コトワリⅥ
これちかうじょう
天野真咲と猪瀬大地
「あの大地、別に黙ってなくていいんだよ、
いつものように、いろいろ喋って欲しいな。
ラジオを聞きながら勉強する人だっているし、
僕は大地の声を聞きながらするのが効果てきめんなんだけど」
「でももう来月だよセンター試験、
それの邪魔したら俺はもう駄目駄目だ」
「でも、それでも話がしていたいんだよ、
交換日記だけじゃもう駄目なんだ、
大地の声が、今の僕の励みだから」
「…ん?」
「あ、いや、違うよ、変な意味じゃないからね」
「…真咲、もしかして、」
う、と僕は声をなくした。
受験が近い、それなのに大地といちゃいちゃしたい、
それは駄目、つまりはもう自分だけでって意味で…
ああもう藤原のせいだぞ、絶対、これはそういう仕組みだぞもう。
「寂しい、のか?」
「え」(ほっとしている)
「俺がいてやらないと駄目だなんて、なーんて可愛い彼女だろうねえ、
いいよいいよ、喋っててやる。
そうそう、生徒会室にな、橘の隠し子が来てさ」
「…ん!?」
「その子がもう超キラキラ~ってしててさ、でもどうしても名前を教えてくれないんだよな。
杵柄も上智も知ってるみたいなのにさ、俺だけ知らねえ。
で、その隠し子がさ」
「ちょ、ちょっと待って、橘に隠し子ってどういう意味なの、」
「だからそのまんまだって、初等部の1年の子を連れてるんだよ。
でも、その子が来てから随分と変わった気がするな。
杵柄も戻って来たし、上智にもいいものがきたし、
それに何より、橘がすごく機嫌がいい、…というか、まあそうだな、親だもんな」
「…大地、橘は2年生だよ?大地だってそうでしょ、なのに1年生じゃあ、7歳だよ、
どう考えても隠し子とかは無理な話じゃない?」
「いやだって、どう見てもあれば溺愛してるとしか思えないんだよな…。
まあそんでな、上智がさ、副会長の仕事をマスターしたわけ。
杵柄も戻って来ただろ、だから生徒会はもう安泰なんだ。
藤堂先輩と真咲が頑張って作った生徒会が、今はもう別の形になってるけど、
今も生きてるんだ。
それを真咲に伝えたかった」
そうかそうかと思いながら僕はシャーペンを走らせる。
「どうなんだ?模試ではどういう判定だったの」
「うん、一応、Aはもらえた」
「そっか、じゃあ後は本番に備えるだけだな。
でも知ってる?総合男子部の3年にも真咲と同じ大学目指してる人いるんだって」
「ああ、山賀って人だろう」
「うんうん、でも総合男子部から東大なんて無理なくね?
しかも模試ではA判定だったらしいのさ」
「へえ、じゃあ僕も負けてられないな」
「真咲だったら大丈夫だよ、ただ一言言いたいのは、分かるか?」
「うん、分かるよ」(勘違いしてます)
「じゃあよかった、まさか試験の前の日にだけは酒を飲むなと、
俺は言うつもりだったんだけどさ」
「え、そっち!?」
「…お前、何を考えてたんだよ、しかもその言い方だと飲むつもりだったな?」
「いや、違う、の、飲まないよ、だって飲むと大地が怒るし、
ああでも、大地のお父さんに勝てたのは嬉しかったかなー、
『君には負けたよ』って言われたのが快感だった」
「…やっぱ変だ、お前は変だ」
それよりさあと大地が喋っているのを僕は聞きながら勉強している。
図書館を勉強の場にしたのは、大地が来てくれるからだ。
家ではお産がひっきりなしだし、
それにもう僕は受付をやっている場合じゃない。
だからここ、併設図書館が最高の場所だった。
うるさい人がいると三重さんが怒ってくれるし。
「…というわけなのさ、どう?どうする?」
「あ、ごめん、聞いてなかった」
「んもー。真咲がちゃんと合格できますようにって、今年こそ初詣に行きたいの。
去年はお前が母さんの年越しそばで服汚しちゃって、出かけられなかったじゃん」
「そうだったそうだった」
「だから今度こそは祈らせてよ、真咲がちゃんと頑張れますようにって、
俺はもう大丈夫だからさ、ほら、元気でしょ」
「…大地、ちょっと」
僕は大地の額に手を当てた。
「熱がある、…37.2度」
「微熱だってこんなん」
「駄目、帰って寝ないと。お父さんもお母さんも心配する、
それに僕が集中できなくなる」
「じゃあ薬ちょうだいよ、持ってるでしょ。熱さまし」
「持ってるけど、ここは飲食禁止だから」
「じゃあちょいちょい」
「?」
僕は立ち上がった。
大地がしっかりと歩いているのを見て、嬉しかった。
もうあの日とは違う。
ふらふらしていた頃とは違う。
僕が助けたあの日の大地じゃもうないんだ。
「トイレ?」
「ほれ、水をこう」
「うん」
またあれね、と僕は苦笑した。僕は水を口に含んで、大地の口の中に熱さましを2錠入れた。
「んー」(じゃあ行くよ)
「んー」(おっけー)
口移しで水を飲ませるというのはいまだに健在だった。
大地はそういうところで僕を翻弄させる。
だからたまに、オカルト系の話をするんだけど(息抜きに)、
大地はそういうのが苦手だったようだ。
席に戻ってまた勉強を再開する。
今ので大地の熱は下がるはずだ。
微熱程度なら、と僕は隣にいることを許可した。
「その後、書道部はどう?」
「うん、なんか体育祭からみんなが変わったんだよな、
俺と上智以外が。なんつうか、俺を四方八方から守るみたいな」
「ははは、そうかそうか、あそこの子たちはみんな大地を弟みたいに思ってたからね」
「それが嫌だったけど…でも、守られるのはいいなって思った。
真咲にもたくさん酷いことしたのに、それでもいつも守ってくれる。
橘も、俺が何も言わないのに熱があるだろうとか、風邪気味だろうとかって、
すぐに生徒会から帰したりする。
俺が病弱なばかりに、相棒に酷いことをしてる」
「でも橘も大地に救われていたんだよ、大地がたくさん橘を笑わせてたのを見てた。
僕は藤堂のことを笑わせたことなんかなかった、
それより怒らせることの方が多かった。
会長と副会長っていうのは、まるで恋人同士っていうかね、
そういう間柄なんだよ。
それほどの信頼関係がないと、生徒会は成り立たないんだ。
橘は大地を、大地は橘を信頼してる。
それに杵柄と上智も近づけるといいんだけどね」
「ああそれは大丈夫だと思うよ」
「どうして?」
「あいつら、多分付き合うから」
「え、本当なの?」
「真咲は鈍感だなあ、でもあの難攻不落の上智が落ちたんだ。
ただ、問題は杵柄の方だな。俺と真咲で言うなら、俺が彼氏、真咲が彼女だろ?」
「うん」
「でもあいつらもそういう感じなの。上智が彼氏で、杵柄が彼女…
あんなでかいのが彼女ってすげえ怖いわ」
「あはは、でも杵柄ってすごいんだって?女子力が高いって噂だよ」
「そうそう、食後のハミガキに洗顔、ハンドクリームに爪磨きって、
お前男じゃねえよって突っ込みたいわ俺」
「でもいいことだよ、だから大地は杵柄が彼女っていうのかな」
「ううん、そういうんじゃない。真咲は鈍感だろ」
「え?」
「鈍感なのが彼女っていうのがセオリーなんだよ。
あの杵柄はどう考えても、どう見ても、すげえ、いや、壊滅的に、鈍感だ」
「でも、2年7組に演説に行ったらしいじゃない?
それで橘もクラスに馴染めるようになったって、
そうあった」(交換日記情報)
「いや、鈍感すぎる。俺さ、文化祭の後夜祭のラストダンスの時にさ、あいつらの近くにいた奴らに、
話を聞いたんだけど。
なんか?俺のことを好きになってみないか?とか言っておきながら?
触りながら踊ってくれとか、散々俺たちの前でも上智に好き好き言っておきながら、
お友達からお願いしますって言ったらしいんだよな…
上智がもう杵柄を受け入れてるのに、あいつはそれに気づかないんだ。
多分、明日2番は…まあ、掃除に行くしかないだろうな。
杵柄のいいところは鈍感でも、決して他人には危害を与えないことだ。
俺がいない時に上智を殴ったことがあったみたいだけど、
でも上智は加減を知らないから、多分2番はめちゃくちゃになってると思うんだ。
上智は男だから、上履きでもなんでも投げつける、
そのうち鞄、机、椅子、何でもかんでも杵柄に投げつけるだろうから、
その片づけをするのも先輩の仕事だな、真咲」
「…なんか怖い後輩だな、僕たちの時より暴力的になってない?」
でも嬉しいなと僕は思う。
僕は嬉しい。
初等部からここに通って、高瀬という友達はいたけれど、
何もかもが楽しくもなく、ただ医者になるべく勉強をするだけだと、
そう思っていたあの頃が懐かしい。
高等部で藤堂に出逢えたことも、奇蹟だ。
藤堂はいろんなことを教えてくれた。
高瀬だけじゃ駄目だった。
それに、高等部では、一ノ瀬や城善寺、そして藤原にも出逢えた。
何ものにも代えがたい、友達を得た。
それに、と隣の大地を見る。
こんなに可愛い後輩、じゃない、かっこいい彼氏もできた。
交換日記が始まって、たくさんたくさん、いろんなことを経験できた。
これから僕が歩んでいく道には、たくさんの理由が溢れているんだろう。
6年間をかけて医学を学ぶ。
そして研修医を経て、しばらくは医局に勤務して、
経験を積んで父さんの後を継ぐ。
そこに、意味はないと今は思わない。
いつか、また4人で食事がしたい。
僕は産婦人科医、藤原は栄養士の後に酒造の当主、
城善寺は日本を代表するヴァイオリニストに、そして一ノ瀬は素敵な家庭的な女性になるわけで。
「そう言えば聞いたことがなかったね、大地は将来の夢、何なの」
「今さら?」
「うん、聞いておきたいなあって」
「教師」
「…」
「それも高校教師。そんで書道部の顧問になる。それが今の夢」
「先生に…なりたいの?」
「そうだよ?俺はね、背だって小さいし、非力だし、勉強だって真咲に教わってもまだまだだ。
でもね、教師になってここに戻ってくるのが夢なんだ。
馬鹿にされるかもしれない、それでも、俺は自分が正しいと思ったことを、
ここでみんなに示したいと思うんだ。
橘と過ごした生徒会の日々も、同じクラスのみんなと仲良くしたことも、
そして書道部で俺を必死に守ろうとしてくれる女子のみんなのことを、
いつか自慢してやるんだ。
そして、俺が帰る場所はもう決まってるから」
僕はうんと頷いた。(勘違いしてます)
「真咲のうちってさ、二階に部屋が3つあるだろ?」
「ん?ああ、そうだね、3つある」(鈍感です)
「そこの一つをもらえたらいいなーって俺は思ってるんだ。
真咲が6年頑張るうちに、俺は教諭免許を取って、どこかの学校で研修をする。
そんで、胸を張って、この青陵の、高等部の先生になるんだ。
試験問題も作って、書道部の顧問もする、
そして、家に帰る。
そこに遅れて真咲が帰ってくるんだ、それが俺の今の最高の夢だよ」
「…大地、それって」
「うん、ずっと一緒にいたいってことだよ。
藤堂先輩も城善寺先輩と住むんだろ、だから俺も真咲と住みたいもん。
真咲が大変な時は俺に甘えてよ、
俺、彼氏だからね」
「…うん、そうすることにする。そっか、そうかあ」(理解しました)
先があるんだ、この先が。
未来がある。
大地との未来が、僕にはまだ残されている。
「だからいつか、真咲の家に挨拶に行くからね。スタッフの人にはバレバレだけど、
でもお父さんとお母さんにも逢わせて。
忙しくない時でいい、
俺が先生になった後でもいい、
俺は未来を、この先の道を、真咲と歩いていきたいんだ。
だからちゃんと覚えていてね。
俺が交換日記を持ちかけたことを、それを続けた2年間を、
そして一緒に食べたお寿司のことを、
出かけた場所のことを、
俺が苦しかった一年前のことまで、
ずっと、ずっと、覚えていて。
友達のことも大事にするのはいい、でも、一番には、俺を考えて。
4人で食事に行ったって言ったよね。
俺とも行ってよ。
俺にも、真咲と同じ人生の道のりを歩ませてよ。
たくさん誤解して、たくさん傷つけて、いろいろな人を苦しめた俺だけど、
それでも、真咲は俺の手を掴んでくれた。
死なせてと言っても、そうさせてくれなかった。
もう分かってるんだ、下にクッションになる木があったから手を離したんだって。
俺がまだここに生きているのは、真咲が生かしてくれたからだ。
もう言わない、死なせてなんて言わないよ。
一緒に生きよう、一緒にこれから、生きて行こう、真咲。
それが俺の、今の、全部だから」
僕はうんと頷いた。
何も言えない。
言えないじゃないか。
言葉を発しようとすれば絶対に泣いてしまう。
だから今はこれでいい。
大地がどんなに僕を憎んでいたかを、もう痛いほど知ったから。
僕が勘違いさせたばかりに、大地を陥れてしまった。
それに付け込んだ大人も許せないけど、
でも、もう大地はそれを許している。
きっと、もう、僕のことも許してくれるんだろう。
だから、もう一回頷いて、僕は目の前の数式に挑む。
これは布石だ。
僕と、大地の、記録なんだ。
生きていく、過程なんだと、やっと、分かったんだ。
藤堂悟と城善寺千春
「まさか感謝されるとは思わなかったな…この僕が、
この僕が!」
「…さっきから何度も聞いてるってそれは」
「だって僕はそういう感謝されるべき人間じゃないよ、
千春一直線のただの千春馬鹿なのに、
それなのにどうして、どうして感謝されるのか分からない!」
「それも聞いたって」
俺はヴァイオリンをケースにしまった。
「だいたい予想はできてたんだよ…俺も。
入院が長引くって聞かされて、それでもう二度と逢えないんだろうなと思ったんだ。
勘かなあ。
初めてあいつにコンタクトをさせた時、俺と近藤はドキドキしたんだ。
すげえ美人だって、こんなに美人がこんなに近くにいたのかと、
そりゃあもう、泣けるほどだった。
フルートに関しては俺も負けるほどだった。
ミスコンでは2位だろ、おいおい、お前らの目は節穴かよって思ったもんだよ。
確かに結ちゃんは綺麗だ、
でも柳瀬橋はそれ以上だった。
俺も文化祭に参加すればよかった。
あいつがウェイターをやってるところを拝んでおけばよかった。
中村は知ってるんだろうな…それに、橘も一緒だってことはそうだろ、
どれくらいの人が柳瀬橋のことを知ってるんだろう。
近藤は何も言ってないから知らない、
…でも、1年生かあ、1年生でもあんだけ綺麗なんだ、
きっと将来は、ものすごいことになってたんだろうな…。
柳瀬橋はもう、いないんだな…
遠い所へ行っちゃったんだな…
俺が音大で首席で卒業するのを見て欲しかったな…
今もまだ鮮明に覚えてるんだ、
部活勧誘会で、柳瀬橋は泣きながら入部届を書いてくれた。
親友とはぐれたと、そう言って泣きながら書いてくれたんだ。
でもいつか連れてきますからって、すぐに笑顔になる。
俺は健気だなあって思った。
楽器磨きの日を減らしたのは、あいつのフルートを聞きたかったからだ。
音楽ホールで、あいつが呼吸するのが聞こえると、
俺は本当に嬉しかった。
でもよかった、修学旅行にも行かせてやれた、
それに文化祭だって楽しんだはずだ。
学校が好きだって言ってた。
みんなと喋るのが楽しいからと、そう言って笑うのがもう、
すげえ可愛いって思ったんだ。
悟は部活を経験したことがないから分からないだろうけど、
部長と部員てものはさ、信頼関係が生まれるんだ。
まあ、生徒会もそうだけどさ。
俺も近藤も、あいつがいつも持ってるバッグを知ってたから、
ああ、体が弱いんだなって分かってたんだ。
病院でもよく見るだろ、あのバッグ。
赤い十字が書いてあるマークがついてるやつだよ。
でもいつからか、あのバッグに見たことがないキーホルダーがついててさ、
俺は聞いたんだよ。
そうしたら、橘がくれたってそう言ったんだ。
だから大事にするんだって、お守りなんだって言ってた。
もう俺泣くじゃん、そういう健気な気持ちが泣かせるじゃん、
俺が長野にされてたこととはもう別次元で、
超泣けるじゃん…
9月15日の後から、柳瀬橋はもう学校に来なくなった。
だから、もしかしたらと思ってたんだ。
もっと吹奏楽部にいればよかった、中村を部長として、
それを見守りつつ練習だってできたはずなんだ、
それでも俺は五次選考まであるからと、自分を優先した。
可愛い後輩を見捨てたようなもんだ。
俺だって悲しいよ、もうあいつがいないって分かる今なら、
すげえ、すげえ泣きたい。
でも駄目だ、今あいつがあの姿でここにいるってことは、
何かがそうさせてるのか、自分が望んだからなんだ。
もう苦しんでほしくない、痛いのは感じさせたくない、
ただ笑って、倖せになって欲しい。
悟、俺、頑張るよ。
あいつの分まで夢を叶える。
この国の宝と言われるまでの力をつける。
人間国宝にでもなってやる。
だからそれを見てて欲しいな、俺にとってはあいつはもう神様、
いや違うな、天使っていうのかな…
だからこんなに苦しくなるんだろうな、
ただ居るべき場所で倖せになって欲しいよ。
橘もつらいだろうけど、
柳瀬橋がやるべきことをきちんと全部やって、
俺達もやがて行く天国に戻ることを、
俺は願うよ。
きっとあいつのことだ、橘のために何かをしたいんだろう。
だから卒業までは俺は違った意味でのここの誇りになる。
悟、お前も同じだぞ。
お前は元生徒会長で、橘のお父さん的存在だろ。
だから柳瀬橋が感謝したんだ。
いつまでも呆けてるなよ、
お前だって本番が近いんだ、
住む部屋だって決まってるんだから、
その前に行き先をきちんとしないと駄目だ。
お前がいたから橘があそこまで成長できたんだ、
それがあいつにとって最高の喜びなんだよ。
橘のためにもお前も頑張るんだ、
そしてずっと覚えていよう。
すごくすごく可愛かった、俺達の後輩たちのことを、
死ぬまで覚えていよう。
分かったか!」
「…千春…そこまで柳瀬橋を思ってたのか」
「そらそうだろ、俺の後輩第一号だもん!」
「うん、そうだね、僕ももう甘えていられないな。
千春、僕は戻るよ。
生徒会は繋いだ。
後は自分の道を決めるだけだもの。
五次選考の日は泊まりだったよね、
行く前に連絡くれるかな?
だから僕の試験の日の前にも連絡を欲しい。
ただ頑張れとだけ言って欲しい。
僕も、天野の方がずっと会長にふさわしいと思いつつも、
僕を会長だからと敬ってくれる天野が好きだったんだ。
笑いもしない、単なる部下扱いだったけど、
それでも、僕は天野がいたから、ここまで来れた。
その僕と天野が育てた橘を、感謝された。
僕たちはきっといいことをしてきたんだなあ。
最初はどうなるかと思ったけど、
でも時々にだけ見せる橘の無垢な笑顔が、
僕たちには最高の宝物だった。
今思えば、あれは柳瀬橋の話をしている時だった。
今はもう天野も笑ってる、それに千春も前に進もうと頑張ってる、
僕も頑張るよ。
ただ、4人で食事したっていうのが気に食わないな、
何で僕をのけ者にするんだ。
天野はやっぱり僕が嫌いなんだな」
ばーか、と俺は悟を小突いた。
「天野はいつだってお前を心配してた、
だからきっと2人で食事をって今に言い出すと思うぞ?
どうすんだよ、俺達は一ノ瀬がいたから華があったけどな、
男子高校生2人でご飯て、お前、どうすんだよ。
…でも断るなよ、天野はいつだってお前を信頼してた。
一ノ瀬といなくなっても、一人で生徒会を何とかしてたんだ。
だから、あいつの我儘も聞いてやってくれよな。
天野にとって俺達は4人の友達、
でも悟は最高の仕事仲間。
試験が終わったらきっとお前を誘うだろうから、
ちゃんと応じてやれよ。
塩対応なんかするな。
天野はすごくいいやつだから、
きっと話題に事欠かないからな」
「うん、分かった。
ああでも、それって、僕から誘ったら駄目なのかな」
俺はうーんと唸った。
「まあ、悟から誘われれば天野も嬉しいだろうな。
そうだな、誘ってやれ。
気まずいと思っても俺を頼るなよ、
お前と天野は最高の相棒だったんだ、
だからきっと、いい日になるはずだ」
「…うん、今度誘ってみる。
そこで今までのことを話してみる」
「うん。…雪が降りそうだな、
さあもう帰ろう。
本降りになったら転ぶかもだからな」
「そうだね、転んだら手を痛めかねないからね」
なあ、柳瀬橋。
お前は何がしたくてここにいるんだ?
お礼参りじゃないだろうよ?
もっと違うことをしたかったんだろう?
だから、橘のことだけは、
覚えているんだろう?
藤原結と藤原冬至
「あー、雪が降りそう」
「部長、自転車ですよね?大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。お前らも気を付けて帰れよ。
今日の課題曲は最高の出来だったからな、
また明後日も頑張ろうな」
「はーい」
「さよならー」
俺はスマホを見る。
結ちゃんからは何もない。
きっともう先に帰ったんだろう。
今、3年生は時短授業になってるから、部活もないし、
きっと、先に帰ったんだろうな。
「ねえ中村君、ちょっといいかしら」
「何だよ近藤」
「いいから、1年はもう帰ったでしょ、だから」
「んもう」
俺はまたホールの入り口を開けた。
近藤がとんとんとんと階段を下がっていく。
俺はそれについて行く。
「まだ、ここにあるのよ」
近藤はホールの舞台の上の裾、を指さした。
柳瀬橋のフルートだ。
「返したいの、これは私物でしょ、だから返したいの。
あなたのホルンだってあなたの私物でしょ。
学校のものじゃない。
だから柳瀬橋君に返したいの」
「…じゃあ俺から返しておく、病院へ持ってくから」
中村君、と近藤が呼ぶ。
「ねえ、もういいの、もういいのよ、本当のことを教えて。
柳瀬橋君はもう、…もう、もういないのよね?
だからもうこれは返せないのよね?
どうして私には何も言ってくれないの?
あなたより吹奏楽部ではあの人と私は歴史が長かったのよ」
「…だから、入院が長引くだけだって」
「嘘よ、嘘ばっかり!」
近藤は髪が伸びた。
最初は男子かと思えるほどだったけれど、
今はもう、肩から下まで伸びている。
「お願いよ…私は柳瀬橋君と一緒にドイツへも行った、
それに両親のことも話したでしょ、
仲間なの、楽器に優しくする人を私は好きなのよ、
だからお願い、本当のことを言って!
あなたがそうやって隠すから、みんなが苦しいのよ!
無理させたんだってみんな思ってるから、
早く退院してこないかなって、
みんな思ってるの!
でもそれはもう叶わないことなんでしょ?
おじいさんに口止めされてるの?
…これ、あなた、知ってる?」
俺はそれを知らなかった。
でも、何かの薬だとは思った。
「ドイツに行く時に、柳瀬橋君のおじいさんが私に渡してきたの。
何かあったらこれを飲ませてくれって。
心臓が止まったり、痙攣したりした時に効くんだって聞いたの。
私はまだこれを持ってるの、
柳瀬橋君に返そうと思って、おじいさんに返そうとも思って、
家に行ったわ。
でも、返事がなかった。
呉服屋だって聞いたわ。
成人式の仕事をしているんだとばかり思ってたんだけど、
前はあった看板がなかった。
柳瀬橋呉服店ていう、看板がなくなってた。
それは廃業したってことでしょ?
…それに、柳瀬橋君の自転車もなかった。
どうして隠すの?私はあなたと柳瀬橋君だからって、
信頼して親のことを話したわ。
おばあ様のことだってそうよ。
でもおばあ様に聞いても何も聞いてませんとの一点張りだった。
橘君に聞きたくても、聞けないのよ。
だって酷でしょう、好きな人がもういないの?って聞くのは、
嫌だから、だから聞けないの。
それなのにどうしてみんな普通なの?
あなたも、橘君も、普通にしてる。
入院が長引いてるなんて嘘よ!
どうして本当のことを言ってくれないの…
私は、私は、信頼に値しないの…?」
俺はフルートのケースを撫でた。
「お前は馬鹿力だったな、柳瀬橋のことをお姫様抱っこしたこともあったもんな」
「…な、何で今さらそんなことを」
「そうだよ、柳瀬橋はもういない。9月15日、打ち上げに行くのを断って家に帰った。
俺達見ただろ、サイレンを鳴らさないで走る救急車を。
あいつはそれにきっと乗ってたんだろうな。
俺も本当は最期くらい、顔を見たかった。
あいつが誰よりも綺麗なのを最初に気づいたのは俺だった、
俺も盲点だった、…結ちゃんのことばっかで、
あいつが本当はそういうもんなんだと、気づけなかった。
文化祭が終わって、打ち上げに行くのを断って、あいつは家に帰ろうとした。
でも帰れなかった。
やろうとしていたことを最後までやれないで、
やり残して、死んだんだよ。
最期はもう悲惨だったって話だ。
おじさんが学校に連絡を入れるまで、俺も知らなかったんだ。
モルヒネって分かるか?一番最高の痛み止め。
それをあいつは最期に持ってたみたいだ。
それほど、痛かったんだろう。
苦しかったんだろう。
それでもあいつは何かをやろうとして、それで家に帰ろうとしたんだ。
橘と杵柄は先に気づいてて、おじさんが学校に連絡を入れるまで、
俺にも言わなかった。
俺は悔しかった。
親友なのに、それ一人も救えないなんて何が神様だよって、
俺は何度も泣いた。
でも、きっと、俺よりつらい思いをしたんだ。
橘は俺に殺されてもいいと、そう言って抵抗すらしなかった。
俺だってまだ知ってまだ間もないんだ、
結ちゃんに止められなかったら俺は神様じゃなく、死神になってたところだった。
もうあいつはいないんだ、天国に逢いに行ったけど、
相当痛かったんだろう、俺のことを覚えていなかった。
でも、帰ろうとした時に、花束を渡された。
橘に渡してくれって、そう言って笑うんだ。
俺のことは忘れても、橘のことは忘れてなかった。
それに、ごめんじゃなく、ありがとうを使えと、そういう伝言まで託された。
だから俺は悔しさを通り越して、悲しかった。
俺も結構苦労した方だったけど、あいつはもっと、苦しくて痛かったんだ。
それでも平気な顔して、最期、文化祭の日は完璧に仕事をした。
速攻元気というゼリーしかもう食べられなくて、
おじさんが言ってた、心臓発作じゃなくて、多臓器不全という理由で死んだんだって。
膵臓が働いてないからインスリンを打って、腎臓ももう末期で、
それ以上に、あいつは何かをやるために、家に帰った。
そこで今までで最大の発作が来た。
痛かっただろうな…記憶の中枢がぶっ飛ぶくらいの痛みなんか、俺知らない。
だからもう分かっただろう、あいつを待っていても、もう戻ってこないよ。
今、あいつはやり残したことをやるために頑張ってる。
俺はそれを応援するだけだ。
近藤、お前が泣くなんてな…馬鹿力のお前が泣くなんて、よほどのことなんだろうな。
ただ、応援しよう。
俺にはやるべきことがある。
結ちゃんを最後まで守ることもそうだけど、
それ以上に、柳瀬橋と話したこと、覚えてるか?
お前を守ることを、俺達は決意してた。
近藤は今まで通り、忠実な孫を演じてろ。
それでも危なくなったらすぐに俺を呼べ。
俺は先輩に何度も助けられた。
その恩を返すために、近藤を守ると決めたんだ。
あと1年とちょっと、
お前がここを出て行くまで、俺が守る。
大河先輩の分までしっかりと守り切るから。
だから柳瀬橋のことは誰にも言わないでくれ。
おじさんが、…あいつ自身がそう望んだことなんだ。
だから頼むよ、俺達ができることは、吹奏楽部を、あいつが愛した部活を、学校を、
守ることなんだ。
だから頼む、このことは誰にも言わないでくれ。な?」
近藤はこく、と頷いた。
「あいつは誰よりも優しい、そしてすげえ美人だった。
それは誰もが認めてることだよ。
クラスのみんなには嘘を吐くことになるけど、
それでもそれがあいつの意志なんだから、それを尊重しないと」
「どうして…あの人の意志だと分かるの」
「ああ、これだよ」
俺はバッグを見せた。
「柳瀬橋君のね、それ」
「ああ。文化祭の日からずっと机の中に置きっぱなしだからな、怪しまれないようにと俺が持ってた。
でももう潮時かな、欲しがってる人に返してやらないと。
この中にな、エンディングノートっていうのが入ってるんだ」
「…最期の望みを書くノート」
「ああ。そこに、ただ一言、書いてあるんだ。
『あなたを守りたい』、それだけ書いてある。
あなたっていうのはきっと橘のことだろう。
通夜も葬式もしない、ただ、そういう希望はちゃんと書いてあったけどな。
ただ、その『あなた』にこれを返さないといけない。
だから俺、今から橘の部屋に行くよ。
雪が降りそうだからさ、お前も早く帰れ」
「…ありがとう中村君」
「ん?」
俺は振り返った。
「話してくれてありがとう、私、もういい。
戦うわ。
守られてばかりじゃ嫌だもの。
中村君だって消防士になるための勉強があるでしょう、
私、戦うわ。
例えどんなことになっても、私は戦う。
柳瀬橋君が言ってる気がする、戦えって。
戻れる場所があると、人は戦えるものなのよ。
私には吹奏楽部がある、それに家だってある、
だから戦う。あなたを頼ったりもするけれど、
でも、私もきちんと、決着をつけないといけない」
「…近藤」
「大丈夫よ、私が死んだら夢路まで死んでしまうから、命だけは何とか守り切るわ。
もっと違う方法で戦う、
私のために殺されたたくさんの人たちのために、
私はここを、もっとよくしたいの。
おばあ様なんかに、世界を壊させたりしないわ」
「でも、無理はするな。危ないと思ったら絶対に俺を呼べ。
俺にはもうお前しかいないんだ、
俺はお前と食べる弁当がうまいんだよ。
だから頼む、無理だけはしないでくれ」
「分かったわ」
ふいー、さみーさみーと俺は自転車置き場に向かった。
「っくしゅ」
え、と俺は固まった。
結ちゃんが俺の自転車の前で突っ立っていた。
「お、おい、3年生はもう時短授業で、もう軽く4時間は経ってるだろ、何で、」
「…忘れものだ」
俺に手袋を手渡して来る。
「雪が降りそうだから今日は冷えると思って、朝に言ったのに、
お前、手袋忘れて行ったから、」
「だから待ってたの!?俺が部活終わるまで、ここで4時間以上も!?」
「うん」
ああもうと俺はため息を吐いた。
「何だよ…手袋くらいで俺を待ってるなんて…」
「だって寒いから」
「だーかーらー!お前は受験生!センター試験だってもう来月だぞ!?
今風邪ひいたらどうするんだよ!
俺の事なんか待つなよ!自分のこと考えろよ!
今がどんな時か分かってないんだろ!
一生を左右する大事な時だろう!
なのにたかが手袋でこんな寒いところで、」
「…たかがなんて言わないで、俺はお前のために一生懸命編んだんだ、
お前が寒いって言うから、頑張ったのに」
「…わ、悪い、…た、ただな、もうこういうことはやめるんだ。
お前が風邪を引いたらお父さんだってお母さんだって凪ちゃんだって困るんだ、
それに俺も困るんだ、
今が大事な時なんだってことを理解してくれよ、
ああもういい、説教してる場合じゃない、
雪が降りそうだから早く帰ろう、自転車んとこ行け」
「うん」
俺はその背中を見ている。
楽しそうに大学を、これから4年住む部屋を俺に見せてくれた、
あの顔を思い出している。
守られてばかりじゃ嫌だと拗ねたり、
柳瀬橋のことで泣いている俺の頭をずっと撫でてくれたり、
分かってるんだよもう、
俺が寝るまで起きててくれて、
離れることを嫌だと思っていて、
それでも新しい世界に向けて希望を抱いているその背中が、
とても輝いているんだと、俺はもう分かってるんだよ。
だからこんなことをしないでくれ。
俺のためなんかに、待つなんてこと、やめてくれよ。
「久々だな、一緒に帰るの」
「まあそうだな、3年は時短授業に入ってるし」
「この道は俺にとってたくさんの意味があって、」
「ん?」
並走している俺達である。
「11月13日までは何もない道で、11月14日からはワクワクする道で、
4月8日からはドキドキする道で、9月28日からは死にそうな道で、」
「死にそう!?」
「命がいくつあっても足りないと思った、冬至が冷たくなったり熱くなったり、
泣いたり、泣かなくなったり、でもまた泣いたり、
俺にとってはこの道が、いろいろな気持ちを運んでくれた。
おじいちゃんには生活全般を、おばあちゃんには料理と裁縫を、
冬至には感情を、そして、」
「?」
「友達からは友情を、たくさんたくさん学んだ道だった。
もう走れなくなるんだと思うと悲しいけど、
でもドキドキしてるんだ。
新しい世界に行く、でもそこには冬至がいない、
でもそれも運命なんだと、宿命なんだと思った。
世界には理というものがあるんだそうだが、」
俺は黙って聞いていた。
「俺はそれに触れられるだろうか?冬至が神様なら、触らせてもらえないだろうか」
「んー、無理かなあ。嫉妬されるからなあ」
「え?」
「確かにそういうものはあるんだ、いるんだよ。
でもそうは簡単には触れないんだ。
俺にだって無理だもん。
だから結ちゃんはそのままでいてよ。
無理に変わろうとしないでいい。
…ただ、笑顔の練習はいいと思う、ぞ。
結ちゃんが笑うと、お父さんもお母さんも、凪ちゃんも喜ぶからな。
それに、俺も嬉しいから」
「…そ、そうか?」
「うん、だから頑張れよ。4年、向こうで頑張るんだろう?
俺、時々逢いに行くからさ、
だからもう前を見、」
がしゃーんと音がした。
「…だから、俺の顔ばっかり見て漕いでるからそうなるんだよ、…もう、
お前はドジっ子だ、ばーか」
結ちゃんが笑いながら起き上がる。
「冬至が笑った」
「は?」
「今、冬至が笑った、冬至が笑ってくれた!」
「…分かったよ、もう。俺、これからずーっと結ちゃんに笑いかける、
それがお前の倖せなら、ずーっとずーっと笑っててやるから。
だから自分を大切にしなさい、
怪我とかしなかったか?」
「うん、大丈夫だ」
「ああもう、本当に馬鹿だよ、自転車くらい前見て漕げってのに」
「冬至、雪だ」
ああ、と俺は空を見上げた。
「急ぐぞ、本降りになったらバスになっちゃうからな!」
「うん」
ありがとう結ちゃん。
俺を好きでいてくれて。
愛してくれて。
俺も同じだよ、俺も同じ重さで、結ちゃんのこと、好きでいるよ。
だから頑張れ。
4年間、頑張って勉強をしてこいよ。
その間に、俺もやるべきことをやるから。
だから、向こうでも、倖せにするんだぞ。
たまに逢いに行くから、
それまでは、勉強を頑張るんだぞ。
「冬至、冬至、雪だるまって作ったことあるか」
「…俺、悲しいわ、お前の幼少時代が泣けてくるわ…」
長野将好と山賀春姫
「姫、アイスの時間だよん」
「…」
「姫、姫、アイス、チョコアイスの時間だよん♪息抜きの時間だよん?」
「…すまない、あと一問だけ待ってくれ、
これを解いたらありがたく頂戴する」
「…うん、待ってるよ」
雪だ、と俺は窓の外を眺める。
電車が動かなくなったらやばいなあと思いつつ、それを見ている。
(その間、春姫は将好の横顔を見ています)
「…うむ、終わった。これでもう今日の分はもういいだろう」
「え、もう終わりなん!?」
「ああ、先ほどお前が雪がと言っていただろう、
もうじき、1年になる、僕が目覚めてから1年になるのだな」
「…持ってくる、待ってて」
「ああ、頼む」
俺は胸ポケットの緑色のシャーペンを見ながら階段を下りた。
冬馬がくれた、誕生日プレゼントだ。
俺は緑色が好きだ。
きっと冬馬も、姫もそうだったんだろう。
「よしよし、固まっておるのう」
グラスを2つ用意する。
そこに慎重にチョコアイスを乗せる。
何気なく食べたあの日のアイスを、今も姫は好きだと思っている。
あの時は何も知らなかった、昔の人間だった。
昔の、自分のしてきたことを悔やんで、俺に散々美しいとかほざいたくせに、
疲れたと言って冬馬は逃げた。
俺は探した。
でももう、逢えないと思っていた。
そういう予感がした。
ただ、このシャーペンだけが、俺の宝だった。
律はまだ小さいから届かないだろうと思って、宝箱を高いところへ置いていた。
そこへそのシャーペンを、俺は入れようとした。
でもそれができなかった。
かっこいい名前だと思った。
古関冬馬。
冬生まれなんだろうと思った。
だから12月5日がそうだと知って、今までのバイト代全部つぎ込んで、
指輪をあげようとした。
それなのに、冬馬はもうどこにもいなかった。
律に罵倒された。
「兄貴が駄目だったんだよ!心配させたんだよ!」
「…」
「早く探してこいよ、しょぼくれた兄貴なんか見てられない!」
罰だと思った。
城善寺と藤堂に対しての行動が、
俺がとった行動が、
今になってそうさせているんだと思った。
だからもう駄目だと思った。
それでも思い出すのは、11月28日の夜のことばかりだった。
星について語る冬馬は、ものすごくいきいきとしていた。
ああ、星が好きなんだなあと思った。
また流星群が来るのはもう、遠い遠い未来の話だ。
でも、あの日、冬馬はすごく嬉しそうに星について語りつくした。
俺はそれが面白くて、嬉しくて、その横顔ばかり見ていて、
肝心の流星群をあまり見れなかった。
星に願えば、願いはかなうと聞く。
だから俺はあの日お願いをしていた。
ずっとこのままでいられますようにと、
そして、
できれば、
冬馬にもっと楽しい世界を見せてあげたいですと、
そう思ったものだった。
それでも冬馬はいなくなった。
疲れたとばかり呟いて、それを俺は見て、
とても悲しくなった。
俺がそうさせてるんだと思うと、悔しかった。
もう二度と逢えないのなら、
せめて冬馬が好きだった星の、天文学を学びたいと思った。
だから医者じゃなく、天文学の方を選び、
担任とバトルしていたのが1年近く前の話。
でも、冬馬は戻って来た。
しかも、今までよりもりりしく、超男前になってだ。
かっこいいのだ、顔が。
なのに春姫という名前ときた。
俺は実は姫が帰ったあとげらげら笑ったものだった。
あんな超美男子が、姫だぞ姫!
俺が何かを教えるとすぐに食いついてくる。
分からないものがあればあれは何だとすぐに聞いてくる。
それに、何の因果か、同い年だった。
ただ、癖は直っていなかった。
目を見て話してくれない。
前は真っ赤な目をしていた、綺麗だなと俺は思った。
でも今は黒い。
それすらも綺麗だなと思った。
そして、何をするにもまるで俺を親鳥のようにつきまとってくるのが実に可愛いと思った。
だからだろうな、
顔が変わっても、姿が変わっても、
俺には冬馬だとすぐに姫を見抜いた。
それに姫のお母さまが泣きながら言っていた。
『目覚める少し前に、ながのまさよしと言ったのよ。
夢の中で逢ったのかしらと思ったんだけど、本当にいたのね。
まるでもう、これは運命っていうのかしらねえ』
「…」
俺はチョコアイスを二つ持って階段を上がる。
もう何度、こうしたか知れない。
あの店に行っても、これじゃないと突っぱねるようになった。
「将好が作る方がおいしい、あちらがいい」
パンケーキにも、パフェにも、目もくれず、
「チョコアイスがいいのだ!お前が作るものがいいのだ!」
と真剣に言うものだから、俺はものすごく、ものすごく、…照れた。
コーヒーの方は飲んでくれるんだけど、
まだミルクとガムシロップの配分が分かってない。
だから俺の目分量で入れてやると、
「これだ、そうだこれだ、目が覚めるのだ、うむ、実にいいものだな!」
とまた嬉しそうに笑うのだ。
「姫ー、お待たせん♪」
俺は足でドアを開けるのだが、固まってしまった。
姫がテーブルですうすうと眠っている。
「…疲れちゃったん?久々の受験勉強で?それとも、俺といることで?」
しっかし寝顔もかっけえなあと俺はしばらく眺めていた。
暖房を入れているのでチョコアイスが溶ける。
「星より美しい」
あの言葉。
俺は、胸が高鳴った。
「お前は綺麗だな、実に美しい。どうしてそうも魅力的なんだろうな」
逆だよと俺はいつも思っていた。
星のことを語る姫は、どんな人よりも綺麗で、美しく、魅力的だ。
天文部を立ち上げたと聞いた時は嬉しかった。
そこに入部希望者が来たというのを、実は中村君づてに聞いた。
「どんな奴なんだ」
「俺は総合進学部だからよく分からないんですけど、
ああ、俺の前の先輩なら何でも知ってるはずです。
だから連絡してみてください」
中村君は元応援団だった。
そこの先輩が、今の姫のお友達2人だ。
「あ、もしもし、あの俺、長野っていうんですけど、短大付属の」
(あー、山賀の彼氏であるね?僕は長谷川というであるよ)
「長谷川君ていうのか…で、その、姫の天文部に入部したいって人はどんな人なんですかね」
(うちの陸上部の短距離走のエースであるよ、国体でも優勝するほどの俊足!
でもそれさえも捨てる覚悟で山賀に迫ってるんであるよ~。
山賀ってかっこいいもんね、顔面レベル最強だもんね、
彼氏としては放っておけないであるね~)
「…で、長谷川君、姫は入部を許可したのかな」
(いんやあ?何でも試験をするって言ってるであるよ。
でも明峰は陸上ではスペシャリストでも、勉強はからっきしなんでね、
山賀のながーい話には付き合えないみたいなんであるよ。
だから不合格不合格って、山賀は受理しないんであるよ)
「でも何でその明峰っていうのは天文部に入りたいのかな?
星が好きなん?」
(ううん、山賀が好きなんよ。山賀って近寄りがたいほど超イケメンだかんね、
友達だと言われた僕たちも恐縮しちゃうんであるよ)
「…その人は短距離走で強いんだね?分かった、ありがとう。
ああ、あとこの電話のことは内緒にして。姫に知られたくないん」
(おうけいであるよ~。しかし山賀も倖せ者であるね~。
ちょいちょいおかしい言動と行動、でも絶対彼氏のことは言わないもんなあ)
俺は走りこむことを決意した。
陸上部にも行った。
「何で長野が走るんだよ、お前、受験はどうすんの」
「戦うためなんだよ、俺が勝つために、そうしなければいけないんだよ」
「へえ、でも相手誰なんだよ」
「ええと、青陵の明峰ってやつ」
「嘘!あいつ、国体で優勝する奴だよ!?青陵が常勝校なの知ってるじゃん!
それはあの明峰がすげえからで!絶対駄目だって!お前には無理だよ!」
それでも勝たなければいけないんだよと俺は陸上部にしばらくお世話になった。
姫と週末は勉強をすることになっている。
でも、姫は渡さない。
俺のだもん。
勉強だったら俺は楽勝に勝てるだろう。
でもそれじゃ駄目だ。
同じ土俵に立ってこそ、勝負はおのずとできるのだ。
姫に内緒で毎朝、早起きして走りこんだ。
夜も、学校から帰ればすぐに走る。
律が心配して見ているのは知っていた。
でも、俺は勝たないといけない。
そいつに勝たないと、俺には姫の隣に居る資格がないと、
そう思っていた。
そして、青陵に行く。
明峰が俺を見て変な顔をしたけれど、
すぐに理解したみたいだった。
「俺に勝つって?はは、俺を何だと思ってんのお前」
「同じ学年で、同じ男で、そんで同じ人を想っている、それだけだろーが」
「…まあいいや、ちょうど相手がいなくて困ってたところだ。
それにほれ、山賀が見てる。
お前が負けるところを見せつけて、絶対に入部届を受理してもらうぜ」
俺は集中した。
もう、周囲の喧騒など聞こえない。
これが、本当の集中なんだと理解した。
そして結果は、俺があの明峰に勝利した。
そういうわけなのだ。
「何でだよ、ただの帰宅部だって聞いたのに、くそっ…!」
「明峰、一言言っておくけどな。
…姫は俺のもんだからな、絶対お前には渡さねえんだよ。
だからさっさと陸上部で頑張りなさいな、
国体で優勝でも何でもしなさいな。
日本を代表する選手にでもなって、そこで思い出せばいい。
この世界で一番強いのは、体力でも頭脳でもない、
愛なんだってことを思い知れ」
そうだ、あの時の集中するということ。
あの緊張感と、同等のレベルの精神状態。
あれだ。
あれがあれば、きっと俺は大丈夫だ。
「姫、アイス溶けちゃったよん…」
「…ん、…ん!?あ、な、なんだ!ぼ、僕は寝落ちたのか!」
「あはは、姫ったらおっかしー」
「何がだ!ああもう、せっかくのチョコアイスがドロドロではないか…!
何故起こさなかったのだ!1日に1個と決められているのだぞ!
意地悪だ!そうだったな、お前はいじめのスペシャリストだったもんな!」
「あはは…姫、まだアイスはストックがあるから持ってくるからさあ、
でも雪がほら、本降りになって来たっしょ?
電車が動かなくなったらやばいかもだから、今日は終わりにしよ♪」
「し、しかし!」
「おうちにもチョコアイスあるでしょーが。俺の手作りじゃなくても、
それで我慢なさいな」
「むむ、仕方あるまい…母さんもストックしてくれているしな、
たまにあちらも消費しないといけない。
ああでも将好、報告があるのだがいいか」
え、と俺は姫を見た。
「何?また誰かに好かれたん?」
「いや違う、僕も初めてなので驚いたのだがな」
「ん?」
俺はそれを聞いてぎゃーと悲鳴を上げた。
途端、律が走ってきて、どうした兄貴と俺に聞くので、
「律はまだ知らなくていい世界なん…」
とだけ言っておいた。
「…はー…普通、ああいうのって俺に言うん?」
姫が帰った後で俺は部屋でぼけーっとしていた。
「け、結構、したんだけどなあ…」
冬馬にはできなかったけれど、姫とはもう何度も抱き合っているわけで。
「まあ、聞く人がいなかったってことで処理しよう、そうだよそうだよ、
姫は一人っ子だもん、
それに14年も眠ったままだったんだもん、
だからお父さまにも言えなかったんだもん、
だから俺に言っただけなんだもん、
…でも何だか複雑、俺、彼氏なのに、
いつか彼女になっちゃう気がする…
ああもう、姫のばかばか~」
でも、と俺は窓の外を見る。
もう冬なんだ。
冬が終われば春が来て、俺はここを出て行くんだ。
律に全部まかせっきりで、駄目な兄貴だった。
でも律が少し変わった。
ゆめちゃんと砂場で城を作ったんだと言っていた。
好きな子に自分を合わせるというのは、
結構きついことだ。
特に、しっかり者の律にとっては、
まだまだお子様のゆめちゃんは、
未確認飛行物体そのものなのだ。
でもバケツとシャベルを持って行った律の背中は楽しそうだった。
俺がしっかりしていれば、
律だってもっと子供らしくいられただろう。
親がもっと慌て者でなければ、
律はもっと、自分を出せたはずだ。
ゆめちゃん、ありがとう。
律はゆめちゃんのおかげで変われると思うんだ。
俺は藤堂がスカートを穿いてきて、
「どうかしら?似合う?長野君」
と言われた瞬間、がたがたと何かが崩れた気がした。
だからもうその日から、
城善寺には手を出さなかった。
それに城善寺は変わった。
クラスの誰かが、藤堂のことを何か言うと、
すぐに聞きつけて突っかかるようになった。
今までと真逆だ。
「悟は悟だ!他の誰でもない、悟なんだよ!」
藤堂は守る側から、守られる側へと。
「千春ちゃん、ありがとう」
城善寺は守られる側から、守る側へと。
2人の世界はやはり完結していたけれど、
俺はそれでも遠くから2人をずっと見ていた。
人は変われる。
そう最初に自覚したのが、その時だった。
だから城善寺が青陵の中等部を受けると、
藤堂もそれを追うと聞いて、
俺は背中を向けた。
お前たちが青陵に行くなら、
俺はこっちの道だ。
そして公立の中学を出て、今の短大付属に入った。
全国模試で何度も城善寺と戦った。
でもあいつは、2位の俺なんかを知りもしなかった。
1位でいることにすらあまり傲慢にもならない。
何かを決意している。
ならば、俺はそれに今度こそ、並びたい。
同じスタートラインに立ちたい。
そしていつか、笑って話ができればいい。
そのために、城善寺が目指す医者を目指そうと思った。
どうしても勝てない城善寺にはちゃんと理由があった。
全て、藤堂のためだと分かった時は、
ああもう駄目だと思った。
藤堂のためにあいつは全てをなげうって、
勉強をしている。
俺が苦手な数学すら、完璧な解答をする。
最初は悔しかった。
でも、だんだん気持ちが変わっていくのを感じた。
勝てないのなら、準ずればいい。
そしていつか再会して、今度こそちゃんと伝えよう。
あの頃はごめんと、
好きだったんだと、
一緒にいたかっただけなんだと言おう。
そのために努力をすることが、
未来につながる。
今ではない未来に到達すれば、
きっと、違う何かが見られるはずだ。
だからと、俺が必死こいて赤本を集め、
試験をことごとく合格点を取り、
短大付属の誇りと言われるまでになった。
藤堂に言われたと俺に逢いに来てくれた城善寺に、
今は感謝している。
全てが今に繋がっている。
冬馬に、そして姫に出逢うために、
俺はこの街に生まれたんだと思った。
だから城善寺が方向転換をしたことを、
俺はもう好機だとしか思えなかった。
あの日、鎮痛剤を渡された時から、
もう、俺の未来は最後まで到達していたのだから。
「ただなあ…今さらなん?俺だって初心者だけど、
それくらいは知識くらいはあったよん…」
律、お前もいつかは通る道だ。
俺がいなくても、お前なら一人で乗り越えられるだろう。
ゆめちゃんと仲良くして、
そして俺をいつまでも、お前の兄貴だと、
お兄ちゃんだと思っていてくれよな。
「夢精をした!初めてだぞ初めて!どうしたらいいか分からなかったから、
とりあえず下着は洗った!」
「…は?」
「夢にな、将好が出てきたのだ!それで星の話をしていて、
ほらよくお前が言うだろう、雰囲気だと!
そういう雰囲気になったので、僕は将好に抱きついた、
そこまでは覚えているのだが、
ただ、起きたら下着が濡れていたのだ!
あれがそうなのだろう!?僕もできたぞ!
夢精だ!」
「ちょい、姫、お待ちよ、そう大声で言うもんではない、
こういうのはあんまり他人に口外しないもんなん、
俺だからいいけどさ、
君島君とか長谷川君には言うなよ?」
「何故だ」
「俺が壊れちゃうから!」
「…わ、分かった…た、ただ嬉しかったのだ、
将好と同じになれたと思ったから、それで…
すまなかった、…うん、…帰る…」
「あ、姫、でもそういうのは全部俺に言ってね、
俺は何でも聞くからさ!
だからそう落ち込まないで!
俺だって最初はびっくりしたけどさ、
でも姫は初めてだもんな、いろんなことが。
だからさ、受験が終わったら、その、
…旅行に行こう。
熱海に行こう、姫のご両親にちゃんと聞いてからだけど、
合格が決まったら、
一緒に住む前に行こう、
だから元気を出すんだ、
姫もちゃんと人間なんだってもう分かっただろ?
な?
だから、ね?旅行だよ、行こう?な?」
「熱海…か?」
「あ、ああそうだ、分かる?」
姫は熱海という言葉を何度か繰り返し、考え、
そして目を輝かせた。
「熱海!熱海だな!新婚旅行にはもってこいの熱海だ!
今はどうなんだろうな、もう戦地ではなくなっているだろうな!
行く、行く!行きたい!連れて行ってくれ!」
「そ、そう」
「そうだな、7泊くらいしたいな、どうだ!」
「7泊!?」
「ああ、今まであの街を出たことがあまりないからな、
蝦夷には行ったが、いや違う、北海道だ、
でも熱海は行ったことがない!
風馬と時雨はいいな、関西に行った…
西までは僕も知らない、
そうだ、風馬と時雨にお前を紹介したい!」
「いやいや、ちょい飛躍しすぎだって」
「仕方あるまい…我慢する、…ただ、
将好、もうひとつ報告だ」
げーと俺は引いたのだが。
「天使がな、今この世界にいるのだ。
分かるか、天使だ!
ほら、冬至君ははざまとであろう?
天の理が今、ここにいるのだ!
僕も逢った!
実に美しいのだ…
ああでも心配するな、理よりも将好の方が美しいからな!」
うへへへーと俺は思い出し笑いをしている。
「…兄貴、何か壊れちゃったな…」
ドアの隙間から律が見ていたのには俺も気が付かないもんで。
コトワリⅥ