探偵に天使は味方です*冬休み

探偵に天使は味方です*冬休み

お休みって不穏だね。探偵以上にキケンな日々です。
天使のスマホと悪魔のPHS、どっちに頼ろうかな?
update:2023.3.14 直観探偵シリーズ④

表紙感謝:ハトリ様;https://estar.jp/users/104802264

※2/22:探偵に悪魔は反則です<探偵シリーズ①>、2/24:神探シ<②>、3/3:夏休み編<③>掲載済み
※探偵悪魔初期メンバーが出る&神探シ回答付きのパラレル話はこちら→https://puboo.jp/book/134686

破:迷える探偵と天使の別れ

破:迷える探偵と天使の別れ

 高校の二学期は大変でした。こんにちは、ウツギ・ネコハです。
 わたしは一年しか日本にいない予定です。だから一学期はすごく適当に過ごしてたんだけど、夏休みの補修にちゃんと出て、宿題もわかる所だけはちゃんと書いたら、担任の先生が「やればできるんじゃないか、(うつぎ)」と言って……それから二学期は、さぼると怒られるようになっちゃったんです。

 スマホの中でいつも一緒にいてくれる、紅いストールのモンタージュな紫音が、今日もわたしを励ましてくれます。
「人間ってさぁ、期待されてる時の方が厳しくされることも多いんだよねー。担任が熱血タイプでかえって災難だったね、猫羽ちゃん」
 ううう……わたしは日本で勉強をがんばる気はないから、わずかたりとも期待しなくていいのに、先生……。
 他にも一緒に住む兄さんやユウヤのことで、どんな関係!? ってクラスメイトにつめよられたり、兄さんと親戚だよ。って言うと、紹介してって、必死に頼まれたりして。わたし達は長くここにはいないから、断ったら一部の女子に嫌われちゃって、クラスにいにくくなっちゃったりもして……。

「ドンマイ、猫羽ちゃん! クリスマスから後は楽しい楽しい冬休み! そうなればもう三学期なんてあっという間だよ!」
 こうしてすっかり、わたしは紫音のいる生活が当たり前になりました。
 兄さんは汐音とユウヤと教会に出入りしてます。わたしが高校に行ってる間は、みんなが代わりにトウカを探してくれてて、教会にいるシノにも協力してもらってるんだ。ツグミは所長のお下がりのスマホをばんばん使いこなしてるし、占い部門でも評判がいいです。

 二学期の終業式の日が、この人間界ではクリスマスだって聞きました。
 神様が人間界に生まれてくれたことをお祝いする日。紫音が色々準備しよ! って言ってくるのは、それだけが理由じゃないみたいです……?


* * *

★File.3:兄さん、世も末です

 悪いコになってしまったトウカが、なかなか見つかりません。
 だから「モンタージュ」の紫音が女の子姿のままでいることに、みんな慣れた頃合いでした。
「オレもうダメかも……猫羽ちゃん……」
「――? どうしたの紫音、急に?」

 スマホを見ると、紫音がサンタさんの帽子で、雪とクリスマスツリーの横で座り込んでます。
 わたしはシノのいる教会に向かう途中です。兄さん達を探す時にお世話になって、クリスマスには是非来て、って誘われてたから。
「鶫ちゃんの誕生日だし、ツバサと鶫ちゃんが貴重なデート中なのは、大変よろしいとしてですね。PHS切っといてってあれほど言ったのに、今でも全てのらぶらぶが筒抜け中です、もういっそ殺して下さい甘くてしにそう」
「あ、それは仕方ないよ……PHS、そもそも電源ないから……」
「そっか、置いてって、って頼むべきだったんだね、了解……ていうかこんなダメージ受けてる自分が嫌だ……やっぱり殺して……」

 最近の紫音は、PHSの汐音はそうじゃないのに、ますます兄さん達のことが気になるみたいです。黙ってることもできないくらい苦しんでる。
 「鍵」の兄さんを欲しがるために、シオンが作られたばかりならともかく、何で今頃そうなるの!? って驚いてて、わたしだけがこっそり相談にのってます。

「オレがいなくても、猫羽ちゃんはちゃんと悠夜君と幸せになるんだよ……今日も先に、教会行ってるって聞いてるからね」
「うん、三人で楽しもうね、クリスマスパーティ。そう言えばシノも、紫音が来るの、楽しみに待ってるみたいだよ?」
「うん、見事に全然わかってないね、猫羽ちゃん。もう後は教会につき次第、オレ入りスマホを詩乃サンに渡して、悠夜君と二人でばっくれるといいよ」

 そうは言っても、どう見ても紫音が一番クリスマス仕様なんだけどな。人間界のクリスマスは初めてだから、わたしは紫音に色々教えてほしくて。
 紫音はいつも、何でも話せる優しい天使です。わたしはすっかり頼っちゃってます。

 ユウヤは準備のお手伝いをしに行ってます。わたしはちょうどバイト上がりで、今日は少し早く終わらせてもらいました。
 相談所から高校は近くて、教会も違う方向だけど高校に近いです。
 ちょうどわたし達が着いた時に、同じようにお呼ばれした人達が玄関にいて、嬉しそうに声をかけてくれました。
「あ、猫羽ちゃん、久しぶりー! 最近どう、まだ探偵バイトしてるの?」
「あー! ネコハ! タンテイのネコハだー!」

 礼拝堂に行く前に、教会の関係者さん達に、いつもありがとうございますって挨拶してるのは真羽(まはね)陽子(ようこ)さん。前に担当した仕事の依頼者さんで、小さいユウをよくシノに預けて仕事に行って、お母さんだけで育ててる頑張り屋の人。
 ユウは、色々あって、氷輪くんに気配がそっくりな子供です。シオンだけ残して氷輪くんが眠り続けてる今、そのことも兄さん達はシノと相談してるはずだけど、わたしには教えてくれなくって。今日は少しでも、シノからお話が聞けるかな? と思ってます。

 真羽さんとユウと一緒に礼拝堂に行くと、シノと一緒に待ってたユウヤが、沢山並べられたテーブルの一画にわたし達を案内してくれました。
「ありがと、ユウヤ。後でシノとは、ゆっくりお話しできる?」
「一応そのつもりで頼んでますが、あまり遅くまではダメですよ。はい、これ、プログラムです。同じテーブルの人にも渡して下さい」
 ツグミのバイト代で、わたし以外の生活費は賄えてるから、兄さんとユウヤは教会でよくお手伝いさせてもらってるんだ。兄さんは最初、日雇いバイトをしてたんだけど、わたし達はみんなこの世界のヒトじゃないから取り締まりが厳しくって。
 ツグミはうちに泊まったり相談所の地下部屋にいたりで、わたしはしょっちゅう会ってるけど、兄さんはちょっと淋しそうです。今日はゆっくり、街を楽しんできてくれるといいな。

 パーティは牧師さんのお話とお祈りの後、キャンドルに火をともしてみんなでクリスマスケーキを頂きました。
 スマホの紫音はケーキを食べられないけど、讃美歌を一緒に口ずさんだり、それなりに楽しんでるみたいです。隣の真羽さんにスマホの画面が見えちゃって、何このアプリ、めちゃ可愛いー! って大喜びされて鷲掴みです。
「私はクリスチャンじゃないのにいいのかなあ、って毎年思うんだけどねー。夕烏(ユウ)も楽しみにしてるし、お邪魔しちゃうんだなあ」
「別にいーんじゃないの。日本人の大半はそんな感じで楽しんでるじゃん」
「ありがと、最近のアプリは本当凄いね、声も全然自然に会話できてる!」

 わたしからスマホを奪って、真羽さんが紫音と楽しそうに喋ってます。紫音は別にいーよ。って言うから、代わりにわたしはユウとお話しします。
「ユウは最近、体は大丈夫? どこかしんどいところはない?」
「? オレ、げんきだよ! ネコハはげんき? どこかいたくない?」
 にこにこと返してくれるユウ。その背中に、わたしはうっすら、氷輪くんのものだった白と(くろ)の翼を感じます。
 氷輪くんと同じ気配を持つユウは、実は今、眠る氷輪くんの体を最低限で維持してくれてる陰の功労者なんだ。すごく強い魔力を持ってて、それが翼を通じて氷輪くん、ひいては氷輪くんと契約した兄さんの体を守ってる。兄さんから汐音にも回って悪魔の力を使える源になってる。
 ユウに自覚はないから、ちょっと悪いなと思うんだけど。兄さんも汐音も、なるべく魔力の消費は抑えるよう日頃から気を付けてます。

 そう長くなければ大丈夫だろうけど、これが続くと、ユウも常に大量の魔力を使いっぱなしになっちゃいます。それは多分体に良くないから、ユウのためにも、兄さん達はシノと相談をしてるはずです。
 魔力自体は、ある以上は制御できて、適度に使う方がいいっていうけど。日本では、まして保育園児のユウには、使いどころが普通ないよね……。

 パーティが終わると、シノがわたしとユウヤを部屋によんでくれました。
 真羽さんが見てたスマホを今度はシノが見て、紫音の可愛さにシノまで見入っちゃいました。
「そうなの、かごめの天使なの、そうだったのね……悪魔の翼槞くんは普通に男の子の気配だったけど、あなたは陰陽両方が強そうよね、確かに」
 長い髪をゆるっとまとめて、細い眼鏡で目を丸めてるシノ。ジーンズが似合う大人の雰囲気なのに、実際は真羽さんより「みーはー」なんだって。紫音が言ってたの。
 汐音はユウから、紫音は天使の羽から力を分けられてます。シノもそれをとっくに知ってる。でも紫音と直接喋るのは今日が初めてなんです。

「って、だから汐音の時にもそう言ってるじゃん。何で『かごめ』かは知らないけど、この天使の力と姿もよそから引っ張ってるっぽい」
「その気配は間違いなく、この教会に結界を張ってくれた天使のものよ。でも姿は全然違うのね、不思議ね……可愛い……」
「女装って言うなし、オレだって不本意なんだから。中身はPHSもこっちも汐音だから、そこんとこヨロシク!」
 それはちょっとウソだね、紫音。でもユウヤもいるし、本当のことはあんまり話したくないんだろうな。
 汐音と紫音は、意識は一つのはずなのに、感情の配分が違うみたいなんだ。優先度が違うというか、スマホの方が表現が豊かというか、難しいけど。
 兄さんとツグミの甘々デートがキツイ。なんて、紫音しか言わないです。今は二人で、ツグミがスマホで見つけた展望塔で夜景を見てるんだって。冷えるからベンチでマフラーカップル巻きだよあいつら、って、シノの部屋に来る前に紫音がこっそり実況中継してくれました。

 紫音の可愛さにシノが魅了されてるから、苦笑しながらユウヤが仕切り直します。
「かごめは色んな曰くがありますが、翼槞君にしても器の名前ですね。(かご)(おり)、何を閉じ込めてるのか父様にきいておくべきでした」
 御所での登録用に、氷輪翼槞の名前をつけたのは確かユウヤのお父さん。多分字の通り、「翼の(おり)」でいいんでしょうけど、と付け加えます。
「汐音君も紫音さんも、自分の属性だけじゃない多様な()を扱える制御力が、特筆すべき点ですよね」
「そうね、悪魔なのに天使の羽で、聖なる言霊を使えるんだもの。ユウ君も魔力を持ってるだけだけど、あんなに小さいのに、無駄なく保てる無意識の制御力がわたしも不思議だったの」
「翼槞君の心臓代わりに『黄輝(おうき)』を使うなら、汐音君達が夕烏君に力を借りて、翼槞君に負担をかけずに制御する方が迅速だと思うんですが……ですよね? 紫音さん」

 ユウヤに何となく、「汐音君」と「紫音さん」で呼び分けられてる紫音が、面白くなさそうにスマホの中で頷きます。
「できたらとっくにやってるってー。夕烏の魔力は水系で、(くう)の『黄輝』とは属性が違うし、翼槞も『黄輝』をぱちって封印してただけで、翼槞自身の力じゃないからね。翼槞が制御してくれてこそオレも使えたわけで、だから現状はお手上げなの」
 だから氷輪くんに負担をかけずに、「黄輝」を動かせるヒトが必要。でも今、氷輪くんの中にある「黄輝」を外に出すわけにいかないから、氷輪くんの「鍵」な兄さんだけが、「黄輝」に接触できるかもしれなくて。それで兄さんはシノから聖なる力の使い方を習ってるみたい。
「わたしには想像もつかない世界だから、ツバサくんに教えてること、あってるのかも心配なんだけど。あと、ユウくんが、翼槞くんの心臓を持ってるという話を聞いて……それ、もしかしたら、翼槞くんが悪魔なのに魔力を持ってないことと関係してる? 出会った時から気になってたの」
「はい。父様にきいたんですが、昔の翼槞君は魔力を持っていたそうです。でも丁度、ここで言えば五年前に、突然失っている。その頃生まれた夕烏君の魔力は、もしかしたら翼槞君の失った力かもしれないですよね」

 色んな相談で、いつもそこに辿り着くというお話を、ユウヤが困ったように続けました。
「それなら夕烏君の魔力を、翼槞君に還せたら一番早いと思うんですが。夕烏君の正体がわからないことには何とも」
「そうよね、それが結局闇の中なのよね。陽子さんは父親に心当たりが全くないと言うし、でもユウくん自身は人間だし……逆に、どうしてあの魔力に耐えられているか、それが不思議なくらい」
 氷輪くんの心臓がないと、夕烏は消える、と前にトウカに言われました。
 うん、ユウの心臓を取り出すわけにはいかないし、心臓がそのまま心臓になったとも限らないよね。
「シノは、できればユウが魔力を失くして、氷輪くんが目覚めるための力にしたいと思ってる?」
「ええ、その通りね。人間には過ぎた力だと思う。ユウくんが小さい頃から、あの魔力が何処に向かうのか心配だったけど……翼槞くんの翼を半分もらってから、本当に安定してきたわ、ユウくんも」

 今までユウは、よく夜中に、泣いて起きてたんだって。魔力が強過ぎるヒトは、夢で色んなものを視ることが多いらしくて、わたしの母さんもそうだし、なるほど、です。悪魔にも、過去や未来を視るタイプは多いものね。
「猫羽ちゃんが翼槞くんを探してた時、ユウくんの影響がある場からは、少し未来の常夜に着いたというでしょ。じゃあ逆に少し過去に行って、ユウくんの生まれを調べる方法はないかって、この間は話してたの」
 あ、そっか。わたしは神様の世界に、兄さんと氷輪くんを探しにいったけど、紫音にもそこで会ってるんだ。あの時はスマホに紫音もいなかったし、あれはちょっとだけ未来だったはずです。

「あれから占ってみたんですが、実はそれ、行けそうなんですよね。ユウ君が未来の神器なら、対になる過去の神器も必ず、何処かにある。大まかな場所と特徴も、実はわかってて……ただ、それをする場合は、また猫羽さんに神界(しんかい)に行ってもらわないといけなくなるので……」

 シノとわたしが一緒にびっくりしました。シノはユウヤが、色んな(まじな)いを使えるヒトだとは知ってるけど、さすがにその占術の精度は想定外だったみたい。
 わたし達の中で今、神様の世界に行けるのはわたしだけです。シオンを連れてったのは時雨兄さんだし、わたしや時雨兄さんにだけ、「神」があるからできたことだっていいます。
「過去の接点を見つけたの、ユウヤ? やろうよ、わたしは多分、ちょっとくらい大丈夫だよ」
「ところがそれが遠いんですよ。鶫ちゃんに調べてもらったんですが、ここから新幹線というのに乗って行かないといけません」
「何それ、楽しそう、やってみたいな。冬休みだし、みんなで行こうよ。あ、でもシノは、教会にいないといけないよね……」
「そうね、わたしはここの結界を守らないと。でも悠夜くんや紫音さんがいれば、わたしが猫羽ちゃんを送ったみたいに、神域を作ることはできると思うわ」

 そうなると、後の問題は一つでした。
「新幹線、結構、高いんですよね……何とか日帰りできそうな場所ですけど、四人分は往復で九万円近くいきます」
「うわあ、全然知らなかった……それは絶対に無理だね、すごいねシンカンセンって……」
 ツグミはわたしより遥かにスマホを使いこなしてます。「あいぽん」っていうらしいんだけど、見せてもらってもわたしはさっぱりわからなかったよ。おかしいなあ、同じスマホのはずなのに……。
 それはともかく、まずそうして調べてくれるツグミがいないと行けないし、過去との接点がわかるのもユウヤだけだし、置いていけるとしたら兄さんくらい? それでも七万円くらいかかって、ツバサくんが拗ねますよ。ってユウヤにたしなめられちゃいます。

 わたしのお小遣いが、まだ何とか一万円くらい残ってたかな。ツグミも節約して少しだけ貯めてるって言ってたけど、そもそもシンカンセンに使ってもらっていいのかな、デート代だって出してくれてるのに……。
 わたし達のやりとりを見て笑うシノが、自分のスマホを取り出しました。
「場所を詳しく教えてくれる? もっと安い方法があるかもしれないわ」
 ユウヤがわたしは全然知らない地名を言います。するとシノは、「やこうバス」があるよって、嬉しそうに画面を見せてくれました。
「これなら四人で大体往復五万ね。今からみんなで年賀状バイトでもすれば、冬休みの内には何とかなるんじゃないかしら」

 うう。それができるのは多分、ウソでも戸籍があるわたしだけだね。氷輪くんの戸籍を借りたら兄さんも何とかなるかな?
 がんばってもお給料は手渡しではもらえないみたいで、ホストの玖堂(くどう)さんが家賃用に作ってくれた、わたしの銀行口座もいるって。頭がくらくらしてきそうだけど、ユウヤがわたしの代わりにシノの説明を理解して、計画を立ててくれました。
「つまり可能なら、暮れまでは何とか臨時バイトに入って、お金を稼いでおきます。交通費は来月分の仕送りで立て替えて、バイトで入るお金を立て替えた分にあてるんです」
「じゃあ実際に行けるのは、早くて年が明ける頃くらい?」
「鶫ちゃんのお金も合わせれば、足りないのは一万円と現地の食費くらいです。こういう時のために貯めてるって言ってましたから、多分文句なく貸してくれると思います」

 シノがそのまま、年末の「やこうバス」の予約を取ってくれたみたいです。ほとんど勢いの見切り発車だけど、それも含めて楽しいね、こういうの。
 ちょうどお正月前後はわたしもバイトがないから、その時にしか元々行けないしね。
 すぐに取らないとバスの席がなくなりかけてるからって、兄さん達に相談せずに決めちゃいました。紫音いわく、汐音が話してるから大丈夫だって。
 シオン達がいてくれるの、こういう時にもほんとに便利だね。そうしてわたしとユウヤはシノにお礼を言って、夜の教会を後にしたのでした。


 帰り道の暗い坂を登りながら、橘診療所でもらったお下がりのコートを着るユウヤが、それでも寒そうに息を白くしてました。
「猫羽さんは寒くないんですか? 今日はかなり冷え込むみたいですよ」
「うん、このバイトの制服、便利なんだ。むしろ暑いくらいだよ、今」
 わたしは受付けの制服の上に、高校指定のコートと咲姫おねえちゃんがくれたマフラーを着けてます。
 だから、はい、とマフラーを外してユウヤにかけると、ダメですそんな! ってユウヤが立ち止まりました。
「ユウヤ、体が弱いから無理しない方がいいよ。もう家も後ちょっとだし、わたしはほんとに暑いくらいなんだから」
「うう……それじゃ、すみません……確かに温かいですね、これ……」

 あれ、そんなに温まってたかな。ユウヤの顔が赤くなっちゃってる。
 スマホから紫音が、二人もカップル巻きすればいいのに! ってわたしにだけ念を送ってきたけど、わたしは巻き方がわからないから無理だよね。
 カップル巻きってそんなに温かいのかな。ユウヤにきいてみようかな、と悩んでたら、不意にすっと、ユウヤが前を向いたまま手をつないできました。あれ、まだ寒いのかな? ってわたしはぽかんとします。
「……何だかすみません。僕には翼槞君のことも、バイトも大した力にはなれなくて」
 あ、そう言えばユウヤは、こっちの生活がわたしとツグミ頼りだって気にしてたっけ……でも高校の宿題を一緒に考えてくれるし、宿題もわたしにはどうでもよくて、ユウヤがいてくれるだけで嬉しいんだけどな?

 冷えた手を温めたくて握り返して、わたしは素直な心を伝えます。
「どうして? ユウヤがこっちにいるだけでわたしは五倍くらい楽しいのに。しんどい世界なのにありがとうね、ユウヤ」

 スマホで紫音が、あっまーい! って叫ぶ声が聞こえた気がしました。
 気付けばちらほらと雪が降ってきて、それをホワイトクリスマスと呼ぶことを、後でわたしは教えてもらうのでした。


* * *


 年賀状バイト、募集枠の問題もあって、結局行けるのはわたし一人だけでした。それも飛び込みでいけたのは運が良かったみたい。
 兄さんが代わりに行きたいって言ってくれたんだけど、まだわたしほど漢字が読めないから、年賀状の仕分けは無理ってなったんだ。
「ごめん、猫羽はくれぐれも体に気をつけて。旅の準備はツグミ達と進めておくから、心配せずに頑張ってきて」
 左耳に黒い翻訳機の装具を着ける兄さん。時雨兄さんやツバメ兄さんの頃ほどには、周りの言葉がわからないんだって。
 わたしも知らない地名だらけで、最初は頭が痛くなっちゃったんだけど。上に書いてある番号を、まずは見ればいいよって教えてもらって、かなり楽になりました。わたしも日本語、まだまだ聞き取れてないこと、多いね。

 朝から夕方までは、年賀状バイト。夕方からはいつも通り、受付けのお仕事。
 相談所の仕事納めまでの四日間で、何とか仕送りの穴を埋めるバイト代は稼げたと思います。大晦日はお休みをもらって、下宿の大掃除をしてから、夜のバスに乗ってみんなで西日本に行くことになりました。
 わたしが遠出するってきいて、咲姫おねえちゃんが相談所に顔を出して、わざわざ餞別を渡してくれました。
「はいこれ、馨に頼まれたの! 日帰りでもせっかく行くなら、美味しいものいっぱい食べておいでね!」
 最近、先輩探偵の馨おにいちゃんは、すっかり顔を出すことが減っちゃっいました。ツグミが増えたからって、探偵のお仕事は別に減らないのになあ。
 馨おにいちゃんは、プライベートが謎なヒトです。透視のすごい目を持ってるから、咲姫おねえちゃんがいくらつけても絶対まかれちゃって、おねえちゃんも家を知らないんだって。おにいちゃんと一時期敵対した氷輪くんも、それで苦労したことがあるって言ってました。

「これはね、猫羽ちゃん、どう考えてもお土産買ってこいってことだよ」
「うん、いいのがあるといいな。紫音は何かオススメはある?」
「オレも行ったことないからなー。鶫ちゃんはアイポンで、マスカットのお餅やキビ団子買わなきゃ! って見てて楽しそうだったけど」

 そもそもわたし、行く先も西日本ってだけで、全然わかってないんだよね。
 探すのは、未来の神器っていうユウの対で、過去を象徴する現人(うつしびと)の神器。ユウヤの占いで「年末年始・ツルガタヤマ・道の三女神(さんじょしん)・開かれた鏡」というのが出て、そこからツグミが占い……じゃなくアイポンで調べたっていうの。どうなってるのかな、もうわけがわからないね?

 ツグミとは駅で待ち合わせだから、兄さんとユウヤと三人で家を出ます。
 出る前に火元の確認をしてくれてるユウヤが、今になって不安になったみたいにぽつりと言いました。
「もしも何も手がかりがなければすみません。夕烏君の魔力を何とか翼槞君に渡せたら、ツバサ君に無理をかけることも減るかと思って……」
「あ、そんな話だったのか、なるほど。俺は普通に楽しみだったけどな、こっちで旅行って初めてだから」
 わたしもそうだな。まだトウカも全然見つからないし、ツグミやユウヤと人間界でお出かけするってすごいことだもん。
 お泊りしながら長く乗る夜行バスも初めてだし、夏休みの海以外に違う県に行ったこともないし、お小遣いをつぎこむ価値は十分過ぎるほどあるよね。

 でもこれはわたし、ユウヤの天才さを甘く見た楽観だったと、向こうについてから思い知ることになります。
 「手がかり」どころか、全てを握る事の発端。今でも未来でもなく、「過去を象徴する神器」の恐ろしさ……それを真っ先に引き当ててしまったユウヤと、想像を越えた苦難に巡りあうわたしの一日を、この出発の時には知る由もありません。


 これは何の試練ですか、と。
 夜行バスを降りた瞬間、貧血を起こして倒れちゃったユウヤを兄さんが背負って、駅から近い所にあった古風な通りに入りました。
 賑やかそうな町の真ん中なのに、柳に囲まれる川が流れてて、風景も何だか故郷の京都に似た不思議な所です。わたしは一目で気に入っちゃいます。
 新年だからか、朝でも人がいっぱい。何とか座れそうな川べりを見つけてユウヤを休ませた時には、もう顔色が真っ青でした。
「夜行バスって……牛車以上に、ひどいんですね……」
 うん、繊細なユウヤにはあれはきついと思う。お泊りしながら走るバスは、席を倒してベッドにするワクワク仕様だったんだけど、狭いし人も多いし、席も完全には平らに倒せないし。
 わたしはそれでもすぐに寝ちゃったけど、ユウヤは一睡もできなかったみたい。兄さんとツグミも眠そうだけど、ユウヤほど顔色は悪くないです。

「すみません……僕は大丈夫ですから、予定の場所にみんなで先に行ってください。気分が持ち直したら、追いかけますから……」
「ダメだよ、ユウヤを一人で置いてくなんて、ソウに殺されちゃうよ」
 まだ夜のバスまで時間は沢山あるし、この古い街並みも居心地がいいし、目指す場所もすぐ近くです。むしろわたし一人でも行けそうなくらい。
 行き先はちょっと小高い丘にある神社。町中なのに緑が多めで、同級生に「森ガール」って言われるわたしは、気になって仕方ないです。

 兄さんとツグミが、そんなうずうずを汲んだように、顔を見合わせて相談を始めました。
「あのね、良かったら私が猫羽ちゃんを案内するから、翼汊と悠夜はしばらくここにいて、元気が出たらもう少し南にある広場に行って待っててくれる? そこなら休憩所があるはずだから」
「え? わたしとツグミだけで行くの?」
「それがいいんじゃないかな。必要な時は汐音づてに呼んでくれたらいいし、ユウヤに何かあれば、まず殺されるのは俺だし」
 ここが西日本の何処かもわかってないわたしを、単独行動させるわけにはいかないってみんな思ったみたい。別に何処かわからなくても、みんなの気配を探せば迷子になんてならないのにな?
 でもユウヤが気を遣っちゃうから、わたしはツグミの言う通りにすることにしました。ユウヤには兄さんと汐音がついてれば大丈夫だよね。二人共、川を泳ぐ鯉を見つめて楽しそうだし、ユウヤにはまたわたしのマフラーをかけて、温かくして待っててもらいます。

 ツグミはまず、先にわたし達が朝ご飯を食べてからだって、手作りのおにぎりを取り出して分けてくれました。みんなの分を作ったからって、残りはユウヤと兄さんに渡して、二人で目標の神社に向かって出発しました。
「ツルガタヤマっていうと、多分ここしかないはずなのよね。三女神も合ってるし、ただそれ以上の情報は、『開かれた鏡』以外何もなくて」
「とりあえずここで、誰か変わった人がいないか探せばいいんでしょ? ユウに会った時もヘンだって思ったし、間近で観れば『神器』の違和感はわかると思う」

 神性のあるヒトが神様の世界を訪ねるには、まず神域にいることと、ユウの存在みたいな、接点になる「神器」が必要ってシノが教えてくれました。その神器の質によって行ける時間が変わるのは、トウカが教えてくれたこと。
 普通は瞑想で意識だけを飛ばすんだって。シノの教会でもそうでした。体ごと行くと神隠しにあいやすいから、一人でヘンな領域は絶対入っちゃダメとツグミとユウヤに言われてます。

 参道の石段を昇りながら、ふっと疑問が思い浮かびました。
「開かれた鏡、って何だろ。何でだろ……気になってきたよ」
「それは多分、ここで今日あったはずの鏡開きの催事じゃないかしら。鏡抜きのことだろうけど、酒樽の蓋を割る祝宴よ」
 だからこの神社を指す言葉だろう、って言うツグミ。
 それは確かにそうだと思うけど……ツグミがあっさりしてることが、逆に気になりました。

 何でだろう。鏡を開く、蓋を割る、それって何かに似てないっけ?
 そう思った瞬間、わたしの頭にいつかの唄がよぎりました。

――かごめかごめ。いついつ出やる?
――(かご)(おり)、何を閉じ込めてるかきいておくべきでした。

 ……そうだ。ユウヤがわざわざ拾い上げた言葉が、神社のイベントだけを指すとは思えなくって。
 ツグミもユウヤも、意識しても無意識でも鋭いヒト達です。でもツグミは強がりで、よほど疲れた時でないと、弱音には触れさせてくれないところがあって。

――私はいつまでも御所に――父上に縛られてはいられないから……。

 これはツグミが、無意識に何か封じ込めた気配。「開かれた鏡」の意味に、ツグミは触れたくないからあっさりしてる? わたしはそう感じました。
 鏡って何だろ。何か近いものがわたしのすぐそばにある気がするのに、後一歩で思い浮かんでくれません。

 入り口で手を洗って、沢山の人の間を抜けて、拝殿にまずお参りします。
 九時から三女神の舞があるみたいで、その時にはここも強い神域に近くなるだろうって、能舞台を見ながらツグミが感心してました。
「ちょっと先に(かわや)に行こうか。まだ時間、少しあるものね」
「うん。混んでそうだし、すぐ向こうにあるみたいだし」

 境内では端っこの方に、林と道路が近いトイレがありました。
 しばらく並んで、ツグミはわたしを先にしてくれたから、手を洗った後に入口から少し離れてツグミを待ちます。
 荷物はみんなで駅のロッカーに置いてきたから、学生コートのポケットにスマホと財布、ハンカチだけを入れてるわたしは身軽で……。
「……え?」

 どうしてだろう。その早歩きで、黒い髪の巫女の人に、わたしの視線は突然釘づけになりました。
 トイレに向かってきたと思いきや、すっとその裏に入って、林の中に入ってっちゃった巫女の人。緋色の袴がとても鮮やかで、人間には案外珍しい、真っ黒な目が印象的で……――
「何で……シオン……?」

 自分が何を呟いたかもわからないほど、思わず夢中に後を追ってました。
 こんな時に出会うなんて思ってもみなかった。ツグミとはぐれることも忘れちゃうくらい、不思議な気配がわたしの直観を捉えて離しません。
「待って……!」
 そうだ、鏡だ。この人のことだったんだ、そんな確信が急に駆け巡ります。
 そして「鏡」はこの人だけじゃない、それはすでにわかってたはず。どうして誰も言い出さないのか、その方が変だった、「鏡」なヒト達のこと。

 林の中に入ったその人は、人目を避けるように木の陰に入ると、懐からスマホを取り出して立ち止まりました。
「あ、ちょー、おかん? 今バイトしょるけん、手短にのー!」
 わたしはひとまず、電話が終わるのを待ちます。でも絶対に見失っちゃダメだって、気配を殺して近くの木の後ろで見守ってました。
「はぁ? いや、じゃけぇ、うちゃ年末年始シフトバイトや言うたが! そりゃにゃーわ、おえん、仕事戻るけん切るで!」
 多分歳は、わたしと一緒くらいの女の子の声。ここにバイトに来てるのはすぐわかったけど、電話口では、そんなに年がら年中バイトしてどうするの? お正月くらいゆっくり家にいなさい、ってお母さんに言われたみたい。方言でわたしもわかりにくいけど、わざわざ電話してきたお母さんの心配を感じました。

 電話を切ってから巫女の人は、はああああ……と、まるで男の子みたいな豪快なため息をついたのでした。
「ほんに、たいぎいわ……誰が好きでしよるか、こがーな女装コス……」
「……あ、あの……」
「――!? あ、あ、はい、何の御用でございましょうか!?」
 おずおずと声をかけたわたしに、びっくりして飛び上がるように振り返ります。さぼってたのがばれた、みたいな焦った反応。
 さっきまでの渋い顔が嘘みたいに、可愛く営業スマイルを浮かべる巫女の人は、言葉も標準語に直してかしこまった様子でわたしを見返してきます。
「どなたかをお探しですか、それともお迷いでしょうか? こちらには何もございませんので、良ければ本殿でもご案内致しましょうか」
「やっぱり……シオンみたい……」
「――へ?」

 間近から巫女の人の顔を眺めて、改めてわたし、そう思いました。今度ははっきり、実感と共に。
 巫女の人、とてもキレイな鋭い顔立ちで、長くて黒い髪を右側で肩の高さで括ってる。可愛いのに男の子みたいな表情をするところとか、何より全身の気配も、人間のはずなのにちょっとシオンに似てるの。ユウが人間なのに、氷輪くんとよく似てるみたいに。
 何かがあるはずと探しに来たこの神社で、どう考えても一番気になる相手。それはシオンを映したようなこの人……「鏡」なんだって、わたしの直観が全身で訴えかけてきます。

「あの、わたし、ウツギ・ネコハ。あなたの名前、教えてもらっていい?」
「え? ウツギ、ネコハさん? ど、何処かでお会いしましたっけ……?」
 真剣なわたしに当惑しつつ、その人は一瞬、「おれ」と言いかけました。慌てて女の子らしい雰囲気に戻ります。
「わ――私は、茨月(しづき)瀬衣(せい)です。すみません、何かご用件があるなら、仕事があるので手早くお願いします……」
「シヅキ……セイ……」
「はい、茨月ですけど……見ての通り、ただのバイト巫女なんですけど……」

 セイは何も、ウソはついてません。ただただ突然現れたわたしに困ってる。
 わたしも多分目標を観つけたはいいけど、この先どうすればいいかわからなくて、ちょうどセイに聞こえないよう、紫音の念のツッコミが入りました。
――まずいよ猫羽ちゃん。鶫ちゃんの気配が逆方向に遠ざかってる。
 あ。やっとツグミを置いてきたことを思い出して、わたしも我に返ります。
――昨夜から散々使ってるから、鶫ちゃんのアイポン、確か電池がやばかったはず。オレから伝話は無理だし、夜までもたそうとして、電話せずに猫羽ちゃんを探してるとみたよ。

 ごめんね、ツグミ。わたしから気配を追いかけなきゃ、ツグミには弱い人間のわたしの気配がわかりにくいはずです。人前で探索の式神を使うわけにもいかないだろうし。
 ツグミを探しにいきつつ、セイをここで何とか確保しなきゃ。そう思って咄嗟にわたしは、がしっとセイの腕を掴んで黒い目を見つめました。
「――あの! おねえちゃんがいなくなったから、一緒に探してほしいの!」
「……はい?」
「ここ、初めてなの、人がいっぱいで困ってたの。誰に言ったらいいかわからなくて」
 どなたかをお探しですか、ってさっき言ったもんね、セイ。
 それ、おれ、名乗る必要あった……? そんな気配で首を傾げてるけど、顔は笑顔で、かしこまりました。と頷いてくれました。

「それでは、お連れ様のお名前は?」
「ツグミ。わたしよりちょっと背が高くて、髪が短くて赤いコートを着てる」
 ツグミの赤い髪は目立つけど、こっちでは明るめの茶髪に見せてるはずです。わたし達はいつも通りにみえてるけどね。
「承知致しました。ウツギ・ツグミ様ですね」
 あ、どうしよ、ちょっと違う……ツグミは山科だけど、おねえちゃんって言った手前、訂正しにくい……。
 うん、別にわかるよね、ツグミも多分……そもそもわたしからツグミの気配はわかるから、後はセイを連れて、ひとまず合流すればいいだけだし……。


 隣に立って歩き出してくれたセイは、ちらちらわたしの方を見ては、何故か少し赤くなってるみたいでした。
 やべえ、よー見よるとでーれーかわえー。そんな風に心が伝わってきたけど、多分好印象なんだろうけどちんぷんかんぷんです。
 さっきからセイ、表面の女の子らしさと、内面の雰囲気が全然合ってないね。そういうところも、見た目は女の子の紫音に何処か似てる。でもバイトで巫女さんができるってことは、男の子じゃないはずだよね?

 ツグミの気配が北向きの奥の方にあるから、トイレ側には戻らずに、そのまま林の中を進みます。あっちでいなくなったの、って言って、今日のわたしはすごくウソツキさんです。
 この後はどうすればいいのかな。セイもバイト中だし、あんまり引き止めるわけにはいかないよね。
 ポケットから取り出したスマホの画面を見てると、紫音がこのまま、セイを気絶させて林にでも引っ張り込んで、ちょっとの間、神界(しんかい)行きの接点になってもらうといいよ、って表示させます。
 ううん、バイト中の人に、それはちょっとだよね……でもツグミが見つかればセイはきっと何処かに行っちゃうし、他にチャンスもありそうにないし……。

 歩きスマホで悩み過ぎて、道端の石ころにつまずいて、きゃ、と派手にこけそうになっちゃいました。
「あ!」
 反射神経の良さそうなセイが、しっかりした両手でわたしを横から抱きとめてくれました。
 ちょうどその時、境内の中心の方から、キレイな笛の音と笙の音、合わせて響く筝の音がおごそかに聞こえてきたんだけど。

 あ、三女神の舞、始まったんだ。
 そう思った瞬間、わたしとわたしを抱えるセイの周囲が、唐突に黒塗りにされ始めました。夏休みの初めの頃、兄さんと氷輪くんを探しにいったあの時みたいに。
「あ――今は、ダメ……!」

 舞の時には、ここも強い神域に近くなる。ツグミが言った大事なことを、ほぼ忘れてたわたしの痛恨ミスです。
 神域と神器、二つが揃えば、わたしは簡単にその闇に迷い込めちゃう。やっぱりセイがユウと対になる「過去の神器」なんだ、でも何で人間のセイが、そんなことになったんだろう?

 何もわからないままわたしの意識は遠のいて、そのまま黒い世界に取り込まれてしまいました。
 持ってたスマホを取り落として、それがわたしの命運を、大きく狂わせてしまうことにも気付かないまま。


* * * 


 人間界は元々、わたし達の故郷と鏡合わせ。だからわたし達の鏡になるヒトが、氷輪くんとユウみたいに誰にもいるって。「鏡」が何か、こたえの一つを、闇の中で思い出しました。
 真っ黒な世界に沈むと、わたしは普段より沢山のことがわかります。それはきっと、ここが世界を包む「混沌」に近いから。

 鏡がどうして必要なのか。「力」にも陰陽とかプラスマイナスがあるように、「力」ある世界には、「力」なき世界が対だと教えられました。
 人間界には、「力」が全くないわけじゃないけど。「力」の本拠、世界の軸になる神界――時の闇を中心に、天秤があるのは確かなんです。わたしの故郷の時間が五倍早く進んで、使える力も五倍ほど多いのと同じように。

 黒い世界で、そんなことを夢現(ゆめうつつ)に考えてると、兄さんと氷輪くんを探す時にも来た神様の世――暗闇の船の上で目が覚めました。わたしが毎夜還る「桃花水」。その中を渡る「天龍」。トウカや時雨兄さんの本拠。
 さっきまでいた神社で、祀られる三女神は「道」の守り神と訊きました。特に海の神様らしくて、だからわたしを簡単に、この船に運べちゃったんだ。
 でも今は誰の気配も感じなくて、真っ暗な甲板の上で、わたしは途方に暮れたのでした。
「これ……過去の『天龍』、なのかな」

 神様の世界って、接点になる神域や神器の縁と、自分が持ってる縁の所に出るみたいなんだけど。
 兄さん達の本拠だった「天龍」は、トウカや時雨兄さんが巻き込まれた事変で外に出されるまでは、故郷で封印されてた古代兵器です。そんな過去の「天龍」だから誰もいないのかな。
 古代の技術を再現された天空艇。設計図はわたしの中にいる精霊のおねえちゃんがヒトだった頃に造ったらしくて、その縁でわたしはここに来やすいんだって。
「でもここにいるだけじゃ……何にもならないよね」

 ツグミやユウヤの助けなしに一人で来ちゃったのは誤算だけど、来たからには何か探さないと。
 というか帰り道がないと。それが急務だと気付きます。
「――ない。スマホ……持って来れなかった?」
 舞が始まる時にちょうど、手に持ってたスマホのことを思い出して、背中にぞくりと寒気が走りました。
 紫音がいない。あの時落として、体から離しちゃったんだ。シオンはわたしと一緒にここに来るはずで、それが帰りの道しるべの予定だったのに。
 舞っていう一時的な神域は想定外で、どう行って帰るかはちゃんと相談してたんです。それでなくても神様の世界は、行き来するのが危ない所だから。
「汐音と紫音で目印にするはずだったのに……PHSからスマホを呼んでもらうはずだったのに」

 天使と悪魔、スマホとPHSに分けられたシオン。反転された互いを映す対の存在。
 その繋がりこそ帰れる方法。ふっと、一番身近な「鏡」をここで思い出しました。

「開かれた鏡……それってシオン?」

 何かがずっともやもやしてる。うまく言葉にできないだけで、シオンと過ごしてきた日々から妙な違和感が積もってる。
 それは最近、前より兄さん達のことが気になるって、わたしにだけこっそり嘆いてた紫音……「かごめの天使」の泣き出しそうな姿で……。


 自分の中で何かを掴みかけた瞬間、突然、真っ暗な世界にうっすら青白い、細い三日月の小さな光が差し込みました。
「ずっと待ってたよ。ウツギ・ネコハ」
「――え?」

 月明かりに照らされて浮かび上がった、わたしと変わらない背丈の人影。
 顔が見えるほど明るくはないけど、船のへりに座るそのヒトの声は、わたしにはよく知った誰かで驚いてしまいます。
「何で……氷輪くん?」

 人影はハハ、と笑って、背中にうっすら透明の羽を生やしました。
 沢山の透明な鋭い羽根が集まってる、ガラス細工みたいな羽。
 それは氷輪くんが守って眠る天に、昔いたヒト達が持ってた形態で……兄さんの黒い翼や紫音の天使の羽や、氷輪くんみたいなコウモリの羽とも違う白の翼。
「違う……ユウ? アナタの羽は、ユウに渡された白の翼と似てる?」

 そもそもわたし、ユウの魔力――出生の秘密を探しに来たんだ。過去の接点になる神器があれば、少しでも過去の世界に行けないかって。
 だからユウヤが調べてくれたのは、ユウと対になる神器のセイで、それで過去のユウに会えたなら願ったり叶ったりです。強い魔力の気配もするし、確信します。

「当たり。オレはこれからユウになる前に、君を待ってたヒワくんかな」
「――え?」
「君だけでなくシグレにも会ったよ。別にわざわざシグレに言われなくても、君やシグレが来ることは知ってたんだけど」

 顔が見えないままのユウは、シャツに七分丈の短パンとラフな姿で、膝の間に両手をついて、狭い船べりの上で背後の月を見上げました。
「ヒワくんが『今』を感じる直感の主なら、ユウは『過去と未来』を感じる夢の主。君達が直観の持ち主で、君達の家族が夢視の主なのと同じように」
 それもまた、「鏡」だって。対として分けられることで互いが存在する――見えるようになるんだって、ユウは言いたいみたいです。
 とにかくユウにも過去と未来が見えて、だからわたしがいつか来るのを、元々知ってたってこと? 過去のヒトのせいか気配が全然掴めなくて、わたしはちょっと身構えちゃいます。

「どうしてわたしを待ってたの? ユウ」
「それなんだけどさ。シグレのせいでオレも選択しなきゃいけないみたいで、でも今のオレに言われたって、どっちの未来がいいなんてわからなくて」
「どっちの……未来?」
「ヒワくんの心臓を生まれる前に受け取るか、もっと後に受け取るか。それによって未来が変わるんだって? 主にシオン……セイが存在するか否か、がね」

 ここで出て来たセイの名前。やっぱりユウと関係する人なんだ。
 でも何でシオンの名前も出るの? それにユウの選択でセイが変わるって関係、ちょっとおかしくないかな?
「ねえ。ユウが生まれる頃なら、ここは五年くらい前の人間界だよね?」
「うん。ヒワくんがオレ――魔力を失った時だね、ちょうど」
「それならセイはもう生まれてるよ? だってさっき会った時、わたしと同じくらいの歳だったのに」

 そこでユウがふっと、悲しそうな息をついてわたしを見ました。
 それこそがまるで、「過去」の神器なセイの呪いと言うみたいに。
「セイの存在は、セイから見て必ず未来の出来事で在り方が決まってしまうんだ。つまり未来の選択次第で、過去ごと変えてしまう影響力を持った神器……シオンの対になる鏡がセイだから、オレが選んだ未来でシオンが消えたらセイも生まれなくなるの」
「……!?」
「オレはヒワくんの対になる鏡。考える時間だけは山ほどあったから、見てきた夢をわかりやすく言うとそんな感じ。シグレも多分それで合ってるって言ってたから、オレはネコハに選んでほしいんだよ」

 そう言うとユウはすっと、懐からもう一つの神器を取り出しました。
 わたしが前に神様の世界に来る時に使った、氷輪くんの心臓の縁……ドライフラワーのタニウツギです。
「オレが生まれる前にこれを受け取れば、ユウとセイは保たれてシオンが現れる。その代わりヒワくんは眠りについてシグレは消える。オレがこれを返した場合セイは消えて、ユウを助けるためにどの道ヒワくんは未来で心臓を渡す。それくらいかな、わかることは」
「じゃあユウは、氷輪くんの心臓がなくても生まれられるの?」
「元はそのはずだったんだよ。この羽があればオレは人間に潜り込める。羽を破って記憶はなくなるし、魔力の制御もできずに消耗しっぱなしになってしまうけど」

 目の前のユウが生やしてる天の国のヒトの羽。それはそういう命の器で、「力」を宿す作用があるのはわたしも知ってました。だから兄さんも、氷輪くんの翼で命を分けられてるし。
「でも案外、選択の余地はなさそうだね、これ」
「……え?」
 とん、とユウが、へりからわたしの前に降り立ちました。
 やっと見えた顔はちょっと残念そうで、わたしにタニウツギを差し出してきます。
「はい。これがないと多分帰れないよ、ネコハは」
「――」
「ここにはこれ以外の神器が何もないから。『過去』を甘く見ちゃダメだよ? シグレのような翼と五感がない限り、時空を越えることはそれだけ危険なんだ」

 咄嗟に不安が胸を襲うわたしに、押し付けるようにタニウツギを渡して、ユウは困ったような顔で笑います。
「ヒワくんを助けるにもユウを助けるにも、工夫が必要なのはどの未来でも同じ。セイは消えるけど、色々しんどそうってきいたから、あまり気にしないでいいんじゃないかな」
「って、待って――わたし、これ受け取れない!」
「ダメだよ、ネコハが帰らないと、沢山のヒトが悲しむでしょ? それに直接未来を見てもらう方が話が早いし、まだ最後の可能性は一つ残って……――

 ユウの声が終わらない内に、タニウツギから白い光があふれ始めました。
 いやだ、って、思う暇すらもありませんでした。

 気が付けばわたしは、タニウツギの代わりにスマホを握りしめながら、高校の教室で机に伏せるわけのわからない状況になってました。
「猫羽ちゃん。あんまり寝てると風邪ひくよ。バイトに行かなくていいの?」
 がばっと顔を上げた瞬間、そこで笑ってたのは、紛れもなく氷輪くん。
 学生服でも冬服を着て、冷静だけど穏やかそうに笑ってる黒い髪。賑やかな青銀の髪のシオンとは程遠い、かつての氷輪くんがそこにいたのでした。


 西日本の神社にいたはずが、わたし、どうして高校に戻ったんだろう。
 それ以上に変なのが、何で氷輪くん、ここにいるんだろう。
 混乱しながらとにかくスマホをつけたけど、そこには何の変哲もない待ち受け画面があるだけです。

「……いない……紫音、いない……」
「――?」

 席から立ち上がって茫然とするわたしに、淡々としたまま、氷輪くんが不思議そうに顔を覗き込んできました。
「何か悪い夢でも見た? 人間生活も後三学期だけだし、早く悠夜君達の所に帰れるといいね」
「――……」
 昔のままの氷輪くんの灰色の目からは、氷輪くんがわたしを見守るために、「ユウヤ達にも頼まれて」ここにいることが伝わってきます。
 天の国から本来は出られない氷輪くん。その番を違うヒトに変わってもらってまで、わたしの高校生活を見守っててくれるのは……。
「オレも猫羽ちゃんのおかげで、あの教会を見つけられたし。オレはしばらくまだ人間界に来るけど、猫羽ちゃんにその後会うことは少なさそうだね」

 ここにいる氷輪くんは眠ってはない。そしてわたしとの縁も薄くて、氷輪くん自身の目的のためにも人間界に留まってる。
 これは氷輪くんが心臓を失ってない世界。やがてわかったその実感がすごく怖くて、わたしは思わず教室から走り出してしまいました。
 そんなわたしを見送る氷輪くんが、哀しそうに笑ったことにも気付かないまま。

「シオンがいない――じゃあ、ユウは……!?」
 焦るわたしが目指してるのは、氷輪くんがさっき口にした「教会」です。
 心臓のタニウツギをわたしが預かったせいで、ここはきっと、ユウが氷輪くんの心臓をもらわずに生まれてきた世界。さっきの過去から別の未来に帰っちゃったんだって、それだけしかわたしには推理できません。
「どうしよう、大変なことになっちゃった、わたし……!」

 ユウはわたしが帰れないって言ったけど、タニウツギでもこれ、帰れてないよね? わたしの本来いるべき所は、さっきのあの神社のはずなのに。
 ここからどうやってあそこに帰るの? それとももう帰れないの?
 それじゃ、あの世界の神社からは、わたしは消えたの……?
 「体ごと行っちゃ絶対ダメ」って。そうなったとしか思えない状況に、息を切らして走りながら、それでも全身が冷えてく思いでした。

 辿り着いた教会の前で立ち止まって、息を整えながらもう一度考えます。
 わたしがまた「過去」にいけば、この状況は元に戻せないかな。
 でもユウはセイが消えるって言ってたよね。西日本に探しに行っても名前しか知らないし、ユウの言う通りいないなら、もうセイっていう神器がない……「過去」には行けなくなったはずです。
「そもそも……名前だけでなんて、探せないよ……」
 じゃあやっぱり、わたしは元の世界には帰れない? 神社に残ったツグミ達からすれば、神隠しにあっちゃった状態?
 みんな、どれだけ心配してるんだろう……わたしが勝手にツグミから離れたばっかりに、まさかこんなことになるなんて……。

 考えても、いい案なんて一つも浮かばなくて。聖なる結界のある教会の前で立ち尽くします。ここからさらに中に踏み込むことを、悪魔使いとしてのわたしがブレーキをかけます。
 クリスマスの時とは違う冷たい雰囲気。シノがわたしを教会に入れてくれる時は、いつも温かい感じなのに、ここには柔らかさがないんです。

 ひょっとしたら、この世界のわたしはシノには会ってないの?
 そこに思い至った時、それを裏付ける強烈な気配が近付くことに、わたしはすぐに気が付きました。
「こら、夕羽(ゆう)! 先々行っちゃダメ、転んでも知らないから!」
 す、っと。教会を見てるわたしには目もくれずに、横を通って玄関の方に行った人達。
「やだー! かーさんがおそいの、オレははしりたいのー!」

 人間のわたしには鳥肌が立つほど、強い魔力をこぼして走る小さなユウ。
 わたしのことは知らない顔で、素通りしていっちゃった真羽(まはね)さん。
 玄関で二人を出迎えたのは、やっぱりわたしを知らなさそうなシノで。
「陽子さん、ゆうくんの体調は最近大丈夫? また何かあれば言ってね」
「ありがとー、いつも助かってるよ、詩乃ちゃん。夕羽も変な体質だよねえ、毎日元気なのに突然ガス欠になっちゃうんだもんね」

 そのままシノとユウは和気あいあいと教会に入っていって、真羽さんはわたしがいないものみたいにさっさと行っちゃいました。
 多分だけど、真羽さんは氷輪くんに出会ってなくて、わたしに探偵の仕事を依頼してないんだ。
 シノはユウを迎えながら、氷輪くんのことを考えてたから出会ってるはず。でもここの氷輪くんはめったにシノの前に現れずに、聖なる力の使い方も習ってない感じ。

 わたしがシノと出会ったのは、神隠しの氷輪くんを探すためだったから。
 だからここのわたしはシノとは出会ってない。神様の世界に行かせてほしいって、シノに頼むことはできないんだ……もしも頼めたとしても、「過去」に行く方法も何処にもありません。

 八方手詰まりです。氷輪くんに相談してみようかとも思ったけど、氷輪くんが心臓を失う世界に戻るために協力してもらうの? まず神様の世界に悪魔は関係ないし、氷輪くんを困らせてしまうだけだよね? こんな状況、どう説明したらいいかもわからないし……。
「それに氷輪くん……わたしを手伝う気、なかったよね、さっき……」

 早く悠夜君達の所に帰れるといいね。その笑顔はシオンになる前の氷輪くんで、わたしからは遠い、心を隠すことが当たり前だった悪魔さんです。
 そもそもさっきの氷輪くんには、シオンの気配が全くしませんでした。シオンがいないってことは、兄さんは氷輪くんの「鍵」にはなってない――なれてないはずだから。
 ここでの氷輪くんは、自分の目的と兄さんとの取引と、ユウヤ達の頼みで、ついでにわたしを見守ってくれてるだけ。わたしや兄さんより、もっと大事なもののために、人間界に留まってるだけで……。

――オレも猫羽ちゃんのおかげで、あの教会を見つけられたし。

 そっか。わたしがさっき、教会に入るのをためらったのは、氷輪くんから釘を刺されたみたいなものなんだ。
 教会の存在を教えてくれたのに、同時にそこに手を出さずに、早く帰れと言ってたんだ。

「開かれた鏡……これって、こういうこと……?」
 鏡開きの意味の一つは、鏡、樽の蓋を割る儀式です。役目を終えて、後は壊されるだけの使い捨ての蓋。
 魔力を全然制御できてなかったさっきの「夕羽」。でもそれがユウの本来の姿だったら?

――ユウくん自身は、人間だし……どうしてあの魔力に耐えられているか、それが不思議なくらい。

 丈夫な「夕烏」が生まれたのは、時雨兄さんが過去の世界に氷輪くんの心臓を持ち込んだからだって、トウカに教えられたよね。つまり元々あった自然な世界を、時雨兄さんが変えてしまったわけです。
「じゃあ、本当の世界は……こっち、だった……――」

 今までいたのは、シオンという鏡が映し出した幻の世界。その鏡が蓋をした真実が、わたしがいるこの現世だとしたら……。
 それは確信めいた胸騒ぎでした。いつかの兄さんの哀しげな笑顔、その意味はこれだったんだって、運命の反則を思い出してしまいました。

――これくらいで驚いちゃ駄目。ここから先はもっと取り戻すものがあるんだから。

 時雨兄さんが沢山反則をして、砂の城みたいに築き上げた幸せな生活。
 それはこんなに簡単に、崩れちゃうもの。大きな運命の水面のさざなみに過ぎなかったんだって、ここにいるわたしの存在が何より語ってました。
 そうでなければ、わたしは体ごとこの現世には来てない気がする。心だけで神様の世界に行った今までこそが、意識の中だけでの出来事、夢みたいなものと考えたら辻褄が合います。
「だってそうだよね……いくらなんでも、幸せ過ぎたよ……兄さんやみんながずっと、いつも一緒にいてくれる世界なんて……」

 あんまり簡単に、訪れてしまった世界の終わり。
 わたしは夕陽が沈み切っても、立ち尽くすしかなかったのでした。


File.3 了

★File.4:兄さん、新世界です

 オレの「心」は、結局誰かの都合通りなだけのもの、って。
 ツグミと兄さんが仲良くなるほど、暗い顔を隠せなくなったスマホの紫音が、わたしにそう言ったことがありました。突然失ってしまったわたしの全て……兄さんやツグミ、ユウヤと一緒に楽しく暮らせて、ウソみたいに温かだったこれまでの世界で。

――オレもうダメかも……猫羽ちゃん……。

 きっとここでは誰もいない、一人ぼっちの下宿に帰りたくなくて、わたしは陽が落ちても教会の近くの石段に座り込んでました。
 全然動かないでいると、制服に学生コートだけだと寒いです。マフラーはユウヤに渡しちゃったし、あ、それは関係ないかって思い直して、この世界のわたしは何で薄着なんだろうって、自分に文句をつけるしかないです。

――オレがいなくても、猫羽ちゃんは悠夜君と幸せになるんだよ。

 いくらスマホを見つめても、紫音がいません。兄さんを氷輪くんの「鍵」にするために、兄さんを特別に想うよう作られた心の紫音。
 そんなことってできるの? ってわたしは相談の中でききました。すると紫音も首を傾げて、感じてた疑問を話してくれました。

「オレも不思議だよ、何で今頃そうなるの!? って。翼槞がそもそも、オレ達の本体を守るためだけに作られた心で、『黄輝(おうき)』とか『黒魔(こくま)』、『静青(せいせい)』もそういう生造をやってのけちゃう天の宝ではあるよ。でもそれはあくまで、かなり雑な強迫観念で、本体を守れとか何があってもツバメを優先とか、その程度の刷り込みだろうと思ってたんだけど」

 わたしの高校のために人間界に来てから、「鍵」への心を急に自覚したらしい汐音は、その時兄さんへの思いはそれくらいだったみたい。なのに兄さんの翼になってからは、明らかにおかしいほど苦しいって、そう言って嘆くのでした。
 これで紫音は、苦しくなくなったのかな……。
 暗い画面を見つめるわたしが映るスマホに、やがて黒ずくめの影が差します……。


* * *


 夜の石段で、膝に顔を埋めてずっと座ってたら、ぺしっ、と。誰かが冷たい手で、突然わたしをはたきました。
「いい加減に起きろよ。この不秩序オーラ出しまくりの不法滞在者」
「――え?」
 軽いノリの声色に思わず耳を疑います。
 慌ててばっと顔を上げたら、そこにいたのは全身黒ずくめの服に、黒い翼を抱える見知った気配で――
「時雨……兄さん!?」
「時雨兄さん、じゃない。何でこんな所にいる、猫羽」

 別にいてもいいんだけど、と。教会を金色の横目でちらりと見ながら、厳しい顔でわたしを観る時雨兄さんがそこにいます。
「猫羽だけど猫羽じゃないだろ。ここにいる猫羽じゃない、って言えばわかる?」
 不法滞在者。と出会いがしらに言った時雨兄さんに、わたしはハッとして急いで立ち上がりました。
「わたしが違うってわかるの、時雨兄さん!?」
「ああ、何言ってるかはわからないけど、言いたいことはわかってる」
「というか何で時雨兄さん!? あ、そっか、ここでは違ったんだ、鍵の兄さんはいないから当たり前なんだ……!」
 ああもう、わたしも時雨兄さんも大体何となく色々わかったんだけど、二人共それをうまく言葉にできません。

 そんなわたし達を目の当たりにして、呆れて時雨兄さんの後ろから出てきたヒトに、わたしは飛び上がることになっちゃいます。
「それでどうするの、時雨。秩序の管理者として討伐するの? まあ、こたえは解り切ってるけど」
「……じゃあきくなよ、トウカ」
 兄さんより低い背で、水色のパーカーを着たミニスカートの黒い女の子。
 神様の世界で会ったトウカが、その時の姿でわたしの前に出てきた瞬間、頭が真っ白になったわたしです。
「絶対変だから一緒にみてくれなんて、珍しくヒトを連れ出すと思ったら……貴女、時雨の妹を乗っ取った、違う時空の妹ね?」
 真っ黒な髪と同じ黒い目で、無表情にわたしを視通すトウカ。
 両手を胸の前で握るわたしはひたすら、ぶんぶん頷いたのでした。


 違う時空から神隠しで迷い込んだわたしは、この時空に元からいる時雨兄さんとトウカいわく、「不秩序」で恐るべき大問題だそうです。
「とりあえず『天龍』に遷そうかと思ったけど、この時空から離れたら余計に迷子が深まりそうね、貴女」
「――! ――!」
 うんうん必死に頷くわたしに、時雨兄さんがトウカの隣で頭を抱えました。
「どうなってるのさ。猫羽が何で時空の移動ができるんだ。ここの猫羽の意識は完全に沈んでるし、この猫羽はオレやトウカのこと、何でか結構知ってるみたいだし……」
「アナタも少し前まではそうだったでしょ。神隠しってそういうものよ。来たばかりの頃は記憶が強く残るけど、やがては隠されていってしまう」

 ふいっと、トウカが背を向けると、髪を括るのは懐かしい石竹色のリボン。あれ、多分紅いストールの携帯型だ。少しだけ、わたしはほっとしちゃいました。
「とにかく場所は変えましょうか。いつまでもここにいたら、人間としても不審者だから」
 いつも「桃花水」にいるトウカは、意識だけの存在で自分の体を持ってないはずです。それなのにどうしてここにいるんだろう。
 不服そうにトウカに続く時雨兄さんも、わたしが知ってる時雨兄さんほど、すれてる感じがあんまりなくて。

 色んな不思議が頭を駆け回るけど、三人で歩く先に着いたのは夜の高校で、閉じられた正門の前に座るとトウカが真っ先に忠告してきました。
「喋るのはいいけど、わたしと時雨は貴女にしか見えてないことを念頭に置いてね。貴女はここの学生だから、座ってても問題はないでしょうし」
「そうなんだ……神域じゃないのに、どうしてトウカと話せるの?」
「貴女が神隠しにあってるからよ。それも貴女、かなりおかしな存在になるのね……わたしは誰より貴女を知ってるはずなのに、今の貴女のことはほとんど視えない」

 無愛想でも首を傾げて唸るトウカは、普通にわたしを心配してくれてる。二学期が辛かった分、悪いコのトウカが怖かったわたしは、また一段と安心しちゃいました。
 このトウカは、優しかった頃のトウカだ。時雨兄さんも迷子のわたしを見かねて出てきてくれた――ここではツバサ兄さんになってない、時を渡る力を持ったままの時雨兄さんです。

「ねえ、時雨兄さん。わたしを元の世界に送ってもらうことってできる?」
 トウカが人間界に出られるのは、時雨兄さんが連れてきてくれた時だけなんだって。「過去」のユウも言ってたけど、時雨兄さんの「悪神」の翼があれば、時空の壁は越えられるみたい。
 それならわたしのことも連れて、元の時空に連れてってもらえそう?
「そうしたいけど、言うほど簡単じゃないことなんだよ。オレもトウカもいつも適当に時を渡ってるだけで、時空ってどれだけ無限か猫羽はわかる?」
「……?」
「万華鏡があるだろ、あれでも全然足りないくらい。オレだって何パターンのオレがいるか考える気にもなれない。大きな流れは大体同じ時空が寄せ集まるけど、それでも傍流は数知れなくて、今の猫羽はオレが何処でも観たことない顔をしてる」

 それはつまり、今まで時雨兄さん達が行った時空には、わたしがいた世界はないってことだね。
 わたしが違う猫羽ってわかるのは、時雨兄さんの五感ならではだよね。どの時空でも時雨兄さんが存在する限り、わたしを見守ってくれてたし。
「貴女は何の接点で神隠しにあったの? 神器らしきものは何も持ってないけど、どうしてまず神界――時の闇に行けたのかしら」
「神器はセイで、でもここではいないみたい。闇の中で、シオンとはぐれたから帰れないって過去で言われて、代わりにタニウツギを渡された後に、何でかここに来ちゃったんだ」

 え。と、時雨兄さんとトウカが目を丸くします。時雨兄さんはわけがわからない顔、トウカは半分納得して、半分不信感を持ったみたいに。
(せい)に紫音? それに谷空木(たにうつぎ)? 何でそんなレア時空から貴女はここへ?」
「レア……時空?」
「大体そこでは、貴女は確か風漓(かざり)になってるはずよ。わたしも詳しくは知らないけど、谷空木の神器が引き起こす炎獄(ゲヘナ)の流れは相当ややこしいというから、あまり関わらないようにしてきたのに」

 トウカは色んな時空の自分と情報交換をするんだって。時雨兄さんは逆に違う時空の自分をなるべく憶えないようにしてて、「元の自分と違う自分ってことはわかる」から、元いた時空を探せば一応戻れるんだとか。
 でもわたしが「かざり」になってるって、どういうことだろ? トウカが出した名前は時雨兄さんもわからない人が多いみたいで、頭をひねってます。
「そんな時空、あったっけ? トウカ」
「アナタには見せたくない、レアでも正統な伏流。正確には『時雨』がいないから連れていってない」
「へぇ、オレがいないんだ、確かに珍しいな。伏流ならかえって見つけやすいだろ、猫羽をそこに連れていけばいいの?」
「ちょっと待って。このコは風漓を知らないし、瀞にも会ったはずがないのに何かが変だわ。大体どうして紫音と話せるの、紫音は貴女が眠る時空にだけいると言えばわかる?」
 え、トウカ、さっき紫音はレアだと言ったけど、わたしが思う紫音のイメージとはちょっと違うみたい。トウカの中では可愛い黒のダッフルコートのヒトが「紫音」、その気配が伝わってきます。
「それに渡されたって谷空木はどうしたの。どうして持ってないの?」
「勝手に消えちゃったよ。目が覚めたら何もなかった」
「あ、そうか……ここでは存在しない神器だものね。じゃあ紫音とはぐれたのは何故? そもそも貴女は何故瀞の神器――過去の神界に行ってきたの?」
「入る時に、紫音のいるスマホを落としちゃったの。ユウのことが知りたくて、それで占ったらセイが出てきたから、会いにいったらすぐ闇に飛んじゃって」

 ここでトウカが珍しく焦ったような顔で、完全に腕を組んで俯きました。
「……スマホ? 月光の天使じゃなくて、スマホ?」
「? かごめの天使だよ、紫音は」
「かごめ――の天使? 悪魔じゃなくて?」
「悪魔は汐音。汐音はPHSで紫音はスマホにいて、ツバサ兄さんとわたしを助けてくれてるの」

 ここで今度は時雨兄さんが、は? という顔でわたしを見つめます。
「ツバサって、ここのオレもいずれはそうなるはずだけど。でもオレは汐音なんて欠片も知らないんだけど」
「えっ……それはヒドイよ、シオンが可哀相だよ、兄さん」
「?」
「紫音はツグミに嫉妬するくらい兄さんが好きなのに。シオンを見つけたら兄さんが氷輪くんの『鍵』になれるのに、時雨兄さんはそうしてないの?」

 ぶっ。と、険しい顔で考え込んでたトウカが、何でか吹き出しました。
 同時に兄さんも体を抱えてふるふるし始めて、何それ……って、声を強く呑んじゃいました。
「紫音が――山科鶫に、嫉妬ですって?」
「え? うん。……何で笑ってるの、トウカ、兄さん?」
「それはいったい、氷輪翼槞にどんな革命が起きた世界? レアな紫音も最大譲っても、『烙鍍(らくと)』の(めかけ)が限界だったのよ」
「ちょっと待って、猫羽、トウカ……やっぱり汐音って氷輪翼槞(アイツ)の関係? オレが『鍵』ってどうなってるの、妾って何の話?」

 尋ねる時点で時雨兄さんは、上手くは言えないけど大体の事情は把握できてます。わたしのいる世界では兄さんが氷輪くんの「鍵」で、氷輪くんの一部の紫音は兄さんが大好きだっていう話。
 氷輪くんが人間界にいるのを見逃す取引をしただけの、ここの時雨兄さんには想像がつかない世界みたいで、珍しく本気でお腹を抱えて笑ってるような、トウカと時雨兄さんでした。
「ダメ、これ、わたしの軸とは違う支流みたい。視えないってことはそれしか言えないわ、この膨大な混沌を泳ぎ切って、新たな世界の軸を観つけたのね、貴女はきっと」
 こんなことはそうそうないって、それでトウカも時雨兄さんも、気が抜けて大笑いしてるみたいです。
 二人はずっと、当てのない旅を続けて、叶わない願い……存在しない未来を探してきたんだって。だから実際に二人の知らない時空から来たわたしを、嬉しく思って笑ってくれてるんだ。

 それはいいけど……それじゃやっぱり、わたしにはもう、帰るアテはないことになるのかな……。
 こほん、と仕切り直すみたいにトウカが姿勢を直して、改めて腕を組んでわたしを見ました。
「神器を失くしてこの時空に落ちたってことは、少なくとも貴女の時空と接点があるのがここのはずよ。最初は過去に行ったというなら、そこが接点で分岐して、違う未来に来たと考える方が自然だわ」
「じゃあひとまず過去に行くか。同じ時空の過去に行くだけなら結構ラク」
 あれ、そんなに簡単な話だったの? それなら早く教えてくれればいいのに……。
 簡単じゃない。と言いたいみたいに、トウカがいつもの無表情に戻りました。
「夕羽は確かに神性の縁者。過去が変わって違う夕烏が現れるのは筋が通ってるし、瀞は未来が変われば消えてしまう過去の象徴。ただね、時雨は貴女を過去に連れていけるけど、失われた神器までは探せないの」
「それって結局、どういうことになるの?」
「同じ過去の分岐点までは行けても、そこから何処に行けばいいかは時雨もわからないの。貴女を分岐点に引っ張った瀞を見つける以外、確実に帰れる方法はないのに、この時空に来てしまった時点で瀞は消える……ここには瀞が存在しないから、あくまでその方法を取るなら闇を出ないといけない。でも何処であれ一度壁を越えて闇を出れば、同じ分岐点に戻ることも難しくなる。出た先が瀞のいる時空という保証はゼロで、それだけ貴女は、何の神器も持たない重度の迷子なの」

 ううう……「過去」でユウと出会ったところ、そこまでは行けるけど、あの神社に帰れる出口は結局わからないってことなんだ。
 もしも無理やり出たとしたら、どの時空に着くかわからないから、その後は闇雲に時を渡るしかなくなる。それは時雨兄さんに迷惑過ぎるね……。

――この時空から離れたら迷子が深まりそうね、貴女。

 最初にトウカが言ったのもそういうことだよね。その時から今の方法は考えててくれたんだ。でもこれは最後の手段ってことみたい。
 接点の神器が残ってたら、それを使うにこしたことはないもの。でもわたしが本当に何も持ってないし、トウカ達が知ってる時空のわたしでもなさそうだって、確かめるためのお話しだったんだね。
 やっぱりトウカはすごいし、親身。ひょっとしてわたしが見習うお師匠はトウカなんじゃないかな?

 セイがいない、その限界がある中、どうすればいいかはわからないけど。
 ここでトウカや時雨兄さんに会えて、心が大分楽になったから、他のことも尋ねられました。
「ねえ。わたしみたいなおかしな世界って、それは幻みたいなものなの?」
「?」
「新しい世界ってトウカは言ったよね。じゃあわたしがいた世界はニセモノなの? 普通はない所なら、それはあってもいいものなの?」

 何を今さら。という感じで、トウカと時雨兄さんの視線が同時にわたしをさします。
「軸が支流であれ伏流であれ小波(さざなみ)であれ、観測者がいる限りその時空は『真』よ。貴女さえ投げ出さなければ続いていくわ」
「レアとかメジャーの違いはあるけど。どっちが幸せとかはわからないし?」
 良かった。じゃあ紫音がいる元の世界は、不自然でもあっていいんだ。
 「開かれた鏡」の意味が気になってきいちゃったけど、時を渡る二人には悪い質問だよね。ここでの二人の願いをわたしは知らないけど、ここのわたしが少しでも力になれてたらいいのにな……。


 わたしと「過去」に行く前に、トウカを「天龍」に送ると時雨兄さんが言いました。
「そうよね。両手がふさがるの、時雨は嫌いよね」
 時の闇――軸に戻らず同じ時空内の「過去」に行くのは、軸から人間界に出入りする時の壁もそうだけど、翼みたいな「神性の証」がないとできないんだって。神性が少しあるだけのわたしは軸に入るか、神器か翼のある時雨兄さんに触れた状態でないと過去や未来は行けないといいます。
「一旦軸に戻れば、この時空を離れるのと同じことだ。トウカは動かないで黄泉(シェオル)で待ってもらう」
「じゃあ『天龍』は、軸にあるんじゃないの? わたしはいつも、神様の世界に行こうとすると『天龍』に出るんだけど……」
「どの世界も取り巻くのが黄泉で、黄泉を含めた世界と、軸の間が混沌。『天龍』はほぼ、混沌から軸や黄泉に出て、世界に留まる時は黄泉に停泊してる」

 それならわたしが今まで行ってたのは、完全な神様の世界――軸じゃないんだ。黄泉、混沌、軸が順にあるなら、「時の闇」は黄泉の終わり辺りからを指す言葉みたいです。
「神器があれば限られた範囲で、元の時空に繋がったままで軸にも行けるけど、そこまですると大体何かの『神』になる。猫羽が行ったのはせいぜい混沌までだろうし、神器がない時は最悪黄泉から出るな」
 黄泉は一応足場もあって、まだ薄明るいんだって。混沌は真っ黒なドロ水のイメージで、わたしが毎夜還る「桃花水」は神器じゃないけど、混沌の一部で固定された領域だから、意識だけなら出入りしても大丈夫みたい。
 時空の壁って、つまり混沌のこと? 神性がなければ神器や神域の助けで、泳げる感じなのかな。翼だけでも、泳げても空気がないイメージかもしれないです。

「じゃあトウカ、混沌の管理者って……すごくすごかったんだね」
 やっと大体、時雨兄さん達の置かれた状況の大枠を掴めたのかな。そんなわたしの素朴な実感に、トウカが目を丸くして笑いました。
「管理してるのは『桃花水』だけよ。混沌の接続者とはいえ、混沌そのものなわけじゃないし」
「じゃあトウカ自身は、何なの?」
「普通は自分の本質なんて教えないけど。今のわたし――橘桃花は『夜』の娘。わたしそのものは『夜』の方で、わたしはいつも誰かの影なの」

 「夜」の娘。それ、「橘桃花」は「夜のヒトの娘」って意図だ。
 桃花と名乗るトウカ自身は、実体のない「夜」の方なんだ。悪いコになったトウカを見つけて渡すミサキの首輪――そこに宿るタオが、本当の「橘桃花」に近いのかも。

「じゃあトウカがもしも、悪いヒトの影になったら……――」

 これは反則かな、とは思ったんだけど。それでもせっかくこんな所まで来て、それで優しい頃のトウカに会えたんだから、わたしは大事なことをきかずにはいれませんでした。
 大分悩んだ顔をした後に、トウカはわたしにこたえを教えてくれました。兄さんに送られて、「天龍」に帰ってしまうその直前に。

「あまり考えたくないことだけど……わたしなら、そうするでしょうね」

 高校の横、脇道の陰に消えてくみたいに、二人の姿が見えなくなります。
 兄さんが黒い翼を出した後は、ちょっと霊感が強い人なら視えることがあるらしくて、そうやってわざわざ人目のないところから帰るんだって。秩序の管理者って、けっこう細かくて大変だね……。

 でも今は壁に扉を開けて、トウカを入らせるだけ。すぐに来るよね、と思って高校の塀に持たれて待ってたら、次に出て来た時雨兄さんは、行きには持ってなかった物を手にして笑いかけてくれました。

「いいもの渡された。せっかくだから、先に寄り道してく? ――未来」

 すっかり心強さに満たされたわたし。それも反則だとわかりながら、時雨兄さんの悪い提案に、うっかり頷いてしまったのでした。


* * *


 時雨兄さんと二人だけになると、急に夜空がどんよりくもってきました。
 ポケットにスマホをしまって、時雨兄さんが渡してくれた傘をさします。もう片方の手は時雨兄さんとつないで、二人で歩き始めます。
「トウカがいないとすぐに雨になるんだね。トウカの方が影響力が強い?」
「まぁな。後、世界に残ったまま時を渡る時は、必ず雨になる。雨に向かって歩くか、背中を向けるかだけの違いに感じてる」
 時雨兄さんは名前の通り、「雨」の神性を持つヒト。悪い神様は黒い翼の部分だけです。
 雨の中を一緒に歩き出してから、ほどなく、わたし達の姿は誰にも見えてないことに気が付きました。同時にわたしから見える周囲の風景も、何処か慌ただしくて暗い絵柄の紙芝居みたいで、現実味が遠く薄れてしまいます。

 本当に久しぶりにつないだ手。時雨兄さんの複雑な心が沢山伝わってきて、わたしは周りを見たまま時雨兄さんに尋ねました。
「時雨兄さん。わたしにすぐ気が付いたのは、教会を見張ってたから?」
「……」
「氷輪くんとユウを、討伐するつもり? ……二人が人間じゃないから」

 わたしがいた世界の時雨兄さんは、ユウとシオンを存在させるために、氷輪くんの心臓を奪ったというけど。
 ここの時雨兄さんは大分違って、あんまり難しいことを考えてません。まだ一人では全然、時を渡ってないみたい。トウカと一緒なここの自分の未来をいくらか知ったくらいで、介入しようかどうか悩んでる感じ。
「猫羽を見守る取引もあるし、人外の気配だけじゃオレも動かなかったけど。確かにオレはこれからまた、氷輪翼槞(アイツ)を殺すよ――」

 ほら、と。ふっと時雨兄さんが立ち止まりました。
 まだちょっと歩いたくらいなのに、降りしきる暗い雨の向こうに、何でか高校の裏口が見えます。
 そこには雨に打たれながら、冷たい顔で微笑む氷輪くんがいて。氷輪くんの前には同じように暗い雨に濡れて、両手を握りしめるわたしがいました。

 雨の質が違うみたいで、向こうのわたし達から時雨兄さんとわたしは見えてません。これ、この世界の近い未来の出来事だ、ってすぐわかりました。
「アイツは猫羽が一年たって、人間界を去る時に血を奪ったんだ。命に別状はなかったけど、放っておけば猫羽が支配される可能性があるから、オレはアイツを殺したよ」
「……――」

 氷輪くんは生粋の吸血鬼です。誰かから血を奪えば自分の栄養にしたり、奪った血の主を操り人形にできたりします。
 悪魔使いのわたしに対して、契約じゃなく血を奪う。それが意味するところは多分、時雨兄さんの言う通りだと思います。
「氷輪くんはどうして……そんなこと?」
「わからない。人間界のアイツを見張るオレに対して、盾にするつもりかと思ったけど、オレに斬られてもアイツは最後まで猫羽を使わなかったから」

 ただ――と、時雨兄さんも何処か痛ましげに、向こうのわたしの前にいる氷輪くんを改めて見つめました。
「もう二度と、猫羽に会えない気がしたから、って。結局その後、退場したアイツを猫羽が助けて、猫羽に対してはそう言ってたよ。血を奪った理由」

 氷輪くんはこの後時雨兄さんに討伐されて、それをわたしが助けるんだって。でも結局人間界で行方不明になっちゃって、故郷に戻ったわたしがそれから氷輪くんに会うことはないと、時雨兄さんははっきり言いました。
「ここの人間界ではそれから八年後、アイツは夕羽に心臓を渡して消える」
「――……」
「アイツの力はオレが引き継ぐ。それで『ツバサ』になるんだ、オレは」

 ザ――と、雨の高校の裏口にいたのに、振り返った反対側は突然住宅街になりました。
 そこにいるのは、高校生の時より幼い学生服の氷輪くんと、中学生くらいに育った制服のユウ。氷輪くんはさっきよりずっと冷たい怖い笑顔で、焦るユウにその決意を持ちかけてます。

――オマエの魔力をもらう代わり、オレの心臓をオマエに預けるよ。

 ユウには気付かせないようにしてるけど、それはユウのため。
 ユウが守ってる大切なヒト……氷輪くんが一番会いたかった誰かのために、そのヒトを守るユウを助ける、最後の願いだとわかりました。

「そうしなければ真羽(まはね)夕羽は、魔力の酷使で若い内に逝く。人間の体以外に、魔力の器が必要なんだ、真羽夕羽には」

 さて、と。ぐるりと時雨兄さんが向きを変えて、元来た方向にまた歩き始めました。
 「未来」への寄り道はここまでなんだ。時雨兄さんも何度も来ては、その都度どうするか悩んでるみたい。この未来は時雨兄さんにとって、悪いものじゃないんだ……わたしが悲しむとは、わかっていても。

「……あのさ。猫羽の世界では、オレと鶫、そんなに仲がいいの?」
「――え?」
 わたしは傘をさしてるけど、時雨兄さんは慣れっこだって、そのまま歩いてびしょ濡れです。今もずっと雨に打たれたままで、自嘲気味に笑う唐突な時雨兄さんだけど、その心はとても素直でした。
「ここではオレと鶫は結ばれないよ。オレはずっと時雨として闇に生きて、アイツの力を受け継いでからは、オレでない『ツバサ』になるから――」
 だから氷輪くんが消える未来は、時雨兄さんも同時に消える未来。いつもどこかで、消えたいと願ってる時雨兄さんには悪くない結末。
 でもその意味は思った以上に重いと感じて、わたしは言葉が出せません。

「…………」
「猫羽は知らないっけ。アイツの名前、人間界の戸籍に本当に登録されてるのは『氷輪翼』。『ツバサ』は本来、氷輪翼槞が隠す真名なんだよ」
 思わずぎゅっと、時雨兄さんの手を握る手に力が入っちゃいました。
 直観では時雨兄さんの言葉以上の現実が伝わってます。消えた氷輪くんの「力」と名前を受け継ぐ時雨兄さんは、言ってみれば氷輪くんになっちゃうんだ……それがたとえ本物でなくても、氷輪くんの役目を果たせる道具に。

 どうしてだろう。わたしの世界にいる兄さんも「ツバサ」だけど、兄さんは氷輪くんになったわけじゃないと思う。
 でももしこれから、兄さんが氷輪くんの「力」を今までよりも使ってくとしたら……それはひょっとして、兄さんにも起こり得る未来?
「トウカは心臓を失くしたアイツを、残闕(ざんけつ)って呼んでた。片翼をもがれた空の鏡、翼の心の遺骸だって」
「……それって折れた刀とかの、残欠?」
「意味はそれでいいと思うよ。要するにアイツは、欠けた翼を持つ割れた鏡」

 「割れた鏡」。そのキーワードにわたしは一瞬で背中が冷え切りました。
 「開かれた鏡」のことじゃない? それって。
 ここはわたし達の世界とは違うはずなのに、どうしてこんなところで、話がつながってくるの……?

「氷輪翼は『鏡』と相性のいい『翼』の化生。『翼』はそもそも、空へ何かを運ぶもの。それじゃ猫羽、空に運ばれた『鏡』は何になると思う?」
「空にある鏡……は、月だと思う。でも、時雨兄さん、それは……」
「そう、氷輪は月の別名だし、夕の字にも月の意味がある。本来アイツ、翼は、翼だけならカラなわけ。だからアイツの中身、心だったのが翼槞や夕羽という月。なら月なしの翼を受け継いだオレは何? オレも奪った雨以外中身がないのに、それに憑いたカラの翼は何になるんだろうな」

 つまり、何処の時空でも氷輪くんの本質はカラの翼で、空の鏡――月のヒトにつきやすいもの。
 時雨兄さん、自分が「ツバサ」になってからの世界は、細かく知らないと言います。時を渡ることができるのは基本「同じ自分が存在する範囲」で、その未来はトウカと一緒に行けないからって。
「……その未来はやめようよ、時雨兄さん。ツグミと一緒にいたらきっと、時雨兄さんはそんなことにはならないよ」
「猫羽の話をきいてると、オレもそう思いかけた。でもこっちでは、オレがツバサになる頃には、鶫はおばあちゃんなんだよね」
 あれ……そっか、人間界の八年って、故郷では四十年だもんね。
 頭が痛くなっちゃいました。それならもう、ツバサ兄さんになる前に、時雨兄さんの頃から一緒にいればいいと思うな。そうしたらここの時雨兄さんの未来も変わるかもしれないし、わたしはちょっと、がんばってみます。

「兄さんとツグミ、こっちではすごく幸せそうだよ。鶫ちゃんは最近可愛過ぎる、ってユウヤが頭を抱えるくらいなんだよ?」
「……マジで。何でまたそんな話に?」
「ここのところツグミ、何をする時にもまず考えるのが、ツバサにどうかしら……とか、ツバサがどう思うかな……なの。ツグミは気配を閉ざすのが上手なはずなのに、全然隠せてないの、紫音があてられて毒づいちゃうくらいに兄さん第一なの」

 そう言えば思い切って御所を出て来たことにしても、ツグミは兄さんを最優先したわけだよね。それで言えば「最近」じゃないよね、ツグミの変化は。あんなにお義父さんを尊重してたツグミなのに、あれ、何だかちょっとひっかかるな、この状況……?
 それはともかく、わたしの話を聞く時雨兄さんの笑顔が固まりました。足運びはゆっくりでも止めてないけど、衝撃は大きかったみたい。

「そりゃ……シオンも災難だよな。オレも今殺意を覚えた、その場にいたら抑える自信がないかもしれない」
「うん。りあジュウしすべし、ってよく言ってるよ」
 そんな紫音も、わたしは可愛くって好きだけどな。
 紫音に早くまた会いたいな。会えるのかな、って不安が戻ってきます。

「そう言えば猫羽は、何処からこの世界に来たんだ。『過去』の何処か教えてくれないと、さすがに連れて行けない」
「え? 『天龍』だよ、わたしはそこしか行けてないし」
「なるほど、それは過去で良かった。起動後の『天龍』は混沌にある時間の方が長いから、一つ間違えばこの時空から出なきゃいけないところだった」
 時雨兄さんはそこで立ち止まると、土砂降りの雨に隠されてた周囲の風景が、急にほとんど真っ黒になってしまいました。
「それじゃ後は、『天龍』に行ってから遡っていこう。明確な日時がない以上、確実な場所を地道に辿るしか、接点を見つける方法はないから」
「それ、過去の『天龍』は何処にあるの?」
「封印時代は故郷の北の遺跡、ひいてはそこから飛べる人間界と故郷の狭間の黄泉。だから、今の時空からは出なくても済むよ」

 ここの時雨兄さんはほんとに親身です。悪い神様が憑いてるなんて信じられない。わたしの世界だとけっこう、意地悪なところもあったのにな。
 それともツグミのことを話した効果、少しはあったのかな?
 羨ましいなら時雨兄さんも、意地を張らなければいいのに。時雨兄さんが悪い神様だったとしても、ツグミなら支えてくれると思うんだけど。

 そんなことを一杯願って、直観で伝わってるはずの時雨兄さんに暗黙の説得を続けてたら、ひょいっとわたしを抱えた時雨兄さんが跳んで、「天龍」についてしまいました。
 真っ暗な甲板を歩いて、「接点」に辿り着くのは呆気ないくらいにすぐでした。
「……――来た、か」

 時雨兄さんがぐっと、わたしの手を強く握りました。
 わたしにもそこから先が、「違う」のはわかりました。今まで歩いた雨の中――遡る一つの時空とは違う、少なくとも二つの時空が交差する接点。
 時雨兄さんの気配が突然変わったからわかったよ。今までの時雨兄さんに加えて、元の世界の時雨兄さんを一緒に感じるようになったから。
「……ごめん、オレが送れるのはここまでだよ、猫羽」

 時雨兄さんが時を渡る方法の一つ。それは自分が存在してる範囲で、そこにいる自分に憑いてその時空を観測すること。
 だから時を渡れば渡るほど、時雨兄さんには違う時雨兄さんの経験が溜まってく。わたしの世界の時雨兄さんのこと、ここにいる時雨兄さんが一瞬で把握してくのが伝わります。
 これ以上ついてきてもらうと、時空の交差点に完全に入れば、時雨兄さんも来た道に戻るのが大変になります。だからわたし一人で行くしかないけど……わかってたけど、すぐ隣の時雨兄さんを見上げると、わたしも急に淋しくなっちゃいました。

 ツバサ兄さんみたいに穏やかな顔になって、苦しそうに笑う時雨兄さん。雨が涙みたいに目元に打ち付けてて、ほんとに泣いてるように見えました。
 別に急ぐことはないんだから、わたしは言わないと……きっと今の時雨兄さんにしかわからない、幸せな未来は本当にあるって、ここで伝えなきゃ。
「……ね? こっちの兄さん、幸せそうでしょ?」
「…………」
「時雨兄さんも兄さんのまま帰れる方法、何かあると思う。わたしに頼ってくれたら、見つかるまで一緒に探すから……氷輪くんも時雨兄さんも消える未来なんて、どこのわたしでも絶対嫌だよ?」

 伝わってほしいな。この時雨兄さんは確かに、わたしの知る兄さんとは違う……より自由に時を渡るための「雨」の加護を、こっちの兄さんは力ずくで、誰かを殺して手に入れたみたい。

――奪った雨に憑いたカラの翼。

 このままいけばわたしのために、氷輪くんのこともこの兄さんは殺す。だからわたしは、無関係なんかじゃないから……遠慮なく、時雨兄さんの闘いに巻き込んでいいんだって。

 真っ暗な「天龍」の中で、泣き出しそうに笑う時雨兄さんの背を、雨の代わりに黒い翼が飾って生えます。
 わたしは傘と兄さんの手を握りしめたまま、隣の時雨兄さんをひたすら見つめます。
「……オレは猫羽が思うほど、いい奴じゃないよ。無理に運命を変えなくっても……オレなりにいい思いができるんだよ、『ツバサ』になると」
 それは、わたしを心配させずに行かせるための嘘だよね、時雨兄さん。
 でも時雨兄さんに浮かぶのは微笑むトウカの気配。トウカも時雨兄さんもこの時空を離れないのは、それなりに居心地が良い可能性もあるのかな?

 何が正しいかはわからないけど。時雨兄さんとトウカが、少しでも幸せならいいのにな。
 そう願うわたしに、わたしの世界のことを知ったはずの時雨兄さんが、接点の狭間で手を離す直前に。最後にとても、ツバサ兄さんみたいな顔で、心から嬉しそうに笑いました。
「そうだ、猫羽。もしも上手く帰れたら、『紫音』に伝えてよ」
「――え?」
「大丈夫、愛してる、って。これは、『ツバサ』からの伝言」
「……え――?」

 え……それって、どういうこと? ツグミでなくて、紫音への伝言?
 どうなってるの? その衝撃にわたしは気を取られて、完全に接点に入ったことも、時雨兄さんの真意を観る余裕もありませんでした。

 そもそも兄さん、「愛してる」って、誰にも言ったことないよ?
 時雨兄さんもツバメ兄さんもツバサ兄さんもない。縛るのが嫌だから言わないんだよ。
 なのに初めて言う相手が、紫音なの? どっちのツバサ兄さんの伝言? 氷輪くんになっちゃう時雨ツバサ兄さんか、わたしの時空の元ツバメ兄さん?


 時雨兄さんの手が離れると、「天龍」と外の間には、黒い水の壁があることがわかりました。置いてあるのも遠い地上だし、わたしはもう、「天龍」からも出られないね。
 最後の混乱で不安が逆に治まりました。とりあえずは、ユウに会った甲板の端を闇の中で探さないと。
「……ありがと、時雨兄さん」
 時雨兄さんが離れて、雨がやんだので傘をたたみます。この傘、現実に持って帰れるのかな?
 ここは黄泉だと時雨兄さんが言ってたけど、時の闇ってわたしの直観があんまり役に立たなくなるんだよね。「力」の気配が中心の世だから、意識の気配を感じやすいわたしには、誰がどこにいるかが探り難いです。

 マストや船楼の壁にぶつからないよう、真っ暗闇をそろそろ移動してたら、その目印をやがて見つけました。
「……あった。『夕月』だ……」
 暗い世界にぽつんと浮かぶ、ひっそりとした三日月。
 「空の鏡」をそのままわたしは追いかけます。

 船の端に行きあたって、外周に沿って進むと、最初みたいにへりに座って、中学生くらいのユウが待ってました。
「お帰り、未来の旅はどうだった? ネコハ」
「……そっか。ユウは氷輪くんより、ちょっと意地悪なんだ」
 タニウツギを渡した時、「まだ可能性は残ってる」と言ってたユウ。わたしが戻ってくるのを知ってたんだ。わたしは寿命が縮むくらい驚いたのに。
「何も持ってないネコハが、普通に帰れないのはホントのことだし。あ、とりあえずタニウツギ、返して。持ってるといずれまた飛ぶから」
「……あ」

 そう言えばどうしよう。タニウツギ、消えちゃったよね?
「ポケットポケット。それを時空の秩序、みたく言うんだよ」
 え? と、ポケットに入れたスマホを思い出して取り出します。
 するとびっくり……ポケットに入るはずのないドライフラワーが、わたしのスマホの代わりに出て来たわけです。
「どうしても帰れなくて、さっきの未来でいいなら後でこれをあげるよ。でもネコハは自分の世界に帰りたいよね?」
「……うん。帰れる方法、今から探すつもり」

 でもその前にわたしは、ユウにきかないとです。わたしがここに来たそもそもの目的。
「ユウの魔力は、ここで氷輪くんから受け取ったもの? それは氷輪くんには返せるものなの?」
「それこそこの先、オレが生まれないって話になるかな。オレは別にヒワくんに戻ってもいいけど、他のみんなは嫌がらない?」
 そっか、それは言う通りだね。じゃあユウの魔力を氷輪くんの力にする話は、ゼロに戻さないと。
 それならやっぱり兄さんが「黄輝」を使えるようになって、氷輪くんを助けないといけないのかな。
 でももしそれが、氷輪くんの力を受け継ぐことと同義だったら……「ツバサ」兄さんは大丈夫なの?

――せっかく助けた兄さんに悪影響が出るわよ?

 きっと悪いコのトウカは、このことを言ってた。
 迷いが今までより増えたわたしを、三日月の白光が拙く照らすのでした。


* * *


 氷輪くんは元々、「翼の悪魔」です。悪魔使いのわたしと出会った頃にはそうなってました。
 でも魔力は持ってなかった。むしろ天の国の番人――死神として、霊力が強かったと思う。だからユウヤのお父さん達と気が合ったんだろうし。

 吸血鬼っていう魔性の生き物に憑いた翼。氷輪くんの命と力は翼にあって、過去にも一度氷輪くんを殺した兄さんに、翼の一部がその時奪われてます。兄さんも無自覚だったけど、「命を奪う」の言葉通りに。
 今兄さんが生きられてるのは、そうして命がつながる翼を二人共が持ってるから。氷輪くんの命を分けてもらうことで、神隠しの兄さんも帰ってこれた。氷輪くんが七枚持ってたコウモリみたいな(くろ)の羽の内、兄さんは三枚を分けられてます。

 氷輪くんの七枚の玄い羽。ミサキの首輪をツバメ兄さんが咲姫おねえちゃんに借りた時、氷輪くんの羽の内訳は、一対は吸血鬼の魔性、一対は天の番人の霊力、一対は空っぽの抜け殻って言われたんだって。空っぽの羽に昔は魔力があったんだと思う。
 その三対で六枚。じゃあ後一枚の、一つだけの翼は何なんだろう? 兄さんが奪った三枚は、魔性の羽とその一枚なんだよね、そう言えば。

「さっきから隅っこに座って、何考え込んでんの、ネコハ。疲れた? 現実逃避?」
 ひょっと、船頭にもたれて休むわたしの前で猫みたいに、ユウが顔を覗き込んできました。
 うう……帰る方法、さっぱりわからないから休憩してたんだけど……頭は自然に兄さんの心配を考えちゃって、確かにどんどん脱線してる……。
「何でオレに何もきかないのさー。ここにいるのはオレだけなのに、他に誰と相談するつもりなのさ、帰る方法ー」

 あれ……これ、普通にユウ、かまってって言ってるみたい。氷輪くんと同じ顔で猫みたいな声を出されると、調子が狂っちゃうね。
「ユウはわかるの? 帰る方法」
「ううん? 全然?」
 だと思った、んだけど……それでも無視するなー! と、遠慮なく淋しそうにします。

 そういえば、と。さっきまで兄さんと氷輪くんの羽のことを考えてたから、ついでに今の内にきいておきます。
「ユウの今の羽、生まれるために破れるってさっき言ったよね? じゃあ未来にユウが生やす白の翼は、今のとは違う羽ってこと?」
 この羽があればオレは人間に潜り込めるって。天のヒトの羽は便利だよね。
 でも未来のユウが生やす白の翼は片方だけで、氷輪くんから分けられたものっていうし、それだと本当は、未来のあの白の翼は……。

「そうそう、あの白のは、ヒワくんがネコハの兄さんから半分もらった羽でしょ。せっかくもらったのに何で、オレに遷すのかなと思うけどね」
 やっぱりそうだった。兄さんには悪い神様の翼と氷輪くんの玄い羽と、一対の白の翼が前はあって、成り行きの拾いものだって言ってた。他にも持ち主に還した翼もあるよ。
 氷輪くんの翼の内訳を咲姫おねえちゃんに視てもらったのは、兄さんの持ってた白の翼を分けるためなんだよね。氷輪くんが欲しい力のある翼らしくて、兄さんと半分こになったから、白の翼だけは氷輪くんのじゃないんです。

 天のヒトな形の白の翼は、普段は今のユウの羽みたいに透明。氷輪くんと兄さんの片翼が白いのは、ぴったりの「力」が満ちてるからだってきいたような……でも何で氷輪くん、もう氷輪くんの心臓を持ってるユウに、白の翼まで渡したのかな。何だろ、すごく大事なことの気がするのに、頭の中がつながってくれない……。
「……氷輪くんはどうして、まず、魔力を捨てたの?」
 ユウが生まれるのは、氷輪くんが自分の一部――大きな魔力を手放したから。そもそも時雨兄さんの言うことが本当なら、ユウこそ氷輪くんの中身だったはずです。
 その質問を待ってたとばかりに、よいしょ! とユウが、わたしの隣に肩を並べて座りました。
「ホント、そうなんだよね。オレがどうして生まれるのかが、少しでもネコハのヒントにならないかな、って」

 隣のユウがふいっと闇を見て、今も小さく光る三日月を見上げました。
「ここは変化がある時にだけ、時間が進む――扉が開くってシグレが言ってた。待ってるままでもオレが生まれる時に、出るだけならチャンスはあると思うよ」
「そうなんだ。早く教えてくれたらいいのに、それ」
「でもいつ生まれるかわかんないからさ。ずっと暗闇にいるだけなのに、正確な時間がオレにわかると思う?」
 じゃあユウはずっと、こんな暗い所で待ちぼうけなんだ。それは人恋しくもなるよね……。
 確かにスマホも時計もなくて、わたしも何時か全然わかりません。それにその時外に出ても、ユウが生まれた五年前の世界って可能性もあるよね。やっぱり何か他に方法、あればいいんだけどな。

「ここにいれば人間界に生まれられるって、オレは夢で見ただけなんだ。人間界で人間として生きて、大事なヒトにまた会えるんだって」
「大事な、ヒト?」
「シオンの羽を持ってた天使、の同じイレモノ。教会には結界、ヒワくんには羽を遺して消えたから、他に残るとすれば、人間界にいるはずの鏡だけなんだ」

 ユウが遠い月に向かってふわりと手を上げました。すると何でか、小さな三日月が急に隠れて、次の瞬間ユウの手元に――
「えっ……なに、このお花……?」
 唯一の月明かりがなくなっちゃったのに、ユウの手の平から咲いた透明のお花が、ランプみたいにわたし達を照らしました。
 花びらが六芒星の形をしてる。透明なのはまるで氷みたいで、傘の形の茎と葉っぱから白い光が生まれて、その光をお花が広げてライトにしてる。氷細工の光の花があんまりキレイで、わたしはしばらく見入っちゃいます。

「月は太陽があるから光るものでしょ。さっきまでの三日月は、この花の光で見えてたんだよ」
「これ……ユウと氷輪くんの大事なヒトに、関係があるお花?」
「そう。このイレモノをオレ達は探してるの。人間界ならあるってわかったから、オレが一人でこっちに来たんだ」
 哀しそうにお花を見るユウの横で、わたしもじっとお花を見つめ続けて。
 不意に、わたしの中で、遠い日の氷輪くんの声が聞こえた気がしました。

――やるだけやってみるよ。できるだけ……がんばっていくよ。

 それは約束。死にかけた氷輪くんと、このお花になった大事なヒトの。
 その約束があったから、氷輪くんはユウみたいに、人間に生まれるわけにいかなかったんだ。だってまず、生まれる前には死なないといけないから。
 でも氷輪くんはこのお花を守りたかった。だから自分の命の一部――魔力を捨てて、そこから生まれるユウに、このお花を預けたんじゃないかな。きっと無意識に、氷輪くん自身も知らない内に。

 ユウが大事なお花を見せてくれただけで、わたしはそんな氷輪くん達の心が、痛いほどに伝わった気がしました。
 ユウ自身はわかってるんだ。自分はこの花を守るために存在してるって。
「でもさ、ネコハ。オレはこれ、ネコハが持つ方がいいんじゃないかって、だんだん思ってきたよ」
「――え?」
「手放すなんて有り得ないことだから、オレもその夢だけは見たことがない。オレはここでネコハにタニウツギを渡して、ネコハはちょっと悲しそうに、未来に帰るのがいつも見る夢」

 ヒトらしい感情が薄れたような、空っぽの氷輪くんとは違う本音の言葉。
 水を掬うくらいの大事さで両手に乗せる、一輪だけのお花を見つめながら、ユウは自分でも不思議そうに哀しい顔を強めます。
「今まではホントに、思っても見なかったことなのにさ。どうしてか今は、ネコハを見てるとそうしたくなってきた」
「それは……理由がわからないなら、やめた方がいいとわたしは思う……」
 驚いちゃいました。これは氷輪くんとユウが、命より大事にしてきたお花だよね?
 でもユウは多分、今ここに他にあるのはこのお花だけだから、わたしが帰れるならこれしかない、って感じてるみたい……?

「ダメだよ、わたしはきっと何とかなるから、そんなに大事なものを手放しちゃダメ。氷輪くんはそうやってすぐ、ヒトのことを助けようとするの」
「……」
「とりあえずわたし、よくわからないけどこの傘もあるし。元気が出たら『天龍』の中を探してみるから、ユウはお花を持ってついてきてくれる?」
 この明かりがあればそれくらいできるよね。わたしが動けるのは「天龍」だけだし、まずはそこから。
 ユウがとても痛い顔をしてるから、あえて強気に言いました。両手を握りしめるわたしに、ぽかんとした顔でユウが笑いました。
「……その手があったかぁ」

 ……え? せっかく明かりがあるのに、今までやってみたことはないの?
 わたしもつられてぽかんとしてると、そもそもこのお花を見せたのも、わたしが初めての猫羽だったみたいです。ユウにとっては今の状況も夢と同じで、何度も起こってはすぐに消えてくものだったんだって。
「それじゃ、思い立ったらキチジツだよ。行こ、ネコハ!」
 これまでなかった新しい展開に、嬉しそうに立ち上がったユウ。右手から炎を出すみたいにお花を浮かべて、左手をわたしに差し伸べてきました。
 わたしも強気な笑顔でその手を取ります。これ以上ユウに――氷輪くんに心配をかけられないもんね?

 元気になったユウにわたしも元気をもらって、「天龍」を照らしながら、まずは鍵が開いてる扉を探しました。船楼と階段は角や翼みたいに沢山甲板上にあるのに、ほとんど入れないんだよね。
 前に来た和風の船楼はもっと後ろなのかな。今は全然見えなくて、まずは手近な階段を下りたわたし達でした。
「誰一人現れたことがないから、船の中を探してみようなんて思ったことなかった、オレ」
「……わたしや時雨兄さんは、大体空から来るの?」
「そう。油断するとシグレには花を取られそうだから、絶対見せなかった」
 否定できないのがちょっと悲しいです。時雨兄さん昔から、手段を選ばないから……。

 でも……と、初めて入った「天龍」の船内に戸惑うように、ユウがきょろきょろと辺りを見回します。
「さっきからずっと、すごい遠くで、誰かの泣き声が聞こえるんだ」
「誰かの、泣き声?」
「最初はネコハの声と思ったんだけど。今までそんなことはなかったから」
 そっか、ユウ……それで余計に、わたしを助けなきゃって思ってくれたんだね。でもわたしは泣いてないし、まだ諦めてもないんだからね。
 それにしても何で、ユウにだけ聞こえるんだろ? わたしの直観はここではしんでて、ユウの気配もよくわからないけど、同じところにいるのにね?

 暗闇を小さな光で照らして、出会う部屋を一つ一つ、鍵を確かめては次にいきます。階段があれば覚えておいて、一つの階を全部探してから、下の階に降りていきます。
 ほとんど閉まった部屋ばかりだけど、「天龍」は広いから気の長い作業でした。たまに空いてる部屋があると、中を一通り探すのも大変。探してる内にユウの生まれる時間が来るんじゃないか、って心配になったくらい。

「何階あるんだろうね、これ。そろそろ休憩しない? ネコハ」
「ううん、大丈夫、まだいけるよ。いこ、次の階に」
 なるべく早く、この状況を何とかして帰らないと、ツグミ達が絶対すごく心配してる。このまま「天龍」をこうして探すのが正解なんだって、直観の鈍るわたしの胸で何かがささやいてました。
 そのこたえをやがて、わたしもはっきり知ることになります。

 泣き声が聞こえると言ったユウ。見つめる度に目を奪われるキレイな氷のお花。
 わたしはただ、自覚できなかっただけで、こたえはずっとそこにあったんだから――

 がちゃがちゃ、と閉まった鍵を確認して、次のドア。といこうとした、変わりばえのしないその時でした。
「……待って、ネコハ。ここ……――何か、変な気がする」
「え? ――ユウ?」
 ユウはお花を持ってるし、鍵を確認するのはわたしの役目でした。
 でもその時だけは違って、ユウが自分からもう一度、閉まってるはずのドアノブに手をかけたんです。
 すると、わたしが握った時には閉まってたはずのドアが、何の抵抗もなしにがちゃりと開いて……。

「うわああん……! ゴメンね猫羽ちゃんオレが油断したばっかりに、やだよもう猫羽ちゃんを探す方法がないなんてそんなの有り得ないよおお……!」

 途端に響いてきたのは、暗い船室でぺったり座り込んで、唯一の明かりのスマホを持って大泣きしてる紫音。
 ほら、これこれ、って、ユウが中に入っていきました。わたしは唖然としちゃって、ドアが開いたことすら気付かず泣いてる紫音に、すぐに駆け寄ることができませんでした。

「猫羽ちゃんのばかあああ、ツバメも翼槞もいないのに猫羽ちゃんまでいないとオレどうすればいいのさあああ……!」

 ドアで立ち尽くすわたしを、ユウが紫音の後ろから手招きしてくれたから、はっとしてわたしも船室に入りました。
 それでも泣いてクッションにスマホを置いて眺める紫音に、前に回ってしゃがんで目線を合わせます。
「紫音、どうしたの? わたしはここにいるよ?」
「わあああああん…………って、……えっ……?」
「ごめんね、うっかり紫音を置いてっちゃって。わたしは大丈夫だから――泣かないでいいよ?」

 ぴたり、と。スマホから顔をあげた紫音がやっと泣きやんで、わたしの目を見てくれました。
 改めて全身を見ると、わたしと同じくらいの女の子に見える紫音。背中でくくる紅いストールの端が、床の上でぐしゃぐしゃになって、ずっとここに座り込んでたのがよくわかりました。


 とにかくスマホを受け取ったわたしの横で、おー、よしよし、と、ユウが何故か紫音をなでなでしてくれてます。
 号泣は治まったけど、ぐず、ぐず、っとまだ声も出せない紫音に代わって、スマホに映るツグミ達にわたしはまず平謝りすることになりました。
「ああもう、どれだけ心臓が冷えたと思ってるの、猫羽ちゃんてば! ひとまずもう絶対紫音さんから離れないでね、スマホの実物はこっちにあるから、どう帰り道を作るかは今から必死に相談するから!」
「うん、ほんとにごめん、ツグミ……でもそれ、肝が冷えるだと思う……」
「全然反省してませんね猫羽さん! 心臓が止まるくらい心配したってことです、それだけ危ない状況なんですよ、現在進行形で!」

 あの後、神社ではわたしの姿が急に消えて、びっくりしたセイがスマホを拾って、必死にツグミを探して渡してくれたみたいです。
 おねえちゃんを探すってわたしがセイに言ったから、辻褄合わせでツグミはセイに、猫羽は実は死んだ私の妹で……って言ったんだって。だからわたしは消えたんだって納得した反面、セイはすごく驚いちゃって、逃げるように消えてったって……なんか、悪いことしたなあ。

 ツグミやユウヤが怒ってるここのスマホは、紫音に届く情報を具現してるだけで、帰り道の目印にはできなさそうです。シオンは元々この暗闇にいて、出られる所はスマホとPHSだけだから、今のわたしもスマホの画面にしか出られません。
「猫羽がスマホの実物を持って入れば、PHSとスマホをつなぐ伝波で道を辿れたのにな。まあ連絡だけでも取れるようになって、それは僥倖」
「うう、ほんとにごめんなさい……まさかいきなり、体ごと飛ぶとは思ってなくて……」
「猫羽さんの神性がそれだけ強まってるのは、僕達にも誤算でした。下手をしたら時雨君の二の舞になります」

 喋るわたし達の横で紫音を撫でてるユウは、不思議そうに首を傾げてます。多分だけど、わたしに過去のユウの気配がわからないように、ユウにとって未来のみんなは見えにくいのかもしれない。
 それでもユウは、紫音にはさわれてる。わたしが気付かなかった泣き声も聞こえてたし、そうしてみえるものが違う所にいること、この後にわたしは改めて知ります。

 とりあえず電池が心配だから、一旦連絡を切ってそれぞれで相談することになりました。紫音と汐音が繋がってるから、どっちの相談もリアルタイムで中継してもらえるしね。
 ユウにずっと撫で撫でされて、ぶすっと不機嫌そうな紫音に、わたしは床にぺたっと腰をついて気楽に尋ねます。
「ここには汐音はいないの? 紫音だけ?」
「……やっぱり紫音に見えてるんだ。こっちの大人夕烏はオレが幼女に見えるって言うし、オレ的には冷静にPHSを持ってる汐音なんだけど」
 あれれ……それは大分、みんなみえてるものが違うね。でもユウに見えてる幼女って……?

「ネコハ、この子どうしよう? もういっそオレとネコハで育てる?」
 ふざけてるわけじゃなさそうだなあ、ユウ。きぃーって反抗する紫音の頭を真顔でぽんぽん撫でて、紫音は尚更不服そうです。
 あれ、ところでユウも座り込んでて、片手は床で、空いた手はずっと紫音をぽんぽんしてて。わたしはその時、重大なことに気がついてしまいました。

「ねえ、ユウ……明かりのお花は……?」
 ……あ、と。ユウが少し気まずそうに、たはは、と頭に手を当てて笑います。
「それが……この子を撫でてる内に、気が付けば消えてて」

 ……え? ちょっと待って……あれ、すごく大事なお花なんだよね?
 そもそも明かりがないならどうして、ここはまだ真っ暗になってないの?
 スマホの光もとっくに消えたし……それでも紫音を囲むように座るわたしとユウが、どっちの顔もちょうどギリギリ見えるこの明るさに、わたしはある推理に達してしまいます。

「ひょっとして……紫音が今、光ってる……?」

 消えてしまった光の行方。
 開かれた鏡から出てきた星の花が、翼を広げる鳥と一つになる夜の世界……それが今、この時から始まったことを、まだ誰も知りません……。


File.4 破 了

離:迷える探偵が天使と進化

離:迷える探偵が天使と進化

 わたしには紫音、ユウには小さな女の子、自分では汐音のつもりらしい紫音が、三日月の下の甲板で鮮やかに高笑いました。
「ついにオレは手に入れてしまった! これで神界中遊びに行けるね、ていうか補助だけじゃなくバトルも参加できるね、念願の遠隔広範囲射程!」
 普通の鳥と同じ形の、天使の真っ白い翼を、紫音が暗闇に広げます。今までのその翼は透明だったのに。
 ナイフみたいな天のヒトの羽とは違う柔らかな翼が、わたし達を照らす小さな光として「天龍」に羽ばたきます。

 そのまま紫音が、砂をまくように手を横に振ると、沢山の白いキラキラが闇にふぶきました。すごい、特大の流星群みたいにキレイ。
「キラキラリア充はこれでしすべしキラキラ!」
 もう紫音がいるだけで、船頭から地面まで見えるくらい明るいです。のんびりするのが好きなシオンは、わたし達と話す以外は暗闇の生活も悪くないと言ってたけど、これくらい明るければ色んな所に行けるよね。
 ほぇーっと感心してるユウの前で、紫音は更にえーいっと、シャボン玉みたいな光を振りまきました。光の粒が集まって大きさとりどりの円い光は、飛んでった流星とは違って持久型みたいで長く残ります。
「あれ、恋人同士の背景に流れたら似合いそうだね」
「そうだね、紫音ならそう使いそう」

 とりあえず、ユウの持ってた氷のお花が、紫音の天使の羽のヒトの「力」だったから。近付けただけで紫音が取り込んじゃったみたいで、返すにも「力」の遷移は普通、実物の氷輪くんの血を渡すか、咲姫おねえちゃんがミサキの首輪を使ってやっとみたい。おねえちゃんのいない「過去」のここでは、それも無理だと紫音に言われました。
「猫羽ちゃんに会えてから、咲姫ねーちゃんに全然連絡つかないんだ。スマホに顔を出す以外は誰にも電話できなくって、オレも過去に来たってことだと思う」

 そうして紫音が受け取ってしまった「力」。「開かれた鏡」の真実が、これから明らかになります……。


* * *

★File.5:兄さん、天使のささやきです

 紫音、いったい何したの、って。
 次にツグミ達からスマホに連絡が来た時、最初に顔を見せたのは久しぶりにぐったりした兄さんでした。
「何でか突然、ツグミにもらった気がごっそり減ったんだけど……? 汐音にきいても、何も知らないって言うし……」
 りあジュウしすべし! って、さっきまでキラキラを振りまいてた紫音。
 まさか、その呪いが通じちゃったんじゃ……わたしはおろおろします。

「ええー、何で何で、オレはいつも通り羽の力を使っただけだよ?」
「それなんだけどさ……汐音の悪魔の力はユウの魔力だけど、紫音の天使の羽は、どこから霊力を調達してるんだ?」
 え。と、今までそんなに「力」を使う機会のなかった紫音が、顔色の悪い兄さんに目を丸くします。
「『力』を貯めて制御はできても、羽自体に力の源はない、消えた天使の抜け殻だろ。翼槞の霊力からかと思ってたけど、もし俺のこの疲れが関係するなら、ひょっとしたら……――」

 そうだよね、だから今まで紫音の天使の羽は透明だったんだよね。眠る氷輪くんから力の供給はほとんどなかったはずです。
 でも今はほのかにキラキラと、真っ白になった羽。すごく疲れた顔の兄さんだけど、困ったように微笑んでから、嬉しそうに先を続けたのでした。
「ひょっとしたら、俺の体から気を引っ張ってるなら……羽が霊力にする気の源をたぐっていけば、猫羽をこっちに連れて帰れるんじゃない?」

 最初はそもそも、現実世界のPHSと、ここに持ってきたスマホの伝波を辿るはずだったわたし。なのにスマホの実物がない以上、まず外に出れない紫音と汐音だけでは、わたしを帰せません。
 でも兄さんの言う通り、紫音の羽の力と兄さんがつながってるなら、それを辿るのはできるはずです。
 今までは天使の羽の力を使うことが少なかったから、わたし達も気付いてなかったのでした。PHSの汐音と兄さんだけでなく、紫音と兄さんにも強いつながりがあったことを。

 そうしてやっと帰り道の目途がついて、「天龍」を出るわたしと紫音に、ユウは安心してくれながらも淋しそうでした。
「ほんとにいいの、ユウ? あのお花、紫音に入っちゃったままで……」
「うん、オレにはどうにもできないことだしね。これからここも暗くなるだろうけど、オレはどうせ、もうすぐ生まれるんだから」

 がんばれば多分、戻ってから咲姫おねえちゃんに紫音のお花を取り出してもらって、またセイを探して「過去」に来ることはできると思います。
 でもそれもいらないって、さっぱりした笑顔で首を振るユウです。
「変化がある時にここの時間は進むって言ったよね? オレが生まれるのも多分近いし、ネコハとシオンが守ってくれる方が安全だと思う。これで何か、オレは大切な違う夢を見ることになるって、今から予感があるんだ――」

 名残惜しかったけど、最後に握手して、お互いさよならは言わずに背中を向けました。紫音に抱えられて地上に飛びおりると、もう船の上のユウはうっすら見えるだけになっちゃいました。
「ありがとう、ユウ……! ユウが絶対幸せになれるように、シノと一緒に見てるからね、わたし……!」
 光の氷花の、「力」のイレモノを探してるってわたしに言ったユウ。それはきっと、その「力」にぴったり合うヒトが、ユウや氷輪くんが探す大事なヒトに近い「鏡」だから。
 紫音はそのヒトの羽を持った天使。紫音が全然そのヒトに似てないみたいに、鏡のヒトが見つかっても魂は別人だと思うけど、それでいい、ってユウは笑いました。
 オレ、シオンに会えて良かったよ、って。とても大切なものを見つけたような顔で、紫音に最後にそう言ってました。

 そんなユウの諦めの良さが、氷輪くんの一部なシオンには正直謎だと、地上で大きく首を傾げてます。
「……何だったんだろ、アイツ」
 それが氷輪くん達にとって、どれだけ大事なお花かはシオンも知ってる。
 白くなった翼を広げて、兄さんとのつながりを探りながら、紫音も淋しそうにユウを見上げてました。

 まだうまく直観が働かないわたしよりも、いつも通り直感が鋭い紫音は、兄さんと羽のつながりをすぐに見つけて歩き始めました。
 紫音がいる所だけ少し明るい黒塗りの世界を、今度は離れないように、手をつないでつながりの源に向かいます。
「オレが猫羽ちゃんを送った後『天龍』に戻っても、夕烏には会えない気がする。元の時間に戻る道だもんね、これ」
「うん。会いたかったらまたセイを見つけないとね」

 障害物があるかどうか、それがわかるだけでも助かる紫音の光で、黒い世界を進み続けます。でもこの暗闇では本当に、まだ持ってる傘以外は何もありません。
「オレは正直、もう猫羽ちゃんの神界探検はゴメンかな。こんな所にいるのはオレ達だけでいーよ」
「そうかな……心配かけてゴメンね、紫音。でもシオンも、スマホやPHS以外で一緒に遊べるようにならないのかな?」
 シオンが全然、今の生活に不満はないってわたしも知ってはいるんだけど。水葵の人形を使うトウカのように、自分の体で世界に関わることができるなら……外に出たいって、シオンはほんとに、全く思ってないつもり?

 わたしがいなくなっただけで、あんなに沢山紫音は泣いてた。汐音は冷静だったのかもしれないけど、この暗闇でずっと一人はきつくないのかな。
 今回はただの凡ミスだけど、人間のわたしは長くても、あと七十年くらいで死んじゃいます。それより早く何かある可能性もゼロじゃないし、もっと沢山、シオンにも居場所があった方がいい気がする。

「あ、そうだ。迷子中にわたし、ツバサ兄さんに近い時雨兄さんに会ったんだけど」
「?」
「今の兄さんとは違うツバサになる時雨兄さんで……シオンのことは全然知らなかったのに、こっちの兄さんの記憶を感じた後に、紫音に伝えてって頼まれたことがあるんだ」
 ぴたり……と。わたしの戸惑いを感じたように紫音が立ち止まりました。
「大丈夫、愛してる、って。意味はわからないけど、そう言ってたよ」

 は……あ……? って。紫音の鋭い目が点になりました。
「アイ……シテル……? 何それ、何処の新手の、誰得詐欺商法……?」
「わたしもわからない……ツグミの話を沢山した後だったから、余計……」
「アイツそもそも、アイシテルってガラじゃないじゃん、何を企んでんの……しかもそんなん、オレが言われて喜ぶと思ってんの、アイツ…………」
 ずーん。と紫音の顔色が黒くなって、スマホでよく見る暗黒天使モードになっちゃいます。
「イヤガラセ? オレがいつまでも汐音に戻り切れないから、激励のイヤガラセ? それとも今回、猫羽ちゃんを守り切れなかったオレへの罰ゲーム?」
 そんなことないよ、って言いたいけど、わたしにも時雨兄さんの真意は全然わかりません。でもせっかくわたしを過去まで送ってくれたんだから、大事かもしれない伝言を断るのも悪いし。
 紫音が動揺するのはわかってたけど、ツグミ達の前では絶対に言えないし、ここだけの話にしておこうね。って言って、まだダークモード中の紫音と指切りしました。

「はああ……猫羽ちゃんが沢山の悪魔に好かれるの、ホントによくわかるよ、こーいう時は。何でか何でも言えちゃうんだよね、猫羽ちゃんって」
「でも紫音は、天使だよね?」
「羽だけはね、オレ全体は基本悪魔で吸血鬼だからね。もう生身では触れられないから危険はないけど、猫羽ちゃんの血が欲しいって思っちゃったよ、急に」

 わたしから目をそらすように、紫音が足早に歩き始めます。
 そこでわたしも、行ってきた未来では氷輪くんに血を奪われたらしいのを思い出します。
「そうしたらシオンと、ずっと一緒にいられる?」
「だからそーいう、無防備なこと言わない。純血の吸血鬼にとって、特定の相手の血だけが欲しい時は、生存本能を超えた恋か愛着か支配欲だからね。少なくとも翼槞は感じたことないよ、それ」
 そうなんだ。氷輪くんは不味い血が嫌いって話は、聞いたことがあるけど。
 時雨兄さんは未来の氷輪くんの理由、もうわたしに会えないと思ったからって話してたな。シオンの言葉で言うと、愛着?

「まあ冗談抜きで、今回みたいなことがあると困るし。ツバメみたいにオレの血はもう渡せないし、猫羽ちゃんの血を少し預かってもいい?」
「うん。心配してくれてありがと、シオン」
 「預かる」って紫音があえて言うのは、吸血鬼の体――眠る氷輪くんには渡さないってことだよね。渡されても氷輪くんの栄養になるならいいけど、紫音が思ってるのは違う目的です。
 兄さんと紫音がつながってたことと同じ。スマホ以外にもわたしと紫音のつながりを作れば、たとえばスマホの電池がない時でも、お喋りくらいはできるって教えてくれました。

「これは猫羽ちゃんに神性があるからだけどさ。逆に言えば今後、猫羽ちゃんが強い神域に入ると、どこからでも『天龍』――オレの所に飛ぶ可能性あるから、それは気をつけてね」
 脈を測るみたいに、わたしの手から血を回収してもらいます。少ない量だから、よっぽど強い神域でなければ大丈夫だろうけど、と言いつつ紫音は心配そうです。そうなったらまた紫音に外に送ってもらえばいいし、わたしに神域は見分けられないし、気にしないことにします。
 それより嬉しくって。それはまるで、紫音がわたしとずっと一緒にいることを決めてくれたこたえに思えたから。

「そろそろ出口が近そう、猫羽ちゃん。臨戦態勢に入っててね」
「え? これから戦うの、わたし?」
「出た所が道路のど真ん中とかだったらどーすんのさ。オレはスマホって決まってるけど、体ごと来た猫羽ちゃんは未知数なんだからね」
 紫音と兄さんをつなぐこの道で帰れたら、ツバサ兄さんのいる所か、あの神社に出るかと思ってたんだけど。
 その紫音の最後の心配が正しかったことを、もう少し一緒に歩いて光に包まれた後に、わたしは思い知ります。


 突然だった「神隠し」の終わりは、そうしていきなり訪れました。
 思えばこれこそ、始まりだったかもしれない。出口で振り返って笑ってくれた紫音が、まるで光に消えてくようで、急にわたしは不安になったから。

 いつかに紫音が(うた)った「祈り」が、何処からか聞こえました。
 足元が不意に、凍り付くほど冷たくなりました。

――火の深淵よ、開け。ああ、地獄はここに。

 どうしてだろう。痛いほど足は冷たいのに、心臓は熱を持って早くなります。
 この赤い鼓動は、闇の果てから響く誰かの痛み、それだけがわかります。

――砕けろ、滅ぼせ、呑み込んでしまえ。粉々になれ、今すぐ怒りを下せ。

 そうしてわたしを侵してきた憎悪……絡まる怨嗟に頭が呑まれて叫びそうです。

――その傍らの裏切者に。あの人殺しの血に。

 ……やめて、裏切者って言わないで、兄さんはそんなんじゃない。
 復活した直観で、その気配だけはわかりました。
 この谷底の「祈り」は、消えてしまったヒトのためのもの。紫音が咄嗟に選んだ結界(かべ)は、トウカを捨てた兄さんへの無意識の断罪だったから……。


 お盆に人の世界に帰ってくる時。
 その二人が最後に交わした会話が、わたしの足を縛る真っ赤な水面から伝わってきました。

――ホントにこれで良かったの? 桃花ちゃん。

 時雨兄さんを悪い神様から解放するために、黒い翼を引き受けてくれたトウカ。そのために橘診療所で咲姫おねえちゃん会う前に、汐音とトウカは話をしたみたいです。

――ええ。もう十分、わかったから。どの時空を探しても、わたしの烙人(ラクト)には会えないって。

 だから時雨は自由になって、と。氷輪くんの昔の師匠だったラクトを想うトウカは、ラクトが消えない世界を当てもなく求めてたこと。
 そのために、ラクトの命を奪った時雨兄さんといたこと……時雨兄さんもラクトから、トウカを想う鼓動と力を受け継いでたこと、ここでわたしは初めて知ります。

――それでもアナタ達が、帰れる方法はあるのだから。

 痛い。ツグミと一緒の兄さんの姿、痛いのは紫音だけじゃなかったんだ。
 トウカは確かにラクトを望んでたけど、兄さんのことを想う心もあった。時雨兄さんが気付かなかっただけで、幸せになれって願ってた。その時隣にいるのが自分じゃないことは、トウカも痛かったんだ。
 むしろトウカの痛みをこそ、紫音は反映してたのかもしれない……。


 赤々と燃え上がる不思議な世界で、わたしは干上がりそうな浅い水面にしゃがみこみます。
 ここはもう時の闇じゃない。でも完全な現実世界でもないって、わたしの直観はそれだけを感じ取ります。
「あらあら、まさかこんな所にお客さんとは……ようこそ、このゲヘナのさざなみへ」

 周囲の鮮やかな赤があんまり眩しくて、顔を伏せてるわたしにかけられた声。それはお盆の直後に会ったはずの、少しは見知った冷たい誰か。
「あたしと猫羽ちゃんに、直接の(えにし)はないはずなのに……いきなり黒幕の所に出るって、反則じゃない?」

 こつん、と、わたしが持ってた傘が水底に当たる感触で我に返りました。
 今わたしがしゃがむ浅い水場は、小さな湖みたいに広い池です。中にいる限りは足が冷たいだけで済むけど、外周は炎みたいな光が取り巻いてます。

 この池だけが安全エリアなのは、今掴んでる水中の道具の影響。
 それはさっきまで傘だったはずなのに、持ち手は太く短い黒い柄になって、傘部分は燕の尾羽みたいな(つば)になってました。末端には蛇みたいな紋様を浮かべる小さな玉が填め込まれて、どれもわたしには見覚えがある物です。
「これ……兄さんの剣の、柄?」
「そうよ、あたしがかつて(うつぎ)時雨にあげた、狐火の宝入り。前は猫羽ちゃんの大事な宝が填まってたよね、その柄の小玉」
 うん、知ってる。わたしは確かに、この剣に助けてもらった。
 遠い昔に攫われて、サツリクの天使になったわたしを。
「でもその閉じた過去では、猫羽ちゃんがここまで来れる縁にはならない。いったい何処で何を手に入れたの?」

 時を渡る直前に、絶対雨が降るからって、時雨兄さんが渡してくれた傘。
――いいもの渡された。せっかくだから寄り道してく?
 傘があれば、長く雨の中を歩いても大丈夫、それくらいのノリ。
 でも「傘」として具現されたソレが、現実世界とまるで同じ傘じゃなくて、この柄の玉が持つ「力」を反映したものだったとしたら?

「まさか……『天気雨』の、加護……?」
「そうよ、猫羽ちゃんが掴んじゃったその柄はね。この池以外を火天に、そしてこの池だけを水地に分けられる結界の媒介」

 わたしの周囲だけを天気にした傘。それがこの柄にある「天気雨」と同じ力だから、わたしの出口はこの場所につながったんだ。迷い込んだ先の時雨兄さんは「雨」の加護、もっと強い雨を違うヒトから奪って、その前にもらった「天気雨」は使ってなかったんだね。ツバメ兄さんとはそこが大きく違うところ。
 「天気雨」の名を司るのは、わたしの周りではたった一人。わたしはやっと顔をあげて、数メートル先で池の上に浮かんでるヒトと、その後ろに紅いストールの人形、悪いコのトウカを直視しました。


 声だけでもほとんどわかってたけど。漢服に鉛色のポニーテールで映像だけの、天使な姿のナギを改めて確認してしまうと、やっぱりちょっとショックでした。
「じゃあ、最初から……ナギが犯人さん、だったんだ……」
「それはそうでしょう。いくらあたしが桃花ちゃんに甘いと言われても、タダで依り代を奪われるほど迂闊じゃないしね」
「ナギ……嘘つくの、上手い、ね」
「まあね、色々誤算があったのは本当よ。今もあたしの言葉は話半分に、鋭い猫羽ちゃんは聞いててくれてるよね」

 ナギの後ろ、無表情で不自然に黙るトウカをちらりと横目で見るナギは、その立ち位置の通りわたしとトウカの板挟みみたい。正確にはわたしというより、わたしを応援してくれてる咲姫おねえちゃんとの、かな。
「……ナギとトウカは、ここで何をしてるの?」
「残念だけど教えてあげないし、あなたの記憶も消して出て行ってもらう。いつかこういう時もあると思ってたけど、今はまだそのタイミングじゃ――

 厳しい声色のナギが、その警告を言い終わらない内に、もっと後ろにいた人形のトウカが突然高く跳び上がりました。
「――! 待ちなさい、(れい)!」
 この状況は色々、ナギには想定外みたい。「れい」って誰、とわたしもびっくりしつつ、黒い翼のトウカが頭上から槍を振りかぶってきたから、今のわたしにできることは一つでした。
 これ、突かれてたら死ぬところじゃなかったかな。咄嗟に兄さんの剣の柄を両手で掲げて、槍の叩打を受け止めました。でも非力な人間のわたしの手は、それだけで折れそうなくらいにしびれて、後ろに倒れ込みます。

 浅い水の中に倒れたはずが、何故か一瞬で水面が凍ってました。濡れなくて済んだのは良かったけど、足が氷の中にとられて完全に動けません。
 槍を片側に下げたトウカが、わたしが取り落とした黒い柄を、真紅の目で見つめて拾いました。
「……渡さない……」
 その目は前に、公園で会ったトウカとは違う。あの時はラクトみたいに紫苑色だったのに、今は一緒に連れてた白い獣に似た紅い眼光。

「零、戻りなさい! 咲姫に居場所がバレていいの!?」 
 焦るナギの声も、零と呼ばれる紅い目のトウカは聞こうとしません。
 黒い柄をストールにしまって、両足が氷漬けで起き上がれないわたしに、大きな槍の穂先を向けてきました。
「時雨は……渡さない」

 聞こえてきたのはそれだけ。わけがわからないまま、トウカを見上げます。
 池が凍っただけじゃなくて、トウカの周りにキラキラと赤い結晶が舞ってる。火の壁より濃い赤なのに、空気はすごく冷たくって。
 ナギの制止を完全に無視して、この場の怒りを全てわたしに向けるトウカ。柄も取られて万策つきたわたしに、赤い鼓動の鏡が襲いかかります……。


* * *


 炎の壁に囲まれた氷の御池。わたしがいる所を簡単に言うとそんな感じ。
 こんなの故郷の異世界でも見たことなくて、魔界でも来ちゃったのかな? と最初は思いました。堕天使のナギも、普段は悪魔の城にいるはずだしね。

 ナギの言うことをきかない紅い目のトウカが、キラキラに牽制されるわたしの上で槍を肩の後ろにひいた瞬間、あ、死んじゃった、ってわたしは思ったんだけど。
「――! もう、最悪!」
 わたしの後方から飛んできた刀が、トウカの胸を串刺しにして軽く吹っ飛ばしました。
 離れて倒れたトウカの横にナギが降り立って、赤いキラキラと炎の壁がナギ達の周りに集まります。そのまま姿が取り込まれて消えました。
 それでも水は凍ったままで動けなくて、駆け付けて来た二人の顔がやっと見えたのでした。

「大丈夫か、猫羽! ナギ、あのやろ……何処行きやがった!」
 一人は何故か馨おにいちゃん。倒れるわたしの間近まで走ってきて、すごく焦ってきょろきょろ辺りを見てるけど、暗い夜の周囲には大きな公園みたいな平らな風景しかありません。
 もう一人はすぐわたしの横に片膝をついて、足を包む氷を手拳で叩き割ってくれた兄さんでした。
「危ない所だった……怪我はない? 猫羽」
 真っ青な顔色をしてる兄さんは、わたしを助け起こそうとして、ぐらりと自分が座り込んじゃいます。からん、と氷の上に空っぽの鞘が落ちて、コートのポケットにあるPHSから汐音の声が響いてきました。
「やばいよツバサ、トウカちゃんに『静青』持ってかれちゃった。あれしか方法なかったとはいえ、投剣はさすがにまずかったよね?」
「うん……でも俺、壁破るだけで力、空っぽで……」

 ぜいぜい、と両手をついて苦しそうな兄さん。刀が胸に刺さったまま、トウカ達が退いちゃったんだと、起き上がったわたしもわかりました。
 辛そうなのは兄さんだけじゃなくて、「錠」――鞘を呑む影もいつもより薄くて、汐音がとても弱ってるのが伝わってきます。
「無事で良かったよ、猫羽ちゃん。ユウには悪いけど、ムリムリ転位を使った甲斐はあったね……――」
 そこで汐音の声が途切れました。使える魔力の限界を越えちゃったんだ。
 兄さんの刀を影伝いに受け渡しできる汐音は、力さえあればこうやって、「錠」で何かをワープさせることもできます。でもそれは今の汐音と兄さんの力の量だと、相当な無茶で……。

「兄さん……ツグミとユウヤは? ここは何処なの?」
「馨……が、猫羽がやばいって、猫羽のスマホに電話をくれて……俺だけ先に、汐音に転送してもらって……ここは一応、高校と同じ市内って……」
 それで兄さんが一人だけ、ここに駆けつけて炎の壁を破ってくれたんだ。
 兄さんのコートの反対側のポケットには、わたしのスマホが入ってました。でも画面をつけても紫音がいなくて、嫌な予感がぞわりと広がります。

「……もしもし、ツグミ? わたし帰れたよ、兄さんに助けてもらったよ……ツグミ達は今何処にいるの?」
 兄さんが動けないままだから、わたしはひとまず大事な連絡を取ります。
 スマホの向こうで、あっちもすごく疲れたツグミの声が返ってきました。
「良かった、本当良かった、猫羽ちゃん……私達、四人分のチケットを払い戻して浮いたお金で新幹線に乗って、後一時間ほどでそっちにつくから――」
 ツグミのアイポンの電池が切れちゃったみたい。それだけ何とか聞けたから、後は駅に行って待つしかないね。
 馨おにいちゃんがこっちに戻ってきて、わたしと兄さんに目線を合わせてしゃがんで、大きな溜め息をつくのでした。
「わりぃ、猫羽、ナギ達にはまんまと逃げられた。この状況は俺の責任だから、後で埋め合わせはする」
 馨おにいちゃんとナギは不思議な関係。母さんはおにいちゃんの妹みたいなもので、ナギは母さんの叔母さんだから。
 でもこの状況がおにいちゃんの責任……わたしは思わず、トウカとの最後のお話を思い出します。

 神隠しで迷い込んだ世界で、優しいトウカにもう一度会えて。反則だとは思いつつも、わたしはトウカに、悪いコのトウカについて尋ねてみたんです。
「トウカがもしも、悪いヒトの影になったら。悪いコになったトウカは、何処に隠れると思う?」
 大分悩んだ顔をした後に、トウカはわたしにこたえを教えてくれました。ちょっと恥ずかしそうだったけど、大事な質問ってわかってくれたみたい。
「あまり考えたくないことだけど……頼れるのは鷹野馨だけだと思う。烙人はあのヒトの影だったから、少しでもあたしが残るわたしなら、そうするでしょうね」

 だからわたし、帰ったらまず、馨おにいちゃんにきこうと思ってたんだ。悪いコになっちゃったトウカについて、何か心当たりはない? って。
「馨おにいちゃん……ひょっとして、今まで……トウカを匿ってた?」
 ちょうどツグミが来た辺りから、相談所にあんまり顔を出さなくなった馨おにいちゃん。そして今の状況が、自分の責任だって言ったおにいちゃん。
 プライベートも家も謎な馨おにいちゃんの所は、よく考えれば打ってつけの隠れ場所だよね。馨おにいちゃんはバツが悪そうな顔で、否定しないことでわたしの言を認めました。

「ナギはここで、トウカと何をしてたの? おにいちゃんも一緒に来てたんだよね? でないとわたしが危ないって、こんなにすぐにわからないもの」
 これも当たってるみたい。「透視」の眼を持つ馨おにいちゃんは、炎の壁の外からでも、わたしが急に中に現れたってわかったんだろうから。
 それはナギにも馨おにいちゃんにも想定外で、その上トウカがナギ達の思惑を外れて動き出して、わたしに槍を向けたんだ。
 咲姫おねえちゃんが探すトウカを、馨おにいちゃんはどうして匿ったのか。ナギはどう関わってくるのか、トウカが何故わたしを狙ったのか、まだまだわからないことだらけです。でも馨おにいちゃんは、気まずそうに黙り込んじゃったのでした。

 そうしてわたしからの質問には、直接答えてはくれなかったけど。
 ツグミ達と合流しなきゃいけないから、わたしと兄さんを駅まで連れてってくれた馨おにいちゃんは、ずっと悩んだままの顔で精一杯のことを言ってくれました。
「……これは俺達の問題だから、猫羽を巻き込みたくない。それでもあいつらが今後、猫羽に関わらない保証はないから、何かあれば俺を呼べ。今夜のことは咲姫に話していいし、それで多分大体のことはわかる」
 もうほとんど動けない兄さんを背負いながら、わたしを見ずに言った馨おにいちゃん。「巻き込みたくない」はおにいちゃんの本心で、だから今まで、わたしや咲姫おねえちゃんにトウカのことを隠してたんだと思う。
 そもそもわたし、トウカを探してること、馨おにいちゃんには言ってないもんね。まさか馨おにいちゃんが関わってるなんて、思いもしなかったから……おにいちゃんも兄さんはともかく、わたしが関わってると思わなかったんだ。

 トウカやナギはほんとに、ヒトの心の隙をつくのが上手いね。
 駅までの道で、わたし達が氷輪くんのために、トウカを探す事情は話しました。兄さんがずっと身につけてるミサキの首輪を、トウカにつけることが目的だって。
 ミサキの首輪にも馨おにいちゃんは悲しそうな顔でした。それはそうだよね……過去に何度も死にかけた馨おにいちゃんのために、いなくなっちゃった仔猫のネコマタが美咲だって、わたしも知ってるから。

「猫羽は神隠しなんて二度とやるなよ。炎獄に出るなんてよっぽどだぞ」
炎獄(ゲヘナ)? 馨おにいちゃん、神隠しのことわかるの?」
「当たり前だろ、美咲や零が消えたのだってそれだ。コイツみたく帰る奴の方が稀なんだから、もう絶対に真似はするな」
 背負う兄さんを横目で見つつ、厳しい顔で言う馨おにいちゃん。
 そこでやっとわたしは、「零」が誰か思い当たりました。ナギと馨おにいちゃんが、どうして手を組んでたのかも。

 普段は行かない大きな駅で、馨おにいちゃんが連れてってくれた新幹線の改札で待ってると、ツグミ達が帰ってきました。夜行バスだとあんなに時間がかかったのに、新幹線ってすごいね。
 一目見てびっくりしたんだけど、ツグミが真っ青でした。兄さんもツグミもとてもこれ以上歩ける状態じゃなくて、馨おにいちゃんの勧めで、タクシーを使って相談所にみんなを連れてくことになりました。ちなみに料金は、結局旅行で使えなかった馨おにいちゃんの餞別からです。
「姉貴は帰郷中だし、咲姫に言って鍵を開けさせるから。地下の部屋は外階段から行けるから、先にしばらくそこで休んでろ」
 ツグミに貸された地下室は当然、ツグミが鍵を持ってます。ツグミ、ユウヤ、兄さんにわたしと、タクシーにぎゅうっと四人で乗り込んで、馨おにいちゃんはバイクで帰ると言って行っちゃいました。

 火の池やタクシー代のことも含めて、今回は馨おにいちゃんにお世話になりっぱなしです。タクシーの中でわたしのスマホから咲姫おねえちゃんに電話したら、派手に悔しがる声がみんなに聞こえるくらいに響きました。
「えええええ、知らない間に馨がそこまで何か動いてたの!? それでもってまた逃げたの!? 事情は私からきけってどーいうことよ、私こそ教えてほしい!」
「だよね……でも、わたしとおねえちゃんが相談すれば、大体は何とかなると思う」
「勿論何とかするよ! どうせ私、お正月に帰る所もないし、みんなで事務所でぱーっと新年やりましょ!」

 駅から相談所までは、もらった餞別の半分くらいのお金で着けました。後はまた何かの時のために、別枠のお金としてユウヤに預けることにします。
 ツグミと兄さんは相談所に入るのが精一杯、PHSとスマホではシオンと喋れなくて、わたしとユウヤ以外は何だかボロボロな旅の終わりなのでした。

 地下のツグミの部屋に入れてもらうと、部屋の天井近くにある横長の換気窓を開けて、暖房をつけてすぐ、ツグミはコートを脱いだだけでベッドに倒れ込んじゃいました。
「ツグミ、大丈夫? ごめんね、兄さんがいるから着替える場所がなくて」
「いいの、元々夜行バス対策の服だったし……でもシャワー浴びる元気がないのはきついかな、ははは」
 兄さんはユウヤが、床に折りたたみマットを敷いて寝かせてくれてます。
 火の池の壁を破った兄さんはともかく、ツグミまでどうしてこんなに疲れてるんだろ。わたし達の中で一番体力があるヒトなのに、ユウヤも首を傾げて様子を診てます。
「鶫ちゃん、途中から霊気がほとんど空っぽになったのは何故? ツバサ君に遠距離の隔体神交で援護をした?」
「ううん……私の、意志じゃないの。多分、翼汊の意志でもない……いきなりごっそり、持っていかれたのは確かだけど……」

 仰向けのまま苦しそうに、電気が眩しいみたいに片手で目を隠すツグミ。
 兄さんは安心できる場所に来た瞬間、意識を失くしちゃったから、ツグミの今の声は聞こえてないはずです。
「鶫ちゃんの――意志じゃない?」
「理由は一つしか、思い当たらない……でもそれは、話しにくくて……」
 さらりと、ツグミのキレイな赤い髪が、耳から枕にかかりました。
 人間界に来てから四カ月、ちょっとだけ髪が伸びたツグミ。切るのは故郷に帰ってからって言ってた。
 炎よりも赤い赤。その髪を改めて見て、わたしの頭には急に、さっきの火池(ゲヘナ)がよぎりました。
「まさか……え、それって……――」
「……猫羽さん?」

 わたしを槍で刺そうとしたトウカ。その後ろに舞ってた赤いキラキラ。
 あの赤いキラキラ、紫音が「天龍」で使った光にそっくりだった。その力が兄さんとつながるものだったから、わたしを出口に導く蜘蛛の糸になった……じゃあ、その糸の先にあったものは?

――何でか突然、ツグミにもらった気がごっそり減ったんだけど。

 開かれた鏡。かごめの天使。誰かの都合通りな心。

――かごめかごめ。いついつ出やる?
――オレも不思議だよ、何で今頃そうなるの!? って。

 兄さんのことが欲しい紫音。氷輪くんなら有り得なかった「鍵」への感情。

――それはあくまで、何があってもツバメを優先とか、その程度の刷り込みと思ってた。

 そして最近、可愛過ぎる、とユウヤに言わせたツグミの変化。兄さんの助けを最優先に、人間界に出て来たツグミ。それは御所でのツグミには考えにくかった姿で。

 わたしの中で全て、この状況が一本につながります……ツグミがきっと気付きたくなくて、今も話したくないと思ってること。
 ユウヤも本当は薄々気が付いてる。ツグミの気持ちを察して隠してるだけ。それがわかった瞬間、ちょうど兄さんも近い夢を観たみたいでした。
「……俺の、せいだから…………」
 細くても荒い呼吸の中、苦しい寝顔で呟いたうわ言。
 ユウヤが悲しそうな顔で兄さんの汗をふいて、布団代わりのコートをかけ直しました。ユウヤも朝からずっと体調が悪いし、さすがにそろそろ休んでもらわないと。わたしは一人で、黙って地下室から上がりました。

 外にはちょうど咲姫おねえちゃんがついて、相談所の鍵を三階の控室まで開けてくれました。
「今年は奮発して一人おせちしよう! って買ったの持ってきたよ。私も三階に泊まって、見張りもしとくから、今日はもうみんなゆっくり休んでもらって、明日から色々相談を始めよっか」
「うん、ほんとにありがとう、咲姫おねえちゃん。話したいこと、沢山あるから、いっぱい聞いてね?」

 設備以外は荒廃したロッカールームみたいな三階で、寝袋と毛布、折りたたみベッドを借りて地下室に戻ります。ベッドと毛布はユウヤに使ってもらって、わたしは初めての寝袋にちょっとワクワクしながら入りました。
 次の朝は、三階のシャワーをみんなで取り合いになる夢を見ながら、わたしも毎夜の暗闇にそっと落ちていったのでした。


 わたしが毎晩戻る暗闇。これ、本当は時の闇の一部です。スマホやPHSのシオンと一緒で、行き帰りが固定された所だから迷子にならないだけで。
 わたしの幻想鎌の核、「桃花水」の珠玉が包む真っ黒な水底。ひと気は全然ない所だけど、サツリクの天使だったわたしが、昔に奪った命の泥が沢山沈んでます。だからわたしもその重みで、ここから完全に出ることはできない……前はそう思ってました。

――貴女はどうして、ここに来るの。

 それはわたしの、バカな望みだって。わたしが進んでそうしてるだけで、何処にも束縛はないって、トウカは言います。
 でもわたしは、忘れたくなくて。わたしが沢山、ヒトを殺した人間なこと。
 今こうやって、わたしが温かな場所で眠ってられるのは、途方もなく大きな犠牲の上に築かれた幸せ。その犠牲はわたしだけのせいじゃないけど、憶えてることも知らないことも、出会った時くらいは向き合いたいから。


 真っ赤な憎悪の火の池で、人形のトウカから確かに、わたしに向けられた心。
――時雨は……渡さない。
 トウカの関わることだから、わたしはこの水底――トウカの世界にヒントを探しに来たの。
 ここより遥かに上の方、水面に浮かぶ「天龍」で、もういない時雨兄さんの声が聞こえました。
――ごめんな。オレがいないと、そんなに淋しい?
 時雨兄さんは、誰にも知られず消えた誰かに謝ってる。わたしが「今の世界」を願ったから、見捨てられた世界の残骸。その陰でゲヘナの赤い鼓動は、わたしに怒りを向けたようでした。
――その想いだって、紫音から取り込んだニセモノ。冬花(とうか)はそれを、本当に望んでる?

 ごめんね……冬花も時雨兄さんと、幸せになりたかったんだね。そのために冬花になったんだね、わたしが選ばなかった未来で。
 時雨兄さんを慕う紅い目の人形。もう、闇の果ての炎獄(ゲヘナ)でしか存在を許されない、消えてしまった世界が起こす小波(さざなみ)が暗い水底から観えました。

 変わってしまったこの世界でも、きっとその人形――トウカは同じことを望む。
 これはその警告を、わたしに教えてくれた夢。「桃花水」を司るトウカに直接は会えないけど、見せてくれた夢には意味があるはずだから。


 もつれた現実が一つほどけると、なしくずしに他のことも観えてきます。
 これで多分、わたしを取り巻く現状のピースは揃ったんじゃないかな。それだと後は、何から手をつければいいのかな……そう思った矢先に最後の扉、昨日からあった嫌な予感が当たりました。
「紫音の力が誰かに盗られたよ、猫羽ちゃん。心当たりはある?」
 朝になって、まだ寝てる兄さんを置いて、PHSの汐音に話しかけられました。普段は兄さんと一緒にいるから、あんまり直接話すことはない汐音。
 PHSの汐音は復活したのに、スマホをつけても紫音がいません。汐音の言う通り、紫音の心だけが攫われたんだって、嫌でもわかりました。
「やっぱり……昨日トウカが使ったのは、紫音のキラキラだったんだ」

 人間界の大きな公園を火の壁で包んで、中で何かをしてたトウカとナギ。
 わたしが割り込んだ直後にトウカは、池を凍らせて沢山赤いキラキラを出したーー紫音の光と同じ気配の。人間界にしては「力」の大盤振る舞い。ナギがわたしの記憶を消す、って言うくらい不秩序なはずです。
「なるほど、スマホより縁の強いところに紫音は引きずられたんだ。水葵(なぎ)の人形はナギも宿れるくらい、天使の力を使うには適してるしね……過去であの光をもらったこと、裏目に出ちゃったかな」

 汐音は冷静に状況をわかってくれるけど、わたしの気分は真っ暗でした。
 時雨兄さんを望むトウカに、突然取り込まれたはずの紫音。その時わたしに槍を向けて、流血を求めた赤い鼓動はわたしのせいだったから。
 朝の弱いわたしがすぐに、目が覚めるくらい辛かった夢。人間の暮らしを学びに人間界に来たわたしへ、最後の宿題がここから始まります。


* * *


 最初はただ、氷輪くんを助けるために、悪いコになったトウカを見つけて力を借りたいだけだったのに。
 時間がたつにつれ、ユウの魔力を氷輪くんに返せないかってお話になって、わたしが神隠しにあっちゃって、何か企んでるナギとトウカの所に出くわして。紫音もトウカに偶然攫われて、兄さんの借りた大事な刀がトウカに刺さったままなのが現状です。
 三階の控室で、兄さん以外と三段のおせちをつつきながら、わたしは咲姫おねえちゃんに経緯を説明するのでした。

「あちゃあ、ナギさん、その手できたか……馨が隠してたら、そりゃトウカも見つからないし、ここで(れい)を出すとは思ってなかったなあ」
「零って、ゼロおねえちゃんのことだよね? 昨日のトウカ、氷の力も使ってたから」
 馨おにいちゃんには、ウサギのぬいぐるみを使う悪魔のお姉さんがいます。それがゼロおねえちゃんで、一学期に転地学習についてきてくれたヒト。
 でもそのぬいぐるみを使うのはわけがあるんです。
「ゼロからは何も聞いてないけど、ナギさんは本体の零を、そろそろヒトに戻そうとしてるんだと思う。橘水葵の人形なら確かに適合しそうだしね」
 ゼロおねえちゃんの本体は、昔に暴走して封印された氷の竜の「零」です。そこから魂だけ、ウサギのぬいぐるみに遷したのがゼロおねえちゃん。ウサギの方には今は月属性の竜が一緒に憑いてて、本体の氷の竜も暴走は止まったけど、零はヒトに戻る気がないんだって。多分、人形のトウカが最初に連れてた白い獣が零だと思う。
 咲姫おねえちゃんは、零が戻る気になれば手伝うって言ってたけど、ナギはその辺どうなってるのかな……。

「ま、零の性格を考えたらわかるよ。トウカが悪神に完全に呑まれないよう、一緒に人形の体にいてやって、と言われたら零は断らない」
「でもそれ……零がヒトに戻るわけじゃない気がするけど……」
「そうね、オマケに悪神なんているし、今度は殺戮の女神化してないかが心配」
 零が暴走した時の大変さを、すぐ隣で味わってきた咲姫おねえちゃんの言。昨日よりは元気なツグミが、ぴたっとお箸を止めて、咲姫おねえちゃんを向かいから見つめました。
「殺戮の女神……ですか?」
「あ、それは悪神のトウカの方か。零はどっちかというと冥府の女神かな、どっちにしても荒事大好きで相性はいい二人なんだよね」
「でもそれで猫羽さんを襲ったりするんですか? 猫羽さんの伯母上にあたる方なんですよね?」
 向かいで言うユウヤは、京都にいた頃にちらっと話したわたしの家の事情、憶えててくれてたんだ。
 零は、母さんの実のお姉さんなんです。馨おにいちゃんとは不思議な関係。
 馨おにいちゃんが不思議な存在、って言った方が早いのかな。母さんのお兄さんなのに、全然うちと関係ない所長の弟さんでもあって、そこが咲姫おねえちゃんの一番苦労どころと言ってよくて……。

「零もトウカも、猫羽ちゃんを襲う理由はないはずなんだけど。悪神がそそのかすにしても、無を有にはできないから、何処かに猫羽ちゃんへの憎しみの芽がないとおかしいのに……」
 ナギの想定外もそれだよね。でもわたしとトウカは理由がわかってます。
 ナギは昨日、火の壁の結界をゲヘナって言った。
 「炎獄(ゲヘナ)」は行き場をなくした誰かが、打ち捨てられる谷底の火の池。悪魔使いのわたしはそう教えられたから、それらしいことを答えます。
「わたしを襲ったのは、存在しないトウカだよ。紫音を連れてっちゃったのもそのゲヘナのトウカ」
「……猫羽さんがそれを、神隠しで連れて帰って来たということですか」
「うん。ゲヘナのトウカは、時雨兄さんを欲しがってる」

 ぴく、っとツグミが一瞬体を固めました。これ以上このお話は、みんなの前ですることじゃないと思って、わたしもすぐに話題を変えます。
「わたしが時雨兄さんの剣、盗ろうとしたようにトウカには見えたんだよ。あの場所に出た時に、結界の媒介の柄をわたしが掴んでたから」
 ユウヤが、あ、という顔で、兄さんが本来持ってた大事な剣のことを思い出してくれました。
「時雨君の剣の柄。『天気雨』の加護の狐火玉を填めた部分ですか?」
「うん、トウカは兄さんの剣を預かって、持ち手を変えて槍にしてるの。その柄の部分をゲヘナ……人払いの結界の媒介にナギがしてた」
「そうなんだあ。それで広範囲の結界を作って、零の氷竜をあの人形で制御できるか、実験をしてた? そうなると馨は、外周の見張り役ってとこかな」

 そこまで話が進んだ時、やっと起きたらしい兄さんが、しんどそうな顔で三階まで上がってきました。何処にいてもPHSとミサキの首輪だけは手放さないの、兄さんらしいです。
「それ、俺に返すって約束だったんだ。刃はともかく、柄の方だけは」
 おせちには目もくれずに、ロッカーに近いベンチに座る兄さんです。
 体力回復のために何かは食べなさいよ、ってツグミが怒ってます。
「なのに『静青』まで取られちゃ世話はないよねー。一刻も早くトウカちゃん達の居場所を見つけて、刀だけでも返してもらわないとね?」
 紫音がいなくても、汐音は相変わらずあっさりで余裕です。言うことはその通りなんだけど、わたしは後ろめたいことがあって、ため息が出ちゃいます。

「ナギさんが関わってるなら、今のトウカは橘診療所に避難してると思うよ。でもあそこに喧嘩売るのは難しいよね」
 ナギは玖堂(くどう)さんの守護天使でもあるんだって。玖堂さんのお家は常に十二人の機械の兵士と、人間の警備員さんが沢山見回りをしてて、不法侵入なんて絶対できなくて……玖堂さんや院長先生がナギの味方なら、トウカを探させてって言っても無理なんだろうな……。
「そこでオレの『遠見』が役に立つわけです、ハイ。今度トウカちゃんやナギが玖堂家から出てきたら教えるから、オレは当分、PHSに引きこもって張り込みしてるね」
 それしかないね。という話になって、みんなでおせちは終わりました。
 下手をしたら、トウカと氷竜とナギの三人が敵。戦力が違い過ぎるって、武器もない兄さんが頭を抱えてます。

「咲姫おねえちゃん。零とトウカを離さないと、氷輪くんを助ける力にはならないの?」
「そうね、零の維持だけでトウカは手一杯になると思う。ナギさんは氷輪くんの味方だと思ってたけど、これはちょっと読み違えちゃったなあ」
 ツグミとユウヤが後片付けをしてくれてるから、わたしは咲姫おねえちゃんと二階まで下りました。そしてもうちょっと、込み入ったお話しに入ります。
「時雨君の剣があれば、ナギさんの念願――烙人を近い姿に戻せる。烙人はずっとあの剣にいるから、氷竜を剣に遷せば、烙人は氷竜伝いに馨に戻れる。氷竜の制御者は本来馨だから」
「じゃあ零を通じて、ラクトを剣から馨おにいちゃんに渡そうとしてる?」
「馨の意思は多分、無視でね。零のために馨も手伝ったんだろうけど、馨は今の生活、まだ捨てたくないと思ってるもの」

 さっきまで明るかった咲姫おねえちゃんが、疲れたみたいにしゅんとしちゃいました。そうなるだろうと思って、二人で二階に来たんだけど。
「トウカも剣から、烙人と氷竜を合わせる気はないと思う。だから馨もトウカを匿ったんじゃないかな。はぁ……本当、かみ合わないなあ、みんな」
 ラクトは元々、馨おにいちゃんの鏡的な悪魔の、さらに影なんです。その悪魔が母さんの実のお兄さんで、お兄さんは色々あってラクト部分の自分を落っことして、人間の馨になった感じです?
 「馨」という人……所長の腹違いの弟さんは、大分前に、本当はいなくなってます。今いる馨おにいちゃんは、母さんと同じで悪魔のお兄さんが、馨おにいちゃんの真似をするニセモノ。母さんのお兄さんと人間界の「馨」が鏡で、ラクト部分の自分の意識を、悪魔のお兄さんが失くしたからできることです。

 大変なんだよ。トウカはラクトが好きで、咲姫おねえちゃんは母さんのお兄さんのことが好きだから。
 母さんのお兄さんは咲姫おねえちゃんを大事に想ってたけど、今は馨おにいちゃんのままでいる。ラクトはトウカも咲姫おねえちゃんも大事だったから、ラクトが還って馨おにいちゃんが母さんのお兄さんに戻れば、トウカが一人になるって心配もしてそうだなあ。
「烙人にもう、自己主張できる命は残ってないよね。トウカの抱えてる欠片、どうすればいいんだろうって、正直私もわからないや、猫羽ちゃん」
 母さんのお兄さんという本当の自分の記憶を、馨おにいちゃんは半分、他人事みたいな眼で持ったままです。義弟の父さんをからかったり、わたしを色々助けてくれたり、それは母さんのお兄さんとしての心だけど……いつも何処かに壁があるまま、馨おにいちゃんが周囲と関わり続けてるのは、わたしもこの相談所でずっと感じてました。

「……ラクトが戻れば、馨おにいちゃんは変わってしまう?」
「トウカも花憐もそう思ってるかな。だから馨に烙人を戻せる私を見張って、ここに置いてるのもあるだろうし。馨が嫌なら無理強いはしないよ、私……でもやっぱり、こういう時はちょっと淋しいね?」
 お正月、一緒に過ごす家族はいないって言いつつ、大きなおせちを用意してた咲姫おねえちゃん。本当は馨おにいちゃんと食べたかったんだろうな。
 今回の件でも、大事な人達のことなのに、咲姫おねえちゃんだけ蚊帳の外。なまじ「心」を扱う反則の力をおねえちゃんが持ってる分、なるべく無理をさせたくないんだろうけど……わたしもしんみり、一緒に淋しくなっちゃいました。
「ごめんね、愚痴っちゃったあ。なるようにしかならないよね、結局!」
「ううん。いつも助けてくれてありがと、咲姫おねえちゃん」
 もうお正月はずっとここにいる! という咲姫おねえちゃんに笑って、今度はわたし、地下室に下ります。

 兄さんとユウヤが「静青」の場所を占って三階で作戦会議中だから、地下室でツグミは一人で休んでました。昨日の今日だし、気が普段の半分以下で弱々しいです。
 こういう時に二人きりなら、ツグミはぽろっと大事なことを教えてくれる。あんまり良くないやり方だけど、紫音のために我慢できなくて、わたしは無理を承知で押しかけました。
「猫羽ちゃん? どうしたの……凄く悲しそうよ?」
 壁にもたれてベッドに座ってるツグミ。アイポンも見てないし、やっぱり体調が良くないんだ。それでもわたしを心配してくれてる。

 わたしは黙ってベッドの端に座らせてもらって、大事なお話をするために、すぅっと小さく息を吸って覚悟を決めます。
「……あのね、ツグミ。わたしと一緒に、紫音を助けてほしいの」
「それはもちろん、私にできることはするけど……猫羽ちゃん……?」

 御所で凛と着物を着てた頃とは違う、心配事で心細そうな黒い瞳。
 ずっと兄さんを助けてくれるツグミが、心配するのは当然兄さん。ユウの魔力を氷輪くんに返すのは無理で、やっぱり兄さんががんばって「黄輝」を使わなきゃいけないこと、何も言わないけど心配してる。
 兄さんは氷輪くんの「鍵」だから、これからも氷輪くんのために生きてくこと、それをとっくに承知してる。その上で兄さんを支え続けてくれるツグミが、わたしは大好きで……だからほんとは、こんな話は、絶対にしたくなかったことで……。

「あのね……兄さんには、紫音が必要なの、ツグミ……――」

 昨夜からずっと、わたしの頭を離れてくれない考え。きっとツグミは無意識に、もう感じ取ってる現実。
 どうして紫音は急にいなくなったのか。どうしてツグミは空っぽの気で帰ってきたのか。時雨兄さんはどうして紫音に、「愛してる」と伝えたのか。


 長い長いお話を、ツグミと二人でお喋りしました。
 兄さんとユウヤが血相を変えて地下に戻ってくるまで、それはまるで宝物みたいな時間でした。


 咲姫おねえちゃんが食糧を買い出しに行ってる間に、その「果たし状」は、来てしまったって。PHSから汐音のウキウキな声が聞こえました。
「この期に及べば隠し立てはできないからって、正々堂々一騎打ちを申し込む、って! 日時は今夜零時、場所は紫陽花の公園、対戦者は殺戮の女神VSサツリクの天使! 戦果は『静青』、ガチ決闘だから外野は絶対手を出すなって、ナギも随分思い切ったじゃん、これ」

 「遠見」で玖堂さんのお家を見張ってた汐音に、その意向は伝えられたんだって。今は夕方前だから、これから晩御飯を準備して、行くとしたらその後になるのかな?
「駄目です、こんなの絶対に罠ですよ、猫羽さん。確かに今、強力な武器を持ってるのは猫羽さんだけですが、そもそもツバサ君と鶫ちゃんが弱った今に仕掛けてくる時点で確実に罠ですから」
「でも早く『静青』、取り戻さないと……わたしがトウカに勝てるかどうかはともかく、そっちは絶対でしょ?」
 それでなくても、もう四カ月半――元の世界では二年近く、家宝の刀を借りちゃってるのに。わたしのせいで紛失しましたなんて、一生御所に顔向けができなくなっちゃう。

「ナギはわたしが死ぬようなことはしないよ。万一死んでも、天使にしてくれるとか多分フォローがあるよ」
「そういうの、フォローって言わないわ、猫羽ちゃん。そもそも時雨を、秩序の管理者にしたのもナギさんだって言うし」
 あ、忘れてた。それ、兄さんが神隠しにあう前に「天気雨」を助けにもらった代償だっけ。
 神隠し後に氷輪くんが兄さんを見つけてくれて、ツバメ兄さんが戻ってきた時に仕事を言われたんだよね。帰れなかった時雨兄さんはトウカに出会って、「悪神」かつ管理者だって任命されるみたい。
 どの道「悪神」の前の器が秩序の管理者だったから、後継ぎは不可避だったって聞いたなあ……でもツバメ兄さん、全然管理者の仕事はしてなかったけど、大丈夫なのかな?

「まー今、一番秩序をぶっ壊してんのは明らかにナギだし、いざとなればそれ口実にツバサが助けに入れば? 紫音がどーなってんのかオレもよくわかんないんだけど、紫音を取り込んだトウカちゃんの暴走、多分ナギ、持て余してるっぽいよ」
 昨日の時点でもう、ナギの言うこときかなかったしね、紅い目のトウカ。
 相談してる内に買い物から帰ってきた咲姫おねえちゃんも、三階でみんなに一箱ずつ、お気に入りの天ぷらのおむすびを配りながら苦笑します。
「私も一緒について行くよ。氷輪君は戦力外状態っぽいし、鶫ちゃんと悠夜君も疲れてるでしょ。最悪の時は私が猫羽ちゃんとバトンタッチするから」
 むしろその方が確実に勝てるよね……と思ったわたしです。
 咲姫おねえちゃんは強いです。人外生物としての「力」の全量はそこまで大きくなくて、同じ「心眼」の父さんと似たり寄ったりなんだけど。長棍とか鈍器を使うのが上手いし、武器がなくても素手で十分戦えちゃいます。武器の戦い方はラクト仕込みだって言うし、ラクトの弟子の氷輪くんといい勝負じゃないかな。
 「力」で戦うと更に反則。昨日みたいに氷のキラキラなら、ただのキラキラに変えてから、まとめてぽいっと何処かに捨てそう。人外生物より銃の方が速過ぎて困るって、人間界に来てからぼやいてる咲姫おねえちゃんです。

「オレが戦力外通告って、傷付くー。オレだって紫音が戻れば祈りはバリバリこっちの世界用だし、ツバサの許可さえ下りれば、猫羽ちゃんとコラボバトルだってできるのにぃ」
「それはダメってずっと言ってるだろ。猫羽に精霊なんて使わせたら、寿命が縮む一方なんだから」
 あれ、何だろそれ、わたしは初耳の話なんだけど……。
 兄さんが日頃PHSを独占して、あんまり汐音をわたしと話させないの、こういう理由なのかな。

 結局、ユウヤは反対でも「静青」を回収しないとだし、ツグミも心配してるけど、ダメとは言ってないから。わたしは元サツリクの天使として、果たし状を受けて立つことにしました。お正月の間は探偵もお休みだしね。
 そうしないと、紫音が帰ってこない気がするの。わたしが勝てばトウカにミサキの首輪を着けるチャンスもあるし、紫音にも色々話さないとだから。

 紫音なしのわたしを補うために、翼型の式神をつけてあげるってツグミが言ってくれました。式神は霊力で結ぶものだけど、気が少なくても短い時間なら何とかなるんだって。
 果たし状が来るまで、ツグミと話してたことの延長。呪術の力はユウヤの方が強いけど、「鳥」の式だけはツグミの方が得意だから。
「まだ私も信じ難いことだけど……だからこそ、確かめに行かないとね」

 わたしもどっちかというと、自分よりツグミが心配です。だからユウヤに、おむすびを食べた後に相談に行きます。
 大事なことを全部話さなくても、ツグミが危ないかもしれないってこと、ユウヤもすでにわかっててくれました。誰も来ない二階の寒いガレキ部屋で、注意することを沢山教えてくれます。
「いいですか、猫羽さん? 相手が神域手前の公園を指定してきたということは、必ず神性の結界を張ってくるでしょう。あの場所は猫羽さんをまた神隠しにあわせかねないので、鶫ちゃんの鳥の式は絶対死守して下さい」
 駅からうちに続く坂の途中のあの公園は、「神域手前」らしいです。また神様の世界に飛んじゃった場合、式神を頼ってすぐ帰るよう念を押されます。
「でもそれ、ツグミが消耗しないかな? それでなくても心配なのに」
「そうですね、その干渉を防ぐ手立てはないんですよ。たった一つ、ツバサ君を犠牲にする方法以外は、何も……」

 こうして久々に、わたしはメインの戦闘要員になっちゃいました。
 ちょっと早い鏡開き。これからついに、わたし達は赤い鼓動のゲヘナに向かいます。


File.5 了

★File.6:兄さん、気のせいです

 神隠しにあったわたしを連れて、時の闇の出口を探してくれた紫音。
 出口を照らす氷のお花を紫音が貰わなければ、わたしが諦めて行くしかなかった「鏡花」の未来を、水底の夢を観るまでわたしは知りませんでした。

――時雨は時雨でいい。……わたしには、それがいい。

 ユウがタニウツギをわたしに渡して、氷のお花は守るままなのが一番自然な未来だった。光を宿す氷のお花を、ユウから本来継ぐのは「冬花(とうか)」。時雨兄さんづてに、わたしに傘を渡してくれた桃花の行く末だったんです。

――オレも可愛い冬花だけを想う、オレでない奴になりたい。

 兄さんが「時雨翼」に、桃花が「冬花紫音」になる世界。そこに汐音の影はなくて、冬花も明るい紫音じゃなくて、紫音と同じ氷花の力を扱う紅い目の「鏡花」。
 鏡花の冬花はラクトより時雨兄さんを選んだ。その分岐に働くのが紫音の心で、時雨兄さんだけを望む苛烈な人形が冬花。兄さんは「翼」になった時雨だし、冬花も桃花じゃなくなるけど、二人はそれで良かったんだ。

 そうなるはずの、鏡花の未来の方にあった傘。その「天気雨」をわたしが持って来たせいで二つの未来が重なって、冬花と紫音にも(えにし)ができた。出口の火の池にいた人形に冬花が投影されて、紫音は無意識にそっちに帰ったとも言えます。
 紫音のままで、渇き続けるのは苦しいから。閉じ込められた時の闇で、過去に行けたなら未来も選べるはずだから。

――イヤガラセ? オレが汐音に戻り切れないから、イヤガラセ?

 でもそれはほんとに言葉通り、消えたがる紫音の意思だったのかな?

――猫羽ちゃんの血が欲しいって思っちゃったよ、急に。

 そうじゃない、って。
 紫音はわたしと一緒にいる気だったのに、冬花と同じ氷花の「力」で引っ張られた。そもそも紅い目の冬花自体、ゲヘナの結界に呼び起こされた不自然な存在。
 そう信じてわたしは紫音を迎えに行きます。たとえわたしが、サツリクの天使に戻ったとしても。


* * *


 神よ、憐れみ下さい。
 果たし合いに指定された、紫陽花の公園に入った途端、わたし達――ツグミとユウヤ、咲姫おねえちゃんの後ろから火の壁が立ち上がりました。
「月も光も、この痛みを前に沈んでしまった……さすがはナギだね、紫音(オレ)より遥かに『祈り』を知ってる」

 処刑人達よ、やめなさい。あなた達の心は揺らがないのですか。
 そんな嘆きが、わたしの頭を直接侵してきます。沢山物が入って狭いポケットのPHSから、汐音がわたしを守るように声をかけてくれます。
「でもこの憎悪は、猫羽ちゃん向けじゃないよ。強いて言えば誰向けでもない。悪い神とか憎悪の鼓動とか、面倒なものをとことん、トウカちゃんが引き受けてくれただけで」
 それもトウカの望みだったから、って。兄さんと汐音を神隠しから解放するために、見えないところで沢山負債を引き受けてくれたトウカを、わたしも思います。
 幸せって、何なんだろう。誰かが幸せになったら、誰かが代わりに不幸になるもの? それが現世の当たり前なら、わたしは悪魔に頼ってでも天秤を壊したい。幻想の鎌を握りしめながら、広場の中央に黙って向かいます。

 ああ、あなた達の心は、拷問のための柱よりも苛烈に違いない――
 わたし達のために悪いコになったトウカを、無理やり捕まえに来たわたしを、祈りはいつまでも苛み続けます。
「……そうだよね。わたしはサツリクの天使……だったからね」
 祈りがどうしてこんなにわたしを責めてくるのか。その理由はわかってます。
 きっと今、トウカは昨夜みたいにはキラキラを使えないから。昨日も急に使えるようになったはずで、その新手を封じられてイライラしてると思う。
 でも使わせるわけにはいかないんだ。果たし合いだし、わたしは「力」で戦えないから、鎌対槍の勝負になってくれないと困るから。

 広場の真ん中につくと、夜に融け込みそうにうっすらなナギと、白い獣を連れた無表情のトウカが待ってました。トウカの目は昨日と同じで紅くて、最初に会った紫苑色の目の「悪夜(あくや)」とは違うとわかります。
「よく来てくれたわね、猫羽ちゃん。昨日からこのコ、猫羽ちゃんと戦いたがってきかなくってね……」
 ふう、とナギが、両腕を組んで大きな溜め息をつきます。足元では白い獣が抜き身の「静青」の柄をくわえてて、ここに張られた結界の媒介の「天気雨」の柄は、周囲には見当たりません。
 できれば柄も取り返してきて、って兄さんに頼まれたんだけど。とりあえずは「静青」が優先だって、心を決めます。
「うん。わたしも紫音に呼ばれた気がしたから、ここに来たの」
「そうなの? 何でかこのコ、あたしの元部下ちゃんの『力』を昨日から感じるんだけど、結局使えなくなったみたいで、もう我を忘れんばかりに怒ってるんだけど」

 ナギが言うのは、紫音のキラキラ……光の氷花のことだと思う。紫音を引っ張り込んだトウカが昨日、わたしに向けた赤いキラキラ。そのキラキラも紫音の羽も、元はナギが可愛がってた天使のヒトのだもんね。
「猫羽ちゃんの血が見たい、そればっかりで困ってるの。心当たりはあるわね? 猫羽ちゃん」
「うん、それは完全にわたしのせいだよ。予定を狂わせてゴメンね、ナギ」
 わたしの後ろで、ツグミとユウヤと咲姫おねえちゃんが顔を見合わせて、がっくり項垂れるのが何となくわかりました。
 でも本当のことだから仕方ないね。ナギのやり方もあくどかったけど、初めの目的はもう叶わないとわかって、この果たし合いを仕掛けてきてる。こじれたゲヘナのさざなみを終わらせようとしてくれてるから。

 だからわたしは、負けるわけにはいかないんだ。
 それはトウカには酷なことだけど、ここまで来たわたしの目的は絶対に揺るがない。覚悟を決めたら、後は命の限り戦うだけです。


 殺戮の女神対サツリクの天使。「果たし合い」の皮切りは、人のいない方へ大きく跳んだトウカをわたしが追いかけることでした。
「気を付けてね、猫羽ちゃん!」
 わたしの背中に、叫ぶツグミが憑けてくれた式神の翼が生えます。
 戦闘向きに造られた人形に宿るトウカと、ただの人間の体のわたしじゃ、武器戦だけでもわたしがかなり不利だから。汐音のPHSを預かってくれたユウヤと、ツグミと咲姫おねえちゃんがハラハラ見守る前で、わたしとトウカの、鎌と槍の打ち合いが始まりました。

 「悪神」の黒い翼を生やすトウカと、式神の透明な翼を生やすわたし。
 刀身が大きい槍を軽々と振り回すトウカに、懐の隙が大きい鎌は、同じ長物でも槍に分があります。突きが主体の攻めならもっと危なかったな。
「時雨は……何処?」
 ウカツに攻撃に出れないわたしは、刃を下げて長柄で防戦一方。ぎりぎりと槍身を押し付けてくるトウカが、間近でわたしを睨みます。
「どうしていないの……時雨を返して」
「……!」

 トウカの言う通り、この果たし合いの公園に兄さんは来てません。いるのはツグミとユウヤと咲姫おねえちゃん、それに汐音のPHSだけ。
 真っ赤な鼓動に呑まれかけた紅い目に、わたしは必死に声を返します。
「違うよ紫音! それはゲヘナの小波(さざなみ)が見せる、幻の冬花の心だから……!」
 じりっ、といっそう槍の力が強くなりました。この鎌が混沌の「桃花水」でなければ、人間の腕ではとても受け切れない灼熱が乗せられてきます。
「目を覚まして! 紫音は冬花じゃないよ、紫音が映すのはそっちじゃない! お願いだから自分の心を怖がらないで出てきて……!」

 声は絶対、何処にいても紫音に届いてるはずだから。
 ツグミがぎゅっと、わたし達を見て胸を押える気配を感じました。
 わたしはもう迷わずに、真実を言う覚悟で声を上げます。
「紫音は兄さんが好きでいいの! 冬花じゃなくても好きでいいの! わたしの血を欲しいって思っていいの……!」

 ……と。迫り来てた力が不意に緩んで、逃げるように後ろに飛び退(すさ)って、目を見開いたのはトウカだけじゃありませんでした。
「猫羽さんの――血が欲しい?」
「血が欲しいって……思っていい?」
 ユウヤとPHSがぽかんとする横で、ツグミと咲姫おねえちゃんが絶句してます。トウカの紅い目も一瞬、槍を構えたままで蒼白になってました。

「わたし、は……猫羽の、血が、……――」

 わたしを昨日から急に襲い始めて、ナギ曰く、「猫羽ちゃんの血が見たくて我を忘れた」トウカ。
 それはわたしのせいなんです。わたしがあの時軽々しく、わたしの血を紫音に預けちゃったから。
「ごめんね、紫音はわたしの血がもっと欲しいんだよね? 紫音は天使だけど吸血鬼だから、血が欲しくて当たり前。その心を悪い神様に利用されてる。だからそれは紫音のせいじゃない……紫音に血をあげちゃったわたしが悪いの」

 特定の誰かの血を望み通りに得る。それは氷輪くんみたいに、決まった相手のなかった吸血鬼には、予想外に強い渇きを起こしちゃったんだ。ブレーキのない自転車をこぎ出した感じ?
 それは汐音も知らない心。わたしの神隠しであんなに泣いた紫音を見てたのに、ウカツでした。
 それだけ紫音は淋しかった。だから時雨兄さんを求める冬花の渇きと同調してしまう。黒い翼が煽る赤い鼓動に侵されて、わたしの血を見たがってます。

 槍を握りしめるトウカ――紫音が放心してる隙に、咲姫おねえちゃんが場の外から怒り声を上げました。
「猫羽ちゃーん! それ、きいてない! まさか吸血鬼の氷輪くんに血を分けてあげちゃったの!?」
 うん、言ってない……だって絶対、怒られるってわかってたし。
「それじゃ翼汊を封印したのが逆効果じゃない! それでなくても力の源を断たれたあのコが、猫羽ちゃんの血にだけ目が向いたらどうなると思う!?」
 うん、それも考えてたよ。言ったら作戦が変更になっちゃうと思って、あえてわたし、言わなかったんだもの。

 この公園に一緒に来てない兄さんは、実は現在封印中です。
 うちに近い公園だから、先に下宿に帰って、わたしのベッドで兄さんを仮死状態にする呪いをユウヤがかけたの。理由は一つで、兄さんが健在だと、紫音は兄さんから気を引っ張ってキラキラの「力」を使ってしまうから。
「猫羽さん、貴女って人は……! わかってて黙ってましたね!?」
 こころなしか、ナギが、ふ……と、意地悪な顔で笑ってる気がしました。
 これは一対一の果たし合い。トウカの中の紫音には「力」を使わせたくない。武器だけの戦いなら何とか渡り合える。
 そう言ったわたしのために、兄さんも封印を受け入れてくれました。それはわたしのためだけじゃないけど、わたしが大事な情報を話さなかったのは、やっぱりみんなに悪いことだよね……。

 ぐらり、と紫音のトウカが崩れかけて、地を突いた槍を支えに必死に持ち直しました。そもそも氷輪くんの顔の人形だから、苦しげな姿は紫音そのもので、わたしも胸がぎゅっと締め付けられます。
 紫音を動かす「悪神」のささやきが、わたしにも聞こえました。
 もう一度地を蹴る人形の攻撃に備えて、わたしも鎌を構え直します。

――ほら、放っておけば、猫羽はいつか自滅してしまう。そうなる前に血を手に入れておけば、あなたが猫羽を守れるんだから?

 ……あああああああ!
 わたしを心配する天使の心と、淋しい吸血鬼の渇きで泣き叫ぶ紫音。その混乱した想いの隙に、冬花の心をしのばせるゲヘナの赤い鼓動。
 とっても痛いです。時雨兄さんとわたし、両方を紫音にあげることができたら、ヒビが入った鏡はどれだけ安らかになれるんだろう……。
「それでもね……紫音はいつまでも鏡でいちゃいけないの。たとえ誰かからもらった心だとしても、これから翼を羽ばたかせるのは紫音なんだよ……!」

 動揺してる紫音の叩き斬りをすり抜けて、わたしは下から鎌の刃を滑り込ませます。
 槍の根元に引っ掛けた鎌。刃をねじって、絡め取った槍を紫音の前方へ大きく振り飛ばしました。見るからに紙一重の反撃だったから、みんなが青ざめてます。

「やったー、猫羽ちゃんチェックメイトー! 今が大チャンス、ミサキの首輪を強制装着ーっ!」
 あ、汐音だけは元気そうだね……紫音がこんなに苦しんでるのにね……。
 槍が遠くに離れてすぐに、目が紅から蒼になった紫音が、ぺたんと座り込みました。汐音の言う通り、封印された兄さんから預かった首輪が、所狭しとわたしのポケットでスタンバイしてます。
 でもわたし、今それを着ける気はないんだ。確かに大チャンスなんだけど、わたしが話したいのは紫音だから……ミサキの首輪を着けちゃうと、紫音も人形も今度はその影響を映しちゃうだろうから。

「ま、文句なく猫羽ちゃんの勝利ねぇ。ほら零、『静青』は返してあげて。真剣勝負を見守った皆さんに免じてね」
 白い獣がしぶしぶと、くわえた「静青」を持ってきます。何か、こんな宝を投げ捨てなんて信じられんって怒ってた気配、零。
 受け取ったツグミが鞘に直して、それを汐音が「錠」に引き受けて、わたしの肩の荷もやっと軽くなりました。

 ざらざらした砂の上に、生身で座り込む人形は、自分が紫音だってやっと気が付いたみたい。鎌を膝に置いてしゃがむわたしを、スマホにいた「モンタージュ」の通りの姿で、涙目で見上げました。
「ウソ……何でオレ、ここにいるの、猫羽ちゃん……?」
 良かった。トウカの影響から解放されたんだ、紫音。
 トウカが探すラクトは、あの槍になった剣にいる。ラクトの欠片、ゲヘナの赤い鼓動はそこにある……だからトウカには、人形の体で紫音を操るより剣の方が大事。

――時雨君の剣。烙人はずっと、そこにいるから……。

 トウカはラクトを手放さない。この人形の主導権を紫音に奪われても、剣より人形を優先はしないね。
 「悪神」の黒い翼は背から生えたままだけど、剣が離れてたら大丈夫そう。不安そうな紫音にわたしは意識して、にっこり笑いかけました。
「おはよう、紫音。紫音のおかげでトウカを捕まえられたよ、ありがと」
「……え?」
 そっと紫音の手を取ります。ポケットから取り出したミサキの首輪と、いつものスマホを握ってもらいます。
「ほら、ここ。紫音がどっちにいても、わたしはかまわないよ。汐音は兄さんに、紫音はわたしのそばにいてくれるんだよね?」
 人形の手にどんな感覚があるのか、気配を強く感じるわたしの直観は、五感まではよくわからないけど。とても冷たい手だったから、温かいって思ってもらえたらいいな。そんなことを考えてました。

「はは……は……オレ、末期だね? この人形動かせちゃうってことは、つまりはそーいうことだよね?」
 ナギや水葵(なぎ)が使ってた女の子の人形。別に絶対、女の子でなくても動かせると思うけど、紫音にとって大事な一線なんだろうな。
 「静青」を受け取ったツグミ達がナギと手打ちをして、槍をくわえた白い獣とナギが消えます。みんながわたし達の方に来る前に、わたしは一番大事なことを紫音に伝えました。
「うん、紫音が女の子でないと、ツグミが困るよ? 紫音はツグミのための『かごめ』だから……ツグミの願いを受け継げるのは、紫音だけだから」

 今まではきっと、誰かを映すためだけの「鏡」。
 でもそのフタはもう開かれたから。中にいた天使にわたしは精一杯、わたしとツグミの想いを込めて込めて手を握ります。

「猫羽……ちゃん……?」

 スマホ越しでなく、わたしの紅い目を直に見つめる紫音。
 紅い目のトウカのこと、ゲヘナの幻だとわたしは言ったけど……わたしだって、トウカが守り続けてきた処刑人(アーク)。真っ黒な霧の向こうに隠された冬花達を知っても、奪い続けて生きてく幻想(ユメ)だから。

 いつかわたしも「桃花水」を離れて、トウカのようにゲヘナの囚人になる。
 紫音の見つめるわたしの紅い目に、その予感は消せませんでした。


 そのまま紫音が、闇に戻ったからかな。人形が目を閉じちゃいました。わたしは鎌をスマホにしまってポケットに戻して、ミサキの首輪をトウカに巻きます。
 トウカを抱えて座り込むと、ちょうどみんながこっちにきました。PHSの汐音と何やかんや言い合うユウヤを横に、咲姫おねえちゃんとツグミがわたしを囲んで全身をぺたぺた確認するのでした。
「猫羽ちゃーん、大丈夫!? 何か体に異変はない、氷輪君に操られてない!?」
「もうっ、ツバメですら翼槞君に血は渡してないっていうのに、どうして猫羽ちゃんがそんなことになるの!? 今日みたいなことはこれからも起こり得るのよ、翼槞君は本物の吸血鬼なんだから!」

 そして二人で同時に、どうして言わなかったの! って大きな雷が落ちました。
 でもそれより怖いのはユウヤが、何だか暗黒色の顔付きで、PHSと何かを交渉してることかもしれない……。
「うん、だからこのまま、ツバサ君を丁重に完全に封印したっていいんだよ? 鶫ちゃんへの危険もそれでなくなるし、汐音君が悪魔として活動できる余力も大幅に()げるからね?」
 多分だけど、わたしの血を返すように紫音を説得しろって言ってるのかな……汐音はそんなに執着がなさそうだけど、ユウヤをからかうのが楽しいのか、えー、どーしよっかなー、とか答えてずっと笑ってます。何か、よくわからないけどゴメンね、ユウヤ。


 眠りについた人形の黒い翼は引っ込められてて、ここからうちは近いから、咲姫おねえちゃんが人形を背負って下宿までトウカを運んでくれました。
 わたしは封印された兄さんが眠る自分の部屋に戻って、ツグミに「鳥」の式を返した途端、どっと決闘の疲れが溢れ出てきて。コートを脱いだだけの状態で床に倒れ込むように寝ちゃいました。

 心配するツグミがわたしに毛布をかけて、ベッドの下にしまってあるお泊りセットを、りびんぐに持ち出します。久しぶりに泊まってくみたいです。
 ユウヤはずっとりびんぐで、兄さんが床、ユウヤがソファで寝てます。今日は兄さんがわたしのベッドにいるから、まだ本調子じゃないツグミがソファ、ユウヤが床で眠る形で、体の弱いユウヤが大丈夫か心配です。

 兄さんの剣の柄、結局、取り返せなかったな。でもわたしの部屋の窓際に、咲姫おねえちゃんが簡単な封印をかけてトウカを座らせて置いてくれたから、目を覚ましたらお話しもできると思う。
 兄さんに柄を返す約束、忘れてないって、トウカも言ってたしね。封印とミサキの首輪があれば「悪神」は最低限に抑えられるみたいだから、攻撃的な行動には出ないはずって、咲姫おねえちゃんも自分の家に帰りました。氷輪くんを助けることや兄さんの剣の話は、冬休み中には取りかかろうって。

 そうして、バタバタし過ぎた三が日の最終日の早朝、やっとわたしは落ち着いた気持ちで眠ることができました。

――約束……いつ果たすかは、好きにさせて。

 ちょっと気になるのは、人形のトウカ、「静青」が刺さった胸の穴が開きっぱなしのことかな……背中の紅いストールまで、貫通しちゃってる。
 この人形、わたしが氷輪くんと昔に契約してた頃に、悪魔が支配する魔境でヒトの骨を元に造られたもので。当時の技術者が見つからないから、修理は無理って氷輪くんにきいたことがあるんだ。
 何でも屋のラクトか、ラクトの双子の、精霊のおねえちゃんが生きてる頃ならできたんだろうな……「天龍」を造ったリーダー、精霊のおねえちゃんだっていうものね。

――……これ、ザンテツケン、だっけ?

 人形の胸とストールに穴を空けた、「静青」を投げた兄さんの呟きを思い出しました。
 悪い予感がしました。でも今日はとりあえず、これでお休みなさいです。


* * *


 浅い現実(ユメ)から深い水底(眠り)に落ちると、暗闇の中では形もなくなるわたしのことを、びっくりするヒトが待ってました。

「待ってたよ、猫羽ちゃん! わーい来ちゃった、来れちゃったー!」

 人形のトウカを置いて、スマホの闇に戻ったはずの紫音。
 ここはずっと真っ暗な水底なのに、トウカのモンタージュからアイドルみたいな最初の服に戻った紫音は、キラキラ白い光の中で明るいです。
 良かった、ここで会えて嬉しい。って言うと、闇の中で声が出なくても伝わってくれたようでした。

「ここ、『桃花水』って要するに、融け出した混沌が黄泉に流れ込む関所なんだね。言ってみれば黄泉の一部だから、それならオレの『葬送』でいつでも遊びに来れるよ!」

 そっか。紫音の死神天使の力、「葬送」はヒトを黄泉に送る鍵だもんね。
 扉を開けるだけじゃ、何処に行っていいかわからないはずだけど、今の紫音はわたしの血を預かってるから、わたしを辿ってここを探せるんだ。

 それならこの水底でのわたしは、もう独りじゃない。いつかわたしが死ねばまた閉じ込められて、ゲヘナにしか出られないと思ってたこの暗闇。
 身を切るように凍える「桃花水」なのに、どんどん水温が上がってくのがわかりました。

「ここはオレともかなり相性がいいよ。まずもって黄泉だし、『桃花水』ってそもそも雪解け水のことだし。オレの手に入れたキラキラはどうやら、本質は『雪』みたいだから」

 ユウから紫音が受け取った、光を宿す氷のお花。それについて紫音はもう大分、全容を掴んでる様子です。服が変わってるってことは、咲姫おねえちゃんとも話したんだろうな。

「猫羽ちゃんも沢山ヒントくれたし、さすがにオレも、自分が誰かようやく少しわかったよ。まあ半分くらいは憶測で、まだ内緒だけどさ」

 そうして紫音は、可愛い服装を受け入れられたような笑顔。
 わたしもほっとして、遠慮なく可愛い紫音に見入ります。

「もう今、びっくりするくらい、猫羽ちゃんの血が欲しいんだけどさ! オレは要するにそれだけ吸血鬼で、ツバメみたく血を分けた奴にはオレの影響を与えて吸血鬼にしちゃうし、血を奪った相手からはオレも影響を受けちゃう大前提ってわけだったんだ」

 その通りだと思う。吸血鬼の氷輪くんが、血を奪った相手を操り人形にできるの、「遠見」のコウモリさんが代表例だと思うけど。
 「遠見」は動物の意思しかないから、一方的に動かしやすいけど、コウモリさんが見るものを氷輪くんも見られる影響は同調して受けてるわけです。

「だから『紫音(オレ)』は、半吸血鬼のツバメが、鶫ちゃんの血をもらうことで生まれてしまった心。ツバメの中でオレと鶫ちゃんの血が混じって、オレと鶫ちゃんの両方に、お互いに影響が出ての紫音なんだよね?」

 ツグミの願いを受け継げるのは紫音だけ。紫音にそう言ったわたしと、ほとんど同じこたえでした。
 ツグミももう、気が付いてます。紫音がキラキラの力を沢山使った後に、兄さんもツグミもダウンしたのは、紫音の力の源が兄さんにも渡された「ツグミの気」だからです。

「これは完全にツバメが悪いよね! それでなくてもオレと鶫ちゃんの血を混ぜた上に、ツバサと鶫ちゃんは神交法で気を交換してるでしょ? 鶫ちゃんの血の影響だけでなく気まで更にオレに流れて、鶫ちゃんにもツバメの中のオレの気、『鍵』への意志が流れちゃってる。何でもツバサを最優先って、要するにちょっと前の汐音だもんね」

 そうだよね。汐音だけの頃は、ツグミの血という鳥を閉じ込めた籠だった。その籠目はキラキラの天使の羽で編まれて、汐音は「鏡」の性の氷輪くんだから、兄さんを大好きなツグミを映して、「鍵」を欲しがる自分を作ったんだ。
 でもそのフタの鏡は壊れちゃった。籠が開いて、出て来た鳥が紫音。青銀の氷輪くんと赤い鳥のツグミを混ぜた、紫の天使が紫音ってことです。

 名前の通りツグミは元々、「鳥」の性を持つヒトです。ヒトの真名は天使や悪魔ほど縛りが強くないけど、それでも大事なんだ。
 「冬花」は雪の花のヒト。六芒星(かごめ)型の氷のお花は、紫音の羽の天使が持ってた「雪」の具現で、キラキラの力は雪で散乱された祈りの光なんだって。
 祈りの光の源は、黄泉の扉を開く「葬送()」。天使だった頃のナギが「雪」の天使を守るために、「雪」を武器にできる光をあげたのが元。それが紫音の羽に残ってたの。
 だから紫音は、前から祈りの光は持ってた。そこに「雪」の形を手に入れて、キラキラとして使えるようになったのが今回の事件でした。

「言ってみれば今のオレは、かごめの天使――雪の花鳥? さて困ったね、どう考えても紫音は女の子ですありがとうございました! しかも鶫ちゃんがツバサを好きな限り、オレもどんどんツバサが欲しくなる罠?」

 そうなんだよね……今やツグミの気が、兄さん越しに紫音の霊力の源になってて、紫音が力を使うとツグミを消耗させちゃうんだ。
 つながりを断てば紫音が存続できるか怪しいし、ツグミはこのままでいいって言ってました。果たし合いにわたしが赴く前に、長く長く、地下のお部屋でツグミとお話しをした宝物の時間で。

――あのね……兄さんには、紫音が必要なの、ツグミ。

 紫音に「愛してる」と伝えて、と言った兄さん。それはきっと、紫音の心がツグミの存在を受け継げるもの……兄さんのそばにずっといたいって、ツグミの願いを叶えられるのが紫音だから。

――ツグミは多分、兄さんより先に死んでしまう。兄さんはそれをいつも怖がってて、ツグミがいなくなる前に消えたいって、本当は望んでる。

 そんなお話はしたくなかった。わたしだって人間だから、ツグミと同じくらい生きられたらいい方だし、大事なヒトが死んでしまう後のことなんて考えたくもなかった。
 でもツグミも心配してたから。「ツバサ」に変わってく兄さんを、辛うじてつなぎとめるために。


 私が死んだら……と、ツグミは困ったような顔で笑いながら、気丈な普段は言わない弱音を教えてくれました。
「私が死んだら、紫音さんの一部になっちゃいそう。認めたくないけど、今回これだけごっそり気を持っていかれたのは、私がそうしたい……紫音さんとのつながりを拒めなかったからだと思う」
 それはツグミの無意識だったけど。無意識だからこそ、生きてるツグミの理性が消えたらそうなるだろう未来。
 紫音をいつかツグミの鏡にすること。そんなの願っていいわけがないって、悩むツグミはとても心許なさそうでした。

「まあ、先のことはわからないし、死ぬ直前まで翼汊をそんなに想ってる保証もないし。でも私が見捨てたら、紫音さんまで翼汊に興味をなくしたりする? それはさすがに翼汊、可哀想かしら……」
 そうだね、って、わたしもその時笑いました。昨日の時点では、紫音がツグミの気を消耗させちゃうことが問題で、その原因と対策を話せれば良かったから、ツグミの葛藤には踏み込みませんでした。

「この先オレが鶫ちゃんになるなら、女の子になっても悪くないかな! 思う存分ツンデレやって女たらしのツバサに思い知らせてやる! リア充しすべし!」
 紫音はこうやって、喜んで受け入れそうだしね。
 それに紫音は、わたしがまだ思ってもみない、紫音という存在の行く先に心当たりがあるように観えました。
「確証はないけど、鶫ちゃんがちょうど寿命に近くなる頃に、オレが誰かのこたえは多分出る。夕烏がこれから無事に大人になって、翼槞の大事なヒトを見つけられたらね」

 何となくだけど、紫音は咲姫おねえちゃんと、何か内緒のお話をしたみたいです。色々吹っ切れた明るい笑顔で、わたしの水底に雪の結晶の光を振りまく紫音でした。
「オレはそれまで猫羽ちゃんと一緒にいるよ。それからのことはそうなってから考える!」
 あはは。ツグミが寿命なんて頃のことなら、わたしだっていい年だよね。
 それじゃ、また来るね! と言って、朝が近いから紫音はスマホに戻るみたいでした。毎晩寒くて淋しかったけど、これからは夜も楽しそうだね。
 ひとまずは高校の三学期を楽しく乗り切って、故郷でもスマホの充電ができる方法を探して、紫音を一緒に連れて帰らなきゃ……――


 むにゃむにゃとそんなことを考えながら、いつも朝の弱いわたし。
 ふと、開いたカーテンからきつく差し込んで来た朝陽で、強引に目を覚まされました。
 あれ……何でカーテン、開いてるんだろ……? わたしの部屋はベランダに出る窓が大きいから、外から中が見えないように、寝る時には絶対閉めてるはずなのに……。
「あれ……トウカ……いない……?」

 窓際の壁で、両手と両足にアクセサリーの細い鎖をかけて、膝を抱えさせてた人形が見当たりません。目が覚めてわたし達を襲っちゃダメだから、ごめんねトウカ、今夜だけは封印! って、咲姫おねえちゃんが着けてた手足の鎖。
 あれでわたし達に気付かれずに何処かに行くって、相当難しいはずなんだけど……ぼけっと床の上で体を起こしたら、次の瞬間、わたしの目には、見てはいけないものが飛び込んで来てしまったのでした。
「……――」

 ぽかん、と。頭が全然回らないわたしは、自分のベッドの方を見て真っ白になります。
 そこには何故か、兄さんが寝てる。
 あ、そっか、ツグミの気を紫音に流さないために封印されたんだっけ……ごめんね、兄さん。でも帰ってすぐに、ユウヤは封印を解いてくれたはずで、その後兄さんはすやすやと眠ったままで……。
「ええと……浮気、はダメだと思うよ、兄さん……」

 わたしのベッドを占領する、安らかな寝顔の兄さんの横には、鎖の手を絡めて兄さんに寄り添うトウカ。
 どうしよう、兄さんを起こさないと……やっと思い至った時には遅くて、こんこん、とドアがノックされてしまいました。
「おはよう、猫羽ちゃん、目が覚めた? 朝ご飯の材料、冷蔵庫から借りてい――
 うちに泊まった時はいつも、ご飯を作ってくれるツグミが、部屋に入ってベッドを一目見て絶句しました。
 ああ、わたし、間に合わなかった……何だろう、こういうのなんて言うのか忘れたけど、色んな物語の修羅場でよくあるシーンな気がする……。

「え……翼、汊……?」
 ツグミの視線に気が付いたのか、ふっと兄さんがようやく起きて、青い目を静かに開けました。
 何の気もなしに起き上がろうとして、兄さんもはっと、隣に眠るトウカに気が付いて頭を真っ白にしました。
「――え」
 あ、良かった、兄さん未遂だ、不可抗力だ。トウカがお布団に入っただけってわたしはすぐわかったけど、直観のないツグミにはそうはいきません。
「さ、最低っ、猫羽ちゃんのいる前で何してるのよ……!?」

 わなわなわなと、真っ赤になっちゃったツグミ。事態を悟った兄さんが慌てて飛び起きました。
「違う、これは何かの間違いで、えっとツグミ、あれ怒ってる?」
 兄さんもわたしも口下手です。その言い方じゃいかにも怪しいよ、兄さん……。
 間が悪くトウカもふわりと黒い目を開けて、鎖がかかったままの両手をついて、猫みたいに体を起こしました。
 それもベッドの上で座る兄さんに、膝に乗るようなべったりの体勢で。

 最低ーっ!! ってツグミが叫んだから、驚いてツグミの後ろから部屋を覗き込んできたユウヤも、甘々体勢の兄さんとトウカを見て唖然としちゃいます。
「……再封印かな? ツバサ君……」
 ユウヤが懐から取り出したワラ人形を見て、さすがに目が覚めて止めに入ったわたしでした。
 ああ、びっくりした。探偵ものがお休みなのは最初からだけど、少女マンガになっちゃったのかと思った。
 何だろ、トウカ、危険な感じは全然ないのに。兄さんから引き離して部屋の隅っこに座ってもらっても、まだじっと淋しそうに、兄さんを見つめてます。

 手首と足首を鎖で軽く縛られたトウカは、今では黒い髪と黒い目になってました。横座りをして、紅いストールはそのまま、ミサキの黒い首輪がキレイに合ってる。氷輪くんの鋭い顔なのに不満げにウルウルしてるから、何だか猫みたいです。
 わたしの部屋なこともあって、ドア側のツグミとユウヤはトウカに近付こうとしないから、朝ご飯の準備をお願いしちゃいます。まだ納得できてない二人が台所に行きました。
 封印の後遺症で気力が空で、ベッドでへたってる兄さんと、机の横の床で小さくなったトウカにわたしは話しかけます。

「えっと、兄さん、トウカ……空っぽだったり縛られたりで、不健全なことは、したらダメだと思う……」
「だから違うって……わかってるくせに猫羽、何で変な言い方するの……」
 仕方ないよ、わたしだってびっくりしたもん。
 でもトウカはちょっと拗ねたような顔で、前までとは違う、舌足らずの口調で応えてきました。
「時雨のせいだから……わたし、時雨に、キズモノにされた……」
 えええええ。良かった、ツグミに向こうに行っててもらって良かった。
 な――って兄さんが言葉に詰まるけど、わたしが直観で翻訳すると、「トウカにとっては時雨(な兄さん)に、(人形の体に穴を空けて)傷をつけられた」なんだけど、不服そうなトウカは、半分わざと言ってます。確かに「静青」が貫いた穴が、黒い肩出し服のファスナーを下ろすとすぐ胸元に見えて、こんな姿じゃ余所に行けない、と言わんばかりの、女の子っぽいトウカです。
 困ったなあ、これ。目を離したらすぐに、トウカはまた兄さんにひっつきにいくね? まるで昔、ユウヤのお父さんに甘えてたわたしみたい。

「いや、それよりトウカ……俺の剣の柄、早く返して」
 迷子の猫みたいなトウカの前でしゃがむわたしは、何となく何も言えなかったんだけど。兄さんは淡々と青い目を向けて、あえて冷たくしたような声で言います。
 むす。っという感じで、両手に鎖がかかったまま、トウカは器用に紅いストールを脱いで、差し出す両腕の上に置いて言いました。
「出せない。時雨が傷をつけたから、壊れた」

 あ。トウカが涙目で不機嫌そうな理由が、その一言で全部わかりました。
 「静青」が人形を貫通したあの時に、紅いストール――ラクトの形見にも穴が開いた。そのせいで道具入れの機能が使えなくなったんだって。
「え……それ、まさか、トウカ……」
 そう言えば兄さんの剣だった槍は、白い獣が持ってっちゃったよね。トウカのストールにはもう片付けられないって、わかってたのかな。
 何も片付けられないし、中に入れた物も取り出せない。兄さんの剣の柄がそこにしまわれたままなら、ラクトはもういないから、それ、困るね?

「時雨の責任。ばか。許さないから、そばにいるから」
 大事な形見だった紅いストール。本当ならそれは、「ザンテツケン」でもなければ傷をつけられない防具でもあって、トウカも予想外だったみたい。
 そんな不思議な道具を造れるラクトの一族は滅んだっていうし、透明なストールは穴を縫うのも難しいし、見た目もよろしくないし、悲しいよね。
 でも氷輪くんの顔で怒り泣きしてる人形は、どうしても可愛くって、わたしも兄さんも毒気が抜けちゃいました。二人で顔を見合わせて、その後わたしは、何となくトウカをなでなでして慰めることになったのでした。


 ほどなくして、朝に強い咲姫おねえちゃんが颯爽と来てくれたから、わたしは一応確認のために尋ねました。
「ねえ、おねえちゃん。トウカが好きなのは、ラクトだよね?」
「え? そうだけど、どうしたの、急に?」
「目が覚めてから、トウカが兄さんのそばを離れなくって。ストールのことで兄さんにすごく怒ってるんだけど、同時に兄さんと一緒にいたいみたい」

 あー。と、ぽん、と手を叩いて、咲姫おねえちゃんが笑いました。
「それは仕方ないよ? タオが好きだったのは、時雨君だもの」
 え……? 兄さんとわたしが一緒に固まります。
 さっきから確かに、兄さん好き好きオーラをトウカから感じてたから、咲姫おねえちゃんに聞いてみたんだけど……それってまさか?
「タオって、ミサキの首輪のタオだよね? 黒い髪と目だし、今人形を動かしてるのがタオ?」
「そうそう、タオとトウカは表裏一体って言ったよね? タオは人見知りで性格は違うんだけど、どっちも同じタイプに弱くて、空ろで孤高な時雨君や烙人にあっさり落とされちゃったんだよー」

 何それ、どういうことなんだろう。
 うずくまる黒いトウカに咲姫おねえちゃんが近付いて、手足の鎖を取ってあげると、隣に座ったおねえちゃんの腕をひしっと掴むトウカ……もといタオでした。
「早速タオがちゃんと出てるみたいで良かった。大丈夫? 『悪神』さんからヒドイことされてない? 今のタオならおおむね跳ね返せると思うけど、あんまり大変だったらいつでも言ってね?」
「……」
 こくりと素直に、咲姫おねえちゃんには信頼を向けてタオが頷きます。こうして見るとほんとに、優しいお姉ちゃんと怖がりな妹さんって感じです。

「翼汊君が本当の時雨君じゃないのは、タオもわかってるよね。でも時雨君を見ちゃうよね、タオを目覚めさせたのは時雨君だから仕方ないよね?」
 ぐさり、と兄さんが一気に罪悪感を覚えたみたいに、胸を掴んで黙り込んじゃいました。時雨兄さんの記憶は知ってるって言うから、何か後ろめたいことがあるんだ……。

「だから……翼汊に悪影響の、わたしが出るって言った……」
 あれ……最初にきいたアレって、こういうことだったの……?
 ミサキの首輪をつけずに、タオ部分を置いて人形になったトウカの、ほんとの理由は……。

――できない相談ではないけど、兄さんに悪影響が出るわよ?

 タオなら平和に、確実に時雨兄さんを欲しがるの、トウカは知ってたんだ。
 世の中ほんと、ままならないです。もうわたしには、何も言えません……。


* * *


 ミステリーがラブコメになっちゃいました。恋とか愛がよくわからないわたしは、もう主役がやれなさそうです。
 そう言ったらスマホの紫音が、それじゃオレと猫羽ちゃんでユリ物やる? って笑うから、ユリって何なのか、今度誰かにきかないとです。
「それはじょーだん! この話では悠夜君がいつまでも舞台装置化してたの、不憫だとは思わないの、猫羽ちゃん?」

 お正月も終わりの今、わたしの下宿にはもう紫音以外いません。故郷の天の国で眠る氷輪くんを助けるためにトウカを捕まえたから、兄さんもユウヤも一旦御所に帰りました。「静青」もさすがに返さないとだしね。
 ツグミは所長が帰郷から戻って、挨拶してから行くと言って、相談所の自分の部屋に帰りました。兄さん大好きな人形のタオが、ずっとひっつこうとするのを見てて、何だかしばらく兄さんに会いたくないみたい。猫羽ちゃんの留学が終わるまで一人でこっちにいようかな、なんて言ってました。

「ツグミと兄さん、仲直りできるかな? 紫音」
「そもそも喧嘩じゃないけどね。ま、ツバメの自業自得だね」
 紫音はそっけないけど、これってツグミの心の反映でもあるよね?
 咲姫おねえちゃんもタオを連れて兄さんとユウヤについてって、これから氷輪くんを助けないとだから、兄さんがそっちに集中できるように、と思って紫音とツグミは残ったみたい。でもモヤモヤもあって、世の中は複雑です。

「トウカちゃん、まだツバメにひっついてる、って汐音が言ってる。じゃないと協力しないって言うんだって、女の子って怖いね?」
 うん。タオが兄さんにひっつくの、ストールから取り出せない「天気雨」の影響を直に受けてもらうためでもあるんだよね。「ツバサ」じゃなくて「翼雨(ツバメ)」で、氷輪くんを助けに行くために。
 だから兄さんは、「天気雨」の柄を返してって言ってた。シオンもそれはわかってるけど、それならストール貸せばいいだけじゃん! って、やっぱり複雑。

 ツグミの影響を沢山受ける紫音と、今まで通り兄さんの主の汐音。スマホとPHSでの意識は大分、もうはっきり分かれてきたと言います。
「『黄輝』へ介入が終わって、翼槞が何とか起きれそうなら、人形は水葵(なぎ)に返される予定だってさ。でも簡単にいかないと思う、汐音は楽観的過ぎ」
「そうだね。氷輪くんはそもそも、廃人さんだもんね」
「それでも夕烏にほとんどの翼を分けたのは、一応、生きのびようと思ったんだろーけど。猫羽ちゃんが見て来た未来では、それはなかったんだよね?」

 のんびりと、りびんぐのソファに寝転んでスマホを見上げるわたしは、神隠しを思い出して頷きます。画面の中で座る紫音がふうと息をつきます。
「夕羽に自分から心臓をあげた向こうの氷輪くんは、一人ぼっちで疲れてたのかな。きっとここでは、シオンがいるから、氷輪くんはこの先も消えないよ」
「そう願うけどね。咲姫ねーちゃんが、汐音を翼槞の中に戻すのは難しいってさ。汐音がツバメに直接憑いてないと、『黄輝』は到底扱えないから」

 「黄輝」を、氷輪くんの心臓代わりにするために、兄さんが制御をしないといけない。そのためには汐音が兄さんを助けないといけなくて。
 だから紫音も汐音も、氷輪くんの中に戻って、ヒトとして生きることはもう難しいみたい。人世に別に未練はないって言うけど、何だか淋しいな。

「トウカちゃんが『黒魔』に、咲姫ねーちゃんが『黄輝』に同時介入してくれたら、心臓代わりの機能づけと、その循環補助は無事成功しそうだよ」
「あ。『黒魔』と『桃花水』はどっちも水属性だったっけ。だからトウカが必要だったんだ……後は兄さんが、『黒魔』と『黄輝』、どれだけ制御できるかだよね」

 神隠しで行った、時雨兄さんが「翼」になる世界では、ある程度使えてたみたいだけど。ここでの兄さんは完全には「翼」にならないから。
 これからの氷輪くん、そしてツグミとどう生きてくのか、新しい未来はまだ何もわかりません。


 もうすぐ冬休みが終わって、高校の三学期が始まります。二学期とは違って行事も卒業式以外ないし、あっという間だって紫音は言います。
「せっかく日本に来たんだから、悔いのないよう遊んでから帰ろうよ。一月にがっつり稼いで、更新でバイトやめよー、猫羽ちゃん!」
「うん、考えておくね。更新二週間前までに言ってくれたらいいって、所長も言ってたしね……」

 ソファでまったり、お喋りをしてたせいかな。すごく眠くなってきて、スマホを胸の上で握りしめたまま、わたしは気が付けば目を閉じてました。
 このままお昼寝しても、別に大丈夫だよね。紫音とのお喋りの続きは、いつもの暗い水底でもできるから。

 わたし、故郷流に言えば「転生者」です。サツリクの天使から人間になって、人間の暮らしを学ぶために日本に来ました。
 沢山のヒトが、わたしが幸せになれるようにと見守ってくれてました。
 みんなの優しさの中にいても、わたしは何も返せなくて、それが淋しくて。一学期はまだ、悪魔使いをしてきたけど……でももう、わたしは大丈夫だと思う。


 真っ暗だけど、温かな水底で、紫音が「祈り」を(うた)ってました。
 それはきっと、わたしが幸せになるために、踏み越えて来たヒト達の命が澱む「桃花水」への鎮魂。


 ――頬をつたう涙など、何の役にも立ちはしない。
 それでもせめて、この心を受け取って下さい。


 沢山奪ってきたから、少しでも返さなきゃいけない。いつも何処か、そう思ってた。
 けどそれは違ったんだ。見える犠牲も見えない犠牲も、あんまりにも数え切れないものだから……。


 ――優しく流れ出す血潮を、この心に注いで下さい。
 あなたの犠牲の血の受け皿は、ここに……――


 世界は誰も平等じゃない。だからそれぞれの物語を、みんな精一杯生きる。
 わたしとかごめの天使の生活は、まだ始まったばかりです。


探偵に天使は味方です 了

☆a sequel -OMAKE-

☆a sequel -OMAKE-

 ダメだコレ。
 三日に一度くらい、わたしの血がすごく欲しくなって困るって通信が汐音から入ったのは、氷輪くんが天の国で、一日一時間くらい起きれるようになったらしい頃のことでした。

 頭を抱える汐音の伝波が、PHSからスマホに送られて画面に映ります。
「なまじ翼槞と、猫羽ちゃんの体の血筋が近いせいかも。翼槞のかーさんちの子孫だし、唯一気を許せる家族、みたいな?」
「そうなんだ……じゃあ氷輪くん、あんまり動けないのに、わたしの所に来たがってるの?」
「ツバサと悠夜君が止めてるけどね。オレも正直、そっちに帰りたい。紫音が天使じゃなきゃとっくに、怪奇・吸血スマホになってると思う」
 それは怖いね、色んなところに無理があるね……。
 でも汐音の言う通り、心臓がない氷輪くんの生存本能がどんな形で溢れて来るかはわからないと、咲姫おねえちゃんにも忠告されたところでした。

「多分だけど、ツバサが『黄輝』を使うことで、ツバサと翼槞の大事な猫羽ちゃんが擬似『鍵』みたくなってて。真性の『鍵』にしたくて、猫羽ちゃんの『血』に拘ってるのは『黄輝』っぽい。元々翼槞は番人として『黄輝』に造られた心だから、もろに影響出ちゃってるわけ」
「そっか……血の封印、とかがいるんだっけ、『鍵』になると……」
「体は吸血鬼だし、今頃再デビュー? って感じ。まあそんなわけだから、猫羽ちゃんは人間界から帰っても天には来ちゃダメだよ!」

 ううう。帰ったらすぐ氷輪くんのお見舞いに行きたかったのに、これじゃ当分会えなさそうです。
 でも紫音に血を分けたから、毎晩の水底で会えるようになったし、後悔しても始まらないよね。結果的に氷輪くんの迷惑になっちゃったのが痛いな。
 時雨兄さんが「翼」になる未来では、氷輪くんに血を奪われた後のわたしはどうなったんだろう? 操り人形ではないみたいだけど、もう少し聞いてこれば良かったな。あの神隠しの時は本当に余裕がなかったから。

 ああ、人間の血の美味しさ忘れてた、しかも猫羽ちゃんは美味し過ぎた……汐音がそう言い残して、異世界伝話は切れちゃいました。
 代わりにスマホに現れた紫音。わたしの血を預かる張本人が、悪びれずに氷輪くんらしからぬ見解を加えます。
(たが)が外れる、って厄介だね。時雨に殺られた時、何で翼槞は猫羽ちゃんにSOS出さないのかと思ってたけど……ひょっとしたらこうなる予感があったのかも? 他の奴の血は平気で奪ってきたのにね」
「じゃあ、わたしの血がいい、っていうのは……」
「特に『翼槞』の強い思いっぽいね? オレと汐音は全然我慢できるもん。猫羽ちゃんと昔契約したのも翼槞だしさ」

 体のない紫音が預かるわたしの血は、「天龍」のシオンの部屋に猫グッズ化して置いてるらしいです。氷輪くんに取り込まれたわけじゃないから、神隠しの最後にシオンが血が欲しいと言い出したのは、わたしが違う未来を見ちゃった影響もある?
「オレの暴走もだけど、トウカちゃんが『観測者』は注意しろってさ。有り得る運命を猫羽ちゃんが知ってしまうと再現される、小波(さざなみ)が荒れる!」
 「桃花水」に来ると、たまにトウカともお話ししてる紫音が言うからには、本当のことなんだろうな。神隠しって色々すご過ぎるね。


 今日はもう寝る前だったから、さて、制服からパジャマに着替えよう。と思ったところで、突然ピンポンが鳴りました。
 同時にわたしは懐かしい気配を察して、え? と慌てて玄関に出ます。
 ドアを開けると、がっちり温かいコートと大きなマフラーを着込んだヒト。何故かバツの悪そうな顔で、目を伏せるユウヤがいたのでした。
「あれ? ユウヤ、氷輪くん達の所にいるんじゃなかったの?」
「……」
「一人で来たの? もう遅いから泊まるよね? まだユウヤ達の分の寝場所、片付けてないから良かったよ」
 突然でびっくりしたけど、二学期は普通だった光景。兄さんとツグミがいないだけで、この間まで一緒に暮らしてたものね。

 いつもいたりびんぐでソファに座ってもらうと、はああ……と、不思議な緊張感の緩んだユウヤが、大幅に溜め息をついてました。
「……猫羽さんは無警戒過ぎます。だから翼槞君も誘惑されるんですよ……」
「?」
 何だかユウヤ、氷輪くんが暴走しないか心配で、わたしを守りに来てくれたみたい。その気になれば氷輪くんは、無茶でもここまで直接転位もできるし。
「ユウヤ、三学期の終わりまでここにいてくれるの?」
「……」
 隣に座ってじっと見つめると、ふい、と目を逸らしちゃいます。ユウヤは優しいのに素直じゃないから、別にわたしのためじゃない、と思ってそう。自分のことになると喋らなくなっちゃうのは昔からです。
 実際、氷輪くんを暴走させてドツボに落とさないためだよね。わたしが危ないとなれば兄さんも、氷輪くんを助けていいか悩んじゃうだろうし。

 家の中でもまだコートを着てるから、服、脱ぐ? って肩に手をかけたら、ソファの端までざざざと後ずさるくらい、驚かせちゃいました。触ったのが嫌だったのかな、本当繊細だなあ、ユウヤ。
「猫羽さんは魔物ですか……! 天然ならタチが悪過ぎます……!」
 心なしか、スマホから紫音の大笑いが聞こえた気がしました。さすがは桃花殺(とうかさつ)ちゃんの弟子とか何とか、紫音は最近、トウカとどんなお話をしてるんだろう?

 メジャーとかレアとか、世界には、「そうなりやすい・珍しい」時空があるって教えてくれた時雨兄さん。「そうなりやすい」を「本来の運命」と呼ぶみたいだけど、氷輪くんがわたしの血を奪って別れる未来はメジャーな雰囲気でした。
 その展開の後には、大体訪れる自然な出来事。
 兄さんが吸血鬼になり切らないように心配したツグミみたいに、わたしが氷輪くんの操り人形にならないか、この先そばで見張ってくれるヒトの運命を、わたしはまだ知りません。


Many thanks for your visit.

探偵に天使は味方です*冬休み

ここまで読んで下さりありがとうございました。
日常ミステリーのはずが、方向性がカオスになりましたが、これにて探偵シリーズは一旦終了です。
探偵シリーズの裏側、猫羽兄達の『インマヌエル』シリーズを4月からUPを検討しています。お気が向けば良ければ。
since:2020.2.29-9.5

※エブリスタではこの話の完全版を特典で掲載中です→https://estar.jp/novels/25467397
(こちらには未掲載のオマケ『探偵に悪魔は反則だ』も収録しています)
※関連作で作中に出た「瀞」と「紫音」のパラレル話『ツキモノ -白-』を、https://puboo.jp/users/sky-lux内で近日掲載予定です

探偵に天使は味方です*冬休み

★直観探偵シリーズ・4巻★ 迷子の猫羽。兄さんと鶫、悠夜も巻き込んでラブコメ世界に? 天使の女の子になっちゃった同級生の氷輪くんの正体は? ※一旦最終巻 ※1話ずつでは完結しません ※作中に一部『マタイ受難曲』を引用しています

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-03-14

CC BY-ND
原著作者の表示・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-ND
  1. 破:迷える探偵と天使の別れ
  2. ★File.3:兄さん、世も末です
  3. ★File.4:兄さん、新世界です
  4. 離:迷える探偵が天使と進化
  5. ★File.5:兄さん、天使のささやきです
  6. ★File.6:兄さん、気のせいです
  7. ☆a sequel -OMAKE-