瓶詰めの月

 松風(まつかぜ)の言う夜の匂いというものを、早矢手(はやて)は感じたことがなかった。それは自宅からほど近い空き地へ向かう今夜も例外ではない。もっとも、その匂いは松風だけが感じ取ることのできる特殊なものなのだ。早矢手のみならず、町中の人々に問うても理解できる者はいないだろう。

 彼いわく、夜の匂いは草花の青臭さに似てるらしい。そこに熟れすぎた果実の甘ったるさと、夜露の湿り気を少々。それらが複雑に合わさった匂いは、身体にまとわりつく重厚なものなのだと彼は語った。そして早矢手はその匂いが夜そのものではなく、夜に現れる生き物たちが発するものであることを知っている。

 早矢手はその生き物たちを嫌っていた。だから、その匂いを感じ取りたいとは思わない。ただ、恋人と同じ感覚を味わえないことはいつも彼を寂しくさせた。

 ここ青童町(せいどうちょう)の夜は静かだ。人家の明かりは消え、扉や窓はどこも閉ざされる。これまで夜間に外出した早矢手が人の姿を見かけたことは一度もない。町の住民が夜行性の生き物を避けるためだ。奴らは時として人に害をなす。そのため、青童町では夜間の外出が禁じられていた。

 とはいえ住民の多くが昼行性であるこの町で、このようなルールはさほど意味を持たない。日が落ちれば眠る彼らに、夜の世界など関係ないからだ。もちろん早矢手のような例外もいたが、そうした特異な者を夜行性生物は避けるうえ、外出したところで町で夜することなど何もない。体質がどうあれ損も得もなく、町の人々にはただ平等にゆるやかな時が流れていた。

 必要とする者がいないので、青童町には街灯がほとんどない。よって、夜はとても暗かった。ここでも例外である早矢手に灯りが必要な時などなかったが、常人からすれば目を開けているのか閉じているのか、それすらわからないほどの暗闇だろう。
 しかし今夜は違った。辺りは青みがかった優しい光に覆われ、青童町の町並みがうっすら浮かび上がる。そう、今日は月夜なのだ。

 早矢手は夜の生物を嫌うが、夜は好きだった。そしてそれは、昼行性の恋人も同じであった。

「夜空の色はお前に似てるな。だから俺は夜が好きだ」

 いつだったか、松風は三日月型に目を細めてそう言ったものだ。ほんの一度だけ家の中から月を見たときも「早矢手に似ている」と笑った。
 ただ、彼が月を見たのはわずか数秒だ。夜の生き物たちは人家に入ることができないが、人が住んでいるのを知るとその家にいたずらを仕掛けるようになる。家の中から悠長に月を眺められないのはそのためだった。奴らの影響を受けない早矢手は気にする必要がないものの、松風は違う。

「お前はいつもおかしなことを言う。本当に月が俺に似ているか、確かめさせたいものだな」

 あの晩、暗闇で名残惜しそうに窓を振り返る恋人の姿に、早矢手は心で誓ったのだ。次に月が出たとき、なんとかこれを持ち帰ろうと。

 そうして一体何日経ったことか。この町に来てからというもの、時間の感覚を失った早矢手に正確な日数はわからなかったが、とにかく長い間待った。どうやら、この町の月はとんでもなく気まぐれらしい。はたまた、夜毎に空を見上げる早矢手を知ってわざと姿を見せなかったのか。どちらにしても、再び月夜が来たことに早矢手は安心を覚えた。

 目的地である空き地には人口の池がある。誰が管理しているのか早矢手も松風も知らなかったが、登下校の際など二人で覗き見ることがあった。そこはいつ見ても手入れの行き届いた美しい池で、ときおり魚が増えていることもある。どこか気怠い光を放つ青童町の太陽の下、ゆっくりと泳ぐ小魚を見つめていると不思議と眠たくなるものだ。

 昼間は活発に動き回る魚たちも、夜には眠るらしい。月明かりに身体を煌めかせながら、じっと動かず水に浮いている。
 池を見下ろした早矢手が魚と同じようにじっとしていると、彼の周りに夜行性の蝶が群がってきた。淡青色の光を放つこの蝶は水場に現れ、動かずにいる生き物の身体をたちまち覆い隠す習性がある。これを思い出した早矢手はさっさと作業に取りかかった。

 彼は自宅から持ち出したコルク栓付きの小瓶をポケットから取り出す。瓶の蓋を開け池の前に屈むと、月が映る水面にそれを突っ込んだ。月の影は水流に従い、つるりと瓶の中へ移動していく。最後に蓋を閉めて容器をハンカチで拭くと、早矢手は満足気に微笑んだ。瓶詰めの月の完成である。

「水面に映る月を、水ごと適当な容器に移し入れるといい」

 月を手に入れたいと言った早矢手にそう教えたのは、彼の通う学校の教師である吾洸(あこう)だった。

「まあ実際、俺は試したことがないがな。教えてくれた奴は、この方法でときおり月を鑑賞しているらしい。そいつは俺よりよっぽどこの地が長いから、信用していいぞ」

 吾洸はそう言うと威勢のいい笑い声を上げた。念のため早矢手は誰からの情報かと尋ね、信用に値するものであることを確信したうえで今晩行動に移している。話には聞いていたが、それでも拍子抜けするほど簡単な作業だった。しかし、松風に月を見せることが目的の早矢手にとって、作業の手応えなどどうでもいい。むしろ楽するに越したことはないのだ。

 そうして得た月入りの小瓶をしばし見つめていると、早矢手は居ても立っても居られなくなった。自分はとうとう月を捕まえたのだ。松風が焦がれるしかなかった夜の月。ようやく今夜、存分に見せてやれる。そう思うだけで、気持ちが急いてたまらなかった。早矢手は瓶を握りしめると、恋人の眠る自宅へ走り出した。その時である。彼は自分の足元に何かがうずくまっているのを見た。

 気づいた頃には遅く、早矢手は塊に足をひっかけ地面に倒れた。

 痛みを感じたのは一瞬のこと、すぐさまハッとして身体を起こす。小瓶を地面に落としてしまったからだ。早矢手は素早く立ち上がると、数メートル先に投げ出された瓶に駆け寄った。

「よかった…」

 どうやら手から離れて転がっただけのようだ。瓶には傷ひとつついていなかった。彼は地面にへたり込み、ひっそりと月が浮いたそれを両手で包んだ。背後からはゲコ、と地鳴りのように低い声が聞こえる。

 早矢手が恨めしそうに振り返ると、そこには岩のような大蛙がいた。身体が白いのは泥なのか、所々ひび割れて乾燥している。水を求めて池に近づいたのだろうか、しかし彼らに何を問おうと返ってくるまい。呑気にあくびをする蛙を見てると、馬鹿馬鹿しくて怒りも冷める。

 立ち上がって身体の土を払うと、早矢手はシャツの胸ポケットに瓶を入れた。両膝から血が出ていたがたいした怪我ではない。家についたら素早く手当をして、松風に月をあげよう。早矢手は転ばぬよう注意しながら、再び帰路を急いだ。

瓶詰めの月

瓶詰めの月

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-03-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted