逃げるな
どうして、こんな事になってしまったのだろう。
ゆっくりと、目を閉じる。何も見えなくなった真っ暗闇の中、全てが夢でありますようにと願う。こうやって、目を閉じて、次に目を開け時には、目の前に広がっていたあの目茶苦茶な世界が無かった事になっているかもしれない。いや、無かった事にして下さい。お願いです。いつも「神様なんていねえよ」なんて、言っているけど、今は信じるんで、お願いします神様。
閉じた時と同じぐらいゆっくりと目を開けた。やっぱり、そんな都合のいい神様なんているはずもなく、目の前には、目を閉じる前と何も変わらない世界が広がっていた。
「これは、全部夢だろ。」
「違います。現実です。」
ポツリと呟くと、すぐさま隣にいる友人が言う。逃げるな。目を背けるな。ごまかすな。全て事実。これが、現実だ。
「貴方は逃げてはいけない。貴方が逃げたら、他の皆はどうすればいい?」
「…知らないよ。」
呆れ顔の友人がため息をはいた。それを見てから「そんな顔、しないでほしい。君には笑顔が似合うよ。」なんて、気取った感じに、おチャラけてみたけど、凄い形相で睨まれた。慌てて、顔を引き締める。場を和ませようとしただけなのに。
「ふざけている場合じゃないって事、解っているんですか?」
少し苛立った声で友人が言った。解っている。解っているけど、こうでもしないと自分を保てない。色んなものに、今にも押し潰されてしまいそうだ。
こんなはずではなかった。こんなはずではなかったのだ。
もう一度、目を閉じようとした。途端にバチンという音が響き、両頬に衝撃が走る。ヒリヒリと痛む頬には友人の手。
ぶっ叩かれたのだ。隣にいたはずの、だが、いつの間にか目の前に移動していたこの友人に。両頬を挟むようにして思い切りぶっ叩かれた。なにこれ痛い。凄く痛い。可愛い女の子に「もう!駄目でしょ!」って言われて、軽くペチンと両頬を挟まれる…なんてもんじゃない。本気で痛い。それ以前に、こいつ男だし。全然嬉しくない。
「逃げるな。そう言ったはずですが?」
「ごめんなさい」
絶対零度の視線が突き刺さる。子供が見たら泣き出す。小動物が見たら本能で逃げ出す。そんな感じの目だ。そんな目で言われたら、逆らうなんてこと、できるわけがない。しかし、おかげで目が覚めたようだ。さっきまでの、押し潰されてしまいそうな感じは無くなっていた。友人に怒られて、ビビって目を覚ますとは、我ながら単純だ。というか情けない。でも今は気にしない。
「もう、逃げないよ。」
だから、力を貸してくれないか?そう言って、友人の顔を真っ直ぐ見た。彼は一瞬驚いた顔をしてから「もちろん」と軽く微笑んだ。がっちりとお互い握手を交わす。これからが、勝負。
俺たちはこの戦場という名のキャンプ場で、ひっくり返ったカレー鍋をどうにかしなければならないのだ。
何が起こったのか、少し整理しておこうと思う。
今日は、待ちに待った、毎年恒例の学校行事であるキャンプの日だった。キャンプといえばカレーだ。五人組みの班に分かれて晩御飯であるカレーをそれぞれ用意する。順調に進んでいたカレー作りだが、完成間近で、班員の一人が火傷をしてしまったのだ。保険の先生のところに行くその子と、付き添いが一人、その事を先生に報告しに行く一人、そしてカレー鍋を見ておく居残り二人、計三つに別れた。その間に事件が起こったのだ。居残り二人とは当然、俺と友人の事だ。俺のちょっとしたミスで鍋をひっくり返してしまったのだ。そう、ほんのちょっとしたミスで、だ。詳しく話す必要はないと思うから、このミスがどんなミスなのかは省略することにする。
「とにかく、どうやって、誤魔化そうか?」
「誤魔化す気満々なんですね。」
え?駄目か?と友人に尋ねる。瞬時に「駄目だろ」という言葉が返ってきた。
「素直に謝ればいいんですよ。なんで、誤魔化そうとするんですか?」
「知らないほうが良いってこともあるだろ。」
「いや、これは知っておくべき事です。」
皆の晩御飯なんですよ?と友人が言う。そうだよ。分かっているさ。でも、カレーが全部駄目になったって聞けば、皆ガッカリすると思うんだ。
「とりあえず泥水を用意するんだ。」
「何に使う気ですか。まさかカレーに見立てるなんて言いませんよね。ていうか言ったら、ぶん殴る。」
あ、俺殴られるな。なんて思って黙っていると、何も言っていないのに友人に叩かれた。酷い。
「貴方は、いつもそうやって何事からも逃げようとする。」
「別に、逃げてない。」
「逃げていますよ。」
あまりにもはっきりと言うものだから、少しばかりムッとなった。言い返そうとしたら、その前に友人が話し始めた。…何だか、嫌な予感がする。
「だいたい、カレー鍋をひっくり返した理由が、珍しい虫がいたから無我夢中になって追いかけて、よそ見をしていたら鍋に足を引っ掛けたって…貴方幾つですか!」
「…。」
何も言えない。
「まぁ、そんな貴方から目を離していた俺にも責任はありますけどね。」
と、友人が言う。やっぱり何も言えない俺は、黙って友人の言葉を聞いていた。さっきまでの俺の勢いは何処に行ってしまったのだろう。
ちょうどその時、遠くの方から班員たちの声が聞こえてきた。戻ってきた彼らは、この状況を見て始めに「何があった」と口を揃えるだろう。次に、「どうしてこんな事になってしまったのか」と続くはずだ。よし、土下座の準備はできている。
『どうしてこんな事になってしまったのだろう。』そんなこと、分かりきっていたはずだ。そう、ただ俺が少し馬鹿だっただけだ。
終
逃げるな
書き出し統一企画で書いたものでした。