ロゼ

 十八歳の悠一が某国へ旅に出ようと意欲したのは、重たく垂れ込む靄のような倦怠・憂鬱に、ひねもす悩まされていたことに由来しているのだった。
 それ等の解決策を考えていたところ、不意に高校時代に読んだポール・ニザンの「アデン・アラビア」を想い起こして、かれにニザンの反骨・闘いの意志なんか一切なかったのだけれども、どうやら悠一その作品に着想をえたらしく、「海外を旅する」という非日常にまるで救いを求めたようなのだった。
 数多の国々からその国を選んだのは、先ずもってみずからに降りかかるかもしれない危険性が他の国よりも更につよいからであった、またニザンの行ったアラビア地帯のように赤道にかなり近く、そして金があまりかからないからであった。
 というのも調べたところでは、その赤道辺りにある経済的な発展のとぼしい某国はすこぶる治安のわるいところであるらしく、毎日のように紛争でひとが数十人死んでいたり、強盗は頻繁、また旅行者を殺し金を奪うなどの犯罪が横行しているらしかったのだ。
 いわば死と隣り合わせの国といえるようなところがそこであって、悠一が旅先にその国を選んだのは、日本では経験できないであろう死が身近にあるという環境を実感することで、何か気持が変わるのではと期待していたというのがあったのだ。くわえて、そこで死ぬんなら死んでもいい、日本で自殺をえらぶよりも自然現象に近いし迷惑がすくないだろうという自棄(やけ)な気持だってあったのだった。
 かれは「アデン・アラビア」をだらだらと読み飛ばしながら、大学へろくに登校せずにのらりくらりと気楽なアルバイトで最低賃金を積み上げ、二十数万程度ができたところで飛行機のチケットを購った。たしかにそこは物価の安い国ではあったのだけれども、一泊や二泊ではない海外旅行で二十数万では殆ど金銭的にギリギリの旅しかできないに決まっており、しかし漠然と死にたい気持をかかえ平穏な生活に退屈を感じている自分には、むしろそういった危機感が必要なのだとかんがえていたのだった。

  *

 某国の空港にたどり着くと、陶器のように艶のある浅黒い肌をひからせたひとびとを見、それ恰もエキゾチックな美のようなものをかれに感じさせたのだけれども、その輝きは太陽の光の当たり方によるものでもあるということに後々気がついたのだった。湿度の低さや緯度の問題だろうか、カンと金属的な音を立て地上を撥ねるように硬質で乾いた陽光はどこか酷薄な印象、日本のそれしか知らないかれには珍しいものとして映った。が、それはなにか悠一の情緒的なものに快い作用を与えるようなのだった。ここは僕にとっていい国かもしれない、そう想った。
 空港のある都心はそれほどに治安はわるくないようであった、日本でたとえれば地方のちいさな都市程度には発展しており、石張の道路に落葉のようにかろやかな陽がはらりと落ちる、そんなオマージュに満ちたしずかな風景のなかで、日本人の感覚には幾分大きめに聞える話し声が、硬い風景の流れるなかで火さながらに閃きはじけるようであった。ダンスをこのむひとが多い国だときいたが、なるほどこの国の言葉の発音は跳ねまわり踊るようで、異国のダンス音楽のように響くために耳に清々しい。意味は全くわからないが語感が非常に聞いていて心地よく、まるで水気のすくない明るさで喜びに跳ぶような天真爛漫なひとびとが住む国という印象、かれには来る前の銃声や戦車の立てる音の絶えない悲惨な戦争の火が濁流する国というイメージに合わないと想い、検索結果が正確なものとらえきれていないんじゃないかと訝しく想った。いや、きっとすこし離れたら戦火が轟々と噴いていて、ひとびとの惨たらしい泣き声が底から唸るように響いているのだろう。
 ホテルにチェックインする。部屋に案内され、扉をあける。けっして高級な印象ではない、簡素である、しかし居心地の好さそうな悪くない内装で、原色と原色を絶妙に混ぜたようなふしぎな色がめずらしいセンスで効果的に配置されていて、どことなく異国調を感じさせるそんな色遣い、それはかれの海外旅行の気分を引きあげる。楽しい旅になってしまうかもしれないという予測に苦笑いをしたが、しかしそれは柔らかい緊張感が解されたような気持によるものであった。
 地図とパスポートと財布だけをもって、散歩に出てみた。
 石張の歩行通路は灰色で、自然のものであるためにそれの曳く線は歪であるがどこか単調で眼に涼しい印象、歩くたび、かれの履いていたスニーカーではカツカツとまではいかないが無機物をそっと叩く時とくゆうの心を落ち着かせるひんやりと硬い音がする。悠一の来たのは秋であるが、真夏は灼熱の陽が射し冬でも熱いところであるらしい、そのために、すこしでも涼しげな気分を味あわせようとして発達した粋な意欲による文化なのかもしれない。
 街並を歩いていて発見したことであるが、やはり東京などの日本の都心のビルのような建築物はあまり発見されず、せいぜいが二、三階建てである。太陽はまるで濁りのない空に浮んでいるようで、空を仰げば、石張に落ちるかろやかさに比して傲然な熱をまっさらに射しているよう、むろんそれを真直ぐにみすえることなどできやしなかった。太陽の光が清んでいるというのはまさにこういうことをいうのだろうと思って、カミュの「異邦人」にえがかれていた陽の毀れる砂のようにニヒルな情景を、何故かしら爽やかな気持で想い起こす。
 上ばかりを眺めていたために、目の前で同い年くらいの若い女性に笑いかけられているのに気がつかなかった。
「Hallo.」
と恐るおそる声をかけたが英語が通じないのか、女性はにこにこと子供のような顔をするばかり、日本なら薄気味悪さと反社会勢力の存在さえ感じさせる状況であるが、この国にはみしらぬひとにも楽しげに話しかけるひとが多いのかもしれない。想えば散歩中、道で会ったひと同士が明るく大きな声で話しだすのをよく目にしていた、悠一は果して全員が知り合いなのかどうか、それとも初対面でもすぐに仲良くなれる国民性なのだろうかと、既に色々と考えを巡らせていたのだった。
 彼女はにこやかな表情でかれの顔を一瞥し、したしげに腕をとった。
 その女性は南国らしい異国的美貌をもっているといえようか、乾いたつよい太陽の熱で褐色へきよらかに洗われたように照り返しのまぶしい肌、ふっくらと紅色に染まった果実のような唇、切れ長の線に曳かれた潤いのおおい眼は、ふっと伏目になりくろぐろと睫を降垂(おりた)らせば、幾分月のような憂いを帯びるように翳る、しかしみひらかれれば眸の湖から月影がまっさらに浮び撥ねるようにきらきらと耀きはじめる。しなやかに手足の伸び溌溂とうごく躰を、ひらひらと風に揺れる薄衣の深紅なワンピースで包んでおり、この国らしい綺麗な女性はこういう印象なのだろうという感じをかれは受けていた。
 然り、あまり女性慣れしていない悠一をどぎまぎさせるような状況である、しかし、「男と女なんておなじ人間だわ」と想っているとしかみなせない自然な明るさ、親しさでかれにまた笑顔をみせ、ある飲食店らしき建物を指さす。
 一緒に行こうということだろうか。これは日本でいう、逆ナンというやつなのか。
 かれはやや期待しながらも「ただ友達になりたいだけだ、いやもしや詐欺かもしれないから気を引き締めろ」と保険でいいきかせ、彼女に誘われるがままに店に入った。のちに調べて解ったことであるが、そこで沢山売っていたのはその国の名物・主食的なものであり、小麦粉でできた餅のような麺麭のような関西の粉もののような粘り気のつよい炭水化物系の薄い生地に、野菜と香辛料の効いた肉などを挟んだ食べ物、たとえればサンドウィッチ、もう少し近いのをあげればイタリアのパニーニのような食べ物。
 女性は「これとこれ」と指さしリズミカルな発音と身振で店員へなにかを伝え、かれにも「選びなさい」と目のうごきで示す。どこまで辛いのか知らないのでそこまで辛くなさそうで肉の入ったものを二つ指さして、「Please」と英語で伝える。すると彼女はかれに眩しさと切なさを感じさせるくらいの、あまりにピュアな音韻の弾け方を立てる発音で何かをいって澄んだ笑い声を立てた。二人並んで、会計のところに立つ。
 女性はそこではじめて媚びるような顔でかれを眺め、腕をまったくうごかさず、そもそも彼女は華奢な生地のワンピースを着ているだけでバッグすらもっていない、「そういうことか」とやや落胆しながらも、デートすら数回しかしたことのない自分には貴重で胸を高揚させる体験ができたと納得させ、というか隣で笑ってくれる女性が数分でもいてくれた経験だけで充分すぎるほど喜んでいたので、実に好い気分のなか彼女の分も会計したのだった。夢をみせた幸福の代価は日本円にして四十円程度。この出来事は殆ど女性に愛されないタイプといっていいくらいの悠一に、ほくほくと得をした気分にさせるのみなのだった。
 店に飲食スペースはあったが彼女はすぐに店を出て食べ始めていた、かれも胸を高鳴らせたままに横で袋をひらく。こんな女性は報酬さええられれば、すぐに笑いながら手を振って、ワンピースの裾のひらひらとしたはためきのようにかろやかに、果敢なげに、まるで風に伴れられるように駆けていなくなるのだろうと保険込みで想っていたら、あろうことかその女性、ずっと悠一の隣にいつづけて、ご機嫌な表情で愛らしく口をもぐもぐさせている、その間中ちらちらとかれを見、眼が合うとにっこりする。その可憐さは悠一の心臓を甘やかに鋭く打つようだ。いったいに女性に好かれない日本人男性のなかには女性らしい本音と建前がいまいち理解できない人間が多く、いわゆる「察する」という能力が発達していないひとが多いというのがあるようで、悠一のようにその典型的なタイプの男は、こういう素直で天真爛漫でどことなく子供っぽい女性に憩いと好感をもちやすいというのが往々ではないだろうか。
 悠一は頬を紅くさせながら、読めない裏を推測しようと、脳裏で邪しまな考えを巡らせる。いわゆる邪推というのがかれの悪癖であり、もはや趣味嗜好ともいえるのだった。
 この女性、果して、こんな振舞を天然でやっているのだろうか。この喜びに跳ねるような表情や仕草は、素直な心情のままなのであろうか。たとえばフィリピンパブの女性なぞはそう苦労せずとも天真爛漫で人懐こい接客で裏表の社会に疲れた日本人男性を虜にさせるらしいけれども、なかには悪いことをかんがえる女性だっているだろう。しかしこの国はもしやそういうお国柄なのだろうか。背後にギャングなぞがいたらたまったものではないが、しかしこの女性の表情というのはまるで素直である。かれの心のどこかに、彼女はほんとうに無邪気で自分と親しくなりたいだけなのだというのを信じたい気持があり、その期待の糸をすこしばかり欲望のままのばしてみれば、もし異国のロマンスというものが起こればもっと素敵だというような、愚かきわまりない切情さえあったのである。
 全身を陽にキラキラと輝かせている女性は、またかれの眼をみつめた。吸い込まれるような眸、この眸のうつろう陰翳に侍りたいとすら想わせる湖の眸。悠一はまるで放心したような心地である。
「ロゼ」
 陽光を反映しさらさらとパウダリーに光る水を想わせる声で、彼女はいう。その声が立ち昇らせる香気、まるでどこか色香の昇るような柑橘系の瑞々しいそれであり、やはりといおうか、空気に波うたせる色彩は弾けるような南国のオレンジであって、時々波のように寄せ帯びる薄闇のような不穏なグレーを交らせることはあったのだけれども、それはおそらくこの国で暮らす民であるがゆえの、不幸で貧しい生活に由来しているのだろうと悠一はかんがえていた。
「ロゼ」
 今度は自分の胸に手を置いて、おなじ言葉をくりかえす。再三いうが、独特の発音が跳ねるこの国の言語は、けだしひとの躰と魂を舞踊らせる異国の音楽である。
 おそらく、ロゼというのは彼女の名前だろう。悠一も胸に手を置き、
「ユウイチ」
 とゆっくり自己紹介すると、なぜかケラケラと笑いはじめる。文脈でいうと名前の響きがおかしかったから笑ったのかもしれないが、たとえそうであってもまったく嫌な気持のしないくらいに、悠一はこの女性に好感をもっていた。しかも、名前を教えてくれたのが嬉しくてにこにこしてしまっている自分の感情と、ロゼのそれがおなじであるために笑ったのかもしれないという都合のいい明るさの射す期待の心情がそこにあったのであり、その明るさはかの日本であんなにも暗みの籠っていた空白をたっぷりと満たしたのだった。はや憂鬱と倦怠なんて、どこかに往ってしまっている。たぶん、日本の独り暮らしの部屋に置いてきたのだろう、日本の湿度の籠る整理された秩序で、どこかに粘って絡まり翳をうろつかせているのだろう。 
「ユヴィッジ?」
 そう離れてはいない。「発音はただしい?」とでもいうように、ほんのりと笑みを浮かべ首をかしげる。一心不乱に褒めて差しあげたくなる可愛らしさに、胸が締めつけられる想い。が、ちがう。悠一は元来言葉を大切にするタイプであった。しかし、わが母国語を話す外国人の拙い発音というのは、おそらくや殆ど世界共通で愛らしさを感じさせるのであろう。いわずもがな悠一はそのときふやけたようなだらしのない顔であって、ゆるみきった口角をにまにまとさせていたのである。
「ユ、ウ、イ、チ」
「ユ、ウィ、チ」
 こくんと頷いてしまっていた。だいたい合っている。そう想った。
 しかしその後ロゼがかれの名を連呼して気づいたことであるが、おそらくこの国の発音の仕方では、頭にユという言葉がつくとほとんど次の言葉に吸収され、かすれて消えるように音がなくなるのだろう。くわえて「ウィ」という発音がないのか或いは苦手であるようで、どうしても「ヴィ」と濁りがちなのであろう。
「ヴィッチ! ヴィッチ!」
 とまるで原型を見失った呼び方、それにすぐ変わったが悠一のことである、女性に名前を幾度も呼ばれるという非日常的な高揚は、「なんて可愛いんだろう」と悠一に想わせるばかり、「B×××」に響きがそっくりなのが気になり周囲の目が気がかりだったが、「まあいいや」、と呼ばれるたびに顔をニマニマさせていたのだった。

  *

 ロゼはそのあと手を振って悠一の元を去った。
 部屋に戻り、ベッドに横臥し、悠一はリズミカルに跳ねるオレンジの香気が頭から離れない甘やかないたみにくるしみ、ロゼという名前から音楽させる薔薇の薫が清潔な褐色の肌から匂う幻影的な感覚に身を折って、かの天衣無縫な音楽に柑橘の果実の印象を飛沫かせたような笑い声がまるで幻聴するように耳をわななかせた、かれの頬は炎ゆるように染まり、千切れた希望に剥がれるようにふるえていたのだった。
 恋、を、したのだろう。
 かれにはこの国の言語が話せないどころか理解すらできず、幾分使いこなせる英語はロゼには伝わらないのである。すれば「君が好きだ」というこの深みより轟々と炎ゆり昇るような気持をお伝えすることすらできず、しかしかれには恋をするにはあまりに早すぎるという愚かなみずからへの自責に耐えがたい想いをしたのだった。
 晩の食事。香辛料の効くちいさく切られた肉、それはふしぎな味をした葉に包まれ、ロゼと食した生地はそのままで出されてある。かれはマナーなぞは知らないが部屋で食べるために一人きりであるのをいいことに、大事そうな手振で肉と葉を生地でつつみ、食した。そしてロゼの追懐をなつかしみ、また会いたいと悲願し──そこで外から銃撃の音が響いた。
 臆病な悠一はカーテンをさっと閉めたが、ロゼが撃たれたのではという不安にさいなまれそっと隙間から外をみる。人相の荒んだ男たちが左右に分かれ、銃を撃ち合っている様子が眼に入った。これだ。こういうところに来ようと想い、僕はこの国を選んだのだ。かれはカーテンを丁寧に閉めなおして男達──ギャングであろうか──から全くみえないように注意を払い、ベッドに身をなげだすようにし寝そべって、かの柑橘の肌を想起し、そのどうしようもなくエロティックな印象の妄想に後ろめたさばかりをおぼえていた。そのとき銃声は、時々なる鋭い鐘のようにしか聞こえなかった、しかしそれはやがて茫洋と霞むように現実味を喪失していき、悠一はわが妄念に閉鎖されてうずくまっていたのだった。

  *

 朝、まさに片恋の女性と食べた料理が出て、悠一は従業員に英語で「これの名はなんですか」と訊くと、「パ、ヴティ」とぴょんと飛び跳ねるような音韻、「ヴ」の発音にこの国とくゆうの音を感じ、かれはなんだかうっとりとした気分で「ありがとう、教えてくれて」と伝えた。
 昼前に外に散歩に出た、昨夜の事件が嘘のように乾いて明るみの充溢したような石張と緑の木々の風景、ただ灰色の歩道に赤褐色で翳るような血の跡が、どことなしに遠くの追憶のような情景としてかれに昨夜の鋭い銃声を想い起こさせる。どうやらかれには現実を生きているという実感を喪いかけているらしい。ロゼという人間から受ける印象をだって、かれにとり現実味のない、いうなれば光と音楽と薫を理想的に投影しきらきらと反映しているような女性のように感覚しているのではと悠一には訝られていた。
 「ヴィッチ!」
 押し黙った現在からふっと昔のロマンスが香気と漂ってきたような感覚におそわれる、それは路を歩いていて嘗ての片恋のひとがつけていた香水が匂うのを感じ頭をぐらぐらと動揺されるのにも似た、心おし揺がせる音楽である。
 ふりむく、放心し脱力したような顔付に、柔かくなった口元を、期待の微温湯にふやかせたようにして。
 ロゼ。オレンジの薔薇。甘美な柑橘の艶。音韻と火花と散らす、撥ねるような熱を放つ褐色の肌。濃ゆい薫をなげ放つ夜に燦爛ときらめく月めいた眸。美しい音韻に豊かな褐色の薫と陽に輝く異国美を折りたたまれた、豊饒なる火のような音楽。
 ロ、ゼ。おそらく” L ”の優美にして幽遠な母音、それをふっと薔薇とともに落すような”O”の子音曳く掠れた音楽、さながら流麗な光の彗星の曳いた後髪の薫のような”ロゥ”、その瑞々しいオレンジの音楽の往き着いた、閃きせきとめられた領域で、低められていた腰付がゆるやかに跳ねるように橙の色を散らすような「ゼ」、「ロゥ」の甘美な響きが「ゼ」に到着するのは、まるでふっととばされて壮麗な異国絵画のひろがるところに立たせたよう。「ロゥ」の伸びやかな色の豊かな花の薫に惹かれた旅人は、そのふしぎな香気をたどり流れるように石張をあるく、すると「ゼ」の音楽の往き着く張りつめられた絵画のゆきどまりに、結ばれぬ恋の予知を感受する。すればその音楽に印象される褐色の美しいひとの投影、はや遠のいて絵画のようにとおく張られ、その炎ゆる乾いた熱の風に吹かれながら、硬い酷薄さに清む空へ往ってしまう。…
「ヴィッチ!」
「ロゼ!」
 悠一は笑顔いっぱいで手を振り歓迎を表明する、ロゼもまた裾の揺れるような優艶な仕草で手を振る。
 ロゼは悠一の腕をとり──鋭く刺す内奥から恋の熱が炎えあがり、その喜びにかれの全身がまるでおののく──ゆびさきを或る方向へ指す。悠一は呆けた貌で頷く。
 ロゼの歩行は、みょうに速い。まるで生き急いでいるかのような印象、それはいつ死ぬかわからない環境に由来しているのかもしれないと想うと、憐みと、彼女に死んで欲しくない、どうか幸福になってほしいという悲願に身を折るように気持になる。
 やがて街からやや離れ、草花のおおいところに連れていかれ、気付くとふたりは、かれには名前も知らない異国の花々の豊穣に咲き誇った花畑にたどり着いたのだった。
 すこし中を歩き──ロゼはなるべく植物を踏まないように気をつけながら歩く、かれもそれを模しながら、「このひとはやはり優しいんだ」と感動していた──ちいさなバッグを花のように揺らす。今日はバッグがある。ということはピクニックだろうか。
 空を投影し、おのおのの色彩を鮮明に示していたような花々は、なにか引かれた線すらも明瞭な印象、南国らしい花に躰を埋める、隣にはかれに恋された天衣無縫な女性。こんなにもロマンチックな状況を、悠一は経験したことがない。
 二人は土に座り込む。きゃっきゃ、と日本らしいオノマトペを使おうか迷わせる子供の喜び跳ねるような愛らしい声を立てながら、花にそっとゆびをすべらし、かれをちらちらとみて、そのたびに弾けるような笑顔をみせる。このまま手をにぎってキスをしたいという邪な欲望を感じたが、しかしロゼのかれへの感情なんて解りっこないし、悠一は彼女を大切にしたいという、愚かではあるが良心的ではないともいいきれない自制の心に欲望を縛り、身をかためていた。
 するとあろうことかロゼが、かれの胸に手をのせる。雷鳴のような期待の心情、どぎつく昇る。
 せつなだった、硬質な銀の銃声が一発響いたのだった。
 彼女はくしゃと恐怖に顔をゆがませて、悠一に抱きよる。かれはここで抱き締めることは恋する男の義務だとばかりにロゼをつよく抱き締め──しかしあまりの恐怖に喜びを感じる余裕はなかった──ふたりは躰を低め土に身を埋め、悠一は日本語で小声で「大丈夫、大丈夫」と声をかける。「ライジョヴ?」とロゼはくりかえす。悠一はもう声を出しちゃダメだと自分の口を抑える仕草をとり、しかし励ますために毅然とした顔で頷く。…それ以降、銃の音はしなかった。
 数十分経って、悠一は確認をしようとロゼの手をにぎったまますこしだけ立ち、周囲にだれもいないことをみとめた。そして笑顔で頷いた。いつまでもいつまでも彼女を抱き締めていたかった、とかれは想った。ロゼがいるなら、ここでいつまでも暮らしかった、隣にずっといてほしかった。そう想っていた。
 ロゼは安堵した顔をした。初めて見る安心にゆるんだ顔も、いとおしかった。
ロゼはしゃがみなおし、考え込むような顔でしばらく悠一の顔や花々やバッグに視線を逡巡させていたが、にっこりとかれに笑みを向けた後、バッグから赤みのつよいオレンジの飲み物の入ったペットボトルを二つとりだした。
 片方を渡し、ロゼは自分の方をぐびぐびと飲んで──緊張で口が乾いていたのだろうか──喉を鳴らして飲みこむと悠一へにっこりした。
 悠一も飲む。オレンジジュースに近い。変わった味だが美味しい、むしろ酸味がつよい天然の果実の甘さ、この国の果物だろうか。日本にはない味わいが、かれにはうれしぃ。完全に、悠一は海外旅行とロマンスをたのしんでいる。
 ロゼは寝そべった。そして、すこし離れた隣を指す。え、と驚きながらも悠一は自分の胸を指す。ロゼは笑顔いっぱいな顔でうんうんと二度も頷く。
 恐るおそる、といった様子でロゼから三十センチほど話された土に寝そべると、夢みた幸福の実現にはや泣いてしまいそうな気持、しかし、あろうことかロゼはもうすこしかれへ躰を寄せ、そっと手を握ったのである。心臓が早鐘を打った。ロゼは無防備にも眼を瞑る。先程の銃声があまりに気がかりだったが、しかし悠一も昨夜はロゼの幻想でいっぱいでよく眠れなかったし、緊張の反動からくる眠気におそわれて、五分も経てばぐっすりと眠りについていた。
 ふっと微睡へ引きだされたようにぼんやりと眼を覚ます。躰が重く、気付かないうちに全く違った環境に疲弊していたことに気づく。隣の愛しいひとをみると、彼女はじっと悠一をみつめていた。
 奇妙な表情をしていた。緊張に硬直したような顔付、瞼を降垂らし暗みを射すような眼差、しかし瞳孔をいっぱいにみひらかれている。そんな目でかれをじっと凝視していたようだが、かれと眼が合った瞬間、元の明るい笑顔に戻る。ああ。ほんとうに、可愛らしい笑顔だ。素直なのだ、このひとは。先刻の顔は、寝惚眼だからそうみえたのかもしれないと朧げに感じる。というのも、あんなにも鮮やかで線のはっきりして蠱惑を投げ放つようだった花々は、いま点描画さながらに鮮明さは熔け線は霧消したようだったのだから。どうであってもかれにとってこの女性がいとおしいことには変わりなく、おのずと喉から昇った言葉は、かれの正直な、淋しく徹るような、つい洩らされたほんとうの言葉に他ならないのだった。
「I love you.」
 ロゼは、眼をふっと訝しげそうな猫のようにみひらかせた、おそらくや、響きが珍しかったようなご様子だ。
 ふっと洩れた言葉が彼女には解らない英語で助かったと想った、しかし、生れてはじめて好きなひとに「君が好きだ」と伝えられたことに満足をし、そのまま重たい眠気のままに眼を閉じた。
 眠りに沈むせつな、かなしげな顔をして脱力したようなロゼが、翳のように見えたような気がした。…
 ロゼはホテルまで送ってくれた。そして、かれが寝ている間に書いてくれたのだろう、あるお手紙を渡してくれた。ロマンスめく出来事にかれの心は浮きだった。彼女は近くにいたホテルマンに何かをいい、ホテルマンが英語で翻訳してくれた。和訳をすると次の意味である。
「母国に戻ったら、読んでほしい。もう、この国にこれ以上いないほうがいい」

  *

 その後、二度とロゼは現れなかった

  *

 かれはロゼに逢いたいというだけの理由で数日街を散歩していたが目にすることはできず、ロゼからの忠告を今更だが守ろうと飛行機のチケットを購入し、計五泊の旅を終えた。
 家にたどり着く。手紙をひらこうとする間、「街中でみたかの国の文字はさっぱり読めなかったので、翻訳サイトを使って読むのにどれくらいかかるだろうか」と考えていながら中の紙をひらく。
 英語だった。想えば、昔その国は英語圏の国の植民地であった。
 かれに先ず想起されたのは、「I love you.」と伝えたときのロゼの表情だった。見方を変えれば、驚いたような顔であったかもしれない。伝わったのだ。かれはそれだけで嬉しさに踊りだしたくなった、たとえ結ばれなくても、もう会えなくても、それだけでかれの淋しい心を、はや喪われたロマンスの美しさで光と満たした。
 が、その内容はかれを愕然とさせ、読み終わると先ず恐怖にふるえ、のちにどっとのしかかるのは、かの国に在りつづけるロゼへの憐み、不安、そしてどうしようもない切なさが全部であった。
「Yvich(ユウイチのことだろう)こんにちは。あなたが無事日本へ戻れたことを祈っています。
 英語が解らないふりをしてごめんなさい。でも、わたしはそうするしかなかったの。
 わたしは、あなたを殺して、金を奪うためにちかづきました。日本人は、お金持ちです。花畑に行ったのは、眠らせて殺すためです。でも、あなたはいつも親切で、わたしに”I love you.”と伝えてくれて、あなたを殺すことができなくなってしまいました。わたしは辛い。この生活から逃げだしたい。あなたと一緒に死にたかった。
 どうか、お元気で」
 わなわなと震えた、男らしい弱さと脆さの噴出すような幼児じみた声で、わんわんと嗚咽した。くるしく、せつなく、いまにもロゼを抱き締めたくなった、しかしロゼは、いまもあのいつ死ぬかも判らない環境で、染めたくもない罪に染まり生きていかざるをえないのだとおもった。恋愛感情によるものでもあったけれど、ロゼが犯してきたであろう罪もどうしようもない事情によるものであるとしか想えなかった。それはけっして、ロゼの心の美しさをけがしやしないと想った。かれには植物を踏まないロゼの心の優しさをいまでも信じていたのだ、自分を好いてくれる男を殺せなかったという感情に、良心をみていたのだ。
 かれは、ロゼも自分が好きなのかもしれないと想ってしまった、これはかれらしい愚かな錯覚ともいえるが、しかし異なる言語同士の感覚の違いによるロゼの書き方にも原因があるかもしれない。否、ほんとうにロゼが悠一を愛していたと、その可能性だってなきにしもあらずである。
 あなたと一緒に死にたかった。
 好きなひとにこう伝えられること、これほどに究極のロマンスが、果してこの世にあろうか? その愚かきわまる期待は、かれに切情を昇らせ、あるどこか犯罪者めいた決心をさせたのだった。
 ロゼを日本に連れていき、一緒に暮らそう。

  *

 あんなにも怠け者だったかれは一か月で某国の言語がある程度聞き取れるようになり、簡単な文章なら読めるようになり、ある程度なら書けるようになり、なによりも日常会話くらいはなんとか話せるようになった。英語は理解しもらすまいと復習をくりかえした。時給は高いが負担のおおい肉体労働で金を稼ぎ、一か月半後には某国の空港を踏みしめていた。
 懐かしい石張り、酷薄な陽を撥ね、火のような言葉が散らされる。ひとびとの明るい話し声の内容がききとれる、しかしその明るい口調に反して、その内容は悲惨であった。惨たらしかった。どこの地域で紛争があり友達が死んだ、また銃撃事件だ、警察なんていてもいなくても変わらない、俺の娘は警官に強姦されたが訴えても取り合ってくれない。悠一はなぜこんなに明るい口調で話すのだろうと想ったが、しかしそう強く撥ね返すように発音しなければ、この現実に耐えることはできないのかもしれないと悲く想い、歩いているだけで涙がとまらなかった。
 街にたどり着いた。
 立ちんぼのように歩道の隅に立つ。ロゼが来るかもしれないし、似たような生業の若い女性から話しかけられるかもしれない。一時間経ってこなかったら、まるでストーカーそのものであるが──否、既にしてそうであった──街のひとびとに、ロゼのことを聞こうと想っていた。
 自分でもこの行為の愚かさ、不気味さを自覚していた、何をやっているんだと呆れ果てるような感情もあったが、ロゼも自分をおそらく好きなのだという期待が、かれの身を炎えあがらせるように衝き動かしていた。
 とん、と肩を叩かれる。振り向いた。
 若く、綺麗な女性だった。手を振り、笑顔をみせる。同じ手口だ。
 悠一は黙って、この国の札束を手にもつ。この国では、数か月は食うものに困らないレベルだ。女性は驚いた顔をする。もじもじと欲しがりげな表情。悠一はこの国の言語で、条件を出した。
「情報をくれたら金を渡します。あなたの手口は知っている。ロゼという名の女性は、いまここにいますか」
 口許を締めるように閉じた彼女、しばらく考え込むような顔でちらちらと周囲を見たが、意を決した様子で──ごくりと喉を鳴らしたところに、こんなに離れた国にあっても、やはり同じ人間なんだという感慨をもった──話し始めた。
「ロゼという名前を使っていた女性は、死にました」
 放心した。その後顔は苦痛と切なさにぐにゃりと捻じ曲がり、躰から力が抜け落ち、膝がくずおれた。
「あのひとの旦那は働いていなくて、彼女だけがご存知の方法で収入をつくっていましたが、政府の軍隊の襲撃に巻き込まれ、家ごと吹っ飛ばされました。ある時から彼女は旅行者を騙すことをやめ、果物屋で働いていて、収入をつくれないと旦那からしょっちゅう殴られていましたが耐えてお金を渡しつづけました。彼女は旦那がずっと好きなんだと私にいってくれたことがあります」
 悠一はその場にうずくまり、涙さえ流れぬ理不尽の現実に打ちのめされた心地、札束は石張にぱたりと落ち、女性はそれを拾ってさっと走っていった。かれは石張の歩道を眺めるよりほかはなかった。
 …沈鬱に押し黙る硬質な石張に、他人行儀に一瞥するような太陽の光が、灼熱に炎えて剥がれる落葉のように墜落して重なり往き、カンと金属質な印象で撥ねられ、霧と弾けとぶ。つぎからつぎへと砂が毀れるように射す陽光、石張はそれを背で撥ねかえすしかないどうしようもなさを背に耐えさせながら、唯其処にありつづける。
 理不尽。それには乾いた、硬い、どうしようもなく張りつめた失意の諦念があった。陽を照りかえすだけの、まっさらにあかるく、かろやかに火を消えさせる失望があった。押し黙り照らすよりほかのない現実には、憂鬱或いは倦怠なぞという甘ったるい名辞をつけられぬ。
 失念。
 失念。嗚、失念。失念を背に負い、干乾びた諦念を背広とし蔽うという生き方。死の矢に貫かれ血飛沫あげても不在に弾けるのみであるかのような、石膏の壁のような失意の念。
 もしやロゼは──「ロゼ」はきっと偽名であろうが──花のように真紅なワンピースを躰に蔽わせて、生きるためにかたちづくった淋しいコケトリーを漂わせる顔を、花のような前のめりで男たちに示しつづけ、かなしい天衣無縫を虚空へ照らしひらひらさせるような大笑いを立てていた。しかしもしやその背には、砕け果てた灰褐色の、死装束にもみまがうしろい砂の衣装を張らせていたのだろうか。…

  *

 悠一は日本に帰り、意味のない音の羅列ばかりが脳裏で鳴りつづけることで言語思考を乱され、その乾いて失望させるくらいな明るさをもった特異なリズムに、散乱そして緊縛されたような矛盾の状態にがんじがらめになった。やがて医師から失語症の一種と診断されたが、かれにはそんな診断信じられない。名辞以前だ。この言語的状態は名辞以前だと、医師にここだけはと考え込まれた難解な熟語をくりかえした。
 かれはまったくもって意味と内容の欠けた、言語構成、文法を砕くようにズタズタなグルーヴの詩を書きはじめた。脳裏で跳び撥ねる音楽のままにキーボードを叩き、やがてかれはみずからが歌うに相応しい主題というものを獲得したようだ。郷愁、追懐、恋慕、そして喪失を。それ等を円として孕んでいたのはまさしくかの失念であり、それはまるで死だけを産み落とすような全体であって、しかし、唯一人の女性が、唯ひとつの生々しいあたたかさをもった「生」の月翳が浮び上がるようであった。その観念は淋しく跳ねるオレンジの香気を、舞踊るように立ち昇らせるのだった。
「ロゼ」。
 かのひとの心が欲しいというエゴのままに編まれた詩集に、恋した女性の名をつけるという、歴史上女に愛されず片恋の相手を美化する愚かきわまる男たちが犯しつづけた淋しく切ない罪に、わが手をドブドブと突込み濡らしていた。
 のちに無為に為されたのは、かれが背負うにはあまりにかろやかないたみを伴う失念を、まるで補うような自責・自嘲・自覚のプライド・恥の情念。かれには、或いはプロアマ含め日本で文学なぞをやる人間の多くには、宿命として、まるで甘ったるく粘る湿度が必要なようであった。

ロゼ

ロゼ

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-03-31

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted