あまったれ
あまったれ
その日俺はどうしても終えなければならない仕事が残っていて、夜遅くまで会社にいた。
一時間も経ったあたりで途端に目の渇きを感じて、一息入れることにした。
喫煙は、頭と心の整理にいい。
昨今は喫煙者への風当たりも厳しいが、そんなことはおかまいなし。
寒さも本格化しだした十一月。
にも関わらず俺は頭をクールダウンしたくなり、屋上へと向かった。
本来屋上は危険だから、施錠されて立ち入り禁止になっているビルが多いのだが、どうもうちは管理が甘いようで、同僚も合間に抜け出しては憩いの場として利用しているようだ。
「あんた、そんなところでなにしてんだ」
「みりゃわかるだろ、死ぬんだ」
「それはわかってる。やめろって言ってるんだ」
「なんであんたの指図を受けなきゃならない」
「別に指図なんてしてない、ただやめてくれって言ってるんだ」
「どうして」
「会社の前で飛び降りがあったとなれば、いろいろ面倒だろう」
「そんなの俺の知ったことか」
「俺が困るんだよ」
「あんたが俺を引き止める理由はそれか」
「そういうわけじゃない。目の前でそんなことされたら、寝覚めが悪いだけだ」
「じゃあ見なかったことにしてくれればいい」
「そういう問題じゃないだろう…とにかく、やめときなよ」
「あんたには関係ない」
近付こうとすると、男は振り向いて柵を持ちながら言った。
「それ以上近付いたら、飛び降りる」
夜月に照らされた男の顔は少し青白いように見えた。
この寒い中、屋上に立っていたのでは当然か。
「どうして自殺なんて、しようとしてるんだ」
「…つらいからだよ」
「なにが」
「人生に決まってるだろ」
「人生にもいろいろあるだろ。失恋したとか、仕事がうまくいかないとかさ」
「俺はまだ学生だ」
「なら尚更死ぬ理由なんてないじゃないか」
「この歳にもなるとな、もうこの先、碌でもないことしかないって、わかってくるんだよ」
「見えてもない先が、見えてるような気になってるだけじゃないのか」
「いや、わかるんだ」
「そうやってわかった気になってるから、他人に偉そうにしちまうんじゃないか」
「あんたはわかってないだけさ」
「俺だって人並みには生きてきたつもりだ」
「人並みに生きてきたやつに、俺の気持ちなんてわかるか」
「そりゃお前の気持ちなんてわからないさ」
「じゃあほっといてくれよ」
「わかんないからほっとけないんだよ、なんで死ぬのかわからないから。寒くなってきたし、よかったらコーヒーでも飲みながら中で聞かせてくれないか」
「嫌だ。寒いなら早く中に入ったらいいだろ」
「そういうわけにはいかないよ」
「なんでだよ」
「気になるからさ」
俺と彼の間に、沈黙のようなものが訪れた。
冬の寒風が頬をしきりに叩いて、コートの襟を揺らす。
彼の背中が嘆息をつくように上下した。
「…病気みたいなもんだよ、一身上の都合ってやつ」
「そんなに重いのか」
「重かったらどんなにいいか」
「大変だぞ、きっと」
「重いのはまだいいさ、大変でも、周りは優しくしてくれるし、病気ですぐに死ねるからな」
「当人や家族の前で言ったら、張っ倒されそうだな」
「違うんだよ、俺だって分かってる。不謹慎だってことくらい」
「そう思っちまうくらい、追い詰められてるってことか」
「そういうことかな」
「なんなんだ、お前を苦しめてる病気ってのは」
「病気ではないんだけどさ…身体がまっすぐじゃないんだよ」
「そんなに猫背には見えないけどな」
「まあ、そういう反応だよな」
「実際、どこが悪いんだ」
「首だよ。首が右に曲がってる」
「それって、そんなに大変なことなのか」
「そりゃそうさ。地球の動物は皆左右平等に作られてるだろう」
「一部例外はあるが、まあそうだな」
「その輪からはずれるってのは、苦しむために産まれてきたようなもんさ」
「具体的に何が苦しいんだ」
「視力や聴力に影響があるし、膝は痛くなるし、くつろげる姿勢がないんだ」
「そう聞くと確かに大変だ」
「そのうえ、筋肉が癒着しているだけで病気ではないから、いくら不自由でも皆からは普通の人扱いさ」
「特別扱いがされたいのか」
「違う。別にちやほやされたいわけじゃない。ただ、普通より劣った身体で、普通のやつらと比べられて生きるのが苦しいだけだ」
「だから、早く死んでしまいたいってか」
「そういうこと」
「生活していくのも苦しいくらいなのか」
「できれば一日中寝ていたいさ。でも寝てたら死んでるのと同じだ。夜中にはこの先の事を考えて、朝方に眠くなると明日がこないように願いながら床につくんだ。毎日そんな生活をしてると、段々見る夢が現実なような気さえしてくる。現実のほうがボヤけてるんだ。俺思うんだよ、老いぼれると痴呆症になるのは、現実の辛さすべてを忘れて逃げるためなんじゃないかってさ。俺も同じなんじゃないかって」
「そうなのかもしれないな」
「そう思ったら、もう生きてても死んでても同じような気がしたんだ。むしろ苦しくない分、死んでるほうがましなんじゃないかって」
「俺にはその苦しみはわかってやれないな。わかってやりたいが」
「別にわかってもらいたいとは思ってないんだ。今まで何人もに話したけど、わかってはくれなかった。わかってるんだよ、別に俺以外にだって苦しんでるやつは沢山いる。不細工だったり、金がないとか。でも、そういうやつらは何とかすれば生きていける」
「俺には同じように思えるな」
「だろうな。そう言われる度に、目に見えて不幸だったらどんなにいいかと思うよ」
「不思議だな、健康だったら良かった、と思うのが普通だろうに」
「自分でもよく分からないんだ。結局、健康ってのが想像できないのかもしれない。それか、想像しても手に入らないってわかってるから考えてないか、どっちかなのかもしれない」
「俺は格好良くなった自分がモテまくってる姿を想像すること、あるけどな」
「まさか。そんなの考えたって、意味がない」
「夢も似たようなもんだろう」
「…言われてみれば、そうかもな。思ってはいても、強がってるだけなのかもしれない。想像すると、その分現実が見えてきてつらいんだよ子供の頃は、将来恋愛して、結婚して、友達に囲まれて、穏やかに人生終えるのが普通だと思ってた。それすらつまらないと思ってた。なのに、オトナになってみて気付いたんだ。普通に生きるってことが、こんなにも難しいってことにさ」
「そんなこと考えたこともなかったよ。仕事がつらいとか、女にモテたいとか、そんなのばっかりで」
「それが普通、ってやつなんだろうな。羨ましいよ」
「ありがたいことなのかもしれないな」
「そうさ。普通普通って、ありふれたことみたいに言うけど、それ以上に大切なものなんてないんだ」
「でも、刺激が欲しくなることだってある」
「そういうやつは、きっと余裕があるんだ」
「そんなもんかね」
「そんなもんだ」
もはや身体は芯から冷えきっていた。いくら都会とは言っても、空に近いだけ寒い。
遠くのネオンは煌々と光っている。眠らない街。街も人も、生き続けている。
彼の話に興味がないではなかったが、正直俺は終えなければならない仕事を残していた。
こんなときでも仕事のことを考える打算的な自分。名も知らない一人の命なんて、他人にしてみればその程度の軽さなのかもしれなかった。
「でもさ、別に自分から死ぬこたあないんじゃないの」
「どういうことだよ」
「自分から自殺する珍しい動物って、人間くらいのもんだよ」
「それくらい賢いってことさ」
「そうかねえ、生きる知恵を振り絞るほうが賢いと思うけどな」
「それでやってけないから死ぬんだよ」
「やってけないなら、そのとき死ぬだけじゃないか。何も今じゃなくたっていい」
「周りに迷惑をかけたくないんだよ。親とか兄弟にさ」
「まだ世話になってもいないうちからそんなこと考えてんのか」
「わかりきってるさ」
「そうやってやる前から決めつけてるだけなんじゃないのか。いざ世話になるってなったときに考えればいいだろ。それに、自分が無様に生きる姿を、晒したくないだけじゃないのか。家族のために死にました、って格好つけたいだけだろう」
「そんなのわかりきってるだろ、生きて負債を増やすくらいなら早々死んだほうがいい」
「…ほんと、根っから甘ったれだなお前は」
「なんだよ」
「そうやって全部予想通りになると思ってるのがおかしいんだ。全能者にでもなったつもりか。やりもしないで甘ったれたことばかり言って、挙句自分のプライドが可愛いから死ぬだと…ふざけるのもいい加減にしてくれ」
彼はただ肩をこわばらせるだけで、返事をしなかった。
認めるのが悔しいのか、反論でも練っているか、俺にとってはどちらでも良かった。
真面目に悩んでいる人間を相手にするならまだしも、こいつは全然現実と向き合ってなんかいない。
ただ理屈をこねてすべてをわかったような気になってるだけだ。
「大体、お前友だちいないだろ」
「ああ、こんな身体じゃあな、普通の人間は一緒に遊んでなんかくれないさ」
「それもあるかもしれないけどさ、お前、甘えるの下手だろ」
「どういうことだ」
「全部自分で抱え込んで、誰とも話してないんだろきっと」
「そうだよ、こんなこと話したら、面倒くさがられるだけじゃないか」
「家族にまでそんなこと言うのか。親御さんはそんなに冷たい人なのか」
「いや、俺の事をよくしてくれたよ。感謝してる。だからこそ申し訳ないんだけどな」
「いいんだよ、親御さんに多少迷惑かけたってさ。そんなこと細かく考えてたら、まるで他人じゃないか」
「でも俺はその分してやれることなんて何もないんだ」
「それもそう思ってるだけじゃないか。それに親御さんはそんなこと考えてないと思うぞ。子の幸せを願うのが親ってもんだろ、そこに見返りなんて求めちゃいないよ」
「でも、老後のために結婚する人が多いじゃないか。それだって介護をさせるためだろう」
「そりゃ実質はそうかもしれないよ。でもそれだけじゃないだろ。じゃなかったら、あれだけ自分を犠牲にして育てるなんて出来ないさ」
「じゃあなんなんだよ」
「わからん。でもきっと、親心ってそういうもんなんだろ」
「親心…ね」
「結婚は考えないのか」
「結婚?まさか。こんな身体で、できるわけがない」
「まーたそんなこと言ってら。もうやめなよ、なんでもわかったような口を利くのはさ」
「可能性を考えたら、そうだろう」
「可能性はあくまで可能性だろ。運良くってこともあるさ。それに、こうなる、ああなるって考えるより、こうしたい、ああしたい、って考えたほうが幸せだろ」
「それが全部叶うならそうするさ。努力して報われるなら」
「なに言ってんだよ、そんなの皆一緒だろ」
「俺は違うんだから仕方ないだろ」
「…たしかに、そうやってやりたいこと押し殺して生きるのもひとつかもしれないよ。叶わない夢ほどつらいものはないからな。でもそうやって自分を殺して生きてさ、そんなのって楽しいか」
「そりゃ楽しくないさ。でもそうしないとダメだ」
「ダメって誰が決めたんだよ。お前だろ」
「じゃあ…道端で人を襲ってもいいってのか」
「それは飛躍し過ぎだろう。でも、それでお前が後悔ないなら、誰も止められはしないのかもな。俺は迷惑だからやめてほしいけどな」
「なら、今死にたいってのも俺の勝手じゃないか」
「そうかもな…ただ、俺が迷惑するから引き止めてるだけだ」
もう時間の感覚はなくなっていた。
手足もすべて、寒さなんて忘れてしまっている。
反して、唇と肩は限界を訴えて震えていた。
もういい、言うことは言った。
「あとは自分で考えてくれ」
「急にどうしたんだよ」
「これ以上は無理だ、寒すぎる」
「なんだよ、結局諦めるんじゃないか」
「その口ぶりだと、止めてほしかったみたいに聞こえるぞ」
「違う。引き際があっさりし過ぎてて、気が抜けただけだ」
「まあいいや、とにかく、死ぬのは勘弁してくれ」
「さあね」
「お願いしたからな。じゃあ、また」
こうして俺は屋上から立ち去った。
我に返るというのか、妙な状況から解放されて、思い出したように体中を寒さがきゅうっと締め上げた。
腕時計に目を遣ると、もう2時間も経っていた。
状況というのは不思議なもので、たとえ見ず知らずの他人でも、ここまで話のもつことがあるものかと思った。
残念ながらトピックは俺好みじゃなかったので、今度はもっと楽しい話が出来るといい。
彼を背にしたとき、寒風に紛れて、じゃあ…という呟きが聞こえたような気がした。
それが俺への挨拶だったのか、この世への挨拶だったのかはわからないが、彼が決断したことなら、俺が気にかけたところで仕方ないのかもしれなかった。
あまったれ
自分のために書いた作品です。
捻れてしまった自分を、客観的に見つめなおしたかったので書きました。
人生がうまくいかないけれど、自分のせいだと言われる。
生まれつきのことなのに、どうして自分だけ。
そんな感情を抱えた人がいたなら、共感してもらえるかもしれませんね。
同じような悩みを抱えている人が、たまたま読んで解れるものがあったらいいなと思います。
別に同じ悩みじゃなくても、似たようなことを考えた人が部分的にでもわかってくれたら…書いた甲斐もあったというものです。
ちなみに台詞の前に人物を指定していないのは、それだけで分かるように書いたつもりだからです。