『DUMB TYPE 2022:remap』展
一
アーティゾン美術館で開催中の『DUMB TYPE 2022:remap』の展示室入り口付近に並ぶターンテーブル・プレイヤーでは世界各地でフィールドレコーディングされた音が再生される。その内容はある女の子の笑い声であったり、あるいは街行く人々の活気そのものといえる喧騒若しくは雑踏の記録であったりと私たちの日常で拾えるものと大して変わらないのだが、発光するレコード盤に記された世界各地の名称を知識以上に遠ざけるコロナ禍での移動の出来なさを思うとその意味する所は一気に広がり、実感に基づくリアルが駆動し始める。ここに配布物から得られる情報としての、各ターンテーブル・システムの位置関係が東京から見た時の方位に従って配置されているという事実を加えると会場全体がくるくると回る地球儀の様に想像できて、断片的な記録群が鑑賞者の生活実態をノックし始める。向こうもこちらも変わりはしない、互いに今もこうして営みを続けている。
テクノロジーと身体性の関係を見つめ直す独特な視座を映像や音楽、あるいは総合的なパフォーマンスで提示するという紹介文からはダムタイプというアーティスト集団に対して無機質な印象を覚える筆者であったが、上記ターンテーブル・システムから成る《Playback》という作品表現にあるメッセージ性は実に人間らしくて仕方なく、肩肘を張って鑑賞する必要性に向けた意識の強張りを自然と解消してくれた。それによって軽くなった足取りがまた、鑑賞に臨もうとする気分を高めてくれるのだった。
二
改めて記せば『DUMB TYPE 2022:remap』は第59回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館展示室にて発表された《2022》を、過去作品で試みた表現方法をも加えて再構成したものである。そのためにアーティゾン美術館6階の展示スペースに合わせて、上記日本館展示室が90%の比率で模した空間となって再現されている。
その展示空間の四方の壁で行われる光の表現は二つある。一つはレーザー光を高速回転する鏡に反射させ、その色や強さの変化を帯状にかつ不連続で見せるもの。もう一つは5本の光線を1秒間に122,800回明滅させて6,144個の点として壁に表現し、1850年台の地理の教科書に見られた普遍的な意味を持つ問いとして再現するものである。これらの装置による表現は《2022》でも行われており、ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の会場の方では展示室中央に天窓を設けて自然光を室内に引き込み、真下にある鏡面に反射させて光に関する人為と自然の共存ないしは相対化が図られたりしていた。これに対して本展の方ではLEDパネルが天窓の代わりに設置され、四方の壁に流れるレーザー光によって表現される記号ないし意味への応答を試みる。
端的に言えば、LEDパネルの画面上で行われる映像は縦に貫かれる空間表現と評価できるのだが、その画面に映される地名と地形で形作られる世界地図又は満点の星空を思わせる光天の集まりは反転した状態にある。そのためにこれらの映像情報を鑑賞者が正確に知ろうと思えば、真下に設けられた鏡面を覗き込むしかない。情報取得過程におけるこのワンクッションは合理的に見れば非効率なものと言い得る反面、作品表現として受け止めれば、展示室を構成する四方の壁に向けて展開するレーザー光の表現行為の限界を意識させる。すなわち、かかるレーザー光の表現が四方の壁という物理的な存在に阻まれて展示会場を閉じ込めるのに対して、LEDパネルの画面で行われる映像表現は鏡面というワンクッションを挟むことで、鏡の「向こう」に流れ去る地図や星空という印象を鑑賞者の側に強く残す。この印象が自然光を取り込む以上の無限定さを会場内で表現することを可能にし、閉鎖的空間の破壊を想像的に遂行する。その解き放ち方は《2022》を軽く超えると筆者は思う。
では、とばかりに本展の奥まった展示スペースで展開される作品表現は上述したレーザー光を用いた閉鎖的空間表現とLEDパネルの画面で行われる鏡像的映像表現の双方を組み合わせた傑作となっている。
当該作品表現はLEDパネルを向かい合わせになる格好でスクエア状に組み、展示会場の上部に吊るして鑑賞者がその内部で行われる映像を観るという形で行われる。故にそこには閉じ込められた空間性が生まれ、その画面上で夥しく流れる英単語の数々が見せる動きの規則性と、次に何が起きるか直ちに知れない不規則性が噛み合わさって私たちが住むこことは別の、途方もない広がりを見せる映像世界の「向こう」側を知らしめる。
三
百聞は一見にしかずという定番の諺を持ち出すまでもなく、《2022:remap》の視覚情報に拠った上記作品表現の説得力をさらにダメ押しにするのがレーザー光に係る装置とは別に展示会場に設置されていた、超指向性スピーカーによる時間的な表現行為である。
超指向性スピーカーは任意のエリアと方向に音を届けられる機能を有する。なので、当該装置を用いれば鑑賞者の不意を突く形で任意の音を届けることができ、不在と実在の隙間を縫うようなリアルタイムな作品表現が可能となる。本展においてもかかる機能をフルに活用したサウンドが《2022:remap》の空間表現を堪能する鑑賞者を驚かせ、本展でダムタイプに初参加した坂本龍一(敬称略)の知人たちによる朗読が特別な興味を引き起こしたりするのだがかかる表現によって最も呼び起こされる身体実感があり、これが正しく人間的時間感覚へと変じていって《2022:remap》を構成するテクノロジーの各要素に有機的な繋がりを与えていた。
ここで思い返せば前述した《Playback》の作品表現も光を失い、何の音も発しない沈黙を保つ時間があった。壊れているのかな?と思ってその前を通り過ぎた後で戻って来ると素知らぬ顔して記録にある世界各地の情景を再生するのだが、その空白の意味する所は、一拍を打ち鳴らすにも必要となる「叩かない」という消極的選択に基づいた時間表現に他ならないと筆者は考える。
四
例えば私、という点から一歩踏み出すだけで明瞭なイメージを獲得して見え出すであろう、私たちの「世界」を統合するために身体の各器官から送られてくる情報。それを脳内で処理する度に得られる肉体的事実としての実感があり、また一方で自己言及の矛盾をものともしないテキストぶりを獲得して何度でも読み解ける「記憶」の記憶が厚みを増して、「私」という一貫した態度を取ることを私に許す。
こう考えた時に観測地点としての私が「世界」で起きる出来事の逐一を意識的に把握していないことで齎されている安定性、その裏側にあるものを暴くのではなくて、技術的に表現するに止める。その躊躇が生む限界をもった再現性に有意味な無意味は必ず宿り、想像力の膨らみを得た空間を「世界」とみなす機会を私に与える。そうして明るみになる事実、すなわちその「世界」で起きることを把握するにも又はそこで起きたことを取るに足らないと判断するのにも必要になる私の「世界」だから、私の世界に波は立つ。揺れに揺れて、その真実を自白する。幽霊でも妖怪でも、ひょっとすれば神に等しい存在であっても命を得て、いつしか現実となる余剰。無意味に思える無意識の存在。
《2022:remap》が成り立っていたあの空間の三次元的把握と、そこで行われていた時間的表現はその間接的な存在証明を果たしていた。閉じて、開いて、閉じていく。生きる風穴となるべき私にこそ成せる統覚を、そのあり方を問う。それこそが本展の真価。子供のようにはしゃいでこそ楽しめるテクノロジーと身体の関係だと筆者は総括したい。
ただのコンテンツと片付けるには余りにも勿体無い真摯な問いかけを行うダムタイプの作品表現、その複合的な再構成が《2022》以上の興味深いテーマ性を獲得したのだとここまで記して実感する。『DUMB TYPE 2022:remap』。興味があれば是非、アーティゾン美術館に足を運んで欲しい。
『DUMB TYPE 2022:remap』展