愛娘処刑前夜

青津亮

 十四歳の娘の処刑が決定したとき、織部は音なく砂に砕けるように躰を(くずお)れさせたのだけれども、しかし、なにか躰の奥底に宿る清んだ光のあたたかみが、まるで心を圧し揺るがしたような感覚をうけたのだった。
 織部は全くもって世間で流行する気配のないアート系のカメラマンであった。妻にはやばやと先立たれ、男手一つで、娘を育てた。美しく気高く繊細な知性の持主であった妻を、エドガー・ポオの小説「ライジーア」にみられるそれさながらに思慕しながら、みずからと彼女の内奥の結びついた証としての娘を、せいいっぱい愛そうとした、愛した、といい切ることはかれにはできぬ。やはり、母の愛は子供にとって必要であったかもしれぬ。だが母は既にして不在であるからして、織部はその現実に対応しせめてみずからが二人分娘を愛そうとしたのだった、その、意欲はあったのだ。されど果ては体制からの処刑の文言であり、喉から込み上がり洩れ噴出す理不尽への訝りが、怒りが、娘への憐みが、切なさが、殆ど全部であった。娘を育てたというこれまでの努力が霧ときえるように想ったが、しかし、この揺りうごかされるあたたかい感慨、なにか人間への不合理なる全的な信頼ともいうべく仄かに熱をもった感情、こいつはいったいなんであろうか?

  *

 織部の妻が死んだのは、織部の仕事が原因であった。戦争の雰囲気を兆す不穏な時代であった──もしやそこで子を作ったのがかれ等の誤りであったか? いな、そんなことある筈があるまい──織部は写真家の業界で何の影響力・権力もなく、才を認められたことすらなかった癖して、かなりラディカルなやり方で反戦を主張する写真を撮った。そこにやや見られたのは権力への風刺であり、それに追従する世俗への軽蔑であり、闘うべき闘いを闘う雄々しき狼のコラージュはまるで自己を誇示しているように見紛われた。
 織部は右翼系の反社会勢力に目を付けられ、一度はボディーガードも考えたがそんな金はなく、ある政治への情熱に狂ったヤクザな青年のトラックに轢き殺されそうになり、織部は妻を抱きひっしで逃れようとしたが、あろうことかかれのその行動があだとなったのだ、それにより妻は丁度巨大なタイヤの下に轢かれ、その躰と気高き魂を土砂と踏みにじられたのだった。…

  *

 妻は人文学系の研究者だった。美しく気高い、つまりは厳然たる孤独の過程・結果を宿命とする数々の論文は、すべてファイリングされて織部の部屋に丁寧に仕舞われているが、幾分古風に傾きがちな内容によるためか、はや議論でテキストとして扱われることはない。織部は読む、くりかえし、くりかえし読む。妻を追懐し、妻の思考の跡を辿りまるで模倣するように。
 もしやかの事件の記憶に由来するのかもしれぬ、かれの写真に、以前のような権力・世俗への好戦的な反逆の色はかげをひそめ、しずかな、しずかな風景に死の予知を張りつめさせたような、内に緊張の光のふるえ漲る写真を発表しはじめた。しかしこの作風の変容はトラウマによるものというよりは、妻を喪った空虚感にべったりと覆われ白骨を剥きだしたような背の状態に由来するのかもしれぬ。いわばかれの躰、情緒がその作風を撰ばざるをえなかったのだ。
 事件の時娘は0歳であった、織部は自分の仕事が妻を殺し、娘から母を奪ったような感覚にくるおしく駆られ、無邪気に笑う小さな娘の前で膝をくずし折り、「ごめんな、ごめんな」と嗚咽しながら幾度も謝るようなことがあって、それは嬰児にとってよくない影響を与えるかもしれぬとのちに反省するも、しかし娘をとんでもない運命へ投げこんでしまったという自責、かれのある種の自尊心をズタズタに毀した。みずからの身を撲るような心地すらあった。はや、世俗を攻撃するような気力、傲慢さが抜き落されたようなのだった。
 娘が二歳になった頃、彼女はみょうなほどに絵に凝りだした。毎日まいにち絵描きに没頭し、外が暗くなっても描きつづけるために、寝かせるのが大変なほどであった。
 娘にめざめる芸術への命の光を、かれは慈しんだ。喪われた妻から紡がれ引かれた、きらきらと光る形見をみた。のびのびとこの意欲を育むため、幼稚園に入る齢になると一応は通わせたものの、できるだけ絵を描かせる時間をつくらせ、励まし、褒めた。娘はにこにこと喜び、その顔は妻のそれにそっくりだった。かれは娘に自分と似たところがあまり発見されないことを僻むこともあった。
「幼稚園でも絵ばかり描いて、あまり友達と遊ばないんですよね」という保育士の相談に、織部は微笑した。
 娘が小学校に入り、織部はアルバイトを辞め会社に勤め、休日は娘を連れて撮影──娘は父の眼が届くところで絵を描き、あるいは読書していた──、平日の退勤後は写真の研究をしながらちらちらと娘を見守った。すくすくと、妻を想い起こすような、性善説を心の底から信じるようなある種無垢ともいえる信頼、そこに線と引かれる陰翳に、知と芸の色彩を塗りこみ壮麗な彫刻絵画をえがくような、娘の知性をえてゆく精緻繊細なうごきは、織部を心から感動させたのだった。まさに、妻であった。妻は愚かなほどに人間を信頼していたのだった、おそらく、最期のさいごまでみずからを轢いた青年に対してすら心の深みを汲みとり、斟酌していたことであろう。妻はシモーヌ・ヴェイユの研究者であったが、ヴェイユをあまりに信じるが故の研究が客観性・実証性に欠けるとされ、抑々がヴェイユは哲学の世界でははな重要視されておらず(妻は哲学科出身であったが、生粋の文学少女を貫いたようなひとであった)、忘れられるのも、むりはなかった。
 やがて絵を習いはじめ、先生からはその才能を認められ、しかし、しずかに慎ましく絵を描き続ける彼女の態度を見、わが娘のことではあるけれど、自分自身芸術をやりつづけるかれをして尊敬のような感情をえさせたのだった。
 娘の画風がこの頃すでにあらわれていた。澄みきった氷のような水色、象牙のような硬い白、月のめざめるような銀を陰翳させた風景に、蒼い火が昇る。様々な絵を描いていたが、なにかこんなイメージや色彩感覚が共通しているようであった。
「この絵はなんだい?」
 と、めずらしくどぎつい深紅とドス黒い煙のような風景をふしぎに想い、十二歳となった娘に訊くと、
「この風景は戦争の火。この青く柔らかく脆い光は、それを拒みつづけ眸をとぢ、行為しないという行為を貫く意志の閃光」
 奔り抜け渦巻きながら旋回する彗星のような青があった、かれはかれの家庭の幸福を覆した自作のモチーフとの余りの酷似に、「俺の娘だ」という喜びと、この感受性ではこの時代を生きられやしないのではという怖れ、そして、この絵を他者に見せてしまうのではという不安に耐えられず、その場で嗚咽を洩らしうずくまって泣きじゃくった、妻の顔が泡のように浮んでは消え、涙に滲む娘の顔が妻にみえた瞬間、想わず娘を抱きすくめた。
「どうしたの?」
 こんなときも冷静である、しかし、内にかなしいくらいの優しさを秘めている。こんな娘が、いとおしかった。喪いたくないと想った。もう、娘の絵は隠さなければならぬと想い、しかし、娘の性格を想えばそれを拒絶するに決まっていた。妻なら、ぜったいにそうするだろうから──かれはやはり娘に妻を投影させすぎていて、それが娘に母のように生きねばならぬという負担を与えたのかもしれぬ。
 何故ここまで不安になったといい、既に、戦争がはじまっていたのだった。

  *

 中学校で、「兵隊さんを応援する絵を描きましょう」という題目の授業があり、織部希子はむしろ解りやすく反戦を主張する絵を提出し、教師に描きなおしなさいと幾度もいくども叱られたがききいれず、けっきょく貼られないことになったが彼女はみずからの手を罪悪の沼に入れ勇猛に汚すように壁に張って、教師は政府へ通報した。諸々の手続を経て、父の織部は罰金百万円程度、織部希子は──かれの大切な愛娘である──危険思想の持主として、死刑が決まった。十四歳であった。十四歳であったのだ。
 死刑前夜、父との面会を許された。
 娘は涙をこぼしていたが、殆ど明日への惨めな恐怖へのそれではないように想えた。しずしずと優美に裾を光と音で曳くように、しずかにしずかに泣いていた。静謐な印象であった。
「ごめんなさい、お父さんに迷惑をかけて。悲しませて。わたしはまちがってるわ、わたしのワガママでお父さんを残して先立つなんて、たしかにまちがってる。でも戦争だって同様にまちがっているし、わたしには、わたしを闘う権利があるとおもうわ」
「そのとおりだよ」
 と、織部は声をふり絞った。みっともなく泣くのは、いつもいつもかれであった。男らしさの意味ですこぶるよわく、脆く、然るにラディカルな写真を投げだすように発表し批評家の酷評にワンワン泣くような男であった。しかし妻は、そんなかれをしずかに励まし、あるいは唯隣にいてくれて、萎んだように攻撃性をひそめた織部を頑張らせたのは、たしかにいま娘であった。そんな娘が、あす、処刑される。
「希子。人間は、闘いたい闘いを闘っていい。信じたいものを信じるために闘っていい。愛したいものを愛するために闘っていい。おまえの決断を、肯定しているつもりだ」
「ありがとう」
 疲れたような笑みは、はらはらと砂のこぼれる音がするよう、まるで彼女の魂の余りなあまりな美と善への信頼、剥かれるように淋しい眸に月色で浮ばせるよう。
「わたしは、“人性”を信頼するわ。それを信頼しつづけるためにわたしは明日を迎え、そして、わたしはわたしを実験台にして、最期のさいごにその信頼を実証するの。人間は、こうも生きられるって。美をみすえ、善くうごき、眼をとぢて、ただ拒み、理不尽に磨かれ、高く、おちて往くの」
「希子は、ほんとうに内面がお母さんにそっくりだ」
「そう? うれしい。でもね、」
 と呼吸して、そこで初めて、喉から激情が昇るように嗚咽を洩らし泣きじゃくりはじめ、その泣き方は、激情と攻撃性を抱え込んだ人間のそれであり、彼女はそれ、丁寧に畳みこんで静謐に生活していたのだろう、頑張りすぎていたのだろう、大声で泣き喚きながら、父親にこういったのだった。
「わたしがこういう絵を描いてしまうのはね、どこか冷笑的で、凶暴なところがあって、ほんとうは誰よりも弱いのに無理をするところはね、きっとね、お父さんに似たんだよ。わたしはわたしのこの領域が、愛しくいとしくて仕方がないの。わたしはお父さんが好きなの。わたしには、お父さんしかいないから。お父さんを残してしまうのがくるしい、死ぬのが怖い、怖いよ。でもわたしはこうしなきゃいけないの、怖い、怖いよお父さん。最近お父さんの仕事が変わったきっかけの写真をみて、ああ、わたしを殺した絵の萌芽となった彗星の絵画にそっくりだって解って、わたしも青い閃光に狼の激情と凶暴さを孕ませたの、だから」
「時間だ」
 刑務官がいい、父親の腕を引いて強引に部屋から追い出そうとした。
「俺は、」
 最後に聞えるかどうかスレスレの間際で叫んだ。
「おまえのことを、誇りに想う」

  *

 翌日、織部希子は毒瓦斯で数時間を掛けてじっくりと処刑された。
 織部希子は眼を瞑り、しずかに椅子に座りつづけ、じたばたとのたうつこと一切なく、やがてゆっくりと翳を曳くようにゆったりと優美なうごきで、床へ斃れ込んだ。それは死の刹那であった。

愛娘処刑前夜

愛娘処刑前夜

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-03-18

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