死人の腰掛
不思議小説です。
日曜日、隣駅のデパートに紅茶を買いにいってほしいと、星(せい)にいわれた。アッサムティーの葉がなくなったという。星の朝食は、トーストにハム、それに必ず紅茶と、果物である。パンは住んでいるマンションの一階にある小さなパン屋でイギリスパンかバケットを買う。
星と一緒に住むようになってまだ半年。星は絵を描いていたのだが、今は本の装丁を楽しんでいる。僕の出版社が本の装丁を依頼したことから顔見知りになった。僕の担当する作家は若手のちょっと風変わりなものを書く人が主である。幻想系にあてはめるのは簡単だが、現実からしみでる幻想とでも言うのだろうか、いかにも幻想という作品ではなく、何気ない日常に見られる人間のちょっと理解できない行動から起きる出来事を描いている。そんな内容に、星の絵はよくあう。一度ならず、彼女が装丁した本の作家から、文学賞の受賞者がでた。装丁は本の中身をよく現すもの、感じさせるものでなくてはならない。
星は今一冊の本の装丁を頼まれていて、それに没頭している。「死者の居場所」というタイトルの短編集で、様々な生涯を送った人が亡くなったあと、どのようなところに行くかという奇妙な話である。
それで、今日、僕が買い物を頼まれたというわけだ。僕の会社は、土日は基本的に休みであるが、本の編集という仕事の関係上、作家との打ち合わせも多く、土曜日だけではなく、日曜日も返上のことが多い。今日は珍しく休みである。彼女の好きな紅茶は隣の駅のデパートにしか売っていない。
開店すぐにいくとすいているので、十時ちょっと前に家を出て駅に行った。もうすぐ各駅停車がくるはずである。僕らのマンションは駅にほとんど繋がっているといっていい、とても便利なところだ。
ホームに上るとちょうど電車がきた。がらがらだ。
一駅だけど腰掛けることにした。
広くあいている席に腰掛けるとおしりになにかあたった。なにもないところに腰掛けたのに何かの上にのったかんじだ。股の下をのぞき込んだがなにがあるわけではなく、あるのは薄緑の布のシートだけである。
しかし、お尻の下にちょっと飛び出したものが二本ある。石のように堅くなく、と言ってクッションのように柔らかいわけではない。何の感触だろうと考えているのだが、思いつかない、なんだか懐かしいような思いもある。
周りに人はいないこともあり、両手を脇からお尻の下にいれてみた。シートの感じではない、二本の大根。
え、っと思って、お尻を浮かして下を見た。やっぱりなにかがあるわけではない。
また腰をおろすと飛び出したものの上にのっかった。今度は何であるかはっきりした。
人の足のうえである。腿の上だ。
子供の頃、父親の、いや母親かわからないが、ともかく足の上に腰掛けた時こんな感じをもった。
自分のお尻を見ると、座席から浮いているわけではない。
手をやると、たしかに二本の足に触れた。しかも布の上から触っている感じだ。足を触っていくと、布の先がふれ、その先は生の足だ。素足だ。
え、これはミニスカートだ。素足に手をやると、いきなり座席から弾き飛ばされた。
運よく、駅についてドアがあいた。僕はその勢いで、ホームに勢いよく飛び出した。危なく転ぶところだ。振り向いて座席を見たが、なにがあるわけではなく、誰がいるわけでもない。がらがらな電車だ。
心臓がどくどくしている。ともかく駅に着いた。駅のホームからデパートに直接入れるエレベーターにのって、無人の改札口をでた。デパートの四階につく。
食料品売場は1階なので、エスカレーターでおりていつもの店に行く。アッサムを三袋ほど買って、ついでにフルーツロールケーキを一本買った。星が好きなケーキだ。
デパートで買い物というのは好きな方ではない。いつも買うものを決めていて、買うとすぐ家に帰る。今日も買ったものを持ってすぐに駅の改札口にむかいホームに立った。五分後に下り特急がくる。そのあとすぐにくる各駅停車をまつ。
各駅停車はともかくすいている。
僕は誰もいないところに腰掛けた。
まただ、誰かが座っているようだ。誰かの腿の上に腰掛けた感じだ。
腰を浮かして自分の席を見たが誰もいない。また腰を下ろす。やっぱり足の上だ。手でお尻の下の足を触り、下の方にもっていくと、電車の床のところで靴にふれた。ズック靴だ。手を逆に上に向かってはわせていくと、布の端がふれた。布の下に手を持って行くと、いきなりほっぺたをパチンとたたかれた。
あわてて席を立つと、反対側の端の席にいる乗客がなんだという顔で僕を見た。
僕はドアの脇に行くと、外の景色を見る振りをして立った。自分の座っていた席を見た。誰もいない。
マンションに戻ると、星がキッチンからお帰りなさいと声をかけた。
キッチンのテーブルには紅茶を入れる用意がしてある。
「ありがとう、紅茶買い置きがあるかと思ってたら、なにもなくなっていたの」
僕は紅茶とロールケーキをわたした。
「わー、ケーキも買ってくれたんだ、言うの忘れたと思ってたんだ」
彼女はかわいいえくぼを寄せて、
「すぐ紅茶入れるわ」と用意をはじめた。
僕は紅茶葉をポットに入れている星の腿に触ってみた。
「なにすんの、くすぐったい」
星が半分笑って僕を見た。
「うん、いや、人の足ってどんなもんだったか、触ってみた」
「あら、やだ、いつも触っているじゃない」
「いや、その、なんていうか、普通の時の足」
「いつも普通よ、あなた欲求不満なの、もうすぐ仕事おわるよ」
電気ポットから湯を注いだ。
「いや、そういうわけじゃ」
電車の中の出来事が自分でも信じられないのに、説明をして、そのときの状況をわかってもらうといってもむずかしい。精神科にいけとでも言われそうだ。
彼女はロールケーキをあけて皿に切り分けた。
紅茶をカップに注ぎ、一つを僕の前に置くと、
「おいしそ」
腰を下ろしてさっそく口に運んだ。
「あの作家おもしろいわね、イメージがわくわよ、いい装丁ができそう」
電車の中のことは忘れて、仕事のモードに頭をきりかえた。
「そうだな、きっと、何かの賞は取るんじゃないかな、雑誌に掲載されていたときから、一部のマニアは騒いでいたし」
「そうね、幻想系の賞だわね」
「そうだろうな、あの本は彼女の五冊目くらいかな、直木賞の候補ぐらいにはなるかもしれないな」
「直木賞じゃつまんないわね、もっとそれらしいのがいいな」
「どんなの」
「泉鏡花賞とか」
「あの賞も昔と違って個性が薄れているよ、最近の受賞者はすでに有名な人が多くて、受賞作は僕から言わせると泉鏡花の香りなんかしないよ」
「そうなの」
「星が装丁した本がどうなるかの方が楽しみだよ」
「ハードカバーよね」
「うん、いい本にしてよ」
月曜日、いつものように、8時半の各駅停車で隣の駅で降りて特急をまった。新宿まで30分、座れることはないが、この時間になると人と人の間がとれるほどの混みようなので、立っていても楽である。
特急では中にはいり吊革につかまった。両隣に人がいないのは気楽である。僕はスマホを電車の中では見ない。イヤホーンで音楽を聴くのもいやなので、立ったまま外の景色をながめる。電車が川を渡るときなど、思わぬ光景を目にすることもある。中州一面に白鷺が多い尽くされていたり、流木が流れていたり、想像をかきたてる。まだ、いつか自分も小説を書いてみたいと思っているようだ。外の景色を見ながら、頭の中でストーリーを考えつくこともある。流木に中州にいた白鷺が乗り移り、海に行くまでの物語。おもしろいイデアだと思うものがあると、会社で自分のPCに書き留めておいたりする。
その日も景色を見ながらそんなことを考えていると、電車が急に速度を落とした。右に傾いて転ばないように足を踏ん張ったところ人の肩に自分の肩がぶつかった。すみませんと言おうと隣を見ると誰もいない。
電車はまたもとの速さにもどり、体の体制をたてなおして、ちょっと右寄りに移動するとまた誰かにぶつかった。左手で吊り輪を持っているので、右手が体に触れたのだ。人の腿のあたりだ。右には誰もいない。もう一度手をうごかしてみた。足だ。やっぱり足だ。スカートの上から腿の脇に触れている。女性だ。
痛て!
いきなり、右手の甲がぎゅーっとつねられた。
なんだか気味が悪い。体を左のほうに移動させた。次の駅に着くと何人か乗り込んできて、僕の隣にも男性がたった。もう開いている吊り輪はない。さっきのはなんだったんだろう。もやもやしたまま新宿に着いた。隣に男性がたった以降は女性の腿に手が触れることはなかった。
会社にいくと、編集会議で来年早々に出版する予定が決まった若い作家に電話をいれた。数種類の雑誌に短編をのせていて、新人賞の候補にはなっていたが受賞はしていない。最近、うちが出している雑誌にも一つ掲載された。まだ二十歳前の大学二年生である。
名簿に記載のある携帯に自分の携帯から電話を入れた。
呼び出し音は聞こえるがでない。留守番電話になった。そこで、出版社の編集部の人間であることを言って、また電話をすると切った。
ほんの少しの間があったがすぐに電話が来た。
「由良です、電話をいただいたようで、でられずすみません」
今かけた女性作家からの返信だった。由良凪(ながれ)という作家だが本名のようだ。
「実はうちの編集部で、先生の本を作りたいという話がでまして、ご本人がよければ、来年早々に出版したいと考えています」
そこまでいうと、由良さんの声のトーンが変わった。明らかに喜んでいる。
「ほんとですか。ありがとうございます、お願いします」
若い女性にしては落ち着いた話し方をする。安定した人のようだ。
「お会いしたいと思いますが、どちらにうかがったらよろしいでしょうか」
ちょっと間があった。
「あの私のところ藤沢ですので、遠いので、私のほうから出向きます、ただ土日ならいつでもいいのですが、平日は夜ならあいています、授業がつまっていまして」
まじめそうだ。新人にこのような電話をすると、なにが何でも飛んでくると言った勢いの人の方が多い。
一冊本を出したからと言って、それだけで食べていくことのできる作家になるのは一握りだ。どの世界でもそうなんだろう。もしかすると、この女性はうまくいくほうかもしれない。
話をすすめ、明後日土曜日の八時に新宿のビルにある編集部にくることになった。
編集部にやってきた由良さんは小柄なすっきりした人だった。赤い靴をはいてさらした木綿のザクッとした薄黄色のワンピースを着ている。地味だ。
会議室で打ち合わせをした。四六上製本にすることを伝え、今まで雑誌に載せた作品の中から五編の短編を選んで、書き出した紙を見せた。
「これは、参考にしてください、僕の好みで選んだものです」
「はい、どれも自分では好きなものです、書き下ろしを一つ入れることはできるでしょうか」
と聞いてきた。
書き下ろしをいれるとなると、ちょっと冒険である。作品を読んでみないとわからない。そのことを伝えると、バックの中から打ち出した原稿をだした。
「できているのですか」
「はい、どこかの雑誌に載せたいと思っていましたが、電話をいただきたとき、初めての本に入れるのもいいかと思いました」
彼女にとって処女出版になる。
「そうですね、一度原稿を読ませていただいてから、考えさせていただいていいですか、内容によってはうちの雑誌にまず載せるという手もありますので」
そういうとうなずいた。
一度雑誌に載せて、改稿を重ねた方がよくなる。熟練の作家になれば、その方が収入も増えていいわけだが、若い作家は本になることが大きな励みになるので、収入は二の次になる。
「掲載の順やタイトルなど、お考えいただいて、また打ち合わせしましょう、由良さんはいくつも雑誌に載せていらっしゃるし、まだ若いし将来有望な作家さんですよ」
というと、あまり顔色も変えず、それでも嬉そうではあるが、「作家でやっていく自信はないので、大学院に行きたいと思ってます」
社のファイルにはフランス文学専攻とある。
「誰か好きな作家がいらっしゃるのですか」
「フランスでなぜポーが受けたのか、アメリカではなぜ受けなかったのか、そんなことに興味があります、結局ポーに興味があるのですね」
とはじめてにっこりした。
「ポーですか、書かれているものはポーとは違いますね」
「ええ、私はポーじゃありませんから、ただ、ポーの作品と言うより、ポーのような人といったらいいのかしら、そういった人の頭の中が知りたいし、フランス人はポーの脳の働きに共鳴したのだと思ったので、なぜかとおもいました」
哲学や美学の方面の人のようだ。軽くない。彼女は「ポーの脳のように浮遊して」
と突然言った。急なので何のことだと一瞬思ったのだが、彼女は「私の本のタイトルでどうでしょう」と僕を見た。
僕は、あ、そうかと思って、彼女の最近雑誌に載せた小説を思い出した。彼女が思いついた考えが頭の中から勝手に飛び出して、彼の頭の中に入り、彼が自分の仕事を突然辞めて、私の考えついたことを実行するという、少しばかり変わった話で、SF的でもあるが、決して物質に重きを置いたものではなく、どちらかというと人間心理の機微をついたものだ。
彼女は、
「お話をしていて突然思いついたものですから」
初めてうれしそうに笑った。
「小説もこういった書き方をするのですか」
「はい、そうなんです、思いつくと筋書きを考えることなく、話が指先からでていくんです」
指がキーボードをたたいて、ワードなどの文章ソフトによって画面に映し出されていく様子がみえてくる。
「タイトル面白いですね、まだ時間がありますから、収録する小説を確定されてからタイトルはきめましょう、それでよければ編集会議にかけます、これは由良さんが今まで雑誌に載せた小説のリストです。由良さんの書くものは個性豊かですので、どれを選んでもいいかと思います。由良さんにとって最初の本ですから、気に入ったものをいれるのが、これからの活動のエネルギーになると思いまして、数日中に載せる小説とタイトルのお返事をいただけますか」
「はい、ありがとうございます」
そういうことで、若い作家の初めての本の打ち合わせが終わった。すべてを編集部に任せるようなタイプの人もいれば、彼女のように、かなりこだわりのある人で、自分のイメージにあったものにしたい人もいる。
彼女はこれから淡々と好きな文章を書いていい作家になるだろう。
僕は星に電話を入れ、お昼を買って駅のホームにたった。特急がまっている。こんな時間に家に帰ることあまりないが、ずいぶん空いている。座って帰ることができる。
前の方の車両にいって、広々と開いているところに腰掛けた。
あ、まただ、腰掛けたところに人が座っている。だけど見えない。しかも女子だ。
あわてて腰を上げ、反対側の席にうつった。ゆっくり腰をおろすと、今度はシートが沈むのを直接感じることができた。
ほっとして前を見ると、今自分が座ろうとしていた場所に、学生らしい女性が腰を下ろした。当たり前に腰を下ろした。何があるわけでもない。
僕のお尻や手の感覚がおかしくなっているのか。精神的なものなのだろうか。
特急を降り、各駅停車を待った。
各駅停車にのってからも、空いているシートで同じことがおきた。腰を下ろすと女性の二本の足の上に腰掛けてしまった感じだ。手をやると女性の足が触れた。
どーんと背中を突き飛ばされ、床に転びそうになったのを何とか踏ん張り、立ってドアのところにいった。周りに座っている人が不思議そうに自分をみている。
なにが起きたのか自分ではわからなかったが、ともかくマンションに戻った。
「お昼買ってきたよ」
星が自分の部屋からでてきた。
「なに」
「サラダに、パリジャンサンド」
「いいわね、コーヒー入れるね」
星は滅多にコーヒーはいれない。仕事が一段落したときなどは、飲む気が起きるらしい。ということは装丁の仕事が終わったのか。
「死者の居場所の仕事おわったんだね」
「うん、あとで見せるね」
星がコーヒーをもってきて、テーブルのカップにそそいだ。いい香りがする。
一口飲んだ。星は紅茶だけでなくコーヒーも上手にいれる。
「新人の人どうだった」
「自分を持ってる人だね、まだ二十歳なのにしっかりしている」
「本のタイトル決まったの」
「まだ、でも話の中で、ポーの脳のように浮遊して、なんて言ってた、おもしろいね」
「あら、いいわね、そんなタイトルなら、私が装丁したいわよ」
「うん、決まってから、由比さんに一応聞いてそうするよ」
「内容が何となくわかるわね、そのタイトルだと」
「そうだな、ちょっとミステリアスで、今の若い子の小説のようでもあり、シュールな内容を感じさせるものでもあるし、エッセーのようにも思える、老若男女みんなにうけるかも」
お昼を終えて、星は「死者の居場所」の装丁を見せてくれた。インディゴを貴重とした、抽象的なものだが、空や海に死者が浮遊しているのが見えるような表紙だ。
「いいできばえだね、書店の平ずみにしてもらえるね、棚に表を向けておいてくれるよ」
「そう、よかった、月曜日に会社に持って行くわね」
「うん」
その夜だった。星が僕の足の先を見て、こんなことを言った。
「あなた足の指が透明っぽくなったのね」
自分で両足の指をみると、確かに光が透けて見えるように薄赤い。体というのは以外と光をとおす。懐中電灯を手のひらに当ててみると、手の指などは赤く光がすけ、何となく骨が見えるような気になる。子供の頃よくやったものだ。そんな感じで、足の指がみすず飴のようだ。干した杏のような雰囲気もある。
「そうだな、なまっちろくなったのかな」
「色が白い方だからね、あなたは」
星は小柄だが、きれいな体をしている。桃の実の表面のような落ち着いた白い皮膚をしている。
「君の指より透明っぽくなっちまったな、靴のせいかな」
「靴きついの」
「いや、もう何年もはいていて、足にはあっているよ」
「蒸れたのかしら」
「何にも感じないから問題ないよ」
「そうね」
星が僕の足の指に触った。
「なんだい」
「絵になりそう、足の指だけ骨が透けて見えそうね」
「怪奇小説だな」
「今度、装丁に使おう」
月曜日、会社のPCに由良からメイルが入っていた。自分で選んだ五編の短編のタイトルと、未発表のタイトルが一つ書いてある。しかも小説が添付してあるということは、すでに書き終わっているものだ。そのタイトルは「ゆくえ」だった。なにの行方なのかちょっと興味をひくものだ。ダウンロードして読んでみた。五十枚ほどの短編である。いなくなった雄の黒猫のゆくえと、離れた男のゆくえの話が、折り重なってすすんでいき、どちらも車にはねられて死んでいたというドラマチックな物語だ。男の人生、猫の一生、私から離れたからいけないんだわ、という主人公のつぶやきでおわる。おもしろい。
六編になるがなかなかいい短編集になりそうだ。タイトルは、やはり「ポーの脳のように浮遊して」となっている。これでいける。
本人には編集会議にこのままかけることを返事して、会議用の資料を作成した。午後の編集会議にだそう。
編集会議では、出した資料通りに出版計画が認められ、装丁装画も星に頼むことが了解された。早速作者の由良に「ポーの脳のように浮遊して」が半年後に出版されることになったことと、相談したいむねをメイルした。星にもメイルでそのことを伝え、出版計画書を添付した。原稿は打ち出したものを持って帰える。装丁家は文を読み内容にあった本のイメージをつくる。それができればほとんど仕上がったようなものだと、星も言っている。
夜六時の帰りの特急電車の中で、吊り輪につかまり、帯にはどのようなコピーを書くか考えていた。心の浮遊、魂の飛んでいくところ、水の中のガラス玉、そんなことを考えていると、駅について、隣に立っている人が降りた。次の停車駅で各駅に乗り換える。ここまでくると、乗る人も少なく、車内に空きができてくる。
電車がでた。すると隣に誰か立っている。あいているほうの手がその人に触れた。太股のところだ。女性のようだ。そこをみるが誰もいない。窓の景色がながれていく。
またふれた。意識して触ってみた。手がはたかれた。あわててそちらの手で吊革をもった。
そのまま駅に着き降りた。
各駅に乗り換え、マンションの部屋に帰ると、星が「食事の用意できているわよ」と珍しく玄関までむかえにきた。
「死者の居場所、の装丁、社の方に送っておいた。次の本もとても楽しみ」
「うん、原稿中に入っている」と鞄をわたした。
星は打ち出した原稿をとりだすと、「おいてくる」と自分の仕事部屋にもっていった。
食事をしながら、「この作家の顔写真をさがしたけど、ネットにはないのよ、どんな人」ときいた。
「どちらかというと、今風の顔じゃないな、古い芯がある女性だよ」
「古い芯か、おもしろ、顔は?」
「どうして」
「装丁は小説の顔なのよ、作者の顔や性格を知っておくのは大事なのよ」
「彼女はまだ大学生だし、顔写真のでるようなチャンスがないからね、賞の受賞までいってないからな、この本で何かとれるといいけどね、でもきっと有名になるよ」
「そのうち会わないと」
「そうだね、打ち合わせだ、会社の方にくると思うから、星もそのとききたらいい」
その夜、星が風呂から出てきた僕を見て、
「ねえ、なんだか、あなたの体、半透明ね、心臓が動いているのが見えそうよ」」
なんという。星はたまにおもしろいことを言う。
「最近日に当たってないからかな」
そう返事をしたが、ほら、と星は色の白い自分の腕を僕の前につきだした。
自分も腕をのばして、彼女の腕に並べた。たしかに白と言うより透明っぽい。
「色素が退化したのかもしれないよ」
「メラニンが水晶にかわったのね」
またおもしろいことを言った。
一つの仕事をおえたからだろう、その日の星はずいぶん甘えてきた。
本を作るための会議はその週末に行われた。金曜日の午後である。
僕は会社で由良と星のくるのをまっていた。
予定の二時に二人はちょうどに会議室に案内されてきた。
二人ともお辞儀をして向かい合って座った。星の隣には装丁室の担当者、由良のとなりは単行本編集部の課長、それに担当の私の五人である。僕が由良さんに星を紹介した。星がよろしくというと、由良もこちらこそと返している。
課長が挨拶の後これからの予定の概略を説明して、ぼくにバトンタッチすると、上層部との会議のために部屋をでた。
由良に希望通りに掲載することを改めて説明し、装丁室の担当者がすでに原稿を四六版の形に編集し打ち出したものを配った。電子版で原稿が入るので、すぐに出来上がりの形にすることができる。
「カットを入れることを考えています。ご希望はありますか」
装丁室の担当者が由良に聞いた。
「いえ私絵はわかりません、でも星さんの本を知っています、不思議な感覚の絵だと思ってその本を買いました。担当してくださると聞いてよかったと思っていたんです」
それを聞いて、星は黙ってえくぼを寄せていた。
「それじゃ、星さんにカットも描いてもらいましょうか、星さんよろしくお願いします」
担当者が星に言うと、星は「はい、もちろん喜んでお引き受けします、想像力をかき立てるいいタイトルですね、思い切りいいものを描きます」
星にしては珍しく力がはいっている。
装丁室の担当者はそこで出ていった。僕はこれからのことを細かく説明した。
「打ち合わせはこれで終わりですが、由良さん、出版までまだ時間がありますので、原稿の見直し、改変は可能です。本の形にしたものをネットで送りますので、それに直接直してくださって結構です、僕の方もこの原稿に目を通して、赤字を入れて、ネットで送りますので、参考にして訂正なりしてください。何度か訂正をしましょう」
「はい、ありがとうございます」
「これで編集会議は終わります」
星が「由良さん、時間があったらその辺でコヒーのみませんか」と声をかけた。
由良ははいとうなずいた。
星が僕に向かって、「それじゃね、先に帰っているわよ」
と声を掛けたものだから、由良が驚いた顔をした。
「あ、すみません、僕のパートナーです、会社にはまだ言ってないもので」
星がいけないと言う顔をした。
由良があらっという顔になった。
「よろしくお願いします」
改めて、僕の方におじぎをして、星とともに会議室を出ていった。
五時半になり、いつもより早く会社をでた。
自分にきがついた時、特急電車に座っていた。この時間に座れるというのはなにかあったのだろうか。みな座っている。お年寄りが多いが、本を読んでいたり、中にはスマホを見ている人もいる。若い人はちらほらだ。あっという間に乗り換えの駅についた。
ホームで各駅停車をまっていると、定時に緑色一色の電車がやってきた。ずいぶん昔箱の色の電車ばかりだったすだ。懐かしい人がたくさんいるらしく、この色の車両が導入されたとき話題になったことがある。たまにこの電車に当たることがある。結構人気があるようだ。
やってくる電車をの前面をみると、運転席に運転手が見えない。光の具合だ。ドアが開いた。人があまり座っていない。それにしても、通勤客が多いこの時間はいくら各駅停車と言ってもこんなにはすいていない。珍しいとおもって腰掛けた。一人分離れて、六十くらいのおじいさんが腰掛けている。
「おや、まだお若いでしょう」
四角っぽい顔をしたおじいさんが話しかけてきた。どう答えればいいのだろう。それよりなぜいきなりそんなこと言ったのだろう。
「え、ええ、26です」
つい、正直に年を言ってしまった。
「お子さんはいくつ」
「いえ、まだ、一緒になったばかりで」
「そう、それなら、しばらく家にいたらいいね」
なんのことだろう
「私は、家に帰らずに、病院からすぐにこの電車に乗ってね、これから高尾にいって、中央線に乗り換えて、松本、糸魚川と日本海側にいってから、秋田、青森、北海道、日本中をまわろうと思っているんですよ、そのあと海外旅行だ、飛行機に乗ったことがないからね、なにかに腰掛けていないと、飛んじゃうんだんよ、自分の家ならだいじょうぶだけどね」
なにいっているのだろう。
「長い旅ですね」
「のんびりとね、そのあとに、これから住むところにいくんだよ」
そこで、自分の降りる駅に着いた。僕が立ち上がると、おじさんは「それじゃね」と手を振った。
おかしな人だと思いながら、マンションに戻ると、星はまだ帰っていなかった。
いったん戻ってから買い物にでもでたのだろうか。玄関の電気をつけて、湯を沸かした。午前中のことだったから、まだ由良さんと話をしている訳じゃあないだろう。
もうすぐは九時だ、おかしい、なにかあったのだろうか。携帯をかけてみたのだが、かからない。うんともすんともいわない。
十二時になろうとする頃、玄関の鍵を開ける音がした。
帰ってきたようだ。
いつも元気な星が赤い目をしてよろけて入ってきた。僕が目の前にいるのに、素通りして、寝室にはいるとベッドにうつ伏して泣いている。
「星、どうしたんだい」
声をかけたが振り向きもしない。肩に手をおいたが、彼女をふれることができない。僕は自分を見た。自分はここにいる。手をつねった、痛いじゃないか。彼女は目の前にいる。幻想だろうか。
彼女はそのままベッドで眠ってしまった。
僕はパジャマに着替えると、星の隣に寝た。すぐに眠ってしまった。
明くる朝、日の光で目を覚ますと、隣にいたはずの星はいなかった。
どこにいったのだろう。今日は由良さんの原稿に赤をいれなければ。自宅でもできる仕事だ。それが終わってから会社に行こう。
洋服に着替えると、PCを開いた。そういえば、朝食を食べていないし、水も飲んでいない。なんだか喉も渇かないし、お腹がすいていない。ともかく原稿を読んで、おかしいところや、指摘するところに赤をいれなくては。
午前中は校正にかかりっきりになった。赤をいれたものを、メイルで由良に送った。もちろん、誤字脱字以外は僕の意見でしかなく、由良が僕の指摘のように変えるか変えないかは自由である。
その日、星は家にもどってこなかった。星はあまり友達づきあいをしない。いつも部屋で絵を描いたり、装丁をしていたりしている。ときどき気に入った人の個展を見に行ったりはするが、教科書に載っているような有名な絵画の展覧会などには行かない。
それにしてもおかし、昨日の夜の態度もわからない。事故にあったりしたら連絡がくるはずである。
自分でもどのくらい経ったのかわからないが、星がもどってきた。玄関から入ってくると、直接自分の部屋にいって、作業を始めたようである。作業中は部屋に入らないようにしているが、やはりどこに行っていたのか聞きたい。
ノックをして、彼女の部屋にはいった。彼女は入った僕に気がつかず、装丁の構想をねっている。PCの画面に由良の本のタイトル、ポーの脳のように浮遊して、が書かれている。墨流しの文字がある。墨流しの中に何かを浮かすつもりなのか。脳の写真などを直接使うことはないと思う。きっと想像もつかないようなものをもちだすのだろう。
「星、いい本になりそうだね」
そう声をかけたのだが、振り向きもしない。PCに向かっている彼女の肩に手をおいた。自分の手が空を切った。
なんだ。
星は立ち上がると、首からかけていたロケットを開いた。昔から持っている銀でできたロケットだ。実家でかわいがっていた猫の顔写真がはいっている。僕によく見せてくれた。私は猫に育てられたようなものよと、よく言っていたものだ。
開いて見ている。目が赤くなっている。
後ろからのぞいてみた。
僕の顔写真じゃないか。
僕はどうなったんだ。
星はロケットを閉じると、日本画用の絵の具と、綴りになっている和紙を持って風呂場に行った。ついていくと、プラスティックのたらいに水を張った。青い絵の具を取り出して、瓶に絞り出すと水を注ぎ、習字用の筆で書き回わすした。たらいに筆の先から一滴、絵の具の雫をおとした。水面に丸くまだらの青い円が浮き出た。星がたらいに指を触れると、水がかすかに動き、スポットが崩れながれ縞になった。すかさず和紙を水の表面にかぶせ、静かに引き上げた。青い縞が和紙の表面に移しとられた。浴槽のふたの上においた。
星はたらいの水を取り替えて何度も何度もくりかえした。何枚もの青い墨流しができた。
浴室で洗濯物を干すひもを張ると、青い墨流しをつるした。
乾くのを待つのだろう。居間にいき、ソファーに腰掛け、取り分けてあった一つの新聞を取った。テーブルにのせると最後のページを開いた。事件の載っているところだ。
星がみつめているのは、ビルの広告塔が崩れる、という見出しの記事だった。
現場の写真の上に楕円の顔写真があった。
僕の顔じゃないか。
星の目がうるんでいる。
読まなくてもわかった。僕は会社をでたとき、上から落ちてきた広告塔の一部につぶされて死んだんだ。死んだことが悲しいとか言う思いはわき出さなかった。ただ信じられなかった。逆に星の赤くなった目がうれしくて、泣きそうになった。だけど、死んだ人間は涙がでないようだ。星の顔に触れてみた。あの柔らかな感触はなかった。それはつらかった。
あの夕方、電車の中で会ったおじさんを思い出した。年を聞いたおじさんだ。日本中を回って、飛行機に乗って外国に行ってみたいと言っていた。そうだ、自分の家では大丈夫だが、座っていないと連れていかれてしまうようなこともいっていた。
そうか、死んだら、電車でも何でもいいから腰掛けて、旅を続け、最後は死人の国にいくわけか。
それから僕はマンションにいた。星は由良さんの本の表紙を仕上げた。脳のしわのような模様になった青い墨流しの絵をPCにとりこんで、脳のかたちにきりとり、真っ白な表紙の中に張り付けた。白の中に浮かぶ青い脳の雲。その上に血が滴るような真っ赤な字で、ポーの脳のように浮遊して、のタイトルがある。
それができあがった日、星のマンションに客がきた。
由良さんだった。
「すてきな表紙です、ありがとうございます」
由良さんは星の作った表紙の見本を見て感激をしている。
「由良さんの初めての本だというので、私も緊張したわ」
「あんなことがあったのに、申し訳なく思っています」
「由良さんには関係ないことだわ、あの人の運命、でもあの人、この本をいいものにするんだと張り切っていたわ」
由良さんがうつむいている。
「すみません、最初にお線香をあげなきゃいけないのに、自分の本の装丁の方が気になっていて」
星の顔がすこしほころんだ。
「あの人のお骨、実家におわたししてしまったの、ここにはないし、仏壇も写真もなにもないの、だからお線香だってないの」
僕だけ、ロケットの写真のことを知っている。星のそういうところがよかった。ぐっと感情を抑えている。
「わたしこの本の装丁が終わったら、外国に行こうと思っているの、日本にもどるかどうか、日本での最後の仕事になるかもしれない。でも由良さんの本の装丁ができて嬉かったです」
「え、もしこれからも本がつくれたら、みんな星さんに頼もうと思っていたのだけど」
「うれしいわ、でも、日本はもういいわ、彼いないし」
涙が出ないのはつらい。
星は紅茶をいれた。僕の分も。
次の年、由良の本は出版された。星はマンションからでた。
僕は星の後をついて行くことはやめにした。あのおじさんのように、電車に乗って日本をまわり、その後は外国ではなく、行くべきところにいこう。
星が荷物をまとめて成田のホテルに向かったとき、僕も一緒にいった。成田エクスプレスの座席に腰掛けた星の上に僕も腰掛けた。星を足の上に載せたような気持ちになって顔がほころんだ。小柄な星野のからだが僕の中にいる。そのままヒコーキに乗って一緒にいくことはできるが、ゲートのところまでいって、後ろ姿を見送ると、すぐにエクスプレスにもどった。
新宿で小田急線に乗り換えた。
子供の頃、江ノ島になんどもいった。貝の標本を売っている店、ふぐ提灯なんかも買ったことがあった。もう一度行きたいと思ったからだ。江ノ島を歩いていると、死の国に連れて行かれてしまうという心配もあったが、腰掛けるところはどこでもいいのだろう。電車を乗り換えたりしても大丈夫なのだから、石の上に腰かけたり、そういえば饅頭やさんには椅子がおいてある。腰掛けながらの観光旅行だ。
ちょうどきたのは急行だった。あいている席に腰掛けると、あとから乗ってきた中年の女性が僕の上に腰掛けた。僕はすぐたちあがって、空いているところに移った。生きている人たちは僕たち死人がすわっていることなどわからない。しょうがないことなのだが。次に僕の上に腰掛けたのは女子高校生だった。もう空いているところはない。僕たち死人は腰掛けていないと、いつ死の国につれていかれるかわからない。旅をしたければ腰掛けていなければいけない。僕は女子高生をかかえていた。
その高校生は由良の「ポーの脳のように浮遊して」を読んでいた。それは嬉しかった。後書きを読んでいる。読み終わったのだ。のぞいてみると、後書きに僕の名前があった。担当者だった僕の死のことに触れていた。
相模大野で江ノ島の線にのりかえた。今度は各駅停車にのった。空いていたので好きなところに腰掛けられた。
外の景色を眺めていると、藤沢に着いた。なにしろ、死人は食べなくていいし、水を飲まなくていい。痛くも暑くもかゆくもない。ただ腰掛けていないとこの世を旅することができない。それも自由である。
藤沢で電車の戸が開くと、あっと声がでてしまった。周りには聞こえない。由良さんが自分の本を抱えて乗ってきた。赤い靴、ざくっとしたさらした木綿のワンピース。最初に会ったときのスタイルだ。
「ポーの脳のように浮遊して」は話題になり、本屋大賞の候補になっているし、おそらく他の賞の候補になっていると思う。僕が最後に関わった本であるし、星が装丁した本でもあるんだ。涙が出てきてほしい。
それに今、これから日本を回ろうというとき、偶然にしても嬉しいことだ。でも彼女は荷物をなにも持っていない。自分の本だけだ。どこにいくのかな。
彼女は車中にはいると僕の足の上に腰掛けた。
え、彼女の重みが感じられた。彼女の髪が僕の顔の前にある。手で彼女の足に触ってみた。足がある。
彼女は何かに驚いたように急に立ち上がると、僕の前の席に移った。
彼女の目は窓の外に向けられているが、向けられているだけで、景色など見ていない。自分の頭の中を見つめている。悩み抜いたような人の目だ。
ふっと、死んでいる僕自身が不安になって、移動して彼女の隣に腰掛けた。そうっとスカートの端に触れてみた。木綿の布ざわりがある。髪の毛に触れてみた。驚くといけないので、ほんの一本に。柔らかい毛が指に感じられた。
膝のところに僕の手をおいた。彼女はあわてて立ち上がると、ドアのところで寄りかかった。僕は寒気を感じた。僕が何回か経験したことだ。空いていた席に座ったら誰かの足の上だった。
まさか。
彼女に死が近いのか。
死人が触れることのできるのは死人同士、話すことができるのは死人同士。
江ノ島に着いた。彼女は電車から降りると、改札口に向かった。もし事故がおきるとすると、もしかしたら、死人の僕なら助けられるかもしれない。
駅舎の上から何か落ちてくるかもしれない。彼女のまわりを気にしながら、あとをついた。
彼女は駅をでると、どんどんと江ノ島に行く。僕は車の事故も気にした。江ノ島で誰かと会うのだろうか。
僕の行きたかった江ノ島にはいっていく。みやげ店の間の狭い道を彼女は少し急ぎ足になって登っていく。
僕は饅頭屋の縁台にちょっと腰掛けた。立ったままでいると、いつかあちらの国へ連れて行かれる。たまに腰掛けながら後を付ける。
野良猫がたくさんいるところにくると、彼女は腰をおろして、みんなの頭をなでた。僕はそばの道はじに腰を下ろした。
僕はそれを見ていて、もしかすると由良さんは小説の題材を探しに江ノ島にきたのかもしれないと思うようになってきた。楽観過ぎるだろうか。
書くことに詰まったりすると、散歩などをして頭を冷やす。彼女の歩き方からすると、江ノ島にはなれているような感じだ。
猫に触れた後は、ゆっくりと下っていくと、海のみえる裏の方にやってきた。
神社の脇を通って、急に走り出した。
なんだろう。ちらっと、稚児ヶ浦と書かれた看板を見た。すると彼女の姿がなくなっていた。あわてておいかけた。崖の上の彼女が見えた。僕は楽観過ぎた。
僕が止めようと手を伸ばしたとたん、彼女の体は宙に舞った。僕も一緒に空のなかにいた。
彼女は海にたたきつけられ、沈んでいった。僕も一緒に沈んでいった。
そこまでは覚えていた。
僕は竜宮城をかたどった江ノ島の駅舎のなかにいた。目の前には、驚いた顔をした由良さんが立っていた。
各駅停車が止まっている。
僕は由良さんに、
「ともかく、電車に乗って、腰掛けましょう」そう声をかけていた。
彼女がどのような死人の生活をするかは知らない。でも、腰掛けていればあの世には行かないことを教えてあげなければと思う。こうなった理由もいずれ話してくれるだろう。
由良さんも僕と一緒に新宿行きの各駅停車にのった。
死人の腰掛