奇想詩『犬に腰を振られる』
私はどこへ行っても犬に腰を振られる
道端や公園や祖母の家でも腰を振られる
私はずっと犬を飼いたかった
けれども腰を振られるので飼わなかった
私はどんな犬種にも腰を振られる
チワワトイプードルダックスフンド
ヨークシャテリアポメラニアン
シーズーキャバリアミックス犬
柴犬
きっと私には
犬に腰を振らせる何かがあるのだろう
犬に直接話を訊ければ
いちばんいいのだけれども
やはりそういうわけにはいかない
リンスインシャンプーの匂いのせいなのか
四十デニールの黒ストッキングのせいなのか
処理のあまいスネ毛のせいなのか
あるいはそれらすべてのせいなのか
もしかすると原因はもっと
形而上学的なところにあるのかもしれない
犬に腰を振らせる形而上学的要因
それはいくらか深遠なテーマのようにも思えたし
この世で最も馬鹿げた題目のようにも感じられた
犬に腰を振られない人生と腰を振られる人生
その二つのうちどちらかだけを選べるのだとすれば
私は腰を振られない人生を選ぶかもしれない
けれども腰を振られなくなったらそれはそれで
何か物足りなくなるのかもしれない
不思議なことに人というのは
すでに失われたものに価値を見出し
それを取り戻したくなるものなのだ
(往々にしてそれが戻ってくることはないのだけれども)
だから今は
犬に腰を振られなくなった世界にいることにして
犬に腰を振られたらラッキーで
私もまだまだいける
ということにしている
あ
犬だ
ふんっふんっふんっふんっふんっふんっふんっ
「ちょっと!やめなさい!すみません!」
あ いいんです いいんです
好きなだけ振らせてあげてください
この子にはこの子なりの腰振りがあるんですよ
犬の腰振りのリズムと振動が
足から伝わってきて
なんだか生きている気がした
地球が自転して公転して
潮が満ちて引いて
犬が腰を振っている
これほど確かな感覚は他にはない
犬の名前はラッキーだった
奇想詩『犬に腰を振られる』