空想のあなたへの手紙

 貴女は無邪気なひとが好きだと仰りました、無邪気なひとが好きだと仰りましたね、はい、そんなあんまり柔らかく眩しい言葉を教えてくれるという喜びを、ぼくは幸福にもえられたのでありました。
 されどそれ喪失しているぼくなんかには、真の無邪気というもの、まるで淋しい病人の身振の曳く、みょうに美しい翳のように想われることがあるのです。
 八十をすぎた老人の幼児のような笑みはたしかに不気味な印象をある種のひとに与えることもありますでしょうが、しかし、ぼくはその貌をせつなく美しいものであるように感じられました。それはその無垢の光が瞼の下や頬に淋しい翳を落していたからでありまして、いまにもその翳へはらと落葉してしまいそうな純粋な笑み、そのあまりの愛らしさはぼくをおのずと微笑ませたのでありましましたが、しかしむしろ、ぼくをのちに切なさで嗚咽させたのでありました。

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 されどぼくには貴女のそのお好みが解る気がいたします、いいえ、いいえ、けっして貴女の心にはいるこむことはできないのでありますから、解るといいますと愚かなる錯覚としかいえないのでありますが、しかしぼくにも、ぼくにも人間の無邪気さへの愛好と信頼があるのだと、それだけは貴女に伝えることができるのです。
 幼少期の風景というのは最早追憶の地平線の向うへ往ってしまっております、あるいは青空の閉ざす荘厳な瞼の向うへ。あの頃ははや夢だったとみなされてもおかしくはないのですが、けれどもかの少年少女の眸が徹し映した風景画、海へ落っこちる橙の夕陽の絵画を改めて描ける大人はけっしておおくはいない、絵描きの貴女ならば、きっと共感してくれるのではないでしょうか。しかし太陽が泣きながら愛する海へ落っこちて往くように、ぼくたちはいつや無垢へ落っこちて還るのではありませんか。それは光へ。それは白い空へ。それはひとの心に共通するおなじ音楽に連れられて。夜の音楽に伴れ引かれ、朝の黎明へさながら徹るように墜落して往く、ぼくの夢想にすぎませんが、そんな刹那があるのではないかしら。

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 貴女は無邪気なひとが好きだと仰りましたが、ぼくには人間の無邪気に愛情を感じうる貴女のこころに、それを伝える際の眸のうつろいの可愛らしい光のダンスに、大人びて優美な貴女の言動・身振から、まさしくある種の無邪気をみてとりました、それはちらちらと悪戯っぽい光をうつろわせる、少女の光のように映ったのでありました。ぼくにはそれがあんまり眩しいのでした。あんまり眩しいのでその光をみすえることすらできず、つい眼を背けてしまったのでありますから、まるで紗のカアテンで蔽うようにわが眸を守ってもみたのです、さすれば柔らかな優しい澄む光、むしろほうっと濾過し冴え冴えと映えるように射してきて、それは世界に立ち向かい揉まれながらも、その一領域を邪悪に結われることなく一途に抛られた仄かな灯さながらであって、ぼくはそれの落す翳をじっとみつめうることができた、それひとみなに睡るやさしいこころの風景であるのかもしれません、というより、ぼくはそれを信じてありたいのかもしれません、いな信じていなければいけないと、そう決意をしている身でもあるのです。
 貴女には貴女固有の光と音楽をたしかに綾織らせております、幾夜のくるしさとさみしさと慈しみと涙に結われ折りこまれたが故の、すくと立つ優美なひとであるという印象がございます。しかしその貴女の個性を投影する特別な印象の綺麗な身振の裡から、時々照りかえす淡い光が少女を少女のままに残し清む優しさを投げかける瞬間があるというのは、ぼくの男らしい愚かな美化でありますでしょうか。
 ぼくにその光りがもし睡るなら、ぼくはわがこころのその光と風景へ投身しなければいけません、ぼくはそれを希む詩を書くひとでありますから。
 貴女の硬質なアイスブルーのオルゴオルから繊細に響く歌、一刹那きんと鳴るかもしれません、ぼくはその音楽をあなたが天衣無縫を丁寧にたたみこみ生活しているさまに似て、記憶の奥に、たいせつにたいせつに仕舞いましょう。ひとを大切にすることの拙いぼくには、貴女といつお別れしなければならない時がくるかわからないのでありますから、せいいっぱい、この音楽と眸の風景をこのお手紙に張りつめお渡しするのです。

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 というのも貴女はひとの無邪気を愛しえるのでありますから、貴女が貴女の「貴女」の美しさをどうか胸いっぱいに愛してくださいませんか、そう、ぼくが希っているからでもあるのです。

空想のあなたへの手紙

空想のあなたへの手紙

  • 自由詩
  • 掌編
  • 青春
  • 成人向け
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2023-03-23

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