肺煙
日が暮れるほんの少し前に、ベッドの塊のひとつがモゾモゾ動いて、裸の男が上体を起こした。男は顔を掌で擦ると、大きな欠伸をして顎を小さく鳴らした。
暫くして、男は枕元を漁ってクシャクシャになった煙草を取り出すと、おもむろに火をつけてそっと息を吐いてみる。
日は完全に沈んで、男が息を吸うたびに暗い部屋で小さな火種がチラチラ輝いているけれど、吐かれた白い煙は闇に紛れて、なんだかすぐに見えなくなる。
男はジッと、自分が吐いた煙があるはずの暗い中空を見つめていた。
すると「ねえ」と男の隣の塊から呆けた女の声がして「煙草やめてって言ったよね」と女は続けて言った。
男は何も言わないで深く息を吐いた。濃い紫煙が暫く暗闇に残って、また時間をかけてゆっくり消えていく。そのうちにあの燻った匂いが部屋を覆って、女が少し噎せる。
「ねえ、聞いてるの?」
「猫をね……」
「猫?」
「昔、猫を飼っててね」男が言った。
女はゆっくり起き上がって、男の方を睨んだ。ただそんな彼女の言葉の無い糾弾は暗闇の中じゃなんの力もなかった。
「猫が煙草となんの関係があるの?」女の語気は強い。
「ねえ、いいから聞いてよ」男は言った。「昔猫を飼ってたんだ。茶トラの雄猫でね、僕がまだ新品の制服を着た学生の頃、河原で拾ってきたんだ」
男はまたゆっくり煙草に口をつけて、少し深く息を吸った。
「賢い猫だった。さっきまで野良だったくせにすぐトイレの場所なんか覚えてさ、朝なんか親に頼まれて僕を起こしにくるんだ」
男は言葉と一緒に煙を口から溢した。
「その話が煙草と関係なかったら殺してやるわ」女は噎せながら言った。
「ねえ、動物はなにか飼ったことある?」
「ないわよ」女は明らかに不機嫌だったけれど、男は気にしてないみたいだった。
「動物を飼っているとね、だんだんペットって気がしなくなってくるんだ。ありきたりな言い方だけど、ある一定の期間を過ごすと僕ら人間の一員になる。何て言うかな、そこには敬意が生まれるんだ」
「猫にさんでもつけるわけ?」
「僕はつけてた」
女が少し笑った。嫌みな笑い方だったけれど。
「僕らは確かに家族で友達だった。喧嘩もしたよ。いつも僕から謝ったけど」男はまた少し吹かして続けた。「けどね、やっぱり僕は人間で相手は猫なんだよ。言っちゃえば平等じゃないんだ、生きてる時間ってのがさ。僕はあの頃から未だになんにも変わってないクソガキだけど、猫はそうもいかない。インターステラーみたいに、彼だけ僕を追い越して歳を取っていく」
女は黙ってしまって、暫く沈黙が流れた。暗闇での沈黙は、お互い感情がうまく読みとれなくなる。
タバコは長い灰をシーツに落としたけれど、暗い部屋の中ではでどちらもそのことに気がつかなかった。
「猫はね」男は言った。「あるとき病気になっちゃったんだ。人間の年寄りがそうなるみたいにさ。肺に水がたまっちゃう病気だった。肺水腫っていうんだけど」
「ハイスイシュ?」
「肺に水がたまって呼吸がうまく出来なくなるんだ。地に足をつけて生きているのに溺れてるみたいになる。心臓の病気らしいんだけど、ねえ、そういう病気になった動物のレントゲンを見たことある?」
女はないと頭を横に振ると、濃淡のある影が動いてサラサラと音を立てた。
「真っ白なんだよ。心臓とか肺のある部分がさ、煙がかったみたいに」
男はこんな風にと、また濃い紫煙を空に向かって吐いた。煙はまたユラユラ揺れて暫くして消えた。二人はそんな煙をジッと見つめて、また押し黙って、きっと互いに茶トラの真っ白くなった肺を写すレントゲンなんかを想像してる。
「それで?」女は言った。「死んじゃったの?」
「ああ、僕がそういう……何て言えばいいかな、猫に違和感みたいなものを感じたときにはもうとっくに手遅れだった。本当に悲しかったよ。さっきも言ったけど、僕は彼に対して家族みたいなものを感じてたから」だからさ、と男は続けた。「こうやって煙草を吸ってさ、煙を吐くといつもあの猫を思い出すんだ。それと同時に僕の胸にたまる煙を思うと、ちょっぴり彼の気持ちを分かった気になれる。僕も彼の時間に少し追い付けるんじゃないかなんて思う。だからね、なんだかやるせないときはこうやって煙草を吸って、少し彼のことを思い出してみるんだ。朝起こしに来てくれた茶トラの猫のことをね」
女は黙って、男が吐いた煙があるはずの暗い中空をジッと見つめていた。
男はもう一度深く煙草を吸うと、赤い火種はもうフィルターの際まで近づいていた。
男は漸く暗闇に慣れた瞳で彼女の物言えぬ顔をジッと見つめると、ゲラゲラと笑って煙を吐いた。
肺煙