架下に向かっていく。

 わざわざ一般道から降りてきた悪魔に、何処にでもいそうなクセ毛の茶髪の女性が、明るく笑いかけてきた。
「こんにちは。昨日はごめんね、急に変なこと言って」
 昨夜に詩乃と邪魔した家の、主である陽子は子供も連れておらず、あの後と同じように一人で川面を眺めていたのだった。
「そう言えば、名前さえ聞いてなかったよね。君は詩乃ちゃんの、後輩か何か?」
 詩乃も陽子も、二十代前半と、子供を持つ身にしては若い。大きな「力」を感じる詩乃には警戒が先立ったが、陽子に対しては、何だか不思議な距離感があった。
「……違うよ。オレはちょっと、詩乃サンに、神様のことを教えてもらおうと思っただけ」
「あら、そうなの? うちの夕烏もね、神様のこと教えてー! ってうるさいのよ、最近」
 朗らかに笑う女性は、言ってみれば、悪魔と鏡写しの存在の実の母……悪魔にしてみれば、自らの母に近いと言えるかもしれない。
 そんな相手に、悪魔が目論(もくろ)むことを実行していいかは躊躇(ためら)われたが、この機会を活かさない手はなかった。

「詩乃ちゃんは君のこと、天から落ちてきた天使みたいだって言ってたよ? それっていいのか悪いのか、私にはわからないんだけどねー」
 そう言えば悪魔について、天を捨てた天使だと詩乃は観立てをしていた。
 それはとても言い得ていながら、大きく外れた答だった。
「オレは別に、天使じゃないし……天だって、捨ててないし」
 故郷での悪魔の仕事は、「死神」――天国の番人と言って差し支えない。どこにいてもその仕事は続いており、そちらの異常を感じれば、今すぐにでも帰らなければいけないだろう。

 堤防に座る陽子は日向にいるが、橋の下にいる悪魔の足下から、陽子に向かって徐々に影が伸びていることには気が付いていない。
 このまま話を続けて、注意を引いておいた方がいい。そう思った悪魔は、聞かれてもいないことを、不思議と気軽に陽子に話し始めていた。
「オレはずっと、天使を探してここにいるんだよ。おねーさんの子供みたいな、可愛い天使をさ」
「え? 何それー? うちの夕烏はそりゃ、完璧天使だけど!」
 冗談めかして笑って話した悪魔に、人見知りのなさそうな陽子がすぐに打ち解けてくる。
 今日もおそらく夜の仕事で、日中は保育園に子供を預けているのだろう。一人で川を見つめていた時の顔は疲労で冴えなかったが、悪魔と話し始めてからは、本来の陽気さが出てきたようだった。

 そんな陽子は、翼の悪魔が人間を相手に、初めて内情を話したことなど気付いてはいないだろう。
 悪魔が人間界に来るのは、ただ、探していたからだった。
 悪魔の故郷に、かつて存在していたヒト……あの紅い瞳の天使と鏡写しの「同じ者」が、この鏡合わせの人間界ならいるかもしれない。それだけが、悪魔がこの世界を訪れる理由だった。
 それがどれだけ途方もなくて、成算のない探し人であっても。

「見つけたかったのは……自分(オレ)じゃないんだけどさ……」
 おそらく悪魔と同質の気配を持つ、まだ幼い黒髪の少年。最後は小さく呟いた悪魔を、座っている陽子が不思議そうに見上げてきた。

 日中で明るいわりには、陽子が座っている場が、陽子を中心として木陰のようにわずかに暗くなった。
 自らの「力」で作るその不自然な暗がりを、悪魔は「錠」と呼ぶ。この影の内にいれば、今はもう悪魔の事も陽子の姿も、周囲には見えていないはずだった。

 改めて悪魔は微笑みを作ると、悪魔がこの地で手がける唯一の「仕事」を、やんわりと始める事にした。
「おねーさんの子供が、神様の子供になったら、おねーさんは困るんじゃないの?」
 この「仕事」をするには、相手の心の隙をつかなくてはいけない。悪魔はいつも直感的に、天性だけでそれをしていた。
 気の向くままに尋ねた悪魔に、陽子が苦笑いながら答えた。
「あははー、そうなのよ。うち、確か真言宗なのに、夕烏がクリスチャンになるなんて言ったら親が吹っ飛ぶわねー」

 陽子自身は全く、宗教に拘ってはいないようだが、そんな返答をした心の落とし穴を悪魔は見逃さなかった。
「来年は弟の七回忌だし……私も当分、お寺さんと面倒なのはごめんかなぁ?」
 きっと陽子も、この川辺にいなければ、そんな内心をこぼさなかっただろう。けれどまず、ここにいたこと自体、悪魔の存在が昨夜に陽子を揺さぶった結果なのだ。

 だから悪魔は、至極あっさりと――
 あっけらかんとした陽子に影を落とし続ける、その家の長い闇を、感じたままに口にしたのだった。
「そうだよね。自殺じゃないのに、大変だよね」
「……え?」
「弟さん。死んだ人のこと、残った人に説教されても、どうしろっていうんだろうね」
「……――」

 するりと、悪魔が陽子の心に入り込む扉が開く。
 陽子がこの川を見つめていたのは、来年七回忌という弟がそこで亡くなったからだ。それを何となく、悪魔は気が付いていた。
 弟も昔は暮らしていたという一軒家での、二人だけの母子家庭。元々親が建てただろう家に同居していない両親が、何故出ていったのか。そこには何か、世間体の良くない出来事があったはずなのだ。

 陽子のように、若いのに一人で子供を育てているような女性は、本来そんなに心は脆くない。
 けれど今は、着実に、弱音という悪魔が忍び寄りつつあった。
 それはおそらく、罪の無い息子の、些細な変化に起因するものだった。

「詩乃サンにこれ以上、頼っちゃいけないって。そんなに子供さんのこと、心配かなぁ?」
「き……み……?」
「子供を神様に縋らせてしまうより、悪魔のささやきを望むのかな。おねーさんはわりと強い人なのに、今は何をそんなに、迷っているの?」
「……――」

 悪魔が何か言葉を発する度に、どんどんと陽子の心が揺れ動いていく。これは元々、悪魔に出会わずとも、陽子が秘めていたはずの心の闇だ。
 詩乃に何度も子供を預け、時には自宅に呼んでまで、子供の世話を頼んでしまう事。それに陽子が迷いを抱えているのを、陽子に出会ってすぐに悪魔は感じ取った。こうした直感の存在こそ、この体に宿る者が、悪魔たり得る理由なのかもしれない。

 誰かの助けを借りなければ、母子二人の生活はなかなか成り立っていかない。
 助けてもらう相手が、詩乃でいいのか。詩乃自身、今はそばにいないが、夫と娘がいる身の上だ。その淋しさにあまり甘えると、詩乃は陽子の子供から離れがたくなるだろう。詩乃の危うさも、子供の無理のない思慕も陽子は感じ取り、できれば違う形をとりたいと願っている。
 人は脆くて、思いもかけない時に、あっさりと壊れてしまうもの。おそらく弟の死から陽子には、そうした怖れの心が無意識にあった。

「誰か父親になる人が、いてくれればって……好きでもない男を、子供のためだけにたぶらかそうなんてさ。そんな悪魔の発想、きっとおねーさんらしくないよ?」

 悪魔の真下から伸びる暗影に、完全に掴まれた陽子は、石像になったように黙り込んでしまった。最近特に忙しいのは、現在懇意の客を落そうといった魂胆もあったらしい。
 そのまま悪魔は、陽子の前に両膝をつく。
 視線だけはずっとまっすぐ、悪魔に合わせている陽子の目には、じわりと大きな涙が溢れていた。

「……頑張り過ぎだよ。……母さん」

 支えるように両肩を抱き、耳元でそっと静かにささやく。
 陽子はそれに笑って頷くように、意識を失っていたのだった。

 翼の悪魔の影に包まれて、血の気のひいた顔で陽子が倒れた。それを受け止めた悪魔に、不意に背後から、とても不審げな声がかけられていた。
「……何、それ? ……汐音」
 膝立ち状態で陽子を抱えている悪魔の後ろ、橋の下の暗がりに、いつの間にかその相方が来ていたようだった。
「そいつに何したんだ? 殺したわけじゃ、ないんだろ?」

 本来この場――悪魔の影が閉ざす領域には、誰にも入り込まれることはない。
 悪魔が唯一、その「錠」を開く「鍵」として認めた者、この金髪の相方だけが例外なのだ。

 そう言えば相方に、翼の悪魔の人間界での「仕事」を見せたことはなかった。訝しそうにする相方の前で、陽子をコンクリートの上に寝かせてから振り返り、悪魔はあえて爽やかな顔で笑った。
「これは『悪魔狩り』だよ、ツバメ。オレの唯一のご飯とも言うけど」

 何事もないように言うと、勘の良い相方はなるほど、とすぐに察する顔を見せた。
 眠っている人間――陽子が何であるかは、おそらく全くわかっていない。けれど、悪魔に血を奪われたことと、それが致命的な量でないことは気取っている。
 それに加えて、悪魔が陽子を食事に選んだ理由も、偶然ではないものとわかってくれたようだった。

 それならこのまま、相方に事後処理を頼むことも可能だった。
「そいつ、ここに一人で放っといたら、まずくないのか?」
「当然まずいね。悪いけどツバメ、目を覚ますまで、ちょっとそばにいてやってよ」
 命に別状はないとはいえ、意識のない人間、それも女性を放置したら、色々と問題があるだろう。家に運ぶこともできるが、悪魔にはそれよりも先に行きたい所があった。
「あんまり起きなかったら、夕方になったら起こしてやって。『錠』はずっと下ろしとくから、ツバメは誰にも見られないように、オレが帰るまではここにいること」
「別にいいけど……汐音はこれから、何処に行くんだ?」
 屋敷での不用品あさりと花見が終わり、相方は悪魔を手伝おうと探しに来たのだろう。
 しかし手伝いというなら、これだけで十分だった。本来向かっていた教会のことは、むしろ相方を巻き込まない方が良く、悪魔は不可解そうな相方に笑いかけるだけで、その場を後にしたのだった。


 太陽の見守る大っぴらな川辺で、陽子にこの数刻で起こったこと。それを詩乃が知れば、翼の悪魔は間違いなく危険視されるだろう。
 陽子には記憶は、何も残っていないはずだ。心の隙をつくようにするのは、いつもその操作のためが大きい。
「うーん、気を付けなきゃなー。詩乃サンはともかく、『オレ』の方になー」
 悪魔が食事をする際、同じ場にいなければ、詩乃をごまかすことはできそうだった。詩乃の目にはおそらく、遠見の系統の機能はない。
 厄介なのはあの黒髪の少年だ。青い顔の母親が迎えに来たら、何かあった事には気が付くだろう。おそらくまだ、上手く言葉にできる年代でないのだけが幸いだ。

 陽子の血はなかなか美味しかったので、今後是非得意先になってほしいが、黒髪の少年にはなるべく出くわしたくない。これは何処か、本能的な恐れだった。
 だから今も、夕方にあの少年が預けられる前に、悪魔は詩乃の元へと向かっている。

 人間界で無難に生きていくために、詩乃と再び会おうと悪魔は思った。それには様々な意味があった。
「排除するわけにはいかないなら……できれば契約、したいところ」
 紅い瞳の天使が残したあの教会の結界を、悪魔はこの先も詩乃に維持してほしい。それは「翼槞」も同意見で、とどのつまり、悪魔は音戯詩乃という人間を守る必要があった。
「他の悪魔に渡すわけにはいかないね。……案外あっさり、堕ちちゃいそうだしね、詩乃サン」

 まだ二回会っただけだが、悪魔にはもう確信があった。
 詩乃は陽子が何処かで怖れる通り、ずっと脆い人間に感じられた。一人で教会――義父母の元に身を寄せているのは、自らをあえて縛るためだろう。

――一人は淋しいから、お世話になってるだけなの。

 今はただ、陽子の息子を度々預かる事で、気を紛らわせることができているだけだ。
 この先陽子が本気で、父親役の誰かを見つければ、詩乃が心を向ける先が無くなる。夫や娘が帰ってくるのは、そう近い話ではない孤独感が、憂い気な詩乃の根底にずっとあった。

 翼の悪魔を淋しそうだと言い、危険と知りつつ関わろうとした詩乃の目色こそ、絶えない淋しさを訴え続けていた。
 人気の少ない住宅街にある、ひっそりとした教会に近付くほどに、その気配は強まるばかりだった。

――わたしを憐れんで下さい。
――わたしを憐れんで下さい。

 詩乃の祈りは、まるで低吟する歌声のように、気が付けば悪魔の奥深くに届いてくる。
 柔らかな鈴の音と共に紡がれる音が、確実に目的を持った「力」として、無遠慮に四方に放たれている。

――わたしを憐れんで下さい。
――わたしを神化して下さい。

 おそらくは、悪魔に届くようにと、当てもなく唄い続けている詩乃。他の誰にも届かないだろう儚い声色は、確実に翼の悪魔を求めて待っている。
 最早、悪魔が向かおうと思ったのか、最初から詩乃に呼ばれていたのか、それもわからないくらいだった。

――わたしが変われば、世界は変わります。
――わたしが変われば、世界は変わります。

 まるで呪いのように、同じ祈りを繰り返す心。
 赤い煉瓦の花壇の前で、花に水をやる詩乃の元に悪魔が辿り着くまで、その哀歌は唱えられ続けていく……。

 自ら悪魔を呼んでいた詩乃は、出会って間もない翼の悪魔を、あっさりと自室に上がらせる無防備さだった。
「来てくれてありがとう、エンジェル。貴方になら、わたしの(うた)が届くと信じていたわ」
 見た目はわりと凛としたタイプであるのに、詩乃の気配は台詞の通りで、悪魔の来訪をとても喜んでいる。
 今まで他の悪魔に騙されなかったのが不思議なくらい、はっきり言えばユルユルだった。この「力」と真面目そうな眼鏡で、何とか軽い連中を遠ざけていたのだろう。

 なので「翼槞」はつい、呆れながら尋ねずにいられなかった。
「あのさ。オレ、危ない奴だって、あんたは初めからわかってるよね?」
「ええ、勿論よ。一番最初なんて、殺されるんじゃないかって思ったくらい」
 わかってるんじゃないか。あからさまに顔をしかめる悪魔に、詩乃が柔らかく笑う。自室にいるせいか、その笑顔はなおさら緩められたものだった。
「でも、わたしと貴方が出会ったことそのものが、神の導きだと思っているの。ユウくんはきっと、ここに来させ続けること、陽子さんが気にしているから……そんな時に、ユウくんと同じ気配を持つ貴方が現れるなんて、もしも悪魔の誘惑でも、運命としか思えないもの」

 それが運命的であるなら、「翼槞」の正体が何であれ、詩乃はかまわないらしい。
 危害が他に及ぶのはまずいが、自身のことは心配していない。その気楽さが余裕のなせる業か、捨て鉢なのかはわからなかった。

 すっかり意思が逆転してしまったが、詩乃がそんな危うさでは心許ない。この教会の結界をしっかり維持してもらうために、先程から表立った「翼槞」は直球に、その目的を口にしていた。
「……オレと契約する気、ある? あんた」
「――? 貴方と、契約?」
 黒髪の高校生に見えているはずの「翼槞」をベッドに座らせ、床に座る詩乃が、ぽかんとした顔で見上げてくる。
 こうして呼び付けたからには、詩乃にも何か目的があるのかと思ったが、純粋にただ、会いたかっただけらしい。火遊びをする子供か、と思わず突っ込みたくなった。

「早い話、オレは悪魔だよ。でも、悪魔を殺す悪魔だから、あんたの役には立てると思うよ」
「……――」
「あんたに近付く悪魔の誘惑を、オレが絶つ手伝いをする。オレにも相方がいるから、度々は無理だけど……詩乃サンが望む限り、なるべく会いにくる。その代わりに、詩乃サンにもしてもらいたいことがある。……それで、どうかな」

 途中から意識して笑顔を作り、名前で呼ぶようにすると、みるみる詩乃の顔が赤くなった。
 娘のいる人妻のわりに、その反応は初々し過ぎるが、「翼槞」は情にほだされる方ではない。冷静に詩乃を見つめていると、詩乃の方が目を逸らして俯いてしまった。
「……貴方の言う通り、わたしは弱くって。よく、陽子さんが羨ましくなるの」
 詩乃ははっきり口にしないが、それは陽子が独り身で、親になっても奔放に異性関係を持っていることをさすようだった。
「別に、温もりがほしいわけじゃないの。ただ、誰かに頼りたくて……わたしが本当はどんな人間で、どんな世界を視て生きているか、いつでも話せる相手がほしいの」

 人間にはない自身の「力」。その家系の呪いを、詩乃は夫にも話していないと見えた。人間世界で自身が異端と示すことは、それだけリスクが大きいのだろう。
 それでも誰か、真に心許せる者を見つけたい。若くして身を固めるまでは、次から次に男を探し、わりと軽薄に生きた過去もあるようだった。
「よくわからないけど……そういう事を話すために、神はいるんじゃないの?」
「わたしもそう思っているわ。でも、悪魔の誘惑に負けそうになるの」
「それじゃあ……神様って、いったい何なのさ?」
 詩乃はかなり、信仰の厚い方に思えた。
 それでも出自は神道の家系らしく、だから今は、娘と関われないのだろう。娘を奪われて抵抗できないのは、娘におそらく、実家で受けさせるべき修行がある――「力」を使いこなす過程が必要だからだ。

 どちらも「神」の家だろうに、厳然と存在する何かの違い。
 そしてどちらも、今の詩乃を救ってはくれないのだ。夫と娘のいない生活を、詩乃が耐え難く思っているのは確かだった。

「主は、ただ、『在る』ものなの。その御心を受け止められないのは、わたしの責任なの」

 両手を祈る形に握り締める詩乃は、「翼槞」との契約に全面賛成らしい。悪魔だと名乗っているのに、あまりに籠絡が早い。
 それでもそれは、顔を上げた詩乃にとって、ぎりぎりのラインであるようだった。
「悪魔の力を借りて、悪魔の誘惑を絶つなんて、情けないけど……わたしは貴方に、何をすればいいの?」
 震えながらも力強い声には、このまま淋しい世界を生き抜いていくための、詩乃なりの決意がこもっている。
 契約を交わしても、詩乃が悪魔に堕ちることはないだろう。そうなると残念ながら血はもらえないが、それはそれで仕方がなかった。

 「翼槞」は作り笑顔を消すと、詩乃の目を見返して、静かにその要求を告げた。
「……ここの結界を守って、オレの逃げ場にしてくれること。できればオレに、あんたの知ってる『神』の『力』を教えてくれること」
「……え?」
「オレ、あんたの言う通りに翼はあるんだけど、使えてなくてさ。それが見える詩乃サンなら、少しくらい使い道、わかるんじゃないの?」
 ……そんな、こと? と、詩乃はとても拍子抜けしたようだった。いったいどんな代償を求められると思っていたのだろう。
 翼の悪魔にとっては、「力」が五分の一とされる人間界では死活問題だ。その実情を教える気はないが、この世界では、この世界で通用する「力」がいる――特に、「汐音」という新たな可能性が生まれた悪魔には、その「意味」が必要だった。

 「黄輝」の名を受けている翼。「聖」の割合が大きい「力」を、弱められずに使う方法――この世界での様式を教えてくれると、詩乃は盟約を結んだ。
 それを習いに悪魔が教会に通うだけでも、詩乃の気は大分紛れるだろう。大体平日の放課後に行くことになり、無事に契約が済んだ悪魔は、相方が待つ川辺へ夕暮れ時に戻っていった。


 一人で橋の下に座っていた相方が、悪魔の姿を見つけて、とても不服そうな顔を浮かべた。
「汐音……これ、暇」
「ごめんごめん。陽子サン、無事に起きた?」
 あれから陽子は、ほどなく目を覚ましたらしい。それを見送った後は、全てただの待ち惚けになり、勤勉過ぎる相方は、何もせずに休んでいるのが苦痛だったのだろう。

 相方の顔を見ると、詩乃の前ではずっと出張っていた「翼槞」が、すぐに引っ込んでしまった。
 何で。と思ったが、「汐音」に拒否権はない。目が覚めているのに眠る方法は知らない。それも他の意識との違いだろうと思われた。
 あくまで「汐音」は異端なのに、当分こうしてメインに動かなければいけない。裏で手を引く主導はおそらく「翼槞」だが、顔となるのが「汐音」だった。

 「ごめん」などと、今までの主たる「翼槞」なら言わなかった。そう言いたそうに、相方がじっと悪魔を見ていた。
 言われる前に話題を変えるために、悪魔も川に向かって座った。
「人間界はどう? 二日目だけど、ちょっとは慣れた?」
 ぜんぜん……と、くまだらけの目付きの相方が即答する。
 昨日の今日で、それはそうだと思いながら、悪魔はそうでなかった記憶が不意に浮かび上がってきた。

 初めてこの人間の世界に来た時、人造の吸血鬼にあったのは、いつか出会えるかもしれないという望みだけだった。
 故郷の世界では消えてしまった誰か。これだけ違う鏡合わせの場所なら、「違うけど同じ」相手がいてもおかしくない。
 未だにその片鱗も見えず、忘れかけていた想い。それでも欠陥だらけの吸血鬼が人間界に来るのは、そのためだけだったのだから……。

 奇しくも相方が、翼の悪魔の感慨を感じたように、捨てられた犬のような目で悪魔を見つめてきた。
「汐音は何で……こっちの世界に、よく来てるんだ?」
 妹の高校生活を、悪魔に見守ってほしい。翼の悪魔が人間界に慣れているならと頼んだものの、苦労性の相方は早速後悔しているらしい。この世界で悪魔に何か、メリットがあるとは思えないようだった。
「そりゃ、オマエ。楽しいからに決まってるじゃん」
 何も考えずに出た悪魔の答は、そんな程度だった。
 相方は大きく首を傾げて、信じられないものを見るように悪魔を見つめる。
「楽しいって……こんな、ごちゃごちゃしてわけのわからない所が?」

 悪魔や相方のいた故郷は、人間界に比べれば至って未開発で、素朴な殺伐さのある世界だ。
 悪魔も本当は、その方が性に合っている。けれどあえて不敵に、相方に笑い返した。
「この世界は確かに、貪欲過ぎるね。悪魔にでもならなきゃ、とても謳歌はできないくらいに」

 悪魔と相方の故郷に比べて、安全さも便利さも、人間界の発展ぶりは凄まじかった。
 それでもまだ、ここに住む者達は満たされないのだ。母親として充分子供を育てているのに、まだ足りないと焦る陽子や、離れていても望む全てを持っているのに、淋しくて仕方ない詩乃のように。
 もしも彼女達が、人間界では「不幸」とされる存在なら、尚更のことだった。いったいどれだけ、この世界の人間が求める「幸せ」は、大きなものなのだろう。
「こんなに凄くなっても、まだまだ頑張らないとダメなんだってさ。ここに住んでる人間達は、さ」
「……信じられない。何が楽しいんだ、それ」

 日々新しい物が生まれ、世間の興味が移り変わるのを、異邦者の悪魔はいつも空ろに傍観していた。
 未来の破綻には目を塞ぎ、互いの消耗も見て見ぬふりをし、努力と消費を人々は勧める。一方で、現状に疑問を持って声を上げる者達もいる。
 眠りこけていれば幸せな翼の悪魔には、この世界における「正解」が全くわからない。考える意味もまず見出だせない。人間達の多くは他者の批判と美談をどちらも好み、自らの内の悪魔を見ない者がほとんどに思えた。まるでそれこそ、生きる術と言うかのように。

「何て言うか……(さか)しいよね、人間ってさ」
 何が正しく、何が間違ったことか。それは元々、神にしかわからない事柄ではある。詩乃のように世の毒に穢れながらも、悪魔と一線を引ける人間は滅多にいない。「力」も信仰も越え、それは自らとの闘い一つなのだ。
 神の規範ではなく、人間同士でルールを作り、共存のために守り、変えていくのがこの世界に見えた。度々起こる人間達の(あやま)ちも、長い目で見れば必要なのだろう。

 人の世には人の数だけ、答がある。処刑人たる翼の悪魔には、そう感じられた。
「この世界はどこも、悪魔だらけだよ。『悪魔狩り』なんてもう完全に、必要ないくらいに」
 「力」という制約――秩序に縛られない人間は、何をしようと神に赦され得る存在なのに、自由過ぎると逆に迷子になるのだろうか。代わりに足場を「自らの価値」に求め、「向上」に縛られる多くの人間がいるというのが、翼の悪魔に見える人間界の在りようだった。

 別に誰も、無闇に人を裁くことはない。悪魔であろうと、「神」であろうと。
 隣でグロッキーになっている相方のように、わけがわからず立ち尽くせばいい、とふっと思った翼の悪魔だった。
「ひょっとしたらオマエの悪魔も……この世界にはいるかもしれないね?」

 対となる者が現れる、鏡合わせの人間世界。最も近く、さかしまであるもの。
 そんな事とは露も知らないだろうに、相方はげっそりと答えたのだった。
「本当に出てきそうだから……世も末だ……」

 苦労性の相方に、悪魔はいつも通り気楽に笑った。
「そうかな? もし出会えるなら、オレは面白いけど」
 たとえそれが破滅の足音でも、今の悪魔なら楽しめるだろう。この世界で走り続ける人間達と、きっと同じように。
 そのためにこの悪魔――「汐音」は生まれたことを知る、長い約束の日が来るまでは。

 翼の悪魔と相方の新生活は、まだまだ、始まったばかりだ。


(うたい) 了

インマヌエル

ここまで読んで下さりありがとうございました。
今後同シリーズで短編を2か月以内に3作UP予定です。お気が向けば良ければ。
初稿:2018.1.29-9.29 Atlas' -I-
※今後の分岐点にまつわる関連作『雨降花』:https://puboo.jp/book/131923

インマヌエル

†インマヌエルシリーズ・Ⅰ† 異世界出身の常時貧血吸血鬼・汐音と、半吸血鬼ツバメの日常生活トライアル編×2話。1話約4万字・1話完結。ただ生きていくことも大変な彼らが、夜に紛れて人間世界で細々と行う「悪魔狩り」とは? image songs:Kids + If I Lose Myself by OneRepublic

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-03-31

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