桜の樹の下には
2007年に書いたものです。月日も経つのは早い。
桜の樹の下には。
夜桜が怖いものだと気づいたのは高校生のときだ。通っていた学習塾の居残りで遅くなって、たまたま地元の桜の名所として有名な公園を通りかかった。ほとんど夜中近かったので、花見の季節といえど誰もいなかった。これはいけないなと直感した。こんなところに長居してはいけない。恐怖に近いものを感じて、私は早々に立ち去った。しかし、同時にそれはものすごく美しく魅惑的な光景であった。
そのあとしばらくして、梶井基次郎の「桜の樹の下には」を読んだ。私は何故夜桜があんなにも美しく怖いのか納得した。以下一部抜粋する。
「一体どんな樹の花でも、所謂真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それはよく廻った独楽が完全な静止に澄むように、また音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻想を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。
しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持ちになった。しかし、俺は今やっとわかった。
お前、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像して見るがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがお前には納得が行くだろう。
馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐乱して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくのような食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。
何があんな花弁を作り、何があんな蕋を作っているのか、俺は毛根の吸い上げる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
お前は何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。俺はいまようやく瞳を据えて桜の花が見られるようになったのだ」
桜は美しい。これは日本人なら大抵認める。私は可憐な昼の桜も好きだ。しかし、夜桜はもっともっと美しい。そして私の心を虜にする。それは何故か?桜の満開の頃、私達日本人はその花に人生の儚さを想い重ねる。私は梶井基次郎みたいに感受性が鋭くないから、上手く表現はできないが、闇に浮かび上がるあの花の白さは夢のように美しく、儚く、力強く、あれはまるで生命そのものである。「灼熱した生殖の幻覚させる後光」とは上手く言ったものだ。梶井基次郎は素晴らしい。
その桜の後ろに控えるのは、深く沈んだ闇である。白と黒。白黒は正確には色ではないらしい。明度が全くない状態が黒、それが最大になると白になるという。対極にあるもの。白と黒の凄絶な対峙があるからこそ、夜桜は美しいのである。梶井の表現になると、黒は屍体たちである。いまや生命力あふれんばかりの美しい桜と醜い腐乱屍体。対極にあるもの。それが一つの空間にあるというこの凄絶さ。
梶井はまたこう書いている。谷をさまよっていると、「思いがけない石油を流したような光彩」が一面に浮いている。それは「何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体」だったと。「それを見たとき、胸が衝かれるような気がした」と。
「この渓間ではなにも俺を喜ばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んで来る」
私は梶井基次郎のこの文章をよく理解できる。美醜、生死、そうやって平衡を取るんだね。梶井さん。まあこういう感性は病的だということは私も認める。
私の母が梶井を読んでいったことは「まるで肺結核の人が書くような文章だ」だったが、まさしくドンピシャである。梶井は肺結核だった。そして若くして亡くなった。梶井基次郎も夜桜を眩しいと思って見ていたのかもしれない。遠くはないだろう自分の死を思いながら。
それにしても夜桜は美しい。同時に怖い。
そして多分そう思っているのは私だけではない。
桜の樹の下には