夢違え

 乱れた心臓と呼吸の音だけが暗闇に響いていた。無意識に握りしめていたらしい掛布から手を離すと、松風(まつかぜ)はその手で顔を覆う。手のひらも顔も汗ばんで気持ちが悪い。そう思ってすぐさま両腕を布団の上に投げ出したが、それらはしばらくの間、落ち着きなくシーツを這い回った。

 呼吸を整えながら、松風は目の前の暗闇を見つめる。こうしていると、自分が目を開けているのか閉じているのかわからなくなった。松風はそれが好きだった。暗闇に身体が溶けていくような感覚は心地いい。

 しばらくぼんやりしていると、布団が湿っぽいことに気付いた。どうやら手や顔だけでなく全身に汗をかいていたようだ。松風は我に返って身体を起こした。このまま寝転がっていては身体が冷える。シーツと寝間着を変え、顔を洗ってこよう。そう思い一度大きく息をつくと、枕元のランプを手探りで点けた。
 
 松風は夢を見た。自分はある学校にいたが、そこは通っている青童町(せいどうちょう)の学校とは異なる校舎だった。考えてみれば別の建物の可能性もあったが、とにかく夢の中の松風はそこを学校だと認識していた。

 そこには広い中庭があり、百日紅の木が数本植えられている。そしてまだ花をつけぬ木に寄り添うような形で、木製のベンチがいくつか並んでいた。他にも小さな花壇、バスケットゴール、塗装の剥げたモニュメントクロックがあったのを覚えている。
 松風が学校にいたのは夜だ。しかし、そこは青童町の夜と違い明るかった。敷地内に設置された灯りによるものなのか、月の光か、もしくは夢故に都合よくそうなっていただけなのか、細かいことはわからない。

 夢は中庭の光景から始まり、ほんの少し周りを見渡したかと思うとすぐさま別の場所へ移った。中庭からほど近い場所には非常用なのか、古びて重たい金属の扉があり、松風はそれを押し開いて校舎内へ侵入した。そのまま静まり返った渡り廊下を歩く。廊下はごく短いようですぐに教室棟へ辿り着き、ついで職員室、保健室、会議室がある棟へ迷いなく歩を進めた。まるで自分が、ある一点を目指しているかのように。

 閉ざされた扉の前をいくつも通り過ぎた後、松風は2階へ続く階段を昇った。この間、窓から射し込む光を浴びた自分の手足ばかり見つめていたのを覚えている。夢で見た自分の肌は石膏のように白く硬質で、ひどく作り物じみていた。

 ゆっくりと階段を昇り終えた先には誰かが佇んでいた。人影のつま先から徐々に視線を上げると、それは恋人である早矢手(はやて)だ。

窓を背にする早矢手の表情は、こちらからではよく見えない。そんな中、彼の濃紺の瞳だけが鮮明に光っていた。松風はその瞳をじっと見つめる。互いに口を開くことも表情を変えることもなく、二人はただ廊下に立ち尽くしていた。

 しかし松風にはそれで十分だった。見つめ合うだけで理解したのだ。目の前の彼が、決して自分の味方ではないことを。

 自室の扉を開けると、家の中は真っ暗だった。早矢手も珍しく眠っているのか、物音一つ聞こえない。松風は廊下の電気を点け、顔を洗うため洗面所へ向かった。古びた廊下が軋む音が、やたらと大きく感じる。

 内容がどうであれ、夢は夢にすぎない。松風は自分を愛さない早矢手など想像できなかった。また、早矢手を愛さない自分についてもそうだ。互いへの愛が尽きることも、別れが来ることも、他の相手を好きになることも、常日頃頭に浮かぶことすら彼らにはなかった。なのにどうして、自分はこんなにも不安なのか。
 
 鏡の前に立った自分が、松風には酷く頼りなく見えた。寝巻きを変えて顔も洗い流したというのに、いまだ全身に嫌な湿り気を帯びているような気がする。夢で見た様々な光景が脳裏を離れず、松風は項垂れて洗面台を見つめた。蛍光灯の光が反射し、それは瞼を閉じてもチカチカ瞬く。閉め切った窓の隙間から、ほんの少しだけ夜の匂いが漂っていた。

 自室の扉が開く音で、早矢手は目を覚ました。ベッドに寝転がったまま視線だけそちらに向けると、細く開けた扉を松風がすり抜けてくる。彼の黄色い瞳はこちらを見ていたが、目線が合っているように思えるだけで自分の顔は見えていないだろう。早矢手は腕を伸ばしてサイドテーブルにある灯りを点けた。

「うわ!起きてたのか」

橙色の淡い光に照らされた松風は、なんとも間抜けな表情でそう言った。

「眠っていた。お前が来たのがわかったから起きたんだ」

「そうか、起こして悪かった」

 松風は申し訳なさそうに眉を下げると、その場に立ち尽くす。その様子を早矢手は疑問に思った。

「なにか用があって来たんだろう」

「ああ、まあ…そうだ」

 曖昧に笑う松風に首を傾げつつ、早矢手は彼を手で招いた。何か言いにくいことでもあるのだろう。自分を起こしてしまったことに、松風はここまで動揺しないはずだ。指先だけの小さな手招きを数回繰り返した後、差し伸べるように向けられた早矢手の手に松風は大人しく寄ってきた。

 伸ばされた手を無視して、松風は早矢手の胴体に抱きつく。予想外の行動に早矢手は目を瞬かせた。だがそれも一瞬のことで、伸ばしていた手を彼の背にあてがった。ベッドに半分乗りかかるような姿勢の松風がやや苦しげに身じろぎするので、早矢手は背を撫でながら体勢を変える。彼の細く艶のある髪が鼻先をくすぐった。

「夢を見たんだ」

松風は意外なほど落ち着いた声でそう言った。

「知らない学校の中でお前に会ったよ。けど、夢の中の早矢手は俺の味方じゃなかった」

「そうか。それは単に、俺にそっくりな偽物だな」

 松風が早矢手の胸の中で、小さく笑い声を漏らす。早矢手はそれが少しくすぐったかったが、それ以上に温かで心地がいいので身体を離すことはしなかった。

「そう思うだろ。けれど、あれは絶対に早矢手なんだ。お前が俺の敵になるなんてありえないのに…変な話だな」

まったくだ、早矢手はそう返事をした。しかし松風がもぞもぞ顔を動かすものでとうとう笑ってしまい、語尾が上ずってしまう。それを聞いた松風は楽しげに笑った。調子に乗った彼は早矢手の首筋に擦り寄ってくる。

「馬鹿、くすぐったい」

 すかさず早矢手は松風の身動きを封じるように思い切り彼を抱きしめた。松風は苦しいと声を上げたが、満更でもない様子である。

「お前の胸は温かくて好きだ」

そう言って背中を軽く叩かれたので、早矢手は松風を解放した。松風は静かに身体を離すと、早矢手の顔を覗き込む。ベッドサイドランプの光を浴びた彼の瞳は暗緑色に見えた。昼間とは異なる色を称える夜の恋人の姿は殊更美しい。

蛇鬼(だき)がいるからな」

 早矢手は呟くようにそう言うと、視線を自身の胸へ落とした。松風もその目線に倣う。早矢手が身に着けた開襟シャツからは、蛇鬼と呼ばれる生き物の白い頭が覗いていた。

 蛇鬼は彼の身体の内に生きる蛇だ。正確には蛇ではないのだが、見た目がそれに近いので早矢手も松風もそのように呼称する。

 呼ばれたのに気付いたらしい蛇鬼は、両生類に似た皮ふを鈍く輝かせながら怠慢に動いてみせた。花びらのように薄く柔らかな瞼を開き、ほんの一瞬薄緑の目で松風を見たかと思うと、再び眠たげに閉じてしまう。この生き物は早矢手の身体の中で、こうしてよく眠っていた。特に胸の辺りにいるのが好きなのか、たいていの場合ここで身体を縮めている。そして蛇鬼がいる付近の早矢手の肌は、体温よりも高い熱を持つのだ。

「そうかもな。蛇鬼がいるとなおさら心地いい。お前の中はさぞ気持ち良いんだろう。蛇鬼はいつでも幸せそうだ」

 のんびり身体をくねらせる蛇鬼を見ながら、松風はくすくす笑った。ボタンの緩んだ早矢手のシャツの隙間に指を差し入れ、蛇鬼の小さな頭をつつく。彼の身体から出てくることのできない蛇鬼の熱だけが、松風の指先に伝わった。

「うらやましいのか?」

早矢手がいたずらに微笑みながら問う。

「うらやましい気もするが、中にいてはお前に触れられない」

 そう言うと松風はシャツのボタンに手をかけた。衣服が開かれていくのを気に留めることなく、早矢手はただ大人しくその手を見つめる。

「俺は何もかも満足しているんだ。早矢手はどうだ?」

「お前、俺がそれを否定すると思うか?」

「思わない。知ってて聞いてる」

 松風はにかりと笑って早矢手の胸にくっつく。そのまま彼が身体を倒そうとするので、早矢手もそれに従った。枕に頭を預けると早矢手はサイドランプの紐を引き、めちゃくちゃになった毛布をどうにか片手で広げて松風と自分の身体に掛ける。

「好きだ、松風」

早矢手の胸の中で、松風は静かに笑う。

「俺も好きだ、早矢手」

 穏やかな心臓と呼吸の音だけが暗闇に響いていた。とうに眠気は覚めたはずなのに、聞こえる音に耳を傾けていると不思議なほど眠くなる。松風は安心して瞼を閉じた。

その晩、彼はもう夢を見なかった。

夢違え

夢違え

  • 小説
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更新日
登録日
2023-03-30

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